埋火 #ダイヤの #カップリング #御クリ





恋心が実る、という言葉がある。
たびたび日本語には、表し難い気持ちの出現に見舞われた時、すっと隣に寄り添ってくれるような言葉があると思う。他の国の言葉がどうなっているかは知らないけれど、今俺が知っている言葉の中では一番近いものなのだと思う。
俺の気持ちは、実に例えることができるということだ。瑞々しい葉は陽の光をはじいてちかちかと目を刺し、きれいな花をつけて、そして相思相愛を経て、実となるという想像ができる。今このときも、実となる途中と考えることができる前向きな言葉だと思う。
いつ、芽吹いたのかについて考えるとき、いつもいつも恋とはなんだろうかと誰かと話すつもりは無いけれども、自分だけでは決して答えが出ないことを考え始めてしまう。けれど最初は抱きしめたい、それに応えてもらいたい、キスしたい、されたい、といったことを考えたことはなく唯追いつきたい、そして超えたい目標だった。はずだ。
それが今は。

俺の中で実を結ぼうとしているものは、一人よがりから生まれる実はどんなものになるのか。それよりも、クリス先輩に好きです、と伝えてしまってから失うもののほうが多いように思えてならない。戯れに触れてしまってもきっと、どうしたんだ?と少しだけ戸惑って聞き返してくるのだろうと、それはそれで苦しい。俺をひどく傷つけたりはしない優しくて、尊敬できる先輩。そんな先輩と俺は、何になりたいのかも知らないで、欲しい欲しいとだけ心の中で声高に叫んでいる。クリス先輩に対してどんどん盲目になってゆく。

けれどそうやって苦しい苦しいと思いを堆積しながらも、クリス先輩を好きでいることは微塵も苦痛ではない。後輩に向けるものだとは知っているけれど、優しく微笑まれて、御幸怪我はあれからなんともないか?だなんて聞かれてしまったらもう、それだけで満たされてしまうような気になる。
「もう何ともないですよ」
「クセになってしまったら怖いからな、ちゃんと定期的に医者に診てもらえよ」
「そうします」
「聞き分けがいいな、俺の背中を見て育ってきただけのことはある」

敵わない、何度思ったかわからない言葉を反芻する。大学に入ってからも、時に練習に顔を出してくれる。卒業してしまったらもう会えなくなってしまうから、なんて告白をしてしまっていたらどうしても足が遠のいてしまっていたのではと、今だから冷静に考えることができる。卒業式の前日なんて怖くて眠れなかった。先輩の前では泣きたくなくて、どうしたって震える唇を抑えるので精いっぱいだった。

自分が育てた意識もあるであろう沢村の様子や、同じく少しだけ怪我をした降谷の様子なんかを見て、後輩たちの、特に怪我はないかをよく見ている。動きを見ては、肘や膝、各部位への影響を噛み砕いて聞かせている。俺がこの前怪我したときも、あんなふうに心配して声をかけてくれた。

  はじめて、後輩として扱ってもらったような気がした。憧れて入ったはいいけれど、ずいぶん素っ気ない扱いを受けていた。それが原動力になって野球に打ち込んだ、のもあるけれど、この人に認められないということひどく寂しい気持ちになったのだから、もしかしたらこの時にはすでに単なる憧れの域を超えていたのかもしれない。

だからこそ、一人の後輩として、チームへの献身の一つの形だとはいえ世話を焼いてもらえる沢村が少しだけ羨ましかった。ああやって素直に?人の心に沁み渡れる愛嬌?があればとも考えなくもなかったが、それはきっと俺にはできない。
きっとみじめったらしく縋りついて、俺も、と言えばきっと戸惑いながらも受け入れてくれるのだろうけれど、俺はクリス先輩と、先輩と後輩以上の関係になりたい。どうしてこんなに、盲目にクリス先輩を求めてしまうのか。誰かに聞いたらわかるのだろうか?時が解決してくれるものなのだろうか?
後輩たちに熱心に指導する先輩を見る視線がひとつだけ湿り気と、熱気を帯びている。誰か聡い奴が気づきやしないかと部員たちをさりげなく見渡すが、皆熱心に指導に聞き入っている。急に先輩に向ける視線が恥ずかしいもののような気がして、皆と違う意識でクリス先輩の話を聞いているのが悪いことのような気がして目を伏せる。
こうでもしていないと、唇に目が行ってしまう。

クリス先輩の事を好きでいる毎日は、迷いはないけれど、ときに苦しい。
あっちからしてみたら後輩の一人なんだろうな、と思うと同時に、一緒にリハビリをすることを許されていたりと、パーソナルスペースに入り込めているような気がする。たぶん俺が勝手に感じている壁は、俺がクリス先輩を見る目が違うってことなんだと思う。埋め方をしらない溝が横たわっている。



高校を卒業してから七ヵ月ほど経ったろうか、久しぶりに坂井さんから連絡が来てはじめて、皆と随分長い間会っていなかったことに気付いた。
「坂井さん、お久しぶりです」
「御幸!久しぶりだな!」

その簡単なあいさつだけで、俺たちは高校生に戻れる。あのころ深めた親交はそう簡単に薄まるようなものではなくて安心した。あれから俺はプロへ、他の皆は大学、就職と、それぞれの道を歩くための選択をした。その道の違いはあれど、こうしてまた旧交を温めることができている。
今日行く気になったのは、こういった集まりには今までずっと参加していたクリス先輩が、お家の都合でアメリカへ行っていると聞いたからだ。
もう、疲れてしまった。あの人が大切だ、愛おしいと自分だけが気持ちを溢れさせるだけの恋に疲れてしまった。いま忙しく新生活をどうにか成り立たせようとしているなかで、クリス先輩を想うことはあまりに、苦しかった。

