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夢とカプが混在しています/#夢小説 タグと#カップリング タグをつけていますので、よきに計らっていただけますと幸いです

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みやこ 成人/神奈川への望郷の念が強い

(waveboxへ飛びます/めちゃまじコメントうれしい/レスはてがろぐ) てがろぐ(ゲロ袋/ブログ/告解室)

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2023年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

お題:はさみ #ヒロアカ が#カップリング #荼炎 #燈炎

お題:はさみ #ヒロアカ#カップリング #荼炎 #燈炎
 すーっと銀色の刃が俺を包む何重にもなった包帯を裂いてゆく。
 もう長く持たない俺のために、訪問看護の人が来てくれている。お父さんは何か言ってるみたいだけどジージーと耳鳴りがするだけで何も聞こえない。でも触れ方でわかる。こわごわと俺がいつ気が変わってここを火の海にしてしまわないかと触れる方が訪問看護師さん。で、素人のくせに扱いがぶきっちょで、俺の皮膚がずるりと剥けてしまったときにびくっ、と震えるのがお父さん。お母さんは、ひんやりとしてるから一番よくわかる。
 こんなになってまで、弱く守られるだけの俺に存在価値なんてあるのかな。
 少なくとも俺自身は今の俺のことものすごくみじめだと思う。お父さんは知ってか知らずか、俺が暑いと感じてほんの少し身じろぎをしただけで氷枕をあててくれている。こんなになるまでお父さんは俺のことを見なかったんだと思うと涙が出そうになるけど、こんなコゲコゲになってて涙なんか出るわけなじゃん。

泥の中でいっしょだよ #夢小説 #ヒロアカ #だいなま

泥の中でいっしょだよ #夢小説 #ヒロアカ #だいなま

 だいなまちゃんは、わたしを助けてくれたんだよ。
 
 “イギョウ”の人たちがおとうさんのしごとをうばってしまったと言って、いつもお家にいるようになった。わたしが学校からかえってくると、お父さんはお酒くさいいきを吐いて「うるせえ」とどなってカンを投げてくるようになった。
 わたしはおとうさんといっしょにいたくなくて、公えんに行った。だいなまちゃんはそこにいたんだ。
「ク?」
 くりくりおめめがかわいいだいなまちゃん。だいなまちゃんは「ひろってあげてください」とダンボール箱に入れられて、お腹がぐうぐうなっててかわいそうだった。わたしよりかわいそうなコを見つけてわたしは嬉しかった。わたしの手でも助けることができるコがいて、弱いだけの子どもじゃないんだって思えた。
 だいなまちゃんに、お母さんがくれたお昼ごはんのお金を使ってメロンパンを買ってあげた。わたしと半分こなのに、とっても喜んでくれた。「クソが! クソが!」っていう鳴き声が喜んでいるのかはわからないけど。
 だいなまちゃんはお家にはつれてかえれない。お父さんの気にさわるのはまちがいないから。さむい雨がふる中、泣いてすがるだいなまちゃんをふりはらっていくのは心がいたいけど、どうにもできなかった。うちのゴミ箱に入っていた古いセーターを入れたけど、温まりたいだけじゃないんだ。わたしも同じだからわかる。だれかにそばにいてほしいんだよね、だいなまちゃん。だいなまちゃんの小さなおててをにぎって、ごめんねと言ったけどだいなまちゃんは泣いていた。
 いつかだいなまちゃんが本当の家族……わたしみたいな弱い子供じゃない、だいなまちゃんのことを助けてくれる人がくるからね。それまでわたしが生きのびさせないと。運動会のバトンリレーみたいに次の人に渡せるように。

俺たちの間だって愛だよ #スラムダンク #夢小説 #男夢主 #木暮公延

俺たちの間だって愛だよ #スラムダンク #夢小説 #男夢主 #木暮公延

俺が一番嫌いなタイプのひとだった。
だっさいメガネ、髪型、ボーボーの眉毛。どれもが冴えない、どこにでもいるただのメガネくんだった。なんでそんな子がうちの……若干チャラめのバスケサークルに入ったんだろうか。偏差値がいい大学だから、他大の女の子目当てに入ってくるやつは結構いたけど、木暮くんはそういうタイプでもなさそうだった。
「木暮君はさ、どうしてうちのサークルに入ったの」
馬鹿正直にウーロン茶だけを飲み、かたくなにビールを拒む木暮くんのグラスにウーロン茶の上からビールを注ぎながら質問した。木暮くんは顔をひきつらせながら驚いたような顔をして俺を見た。ピアスだらけの耳、金髪。自分が生きてきた世界にはいなかったであろう、ヤンキーとはまた違うタイプのワルぶってるやつ。木暮くんは驚きながらも怯んだ様子はなく、俺の目を見て答えた。
「このサークルが……趣味で続けていくなら一番いいかと思ったんです」
「ふーん。まあまあ合ってる。俺らみんな医者になりたいからさ、突き指とか怖いしそんなに……めちゃくちゃガチってわけじゃないんだけど、いまあるバスケサークルの中では1番まじめかもね」
「先輩がそう俺に説明してくれたんですよ。入学式のときに」
「えーそうだっけ。覚えてない」
「はは」
俺は木暮くんからグラスを奪って、ウーロン茶とビールが混ざった苦いだけの水を飲み干した。
「ありがとうございます」
「べつにお礼言うようなことじゃないでしょ。俺がイヤなことしたんだから」
ごめんね? と謝るつもりもないセリフを吐き出して、俺は木暮くんとLINEを交換した。絵文字もスタンプもない、アイコンもデフォという、木暮くんらしいっちゃらしいユーザーを、俺は何をするでもなく眺めていた。
やがて通知が来て、「これからよろしくお願いします」と言うメッセージが来た。
「先輩からありがたいこと教えたげる。医者狙いの女の子ってマジでいるからね。下半身の躾はちゃんとするんだよ。それで何人も失敗してるから」と送ると、「ご忠告、痛み入ります」って。上司と部下じゃないんだから。
「明日バスケする?」と聞くと、『します』と即答。なんだ、この熱意。ずーっと芽が出なかった湘北で腐らずプレイしていただけはある。三井があとから参戦してきて、レギュラーの座を明け渡すことになって思わなかったはずはないのに、またバスケがしたくなるだけのものを、木暮くんは持っているのかもしれない。俺はそれがまぶしくて、自分がやる気のない怠けものに見えてしまって少しだけ苦しくなった。
一年生は一限がある代わりに、十九時にはフリーになることが多いという。それでも予習復習があるからいつでも暇ってわけじゃないけど、俺たちは時間を見つけて、あの小さなカゴにボールを放る生活をした。何を話すわけでもないのに、終わる頃には俺は久しく体験していなかった感覚を取り戻しつつあった。言葉を交わしたり、飲み会をして汚らしい飲み方をした訳でもないのに、俺木暮くんに親しみを感じていた。ひまつぶしにしては、あまりに心地よい時間がすぎていった。男同士の友情なんてもう手放してしまって、二度と手に入らないと思っていたけどそんなことないと信じさせてくれた。

 本当はそれだけでよかったのに、どちらがどうしたとかじゃなくていつの間には俺らはおよそ友情とは呼べない関係になっていた。多分俺が酔ってた時にベロチューしちゃったら、木暮くん俺のこと恋愛的な意味で好きだったみたいな感じのこと言ってそんでもって……その辺からは記憶がない。までも、俺はたくさんいるセフレの中の一人に彼が参加しただけで、俺はまた大切な友達を失ったのだと被害者ヅラをした。
 そんなふうに余裕ぶってたのは最初のうちだけで、木暮くんがときどきうちにきて真面目に勉強したり、一緒にご飯作ったり、木暮くんの十九の誕生日を祝ったり、なんか恋人同士みたいなことをした。木暮くんと一緒にいる時間が長くなればなるほど他のセフレと会う時間は無くなって、俺の生活には木暮くんが深く根付くようになった。
 打算も、裏切りもない……穏やかな結びつきが俺たちの間にあった。
 今まで女としてきたような、将来の専業主婦生活のための前置きじみたおままごとじみた関係ではなく、心から信頼し、そして大切にしあうことができた。友達から恋人になってしまってから、俺はもう女を好きになれないと悲観的になったこともあったし、友情を壊してまで恋という結びつきを選ばなくてもといじけたこともあった。けれどそのたび木暮くんは俺より一つ下なのに説教じみたことを言うのにそれでいて腑に落ちる解説をしてくれた。
 俺はこんなに木暮くんが大切で、木暮くんだって俺のこと愛してくれてるのに、手を繋いで歩いたり路上でキスなんてできやしない。それがなんだか切なくて、俺はよく木暮くんと並んで歩くとき少しだけ距離を置くのだった。
 木暮くんは俺が外面繕いたがるくせにその繕う時に使った針で傷ついているのをよく知っているので、眠りに着く前俺の頭をたくさん撫でてくれる。

俺は親父の病院を継ぐとしたら多分子供を残すことを求められるだろう。だからこれは終わりのある物語なんだと、木暮くんとずっとずっと一緒にいたいという期待を何度でも踏み潰す。期待をすれば、叶わなかった時に苦しい気持ちになる。俺の気持ちを知ってか知らずか、木暮くんは俺が悲しい気持ちになるとなぜかそれを察知して「ナマエさん、大丈夫です。俺はずっとそばにいますから」と言ってくれるのだ。永遠にしたいと願えば願うほど、それに伴う困難の多さに眩暈がする。この温もりだけを信じて守っているだけでいいならどれだけよかったか。
もしかしたら俺が大学卒業するまでに同性婚ができるようになっているかもしれない。そんな一ミリ以下の望みをいつまでも叩いて伸ばして、味わっている。叶うわけないと予防線を張りながら俺は、自分の言葉で社会を動かそうともせず、ただ誰かがそれを叶えてくれることを夢見ている。俺は弱いんだろうか。不甲斐ないんだろうか。そんな葛藤を木暮くんは知ってか知らずか、「今日はナマエさんがご飯当番ですね。楽しみです」なんて笑うんだ。ああ、目が覚めたら世の中がなんかいい感じに変わっててさ、俺たちが好き同士だったとしても誰も気持ち悪がらない、ふーんそうなんだでスルーされるようになってないかな。だめかな。畳む

2023年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

うつくしく散る姿こそ #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #スターアンドストライプ

うつくしく散る姿こそ #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #スターアンドストライプ

「ちょ、ちょっと待ってよキャシー。シガラギとがいうやつが日本で暴れてるのは知ってるわ。大変なんだってね。でもそれをなんでアメリカの国防の要であるあなたが助けないとならないの」
 学生時代からの恋人であった私とキャシー。それが日本とかいう小さな島国で起きているゴタゴタのために亀裂が走っていることに苛立ちを隠せなかった。
 そんな私をキャシーは悲しい目をして見ていた。そんな目で私を見ないでほしい。あなたはひだまりの中で静かに笑っているのが一番似合うのに。
ナマエ、あなたがそんなことをいう人だとは思わなかった」
「で、でもキャシー、あなたの師匠とかいう人がどうにかしてくれるよきっと。あなたが出る幕じゃない」
「師匠は力を失っている。私しかいないんだ。怖い目にあっている人を、私は放っておけない」
「日本にだってヒーローはいるよ。けど、キャシーあなたの代わりはどこにもいないんだから、ねえお願いやめて」
ナマエ、コスチュームを隠したでしょう。あれでなくてもいいけど、できればあれがいいんだ」
「……キャシー。あなたの個性がもっと凡百の物だったらよかったのに」
「そうだったら、あの時ナマエを助けることもなかったし、私たちが恋仲になることもなかったよ、きっと」
「そんなことない。私はあなたの個性を愛したんじゃなくて、あなたそのものを愛したのに」
「私と個性は切り離せないよ…… ナマエ、そろそろ行くね」
「バカッ……ちゃんと戻ってこなかったら許さないんだからねッ……」
「泣かないで、ナマエ……」
 やさしくあたたかな私にキスをくれたキャシーは、髪の毛一本、骨の一欠片も残さず死んでしまった。シガラギは倒せなかったが、弱体化はできたという。
 正しさを執行するという脳味噌がアドレナリンでひたひたになっている正義中毒のバカが一人いなくなっただけなのに、私は寂しくて仕方ない。彼女が残した歯ブラシ、殉職で特進してもらった勲章、そしてお揃いで買ったネックレスだとかが私の中に楔のように穿ち続ける。
 彼女を運んだ戦闘機乗りの方々に、彼女が散ったという海へ連れていってもらった。暗澹として冷たい海。その海水を瓶に汲んで、墓にかけてみたら少しはあの空っぽの墓に信憑性が出るかなと思っていたけど、何にもなかった。どんなにいとしい人であれ、死んでしまったら失ってしまったらそれまでなのだと私は身を以て知った。
「さよなら」
 私は誰にも聞こえないような小さな声で別れを告げた。私の中のケジメをつけるために、キャシーがもういなくなってしまったんだと自分の中に刻むように、静かに。日本の人々は、ヒーローぐらいしか彼女が自国のために死んでいったと知る人はいないだろう。それがどうにも悔しかったけど、恩着せがましく宣うのはきっとキャシーは嫌がるだろうから黙って帰ることにした。まだ瓦礫の山や、愛する人の死など傷だらけの人たちばかりだったけど、諦めようとしてはいなかった。
 ひだまりの中、赤ん坊がお父さんに抱かれて笑っている。炊き出しの列は途切れないけど、絶望のあまり道端で座り込む人に食べ物を渡す人がいる。彼女が守った幸せたちが、この小さな島国で芽吹き始めているのを見届けて、私は日本を去った。
 
2022/10/15

傷つく君は人間だったね #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #スターアンドストライプ

傷つく君は人間だったね #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #スターアンドストライプ

「それはあなたが女の子だからだよ、キャシー」
「…… ナマエ、もうそれを言うのはやめて」
この言葉がいちばんキャシーを傷つけることがわかっていて、私は言葉を重ねる。それでもキャシーは私から離れていかないと驕り昂り、私は言葉を連ねる。
「でも、本当のことだよ。次は死んじゃうかもしれない。あなたが憧れている師がいるのはわかるけど、その人は男の人で、わたしたちとは違うんだよ」
「何も違わない。性別のせいにしてなにもかもあきらめているのは名前の方だよ」
「昔々、オリンピックっていうスポーツのお祭りがあったというじゃない。あれはなぜ男女で別れていたかわかる?男と女には埋めがたい差があるからだよ」
「…… ナマエはそうやって諦める理由を捏ね回していればいいさ」
呆れたように吐き捨てて、私との会話を終えるキャシー。そんなキャシーが次の日には髪の毛一本残さず死んでしまうなんて誰が想像するだろう。
日本のヴィランは日本のヒーローに任せておけばいいし、日本が産んだ怪物をアメリカが助けてやる義理はないと何度も言ったはずなのに、キャシーは師のために、日本のために、世界のために美しく散っていった。
日本にはカミカゼという言葉があるらしい。国難に神が風を吹かせて救ってくださるらしい。ならばなぜキャシーの死に際吹いてくださらなかった。
放っておいてもカミカゼだなんだと言いながら滅んでいく民族のことなんか知ったことじゃない。
でも、こんな理屈キャシーは一笑に付して戦闘機に立ち、困っている人がいるから助けに行くだなんて自己犠牲のお笑い草にみずからなりにいく。
そんなところが好きなんだけど、死んでしまったら何にもならないじゃない。軽すぎる棺にキャシーは宿っただろうか。魂くらいは、帰ってきてほしいものだけど。


お題は天文学様より
2022/7/13

ifのない世界 #ヒロアカ #カップリング #荼炎 #燈炎

ifのない世界 #ヒロアカ #カップリング #荼炎 #燈炎

 僕の名前は、轟燈矢。
 お父さんと、お母さんと、僕の三人暮らし。仲の良いお父さんとお母さん、そしてその二人の唯一の宝である俺。何も欠けない幸せ。プロヒーローであるお父さんは過保護なくらい僕を気にしていて、ちょっと鬱陶しいくらい……
 
 
 
 だいたいわかってくるだよ。
 自分が見る夢の傾向が。
 あれだけのことをされていながら、俺はいつだってお父さんに必要とされたいと心のどこかで願っている。俺の個性に満足して次のガチャを回さないで、俺の性能が気に食わなかったからってボックスに閉じ込めないでと俺の中のかわいそうな子供が泣いている。俺はもう泣いてやれないから、他の方法で感情を表すしかない。例えば怒り。
 俺はこうして人を理不尽に焼いていれば、いつかお父さんが俺のこと見つけれくれるんじゃないかって思っていた。
 でも、いつからか期待は俺を苦しめるだけだとわかったので俺は俺のために人を殺すことにした。俺が強くなったと、俺の火力がより一層強力になったと証明するための試験紙としての、殺し。
 だから、捕まって人を殺したことへの謝罪をして欲しそうな時はどうしたらいいかわからなかった。悲しそうな顔をして、謝罪の言葉を並べたら幾分スッキリしたんだろうか。
 でもでも、俺が殺した人たちにお父さんがひどい中傷を受けていると聞いたときには、俺がしてきたことは結果的にお父さんを苛んでいるかと思うと目的を達成していると言えるのかもしれない。
 どんなやり方だったとしても、結果への道をあきらめない。そう、だって俺、努力《エンデヴァー》の息子だし。ね。

言葉になると形がわかる #ブルーロック #カップリング #ひおから

言葉になると形がわかる #ブルーロック #カップリング #ひおから

 分析だなんて、他人を解ったふうに上から眺めているだけでわかったつもりになっているのは滑稽なようでいて、少しだけ羨ましかった。
 でもね、こうして隣に立ってみたり敵同士になってピッチでぎちぎちにやり合わないとわからないこともあるんだってこと、烏くんが一番よく知っているはずなのに、僕が心の底にしまっておいた気持ちを取り出して僕に見せるんだろう。見たくないから、しまっておいたのに。
 この気持ちもそう。
 意識したくないから、しまっておいたのに。

永遠にならないふたり #ブルーロック #カップリング #ひおから

永遠にならないふたり #ブルーロック #カップリング #ひおから
 旅人、なんて名前がついているくらいだから他人に対しての強い執着がなく、言うなればドライな人だった。僕にアドバイスじみたことを言ったかと思えば、ふらりとどこかへ消えた。消えては、現れ、僕に構ったり無言でボールを蹴って寄越しては言葉を交わすことなく語り合った。

 僕たちみたいにサッカーをする奴は、サッカーをすることで通じ合えることがある。言葉にしないとわからないこともあるけど、言葉にしなくてもわかることがある。例えば、僕のサッカーへの興味の薄さはすぐに感じ取られてしまった。
 バンビ大阪ユースは、未来のサッカープレイヤーを夢見てサッカーが大好きな人ばかりだ。そんな中で、他人と違う気持ちを抱いていたのだから行動に現れたのかもしれない。烏くんからそのことを言及されて湧いた感情は、一番近い言葉を使うなら……安心というものがふさわしい。やっと自分の中で言葉にできずわだかまっていた感情が言葉になった瞬間だった。形のないもやが自分の中にあるより、誰かが使い古した言葉にしたほうが腹落ちする。まだ完全に理解したとは言えないけど、烏くんが僕の世界に色をつけたのは確かだった。
 烏くんにとっては何気ない一瞬なのだろうけど、僕は深く楔を打ったみたいに永遠になってしまった。自分への期待というものが掴めないまま、烏くんと相対することになりそうだ。言葉を交わさなくてもいい、プレーで見せるから。結果を期待するのは苦手だけど、新しい自分に出会えそうで少しだけ、わくわくしてる。

泥の底 #ヒロアカ #夢小説 #だいなま

泥の底 #ヒロアカ #夢小説 #だいなま
⚠️暴力表現
⚠️生き物への加害

 鳴き声が「クソが」なんて、この世界に生きる生き物として不遇すぎる。それが私が抱いた感想だった。この小さな生き物が罵倒の意味をもってこんな言葉を吐いているとは考えにくい。ただ、鳴き声がこの言語圏で意味をもってしまっているばかりに、この生き物は鬱屈した害意を一身に受けている。
 一身に、という表現は危ういかもしれない。一つの種族が、「想像の及ぶかぎり悪いことをしてもいいもの」と大多数が判断して、普段敵からいいように押し込められたフラストレーションをぶつけられているのだ。
 本邦では天地開闢の昔から、多数がしている行動に対して善悪の意識が働きにくいように思える。最悪の組み合わせだ。
 動物の死骸は適切に処理しないといけないのに、だいなまは動物だとも判断されず生ゴミとしてゴミに出される。今日もどこかの家のゴミ袋にだいなまと思しき破片(身体のパーツ)がのぞいている。あわれだいなまは、痛みを感じ、感情を持ち、ある程度の知性を持つ。それを虐げ、およそ生き物にするべきではない加害の蠱毒にだいなまを浸して喜ぶ。弱りゆく鳴き声を聞いて心を潤し、助けを読んでいるであろう鳴き声が……生きているのに助けが来ないと察し、悲鳴すら出さずに命の灯火をゆらめかせ、そして消えるのを恍惚の目で眺めた。それが社会の弱者であり、ピラミッドの限りなく底に位置する、個性が強く発現しなかったものの生存戦略なのだということだろうか。
 自分が底に沈殿する不要物でないと証明することこそ、弱く、助けを呼ぶ力がなく、他者を貶す言葉を鳴き声として持つ生き物を苦しめて殺すことが、弱く生まれた人間の心のオアシスなのだとしたら、誰が彼らを責められようか。
 いや、責められるべきなのだ。
 一方的に虐げられる生き物があってはならない。それは普遍の真理だろう。真理というより、倫理であろう。
 誰もが正しく在りたいという善性を宿しているはずなのに、善性はあまりに脆く儚い。だいなまという都合のいい悪意の矛先を、神は何のために遣わせたのか。なぜだいなまは、悪意の矛で全身を貫かれた姿を民衆に喜ばれなくてはならないのか。それは私がだいなまを虐げる側の人間の属性から彼らを見ているからそう思うのであって、今なお暴力にその身を生きながらにして焼かれているだいなまにとっては、そんなことを考える余裕はなく、どうにかしてこの状況から逃れる術を探しているのだろう。
 ああ、哀れなだいなま。
 願わくば、彼らを守る法が早急に成立すること……いや、この誰もが命の危険に晒されるストレスを感じる生活が終わりを告げてくれれば一番いいのだが。
 夜明け前が一番暗いというが、だいなまにとってはずぅっと夜のままだ。ああ、哀れなだいなま。優しく抱きとめられ、愛されるのはほんの一部の個体だという。あのひどい鳴き声に耐えられる心の広い人間に見つかるという運のめぐりあわせがよければ、あるいは、だいなまは……
 
2023/3/21

路傍の石風情が、星になりたいと願うなんて #ヒロアカ #夢小説 #男夢主 #八木俊典

路傍の石風情が、星になりたいと願うなんて #ヒロアカ #夢小説 #男夢主 #八木俊典
 俺が一番になりたいって言えなかったから、今この現実が俺に与えられるってわけ。一番になりたい、って言ってたら結ばれたかというとそうでもないだろう。けどこんなに執着することだってなかったはずだ。
 テレビやSNSで活躍を知るたびに胸が締め付けられる。ネットで叩かれてるのを見るたびに怒りに震えた。彼の手は二本しか生えてないのだから、みんなを救いきれるはずがないのに、救われなかった奴らが恨みを抱いている。
 八木だって、一人の人間なんだよ。
 
 今、あんなふうに目に見えるもの全て救おうとする彼を見てると信じられないかもしれないけど、人間なんだよ。俺みたいに、ヒーロー科まで出たのに怪我で活動できなくなったやつのことまで覚えていて、救ってくれようとするんだから。
 
ナマエくん、調子はどうだい?」
「ああ、ダメ。もうヒーローはできないよ。俺これからどうやって生きればいいんだろ。ヒーロー科みたいな単科高校出てたら、仕事なんて見つからないよ。ヒーローやらないヒーローって、何?」
 せっかく訪ねてくれた八木に、俺は饒舌に絶望を吐いた。そんなこと休みの日にまで聞きたくないだろうに、八木はやさしく微笑んで、俺の肩に手を乗せた。
ナマエくん。前線に立っているだけがヒーローじゃない。敵と戦うだけがヒーローじゃない。大丈夫!ナマエくんのような人あたりのいい人はどこでだって重宝されるよ」
「ナンバーワンヒーローにお墨付きもらったんなら、励みになるな」
「元気なナマエくんとまた一緒に活動できたらうれしいな」


 そう言って笑った八木は、十年以上の時を経て痩せほそった姿でテレビに映し出された。オールマイトの時代が終わったと強調するアナウンサーの言葉が俺の心に深く突き刺さった。
 俺を励ましてから、いやそれよりずっと前から八木は傷ついていて、でもその傷のこと誰にも言えてなかったんだよな。無論、俺にも。
 学校では結構仲良くしていたつもりなんだけどな、その程度だったのか。八木から俺に対する信頼なんて。八木のことだから、巻き込まないためだなんて言いそうだけど、わかるだろ。ヒーローなら。大切なひとが辛い時、辛いと言ってくれないことのほうが辛いって。
 
