Love you #ダイヤの #カップリング #御クリ
 ◇Love you
「哲さん、ずいぶんノックが上手くなりましたね」
「だな」
 今の青道の監督は哲さんになった。俺たちを指導してくれた片岡鉄心監督は他校で教鞭をとりつつ監督業に精を出している。同じ地区で、師弟対決。他所から見れば面白いカードなのかもしれないが、見守る側は気が気でない。哲さんが監督に就任してすぐの数試合は、あまりにノックが上手くいかないものだから途中からコーチとして手伝っている増子さんに代わっていたが、今は現役時代を彷彿とさせるの好打者っぷりを披露している。師の前でみっともないところは見せられない。そんな気概が見て取れる。
 現役選手だったころの血が騒ぐ。この歓声、ボールがミットに収まる乾いた音、パットが球を弾く音。土の匂い。かつての先輩と、監督たちが手塩にかけて育てた選手たちがしのぎを削り合うこの空間、目の色を変えて見入ってしまう。
 俺たちを指導しているころ、片岡監督は監督としては年若い部類だった。それが今となってはメディアに老将、と実に失礼なラベルを付けて呼ばれている。俺たちがもういい年なのだから、当たり前と言えば当たり前だが、こんなところでも年月の流れを感じてしまう。ふと目線を落とした先にあったクリス先輩の手の甲にも、シミや皺が目立つようになった。その過程を目の前で見届けることができているのだから、幸福と思うべきだろうか。年月の流れは必ずしも悔いばかりを生んでいるわけではない。愛する人の人生を傍で見守り続ける幸せもきっとある。
「どうした、目がうつろだぞ、熱中症か」
「大丈夫です」
 クリス先輩お手製の味の薄いスポーツドリンクを差し出されるままに口をつけて、球場のすり鉢の底で、かつての俺たちと同じように駆け回る選手たちを見遣る。遠いところに来てしまった、いや、ながれゆく時と共に行かざるを得なかった。たとえどんな結果を出していようと、過去は美しく、俺たちにとっての過去を現在として生きる選手たちが羨ましい。現役のころは考えることもなかったことだ。
 けれどそれが、嫌な気持ちはしない。失うことばかりではなかったから。
 青道の選手が決勝点となるであろうヒットを打ち、ガッツポーズをしてベンチに戻る。哲さんは何やら声をかけている。
「これで決まりましたかね」
「御幸がそんなことを言うとな……最後まで何があるかわからないのが野球だろう」
「そうでしたね」
 その先輩の言葉通り、その回ですぐ塁に走者が溜まってゆく。一打逆転、サヨナラのチャンスと言うところで出てきた青年。緊張でか、表情が固いがスイングに迷いはない。この状況を楽しめる強さがあるということだろうか。
 
 何度見ても、この光景に慣れない。
 青道はすんでのところで夢を断たれ、対する片岡監督のチームは地区代表として甲子園の土を踏むことができる。選手たちと一緒に涙を流す哲さんがあの日バスの中の哲さんとダブってしまう。こうして彼らの季節は一足早く進んでしまった。
 
 哲さんと、増子さん。そして片岡監督に挨拶をして帰路につく。先輩はずっと押し黙ったままだ。毎年このまま、外食をしてから帰宅が慣習になっているので、クリス先輩もそのつもりなのだろう。行きつけの洋食店への道を辿っている。
「すごかったな、試合」
 セットのデザート、チョコアイスを大事に大事に食べながら、先輩はやっと試合について言及した。
「ええ、本当に、やっぱりなんだか、高校野球は特別ですね、何か力がある」
「そうだな、この歳になってもうまく言葉にできないが、その通りだ」
 それっきり先輩は黙ってちびちびアイスを削る作業に戻った。黙っているときは話しかけても考えている途中だから生返事だけが返ってきて大して覚えていない。共に生きた十九年の歳月は伊達じゃない。
 
「御幸と出会ってからのことを思い出してたんだ」
「なんだか照れるなぁ」
「それがなぁ、まさかなぁ」
「こんなにスキになっちゃった?ですか?」
「まぁ……そう、うん、そうだな」
 いつもははいはい、といったふうに流されるのに、今日は素直に返事をしてくれた。少し驚いて少しだけ表情を見遣った。どこか寂しそうな、大好きな野球の試合を見に行ったあとの表情にしては曇っている、というか。
「この歳になっても、自分の感情に蹴りがつかないものなんだなぁ、と思って」
「え?」
 実はキライだった、なんて言われるはずがないけれど話の脈を辿ると背筋が寒くなる。
「高校野球に、悔いを残していないかと言うと、素直に肯定できない、が、嫌な思い出では決してない……難しいな」
「そうですね……」
 昼間の熱気が嘘のようだ。さや、と風の音が先輩と俺の間を通り過ぎてゆく。俺だってこんなとき、先輩が悩んでいるときに気の利いた一言も言えないのがもどかしくて、先輩の指をひとさしゆびで絡めとる。
「どうした、手でもつなぐか?」
「違うけど、違くないです繋ぎます」
 棚からぼたもち。
 少しだけ汗ばんだ先輩の指を自分の指でなぞる。現役時代のときよりはずいぶん大人しくなったけれど、それでも、グリップを握っている人の指をしている。大好きな人と、想いが通じてこうして長い間一緒に生きることができて。幸せ、という言葉に形がなくてよかった。
「べつに、無理に肯定する必要はないと思いますよ」
「冴えてるな」
「でしょう」
 この歳になっても、この人に褒められるのは無条件で嬉しい。頬が必要以上ゆるんでしまい、軽くつねってくる。
「この歳になっても、自分の気持ちが一番わからないな」
 美しい、という形容詞がぴったりはまるクリス先輩は、悩んでいてもその顔の造形の質を落とすことはない。忙しなく俺の指の爪やら関節やらをいじる先輩は、暑いだろうに、しっかり手を握って離さない。
「御幸と一緒に居るのは、心地いい」
「そりゃあ、よかったです」
「御幸はどうなんだ?」
「そりぁあ、もう、毎日先輩に付けたキスマーク数えながら目覚める朝は最高ですよ」
「……言うようになったな」
 ふて腐れたように目を逸らしても手は離さない。
「人生は有限ですから、少しだけ素直になろうかな、と思って」
「良いんだか悪いんだか」
 そんな軽口をたたき合って、自宅への河川敷を並んで歩く。高校生のときの俺が知ったらなんて言うだろう。
「あ」
「どうした」
「明日のパンがない」
「買いに行こう、ついでにアイスでも」
「まぁ、たまにはいいんじゃないですか」
 目に見えて嬉しそうになって、歩調が速くなる。いとおしさと、大事にしたい、大好きと。胸にじわりとあたたかなものが滲んで身体を満たしてゆく。好きに理由を求めたときもあった。悩んで悩んで、もうやめたほうがいいのかもしれないなんて考えたときもあった。けれど好きであることを誤魔化さず、貫く強さを持つことができて本当によかった。当時のその強さが今の幸せを形作っているかと思うと、よくやった、辛かったろうが今はそれが吹っ飛ぶくらい、胸を張って言える。幸せだと。
 
 閉店間際のスーパーで、クリス先輩に食パンと、牛乳を買います、と伝えた。なぜか本当にいろいろなものを入れてくる。
「なんですかこれ」
「さくさくくまちゃんだ、美味しいぞ」
「……アイスとどっちにするんですか」
「両方だ」
 こんなときばっかり気合い入れてカッコいい顔して俺の顔覗き込んでくる。一度くらいこの人の煙に巻かれないでいたいのだけれど、それはきっと向こう十年は無理だろう。


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C93の本の再録