それでも忘れることはできずに、クリス先輩が大学で活躍している知らせが入れば一人複雑な気持ちに浸っていた。あれだけ素敵な人だから、恋人ができたら、と考えて眠れない夜を過ごしたことも何度もあった。忘れることなどできるはずがない。人生の一番濃密な時間を憧れ、複雑な想いを注ぎ続けたひとを、今自分の事で精一杯だから、というだけで忘れることなんて到底無理なことだったんだ。その証拠に、続々と集まる先輩や同期、後輩たちの群れに、あの人を探してしまう。

たった五カ月、顔を合せなかっただけでこのザマなんだ。よく忘れようだなんて思ったな、と自嘲した。
このまま墓の下にまでもっていくのが一番理想的なんだろう。最近冷えが一段と厳しくなった東京の空へ皆が吐いた白い息がとけてゆく。季節が巡っても、季節ごとに思い出すのは先輩との思い出。季節が巡るたびに、叶わなかった、きっとこれからも叶わないであろう恋を思い出してしまうのは、胃の底に重たいものを入れているような息苦しさを味あわせてくれる。
「よぉ、御幸。お前がこの集まりに出てくるなんて珍しいじゃねぇか」
今は関西の大学野球チームに所属して、野球を続けている純さんに背中を小突かれた。小突く域を超えた衝撃に若干よろめいてしまう。
「今回はたまたま予定が合ったんですよ」
「おーおー、今や有名人になっちまったからな、お前」
ドラフト順位が高めであったことから注目してもらったのもあるが、世間から見たら顔のつくりがいいらしい。気の早い広告会社には高校卒業をした春にもうテレビコマーシャルの話を貰っていた。それが放映されるやいなや俺の知名度は無駄に上がってしまった。繁華街を歩いたら声をかけられるだなんてアニメやドラマの世界のことだと思っていた。付け焼刃の変装として駅ビルの眼鏡屋で、少しだけ色の濃いレンズをはめた眼鏡を買った。それもあまり意味をなさず、集合場所になった交番前で女の人にサインを求められて本当に参ってしまった。純さんや倉持は面白がってサインを求めてくるし。

「なぁんかよぉ、お前がすこし遠いぜ」
純さんがポツリとこぼした一言がひどく重く聞こえた。かつての、共にあのひどく暑い夏を戦ったチームメイトから言われてしまった。選択が違うからといってあの頃と全く同じように、とはいかないのかもしれない。それもそうだろう。皆持っているもの、いないもの、立場。さまざまに抱えながら日々を過ごしている。そうしていれば、行きつく場所が変わってくるなんて、高校にいたときのほうが分かっていた。他人と自分の人生は通過点が一緒であることはあっても共に生きることなんてできやしないんだと、幼いころの自分の方が知っていた。

「そんなこと、言わないでくださいよ純さん」

いつものように、冗談めいた声音で言えただろうか。



「ほんじゃあ、オレンジジュース、ピッチャーで」
髭面の、厳つい表情から発せられた言葉に店員はは、はぁとだけ返して厨房に消えた。未来あるお前らが未成年飲酒なんてつまらないことでケチがついたらいけない、と幹事の坂井先輩が言うものだから、皆素直にジュースをグラスに注いだ。OB名簿があるとはいえ、名門野球部である青道はとにかく部員が多い。その一人一人に声をかけて、この会を実現させた坂井先輩の思いを無下できる奴はこの場には居なかった。それになにより、この人がいた。
「あ、カントクは何飲みますか」
「瓶ビールを頼む」
まさかこの人の前で年齢をごまかして、だなんてできるはずがない。それに礼ちゃん、太田部長、落合コーチと俺らを育ててくれた大人たちの前で、自分たちが生きてきた年齢をごまかしてまで酒を飲みたがるほど酒の味を知っている奴が一人もいなかったというのもある。
「お前らの代はなぁ、甲子園出てからと、出る前とで練習試合の申し込みの数や卒業生たちからの差し入れの依頼が全然!違ったなぁ」
当時を懐かしみながら、礼ちゃんと猪口を傾ける太田部長の髪が全体的に白さが目立つようになってきた。きっとたくさん苦労をかけたのだろう。ドラフト候補になってから野次馬や追っかけのようなものが増え、それに付きまとわれそうになるとうちの生徒に何かご用でしょうか、とあの人のよさそうな笑顔で割って入ってきてくれた。感謝してもしきれない。
「でも、なんとかうまくやっていけてるようで安心したよ。また時間を作って青道の練習にも顔を出してくれよ」
「ええ、ぜひ」

「増子さん、実家のコンビニ、どうですか?」
「わ、悪くは無い」
仕事は楽しいしな、と笑う先輩は少しだけ顔がほっそりしてしまったような気がする。青道生が主なお客さんだからと見通しは明るいらしい。近いから、と頻繁に練習を手伝いに行っているという。口数は多くないものの、行動で示せる増子さんはシブい大人に映るらしく後輩たちから大人気、というのは礼ちゃんの弁だ。