 この戦いが終わったら、また八木に連絡してみようかな。酒でも飲んで、そしたらまた、腹を割って話せるかもしれないし。希望は捨てない。だってヒーローが希望を失ったら、誰が希望を、綺麗事を、理想を語るんだっての。

檸檬(レモン)、そして絆 #ヒロアカ #カップリング #荼炎 #荼炎 #燈炎

檸檬(レモン)、そして絆 #ヒロアカ #カップリング #荼炎 #荼炎 #燈炎
 高村光太郎「智恵子抄」
 梶井基次郎「檸檬」
 をうっすらオマージュしてます



 誰もが口々に自らの息子の死を願うというなら、親である俺に何がしてやれるだろう。何かしてやる、という仮定からして間違っていてしてやるのではなく、しなければならないのだと思う。子の罪は親が雪ぐ。世間からしてみれば当たり前のことだが、胃を苛んでやまない。燈矢のことが面倒になったわけではない。もちろんそんなことはあり得ない。あの焼け野原になった小山とその裾野を幾度歩き、名前を呼んでも答えなかった子がどんな形であれ戻ったのだから、うれしいにきまっている。
 新しい家に夏雄と冬美、そして焦凍、冷を住まわせて、この二人で暮らすには広すぎる日本家屋に燈矢と二人で住んでいる。
 燈矢は意志の強さで今まで体を支えていたようなものだというのが医師の見解で、こうして上半身を上げて本を読むことができるということが奇跡だという。何度も奇跡を乗り越えて、燈矢は三度目の冬を迎える。
 荼毘と名乗り罪なき人を焼き殺した燈矢は、その頃の粗暴な言動をどこへやったのか、記憶の中の燈矢が穏やかに成長すればこのようになるであろうと想定した通りの優しげな、棘のない青年となっている。焦凍が来るとそうもいかないらしいが、想像がつかない。
 燈矢は本を貪るように読んでいる。特段好みはないらしく、書店で平積みになっているものを買って与えたら特段何も言わずに黙々と読んでいる。本が好きな冬美と話が合うらしく、冬美の本を貸すこともあるという。けれど個性の調整が前ほどうまく行かず、冬美ちゃんの本を燃やしてしまうのは嫌だから、お父さんが買って欲しいと言われた。そのくらいならいくらでも買ってやる。あさましいことだが、それで少し救われた気になっていた。

 冬美が連れてきた婚約者には、燈矢さんのこともありますし、疎遠になるかと思いますと初対面で言われてしまう始末だった。婚約者からしてみれば、近親者に人殺しがいるという時点でマイナスなのだろうけれど、自分が犯した罪の重さを再度確認させられているようで、胃がじわじわと苛んだ。生涯償い続けるといえば威勢がいいが、そうもいかない。真綿で締められるような苦しみとはこのようなことを言うのだと思う。胃薬は手放せないものとなったり、食事が喉を通らなくなり、以前のような力も出せない。片手がないぶん不自由も増えた。いつしか、人生の選択肢に引退と死がよぎるようになってきた。今となっては逃げだとか、錯乱していると考えることができるが、当時はそのような考えには至らなかった。そのうちどちらが魅力的に映ったかといえば、死の方だった。
 夜中、喉の渇きを覚えて台所に立つと、何かを引きずるような音を聞いた。燈矢だった。
「どうした、こんな夜遅くに。歩けるようになったのか」
 答えはなかった。正確には声帯まで焼けてしまっているため声が出ないという。器用にスマホで文字を入力して、薄ぼんやり光る画面を見せてきた。老眼が進んできた目をどうにか合わせて、画面を読む。
『夏くんが都合つく土日に、歩く練習をしてる』
「夏が? そうか、よかった」

『お父さん、レモンが食べたい』
 本を欲する以外に、燈矢と再会してからはじめてのおねだりだった。深夜二時。やっている店といえばコンビニしかないが、飲み屋街のコンビニには酒に入れるためのレモンが売っていると聞いたことがある。燈矢がいままで俺にねだったのは修行だけだった。家族旅行も、流行りのおもちゃも欲しがらず友達の一人もつくらずに修行に明け暮れた。そんな燈矢の願い、叶えてないわけにはいかなかった。
 コートを片手なしで着るのにも慣れており、マフラーを巻いて寒風吹き荒ぶ街に出た。しんしんと冷える冬空は星に満ちており、そういえば冬美が生まれたときもこんな寒い日だったと思い返した。
 レモンは、と聞くともう無いですね、と言われたりうちには置いてないですと言われたり。燈矢がやっと心を許し、してくれたおねだりを早く叶えてやりたいと思うのは親の性だろうか、それとも罪滅ぼしだろうか。五件目でやっとひとつ、つやりとまぶしく蛍光灯の光を弾くレモンを買うことができた。片手で収まる果実を潰さないようにポケットに入れ、店を出た。現金で買い物をする人は年々減っているらしく、店内で人を探してやっと見つけた店員が面倒そうに会計をしてくれた。

『遅い』
「ああ、悪い燈矢……なかなか見つからなくてな。すぐに洗ってくるから、待ってろ。切ってやろうか?」
『いい』
 俺が洗ってきたレモンを受け取るや否や、その白い歯がさくりとその鮮やかな黄色を穿った。燈矢は顔を顰めてひとつ咳をすると、もう一口齧った。
『お父さんも』
 そう言って歯型がならぶ皮に、思い切って歯を立てた。燈矢が顔を顰めたとおり、酸味が味蕾をとおして脳に届く。
「酸っぱいな」
『お母さんがくれたレモン味の飴、美味しかったからレモンも食べたくなってさ。ありがとう』
 それだけ残し、燈矢は歯を立てては顔を顰めを繰り返しながら寝室に戻っていった。
 緊張がとけたのか、俺はほっと息をついた。

 それからしばらくして、燈矢は帰らぬ人となった。世間は罰を受けずに死んでしまったと非難轟々だったが、燈矢はもう十分苦しんだ。ただしくは俺が苦しませたのだが、燈矢が受けるべきだった苦しみは俺が代わりに苦しむことで、世間には許しを乞い続けることにした。
 親子の絆など、おこがましいことだが俺と燈矢に残った絆とはこの罪であり、罰であるのだと思う。他の親子がもつようなが持つようなうつくしい形をしていなくても、これこそが死がふたりを分つとも絶えることのない絆なのだと解釈する。
 さよなら燈矢、もう少しだけ待っていてくれと墓石を撫でながら独りごつ。そんな石になってからじゃなくて、生きている間にこうして頭を撫でてやればよかったと後悔するが、燈矢はきっと地獄に下る俺を待っていてくれるような気がする。その時でも遅くはないだろう。春の兆しを見せる寒空を見上げ、レモンの果実とレモン味の飴を残して墓を後にした。

2022/7

はじめての共同作業(広義)#ヒロアカ  #カップリング #荼炎

はじめての共同作業(広義)#ヒロアカ  #カップリング #荼炎
 死後裁かれる、ってポスターを見つけてからずっと考えてたんだよ。もう俺は人を殺しすぎた。もう裁きからは免れない。

 ならできるだけ罪を犯したほうがお得だよなぁ、お父さん?
 なんだよ、そんなに怯えることないだろ。俺とセックスするのそんなに嫌なのか?お父さんは俺がどういう感情を向けてきたって、逃げない見続けるってカッコつけてたじゃんかよ。また、嘘つくのかよ。
 尻たぶを割り開き、つんと尿のにおいがかおる。尻穴のまわりに生えた毛を引っ張ると大袈裟なくらい身を固くし、それが面白くて俺は大きな声をあげて笑った。
 ふ、となでるように手を振るとお父さんの尻毛に火がついて、尻と脚の筋肉がこわばった。火はほんのすこしだけ燃えた後消えた。
「なんかもっと、悲鳴とかあげるのかと思った……あ、口にタオル詰めたんだった」
 舌を切ってしまわないように詰めたタオルを取り除いてやっても、何も言わなかった。親っぽいこととか言うかな?と思ったけど何もなかった。ただ黙って、唇を弾き結んでいる。嵐に耐えたら、また日が昇ると信じてるやつみたいで、やまない雨はないと信じているやつみたいで腹が立った。俺の太陽は二度と登らなかったのに。俺に降る雨を防ぐために、傘を持ってたのにくれなかったくせに。
 失ったもの、手に入らなかったものをずぅっと欲しがって、諦めることができたらよかったのかもしれないけど、そこはさ、俺だってお父さんの息子だから。
 ものはためしでちんこ挿れてみたけど、全然。面白くもなんともない。気持ち良くもない。ただただお父さんが苦しげに呼吸するのを聞いていただけだ。

 俺は、お父さんのことを罰したい訳じゃない……ような気がする。でも罪をつぐなってほしい気持ちもある。複雑。俺は、お父さんをどうしたいんだろう。
 俺のこと好きになってほしいのかも。大事なものだったって抱きしめてほしいのかも。なんとなくわかっているのに、こうして突き放して、罰してしまう。

 すぐに答えを出さなくていいや。俺の命が続く限り、問い続けていたい。俺はお父さんを……どうしたいのか、どうして欲しかったのか。いま、どうしてほしいのか。

 お父さんの拘束を解いてやると、ふらふらとトイレまで歩いて行って吐いているみたいだった。かわいそうなお父さん。罪作りなお父さん。俺ともっと作ろうね、罪!

2023/3/17

天より高く海より深い愛 #ヒロアカ #カップリング #荼炎 #燈炎

天より高く海より深い愛 #ヒロアカ #カップリング #荼炎 #燈炎

 夏は燈矢の瑕から膿が止まらない。
 時には肉が縫い目から剥がれて落ちていることすらある。固形物を食べているところを見たことがない。さまざまな要因から、燈矢はもう長くないということを思い知らされる。燈矢もそれがわかっているらしく、刑罰の一種として個性を抑制させる薬をわざと飲まずにおいて、俺を焼き殺そうとする。
 一度憎んだ父親が甲斐甲斐しく介護をするのは嫌なのだろう。けれど冷や冬美、夏雄や焦凍にも危害を加えてしまったらそれこそ取り返しがつかない。だからこうして俺の命だけで勘弁してもらおうという腹だ。
 そんな浅はかな計略はとっくに見抜かれているらしく、燈矢は俺がどれだけ献身的に世話をしようと、話しかけようとも反応は剣呑なものだった。
「お父さん、俺が早く死ねばいいって思ってるだろ」
「そんなこと思わない。燈矢、俺を信じろ」
「信じろ? 信じて、捨てただろ」
「捨てたわけじゃ」
「結果的に捨ててんの。焦凍が生まれるまでに生んだ命すべてに謝れ」
「燈矢、俺は」
「うるせえッ!!」
 罵声ともに、蒼炎が上がる。燈矢の居室はどれだけ塗り直しても焦げが絶えることはない。最初こそ塗り直していたが、有機溶剤に引火してからはそのままにしている。いっそこの炎に巻かれてしまったら燈矢は気分がスッキリするだろうかなんて考えて炎に触れようとしたら、ふっ、と炎は消えた。
「死ぬぞ」
「……」
「お父さん、お前は生きて償い続けないといけない。死ぬなんて、俺が許さない。俺が死んでも、死ぬな。後追いなんかして楽になろうとするなよ」
「わかっている、わかっているが……」
「どうしても辛くて、生きていたくないなら……その時は俺が殺してやるよ」
 燈矢は、修行をせがんで俺の手を引いていた時と同じ笑顔でそう言った。
 
  
 2022/7/29

DABI NEVER DIE! #ヒロアカ #カップリング #荼炎 #燈炎

DABI NEVER DIE! #ヒロアカ #カップリング #荼炎 #燈炎
 人はいつ死ぬのか。
 お父さんにたんまりかけたガソリンの臭さに辟易しながらも、俺はそんなことを考えた。病院には、たくさんの死にかけた人間たちのうめきで満たされていて、そのどれもが生きてはいなかった。俺もその一員となってうめきの波間に揺られていたんだけど、俺はこんなふうに死にたくないと思って一念発起して今は思い出の瀬古渡にいる。
 俺はそうだなあ……俺の次の子ガチャが回された時、お母さんが次の子供を妊娠したと知った時死んでしまったんだと思う。俺を見限って俺があこがれた世界から遠ざけられなんの面白みもない人生を歩めといわれた時に……そして……焦凍が生まれて俺の息の根は止まってしまった。
 お父さんはいつ死ぬのか。
 俺が今少しでも火を出してしまえばお父さんは火だるまになって死んでしまうんだけど、そうじゃない。お父さんは俺が殺した。荼毘が全世界に向けてお父さんの非道を晒してしまったことで、ヒーローとしてのお父さんは死んでしまった。
 俺が殺してしまったのだと気づいた時、感じていたのは脳を突くよろこびと虚しさだった。守るはずの民衆から唾はかれて罵声を浴びせられ、ザマアミロ、俺を蔑ろにするからそんな目に遭うんだと思ったけどよろこびは風船がしぼんでいくみたいに小さくなっていった。俺はお父さんをどうしたかったんだろう。一人で修行した成果を見て欲しかったのかな。お父さんが焦凍じゃなくて俺を選んで教育し直すっていう夢はたくさん見たけど、それが俺の深層心理だなんて信じたくない。
 ガソリンが鼻に入ってしまったらしくむせているけど口はガムテープで塞がっていて苦しそうにもぞもぞしているお父さん。情けなくて、かわいそう。俺はお父さんのでかいケツを蹴り飛ばして天を仰いだ。月のないいい夜だ。さぞお父さんを燃やした炎がうつくしく映えるだろう。
 しばらく、酒を飲みながらガソリンまみれのお父さんを眺めていた。
 抵抗するそぶりは見せなかった。黙って横になって、まるで点火を待っているかのようだった。憎しみで、怒りでいっぱいだった俺なら迷いなくつけただろうけど、今の俺はなんだか頭がぼんやり霧がかかったようにまとまらない。
 死んでしまったらこの世で受ける罰は全て放り投げて逝けると思っているのだろうか。そうだったら、悔しい。お父さんの罪の具現である俺が生きてるのに、罪を犯した張本人が死んで楽になってどうするんだよ。俺は思い直して公園の水道までお父さんを引きずっていき、石鹸で雑に洗い流した。
「許してくれるのか……?」
「んなわけねーだろボケが。生きて罪をすすげ」
「復讐を果たした方が燈矢の気が晴れるかと思ったが」
「俺は、今の気分はそうじゃなかった。今後殺したくなった時は殺されて」
「……わかった」
「生きてる方が苦しいことだってあるから。俺はそれを見て気を晴らすよ」
「そうか……」
「今日は帰ろう」
 そう言って、お父さんお抱えの運転手さんに来てもらって家に帰った。ガソリン臭いお父さんを車に迎え入れても何も言及しないあたりプロだなあって思う。びしょ濡れで何処か虚な目をして外を見ているお父さんが可愛くって、ほんとゾクゾクしちゃった。サイコーすぎる!もっとやろう!


2022/11/6

洗モル中… #モルカー #夢小説

洗モル中… #モルカー #夢小説

 機械の洗車もいいけど、わたしは断然手洗い派だ。洗車中じっとしているわけじゃないから全身ずぶ濡れは確定だし、それなりの大きさ、毛並みがあるから大変な作業ではあるんだけども終わった後のふわふわ感は機械には敵わない。と信じたい。
「プリンちゃん、シャワーだよ」
「ぷい」
 プリンと名付けたモルカーは、名前に恥じる墨色をしている。この前キャンプにいったときに落ち葉にはしゃいでしまい全身で土に向かってごろんごろんと転げていたのだから納得の汚れ具合だ。
 プリンちゃんはそれなりにシャワーというものがわかってきたのか、ブラッシングの際も大人しくお腹を地面にくっつけてやりやすいようにしてくれる……のは最初の五分間だけなのでおやつ代わりのお野菜をたくさん持ち込む。
 お湯をかけて洗剤を泡立てていくのだが、寒がらないように手早く済まさないと逃げたりすねたりしてしまう。モコモコの泡に包まれたプリンちゃんはうっとりするくらいかわいいのだけど、写真なんか撮ってたら早くしろーっ!ってぷいぷい泡ぶくを飛ばして来るから懸命に洗うに専念する。
 最後にお湯をかけている時は気持ちよさそうで、眠たそうだ。大抵洗車のあとは眠っている。ぷいぷい言いながら。
 ドライヤーは音が苦手らしくちょっとプルプル震えている。でもこの工程を省くわけにはいかないのでニンジンをひとかけらあげた。夢中になってカリポリカリポリかじってる間に乾かすと、フンワリ……フカフカのモルカーが一体……
「プリンちゃんが一番かわいいよ」
「ぷ」
 知らんよ、なのかわかってるよ、なのか知る由もない。プリンちゃんはいま世界で一番フカフカなモルカーであることは間違いない。汚れがちなお腹の毛だってもぐりこんで洗ったからもうモッフモフだ。かわいいプリンちゃん。ずっと一緒にいてね。

2021/1/21

あたたかなひとみ #モルカー #夢小説

あたたかなひとみ #モルカー #夢小説

「やばい、もう燃料がない」
 うっかりしているとないもの。モルカーの燃料。
 メーターを見てびっくりしたけどすぐ先にお野菜スタンドがあって安心した。スーパーで買えるような人間用の野菜を与えてもいいけど、大きさの問題でコスパが悪すぎるからモルカー用の野菜を売っているモルカースタンドに寄る。
「レタス入ってるといいねえ」
 基本的に三千円分、二千円分くらいの区分けがあって中身の野菜は選べない。ヌヌヌと千円札を三枚飲み込んだお野菜コーナーは、コーヒーの自販機のようにカゴを下に置いておくとドカドカとお野菜が落ちてくる仕組みだ。
 レタスとニンジンと小松菜。まあまあ悪くない取り合わせだ。停車中のプリンちゃんも車輪?前腕?をモルモル回して早くレタスをよこせよこせと言っている。ような気がする。
「今度はどこにいこうか」
「ぷいぷい」
 どこでもいいよ、なのかモルカーも入れるという温泉、モル湯につかりたいから箱根がいいなのか、海が見たいから茅ヶ崎にいこうなのかわからないけど、どこにいくにもプリンちゃんと一緒だ。そんなこと知らない風のプリンちゃんはうれしそうにカリポリしている。
「おいしい?」
「ぷい」
 黒豆のようなつやつやした瞳がスタンドの灯りに照らされてさらにつやめいている気がする。せわしなく動くほっぺとお口だけが音を作っている。


2021/1/21

俺だけが目覚めない夢 #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #心操人使

俺だけが目覚めない夢 #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #心操人使

 あの時、個性を使ってでも行くなと言ってしまえてたらよかったのか。何度自問しても答えは出ない。答えを持つ人は桐の棺に収まって目を閉じている。俺が人のために個性を使いたいというのだから使うべきじゃないというだろうか、それとも。いつもはそんなこと自分で答えを出すのに、この線香のにおいと念仏のようなものを聞き流していると正常な判断が失われてしまうような気がする。
 死と隣り合わせだなんて座学でも実践でも学んだから理解したつもりでいた。けれど学びはどこまでも学びで、背中に這い寄る冷たさに似た焦燥が脳に満ちてやっと実感が湧いてきた。ああ、ナマエ、死んじゃったのかと。
 顔だけ四角い窓から出している理由を誰も聞かない。見せられないような状態になってしまったのだろうと容易に想像がつくのだ。クラスメイトの誰もが縁者を亡くしている。そのうちの誰かがひどい死に方をしたのなら想像がつくのだろう。
 クラスメイトのだれもが帰ってしまって、親族しかいない式場で通夜振る舞いに呼ばれた。あなたはナマエちゃんの何だったのと当然聞かれた。お付き合いさせていただいていましたというと口々に慰めの言葉をかけられた。親族の方だってつらいだろうに、なぜ半年と少し付き合ったくらいの俺にやさしくできるんだろう。

 半年と少し。
 自分で数えてあまりの短さに呆気に取られてしまう。そんなに短かっただろうか。あんなにまぶしくて、夢みたいな日々がそんなに、短かっただろうか。
 俺だけが夢から覚めてここにいるみたいだ。
 
 
 ヴィランとの戦争が本格化して壊されやすい墓をたてる風習が下火となって、代わりに開発されたのが遺骨の炭素をダイヤモンドにする技術だった。
 遺骨ぐらいの炭素じゃそんなに大きな粒ができるわけではないので、ナマエのご両親がご厚意で下さった石はほんの爪先程度だった。それでもうれしかった。死んでしまってもこの燕脂色をしたベルベットの箱を見るだけでも思い出せる。仕事の都合上身につけることはできないことが残念だけど、時には一人の時間も必要ってことで。
 寮生活の時はナマエだったダイヤにいってきますとただいまを言っていたら同室のやつに怖がられてしまったので、一人暮らしになった今、堂々と言える。
「いってきます。ナマエ」
 返事はない。
 さやさやと揺れるカーテンの向こうに、電車を待つ駅のホームに。そんなところにいるはずもないのに探してしまう、という歌があったが、無意識のうちに探してしまう。
 そんなことをしていると知ったらナマエは笑うだろうけど、置いていかれるということはそういうことなんだとやり返すつもりだ。俺がもっと爺さんになって、俺だとわからないくらいにヨボヨボになってから。


2022/7/28

うつくしくない愛 #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #治崎廻

うつくしくない愛 #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #治崎廻


 治崎は、潔癖症だったのだと思う。
 思う、と断定できないのは本人の口から聞いたわけではないからだ。本人は人が無許可で消毒もせず触れ合う方がおかしいと言っていた。それはそれで本人の世界の中では正しいことなので言及しないでいたが、私にも消毒を強要し、私に触れようもんなら私の体を隅からすみまで消毒しようとし、それが終わってやっと触れようというものだから辟易した。デリケートゾーンを消毒液で浸される苦しみは言葉を失ってしまうが、当の本人は慣れたとかなんとかで苦に思ってないのでやめてもらえない。クソみたいなやつだったけど、噂には、腕もなく頭も多少おかしくなっていると聞いてバチが当たったんだとうれしくなった。
 名前は知らないけど、治崎の悪行に個性を利用されてしまった女の子がいたらしい。その子を手懐けるために私を利用しようと思ったこともあったらしく、母親の真似事をしろと命じられたこともあった。当然、拒否したが背中に拳銃のつめたさを感じてしまうとどうにもできなかった。そんなことは言い訳だと強くただしい人は私を非難するかもしれない。命が脅かされてなくて、優しくて、強い力を持った人。わたしはそんな人が羨ましくてたまらなかった。靴を舐め、媚びへつらうような生き方しかできないのだ。弱く生まれ弱く育つと。
 その女の子は私に多少懐いて、本当の両親のことなどを話してくれたが、それっきりだった。
 何の役にも立たないと叱責しながらも、それでも治崎は私に優しく触れた。それだけのことなのに忘れたくとも忘れられない。優しくて頼れる夫に恵まれて、何不自由なく生活をしているのに路地裏で狂ったように笑う治崎を見つけて足早に駆け寄った。
「治崎」
「あ? ナマエかあ。お前がオヤジを隠してるのか?」
「……なわけないでしょ」
「なら用はない。消えろ」
 けたけた笑う治崎の頭を思い切り蹴飛ばして逃げた。怒声が背中に刺さり、あのころの習性で身を屈めたくなるが、持っていたペットボトルを投げ、ぽこんという間抜けな音を立てて当たるのを見た。
 さよなら治崎、サイテーな男。願わくばさっさと死ね。

 2022/7/10

ずっと一緒 #呪術廻戦 #夢小説 #女夢主 #五条悟

ずっと一緒 #呪術廻戦 #夢小説 #女夢主 #五条悟

「お願いがあるんだけど」
「ナマエがお願いするなんて珍しいね」
「悟が死んだら、眼球ちょうだい」
「そんなもんどうすんの」
「コ……コレクション」
「悪趣味〜」


「とか言って、ナマエが先に死んじゃった」
うだるような夏の日差しの中、独り言は蝉の鳴き声に溶けて消えた。ナマエの墓はまだ上にある。場所を覚えてしまった。
「ナマエ、きたよ〜」
そこには五条家の墓と書いてある。
身寄りのないナマエの遺骨を引き取って、俺が入る予定の墓に入れた。これで死んでもずっと一緒だよ。

2022/3/23

同じ海を見ていた #ワールドトリガー #夢小説 #女夢主 #木崎レイジ

同じ海を見ていた #ワールドトリガー #夢小説 #女夢主 #木崎レイジ

「ねえ、私まだ指ある?指がないと……指輪がつけられない、せっかくレイジくんがくれたのに……」
それが彼女の両親が涙ながらに伝えてくれた彼女の遺言となった言葉だった。

日常に戦いがあり、負傷があったはずなのにどこかで自分の周りの人のこととして考えることができていなかったのだな、と妙に冷静に考えている自分がいた。葬式を終えたあとは塩をまかなかった。ついてきたければ、ついてきてほしかった。
それから数日しても霊的な気配はなかったので彼女は安らかに眠ったんだろう。作ってもどうせ壊されてしまうので、ボーダーの侵攻が始まってすぐくらいから石造りの墓を作る風習は薄れ、代わりにいつでも身につけていられて、いつでも持って逃げれるという点から遺骨の炭素をダイヤモンドに変える技術が発達し、短期間で供給できるようになった。それほど沢山の人が亡くなっているということだ。技術の発達には必ず要因がある。今回の場合は死だっただけで。
彼女の両親のご好意で、ダイアモンドと一欠片いただいた。あたたかく穏やかだった彼女は冷たい石ころになってしまった。意外と涙は出ない。

突然らしくないネックレスなんて付け出した俺に何も言う人はいない。皆も知ってるんだろうか、彼女の死を。聞いてまわることでもないので黙っているが本当は誰かに話したかった。彼女の話を聞いて欲しかった。それほどに俺は今弱っているのかもしれない。大切な人を喪った、痛かっただろう、怖かっただろう。守ってやれたら、よかったのにな。

2021/1/25

陽炎 #ポケモン剣盾 #夢小説 #男夢主

陽炎 #ポケモン剣盾 #夢小説 #男夢主

 架空の誰かに向けていたとしても、彼が恋の歌を歌うのは嫌だった。どんな相手を想像して歌っているんだろう、と想像してしまうからだ。
 スパイクタウンのジムを引退してからの彼は肩の力が抜けたように活動している。ライブを精力的に開催したり、バイクでその辺を走っているのを見たりする。
 俺はしがない楽器屋の息子だ。
 いずれこの寂れた町の小さな楽器屋を継ぐのかと思うと、気が重いのと同時に、ずっとネズのそばに居られるのだと思うとうれしく思う。
 錆びたチャイムが来店を知らせる。あんな奇抜な髪あいつしかいない。
「よう、きてやりましたよ」
「おー、いらっしゃい」
「ギターできてますか」
「ああ、さっき上がったところ」
 大体のチューニングはネズが行うが、細かいところは俺がやってる。その方が音がいいんだそうだ。
「そうだ、ネズ。八百屋の親父、店閉めるってよ」
「……そうですか」
 一瞬のためらいがあり、受容。誰よりもこの街が発展するよう、未来につなげようとしたネズに伝えるのは気が滅入るが、いつかは知り及ぶことになるだろうと思い、伝えた。
「さびしくなりますね」
「ああ、都会の息子さんのところに行くっていうからな」
「おれが何をしても、無駄なことのように思えてきます」
「なんだ? 弱気だな」
「おまえしか聞いている人がいないからですよ」
「そっか……」
 沈黙が夕日さす店内を満たしている。
 この街から去る決断なんて、俺はできない。幼いころから彼のそばで彼の努力を見てきたから、最後の最後までそばに居てやりたいと決めている。
「おまえは、居なくならないでくださいよ」
「そのつもりだ。ネズがもういいっていうまで居てやるよ」
「それはそれでうっとおしいですね」
 やっといつもの生意気な調子が戻ってきた。やっぱりネズはこうでなきゃ。
 
 からん、と音を立てて珍しい来店を告げた。ネズの妹のマリィだ。今は兄からスパイクジムを継ぎ、立派に切り盛りしている。
「アニキ、素直がいいけんね」
「なんです、急に」
「ウチが知らんとでも? いつもナマエさんのこと話し「ワーッッ!!!」」
 ネズから珍しく大きな声が出た。今日は珍しいことだらけだ。退屈なこの街もこの兄弟がいると華やぐ。
「俺の噂してんの? 家で?」
「そうそう、ナマエさん素敵やなって」
「またあ……」
「アニキ、素直がいいけんね」
「わ、わかりましたよ……」
「ねー、俺を置いて話さないでよー」
「すーぐナマエさんのこと話すけんね、心配せんとき」
「えーなになに」
「じゃ、邪魔者は帰るけん。アニキ、もうネチネチしたコイバナは効きたくない」
「わかりましたよ……」
「じゃあねー」
「じゃあね、ナマエさん」
 
「なになに、なんだったの」
ナマエ
「何、急に改まって」
「おまえのことがずっと好きでした」
「えっ……コイバナってそういうこと?」
「そういうことです。多分おまえは女性を好きになるだろうから、黙っていましたが、もう疲れました。一方的に想っていただけですが、返事のない恋の歌は飽きたんです」
「えっ待って、勝手に決めないでよ……急に好きって言われても実感わかないけど……ネズ、何、好きって、なに」
「教えないとわかりませんか?」
「わからないよ……俺たちずっと幼馴染だったじゃん……それとは違うの?」
「おまえはそうでないとしても、おれは違いますね。おまえにキスをしたいし、抱かれたい」
「お、おお……」
「ドブみたいな顔いろになりましたね」
「驚きがすごくて」
「はは、面白い」
「てめえ人ごとみたいに」
ナマエ、返事は」
「イエスでお願いします……でも抱くとかはまだ保留でいいすか」
「まあ、よしとしましょう」
「ありがと……」
「でも、キスは今」
 します、という言葉は俺の唇の間ではぜた。ネズの口紅がべったりうつった後解放された。
「お、おお……」
「ふふ、嫌になりましたか?」
「いや、意外と……いけるなと思いまして」
「おや、そうですか」
「やべ、ちんこ勃ってきた」
「そんな躾のなっていないちんこ、引き取り手がいませんよ」
「ネズ意外に居なくていい」
 そんな情熱的なセリフが出てくるとは思わなかった。ネズが目を丸くした後なんだこいつという目で見てくる。
 高く結ったネズの髪を解いて、俺からキスをした。友達だったとか、恋人になったとかどうでもいい。ただこいつを愛しいと思った。


2022/2/26

瞬きの間に #ダイヤの #カップリング #まなたん

瞬きの間に #ダイヤの #カップリング #まなたん


「かっちゃん、待って!」
 もたもたと靴ひもを結ぶ光一郎が、いまでも記憶の片隅に残っている。
「要、行こうぜ」
 
「あいつ、いっつもとろいな」
「下手くそだし」
 聞こえるように言ったのだろう、光一郎は肩を震わせて靴ひもをいじったまま顔を上げようとしない。周りより抜きん出て上手く、父はコーチ、母は父母会長。そんなキャプテンは親の威光を存分に利用して、光一郎に嫌味を言っているらしい、ということは人づてに聞いていた。その時は俺が噂だけで手を出せない、光一郎が解決するかもしれない、と考えていたが、俺の目の前でやられたら話は別だ。
「行かない、それと、光一郎は下手くそなんかじゃない」
 いつも静かに投球をし、結果を出していたからかキャプテンは素直に引き下がった。それからスパイクに砂を入れられたり、バッティンググローブを汚されたりと小さな嫌がらせはあったものの、小さいころの俺にはそれ以上に得るものがあった。
 かっちゃん、かっちゃんと慕ってくる光一郎に仄かな優越を感じていた。それを侵す者は誰であっても許すつもりは無かった。今となっては浅ましく、光一郎の気持ちを裏切っていた証拠に他ならない。忘れていたかった記憶の一つだ。
 
 
『青道高校薬師高校を破って決勝進出』
 光一郎が、俺が負けた薬師を破って、決勝へ進んで。新聞に小さい文字列として並べてみると、こんなに簡単に表現できてしまう。そこには、そこに至るには、数えきれないほどの涙が流れているのに。自分の感傷でしかないと理解していても、涙腺が緩んでしまう。
 
 携帯電話のディスプレイに映るメールの下書き、おめでとうの文字はどこか虚しく見えた。
 本当にめでたいと思っているのか。本当は悔しくて羨ましくて、それに劣等感が滲んでいた。いままで追われていたならば、これからも追われる立場で、いつだって俺が光一郎を導いてやるんだという傲慢が少なからずあったことを、嫌と言うほど思い知らされた。
 たぶん、本当の親友ならばここで真っ先に連絡を取っておめでとう、次も頑張れよと励ましてやるべきだということはなんとなくわかる。が、自分の小さなプライドがそれを邪魔する。いいなぁ、俺も、その舞台に立ちたかったなぁ、と羨む気持ちが一番に出てきてしまう。
 あれだけ、人生を野球にささげてきても、差が出てしまう。あたりまえのことなのに、苦しくて仕方がない。まるで自分の選択が、努力が、一気にばかげたもののように見えてきてしまう。同じ夢を見て、同じ場所で夢がただの夢になってしまった仲間には言えるはずもない。最後の最後まで自分の背中を守ってくれた仲間に、そんなこと言うつもりもないが。
 春のセンバツの時は、最高ではないが、まぁ悪くは無い成績を残したことで、光一郎と決勝で戦って、自分が選んだチームで、チームメイトたちと夢の舞台へ行くことへの確信すら抱いていた。
 
 もう、遅いだろうしきっと光一郎も寝てしまった、夏の練習は厳しいだろうから、疲れているところを起こしてしまったらいけないと自分に言い聞かせて、下書きを破棄して携帯電話を閉じた。パコ、という間抜けな音ですらいまは神経を逆なでる。
 
 夏大で負けてから、自宅から学校へ通う部員が増えた。大学進学の手段として、野球を選ばなかったチームメイトたちだ。朝起きて、食堂に行ったとき彼らが居ないとき、俺らの夏は終わったのだと再び実感する。食堂の外で、バットがボールを弾き返す快音が、グローブにボールが収まる音が、掛け声が、食事時に聞こえる。起きる時間だって遅い。終わりを実感するには十分すぎるだろう。
 はたして、これから先の人生で俺は何度あの夏のことを思い出し、後悔するのだろう。負けたあと、テレビのインタビューなどで後悔はありません、と言う同学年の選手たちの気持ちが、同じ夢を見ていたからこそ、俺にはなんとなくわかる。彼らもまた、記憶にささくれを持ち、ふとしたときに思い出すが、試合後の高揚でまだ実感が湧いていないだけであのときああしておけば、と何度も繰り返すだろう。
 後悔をしないのは、頂点に立ったチームのメンバーだけではないだろうか。それももう自分で確かめる手段は無い。俺らの夏はただの夢になってしまったのだから。
 だからこそ、まだ可能性が残っている幼馴染に激励の言葉を贈るべきなのかもしれない。終わってしまった夢を託すようで気が引けるが、俺ができなかったこと、ネット越しか画面越しにしか見ることができなかったものを今度はお前が俺に話して聞かせてほしい。
 
 あまり深く考えすぎても文面から重たい気持ちが伝わってしまうだろうから、試合頑張れよ、応援してる。とだけメールを送った。忙しかったら見ないだろうし。相手が好きなタイミングで確認できるメールが、いままではどこにいても繋がってしまうような気がして嫌だったが、この時ばかりは都合がいい。
 
 返事は昼休みに来た。
『今日の夜、少しだけ電話できる?』
『好きな時間にかけてきて大丈夫、二十一時以降ならいつでも』
 と返した。メールで、ありがとうだとか当たり障りのない返事が来ると思っていたので拍子抜けした。
 もしかしたら、エースとして精神力が強くなったように見えていただけで、不安なのかもしれない。決勝という舞台を前にすくみ上ってしまっているのかもしれない。そんな光一郎に何ができるのか。もう舞台から降ろされた俺に、何ができるのか。
 
 
「青道で自分を変えたいんだ」
 自信なさげに言うものの、はじめて光一郎が見せた強い意志にたじろぐ以外にできなかった。いままでと同じく、スカウトされた市大三高で野球をするものだと、考えていた。
 やはり、光一郎も、ひとりの投手なのだ。自分の投球によってプレーが始まるポジション、ピッチャーの代表格であるエースを俺に預けている状況が、心のどこかで嫌だったのかもしれない。そんな光一郎の存在が、俺の心のどこかでチクリチクリと焦りを生んでいた。それが俺の強さになっていった、そう信じたい。
 
 
「かっちゃん」
「ひさしぶり」
 マウンドで発する雄々しい声は鳴りを潜めて、控えめに囁かれたなつかしいあだ名に、なぜか安堵した。光一郎は、俺よりいい結果を残すことが確定しても、特別態度を変えたりするやつじゃない。光一郎の心根の優しさなんて俺が良く知っているはずなのに。そんな勘ぐりを声音に乗せないように、極めて冷静に返事をする。
 
「本当は、数日なんだけどね」
「俺らの人生のなかで、多分一番濃い時間だからなんだか長く感じるんだろな」
「うん、そんな気がする」
 言葉を交わしたのは久しぶりだった。昔のままに気安く会話ができて安心した。
 
「かっちゃん、あのさ」
「なんだ」
「俺、エースとして、頑張ってるんだ」
「見てれば、わかる」
「よかった」
 青道という、市大に劣らない野球の名門校で、競争率の高いピッチャー、そのトップであるエースの座を掴んだ光一郎は後輩たちをひっぱり、チームメイトに支えられ、名実ともにエースといっておかしくないのに、わざわざ部外者である俺に評価を委ねるのだろうか。
 
「何で俺に聞くんだよ」
「だって、かっちゃんはずっと俺にとって、あこがれだから」
「は?」
 思わず強い口調で聞き返してしまった。電話口の向こうで息を飲む音がした。光一郎を委縮させたらいけないっていうのは長い付き合いだからわかっていたのに、聞き返さずにはいられなかった。
「だって」
 そう光一郎が発した時、電話口の向こうが妙に騒がしくなった。カノジョか?!カノジョか???と口ぐちに言っているのが聞こえる。
「ごめん、切るね」
「おう」
 電話は俺から切った。今や結果として俺を越えてしまった光一郎が、俺にあこがれていただなんて聞きたくなかった。大切な幼馴染のあこがれを綺麗なかたちで見せてあげたかった。なんて考えは傲慢なんだろうか。
 ◆
 カノジョだカノジョだ、と騒ぐ奴らに発信履歴を見せて、やっと解放された。
 これからもし、カノジョができたとしても、かっちゃんほど心を許せるかどうかわからない。弱い自分をさらけ出せるのは、信頼しているチームメイトにも言えないようなことを言えるのは、やっぱりかっちゃんなのかもしれない、と自分でも分かっている。そんなかっちゃんを乞える存在が、これから現れるとは、今のところ思えない。
 自分の中だけで思っていればいいことを、思わず口走ってしまった。かっちゃんに、お前はよくやってるよ、と認められたかった。小学校、中学校、リトル、シニアとずっと俺の前を走って、俺が気弱なふるまいをしていじわるをされた時も、毅然としていじめっこへ立ち向かうかっちゃんはカッコよかった。ああなりたいと思わせるには十分すぎる、ヒーローだった。
 でも、ヒーローに守られたままじゃ、俺はずっとかっちゃんの二番手。かっちゃんと肩を並べられるようには到底なれないだろう。俺はかっちゃんの背中を見ているんじゃなく、隣に立って、いつかは、追い抜いていきたい。
 
 あんな強い口調のかっちゃんは久しぶりだ。小学校のとき、いじわるされたときに、嫌なことはちゃんと伝えろ!と怒られた時以来かもしれない。いや、シニアのとき、ミスを押し付けられそうになったとき、主張しろよ!と怒られたこともあった。嫌だったのかもしれない。急に、あこがれだなんて、負けてすぐ、気持ちの整理がついていないときに言われて。かっちゃんから嫌われてしまうことが怖くて、すぐメールで謝ろうと思ったが、たぶんかっちゃんのことだから、どうして謝るのか、なんて聞きそうだ。静かに、でも、強い目で「光一郎は、どうして俺に悪いことをした思ったんだ」って。
 俺が、かっちゃんから嫌われたくなくて、なんて返したら呆れられてしまいそうだ。でも、今の俺にはかっちゃんが俺の近しいひとでなくなるのが怖いから、としか返せない。
 
 悩んでいる間に、メールが来た。
『明日、頑張れ。早く寝ろよ』
 もしかしたら、怒ってないのかもしれない。
 今までぐちゃぐちゃ考えていたこと全部が吹き飛ばして、冷静さを取り戻す。俺は今、かっちゃんからも応援されている。
『ありがとう、頑張る おやすみ』
 それだけの短いメールを送った。
 本当は、これ以上やりようがないほど努力したから大丈夫なはずなのに不安で仕方ないって、言いたかった。中学の頃ならたぶん、夜遅くにかっちゃんの家に行って、懐中電灯でかっちゃんの部屋を照らして、降りてきてくれるのを待って言ってしまっていた。でも、もう俺はあのころとは違うから、かっちゃんの背中を追っているだけの、気弱な俺とは。
 
 
 時間は十四時を回ったころだろうか、神宮球場に降り注ぐ全てを焼き尽くしてしまわんばかりの暑さが、マウンドの上の空気を焼く。
 吸った酸素が熱い。御幸が構えるミットが黒々と鎮座するだけの空間に、バッターボックスに打者が入ることで崩される。ここまできたら、もうやることは一つ。自分ができることをする。それだけだ。
 
 
 マウンドの上の光一郎が小さく見える。
 決して頼りなくはないが、山岡からホームランを打たれたときの光一郎は、幼いころの弱気が顔を出した、そんな気がした。
 平井への四球、御幸が三塁でさしてアウトをひとつ、梵への死球、神谷をサードファールフライで打ち取り、白河に四球で、ツーアウト満塁。自分がその状況下にいると想像するだけで血が凍りそうな緊張のなかに居る光一郎は、いま何を思って決勝のマウンドに居るのだろうか。
 
 膝をついて、うずくまっている光一郎がテレビ中継に映し出された。
 同じような目にあってしまったか、と息を飲んだが、続投するようだ。この気迫、上から目線であることは承知で、光一郎は強く、たくましく成長した。心配するチームメイトたちを制し、ニ、三度ボールを捏ね回して、御幸が構えるのを待っている。
 だが、相手は原田。御幸の判断で、敬遠をするようだ。次の成宮で勝負ということか。
 そして、選手交代。沢村へ。丹波の、甲子園にかける思いをすこしでも受け取ってくれただろうか。沢村のグローブにボールを押し込んで何やら言っている。信頼できる後輩に恵まれ、また沢村も光一郎を尊敬しているのだろう。沢村は素直に頷いて、光一郎の背中を見送った。
 
 ◆
 マウンドの上で泣き崩れる川上を、どこか違う世界の出来事のように眺めていた。
 喜び合う稲実のメンバーとは違う、俺に与えられた現実がじわじわ這い寄ってくる。それからどうやって寮にもどってきたか思い出せない。ただ茫然と、涙を流した。
 
 高校に入ってから、初めてユニフォームを洗濯した。
 泥は洗濯板で擦ってからじゃないと落ちないわよ、と何ともなさそうに言っている藤原は、冬の寒いときもこうして洗っていてくれたのだと思うと、また涙が目じりに滲んできてしまう。結果は、どんなに好ゲームだったとしても決勝敗退だ。藤原たちの献身に見合う結果を出せたのだろうか。
 それに、いまはまだ深く考えることはできないが、この結果は確実に進路に影響するだろう。感傷に浸る暇もなく現実が押し寄せてくる。もう少しだけ、夢で終わってしまった夢に浸っていたい、それさえも許されないのか。自分たちもそうしてきたはずなのに、世代が交代してゆく。
 練習が辛くて、自分を変えたいと思ったことは何度もある。けれど、はじめて、野球をしていることが苦しくなった。セレクションは一校だけ受けたが、練習に参加していない。あいつらにはまだ、甲子園に行ける可能性があって、俺にはない。単純な事実が重く胃に圧し掛かっているような気すらする。
 
 このまえかっちゃんが言っていたとおり、時間の密度が違う。これから先の人生で、あれほどに没頭できる瞬間は来るのか、と考えて急に恐ろしくなった。夢が断たれるまでは楽しみでしょうがなかった明日が、将来が、叫びだしたいほど恐ろしいものになってしまうとは、あのときの自分は考えもしなかった。
 遠慮がちに震えた携帯電話が、メールの受信を伝える。実家の親だったら電話をしてくるだろうし、誰がこのタイミングでメールをしてくるのだろう。
『光一郎、明日暇か? 市大の三年で江ノ島に行こうかって話をしているんだけど』
『うん 行く』
 敗戦の傷をなめ合うわけでもなく、ただ、用件のみのメール。それが今は心地よい。
『わかった。じゃあ、10時ぐらいに町田まで来て』
 OKの絵文字を送った。ひとつ予定ができるだけで、自分がこれから過ごす時間に区切りが生まれて、見通しが立つような気がする。明日、時間が有ったら参考書でも見てこよう。
 
 
 朝方の混んでいる中央線上りには、部活に行くのだろう、重そうな用具を持った高校生がちらほら乗っていた。これからは自分たちの時代だ、と意気込んでいる姿がいまはまだ純粋に応援だけしていられない。ぼんやりと電車に乗っていると、いろいろな所にまで考えが及んでしまう。稲実の決勝は、今日。山岡は、原田は、と自分から長打を打った打者のことや、四球を選んだ打者などのこと。俺になくて、あいつにはあったものをもつ、成宮のこと。新宿を乗り過ごしそうになってあわてて小田急線に乗り換える。これで町田まで行ってしまえば、ここまで暗い気持ちになることもないんじゃないか、そんな淡い期待を胸に、電車の揺れに身体を任せた。
 
「わっ!丹波だ!おはよー!」
「丹波ー!でかいからわかりやすいな、た!ん!ばー!」
 顔はよく知っているが名前を知らない、かっちゃんのチームメイトを紹介してもらった。深い付き合いではなかったのに、自然に会話を続けることができる。根がいいひと達ばかりなんだろう。俺もかっちゃんも、チームメイトに恵まれたのだと思うと、俺まで嬉しくなる。
 
「ほんとは、断られると思ってた」
「え?」
 窓の外にちらほら海が見えるようになってきてから、かっちゃんは何でもなさそうにつぶやいた。
「俺らが中学最後の試合の後、光一郎泣いて泣いて」
「そ、それは中学の時の話じゃん」
「そうだな、すごかったよ、決勝でのピッチング」
「あ、ありがと」
 かっちゃんはなぜか嬉しそうに唇の端を上げて窓の外に視線を逸らした。
「そういうところも」
「え?」
「前までの光一郎だったら、そんなことないよ、とかかっちゃんのほうが、とか言ってた」
「今まで一番良かった、って自分でも思ってるからかも」
「そっか」
 よかった、と小さく囁くかっちゃんは、どこか脆く、後悔しているときの顔をしているような気がした。何も言えずに、かっちゃんがぼんやり見つめている海を一緒に眺めるふりをする以外、どうすればいいか選択肢すら思い浮かばなかった。
 
 海にはしゃいでいる市大のみんなをぼんやり眺めながら、いろいろな話をした。すこしだけ生えてきた髪の毛が日に焼けてちくちく痛むのが気になって居たら、大前がさりげなく帽子をかぶせてくれた。
「お互い、悔いが残っちまったな」
 このまま、野球を辞めたくない。それだけはかっちゃんも俺も、同じ気持ちだろう。
 
「そういえばさ、この前言ってたかっちゃんは俺の憧れ、って何」
 茶化すときの顔をして、顔を覗き込んできたかっちゃんを軽く小突く。なにかうまいこと言って躱そうとしたが、語彙が追い付かない。それに、かっちゃんは俺がごまかそうとしたらわかってしまうだろう。
「あれはぁ、あのね」
「うん」
「言葉にしにくいなぁ……」
「ゆっくりでいいから、知りたい」
 なんだか照れくさくて、かっちゃんの顔が見れない。
「ずっとね、背中ばっかり追いかけてたんだけど、ほんとは隣で、競いたかったんだ。近くに目指すハードルとか、こうなりたい!って目標が無かったら、俺はいまも弱虫のままだったと思うんだ」
 黙って聞いてくれているかっちゃんの視線がチリチリ刺さるようで、顔が熱い。海にとびこんでしまいたい。し、とりとめがなくて分かりにくいと自分でも思う。俺らの夏は終わったとはいえ、まだ気温は三十度以上なのだから、暑くて当たり前だろう。
「だからさぁ……憧れなの」
「へ~ぇ」
 口調はからかっている風だけれど、表情は優しくどこか照れている風でもある。長年そっとしまっておいた気持ちを馬鹿にされたら、と心の隅で疑っていたが、相手はかっちゃんだ。そんなことするはずがない。
「でもさ、結果として、光一郎の方がすごかったじゃん」
「そういう問題じゃないの」
 釈然としない、といった表情で見てくるかっちゃんに、もうこの話は終わり、と言ってもなかなか解放してくれない。
「結果とかそういうんじゃないの、心の支えみたいなものなの」
 これでほんとうに終わり!と言ってひざ下だけ海に入った。こんなに太陽が照りつけているのに、水は驚くほど冷たい。
「冷たくないか?」
「……冷たい」
「やっぱり」
 
 沈黙ののち、かっちゃんは、そんな大層なものだったなんて、思いもしなかった。と呟いた。
「俺はさ、やっぱり心のどこかで光一郎が頼りないもの、って意識が抜けてなかったんだろうけど、全然そんなことなくて、でもなんでかな、それがなんとなく寂しい」
 今までずっとかっちゃんの強い面しか見てこなかったぶん弱さを見せてくれるようになって、なんだかかっちゃんをもっと知れたような気がして、かっちゃんはきっと悩んでいるのに、なんとなく嬉しい。
 