「おっ、クリスじゃねーか!お前間に合ったんだな!!」
純さんのばかでかい声で心臓がひっくりかえりそうになった。
今日は来ないはずじゃ、と誰かに確かめることもできずに思わず身を屈めた。ししょおー!と沢村のこれまたばかでかい声が騒がしい居酒屋のBGMのように聞こえた。
「そうだ、沢村」
いつのまにか増子さんと俺の間に顔を突っ込んできた倉持が言うには、今あの『わかな』と付き合うことになったらしい。結局、カノジョじゃねーかよと口をとがらせる倉持はなかなかそういった出会いがないらしい。根はいいやつなんだけれど、根の良さを知ってもらうにはある程度仲良くならないと、といったところで躓いているらしい。
「おい、倉持、亮介さんが呼ん」
「ハイッ!!!すぐ行きます!!!!」
声をかけた木島も驚く速さで文字通りすっ飛んで行った。あいつなら、きっとすぐに寄り添いあって生きたいと思ってくれる人がすぐに見つかる気がする。
思わず大きくため息をついてしまい、木島と山口に心配されてしまった。
「お前、プロに行ったらやっぱり体格!体格が違うだろう」
「プロテインはトレーナーがついているだろうからいらねーぞ」
「ありがとう木島。その通りだ山口」

襖で仕切られているとはいえ食堂とは違うと言っても自慢の上半身を見せたそうだが、上腕二頭筋をぐにぐにと触れば満足げだ。おしつけがましいようでさっぱりしているから、嫌な感じがしない。このやりとりも、すべてが懐かしい思い出になっている。
「すごい筋肉だな、山口」
「クリス先輩!」
数か月ちょっとじゃ変わりようがない、あの懐かしい声音。どうにか、お久しぶりです、とだけ絞り出した。
 
「皆、元気にしてたか?」

「そりゃあもう!ご覧のとおりですよ!」

そう言って茶目っ気たっぷりにポーズを決める山口をどんな顔して眺めればいいかわからない。すぐ隣にクリス先輩が座っているという事実だけで今すぐにでも逃げ帰りたい。

「御幸も、木島も久しぶりだな」
「お久しぶりです」
木島に続いて自然に、お久しぶりですとだけ言った。
「御幸は広告でよく見るんだけどなぁ、実物にあったのは久しぶりだ」
「俺もだ。学校の最寄駅にも大きな広告が出てるぞ。頑張ってるんだな」
今度は哲さんまで。二人の尊敬する先輩に褒められて居たたまれない。
「ホラ、お前がやってる飲み物のCM、あれいいよな」
「「「「忘れられない、恋をしよう」」」」
山口、木島、哲さん、そしてクリス先輩が声を揃えて唱えたのは俺が出ているCMのキャッチフレーズだ。恥ずかしさに頭が真っ白になる。その、俺が忘れられない恋をしている人から聞きたい言葉ではなかった。四人はきゃいきゃい言いながら動画サイトの企業公式ページを探している。
「ちょっ、それは」

無慈悲にBGMが流れ始めた。これも仕事のうちだからとマネージャーさんになだめられながら撮影したCMに皆がたかる。軽快な音楽と共にかなり棒読みに近い宣伝文句が騒がしい、さっきまで騒がしかったのに皆一斉に黙って笑いを堪えたような顔をして山口のスマホに見入る。
「うわ~~御幸かっこいい」
「やめろって!」
「かっこいいぞ御幸」
「哲さんまで!」
せめてクリス先輩の前で、俺があんなことを言っているところを見せたくなくて羽交い絞めにしてくる宮さんに少しだけ強めに抵抗する。が、無慈悲にもコマーシャルは流れ続ける。そしてあの、初めて自分の口から言わなければならないと聞かされたときは心臓を握られた心地になった言葉を、画面の向こうの俺はじつに情熱的に言って、やっと終わった。
皆は盛り上がり、急に興味を喪ったらしくそれ以上追及されることは無かった。いつかまたお前と戦いたい、と息巻く哲さんを無理に笑って、俺もです。とだけ返した。
「どうした」
「はは、ちょっと」
変なところでこの人は聡いのだ。ふやけて崩れ始めているストローの袋を所在無さげにいじってごまかそうとするが、哲さんは俺が話を逸らそうとしたとは思ってないらしく、じっと目を見つめてくる。かと思うとハッ、と何かに気付いたようなしぐさをし、声を潜めて、
「お前、好きだったひとがいるのか」

いままで蓋をしていた気持ちの、きつくきつく締めて、奥底に沈めていた気持ちを見透かされたような気がして、途端に居たたまれない、なんだか恥ずかしいことを、悪いことしているような気持ちになる。どこまでバレてしまったのか、と聞いてしまいたいけれど、クリス先輩のことが、哲さんや純さんたちとは違う意味で好きだと尊敬する先輩には知られたくない。少し前までは、ずっと好きでいることなんて怖くない、隠し通せる。このまま墓の下にまで、なんて考えていたけれどすこし揺らされただけでこんなにも動揺してしまう。
「哲さん、ナイショです」
「そうだな、ナイショだ」
いい歳した男二人がゆびきりをするさまは決してかわいらしいものではないけれど、こうした方が哲さんはわかってくれるだろう。自分に言い聞かすようにナイショだ、という哲さんに一抹の不安を覚えながらも、軽々しく言いふらす人ではないから、黙ってオレンジジュースで乾杯する。
「なんだ、ナイショ話か?」
「そうだ。ナイショだ」
クリス先輩の声を聴き間違えようがない。曖昧に笑って、すみません、とだけしか言えない。高校の頃のほうがまだまともに目を合わせて話せていた。分かたれてしまった道の違いからか、ここさえ乗り越えてしまえばまた、自分の中でだけ想いを寄せていられると思ってしまう。下手に距離を縮めてしまうと、物理的に空いてしまった距離に耐えられない、ということはクリス先輩が卒業して三か月のうちに痛いほど知った。
「御幸、活躍してるみたいだな」
「いやぁ、まだまだですよ」
そうか?と言って笑う先輩の、目をすこしだけ細めて唇の端を上向きにする笑い方を懐かしいものとしてとらえてしまったことに耐え切れず、先輩の前だというのに叫びだしたいくらいの激情に襲われた。苦しい、好きです、受け止めて、応えて、と恥も外聞もかなぐり捨てて投げつけるには、俺は大人になりすぎたように思える。

一足先に成人になった先輩たちはこれから監督や大人たちを囲んで飲みなおすらしく、未成年組と分かれて夜の街に消えて行った。クリス先輩の誕生日は十月一日。もう二十になっている。クリス先輩の、誰に向けたわけでなく振られた手から目を離せずに、ぼんやり手を振りかえして帰路についた。
たった一日会えただけで乱れた気持ちを落ち着かせるのに相当の時間を要した。あれだけ近くに居れたのが、言葉を交わせたのが偶然で、これが普通なんだと言い聞かせて、日々の練習に身を粉にして打ち込むことで忘れることに終始した。まぁ、今までの経験から忘れることなんてできずに、居るはずのない、人ごみの中でハッとする、というのを何度か繰り返してものすごく落ち込んで、というサイクルを繰り返すんだろう。花をつけていても、応えてもらえるどころか、花が咲いていることを知られていないから実を結ぶこともない。文字通り、不毛な恋だ。



「まぁーた御幸は不参加か」
「忙しそうだしな」
「クリスだってちょっとは会っておきたかったろ?」
「まぁな、最後に会った……というか見たのはドームで、卵くらいにちっちゃく見えた……くらいだからなぁ」
「クリスですらそうなら、俺らが会える筈もないな、そうだよな皆」
「だな」
「そうですね」
そう言って、御幸が一番最初にコマーシャルをしていた飲料を呷る門田は、大学を卒業してからは就職して、春には子供が生まれるらしい。まだ酒が入っているわけではないのに、散々のろけ話を聞かされた。
週に一回、近所の野球チームで草野球で汗を流している、と聞いた。節目節目で、皆選択を繰り返している。本当は節目だけでなく、毎日に選択の機会が隠れているが、気づいていないだけだと気付いたのはつい最近だった。
御幸とは高校を卒業してからまともに会話をしていない。
もともとこの会に来る回数が極端に少ない。その上、俺が話しかけるとぎこちなく苦笑いをして話を濁そうとする。なにか踏み込まれたくないところがあるのならば、きっともっとうまく隠せる奴だと思っていたが、それができないくらい、露骨に避けていたいのかもしれない。だからといって、そんな扱いを受けるほど何かをした記憶はない。本当に大事で、選手としても人間としても尊敬に値するひとに冷たくあしらわれたままだと、何と無く心苦しい。自分で解決の糸口を持っておこうと、年賀状、暑中見舞いはお互い欠かしたことはない。ほっそりとした御幸の字が近況を書き表したはがきが半年に一度届くことで、いまだ繋がりを保っておけているような気がする。
宴席でも近況を語りつくしたら皆一様に御幸の事を話し出す。身近に生活していた、今や手の届かない存在になってしまった御幸をすこしだけ遠くから、もう自分とは立場が違うといった風に語る。
俺も皆と等しく、御幸とは物理的距離がある。それでも何故か遠い存在、と割り切れてしまえないのは何故だろうか。高校時代に同じポジションで、御幸が俺に憧れてくれていたから、季節のあいさつを欠かさないから、などいろいろ考えてはみるけれど、根拠としては弱い気がする。多分、御幸が遠くにいってしまったことを認めたくないのだろう。もしかしたら、この怪我が無ければ、御幸と回り道なしで戦う未来があったのかもしれないと考えてもしょうがないことまで考えてしまう。
一目元気で顔を見せてほしい、以前のように野球の話や、くだらない話をしたり、軽くキャッチボールがしたい。そんな、高校時代のただの先輩の願い何て聞いていられるほど暇ではないだろうから心の中にとどめておく。
「なんだよクリス、しけた顔して」
「なんでもない」
いつのまにか空いていた猪口に銘も知らない日本酒が注がれる。坂井は未使用の猪口を手に取り、手酌で注ごうとする。それを制してなみなみと注いでやる。
「おっ、クリス飲めるんだ?」
「ほどほどにな……」
「あ、クリスは思ったより弱いよ」
なにやら可愛らしいカタカナの名前がついているカクテルを傾ける楠木が声をかけてくる。
「そうか?俺は飲めない方なのか」
「うーん、それで野球部の飲み行くのキツくないかな?って思う」
「えっ、じゃあ水も飲んどけよ」
と言って程よい冷たさの氷水をせっかく取ってきてくれたので一口飲んでおく。坂井、楠木とグラスと猪口を合わせて、一口呷る。アルコールが食道を焼く感覚と、日本酒特有の籠ったような匂いが鼻をつく。少しで血の流れが良くなった感覚を味わえる。
「こうして皆で酒を飲めるようになるなんてな」
「な、俺らもさ、大きくなっちゃったよな」
「身体ばっかりでかくなったけどな、俺、あのとき降谷にレフト交代する夢まだ見る」
坂井がしみじみと猪口に残った日本酒を揺する。ゲームセットをベンチで迎えた三人でも、あのことを思い出すとき、内容は三者三様だ。しんみりとしてしまった雰囲気を振り払うかのように倉持が割って入ってきてくれた。粗雑なようで、実に細やかな気遣いができる。それも他人に感じさせないように。
「おっ倉持じゃねーか、カノジョできたか」
「坂井先輩」
小湊弟が何か知っている風に坂井の袖口をひっぱる。目に見えて暗くなってゆく倉持の恋路を根掘り葉掘り聞きだそうと随分悪そうな顔になっている。