「なに嬉しそうな顔してるんだよ」
「だって、なんか、初めて見た気がする。かっちゃんのそういうとこ」
「そうか?」
「そうだよ、ずっと、気を遣ってたのかもしれないけれど、弱いところ見たことなかったから、ずっと支えてくれていたから、今度は俺がなんとかできるかもしれないって」
「そっか、本当に、前とは違うんだな」
「う、うん、多分」
「そこはそうだよ!って断言するとこだろ」
 そういうところは簡単に変わらないものなんだなぁ、って笑ってくれて安心した。かっちゃんが笑ってくれていると安心するのは多分小学生のころからずっとだから、今後も続いて行くような気がする。
 
「ねぇかっちゃん」
「なんだよ」
「これからもし、かっちゃんにカノジョができても、時々はこうして会ってね」
「何言ってるんだよ、あたりまえだろ?親友で幼馴染なんだ、どんなつまんない用事でもいい、繋がりはあるよ」
「そうだよね、安心した」
 親友、という言葉にはどうにも胸が騒ぐ。こんなに信頼していて、大好きなのに、親友。親しい友達。じぶんの心の中のわだかまりは、そっとしまっておくべきのわだかまりだろう。俺は今まで、かっちゃんと競い合いたかったはずなのに、今はなんだろう。かっちゃんの何になりたいんだろうか。
「どうした、光一郎」
「ううん、なんでもない」
 ほんとうになんでもないのか、と言うときの目が、この時ばかりは心苦しい。今までは、いじわるされてないか、とか、本当に辛くないのか、嫌じゃないのか、っていうときの目だった。けれど今は違うように感じる。かっちゃんは、俺の思ってること全部知っていて、浅ましい、俺は親友だと思っていたのに、軽蔑した。と言わんばかりの目をしているように見える。
 
「そっか、大前がかき氷食いたいって。お前もなんか食う?」
「うん、一緒に行く」
「だな」
 
「パピコ二人で分け合うとか、仲いいな」
「フツーそれカノジョとかとやるだろ」
 何気ない一言が、じくりと刺さった。いつかかっちゃんが、カノジョと二人、分け合っていたら。
 
「そうか?俺いままでずっと光一郎と分けてたからカノジョとか想像つかない」
「へぇ~なんかいいなぁ、そういう信頼関係」
「だろ」
 信頼が、今は嬉しい。
 
「どうした、なんか顔が怖いぞ」
「そうだぞー丹波ーお前ガタイ良いから表情暗くなるとめっちゃ怖いぞー」
「ご、ごめん」
「謝らなくてもいいだろー……チャーシューやるよ」
「俺はピーマンをやろう」
「大前、お前はピーマン嫌いなだけだろう、光一郎もピーマン嫌いだよ」
「もう大丈夫になったよ」
「偉いな丹波……こんなカッコいい幼馴染がずっといたんだろ丹波、こんなん惚れるよなぁ」
 深いかかわりがあったわけではない人に見抜かれていて、ゾッとした。そんなにわかりやすかっただろうか。あいまいに流したけれど、流れてくれてよかった。確かにかっちゃんのことは大好きだけれど、どういう意味の好きなのか、自分でもよくわからないうちにさらけ出すことにならなくて安心した。
 
 夕暮れの海は、皆の心のしみる何かがあるのだろう。
 誰も何も言わずに佇んで、太陽が消え入るのをぼんやり眺めている。だれともなく、帰ろうか、と言って冷房が効いた電車にのそのそ乗った。片瀬江ノ島からの上り電車は思った以上に人が居なくて、感傷的になるにはもってこいの雰囲気だった。
「野球、したいなぁ」
「あぁ、またどこかで、戦ったり、一緒にプレーしたり、しようなぁ」
 叶うか叶わないかは別にして、今だけは見えない未来に不確定の約束を投げ出していたい。ほんとはもっと、高校生として野球をしたかった。その思いだけは皆共通して持っているはずだ。
 
 かっちゃんと、市大三のみんなは町田で降りていった。町田から新宿、新宿から国分寺まで一人で帰る。さっきまでが騒がしかったので寂しくて仕方がない。もう寄りかからないと決めたはずなのに、心のどこかでかっちゃん、と言っている気がする。
 控えめに震えた携帯電話には、メール受信、かっちゃん。とある。そんなに都合の良いふうにできているのだろうか。
『さびしくてビービ―泣いてるんじゃないか』
『さびしかったけど、泣いてはない』
『そっか、うん、また今度、二人で会おうな』
『うん』
 なんだか付き合っているみたいだ。
 かっちゃんに大切に思われているってことが嬉しくて、信頼している人と会うことが楽しみで仕方がない。かっちゃんはやっぱりすごい、と一人合点する。
 
 すっかり忘れるところだった受験の参考書を見て、家路につく。先輩たちが置いたままで卒業した参考書と同じものが欲しかったのでちょうどよかった。色とりどりの参考書の山が、なんとなく将来を考えなくちゃならないような気にさせてくる。
 野球部の練習ばかりでところどころ赤点をとってしまった、わからないところがある。かっちゃん、とメールをすると間をおいて帰ってきた。
『ね、勉強会しようよ』
『いいじゃん、今週の土日、親出かけるし、勉強合宿だ』
『やった』
 今までのかっちゃんちに泊まりに行くときの楽しみ、とはまた違う楽しみを感じている自分に驚いた。今までとは違う大好きのままでかっちゃんを見ているときのほうが、よかったのかもしれない。
 
 
 根を詰めて受験勉強に向かってみると、同じ会場で、同じ問題を解いて結果を競わなければならないと思うと、青道の皆や、市大三の皆とまた、野球やろう、が随分遠く思えてしまう。大学に入らなくても、野球はできるじゃないか、と自分を甘やかす考えが出てきてしまう。
「光一郎は、何が苦手?」
「数学、公式は覚えてるはずなのに過去問になるとわからなくなる」
「うーん、昔、円の面積でもそんなこと言ってた気がする……公式を読んで覚えたつもりになってて実は基礎ができてないとか」
「かも……学校の問題集やりなおしてみる」
「だな」
「かっちゃんは苦手な科目ないの?」
「古文」
「いとをかし」
「うん、まぁ、えーと、そんな感じ……」
 思ったことをすぐ口にして不思議がられてしまった。すっかり温くなった紅茶を一口飲んでまた問題に向かう。
 
 ◆
 光一郎が何か言いたいときの話し方をしている。でかい図体を小さく丸めて、もくもくと数学の問題集にとりくむ姿は、中学のときと変わっていない。そのたびに俺の母親に背筋が曲がってる!と注意されていた気がする。
 
「かっちゃんは、不安じゃない?」
「何が」
 
「今まで、俺たちが野球をしてきた時間を勉強に費やしてきた人たちと、試験問題が一緒なんだよ?」
「野球と同じだよ、ウダウダ悩む前にやる」
「……やっぱり、かっちゃんはすごいや」
「すごくなんかない、光一郎よりすこしだけ屁理屈捏ねるのが上手いだけだよ」
「そういうんじゃない……」
 塗装が剥げた何かのオマケのストラップをいじって、思考を纏めようとしている。
「俺は、お前が思ってるほどすごい人間じゃないよ」
 自分から自分の価値を提示するのは勇気が要ることだけれど、仕方ない。光一郎が俺より高い目標を見るためには必要なことだろう。
「自分で、自分のことを見るのって勇気がいるし、後悔してるって口にするのも怖かったけれど、かっちゃんはそういうことができるじゃん、そこがすごい」
「……あぁ、そう?ありがとう」
 熱弁されてしまい、しどろもどろに返すしかなかった。
 集中していて気付かなかったが、そろそろ夕食の準備を考える時間になっていた。カレーの材料の買い置きと、サラダの材料の作り置きがあった気がする。栄養面を考えても、完璧ではないが、悪くもないだろう。
 
「光一郎は、じゃがいも剥いて」
 指先には気をつけろと三度繰り返すと、素直に三度返事をしてくれた。具材を適当な大きさに切って、炒めて、ルーを入れればそれなりのものができる。それでもおいしいおいしいと食べる光一郎は、自分の掌のなかに居たような気がしていた光一郎と何一つ変わっていないような気がする。実際は、俺がそう思いたいだけで光一郎は、これからも俺の思い出の中の光一郎から変わってゆく。
 過去にとらわれていて変われなかったのは、俺の方かもしれない。
 
 食器を洗って、教科を変えてまた勉強。
 俺も光一郎も単語を覚えるところから始める。光一郎が言っていたように、遅れをとっていることに間違いはない。が、焦って難しいものに取り組んでも時間がかかるばかりなので学校準拠のテキストからこなす。
「光一郎、先に風呂入って来いよ」
「風呂入ったらすぐ眠くなるから、かっちゃん先にして」
「わかった」
 中学のころまでは、ガスがもったいないから二人で入っちゃいなさい、と入れられていた。精通の相談をされたときが一番困った思い出が甦ってきた。白いおしっこがでた、とぐずぐず泣く光一郎を一度ネタにしようとしたが、耳まで真赤になって、消え入りそうな声でごめん、と言わせてしまってから、そうもいかなくなった。
「上がったぞ、後は暗記にすればいいじゃん、入ってこいよ」
「うん」
 今日一度も音を上げずに勉強していた。相当焦っているのだろう。上がったら、アイスあるぞと言うとすぐに席を立って風呂場に行った。消しカスを捨てて、勉強道具を片付けて暗記テキストをひっぱりだす。付箋や赤線だらけの単語帳をひとり眺めていると、焦りを感じる。やるしかない、とはわかっていても今まで野球しかしてこなかった自分が、などどマイナスのことばかり考えてしまう。光一郎には取りつく島もなく偉そうなことを言っておいてこれだ。光一郎が言う、すごい、がいつから辛くなってしまっていただろう。
 
「何味がいい?」
「イチゴ」
「うん、ほら」
「ありがと、かっちゃんはチョコミントでしょ」
「光一郎がキライなチョコミントだ」
「キライじゃないけど……辛い」
「わかったわかった、ほら、スプーンとって」
「うん」
 一人ひとつのカップアイスが与えられるようになったのも中学を卒業してからだ。それまでは二人で一つ。それが当たり前だと思っていたが、世の中ではカノジョらと分け合うらしい。まだ恋愛のことは分からないけれど、光一郎ほど信頼して心許せる人に出会えるのか、と漠然と考える。ちまちまスプーンの先でアイスを掬う光一郎を横目に、光一郎に英単語帳を押し付ける。
 
「光一郎、歯ブラシ持ってきたか?」
「うん」
「えらい」
 えへへ、随分可愛らしく笑う光一郎の頭を、いつもは高いところにあって届きようもない頭をショリ、ショリと独特の触感と音をたてて撫でる。
「随分生えてきたんだな」
「伸びたって言ってよ……」
「うんうん、伸びた。決勝戦のときはツルッツルだったな」
「うん」
 こんなところでも時間の経過を実感してしまって嫌になる。布団を敷きに行こう、と促して和室に二つ布団を敷く。シーツを敷くときいつもシーツを高く放り投げて下に入って、遊んでいた。一度電灯にひっかかってからはしなくなった。
「電気消すぞ」
「うん」
「ちっちゃい電球つけておくか?」
「大丈夫」
「へぇ~……」
「もう、高校三年生だよ」
「だな」
 大人しく布団にもぐりこんだ光一郎を見て、暗いところ狭いところ、怖いところが多かった光一郎もいなくなった、と自分に言い聞かせた。
 
「でもね、かっちゃん」
「何だ?」
「どんなに、いろんなことができるようになっても、見る世界が広くなってもね、俺はかっちゃんのこと、一番大切」
 どんな顔で言っているのか、見たいようで、見たくない。冗談ぽく言っているのか、それとも真面目な顔しているのか、知ってしまったらいけないような気がした。布団の上からやさしく肩をなでで、おやすみ、とだけ言った。
 
 溶き卵をご飯にかけて、醤油を適量。
 調理という調理ができないのと、面倒なのを解決してくれる。昨日のことが気になって寝付きが悪かった。当の光一郎は醤油をいれすぎたらしく、顔を顰めながら食べている。確かに、この、親でも兄弟でもないのに、大切で、大好きなものを言葉にするとしたら、大切、という言葉が一番合っているような気がする。
 
「じゃあ、ありがとねかっちゃん」
「うん、また来いよ」
「うん、おばさんにもよろしく」
「わかった」
 光一郎は、チームメイトのもとに帰っていった。少しだけ広くなったような気がする自室に一人、何気なく辞書で大切、と引いてみる。もっとも重要で、重んじられるさま。小難しいことを書いてあるが、俺が今まで光一郎に抱いている感情をさすのだろう。きっと。
 この気持ちは変わっていない。何が変わっても、これが変わらなければいい。辞書を二人分の布団の上に放り投げて、大切、と口に出してみる。照れくささと、なにかを手放してしまったような焦りがジワリと染み入る。
 今度は光一郎とキャッチボールでもしよう。その頃には俺たちの夢は思い出になっているだろうから、僻んだり、感傷的になったりすることもないだろう。

 
 
 
 
 ===
 多分再録だけど発行年不明

手を取り合ってこえてゆく #ダイヤの #カップリング #御クリ

手を取り合ってこえてゆく #ダイヤの #カップリング #御クリ


 あの御幸が懇願という言葉が合うような声音を、いつも余裕を崩さない表情を無意識のうちにゆがめて、先輩、俺と、付き合ってください。と言うものだから、御幸のことは単なる後輩意外の観点から見たことが無かったから少しためらった。が、ためらった分だけ御幸の顔色が悪くなって、皆が寝静まったあとの校舎、社会科準備室で、同性の後輩を性欲を以って受け入れることができるか?と責め立てるように煌々と照る月にぼんやりと浮かぶ、くちびるを青く震わせて、顔色は土色へ変えていく御幸へ、憐みとはいかないが、大事な時期にこんなに思いつめてかわいそうに、とどこか守ってやらないと、という気持ちになったのは確かだ。
 やんちゃな柴犬のように野を駆け回る一年生はきっと、俺が居なくともあの持前の元気さと、人を惹きつけて離さない引力のようなもので世間をわたっていけるだろうが、たぶん、この目の前で震える特定の人間にしか腹を割らない、人間を信じて愛してと甘えるまでに他人の数倍の時間を要する後輩は、俺が守ってやらないと、消えてなくなってしまいそうな気があの夜確かに強く感じた。
 あの時の御幸に魅入られたまま、今この状況である。このままいくと童貞より先に後ろの処女を失うことになる。だからといって拒絶してしまえば御幸は、いつも他の部員に見せる人を喰ったような笑みを浮かべて、すみませんでした先輩と言っていつものように過ごし、精神だけがぼろぼろと崩れていくのを、他人事のように薄笑いを浮かべているのだろう。自分の精神を自分で守れないのだろう。かわいそうに御幸、御幸、俺が居てやらないと。そんなことを口にすれば御幸は、同情なぞ許せず何も言えなくなってしまうのだろうから、黙って身体を差し出してやる。お前に、俺が心から役に立ちたいと思ったお前になら抱かれることも許容できる。
 御幸は黒ビニール袋からいそいそとローションとコンドームを取り出して開封している。インターネットで同性でのセックスの仕方を調べてはみたが、物理的に、叶うとは思えない。汚い話だが便秘のときなどのことを考えると無茶意外の言葉が出てこない。悩みや不安はあとからあとから出てくるが、初めての恋にふるえる少女のように頬を染めてくちびるを塞いでくる御幸が愛おしくて、可愛らしくて、拒否したくない、もしかしたら大丈夫かもしれない、と根拠のない自信にすり替わっていく。せんぱい、クリス先輩、といつも部員たちを叱咤激励する雄の声が今はあまく湿り気を帯びて俺の名前か、すき、と言う言葉だけを発する。決して小柄ではない男二人が、下校時刻を疾うに過ぎた校舎の障碍者用トイレで密着すると、いくら通常より広いとはいえ暑くて仕方ないのだが、御幸は離れる気も、背中や胸、腹をまさぐる手を収める気も一切ないらしい。
 いままで我慢してきた箍が外れた、と言わんばかりにくちびるを押し当てるだけのキスを延々するのかと思いきや一度離れ、おそるおそる御幸の舌がくちびるに触れ、感触を確かめるように往復し、ゆるゆると歯列へと侵入してくる。軟口蓋を這い回るあつい舌に応えるように舌先を触れさせると、煽るな、と言わんばかりに腕を掴んでくる。そのまま腰を浮かされ、股間に股間を押し付けられる。同性だからこそわかる、極限まで欲情している硬さを身を以って知り御幸が俺に、衝動のままに触れているということを思い知らされる。
「クリス先輩」
 吐息の合間に名前を呼ばれて、気恥ずかしさに身をよじると拒絶と取ったのか、触れる手にためらいを感じる。そんなにつらそうに触れてくるなら、俺のネクタイを乱暴にほどいたところで止めておけばよかったのに。同性とセックスをしてしまうという、御幸にとっても振り返ったときにあやまちと判断してしまいそうなことを拒絶してやるのも年長者の役目なのかと、身体を無遠慮に触れる御幸の掌のマメが皮膚を掻くのを感じながら思案する。
 特段触っていて心地よくは無い男の肌を撫でて、いとおしげにくちびる寄せて、楽しいのだろうか。御幸はそれでなにか気分が良くなるのだろうか。御幸が良いなら、それもいいだろう。今の俺にできることなんて、小指の爪先ほども無い。今までの人生、野球しかなかった俺が野球を失った今存在価値など限りなく薄い。父に言ったらなんと言うだろう。父は口にも行動にも出さなかったが、きっと失望しただろう。幼いころから一番応援してくれていた父を一番手酷く裏切ってしまった。父を裏切った辛さで自暴自棄になった結果後輩へ身体を委ねてしまうのだから、俺はどこで道を踏み間違えてしまったのだろうか。
 俺の自傷に近い行動の補助として、後輩の性欲を利用するという発想がおかしいと判断できない俺が、御幸の判断を批判する権利などどこにもない。などど、同情だとか、御幸が迫るから、と偉そうに捏ね回してはいるが、只俺は御幸がいとおしくて、羨ましくて。そんな御幸の性欲だけでもいいから受け止めたい、それを自分にすら隠したくて雁字搦めになっているのだろう、とも考える。もう何が正しいかはわからないが確かに伝わる体温だけに縋りついていたいとつよく思う。
 些か乱暴に、ベルトとスラックスを取り去っていよいよ、と言うときになって急に恐ろしくなった。生理的な、いままで雄として生きてきた名残が悲鳴をあげているのだろう。明らかに身体が強張った俺を見かねて御幸はいつもの余裕表情くずれを顔に貼り付けて、すみません先輩、やめておきますね、と。
「お前はいつでもいい子だったな」
「そうですか?先輩にはそう見えていました?」
「時々憎たらしかったがな……根はいい子だった」
「いい子は先輩のこと襲ったりしないです」
「そうやって、自分の気持ちをな、自分を責める理由にしてしまうところが可愛い、と思うんだ。そういうところが、まぁまぁ好きなんだと思うからその、あれだ、受け入れてやりたいというか」
「ひぇ」
「なんだその間抜けな声は」
「そりゃあ……憧れてて、好きで、どうにもならないくらい好きな先輩から、そんな熱烈なこと言われてみてくださいよ、誰だって動転しますって」
「ねつれ……忘れろ」
「嫌です、一生忘れません」
「やっぱりいい子じゃない、全然いい子じゃない」
 その先はくちびるを貪られて言葉にならなかった。さきほどのように食らいつくすようなキスではなく、存在をたしかめるような、やさしく緊張をほどいていくような優しいキス。後輩に甘やかされる予感に頭がくらくらする。甘やかす側だったのに、ここでは甘やかされるらしい。舌と舌が、唾液がべちゃべちゃ品の無い音を立てるのをたしなめる余裕もなく、御幸が未だためらいがち触れてくる手を握り返す。手汗でべとべとになった掌をハンカチで拭いてやると、すみません、と耳元で囁かれて居たたまれない。
「そんなに緊張しているのか」
「あっったりまえでしょう、だってその、男同士のセックスって受け入れる側の方がキツいらしいので」
「俺に、そんなに労わる価値が?」
 何故御幸から、気に入らないことを嫌がる子供のような目で見られなければならないのか。お前は俺じゃないだろうに。
「どうしてそんなこと言うんです」
「泣くことか!」
「だって、俺が大事で仕方ない人が!大事じゃないって言うのは嫌です!」
 しゃくりあげる御幸の背をやさしくさするが一向に泣き止まない。親族以外の人間に大事にされるのは悪い気はしない。高校野球を喪った俺でも、誰かの親愛を勝ち取れるのだと思える。俺の胸に抱かれている間もじっとしている御幸ではない。シャツのボタンが外されていくのがわからないとでも思ったのか。素肌に御幸の頬が触れるのが只々照れ臭い。
「大切で、好きで、どうしようもないんです。わかりますか?先輩」
「わかった、ありがとう。でもな男の乳首を舐める理由は一切理解できない」
「頭で考えないでいいと思います」
 口ではそう強がって言っているものの、いまだ経験したことが無い感覚に背筋がざわりと粟立つ。御幸の舌がなぞり、捏ね、押しつぶす度に手に力がこもってしまう。からかうでもなく只俺を高めようとする御幸は未だ着衣のままだ。
「……せんぱい、あの」
「何か」
「いえ」
 ひとつ取れかけたボタンがある。後で縫い付けてやらないとならないと考えながら、御幸のシャツのボタンを外す。情緒などない。只俺ばっかりやられているのはと思っただけのこと。涙の跡が残る頬にキスをしてやると、目を見開いている。
「なんだ、間抜けな顔して」
「キス、嬉しくて」
「そうか?よかった」
 初めて触れる、血のつながりのない人間のあたたかな身体とにおいに脳の芯がぐらぐらゆれるほどの幸福感。夢中でしがみ付く。年上なのに、男なのに恥ずかしいみっともないなどど考える余裕は無い。ただ目の前の温みを手放したくない一心で縋る。
「あったかいですね」
「だな」
 このまま眠りたいと思ったが許されない。御幸が呪力に逆らわず、ずりおちるように床に膝をつき、股間にくちびるを寄せられ悲鳴をあげそうになる。
「何をやってるんだ御幸」
「だって、あの、クリス先輩がきもちよさそうな顔が見たくて」
「だからってそんなところは舐めなくても良い」
「ほんなほほあひまへん」
 御幸の、何かを口に含んだとき出る声と、声を出すときに発生する震えに思わず膝を閉じそうになったが、御幸に開かされる。恥ずかしさに拳を握るが御幸はお構いなしに、わざと音を立てて舌を這わせる。自分だったらたとえ好きな相手にでも、抵抗してしまいそうなことを御幸は軽々やってのけるのか。嫌に感覚が鋭敏になってしまいどこに舌が当てられているのかよくわかってしまう。やめろと言ってもくちびるを離さずに嫌ですと返すものだから堪らない。
「御幸、変なところ舐めるなッ」
「やーです、ここきもちいいですか?ありのとわたり、って言うらしいです」
「そんなこと聞いてない」
「えー」
 御幸ばかり余裕を崩さないのはとても気に食わない。が、反撃の気力がない。初めて他人から与えられる快感がここまで好いとは思いもしなかった。自分で処理するのとは違う、自分でコントロールできない感覚に只翻弄されるがままになってしまう。御幸が擦るタイミングで声が漏れてしまわないよう、シャツを噛みしめるがあえなく取り上げられてしまった。
 舐めたあとキスするとき、わざわざマウスウォッシュをするのはどうなのだろう。大事にされていると考えて良いのだろうか。わざとらしいミント香料が鼻をつき、舌がぴり、と痺れる。狂気すら滲むやさしさにどう反応していいかわからなくなる。御幸は恍惚、いう言葉が近い表情のままくちびるを貪っている。文字通り食らいつくされそうになる。そのまま御幸の糧になって、青道の役に立ちたいといったらまた、自分を大事ににしてくださいと怒られてしまうだろうから黙っておく。
 
 いざ、そこに、ローションで潤滑をつけているとはいえ指を入れるとなると背筋が寒くなる。しかしそこでしか繋がれない。愛情表現のひとつであるセックスその手段の一つだと割り切るにはまだ経験が浅い。精神的にも、肉体的にも逃げ場がない。だからこそ、自分に言い訳ができてよかったのかもしれない。御幸を受け入れるには仕方のないことだったと自分に言い聞かせることができる。
 