「おっ、御幸来るっぽいです」
ぴろん、と可愛らしい音を立てたのを聞いて倉持が画面を除いたかと思えば、まさかということを言う。
「それ本当なの」
腕組みをしながら仁王立ち。この迫力を前に嘘を言える奴なんかこの部に居やしない。倉持や木島は直立している。亮介を前にした倉持は画面を見せることで納得させたらしい。
「ホントだ、終わりの方少しだけど来るって」
皆は久しぶりに会う元キャプテンに沸き立つが、いざ会えるとなるとなんだか落ち着かない。期待しすぎてもダメになったときに勝手に失望しそうなので、意識のなかから懸命に追い出す。

消毒液のにおいだか知らないが、独特の香りをもつ温かいおしぼりで手を拭うと、後輩たちが甲斐甲斐しくゴミを回収してくれる。こういった部活内の上下関係なんて久しぶりだ。大学でもそういったことはあったが、高校の後輩に世話をされるときほどあたたかみがあったり、尊敬が自分の身を動かすような行動ではなかった。上の代がそうしていたから、自分もそうする。唯それだけだった。大学在学中の方が、記録に残る結果があったが、自分の中で強く思い出に残っているのは高校時代のことだ。
俺が野球から離れざるを得なくなっても、誰かの憧れであり続けれられたときの方が綺麗に見えているのか知れないが。当たり前のように、結果を求めてきた。が、記憶に残っているのは結果以外のところだ。自分が関わった後輩が怪我なくプレーできている、それに、俺にあこがれて高校を選んだ後輩が、甲子園で活躍し、今はプロになっている。
中学の頃の夢はプロ野球選手。
今から夢を叶えようとして、叶うかと考えても難しいだろう。けれど、きっと誰に言っても負け惜しみに聞こえてしまうだろうから言ったことはないが、吹っ切れている。俺は今、俺ができる最高のプレーをしている。それに後悔が生まれようもない。
「倉持、御幸来ないけど」
「亮介、そうキツイ口調は」
嗜めるのが一拍遅かった。倉持は飛びつく、という言葉が一番近しい動作でスマホの画面を見る。
「かなり遅くなるみたいです……」
「クリス、電話かけてみて」
「俺か?」

何か企んでいるときの含み笑いをして、頷く亮介に促されるままにスマホを手に取る。

「忙しいんだ、出ないかもしれない」
「いいから、きっと出る」
何故か知らないが心臓がざわつく。昔撮って、登録した御幸の顔写真、珍しく年相応にはにかんでいる写真に軽く触れると、発信画面に切り替わった。



「ウッエ?」
思わず変な声が出てしまった。心臓がひっくりかえったまま口から出てきそうだ。想像してみてほしい墓までこの気持ちは持っていく、と決めたつもりの意中の人から電話がかかってくるときの気持ち。
「……もしもし」
「御幸か?」
「はい、御幸です」
  久しぶりに声を聴いた。季節のあいさつはすべてハガキだったから実に、数年ぶりだ。血の通った先輩の声に愛おしさが、蓋をしてしまったはずの気持ちが溢れそうになる。
「えーと、今日は来れるのか?」
「今、新宿御苑前なのでもう少しかかりますが、向かってます」
「そうか、皆楽しみにしてるぞ、気を付けて」
「はい」
俺からは切れないから、きっと先輩が切ったんだろう。

たった数秒の会話だというのに、本当に本当に嬉しくて、別れが辛くなるだけだろうに会いたくて仕方がない。皆、楽しみにしていると言っていた。皆のなかにクリス先輩が含まれていることを信じて、各駅停車以外の運行がない路線の窓の外を落ち着かない気持ちで眺める。



「今御苑前だそうだ」
「ああ、じゃあ少しかかるけど、来るね」
「そうだな」
「それにしても意外、クリスとは会ってると思ってた」
「そうか?御幸も忙しいんだ、高校のとき二年だけ一緒に居ただけの先輩に構ってられないだろう」
「……クリスがそんなにムキになるってのも、意外」
「そうか?」
他人に指摘されて初めて気づいた。何か言いたげに熱燗を呷って、にやりと笑う亮介にとりあえず何かを食べさせて黙らせようと取り皿を探す。これ以上深く、この気づきを掘り下げられたくなかった。
「早く来るといいねぇ、御幸」
「ああ、まぁな」
亮介の空になった猪口に冷酒を注ぐ。軽く会釈をしてまた呷る。この兄弟はとにかく酒に強い。何次会まで会を重ねても、涼しい顔をして介抱している。
会って何を話せばいい。あのころみたいに、どれだけ久しぶりに会っても昨日別れたばかりのように話せるとは、今は思えない。