「怖いですか」
 さきほどまでも興奮しきった獣のような瞳は影をひそめ、やさしく理性的に触れてくる。そんなに柔らかくもなければひ弱でもないのだが。
「そりゃあな、でも今更止めるなんて言うなよ」
「はい、俺のせいにしてください。痛いのも怖いのも全部」
「それは、なんだか違う気がする」
 自分でもよくわからない疑問が浮かんで中断する。しかし、超えないとあとあと禍根を残しそうな気がした。
「そうですか……?俺が勝手に好きになって、セックスしたがってるのに」
「違う、違うんだ御幸」
「あっでも爪はちゃんと切りました」
「なんて言うべきかわからん」
「難しいですね」
 先輩にもわからないことがあるんですね、と宣う。俺をなんだと思っているんだ。年上と言っても一年早く生まれただけなのに。その間も遠慮は無いが、身体中にキスをくれる。
「好きになったのは確かにお前だろうが、その、大事にされるのが嬉しくてもっと欲しいと思ったのは確かな、バカやめろその顔」
「だ、だって、嬉しくて死んじゃいそうです」
「お前もそんな、緩みきった顔するんだな」
「先輩は、俺がどれだけ先輩のこと好きで、あこがれていたかわかってない」
「そりゃ、わからん。俺は御幸じゃないから」
「そうですけれど」
 困った顔が愛らしくて、額にキスをする。背中に回された御幸の腕に力がこもる。二、三度キスをすると、頬を緩めて腰に抱き着いてくる。
「生え際に吹き出物あるぞ、痛そうだな……」
「思われニキビです」
「まぁ……そういうことにしてやらなくもない」
「やった」
 嬉しそうに吹き出物をいじる御幸に、触るとよくないぞと言うと素直にやめる。あの他人とは一線を画す雰囲気は錯覚だったのか、と思わせるほど素直に、ぎこちなくとも素直に甘えてくる。いつもの態度を知っているからこと面食らうと同時に、仄暗い優越感がにじむ。俺だけが御幸を知っているような幼い優越感。
「だから、その、俺はお前だけのせいにしたくないんだよ」
「それは、俺も先輩に大事にされてるって判断していいですか」
「…………まぁ、うん、いいだろう」
「なんですか今の間」
 軽快に笑いながらも触れる手はどこか性のかおりを伴っている。耳にかかる吐息の間隔が短い。御幸の興奮を視覚以外から知ることになろうとは。ふたたびローションで指を湿らせ、大事にしたいと言った割には思い切り突っ込まれて息が詰まる。腹を内側から圧され、内臓を押し上げられる感覚。指一本とはいえ激しい異物感に加えて、最終的に挿入されるであろうモノの質量を想像して更に胃がかき回されるような感覚。額に浮いた脂汗はいい香りがするハンカチに拭われた。耐えるためにきつく閉じた瞼を開けると悲痛なほど心配そうな顔をした御幸がくちびるを噛みしめている。情けない顔だ、とからかう口調でも声が震えてしまう。他人の痛ましい表情を心配する以上に、ひどい異物感とこじあけられる痛みで、喉の奥には悲鳴が溜まっている。
 
 急に異物感から解放されて御幸を見遣ると、指に着けていたらしいコンドームを持参のゴミ袋へ捨てていた。あまりに痛がるから飽きられたのかと思う間もなく、頬に生ぬるいくちびるが押し当てられた。
「徐々に開発することにしました」
 思わず大きく息をついてしまった。飽きられていないことを確認し、今日のところはこの未知の痛みからは解放された。ここまで恐怖を煽る種類の痛みだとは思いもしなかった。御幸がいたわるように頬や首や額にキスをしてくる。そんなにキツそうだっただろうか?
「大丈夫ですか」
「いや、平気じゃない」
「……すみません、もう」
「これきりにする、と言おうとしているなら見当違いだからな」
「えっ?」
「嫌だったら、御幸を殴りつけてでも逃げてるさ」
「そ、そうですか?」
「そういうことをわざわざ言わないとわからないか」
「わかりません、だって俺先輩が言うようにいい子じゃないんで」
 全く可愛くない。先輩耳真赤ですよ、耳元で囁くのも、胸の奥を絞られる感覚をゆるりと指先でやさしくほどかれているのも気に入らない。
「だから俺にもわかるように、ちゃんと、好きって言ってほしいです。俺だって怖いんですから」
 生意気言ったかと思えば、悲しげに懇願してくる変わり身で、結局俺が折れてしまう。
「ところで、その股間のモノどうするつもりだ」
「えっ、と」
 うまく御幸の気を逸らせたかと思えば、一緒に擦りたいです、などと宣う。こちらの返事は聞いていないらしく、お互いの収まりがつかないモノを柔く握って擦る。只々、御幸の肌すべて熱いことだけがわかる。舌を貪られていて首を動かせなものだから状況が理解できない。ツン、と生臭さが鼻をつく。唾液のにおいでなければほかの液だろう。急に恥ずかしさがよみがえってくる。俺は今、後輩に対して性的に興奮しているということを突きつけられた。
「うっわ、すげぇ」
 うるさい、とそれだけ言うだけでも必死に絞り出さないと出てこない。そういうことは言わないでほしいとも言いきれないほど、自分で処理するときとは桁違いの波がやってくる。御幸の舌と、掌と、押し付けられているペニスの熱さで頭がおかしくなりそうだ。同級生から押し付けられたいかがわしいDVDの、あたまがおかしくなりそう、などどいう言葉はあながちウソではないのかもしれない。
 背徳感と、性欲と、庇護欲と、その他知らなかった幸せな感覚で脳味噌が焼き切れそうになる。只御幸、御幸と喉がほころぶように出てきた言葉だけを発している今、脳味噌が正常に作動しているとは思えない。
「クリス、先輩」
 やっと御幸のことを考える余裕が出来てきた。御幸も情けない顔を、暗闇でもわかるほど赤くしている。頬を両手で挟んでやるとなぜかペニスを膨らませているのだから始末におえない。何に興奮する要素があったのか。お互い様だが。
 俺は俺で後輩のペニスと掌その他もろもろに興奮して絶頂を迎えそうになって居るのだから自己嫌悪すら感じる。それを振り払うほど御幸が、いとおしくて堪らない。一瞬息が詰まり、どちらのものかわからない精液のあつさと反比例するように脳味噌は現実に引き戻されていく。
 御幸は一度射精しても冷めないタイプなのか熱烈なキスを欠かさず、俺の身体から先に拭き清めてくれる。匂いが残らないように制汗シートで拭きとってくれるのだから、どれだけ準備したのやら。
 自分も十分拭き清め、ミーティング後ですよと言い張れるように整えてから御幸が遠慮がちに言った。
「で、クリス先輩」
「何か?」
「その冷たい目最高ですね……じゃなくて、あの、わざわざ言わないとわからないのかの続きで」
「蒸し返すつもりか?」
「その目素敵すぎてまたチンコ勃ちそうです、じゃなくて、本気です」
「これだけ許してもまだ言葉にしないとダメなのか」
「そんなに恥ずかしいですか?」
「恥ずかしいというより……怖いというか」
 本音を思わず零してしまったのが間違いだったか。視界の端で御幸が眉をしかめたのを捉えた。
「怖い?」
「言いたくない」
「言ってください」
「嫌だ」
 聞き分けの悪い子供のようにかたくなに拒否するが、御幸が不安げな目で見てくるものだから絆されてしまう。
「最初は御幸があまりに必死だったから付き合ってやろう、程度の気持ちだった」
 御幸の喉の奥の空気がひぅと音を立てたかと思うとみるみる顔が青ざめてゆく。
「でもな、何故か、今は俺が溺れている。これから俺なんかに構っている余裕はないだろう、頭ではわかっているが」
 はなれたくない、と言おうとしたところでくちびるを塞がれた。ここまで温かで、幸せな感情を教えてくれてありがとう、とは絶対に言わない。
「先輩がっ、もう嫌だって言うまでっ、ずっと大好きですっ」
 なぜ御幸が涙声になるのか。
「わかったよ、ありがとう、俺も」
「も、もう一声」
 鼻水すすり上げながらきつく抱きしめられたら逃げようがない。そうだ、そうに違いない。
「す、すき」
 だ、という前にくちびるを奪われる。さっきから最後まで言わせてくれない。理性的な後輩だと思っていたのだがこれはいかに。何か棒状のものが股間に押し当てられる。
「御幸……」
「えへ、もう一回しませんか」
「えへじゃない……」
 拒絶をしないことを前向きに肯定ととった御幸にふたたび着衣を剥ぎ取られる。月明かりが御幸の涙の跡が残る頬をやさしく照らしている。
 
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2014年9月28日発行の本の再録

見送る季節  #ダイヤの #カップリング #御クリ

見送る季節  #ダイヤの #カップリング #御クリ

 
 冬が去っていく。
 洗顔のとき、水の温度がすこしだけ温むようになり、早朝にグラウンドに出ても霜が降りていることもなくなってきた。俺は先輩たちの進路を小耳にはさむようになってから、季節が去ってゆくと同時に、先輩たちも去っていくことが頭の隅を占めるようになった。
 人間関係での未熟を、技術の未熟を忘れさせてくれる強烈な憧れにあてられてから早いものでもう、五年になる。憧れを追いかけていたら、憧れていた人がもっていたものは、そのひとと実力を争ったわけでもないのに、俺の手の中へ転がり込んできた。そこに自分の努力がなかったとは言わない。それこそ血がにじむような努力をしてきた。が、全盛期の輝きを追い続けてきた俺には、寂しさに似た苦さが残った。
 
 五年の間に、俺からクリス先輩への感情は、憧れ以外のものも盛り込んで肥大し、今に至る。恋、恋とはどんなものだろうか。もしかしたらあの日クリス先輩に負かされてから、俺はずっとクリス先輩に恋をしていたのかもしれない。それほど強い気持ちでクリス先輩を求めてきた。
 技術的な面ももちろん、人間としても完璧なようでいてどこか脆い、そんな陰のある強さを同じ場所で見ることが叶わなくなるかと思っただけで、生まれた年度がつくづく恨めしい。さっきからぱらぱらとめくっているスコアブックの内容が全く頭に入ってこない。クリス先輩が肩を壊す前の練習試合。東さんの一個上の代のピッチャーへ、クリス先輩がしたリードの内容が記してある。
 
「随分懐かしいものを」
 本人の登場で思い切り驚いてしまった。対等な存在でありたいと、俗っぽい言い方をすれば、かっこいいところを見せたいと願えば願うほど、理想の対応からかけ離れてしまう。
「居るなら居るって言ってくれればいいじゃないですか」
「熱心に見ていたから、邪魔するのも悪いかと思って」
「これ、先輩がやったリードなんだからいろいろ教えてくださいよ」
 
 無意識ににじみでた、苦しげな笑みを見逃さなかった。
 俺が思っているほど強い人ではないのにいつもクリス先輩を等身大以上に見積もってしまいたくなる。
 大人びているようでいて、ほんのすこし身の回りのひとたちより達観せざるを得なかっただけだ。
「このときは、まだ怪我していないころだな」
「俺が先輩にあこがれて青道へ進学決めたころの試合なんで、俺にとっても思い出深いんです」
「そうか……」
 そういったきり黙りきってしまった先輩の表情を伺えない。もうすぐ卒業なのさみしいので、思い出話がしたいんですと素直に言ってしまえばよかったのに、真意を悟られたくなかったがために、クリス先輩の帰らない思い出を掘り返す必要はなかったのかもしれない。
「俺の怪我がなかったら、正捕手争いを宮内と、俺とお前と小野とでしていたんんだろうな」
「それはもう、きっと」
 
 先輩が自分の怪我に関して、もし、を言うのは珍しい。それを仲間に、特に同年代に吐き出したところで雰囲気を悪くするのが目に見えているからだろう。それに、哲さんや丹波さんは、俺が気づいていればと自分に原因を見つけようとするタイプだからなおさら言いにくいのだろう。
 自分を意識的に選んでそういう話を振ったのかはわからないが、心の距離が、以前より縮んでいることを先輩が感じていたのだとしたら、と都合の良い解釈をする。
 
「先輩が卒業したら、追いかける人がいなくなってしまって」
 さびしいです、と続けるつもりだったが、卒業、ここからいなくなって別の場所で生活する、と頭によぎっただけで鼻の奥がツンと痛んでしまう。そんなに涙もろい性質ではないのに。
「お前が追いかけてきたのは俺だったのか?」
「え?」
 俺にとっては何をいまさら、と言いたいところだか憧れていたのは俺の勝手な行動ともいえる。
「お前は甲子園のことしか追いかけていないかとおもっていた」
「それは、そうですけど」
 どう違うかと問われると答えに詰まるが、甲子園というものは野球で頂点を目指すものにとっての目指すべき偶像であって、クリス先輩は、人間関係も、だれにも言うつもりは無いがすこしだけ寂しかった家庭でのことも全てつぶしてしまうくらい強い光だった。野球にだけ打ち込んでいていいんだ、と思わせてくれた。
「うまく言えないですけど、もっと先輩はとくべつです」
 言ってからなんて恥ずかしいことを言ったのか理解した。先輩も驚いて苦笑しているし。特別、という言葉で飾れないほど、それでも崇拝と呼ぶにはキレイな感情では塗れない。クリス先輩の前では、自分が一番わからない気持ちでいっぱいになる。
 
「そんなにか?」
「そんなにです」
「お前に俺が、なにか残せたってことかな」
「そんな、遠くへ行っちゃうみたいなこと言わないでくださいよ」
「そうだな」
 口先だけ、遠くに行かないように言ってはみるが、実際、俺は明日も明後日も、野球というスポーツがある限り練習漬けの毎日で、先輩には進学先での野球があって。同じ世界で生きているようでいて、違う道を歩き出すことは痛いほどわかっている。
 野球で繋がった縁が、野球によって緩んでいくような気がして、焦りを生んでいるんだろう。
「俺は」
「なんだ?」
 
 俺がどんな目で先輩を見ているか知る由もない先輩が、後輩がなにか言いよどんでいるのを心配して顔を覗き込んでくる。それだけの行動なのに、衝動的に、いままで我慢に我慢を重ねて築き上げてきた関係を壊してでも、手に入れたい、と頭によぎった。
「……先輩、卒業しても試合とか練習見に来てくださいね」
「ああ、行くつもりだ」
 誰かに想いを伝えるということは自分の弱みをさらけだすことだと、実感した。泣いて縋って好きです寂しいですと言えたらどんなに俺の精神が救われるだろうか。
 
 ◆
 
 号泣すると思っていた奴らが意外と泣いていなかったので、一層泣きづらくなった。笑顔で見送りたい、心配要りません、甲子園で頑張ってきますと言って、安心して去ってほしかった。
 と、思っていながらどうにもこらえきれそうにない。
 
「御幸」
 声を聴いただけで涙腺がゆるむ。あこがれて、でも届かないうちに手からこぼれ落ちていった先輩が、また、手の届かないところへ行ってしまう。
「先輩、ご卒業おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう、お前、怪我ちゃんと治せよ」
 俺を見てきたんだろう、なら、わかるよな。と他の先輩に聞こえないように。
「はい」
「うん、いい返事だ」
 沢村にするように、一人の後輩の面倒を見る先輩として去ろうとしている。
 
「先輩」
「なんだ?」
「俺、先輩がもう一度野球しているところ、見たいです」
「見ているだけでいいのか?」
 いたずらっぽく笑って、俺の髪についた桜の花びらをつまんでいる。花笛がしたいのか、指先でつまんで引っ張って、息を吹きかけて。
「……随分汚い音がでましたね」
「そうだな」
 至極残念そうに花びらを捨てて、向き直る。捨ててしまったのがもったいなく思えて、つい目が花びらを追ってしまった。
 
「御幸が怪我したって聞いて」
 思わず身が竦んだ。一番言われたくないことを、一番言われたくない人に言われてしまった。
「御幸は俺から何を学んだんだ、って。腹立たしいくらい心配だったよ。柄じゃなく、説教までしてしまったくらいには」
「……すみません」
「いや、謝ることはない。現に俺が御幸の状況だったら迷わず試合に出るからな」
 どこか本題をぼかしているような印象を受ける。いやに饒舌なのが怪しい。
 
「先輩、どうかしましたか」
「お前だけは誤魔化せそうにないな」
 
 お前だけは、その言葉がどれだけ俺をよろこばせるか、先輩は絶対に知らない。
「お前は俺を高く評価してくれていたが、なにか、後輩に残せたのか、と思って」
 らしくない弱気な声で、怪我をしてぼろぼろだったときの声で囁く。
 青道高校野球部という組織のなかで、選手としての道を選んだことで浮いた存在になってしまったクリス先輩に、どこがすごいんだ、と心ない言葉をつぶやく奴がいなかったわけではない。
 そのたびにそいつを軽蔑してきたが、先輩はそうもいかなかったのだろう。クリス先輩が心から信頼していた組織からの言葉は、確実に先輩のなかに溜まっていったのだろう。
 
「俺は、ずっと先輩のこと見てきましたから。怪我する前の、誰もよせつけないくらい守ってもよし、打ってもよし、のときも、選手としては難しいって言われてから、それでも選手としての自分を諦めなかったときとか……後輩って、口でどうこう言うより、その人の背中を見て育っているもんだと思います。っていうか、俺はそうです」
 思わず熱弁してしまった。反応が怖くて目を逸らした。純さんがボロボロ泣きながら読んでる、と茶化されながらも読んでいた漫画なんかよりずっとクサい。
 
「御幸が、誰かについてそんなに語るなんて、はじめて聞いたかもしれない」
 無邪気に喜んで、表情をほころばせる先輩。誰にでもそうするわけじゃないんですよ、とまで言わないと、自分の気持ちを表したことにならないらしい。
「先輩という目標に、憧れていたから俺は強くなれたんです」
「俺は、御幸を通して青道に貢献できたってことかな」
「俺だけじゃない、後輩キャッチャー、小野も、狩場も、先輩を見て育ちましたし、これから入ってくるキャッチャーも、俺らのなかにある先輩を見て育ちます。それに、ピッチャー陣も」
 俺が言葉を選ぶ余裕がないのを、笑い飛ばすわけでもなく、俺の言葉を待っていてくれる。
 
「買いかぶり過ぎじゃないか?」
「絶対に違います」
「わかったから、そんなにむきになるな」
 喉の奥で笑って、俺の肩を叩く。偶然にも、先輩が怪我したのと同じ肩。
 
「でも、ありがとう御幸。俺はお前の先輩でよかった」
「先輩、ってだけじゃない、こんどは、ライバルとして」
 
 一瞬、驚いたように目を見開いて、まるで余裕たっぷりの、悪い大人のような顔をして笑って、それは、たのしみだなと返してくれた。さっきの言葉には、先輩後輩としてだけじゃなく、もっと近くて、特別な関係にと思っているのだけど、今、言うべきだろうか。先輩の記念日に、後輩から好きだと言われて戸惑わないはずがないし、いやな気持にさせたら、と悪い方へ悪い方へ考えてしまう。
 
「御幸、なんて顔しているんだ、できれば笑顔で送って」
「できません」
「え?」
 まさか否定されるとは思っていなかったらしく、唖然、を表に出してきた。
「……ハンカチ要るか?」
「持ってます」
 最悪のタイミングで涙を堪えきれなくなってしまった。こんなはずじゃなかった。笑顔で、先輩、お元気で、って言ってこっそり想っている予定だった。
「イケメン捕手、が台無しだな」
「なんですかそれ」
「クラスの子が言っていた」
 恥ずかしいやら居たたまれないやらで、穴があったら入りたい、ここから逃げたいと強く思った。先輩がうれしそうに、御幸が泣いてくれるほどだとは思っていなかった、だとか言いながら桜の花びらを捕まえようとしていて、泣き顔を見ないでおいてくれているのが唯一の救いだ。
「顔はどうあれ、秋大会のときの御幸はかっこよかったぞ」
「え……?」
「チームの柱として、しっかりやっているじゃないか、って」
 また涙があふれてきてしまった。認められたくて、憧れてきた存在に褒められた嬉しさと同時に、遠いところに行ってしまうのだと実感してしまった。
「でも、ごめんなさい」
「どこに謝る必要が……?」
「買いかぶっているのは先輩のほうです」
「珍しいな、御幸が謙遜なんて」
「俺、先輩がほかのチームメイトとかを想う好きとは、また違う意味で、」
 
 ◆
 
 ぐすぐすと鼻をすする音がどこからともなく聞こえてくる教室から、写真を撮ろう、ボタンを、という声からなんとか潜り抜けてグラウンドへ向かう。もうみんな揃っていて、後輩に囲まれている。
 純が気づいて、ボタンがすべて無くなったブレザーをつまんで笑う。
「やっぱり、毟られてやがんな。ボタン」
「そういうお前も、第二ボタンが」
「まぁなーーー!俺の雄姿を見逃さなかったってわけだ」
「そうだな」
 ストレートに褒められると照れてしまうようで、理不尽に小突かれてよろめいた。
「クリスも野球、続けるんだよな」
「ああ」
 人懐っこい笑みをうかべて、またクリスが野球しているとこ見てぇな、としみじみ言われてしまったら、いよいよ卒業なんだと今更実感する。
 
「食堂に置いてあるスコアブック、取ってくる」
「おー、このあとメシ食いに行くって」
「わかった、すぐ行く」
「ん」
 証書が入っている丸筒でチャンバラをはじめた純の後頭部を亮介がたたく。いつもの光景を懐かしむ日がいつかやってくる、進行している時はいつも気づかない。
 
 御幸に、よくできた後輩でありながら、強く俺を慕ってくれた選手と話しておきたい、と思っていたら一人食堂でスコアブックをめくっていた。
「随分懐かしいものを……」
 泣きながら見るようなものでもないのに、なぜか目じりが潤んでいる。先輩から泣いていることを指摘されるのも気分悪くなるだろうから黙っている。
 
 甲子園出場という球児たちの夢をかなえて、これから上へ上へと勝ち上がって行くことを目標にする御幸から、何か悩んでいるというか言いよどんでいるような印象を受ける。いまだ知らない舞台へと歩んでいく不安があるのだろうか。
 
 と、思ったらあまりに予想外のことでどういうべきか、考えが追い付かない。
「す、好き……?それは、選手としてのあこがれ、とかそういうものとは違う……のか?」
「ごめんなさい、いま言うべきじゃないかもしれないとは思ったんですけれど、違います」
 いままでの常識の外側のできごとだが、不思議と嫌悪感は湧かなかった。むしろ信頼している後輩からの一番の好意が心地よかった。ライバルとして高めあいながらも近しい関係で居られる提案が後輩の精一杯の勇気が新しい道を示してくれた。
「耳まで赤い」
「泣いていましたから」
 口をとがらせて目を逸らしてしまった御幸に向き直り、先輩後輩でありライバルであり、いちばん近いところで生きていきたい旨をうまくまとめて伝える。
 目を見開いたままもう一筋涙を頬につたわせた御幸が可愛くて仕方がなくて。傍でずっと見守りたいのと同時によきライバルでありたくて。これを恋と呼ばないのならば、なにを恋と呼ぶのだろう。


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2015年春コミの再録

Love you #ダイヤの #カップリング #御クリ

Love you #ダイヤの #カップリング #御クリ
 ◇Love you
「哲さん、ずいぶんノックが上手くなりましたね」
「だな」
 今の青道の監督は哲さんになった。俺たちを指導してくれた片岡鉄心監督は他校で教鞭をとりつつ監督業に精を出している。同じ地区で、師弟対決。他所から見れば面白いカードなのかもしれないが、見守る側は気が気でない。哲さんが監督に就任してすぐの数試合は、あまりにノックが上手くいかないものだから途中からコーチとして手伝っている増子さんに代わっていたが、今は現役時代を彷彿とさせるの好打者っぷりを披露している。師の前でみっともないところは見せられない。そんな気概が見て取れる。
 現役選手だったころの血が騒ぐ。この歓声、ボールがミットに収まる乾いた音、パットが球を弾く音。土の匂い。かつての先輩と、監督たちが手塩にかけて育てた選手たちがしのぎを削り合うこの空間、目の色を変えて見入ってしまう。
 俺たちを指導しているころ、片岡監督は監督としては年若い部類だった。それが今となってはメディアに老将、と実に失礼なラベルを付けて呼ばれている。俺たちがもういい年なのだから、当たり前と言えば当たり前だが、こんなところでも年月の流れを感じてしまう。ふと目線を落とした先にあったクリス先輩の手の甲にも、シミや皺が目立つようになった。その過程を目の前で見届けることができているのだから、幸福と思うべきだろうか。年月の流れは必ずしも悔いばかりを生んでいるわけではない。愛する人の人生を傍で見守り続ける幸せもきっとある。
「どうした、目がうつろだぞ、熱中症か」
「大丈夫です」
 クリス先輩お手製の味の薄いスポーツドリンクを差し出されるままに口をつけて、球場のすり鉢の底で、かつての俺たちと同じように駆け回る選手たちを見遣る。遠いところに来てしまった、いや、ながれゆく時と共に行かざるを得なかった。たとえどんな結果を出していようと、過去は美しく、俺たちにとっての過去を現在として生きる選手たちが羨ましい。現役のころは考えることもなかったことだ。
 けれどそれが、嫌な気持ちはしない。失うことばかりではなかったから。
 青道の選手が決勝点となるであろうヒットを打ち、ガッツポーズをしてベンチに戻る。哲さんは何やら声をかけている。
「これで決まりましたかね」
「御幸がそんなことを言うとな……最後まで何があるかわからないのが野球だろう」
「そうでしたね」
 その先輩の言葉通り、その回ですぐ塁に走者が溜まってゆく。一打逆転、サヨナラのチャンスと言うところで出てきた青年。緊張でか、表情が固いがスイングに迷いはない。この状況を楽しめる強さがあるということだろうか。
 
 何度見ても、この光景に慣れない。
 青道はすんでのところで夢を断たれ、対する片岡監督のチームは地区代表として甲子園の土を踏むことができる。選手たちと一緒に涙を流す哲さんがあの日バスの中の哲さんとダブってしまう。こうして彼らの季節は一足早く進んでしまった。
 
 哲さんと、増子さん。そして片岡監督に挨拶をして帰路につく。先輩はずっと押し黙ったままだ。毎年このまま、外食をしてから帰宅が慣習になっているので、クリス先輩もそのつもりなのだろう。行きつけの洋食店への道を辿っている。
「すごかったな、試合」
 セットのデザート、チョコアイスを大事に大事に食べながら、先輩はやっと試合について言及した。
「ええ、本当に、やっぱりなんだか、高校野球は特別ですね、何か力がある」
「そうだな、この歳になってもうまく言葉にできないが、その通りだ」
 それっきり先輩は黙ってちびちびアイスを削る作業に戻った。黙っているときは話しかけても考えている途中だから生返事だけが返ってきて大して覚えていない。共に生きた十九年の歳月は伊達じゃない。
 
「御幸と出会ってからのことを思い出してたんだ」
「なんだか照れるなぁ」
「それがなぁ、まさかなぁ」
「こんなにスキになっちゃった?ですか?」
「まぁ……そう、うん、そうだな」
 いつもははいはい、といったふうに流されるのに、今日は素直に返事をしてくれた。少し驚いて少しだけ表情を見遣った。どこか寂しそうな、大好きな野球の試合を見に行ったあとの表情にしては曇っている、というか。
「この歳になっても、自分の感情に蹴りがつかないものなんだなぁ、と思って」
「え?」
 実はキライだった、なんて言われるはずがないけれど話の脈を辿ると背筋が寒くなる。
「高校野球に、悔いを残していないかと言うと、素直に肯定できない、が、嫌な思い出では決してない……難しいな」
「そうですね……」
 昼間の熱気が嘘のようだ。さや、と風の音が先輩と俺の間を通り過ぎてゆく。俺だってこんなとき、先輩が悩んでいるときに気の利いた一言も言えないのがもどかしくて、先輩の指をひとさしゆびで絡めとる。
「どうした、手でもつなぐか?」
「違うけど、違くないです繋ぎます」
 棚からぼたもち。
 少しだけ汗ばんだ先輩の指を自分の指でなぞる。現役時代のときよりはずいぶん大人しくなったけれど、それでも、グリップを握っている人の指をしている。大好きな人と、想いが通じてこうして長い間一緒に生きることができて。幸せ、という言葉に形がなくてよかった。
「べつに、無理に肯定する必要はないと思いますよ」
「冴えてるな」
「でしょう」
 この歳になっても、この人に褒められるのは無条件で嬉しい。頬が必要以上ゆるんでしまい、軽くつねってくる。
「この歳になっても、自分の気持ちが一番わからないな」
 美しい、という形容詞がぴったりはまるクリス先輩は、悩んでいてもその顔の造形の質を落とすことはない。忙しなく俺の指の爪やら関節やらをいじる先輩は、暑いだろうに、しっかり手を握って離さない。
「御幸と一緒に居るのは、心地いい」
「そりゃあ、よかったです」
「御幸はどうなんだ?」
「そりぁあ、もう、毎日先輩に付けたキスマーク数えながら目覚める朝は最高ですよ」
「……言うようになったな」
 ふて腐れたように目を逸らしても手は離さない。
「人生は有限ですから、少しだけ素直になろうかな、と思って」
「良いんだか悪いんだか」
 そんな軽口をたたき合って、自宅への河川敷を並んで歩く。高校生のときの俺が知ったらなんて言うだろう。
「あ」
「どうした」
「明日のパンがない」
「買いに行こう、ついでにアイスでも」
「まぁ、たまにはいいんじゃないですか」
 目に見えて嬉しそうになって、歩調が速くなる。いとおしさと、大事にしたい、大好きと。胸にじわりとあたたかなものが滲んで身体を満たしてゆく。好きに理由を求めたときもあった。悩んで悩んで、もうやめたほうがいいのかもしれないなんて考えたときもあった。けれど好きであることを誤魔化さず、貫く強さを持つことができて本当によかった。当時のその強さが今の幸せを形作っているかと思うと、よくやった、辛かったろうが今はそれが吹っ飛ぶくらい、胸を張って言える。幸せだと。
 
 閉店間際のスーパーで、クリス先輩に食パンと、牛乳を買います、と伝えた。なぜか本当にいろいろなものを入れてくる。
「なんですかこれ」
「さくさくくまちゃんだ、美味しいぞ」
「……アイスとどっちにするんですか」
「両方だ」
 こんなときばっかり気合い入れてカッコいい顔して俺の顔覗き込んでくる。一度くらいこの人の煙に巻かれないでいたいのだけれど、それはきっと向こう十年は無理だろう。


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C93の本の再録

桃の季節 #ダイヤの #カップリング #御クリ

桃の季節 #ダイヤの #カップリング #御クリ
 
「今日の果物は桃です」
「桃」
 ふわふわの産毛を撫でさする先から、皮へ実へ指が沈んでいきそうな柔らかさがありながら、独特の繊維質は残っている。一番おいしい季節だ。先輩はというと保護用の白いネットを伸ばして縮めてご満悦だ。
「桃、部活のときに皮切らなくていいから缶詰が人気だったよな」
「ですね、指怪我なんかしたら大変でしたし」
 ぬめりを帯びた実と皮の間に果物ナイフを滑り込ませて、種をよけて実を切り出し、小さいフォークを二つ添えて出す。
「御幸、種の回りの実がたべたい」
「はい、どうぞ」
 唇を半開きにしているということは、食べさせてくれということなのだろうけれど、これだけ長く一緒にいても恋人らしいことには何故かまだまだ照れがある。おそるおそる先輩の唇の先に種の端を乗せて、ゆっくり口内へ押し込むと、生ぬるい舌先が指先を掠めた。
 若いころもそりゃあ素敵で、もう死語になってしまっているのだろうけれど、メロメロだ。けれど今歳を追うことに危険な色気を纏ってきているような気がする。
「先輩、その顔俺以外に見せちゃだめですよ」
「はいはい」
 この人には一生敵わない。それを高校の時に悟ってから数十年。高校時代の俺は実に聡かった。現に、今もまだ追いかけ続けている。
「御幸は食べないのか?」
「食べます」
「食べさせてやろうか?」
 そうやってまた俺を虜にして止まない笑みを浮かべるのだ。敵うはずがない。
「お願いします」
「素直でよろしい」
 冷たい金属が舌をなぞり、さきほどの先輩の舌の熱さが指の先で再び触ったような錯覚を起こした。先輩にそんな劣情を悟られたくなくて桃をひとくち。繊維質と果汁が喉を潤す。またこの季節がやってきた。野球をするもの誰もが憧れる舞台を目指す戦い。今では空調の効いた部屋で見る物になってきてはいるが、必ず青道の試合は、球場へ足を運んでいる。あの熱気は、いまでも俺らを惹きつけてやまない。桃の季節は、俺らがあの頃へ帰る季節。
「久しぶりに、キャッチボールでもするか」
「いいですね」
「よし、着替えてこよう」
 皿を洗うのは先輩の仕事。実に手際よく洗い物を済ませることが出来ようになってきた。

父の背中 #ダイヤの #カップリング #御クリ

父の背中 #ダイヤの #カップリング #御クリ
 
「先輩、お盆どうします?」
「そうだな……御袋のところに顔出すつもりだ。親父の墓参りに行こうと誘われているんだだ」
「そうですか、十五日ですか?」
「ああ」
「じゃあ、他の日はご飯いりますね」
 
 クローゼットから懸命に喪服を探すクリス先輩の朽葉色の髪に、白いものが目立つようになってきた。それほどに、俺たちは長いときを過ごした。単なる先輩と後輩から、同性パートナー、と名の付く関係になってからは、十九年。俺がクリス先輩と出会ったのが中学、十三か十四だから、途方もなく長いように感じる。
 始めから順風満帆というわけではなく、どんなに好きあっててもひとつの個人と個人の生活なのだからいろいろとやり合った。例えば一緒に寝ていても、クリス先輩は暑がりだから冷房の設定温度は二十五度が良い、俺は二十七度が良いと良い大人が二度のためにいってきますのキスをしなかったことがあったり。挙げはじめたらきりがない。その結果として一つの家族の形として、上手くやっていると思う。
 高校生の頃は、こうして優しく頬を撫でるだなんて夢のまた夢だった。夢みたいだ、と今でも思うことはある。けれどこうして優しく微笑み返されて、どうしたんだ御幸、と頬にキスが一つ落とされた感触は、香りは現実だ。
 五十代も後半になり、クリス先輩が存在しないかった時間より、存在する時間の方が増えているという事実が堪らなく、幸福という他に言葉が見つからない。
 かけがえない人と過ごす時間は、今も、昔も輝いている。
 
 久しぶりに、父に会ってみようかと思い立った。男性とパートナーになる、と報告し、すこし驚いてから、そうかとだけ言ったのを最後になんとなく顔を合わせづらくて会っていない。もとから口数の少ない父は、歳をとるごとに更に必要以上に話さなくなった。今更顔を合わせたところで、何を離せばいいかわからないが肉親に会いたいという気持ちに格段理由をつける理由もないだろう。
「もしもし」
「一也か」
「そうだよ」
 親というものはこれだけ長い間会っていなくても、歳をとっていても、息子の声を聞いただけで分かるものらしい。
「ちょっと、お盆のときにでも会えたらなって思って」
「ああ、いいぞ」
 意外とあっさりと会う約束ができてしまった。あれだけ抵抗感があった、ヘテロとして生きている父と会うことも、もしかしたら時間が解決してくれるのかもしれない。
 
 ◇
「先輩、今日は俺も外で食べてきます」
「ああ」
「親父と会うんです」
「そうか、そうしておいた方がいいと思うぞ」
「はい」
 朝食の納豆にミョウガを山のように盛る先輩の前に、冷たいほうじ茶を置くとありがとう、と返事。
 先輩がおととしの夏からミョウガにハマり、(先輩に言わせると、あの苦味がたまらん、らしい)ベランダの作物にミョウガを新しく植えたのは記憶に新しい。一度植えるとたくさんできるとどこかから聞いてきたらしく、甲斐甲斐しく水を遣っている。
 昼前には家を出ると言っていた先輩は、喪服がなかなか見つからないらしく、家じゅうを右往左往している。最近、指摘しづらいが物忘れが目立つようになってきている。それだけの時を、俺は、先輩は過ごしてきた。
「悪い、貸してくれないか」
「いいですよ」
 性別も体格も変わらないからこそできる貸し借り。白いシャツに、黒いネクタイ。それだけのある種日本的な喪に服す記号である喪服。それがここまで素敵に決まってしまうのだから、惚れた色眼鏡を通して見るのは本当に恐ろしいものだ。これだけ長い付き合いなのに、暫しの間見とれてしまう。
 視線に気付かれてしまい、恥ずかしくなって部屋を後にした。見ていてもいいんだぞ、と冗談めかした声が俺の背に向かって投げられる。現役時代の投球を思い出す力強い皮肉だ。
 少し薄めに作ったスポーツドリンクをお気に入りの水筒につめて、いってきます、のキスを頬に落としていった。
 世の夫婦がどうなのかは知らないが、あまりベタベタと、時間を詰めて会う関係ではないから一人の時間が苦ではない。必ずあの人はここへ帰ってくると思いが、この長い時間、さまざまなやり合いの積み重ねがあって、確信できる。
 のんびりと見送ったが、俺もそろそろ準備をしなくては。父は時間に厳しい人だから、口約束とは言えあんまりにも遅いとさらにだんまりを決め込むだろう。
 
 お盆休み、しかも土曜ともなれば乗り換えた先々すべて空いている。先日、クリス先輩が高校生から席を譲られたと言ってたいそうショックを受けていた。高校生のときであった俺らが、高校生から見たら、労わるべき老人に見えたというのだから、時の流れは恐ろしい。それでいて、俺がかけている眼鏡が老眼鏡になった今も、先輩との出会いから、鮮明に思い出せるのだから人の記憶は恐ろしい。
 ぼんやりと懐かしい思い出に浸っていると、実家の最寄駅についていた。少しも変わらない故郷、というわけにはいかず駅前の様子は随分様変わりしていた。高校のときにあった店はほとんどなくなり、それぞれ別の店になっている。二十代の頃クリス先輩と行った小さな飲み屋、先輩がモツ煮をおいしいおいしいと食べていた店も、なくなってしまっている。古ぼけたテナント募集中の看板にとまっている蝉のけたたましい鳴き声だけが鼓膜を叩く。
 さやさやと葉擦れを奏でる竹林の脇を抜けると、見慣れた灰色の塔の群れが見えてくる。小さいころ、あの塔、煙突の排煙がオバケに見えると泣いて父を困らせた記憶がある。父は工場を余所の経験者に譲って、時に技術指導をしながら暮らしている、と言っていた。元気にやっているだろうか。記憶の糸をよくよくほどいてみると、孫の顔は見せられないと宣言してから会っていなかった。実に気まずい。が、ここまで来ておいて戻るわけにもいかない。
 
 しんと静まり返るコンクリートの三和土から、小さくただいま、と言うと無愛想であまり感情を出しているところを見たことが無い父が何故か泣きそうな顔でおかえり、と返してくれた。
 人を迎えるとき、これ以外の候補がないのかもしれない、と三つ重ねられた特上寿司のすし桶を横に除け、ずっと客を待っていたことを想像させる、水滴が余すことなくついたグラスの麦茶を一気に飲む。
 父と、母と、本当に小さいころの自分の写真を、俺が小学四年ごろに図工の授業で作った木枠と紙粘土の写真立てに立てている。色の悪いカレーパンのような紙粘土製のキャッチャーミットが貼り付けられている。このころには、俺はクリス先輩といずれ出会う未来を歩み始めているかと思うと少しだけ頬が緩む。
 独り暮らしが長いからか、実に手慣れた手つきで新しく緑茶をいれてくれた。一緒に暮らしていた頃はあまりそういうことをしていないから、苦手なのだと思っていた。
「一也」
「うん」
 こんなに年をとっていながら、親とスムーズに会話ができないことに恥ずかしさすら覚える。ただ一人残った肉親とですら意志疎通が上手くできない憤りと寂しさ、のようなものに襲われる。
「お前は、できた息子だ」
「え?そ、そうかな」
「ああ」
 それだけ言って満足したのか、湯飲みに手をかける父は何でもなさそうに俺を褒めた。数えるくらいしか褒められた記憶が無いだけに、なぜんこのタイミングで褒められたのか。混乱する俺を置いて父は珍しく話し続ける。父はというと何ともない様子で割り箸を割っている。
「お前が甲子園行きを決めてから、言おう言おうと思っていたんだけどな……」
 大きな父、言葉にはせずとも尊敬する父からそんな言葉が聞けてしまうとは。混乱と、さらに動揺を心に沈める。湯飲みを持つ手の皺の深さが嫌に目についてしまう。
「お前が今、幸せを、誰かと生きることが幸せに思えて誰かと生きているなら、それが誰であろうと、構わない」
 父には、ヘテロとして生き、ヘテロ以外の選択肢を考えてこなかったであろう父にこんなにあっさりと許容されるとは思ってもみなかった。どんな顔で俺を見ているのか見たくなくて澄んだ黄緑色を見つめるほかなかった。
「そんなに縮こまることは無い、一也、親はな、というか、俺はなお前が幸せならそれで、それ以上望むことは無いんだ」
「オヤジがそんなに喋ったの、初めて聞いたかも」
「そうか?」
「そうだよ」
 ふふ、と穏やかに笑う父を、呆けた顔で見ることしかできなかった。ここまでわかり合うまでにこんなに長い時間をかけたが、わかり合うときは二、三の言葉で十分だったということだろうか。父の気持ちにまで気をまわし過ぎたのかもしれない。父は、言葉にせずともずっと気持ちは寄り添ってくれていた、と信じていいのだろう。
「母さんの仏壇に線香あげてけ」
「そのつもり」
 埃一つない仏壇の前に座り、記憶にない母の笑顔と向き合う。母にも心の中で、現在の自分の幸せを報告し、手を合わせた。嗅ぎ慣れない線香の香が鼻をつく。嫌な気はしないが、この香りは死と結びつきすぎている、と思う。人の死のそばに常につきまとう香りだ。
「一也、お前の好い人は随分男前だな」
「なっ、えっ?」
 リビングに戻って急にこういわれて驚かざるを得ない。
「なんで知って……」
「お前の定期入れ、玄関に落ちてたぞ。しかしお前もカッコ付けておいて定期に写真だなんてベタなことするんだな」
「オヤジこそ、財布に母さんの写真入れてるくせに」
 父は目じりにいっそう皺を湛えて、折りたたみ財布の小銭入れの裏からの紙片を取り出して寄越した。
 
「お前が生まれてすぐ、母さんがお前と写りたいって言うもんだからな」
 仏壇で笑う母とは、また違う母の笑み。小さく、まだ目も開いてない俺を抱く母と、それを撮る父。口に出すのは恥ずかしい。だが胸に灯るあたたかさがある。
「……親馬鹿」
「いいさ、馬鹿で」
 そう言って庭に出てタバコを吸う父の背中、超えたと思った背がずいぶん大きく見えた。
「また近いうちに寄るよ」
「おう、また来い……今度は二人で来い、近くに美味い魚を煮つける居酒屋ができたんだ」
「うん……?」
「だから、その男前を連れてこいって」
「そのうちに……」
「来ないつもりだろ」
「あ?わかった?」
「ああ、父親だからな」
「おそれいりました」
 仏壇の近くの風鈴が、ちち、と少しだけ音を立てた。

 
 夕暮れの竹藪は、空が狭く見える。
 蝉の鳴き声が鼓膜を執拗に叩く。何度でも同じような夏が巡ってきた。大人になってからは特にそう感じる。高校のときは同じ夏なんて二度と来ないっていうことを嫌というほど知っていた。負ければ、先輩の引退という一番分かりやすい形で季節を区切る。けれど今は、クリス先輩が自分のそばに居てくれる、前の夏もそうだったというように先輩が居る夏か、という基準で考えている。だから同じ夏と言えるのだろう。いつまでも「同じ夏」が来ると良い。そんなことを考えてニヤついてしまう。もう五十だっていうのに。
 
「ただいま」
「あれ、早かったですね」
「ああ……」
 クリス先輩は少しだけ不機嫌な様子で、喪服のジャケットをハンガーにかけている。
「親戚が来た」
 おそらくその親戚に嫌味の一つや二つを言われてしまったのだろう。声はかけずにおいて冷たいほうじ茶を差し出す。
「ありがとう」
 声からも表情からも、疲れがにじみ出ている。こんなときはあったかいお風呂に入って、それでもまだモヤモヤが残るなら、俺にもその気持ちを背負わせてほしい。先輩は風呂上りスッとするのが好きで、こんな暑い日は特に粘膜がヒリヒリするくらいハッカ油を入れてしまうから一声かけておく。タオルはしっかり太陽を浴びてふんわりしたものを渡す。
「何から何まで、ありがとう御幸」
「好きな人が素敵な時間を過ごして欲しいから、俺は家事楽しいですよ」
 頬にキスをひとつ落とすと、少し苦しそうに笑って風呂場へ向かって行った。
 先輩の親戚は同性パートナーとの生活に関して好意的な考えをもっておらず、そこまで深く気にしていない先輩のお母さんとの時間を邪魔されてへこんでいるのだろう。あのアクの強い親父さんがクリス先輩をそんな親類たちから守ってくれていたと言っていたから二重三重苦しいのだろう。
 こればっかりは俺があれこれ気をまわしてもしょうがない。せめて少しでも生活するうえで気分よく暮らしてくれるように、手間をかける。
 
「先輩、身体が冷たい」
「そうか?」
「そうかじゃないですよ……ハッカ油たくさん入れたでしょ……そんな可愛い顔してもダメです」
「この歳になっても、かわいいのか?」
 照れもあるのだろう、この前一緒に買いに行った毒々しい色のクッションでたたいてくる。一緒に過ごす時間全てが愛おしい、クリス先輩の見せる表情全てが可愛いと言ってしまいたい。
「そりぁあ、もちろん」
「お前、変わったな」
 急に目じりに皺をためて嬉しそうに笑われてしまった。いつもと変わらないやりとりだと思っていたのだが。
「何がです?」
「いやあ、それは」
 話題を投げたかと思えば、照れ隠しなのかずいぶん可愛らしい仕草で甘えてくる。だんだん心配になってきてしまう。いつもは結構ストレートに好きだのなんだの言いあっているのに、何かを言いよどんでいるように見える。
「俺は変わってないですよ」
「そうか?前よりなんだかかっこよくなってるぞ」
「……先輩、やっぱり何がありましたか」
「なんだかな、父は偉大だったな、と」
 その父と同じ瞳の色をして、クリス先輩は今日あったことをぽつぽつと話し始めた。予想していた通り、母との時間を邪魔されてしまったようだった。
「何がいけないのか俺にはわからないし、母にもわからない。それなのに気に入らないらしくて」
 俺らだけでは解決のしようがない問題に悩んでいる。消えることはないが、やり過ごすことはできる。クリス先輩の、ハッカの香りが遠慮なく香るうなじにキスをすると素直に振り向いてキスを受け入れてくれる。
 
「じゃあ、今度クリス先輩のお母さんと、うちのオヤジをウチに招きましょう。そうすれば変に邪魔されることもないでしょうし、たっぷりの薬味用意して、美味しいお蕎麦茹でましょう」
「ミョウガ」
 大好きなメニューを出すと聞いて、少しは機嫌が直っただろうか。
「はいはい、そんなにミョウガばっかり食べてたらミョウガになっちゃいますよ……」
「……実はな、御幸が居ないときにミョウガと味噌で食べている」
「……」
「怒った顔も、男前だな」
「怒ってはないですけど……そうやって誤魔化そうとする」
「そんなことないぞ、本音だ本音」
 
「知っているんですからね最近一日一チョコ、血糖値を下げる運動をサボってるの」
「だって、夏は新作のミントチョコが出るんだぞ」
 つい照れ隠しで厳しい言葉を浴びせてしまうが、大して気にした様子もない。
「それ秋も冬も春も言ってました」
「どんな季節も、お前と一緒だからおいしくチョコが食べれるんだ」
 そうやって甘い言葉で言いくるめられてしまう。本当にチョロイ男だと自分でも思う。惚れた弱みというやつは本当に恐ろしい。

埋火 #ダイヤの #カップリング #御クリ

埋火 #ダイヤの #カップリング #御クリ





恋心が実る、という言葉がある。
たびたび日本語には、表し難い気持ちの出現に見舞われた時、すっと隣に寄り添ってくれるような言葉があると思う。他の国の言葉がどうなっているかは知らないけれど、今俺が知っている言葉の中では一番近いものなのだと思う。
俺の気持ちは、実に例えることができるということだ。瑞々しい葉は陽の光をはじいてちかちかと目を刺し、きれいな花をつけて、そして相思相愛を経て、実となるという想像ができる。今このときも、実となる途中と考えることができる前向きな言葉だと思う。
いつ、芽吹いたのかについて考えるとき、いつもいつも恋とはなんだろうかと誰かと話すつもりは無いけれども、自分だけでは決して答えが出ないことを考え始めてしまう。けれど最初は抱きしめたい、それに応えてもらいたい、キスしたい、されたい、といったことを考えたことはなく唯追いつきたい、そして超えたい目標だった。はずだ。
それが今は。

俺の中で実を結ぼうとしているものは、一人よがりから生まれる実はどんなものになるのか。それよりも、クリス先輩に好きです、と伝えてしまってから失うもののほうが多いように思えてならない。戯れに触れてしまってもきっと、どうしたんだ?と少しだけ戸惑って聞き返してくるのだろうと、それはそれで苦しい。俺をひどく傷つけたりはしない優しくて、尊敬できる先輩。そんな先輩と俺は、何になりたいのかも知らないで、欲しい欲しいとだけ心の中で声高に叫んでいる。クリス先輩に対してどんどん盲目になってゆく。

けれどそうやって苦しい苦しいと思いを堆積しながらも、クリス先輩を好きでいることは微塵も苦痛ではない。後輩に向けるものだとは知っているけれど、優しく微笑まれて、御幸怪我はあれからなんともないか?だなんて聞かれてしまったらもう、それだけで満たされてしまうような気になる。
「もう何ともないですよ」
「クセになってしまったら怖いからな、ちゃんと定期的に医者に診てもらえよ」
「そうします」
「聞き分けがいいな、俺の背中を見て育ってきただけのことはある」

敵わない、何度思ったかわからない言葉を反芻する。大学に入ってからも、時に練習に顔を出してくれる。卒業してしまったらもう会えなくなってしまうから、なんて告白をしてしまっていたらどうしても足が遠のいてしまっていたのではと、今だから冷静に考えることができる。卒業式の前日なんて怖くて眠れなかった。先輩の前では泣きたくなくて、どうしたって震える唇を抑えるので精いっぱいだった。

自分が育てた意識もあるであろう沢村の様子や、同じく少しだけ怪我をした降谷の様子なんかを見て、後輩たちの、特に怪我はないかをよく見ている。動きを見ては、肘や膝、各部位への影響を噛み砕いて聞かせている。俺がこの前怪我したときも、あんなふうに心配して声をかけてくれた。