店の中からも外からも、ずいぶん出来上がっている声が聞こえる。
店の中から聞こえる声はどれも聞いたことのあるものばかりだ。ゾノの声なんて聞き間違えようがない。けれどなかなか、ここまで来ておいて踏み出せない。なにもクリス先輩にだけ会いに来たわけじゃない、と自分に言い聞かせても一度再会してしまえば何があふれ出てくるかわからない。それを塞き止めておけるのかもわからない。
「どうしたんスか、そんなところで……?あれ?御幸先輩?」
「金丸……!久しぶりだな」
あのクセの強い代のなかで繊細且つ理性的だった後輩に呼び止められて思わず身を竦めてしまう。
「とりあえず中で何か飲みませんか?外寒かったでしょう」
「ああ……」
ケチのつけようがない、当たり前の声掛けが今は、涙を、不安を我慢することなく吐き出して逃げ去ってしまいたいほどに苦しい。
俺に気付いて、口々に久しぶり、元気にしてたか等々の言葉をかけてくれる先輩後輩、先生方に挨拶をして皆にとっては何度目かわからないほどしたであろう乾杯をする。
「降谷は?」
俺と同じくプロの道を選び、遠くで活躍を聞くだけの後輩の名前を出せば、ほらそこ、と示した先にはクリス先輩の膝を枕にすうすうを寝息を立てる降谷が居た。
「何やってんだあいつ……」
正直なところ羨ましい。金丸が上着をハンガーにかけてくれると言うのでありがたくお願いする。
「御幸!」
これまた聞き間違えようがない声。小湊亮介先輩だ。空の猪口だけ持って先輩の隣に行く。その隣にクリス先輩と降谷が居る。クリス先輩とは逆に座ろうとしたが、わざわざ空けてくれた場所がそこしかなければ、押しのけて行くわけにもいかない。
「久しぶりだな、御幸」
聞き間違えようがない。あるはずがない。不自然でないように、お久しぶりです、と返す。膝で寝ている降谷の頬をつついて、お前も、というと、ぷすう、という間抜けな寝息が返ってきた。
「御幸、猪口」
まさか亮さんから酒を注いでもらう日が来るとは思わなかった。正座をし、姿勢を正す。案の定クリス先輩と自然に会話ができない。きっとクリス先輩にも変に思われているだろう。
「先輩は、お元気でしたか」
「それなりにな……御幸は上手くやってるようじゃないか」
「ありがとうございます、日々精進ですけど……」
どれだけ時が経とうとも、この人に褒められるのが本当にうれしくて仕方がない。思わず頬がゆるんでしまう。
「御幸、よかったねクリスに褒められて」

「はい」
若干涙ぐんだのを、亮さんは気づいていたと思う。
「もっと飲みな、身体温まるよ……クリスも猪口が空いてるよ御幸」
亮さんから徳利を包むおしぼりごと受け取って先輩方にお酌をする。三人で猪口を合わせ、呷る。結婚式では固めの杯と言って夫婦になる人たちが飲み交わす、らしい。

なんてヨコシマなことを考えていたからか、疲れていたからか酔いの回りは恐ろしく早かった。
今度は降谷が起きだして亮さんと飲み、俺はなんとクリス先輩の膝枕という恐ろしいものを享受する機会が与えられた。チンコが勃ってしまわないように必死に今日の練習での配球を思い出す。酒で温まった指先が、優しく髪の毛を梳いては、ときに引っ張ってくる。きっと、これが単なる後輩先輩だけの関係でなくなれば、もっと触れることができるのだろうけれど下手を打てばこんな、今までの報われなさを考えると破格のことである膝枕さえしてもらえなくなるだろう。リスクを取るか、アンパイを取るか。この喉がチリチリとひりつく痛みは、まるで野球みたいじゃないか。
どうすればいいのか、どうしたいのか。本当にわからなくなってきてしまった。本当に大事なのは何なのか、守りたいのは何なのか。唯一つ、この優しく触れてくる手を喪いたくないというのは揺らがない。
「なぁんだ、御幸潰れてやがんのか」
「そうなんだ」
ずいぶん遠くで純さんの声が聞こえる気がする。
「すっげぇ幸せそうな顔」
「テレビで見るときはあんなに辛気臭そうというか、ピリピリしてるのにね」
「憧れの先輩の膝枕で寝てるんだぜ……?俺が東先輩に膝枕してもらえるんだったらこんな腑抜けた顔になるわ、わかるぜ御幸」
純さんの酒臭い息が吹きかけられて思わず顔をしかめる。

「お、こいつ起きてんじゃねーか」
「起き上がれないだけで、意識はしっかりしてますよ……」
「意識しっかりしてたら先輩の膝で寝ないから」
バッサリ、だとかそういう効果音が付きそうな声音で俺の戯言を切り捨てる亮さんから眉間の皺を伸ばされる。
「ずっと気を張ってたんだね、今くらい甘えていいよ……クリスに」
皆はからかうように笑って、よかったなぁなんて言っているけど俺は怖くてクリス先輩の顔が見れない。呆れたような笑い方だったらどうしよう、もう、季節のあいさつすら返ってこなかったら、と嫌に弱気になってしまうがそれをどうにか押し込めて、酔いがひどく回っているふりをして存分に堪能する。明日になったらあのときは酔っぱらっていて、と言い訳をすればいい。どんな関係であれ、続けていたい。
「御幸、本当に飲めないのか?」
めちゃくちゃに酒に弱いからと藤原先輩からも純さんからも薄く作ったカクテル以外はやめておけと言われてから、素直にカシオレをちびちび飲む哲さんの声で少しだけ覚醒した。
「そんな、哲さんに言われたら飲めないわけないです」
「御幸、無理するなよ」
憧れの先輩と、愛してやまない先輩二人から気遣う言葉を掛けられて喜ばないわけがない。普段はこんなにふにゃふにゃ笑わないのだけれど、今は頬が嫌に緩い。
クリス先輩の猪口に、熱燗を注いで、哲さんが酌をしてくれると言うのを断って手酌で注ぐ。チン、と涼やかにグラスと猪口二つが合わさる音ののち、クリス先輩の喉が上下する。
慌てて目を逸らし、哲さんが剥いた枝豆のカラを適当な皿に盛る。
「む、すまんな」
「とんでもない」
酔いがまわっているフリなんてできないかもしれない。実際にかなり酔いがまわってきてしまっている。ごくごく自然な動作でクリス先輩の太腿に頭を預ける。口先だけはすみませんと言って。あまり弱みを見せたりしなかったからか、驚いた様子で所在無さげに俺の眉毛を引っ張っている先輩の瞳は変わるはずがない日本人離れした金色。それもクリス先輩が眼鏡を外してくれたので見えなくなる。この方が都合がいいかもしれない。

ぼやけた視界にはクリス先輩の指先がいっぱいに映る。酒のせいで最高に気持ち悪いけれど、これだけ酔っていれば、このままで居たいっていうあり得ないことを願う気持ちも、別れの辛さもすっきり忘れて明後日からの練習にも清々しい気分で参加できるんじゃないだろうか?