  はじめて、後輩として扱ってもらったような気がした。憧れて入ったはいいけれど、ずいぶん素っ気ない扱いを受けていた。それが原動力になって野球に打ち込んだ、のもあるけれど、この人に認められないということひどく寂しい気持ちになったのだから、もしかしたらこの時にはすでに単なる憧れの域を超えていたのかもしれない。

だからこそ、一人の後輩として、チームへの献身の一つの形だとはいえ世話を焼いてもらえる沢村が少しだけ羨ましかった。ああやって素直に?人の心に沁み渡れる愛嬌?があればとも考えなくもなかったが、それはきっと俺にはできない。
きっとみじめったらしく縋りついて、俺も、と言えばきっと戸惑いながらも受け入れてくれるのだろうけれど、俺はクリス先輩と、先輩と後輩以上の関係になりたい。どうしてこんなに、盲目にクリス先輩を求めてしまうのか。誰かに聞いたらわかるのだろうか?時が解決してくれるものなのだろうか?
後輩たちに熱心に指導する先輩を見る視線がひとつだけ湿り気と、熱気を帯びている。誰か聡い奴が気づきやしないかと部員たちをさりげなく見渡すが、皆熱心に指導に聞き入っている。急に先輩に向ける視線が恥ずかしいもののような気がして、皆と違う意識でクリス先輩の話を聞いているのが悪いことのような気がして目を伏せる。
こうでもしていないと、唇に目が行ってしまう。

クリス先輩の事を好きでいる毎日は、迷いはないけれど、ときに苦しい。
あっちからしてみたら後輩の一人なんだろうな、と思うと同時に、一緒にリハビリをすることを許されていたりと、パーソナルスペースに入り込めているような気がする。たぶん俺が勝手に感じている壁は、俺がクリス先輩を見る目が違うってことなんだと思う。埋め方をしらない溝が横たわっている。



高校を卒業してから七ヵ月ほど経ったろうか、久しぶりに坂井さんから連絡が来てはじめて、皆と随分長い間会っていなかったことに気付いた。
「坂井さん、お久しぶりです」
「御幸!久しぶりだな!」

その簡単なあいさつだけで、俺たちは高校生に戻れる。あのころ深めた親交はそう簡単に薄まるようなものではなくて安心した。あれから俺はプロへ、他の皆は大学、就職と、それぞれの道を歩くための選択をした。その道の違いはあれど、こうしてまた旧交を温めることができている。
今日行く気になったのは、こういった集まりには今までずっと参加していたクリス先輩が、お家の都合でアメリカへ行っていると聞いたからだ。
もう、疲れてしまった。あの人が大切だ、愛おしいと自分だけが気持ちを溢れさせるだけの恋に疲れてしまった。いま忙しく新生活をどうにか成り立たせようとしているなかで、クリス先輩を想うことはあまりに、苦しかった。

それでも忘れることはできずに、クリス先輩が大学で活躍している知らせが入れば一人複雑な気持ちに浸っていた。あれだけ素敵な人だから、恋人ができたら、と考えて眠れない夜を過ごしたことも何度もあった。忘れることなどできるはずがない。人生の一番濃密な時間を憧れ、複雑な想いを注ぎ続けたひとを、今自分の事で精一杯だから、というだけで忘れることなんて到底無理なことだったんだ。その証拠に、続々と集まる先輩や同期、後輩たちの群れに、あの人を探してしまう。

たった五カ月、顔を合せなかっただけでこのザマなんだ。よく忘れようだなんて思ったな、と自嘲した。
このまま墓の下にまでもっていくのが一番理想的なんだろう。最近冷えが一段と厳しくなった東京の空へ皆が吐いた白い息がとけてゆく。季節が巡っても、季節ごとに思い出すのは先輩との思い出。季節が巡るたびに、叶わなかった、きっとこれからも叶わないであろう恋を思い出してしまうのは、胃の底に重たいものを入れているような息苦しさを味あわせてくれる。
「よぉ、御幸。お前がこの集まりに出てくるなんて珍しいじゃねぇか」
今は関西の大学野球チームに所属して、野球を続けている純さんに背中を小突かれた。小突く域を超えた衝撃に若干よろめいてしまう。
「今回はたまたま予定が合ったんですよ」
「おーおー、今や有名人になっちまったからな、お前」
ドラフト順位が高めであったことから注目してもらったのもあるが、世間から見たら顔のつくりがいいらしい。気の早い広告会社には高校卒業をした春にもうテレビコマーシャルの話を貰っていた。それが放映されるやいなや俺の知名度は無駄に上がってしまった。繁華街を歩いたら声をかけられるだなんてアニメやドラマの世界のことだと思っていた。付け焼刃の変装として駅ビルの眼鏡屋で、少しだけ色の濃いレンズをはめた眼鏡を買った。それもあまり意味をなさず、集合場所になった交番前で女の人にサインを求められて本当に参ってしまった。純さんや倉持は面白がってサインを求めてくるし。

「なぁんかよぉ、お前がすこし遠いぜ」
純さんがポツリとこぼした一言がひどく重く聞こえた。かつての、共にあのひどく暑い夏を戦ったチームメイトから言われてしまった。選択が違うからといってあの頃と全く同じように、とはいかないのかもしれない。それもそうだろう。皆持っているもの、いないもの、立場。さまざまに抱えながら日々を過ごしている。そうしていれば、行きつく場所が変わってくるなんて、高校にいたときのほうが分かっていた。他人と自分の人生は通過点が一緒であることはあっても共に生きることなんてできやしないんだと、幼いころの自分の方が知っていた。

「そんなこと、言わないでくださいよ純さん」

いつものように、冗談めいた声音で言えただろうか。



「ほんじゃあ、オレンジジュース、ピッチャーで」
髭面の、厳つい表情から発せられた言葉に店員はは、はぁとだけ返して厨房に消えた。未来あるお前らが未成年飲酒なんてつまらないことでケチがついたらいけない、と幹事の坂井先輩が言うものだから、皆素直にジュースをグラスに注いだ。OB名簿があるとはいえ、名門野球部である青道はとにかく部員が多い。その一人一人に声をかけて、この会を実現させた坂井先輩の思いを無下できる奴はこの場には居なかった。それになにより、この人がいた。
「あ、カントクは何飲みますか」
「瓶ビールを頼む」
まさかこの人の前で年齢をごまかして、だなんてできるはずがない。それに礼ちゃん、太田部長、落合コーチと俺らを育ててくれた大人たちの前で、自分たちが生きてきた年齢をごまかしてまで酒を飲みたがるほど酒の味を知っている奴が一人もいなかったというのもある。
「お前らの代はなぁ、甲子園出てからと、出る前とで練習試合の申し込みの数や卒業生たちからの差し入れの依頼が全然!違ったなぁ」
当時を懐かしみながら、礼ちゃんと猪口を傾ける太田部長の髪が全体的に白さが目立つようになってきた。きっとたくさん苦労をかけたのだろう。ドラフト候補になってから野次馬や追っかけのようなものが増え、それに付きまとわれそうになるとうちの生徒に何かご用でしょうか、とあの人のよさそうな笑顔で割って入ってきてくれた。感謝してもしきれない。
「でも、なんとかうまくやっていけてるようで安心したよ。また時間を作って青道の練習にも顔を出してくれよ」
「ええ、ぜひ」

「増子さん、実家のコンビニ、どうですか?」
「わ、悪くは無い」
仕事は楽しいしな、と笑う先輩は少しだけ顔がほっそりしてしまったような気がする。青道生が主なお客さんだからと見通しは明るいらしい。近いから、と頻繁に練習を手伝いに行っているという。口数は多くないものの、行動で示せる増子さんはシブい大人に映るらしく後輩たちから大人気、というのは礼ちゃんの弁だ。

「おっ、クリスじゃねーか!お前間に合ったんだな!!」
純さんのばかでかい声で心臓がひっくりかえりそうになった。
今日は来ないはずじゃ、と誰かに確かめることもできずに思わず身を屈めた。ししょおー!と沢村のこれまたばかでかい声が騒がしい居酒屋のBGMのように聞こえた。
「そうだ、沢村」
いつのまにか増子さんと俺の間に顔を突っ込んできた倉持が言うには、今あの『わかな』と付き合うことになったらしい。結局、カノジョじゃねーかよと口をとがらせる倉持はなかなかそういった出会いがないらしい。根はいいやつなんだけれど、根の良さを知ってもらうにはある程度仲良くならないと、といったところで躓いているらしい。
「おい、倉持、亮介さんが呼ん」
「ハイッ!!!すぐ行きます!!!!」
声をかけた木島も驚く速さで文字通りすっ飛んで行った。あいつなら、きっとすぐに寄り添いあって生きたいと思ってくれる人がすぐに見つかる気がする。
思わず大きくため息をついてしまい、木島と山口に心配されてしまった。
「お前、プロに行ったらやっぱり体格!体格が違うだろう」
「プロテインはトレーナーがついているだろうからいらねーぞ」
「ありがとう木島。その通りだ山口」

襖で仕切られているとはいえ食堂とは違うと言っても自慢の上半身を見せたそうだが、上腕二頭筋をぐにぐにと触れば満足げだ。おしつけがましいようでさっぱりしているから、嫌な感じがしない。このやりとりも、すべてが懐かしい思い出になっている。
「すごい筋肉だな、山口」
「クリス先輩!」
数か月ちょっとじゃ変わりようがない、あの懐かしい声音。どうにか、お久しぶりです、とだけ絞り出した。
 
「皆、元気にしてたか?」

「そりゃあもう!ご覧のとおりですよ!」

そう言って茶目っ気たっぷりにポーズを決める山口をどんな顔して眺めればいいかわからない。すぐ隣にクリス先輩が座っているという事実だけで今すぐにでも逃げ帰りたい。

「御幸も、木島も久しぶりだな」
「お久しぶりです」
木島に続いて自然に、お久しぶりですとだけ言った。
「御幸は広告でよく見るんだけどなぁ、実物にあったのは久しぶりだ」
「俺もだ。学校の最寄駅にも大きな広告が出てるぞ。頑張ってるんだな」
今度は哲さんまで。二人の尊敬する先輩に褒められて居たたまれない。
「ホラ、お前がやってる飲み物のCM、あれいいよな」
「「「「忘れられない、恋をしよう」」」」
山口、木島、哲さん、そしてクリス先輩が声を揃えて唱えたのは俺が出ているCMのキャッチフレーズだ。恥ずかしさに頭が真っ白になる。その、俺が忘れられない恋をしている人から聞きたい言葉ではなかった。四人はきゃいきゃい言いながら動画サイトの企業公式ページを探している。
「ちょっ、それは」

無慈悲にBGMが流れ始めた。これも仕事のうちだからとマネージャーさんになだめられながら撮影したCMに皆がたかる。軽快な音楽と共にかなり棒読みに近い宣伝文句が騒がしい、さっきまで騒がしかったのに皆一斉に黙って笑いを堪えたような顔をして山口のスマホに見入る。
「うわ~~御幸かっこいい」
「やめろって!」
「かっこいいぞ御幸」
「哲さんまで!」
せめてクリス先輩の前で、俺があんなことを言っているところを見せたくなくて羽交い絞めにしてくる宮さんに少しだけ強めに抵抗する。が、無慈悲にもコマーシャルは流れ続ける。そしてあの、初めて自分の口から言わなければならないと聞かされたときは心臓を握られた心地になった言葉を、画面の向こうの俺はじつに情熱的に言って、やっと終わった。
皆は盛り上がり、急に興味を喪ったらしくそれ以上追及されることは無かった。いつかまたお前と戦いたい、と息巻く哲さんを無理に笑って、俺もです。とだけ返した。
「どうした」
「はは、ちょっと」
変なところでこの人は聡いのだ。ふやけて崩れ始めているストローの袋を所在無さげにいじってごまかそうとするが、哲さんは俺が話を逸らそうとしたとは思ってないらしく、じっと目を見つめてくる。かと思うとハッ、と何かに気付いたようなしぐさをし、声を潜めて、
「お前、好きだったひとがいるのか」

いままで蓋をしていた気持ちの、きつくきつく締めて、奥底に沈めていた気持ちを見透かされたような気がして、途端に居たたまれない、なんだか恥ずかしいことを、悪いことしているような気持ちになる。どこまでバレてしまったのか、と聞いてしまいたいけれど、クリス先輩のことが、哲さんや純さんたちとは違う意味で好きだと尊敬する先輩には知られたくない。少し前までは、ずっと好きでいることなんて怖くない、隠し通せる。このまま墓の下にまで、なんて考えていたけれどすこし揺らされただけでこんなにも動揺してしまう。
「哲さん、ナイショです」
「そうだな、ナイショだ」
いい歳した男二人がゆびきりをするさまは決してかわいらしいものではないけれど、こうした方が哲さんはわかってくれるだろう。自分に言い聞かすようにナイショだ、という哲さんに一抹の不安を覚えながらも、軽々しく言いふらす人ではないから、黙ってオレンジジュースで乾杯する。
「なんだ、ナイショ話か?」
「そうだ。ナイショだ」
クリス先輩の声を聴き間違えようがない。曖昧に笑って、すみません、とだけしか言えない。高校の頃のほうがまだまともに目を合わせて話せていた。分かたれてしまった道の違いからか、ここさえ乗り越えてしまえばまた、自分の中でだけ想いを寄せていられると思ってしまう。下手に距離を縮めてしまうと、物理的に空いてしまった距離に耐えられない、ということはクリス先輩が卒業して三か月のうちに痛いほど知った。
「御幸、活躍してるみたいだな」
「いやぁ、まだまだですよ」
そうか?と言って笑う先輩の、目をすこしだけ細めて唇の端を上向きにする笑い方を懐かしいものとしてとらえてしまったことに耐え切れず、先輩の前だというのに叫びだしたいくらいの激情に襲われた。苦しい、好きです、受け止めて、応えて、と恥も外聞もかなぐり捨てて投げつけるには、俺は大人になりすぎたように思える。

一足先に成人になった先輩たちはこれから監督や大人たちを囲んで飲みなおすらしく、未成年組と分かれて夜の街に消えて行った。クリス先輩の誕生日は十月一日。もう二十になっている。クリス先輩の、誰に向けたわけでなく振られた手から目を離せずに、ぼんやり手を振りかえして帰路についた。
たった一日会えただけで乱れた気持ちを落ち着かせるのに相当の時間を要した。あれだけ近くに居れたのが、言葉を交わせたのが偶然で、これが普通なんだと言い聞かせて、日々の練習に身を粉にして打ち込むことで忘れることに終始した。まぁ、今までの経験から忘れることなんてできずに、居るはずのない、人ごみの中でハッとする、というのを何度か繰り返してものすごく落ち込んで、というサイクルを繰り返すんだろう。花をつけていても、応えてもらえるどころか、花が咲いていることを知られていないから実を結ぶこともない。文字通り、不毛な恋だ。



「まぁーた御幸は不参加か」
「忙しそうだしな」
「クリスだってちょっとは会っておきたかったろ?」
「まぁな、最後に会った……というか見たのはドームで、卵くらいにちっちゃく見えた……くらいだからなぁ」
「クリスですらそうなら、俺らが会える筈もないな、そうだよな皆」
「だな」
「そうですね」
そう言って、御幸が一番最初にコマーシャルをしていた飲料を呷る門田は、大学を卒業してからは就職して、春には子供が生まれるらしい。まだ酒が入っているわけではないのに、散々のろけ話を聞かされた。
週に一回、近所の野球チームで草野球で汗を流している、と聞いた。節目節目で、皆選択を繰り返している。本当は節目だけでなく、毎日に選択の機会が隠れているが、気づいていないだけだと気付いたのはつい最近だった。
御幸とは高校を卒業してからまともに会話をしていない。
もともとこの会に来る回数が極端に少ない。その上、俺が話しかけるとぎこちなく苦笑いをして話を濁そうとする。なにか踏み込まれたくないところがあるのならば、きっともっとうまく隠せる奴だと思っていたが、それができないくらい、露骨に避けていたいのかもしれない。だからといって、そんな扱いを受けるほど何かをした記憶はない。本当に大事で、選手としても人間としても尊敬に値するひとに冷たくあしらわれたままだと、何と無く心苦しい。自分で解決の糸口を持っておこうと、年賀状、暑中見舞いはお互い欠かしたことはない。ほっそりとした御幸の字が近況を書き表したはがきが半年に一度届くことで、いまだ繋がりを保っておけているような気がする。
宴席でも近況を語りつくしたら皆一様に御幸の事を話し出す。身近に生活していた、今や手の届かない存在になってしまった御幸をすこしだけ遠くから、もう自分とは立場が違うといった風に語る。
俺も皆と等しく、御幸とは物理的距離がある。それでも何故か遠い存在、と割り切れてしまえないのは何故だろうか。高校時代に同じポジションで、御幸が俺に憧れてくれていたから、季節のあいさつを欠かさないから、などいろいろ考えてはみるけれど、根拠としては弱い気がする。多分、御幸が遠くにいってしまったことを認めたくないのだろう。もしかしたら、この怪我が無ければ、御幸と回り道なしで戦う未来があったのかもしれないと考えてもしょうがないことまで考えてしまう。
一目元気で顔を見せてほしい、以前のように野球の話や、くだらない話をしたり、軽くキャッチボールがしたい。そんな、高校時代のただの先輩の願い何て聞いていられるほど暇ではないだろうから心の中にとどめておく。
「なんだよクリス、しけた顔して」
「なんでもない」
いつのまにか空いていた猪口に銘も知らない日本酒が注がれる。坂井は未使用の猪口を手に取り、手酌で注ごうとする。それを制してなみなみと注いでやる。
「おっ、クリス飲めるんだ?」
「ほどほどにな……」
「あ、クリスは思ったより弱いよ」
なにやら可愛らしいカタカナの名前がついているカクテルを傾ける楠木が声をかけてくる。
「そうか?俺は飲めない方なのか」
「うーん、それで野球部の飲み行くのキツくないかな?って思う」
「えっ、じゃあ水も飲んどけよ」
と言って程よい冷たさの氷水をせっかく取ってきてくれたので一口飲んでおく。坂井、楠木とグラスと猪口を合わせて、一口呷る。アルコールが食道を焼く感覚と、日本酒特有の籠ったような匂いが鼻をつく。少しで血の流れが良くなった感覚を味わえる。
「こうして皆で酒を飲めるようになるなんてな」
「な、俺らもさ、大きくなっちゃったよな」
「身体ばっかりでかくなったけどな、俺、あのとき降谷にレフト交代する夢まだ見る」
坂井がしみじみと猪口に残った日本酒を揺する。ゲームセットをベンチで迎えた三人でも、あのことを思い出すとき、内容は三者三様だ。しんみりとしてしまった雰囲気を振り払うかのように倉持が割って入ってきてくれた。粗雑なようで、実に細やかな気遣いができる。それも他人に感じさせないように。
「おっ倉持じゃねーか、カノジョできたか」
「坂井先輩」
小湊弟が何か知っている風に坂井の袖口をひっぱる。目に見えて暗くなってゆく倉持の恋路を根掘り葉掘り聞きだそうと随分悪そうな顔になっている。

「おっ、御幸来るっぽいです」
ぴろん、と可愛らしい音を立てたのを聞いて倉持が画面を除いたかと思えば、まさかということを言う。
「それ本当なの」
腕組みをしながら仁王立ち。この迫力を前に嘘を言える奴なんかこの部に居やしない。倉持や木島は直立している。亮介を前にした倉持は画面を見せることで納得させたらしい。
「ホントだ、終わりの方少しだけど来るって」
皆は久しぶりに会う元キャプテンに沸き立つが、いざ会えるとなるとなんだか落ち着かない。期待しすぎてもダメになったときに勝手に失望しそうなので、意識のなかから懸命に追い出す。

消毒液のにおいだか知らないが、独特の香りをもつ温かいおしぼりで手を拭うと、後輩たちが甲斐甲斐しくゴミを回収してくれる。こういった部活内の上下関係なんて久しぶりだ。大学でもそういったことはあったが、高校の後輩に世話をされるときほどあたたかみがあったり、尊敬が自分の身を動かすような行動ではなかった。上の代がそうしていたから、自分もそうする。唯それだけだった。大学在学中の方が、記録に残る結果があったが、自分の中で強く思い出に残っているのは高校時代のことだ。
俺が野球から離れざるを得なくなっても、誰かの憧れであり続けれられたときの方が綺麗に見えているのか知れないが。当たり前のように、結果を求めてきた。が、記憶に残っているのは結果以外のところだ。自分が関わった後輩が怪我なくプレーできている、それに、俺にあこがれて高校を選んだ後輩が、甲子園で活躍し、今はプロになっている。
中学の頃の夢はプロ野球選手。
今から夢を叶えようとして、叶うかと考えても難しいだろう。けれど、きっと誰に言っても負け惜しみに聞こえてしまうだろうから言ったことはないが、吹っ切れている。俺は今、俺ができる最高のプレーをしている。それに後悔が生まれようもない。
「倉持、御幸来ないけど」
「亮介、そうキツイ口調は」
嗜めるのが一拍遅かった。倉持は飛びつく、という言葉が一番近しい動作でスマホの画面を見る。
「かなり遅くなるみたいです……」
「クリス、電話かけてみて」
「俺か?」

何か企んでいるときの含み笑いをして、頷く亮介に促されるままにスマホを手に取る。

「忙しいんだ、出ないかもしれない」
「いいから、きっと出る」
何故か知らないが心臓がざわつく。昔撮って、登録した御幸の顔写真、珍しく年相応にはにかんでいる写真に軽く触れると、発信画面に切り替わった。



「ウッエ?」
思わず変な声が出てしまった。心臓がひっくりかえったまま口から出てきそうだ。想像してみてほしい墓までこの気持ちは持っていく、と決めたつもりの意中の人から電話がかかってくるときの気持ち。
「……もしもし」
「御幸か?」
「はい、御幸です」
  久しぶりに声を聴いた。季節のあいさつはすべてハガキだったから実に、数年ぶりだ。血の通った先輩の声に愛おしさが、蓋をしてしまったはずの気持ちが溢れそうになる。
「えーと、今日は来れるのか?」
「今、新宿御苑前なのでもう少しかかりますが、向かってます」
「そうか、皆楽しみにしてるぞ、気を付けて」
「はい」
俺からは切れないから、きっと先輩が切ったんだろう。

たった数秒の会話だというのに、本当に本当に嬉しくて、別れが辛くなるだけだろうに会いたくて仕方がない。皆、楽しみにしていると言っていた。皆のなかにクリス先輩が含まれていることを信じて、各駅停車以外の運行がない路線の窓の外を落ち着かない気持ちで眺める。



「今御苑前だそうだ」
「ああ、じゃあ少しかかるけど、来るね」
「そうだな」
「それにしても意外、クリスとは会ってると思ってた」
「そうか?御幸も忙しいんだ、高校のとき二年だけ一緒に居ただけの先輩に構ってられないだろう」
「……クリスがそんなにムキになるってのも、意外」
「そうか?」
他人に指摘されて初めて気づいた。何か言いたげに熱燗を呷って、にやりと笑う亮介にとりあえず何かを食べさせて黙らせようと取り皿を探す。これ以上深く、この気づきを掘り下げられたくなかった。
「早く来るといいねぇ、御幸」
「ああ、まぁな」
亮介の空になった猪口に冷酒を注ぐ。軽く会釈をしてまた呷る。この兄弟はとにかく酒に強い。何次会まで会を重ねても、涼しい顔をして介抱している。
会って何を話せばいい。あのころみたいに、どれだけ久しぶりに会っても昨日別れたばかりのように話せるとは、今は思えない。



店の中からも外からも、ずいぶん出来上がっている声が聞こえる。
店の中から聞こえる声はどれも聞いたことのあるものばかりだ。ゾノの声なんて聞き間違えようがない。けれどなかなか、ここまで来ておいて踏み出せない。なにもクリス先輩にだけ会いに来たわけじゃない、と自分に言い聞かせても一度再会してしまえば何があふれ出てくるかわからない。それを塞き止めておけるのかもわからない。
「どうしたんスか、そんなところで……?あれ?御幸先輩?」
「金丸……!久しぶりだな」
あのクセの強い代のなかで繊細且つ理性的だった後輩に呼び止められて思わず身を竦めてしまう。
「とりあえず中で何か飲みませんか?外寒かったでしょう」
「ああ……」
ケチのつけようがない、当たり前の声掛けが今は、涙を、不安を我慢することなく吐き出して逃げ去ってしまいたいほどに苦しい。
俺に気付いて、口々に久しぶり、元気にしてたか等々の言葉をかけてくれる先輩後輩、先生方に挨拶をして皆にとっては何度目かわからないほどしたであろう乾杯をする。
「降谷は?」
俺と同じくプロの道を選び、遠くで活躍を聞くだけの後輩の名前を出せば、ほらそこ、と示した先にはクリス先輩の膝を枕にすうすうを寝息を立てる降谷が居た。
「何やってんだあいつ……」
正直なところ羨ましい。金丸が上着をハンガーにかけてくれると言うのでありがたくお願いする。
「御幸!」
これまた聞き間違えようがない声。小湊亮介先輩だ。空の猪口だけ持って先輩の隣に行く。その隣にクリス先輩と降谷が居る。クリス先輩とは逆に座ろうとしたが、わざわざ空けてくれた場所がそこしかなければ、押しのけて行くわけにもいかない。
「久しぶりだな、御幸」
聞き間違えようがない。あるはずがない。不自然でないように、お久しぶりです、と返す。膝で寝ている降谷の頬をつついて、お前も、というと、ぷすう、という間抜けな寝息が返ってきた。
「御幸、猪口」
まさか亮さんから酒を注いでもらう日が来るとは思わなかった。正座をし、姿勢を正す。案の定クリス先輩と自然に会話ができない。きっとクリス先輩にも変に思われているだろう。
「先輩は、お元気でしたか」
「それなりにな……御幸は上手くやってるようじゃないか」
「ありがとうございます、日々精進ですけど……」
どれだけ時が経とうとも、この人に褒められるのが本当にうれしくて仕方がない。思わず頬がゆるんでしまう。
「御幸、よかったねクリスに褒められて」