最後の記憶がそれで、今はどこか知らない家の廊下に座っている。

初めてこんなに飲んだ気がする。気心知れた仲間と久しぶりに合えて本当に嬉しかった。思えば高校ほど腹を割っていた時期はなかったのかもしれない。大人になればなるほど、誰かに自分をさらけ出すことが怖くなっていった。
身体を起こしていると気分が悪くなるので寝ころぶ、というよりずり落ちた。冷たいフローリングに頬を当てて涼んでいると、床を軋ませる音が聞こえる
「目が覚めたか?」
「クリス、せんぱい?」
「ここは俺の家だ。一人暮らしだし、遠慮なく吐くといい」
そう言って冷たい水が入ったグラスを差し出してくるクリス先輩の表情が暗くて見えず、何と無くきまりが悪い。
「俺、吐きました?」
「少しな」
好きな人の前で酔いすぎて吐くだなんて、カッコ悪すぎて別の意味で頭が痛い。でも繕う余裕もないほどには酔ってしまっている。貰った水を少しだけ飲み下す。今更気づいたけれど着せてもらっているジャージ、青道の学校ジャージだ。これを着ていた頃も好きだったけれど、これを着なくなった今もずっと好きだ。これだけは疑いようがない。求めて、求めても手を伸ばすことすら怖がっていたから当たり前だけど、進みようがない恋だ。
しんみりしていたらまた吐き気を催してしまった。
「せんぱい、すみません吐きそう」
「こっちだ」
よろめくと結構強い力で支えてくれる。不覚にもきゅんとしてしまった。ちゃんと掃除してある便器に向かってえづくが、先輩が去る気配が無い。
「せんっ、ぱい、もう大丈夫ですから」
「喉に詰まらせたりしたら大変だろう……いいから」
と言って背中を摩ってくれる先輩の手のぬくみを感じながら、無理やり追い出す気力もなくおとなしくえづく。
「吐ききったならすっきりすると思うが……まだ気分悪いんだろう?」
「はい……」
心配そうにのぞきこんでくれるのが嬉しくて、勘違いしてしまいそうだ。こんなに近くて遠い。酔っていると情緒が安定しない。何故か涙が滲んでくる。先輩ったらあわててる。
「泣くほど気持ち悪いのか……?」
「ぢがいばず」
全然カッコ良くない。好きな人の前でくらいカッコいい自分を見ていてほしいのに。唾液でべちゃべちゃになった口の端をハンカチでぬぐって、クリス先輩の両腕をとって向かい合う。
「ばの」
涙声になってしまって本当に恥ずかしい。
「どうかしたか、水か?」
「ぢがいばず、あじだ、いいだいごとがばるので」
「明日か?明日は一日暇だから大丈夫だ」
そう言って水を飲ませてくれようとする先輩の好意をありがたくいただく。先輩は困った後輩を放っておけないだけ、と考えるのがふつうだけれど、今はそう、お互いに酔っぱらっているから。



言うだけ言って満足したのか、せまっくるしい便所の床で眠い眠いといつもの冷静さや人と関わるとき一線引いたような態度をどこかで落としてきたみたいにぐずる。ぐずぐずと脚にまとわりついては、寒いからと言って離さない。
在学中も、先輩後輩として理想的な関係であったと思う。お互いを尊敬し、慕いあう関係であったと俺は思っていた。いつからか、多分甲子園行きを決めたあたりから御幸に負担をかけてはいけない、もう彼の時代なのだからと足が遠のいた時期があったが、それから数か月は何も変わらず過ごしていたはずだ。
ただ、俺が少し遠くから御幸を見たことで湧いた澱が胸の奥底に沈んでいる。どうして御幸は、今や俺より実績がありながらも憧れであると慕ってくれているのだろうか。昔の俺の偶像を御幸のなかで作り上げているだけで、今の俺のことを尊敬しているわけではないのかもしれないということが気になってしまっている。
御幸が慕ってくれるのを、先輩先輩と情を注いでくれるのをいいことに、御幸の気持ちに胡坐をかいている、尊敬する価値が薄れた単なる年長者に成り下がってはいないだろうか。

その、曇りない尊敬に値する人間であり続けて居れているだろうか。
今日だって、御幸が珍しく甘えてくるものだから、嬉しかった。俺が大切にした後輩が、こうして少し弱いところを見せて頼ってくれるのだから自分に少しだけ価値を見いだせたような気がする。特に膝枕をせがんだり、泣きながら自分に何かを伝えようとしていた姿が目に焼き付いている。今は泣き腫らした目元をそのままに安らかな寝息を立てている。慣れない暮らしで、気を張っていたんだろう。眼鏡を外してやると少しだけ幼げのある表情が見える。自分とそう変わらない後輩が、立派になったことの嬉しさと、あんなに泣くほど大変なことを伝えられるのかと思うと少し心配になる。
「へんぱい」
「どうした?眩しいか?雨戸閉めてくる」
「ふふ」
満足げににやけたあと寝入ってしまった。ここまで遠慮が無いのに嫌な気がしない。むしろ甘やかしてやりたくなる。
せまっ苦しい一人暮らしの家に男二人が寝場所を確保するだけで大変だ。どうにか御幸の居ないスペースを探して寝ころぶ。
プロ野球選手として、テレビの向こう側にいるところを見る機会の方が増えたのにこうして俺の家でだらしなく腹を出して眠っている。不思議な気分だ。高校を卒業してしまえば、学生時代に培った縁というものは多少なりとも薄れてしまうものだと思っていたが、物理的な距離が一番離れてしまったこの後輩とはなぜか、繋がっている。