「はい」
若干涙ぐんだのを、亮さんは気づいていたと思う。
「もっと飲みな、身体温まるよ……クリスも猪口が空いてるよ御幸」
亮さんから徳利を包むおしぼりごと受け取って先輩方にお酌をする。三人で猪口を合わせ、呷る。結婚式では固めの杯と言って夫婦になる人たちが飲み交わす、らしい。

なんてヨコシマなことを考えていたからか、疲れていたからか酔いの回りは恐ろしく早かった。
今度は降谷が起きだして亮さんと飲み、俺はなんとクリス先輩の膝枕という恐ろしいものを享受する機会が与えられた。チンコが勃ってしまわないように必死に今日の練習での配球を思い出す。酒で温まった指先が、優しく髪の毛を梳いては、ときに引っ張ってくる。きっと、これが単なる後輩先輩だけの関係でなくなれば、もっと触れることができるのだろうけれど下手を打てばこんな、今までの報われなさを考えると破格のことである膝枕さえしてもらえなくなるだろう。リスクを取るか、アンパイを取るか。この喉がチリチリとひりつく痛みは、まるで野球みたいじゃないか。
どうすればいいのか、どうしたいのか。本当にわからなくなってきてしまった。本当に大事なのは何なのか、守りたいのは何なのか。唯一つ、この優しく触れてくる手を喪いたくないというのは揺らがない。
「なぁんだ、御幸潰れてやがんのか」
「そうなんだ」
ずいぶん遠くで純さんの声が聞こえる気がする。
「すっげぇ幸せそうな顔」
「テレビで見るときはあんなに辛気臭そうというか、ピリピリしてるのにね」
「憧れの先輩の膝枕で寝てるんだぜ……?俺が東先輩に膝枕してもらえるんだったらこんな腑抜けた顔になるわ、わかるぜ御幸」
純さんの酒臭い息が吹きかけられて思わず顔をしかめる。

「お、こいつ起きてんじゃねーか」
「起き上がれないだけで、意識はしっかりしてますよ……」
「意識しっかりしてたら先輩の膝で寝ないから」
バッサリ、だとかそういう効果音が付きそうな声音で俺の戯言を切り捨てる亮さんから眉間の皺を伸ばされる。
「ずっと気を張ってたんだね、今くらい甘えていいよ……クリスに」
皆はからかうように笑って、よかったなぁなんて言っているけど俺は怖くてクリス先輩の顔が見れない。呆れたような笑い方だったらどうしよう、もう、季節のあいさつすら返ってこなかったら、と嫌に弱気になってしまうがそれをどうにか押し込めて、酔いがひどく回っているふりをして存分に堪能する。明日になったらあのときは酔っぱらっていて、と言い訳をすればいい。どんな関係であれ、続けていたい。
「御幸、本当に飲めないのか?」
めちゃくちゃに酒に弱いからと藤原先輩からも純さんからも薄く作ったカクテル以外はやめておけと言われてから、素直にカシオレをちびちび飲む哲さんの声で少しだけ覚醒した。
「そんな、哲さんに言われたら飲めないわけないです」
「御幸、無理するなよ」
憧れの先輩と、愛してやまない先輩二人から気遣う言葉を掛けられて喜ばないわけがない。普段はこんなにふにゃふにゃ笑わないのだけれど、今は頬が嫌に緩い。
クリス先輩の猪口に、熱燗を注いで、哲さんが酌をしてくれると言うのを断って手酌で注ぐ。チン、と涼やかにグラスと猪口二つが合わさる音ののち、クリス先輩の喉が上下する。
慌てて目を逸らし、哲さんが剥いた枝豆のカラを適当な皿に盛る。
「む、すまんな」
「とんでもない」
酔いがまわっているフリなんてできないかもしれない。実際にかなり酔いがまわってきてしまっている。ごくごく自然な動作でクリス先輩の太腿に頭を預ける。口先だけはすみませんと言って。あまり弱みを見せたりしなかったからか、驚いた様子で所在無さげに俺の眉毛を引っ張っている先輩の瞳は変わるはずがない日本人離れした金色。それもクリス先輩が眼鏡を外してくれたので見えなくなる。この方が都合がいいかもしれない。

ぼやけた視界にはクリス先輩の指先がいっぱいに映る。酒のせいで最高に気持ち悪いけれど、これだけ酔っていれば、このままで居たいっていうあり得ないことを願う気持ちも、別れの辛さもすっきり忘れて明後日からの練習にも清々しい気分で参加できるんじゃないだろうか?

最後の記憶がそれで、今はどこか知らない家の廊下に座っている。

初めてこんなに飲んだ気がする。気心知れた仲間と久しぶりに合えて本当に嬉しかった。思えば高校ほど腹を割っていた時期はなかったのかもしれない。大人になればなるほど、誰かに自分をさらけ出すことが怖くなっていった。
身体を起こしていると気分が悪くなるので寝ころぶ、というよりずり落ちた。冷たいフローリングに頬を当てて涼んでいると、床を軋ませる音が聞こえる
「目が覚めたか?」
「クリス、せんぱい?」
「ここは俺の家だ。一人暮らしだし、遠慮なく吐くといい」
そう言って冷たい水が入ったグラスを差し出してくるクリス先輩の表情が暗くて見えず、何と無くきまりが悪い。
「俺、吐きました?」
「少しな」
好きな人の前で酔いすぎて吐くだなんて、カッコ悪すぎて別の意味で頭が痛い。でも繕う余裕もないほどには酔ってしまっている。貰った水を少しだけ飲み下す。今更気づいたけれど着せてもらっているジャージ、青道の学校ジャージだ。これを着ていた頃も好きだったけれど、これを着なくなった今もずっと好きだ。これだけは疑いようがない。求めて、求めても手を伸ばすことすら怖がっていたから当たり前だけど、進みようがない恋だ。
しんみりしていたらまた吐き気を催してしまった。
「せんぱい、すみません吐きそう」
「こっちだ」
よろめくと結構強い力で支えてくれる。不覚にもきゅんとしてしまった。ちゃんと掃除してある便器に向かってえづくが、先輩が去る気配が無い。
「せんっ、ぱい、もう大丈夫ですから」
「喉に詰まらせたりしたら大変だろう……いいから」
と言って背中を摩ってくれる先輩の手のぬくみを感じながら、無理やり追い出す気力もなくおとなしくえづく。
「吐ききったならすっきりすると思うが……まだ気分悪いんだろう?」
「はい……」
心配そうにのぞきこんでくれるのが嬉しくて、勘違いしてしまいそうだ。こんなに近くて遠い。酔っていると情緒が安定しない。何故か涙が滲んでくる。先輩ったらあわててる。
「泣くほど気持ち悪いのか……?」
「ぢがいばず」
全然カッコ良くない。好きな人の前でくらいカッコいい自分を見ていてほしいのに。唾液でべちゃべちゃになった口の端をハンカチでぬぐって、クリス先輩の両腕をとって向かい合う。
「ばの」
涙声になってしまって本当に恥ずかしい。
「どうかしたか、水か?」
「ぢがいばず、あじだ、いいだいごとがばるので」
「明日か?明日は一日暇だから大丈夫だ」
そう言って水を飲ませてくれようとする先輩の好意をありがたくいただく。先輩は困った後輩を放っておけないだけ、と考えるのがふつうだけれど、今はそう、お互いに酔っぱらっているから。



言うだけ言って満足したのか、せまっくるしい便所の床で眠い眠いといつもの冷静さや人と関わるとき一線引いたような態度をどこかで落としてきたみたいにぐずる。ぐずぐずと脚にまとわりついては、寒いからと言って離さない。
在学中も、先輩後輩として理想的な関係であったと思う。お互いを尊敬し、慕いあう関係であったと俺は思っていた。いつからか、多分甲子園行きを決めたあたりから御幸に負担をかけてはいけない、もう彼の時代なのだからと足が遠のいた時期があったが、それから数か月は何も変わらず過ごしていたはずだ。
ただ、俺が少し遠くから御幸を見たことで湧いた澱が胸の奥底に沈んでいる。どうして御幸は、今や俺より実績がありながらも憧れであると慕ってくれているのだろうか。昔の俺の偶像を御幸のなかで作り上げているだけで、今の俺のことを尊敬しているわけではないのかもしれないということが気になってしまっている。
御幸が慕ってくれるのを、先輩先輩と情を注いでくれるのをいいことに、御幸の気持ちに胡坐をかいている、尊敬する価値が薄れた単なる年長者に成り下がってはいないだろうか。

その、曇りない尊敬に値する人間であり続けて居れているだろうか。
今日だって、御幸が珍しく甘えてくるものだから、嬉しかった。俺が大切にした後輩が、こうして少し弱いところを見せて頼ってくれるのだから自分に少しだけ価値を見いだせたような気がする。特に膝枕をせがんだり、泣きながら自分に何かを伝えようとしていた姿が目に焼き付いている。今は泣き腫らした目元をそのままに安らかな寝息を立てている。慣れない暮らしで、気を張っていたんだろう。眼鏡を外してやると少しだけ幼げのある表情が見える。自分とそう変わらない後輩が、立派になったことの嬉しさと、あんなに泣くほど大変なことを伝えられるのかと思うと少し心配になる。
「へんぱい」
「どうした?眩しいか?雨戸閉めてくる」
「ふふ」
満足げににやけたあと寝入ってしまった。ここまで遠慮が無いのに嫌な気がしない。むしろ甘やかしてやりたくなる。
せまっ苦しい一人暮らしの家に男二人が寝場所を確保するだけで大変だ。どうにか御幸の居ないスペースを探して寝ころぶ。
プロ野球選手として、テレビの向こう側にいるところを見る機会の方が増えたのにこうして俺の家でだらしなく腹を出して眠っている。不思議な気分だ。高校を卒業してしまえば、学生時代に培った縁というものは多少なりとも薄れてしまうものだと思っていたが、物理的な距離が一番離れてしまったこの後輩とはなぜか、繋がっている。



酔っぱらって、寝落ちた後記憶が消える人も居るらしい。俺はそうではないし、クリス先輩もそうではないようだ。
台所からは味噌汁の匂いがする。先輩が作ってくれた味噌汁を食べれるなんて、幸せすぎて明日世界が終わるじゃないだろうか。
「起きたか?」
「……起きました」
「そうか、洗面所に新しい歯ブラシあるから、使っていいぞ」
「何から何まで本当にすみません」
「いいんだ」
こんなに優しく、微笑みかけてくれる。昨日は、言いたいことが有ると言ったけれど冷静になった今、この関係を投げ打ってまで先輩後輩以外の関係になることが本当にいいことなのかと、洗面所に二つ並んだ歯ブラシを見て思う。

いい、悪い、簡単、困難を別にして、俺はこの人に触れたい。応えて、もらいたい。駄目だったら、謝って、それでいい。先輩には悪いけどもう俺は耐えられない。墓までもっていくつもりだったのに、たった数年で耐えられないほど大きく膨らんだ恋心は、果たして実をつけるのだろうか。


白米と漬物と味噌汁。吐いてほぼ空になった胃に染みる。たぶんこれは出汁をとらずに唯味噌を入れただけの味噌汁だが、先輩が作ったと言うだけで最高に美味しく感じる。
「で、言いたいことってなんだ?」
「えっ、あ~あの、ご飯食べ終わってからでもいいですか?」
心の準備が、と言っていつものように笑うと、そうかとだけ言われて沈黙。言わないと、言わないと後退はないが進展もないと言い聞かせれば言い聞かせるほど気分が沈む。紙パックの烏龍茶をグラスに注いで、どうにか流し込む。
こまごまと世話を焼いてくれたうえに、食後のほうじ茶まで淹れてもらってしまった。ありがたいと同時にとても申し訳ない。
「あの」
「うん、どうしたんだ改まって」
全身の血が逆流しているような音が聞こえる。先輩は人と話すとき目を逸らさない。わかっていたはずなのに今はそれが耐えられそうにない。
「あの、俺」
「うん、ゆっくりでいい」
もう言ってしまうつもりでいたのに、まだまだ緊張はし続ける。グラスに残った烏龍茶を呷る。
「ずっと、先輩にあこがれていました」
もう、無意識のうちに剥がれ落ちてくるように言葉を発する以外に、何もできない。唯少しでも真意が伝わるように、瞳に熱を込めて。
「でも、自分でも知らないうちに、憧れ以上の存在に、先輩がなっていって」
「自分の中でもそんなこと初めてだったので、すごく怖くて」
「最初は、憧れだったんです、けれど今は、今も憧れですけれど、ほかにも、あって」

「俺は、もうどうしようもなくあなたの事が好きなんです」

時計の音だけが聞こえる。俯いたまま、未だに俺の方を見つめ続けて居るであろう先輩の顔を見れない。指先から冷えてなくなっていくような感覚に襲われる。
「そうか……」
やっとそれだけ言った、といった風に聞こえた先輩の言葉には呆れや嫌悪というよりは驚きが優っているように聞こえる。
「それは、多分……先輩と、後輩……いままでのような感覚で好き、と言っている訳ではなさそうだな」
「はい」
「そうか……あ、いや、嫌だと言っている訳では無く、少し驚いてしまって……」
当たり前だろう、いままで後輩だと思っていた男から好きと言われて戸惑わない人はいないと思う。それに言う側は唯好きと伝えればいいが、受け取る側は処遇を決めなければならない。
でも、拒絶はとりあえず無いらしく安心した。

「どう、したらいい?」
「え?」

「正直、わからないんだ……確かに御幸のことは大切な存在だけれど、そういう対象としてみたことがないから、自分の中でも、わからない……そもそも御幸の尊敬に値するのかについて疑問があって、あとずっと素っ気なかったから嫌われているものだと思っていたし……その、そりゃあ昔の俺はそれなりに野球ができていたが……今は……」
 急にそんな、いままで後輩として見ていた奴から言われたらさすがのクリス先輩も焦るらしい。目線をうろうろと落ち着かなく動かして、いつも自信満々に見つめてくるが今は目を伏せている。
「そうじゃなくて……あの俺、あのときずっと、絶対叶わなないだろうから、自分の中で気持ちを閉じ込めていおくこととか、会っても、別れてしまうのがその、つらくて……変な態度とってごめんなさい……でもそんな卑下しないでください……」

 取り留めなく、頭に浮かんだ言葉をそのまま吐きだしている。どうしたら伝わるだろうか。俺の中で尊敬というものはあなたのためにあるような言葉で、年を経て変化しつづけるあなたを尊いと思うことであることが。クリス先輩への尊敬やまた他の言葉にできない気持ちたちを、自分の言葉で伝えて先輩へ俺からの気持ちに納得してもらわないとならない。好きの羅列以外で、だ。

「別に、世間の恋人像に当てはめろとは言いません、一緒に、一緒に居てください……俺も、先輩にどうやって百パーセント伝えられるかわからないから、俺と一緒に探してください……」
 やっとそれだけ絞り出して、まだ少しだけ眠そうなクリス先輩に縋るような目を向けてしまう。ダメだったら諦めよう、と思っていたがこんなことではそれも難しいだろう。

 先輩は一つため息をつくと箱ティッシュを引き寄せて二三枚抜き取り、俺の鼻先に押し付けた。
「そうだな……探してみようか。俺と御幸で友達でも、先輩でもない、後輩でもない新しい関係を……ってまた泣いてるのか……?」
 こんな女々しいようでは呆れられてしまう、どうにか涙を押しとどめようとしても、抑えようとすればするほど大きな声をあげて泣いてしまう。
最後に泣いたのはいつだったろうか、クリス先輩に彼女ができた夢を見た日の朝以来だろう。きっと。
「泣き止ませるのも俺の役目になったんだろうな……ほらおいで」
そんなに優しくされたら箍が外れて、俺の好きでクリス先輩を押しつぶしてしまいそうだ、とどこまでも嫌われたくない気持ちが働くが、やっと、やっと恋が実をつけたのだから、こんな時くらいは素直に自分の気持ちを出してみたい。
肩をやさしく摩る手は、間違いなく俺が想い続けたクリス先輩の手なのだと頭で認識しようとすればするほど涙が後がつかえているいるみたいに溢れる。
「御幸はそんなに泣かない印象があったけどな、卒業式でも落ち着いていたし」
違う、本当はクリス先輩が卒業したらもう会えないと本気で思っていたから苦しくて仕方なかった、と言いたいのに嗚咽以外のものが出てこない。言葉にならない代わりに、おそるおそる、首筋に顔をうずめた。もし男にひっつかれるのがイヤでも、すぐに振り払えるようにそっと。
少しだけ身を固めたのがわかった。引こうとしたら引き寄せられたので、拒絶ではなかった。
「あ、いや、血のつながらない他人と、こう、親密な、えーと、初めてでな……こういったことも、二人で落としどころを見つけていこう」
言いたいことは沢山あるのに、わんわん声をあげて泣く以外のことができない。泣け泣け、と言わんばかりに世界で一番大好きな人が背中をなでてくれるのも、今は涙をさらに生産する。
「そうだな……今日は御幸もオフなんだろう?少し歩くが、チョコレートパフェが美味い店があるからそこに行こう、それで、少しキャッチボールをして……」
何やら提案をしてくれるクリス先輩の声をずっと聞いていたい。深く、何度も頷いて同意を示す。先輩とだったら、なにをしても、どこへ行っても良い。これからどんなことをしよう、どこへ行こう。今までの季節の思い出はクリス先輩を起点にして思い出していたが、これからは一緒に過ごして、思い出をたくさん作れると思うと急に楽しみになってきてしまうのだから、俺も現金な奴だ。

日本語には、恋が実るという言葉がある。
成長過程が悩ましかったから、そんなに形がいい実ではないだろうけれど、きっと、美しく色づくだろう。
「そうと決まれば、用意してでかけよう」
素敵な笑顔で微笑まれ、まだ残っていた涙をぬぐわれてしまったら、頷く以外の選択肢を俺は持ち合わせていないし、選ばない。涙声で返事をして、放られた着替えを受け取った。

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2015年10月の本の再録

みずかおちる #ダイヤの #カップリング #雅鳴

みずかおちる #ダイヤの #カップリング #雅鳴


 夏場特有の厭味ったらしくじんわり纏わりつく湿った空気を、冷たい風が浚ってゆく。
「こりゃあ、雨が降るかもな」
 低く、耳に心地よく通る雅さんの声が俺の鼓膜を震わせて、俺の脳に伝わる。起こっているのはたったそれだけのことなんだけども、雅さんの声がとどく範囲に居れるってことと俺の感覚器官が雅さんをとらえて認識したことの証明にほかならない。
 よく雅さんが俺に説教するのを傍から見て親子みたい、なんてからわれることはあるけれど、俺が雅さんを庇護してくれるものへの親愛、そういう目で見たことはない。俺はもっとズルいこと考えてる。
 自覚したのは本当につい最近で、いつもの如く練習で疲れて雅さんの部屋でうとうとしてしまったとき。


 蛍光灯の明かりが眩しくて、眠いなら自分のベッドで寝ろよと言う雅さんの雅さんの腿にうつ伏せになった。あったかくて頼りになる先輩だったんだ。この時までは。いつもは俺がまとわりつこうが何しようがどこ吹く風で野球雑誌か歴史小説読んでいるのに、この時だけ俺の頬を、優しく撫でた。子供をあやすように優しく。
 そのときふと、何気なくそうぞうした。雅さんがいつか結婚して、子供が生まれたらこうやってあやすのかな、って。



 いままで俺が身を置いていた世界での常識だと、なにもおかしくはない。
 けれど俺は雅さんが誰か、知らない女に惚れて、セックスして子供を授かるということを脳が拒否した。
俺はそのどれもできない、できるはずがない。子供っぽい独占欲とは違う、もっと子供じみた感情だと思う。




「おい、どうした鳴」
「なぁんでもない、ちょっとぼんやりしてただけ」
「体調悪いなら引っ込んどけよ」
「大丈夫だって言ってるでしょ、もう、雅さんお母さんみたい」
 俺が雅さんの子供のお母さんになりたかった。子供に、お父さんうるさいって言われてる雅さん、見たかったな。ため息をついて口が減らないガキが……と苛立ちを隠そうとしない雅さんのことが好き、意外と子供っぽところある、完璧じゃない雅さんが好きだなんて一生言わないし悟らせないから、安心して。雅さん。

喪うものはなんですか見つけにくいものですか #ダイヤのA #カップリング #雅鳴

喪うものはなんですか見つけにくいものですか #ダイヤのA #カップリング #雅鳴

 終わってしまうまでは、俺らはなにか他からは見えない絆でつながって、その絆は永久に消えないし傷つかないと思っていた。どんな形であれ、高校で野球をすることを志したときに与えられる運命は、勝つか負けるか、または甲子園に出たか出なかったか、そして甲子園で優勝したか否か、である。
 二つ目までは叶えた。最後のひとつは、叶わなかった。雅さんは成宮でだめだったら、しょうがないってインタビューで言っていたけれど、果たして。雅さんが大人の対応をしてあのときはああ言っただけだったら。もっとも信頼した仲間の心の奥底のやわらかいところを漁るようだが、冬を間近に感じるから、変にネガティブになってしまうのだろう。そうでなければ俺がこんなにねちっこいこと考えたりしない。
 恥ずかしいことに、雅さんから俺に向けられる気持ちに、悪感情を残したまま卒業してほしくない、最高の仲間としての別れを、そしてその後の関係を築きたい。それほどに、俺のなかで雅さんという存在が大きいのだろう。
 この前紅く色づいた紅葉を雅さんのノートにたっくさん挟んで怒られたばかりなのに、もう足元に散らばる葉は茶色くくすんでしまっている。

 東京は雪があまり降らないけれど、若手寮のある千葉の辺りは雪が降るのだろうか。
 制服のボタン貰おうかな、なんて考えていたら制服ごとおさがりくれるって言うから情緒があったもんじゃない。クリーニングには出さないでおいてって言わないと。クリーニングの店の裏でなにが起こっているか知る機会は無いが、あそこを通ることで原田雅功からのおさがりの制服から、だれかの中古制服になってしまうような気がする。
 
 この次の春から、雅さんのぶっとい指が起用にネクタイを巻くところ見れなくなるんだなぁ、とかもう、全然俺らしくない。水分を喪ってぱりぱりと崩れる葉を踏み拉いて苛立ちを紛らわす。いなくならないで、もっとずっとおれとやきゅうをしようと駄々を捏ねることに意味がないことも叶うはずがないことも、そもそも実行する気はないことも自分が一番よく分かっている。


「まーささん」
 雅さんはシャンプーもなにもこだわりが無いらしく、備え付けのシャンプーの匂いがする。化学的な、“さわかやな”香り。それと体臭が合わさって、雅さんんの匂いになる。
「なんだよ、もう消灯だぞ」
「わかってる」
「見てわからないか、忙しいんだよ」

 キャッチャーミット磨くくらい喋りながらでもできるのに、他人を構うのが面倒なときは驚くほど雑な扱いをしてくる。泥を落とし、独特の香りがするオイルを塗りこんでゆく。
「じゃあそのままでいいから聞いててよ」
「あー」
 生返事にしてもひどすぎる。興味のなさを前面に押し出してくる。
「あのさ、甲子園勝ちたかったね」
 よける間もなく額をミットで小突かれた。小突くというより、もっと激しく叩かれた。怒っている風ではないけれど、機嫌が良い訳でもないらしい。

「何言ってやがる」
「センチメンタルなのー」
「それはな、言ってもしょうがないことだから言わないでいい」
「雅さんはあの時ああしておけば、とか考えたことない」
「ある」
「あるんだ」

 あまりにストレートに後悔していると言われて足元が寒くなる。
「俺をなんだと思ってるんだ」
「なんか俺、雅さんに完璧なオトナ像を見てる気がする」
 なに言ってるんだ、と今度は笑いながらオイル缶の蓋で眉間を押される。俺は本気で悩んでいるのに。
「俺だってお前より一個上なだけだから、迷ったり、後悔したりするさ。それでもあの時のインタビューのときのあの、成宮で負けたらってのは変わらないな。これは本当だ」
「ふーん」
「お前から言っておいて……だからお前嫌なんだよ」
 照れ臭くなったのか、早く寝ろ、と蹴りだされてしまった。ひとつ、解決してしまうことで雅さんと俺のつながりが深くなったような。遠く離れたような。バッテリーの絆をたしかなものにしたくて奔走する俺は惨めなんだろうか。かわいそうなんだろうか。