酔っぱらって、寝落ちた後記憶が消える人も居るらしい。俺はそうではないし、クリス先輩もそうではないようだ。
台所からは味噌汁の匂いがする。先輩が作ってくれた味噌汁を食べれるなんて、幸せすぎて明日世界が終わるじゃないだろうか。
「起きたか?」
「……起きました」
「そうか、洗面所に新しい歯ブラシあるから、使っていいぞ」
「何から何まで本当にすみません」
「いいんだ」
こんなに優しく、微笑みかけてくれる。昨日は、言いたいことが有ると言ったけれど冷静になった今、この関係を投げ打ってまで先輩後輩以外の関係になることが本当にいいことなのかと、洗面所に二つ並んだ歯ブラシを見て思う。

いい、悪い、簡単、困難を別にして、俺はこの人に触れたい。応えて、もらいたい。駄目だったら、謝って、それでいい。先輩には悪いけどもう俺は耐えられない。墓までもっていくつもりだったのに、たった数年で耐えられないほど大きく膨らんだ恋心は、果たして実をつけるのだろうか。


白米と漬物と味噌汁。吐いてほぼ空になった胃に染みる。たぶんこれは出汁をとらずに唯味噌を入れただけの味噌汁だが、先輩が作ったと言うだけで最高に美味しく感じる。
「で、言いたいことってなんだ?」
「えっ、あ~あの、ご飯食べ終わってからでもいいですか?」
心の準備が、と言っていつものように笑うと、そうかとだけ言われて沈黙。言わないと、言わないと後退はないが進展もないと言い聞かせれば言い聞かせるほど気分が沈む。紙パックの烏龍茶をグラスに注いで、どうにか流し込む。
こまごまと世話を焼いてくれたうえに、食後のほうじ茶まで淹れてもらってしまった。ありがたいと同時にとても申し訳ない。
「あの」
「うん、どうしたんだ改まって」
全身の血が逆流しているような音が聞こえる。先輩は人と話すとき目を逸らさない。わかっていたはずなのに今はそれが耐えられそうにない。
「あの、俺」
「うん、ゆっくりでいい」
もう言ってしまうつもりでいたのに、まだまだ緊張はし続ける。グラスに残った烏龍茶を呷る。
「ずっと、先輩にあこがれていました」
もう、無意識のうちに剥がれ落ちてくるように言葉を発する以外に、何もできない。唯少しでも真意が伝わるように、瞳に熱を込めて。
「でも、自分でも知らないうちに、憧れ以上の存在に、先輩がなっていって」
「自分の中でもそんなこと初めてだったので、すごく怖くて」
「最初は、憧れだったんです、けれど今は、今も憧れですけれど、ほかにも、あって」

「俺は、もうどうしようもなくあなたの事が好きなんです」

時計の音だけが聞こえる。俯いたまま、未だに俺の方を見つめ続けて居るであろう先輩の顔を見れない。指先から冷えてなくなっていくような感覚に襲われる。
「そうか……」
やっとそれだけ言った、といった風に聞こえた先輩の言葉には呆れや嫌悪というよりは驚きが優っているように聞こえる。
「それは、多分……先輩と、後輩……いままでのような感覚で好き、と言っている訳ではなさそうだな」
「はい」
「そうか……あ、いや、嫌だと言っている訳では無く、少し驚いてしまって……」
当たり前だろう、いままで後輩だと思っていた男から好きと言われて戸惑わない人はいないと思う。それに言う側は唯好きと伝えればいいが、受け取る側は処遇を決めなければならない。
でも、拒絶はとりあえず無いらしく安心した。

「どう、したらいい?」
「え?」

「正直、わからないんだ……確かに御幸のことは大切な存在だけれど、そういう対象としてみたことがないから、自分の中でも、わからない……そもそも御幸の尊敬に値するのかについて疑問があって、あとずっと素っ気なかったから嫌われているものだと思っていたし……その、そりゃあ昔の俺はそれなりに野球ができていたが……今は……」
 急にそんな、いままで後輩として見ていた奴から言われたらさすがのクリス先輩も焦るらしい。目線をうろうろと落ち着かなく動かして、いつも自信満々に見つめてくるが今は目を伏せている。
「そうじゃなくて……あの俺、あのときずっと、絶対叶わなないだろうから、自分の中で気持ちを閉じ込めていおくこととか、会っても、別れてしまうのがその、つらくて……変な態度とってごめんなさい……でもそんな卑下しないでください……」

 取り留めなく、頭に浮かんだ言葉をそのまま吐きだしている。どうしたら伝わるだろうか。俺の中で尊敬というものはあなたのためにあるような言葉で、年を経て変化しつづけるあなたを尊いと思うことであることが。クリス先輩への尊敬やまた他の言葉にできない気持ちたちを、自分の言葉で伝えて先輩へ俺からの気持ちに納得してもらわないとならない。好きの羅列以外で、だ。

「別に、世間の恋人像に当てはめろとは言いません、一緒に、一緒に居てください……俺も、先輩にどうやって百パーセント伝えられるかわからないから、俺と一緒に探してください……」
 やっとそれだけ絞り出して、まだ少しだけ眠そうなクリス先輩に縋るような目を向けてしまう。ダメだったら諦めよう、と思っていたがこんなことではそれも難しいだろう。

 先輩は一つため息をつくと箱ティッシュを引き寄せて二三枚抜き取り、俺の鼻先に押し付けた。
「そうだな……探してみようか。俺と御幸で友達でも、先輩でもない、後輩でもない新しい関係を……ってまた泣いてるのか……?」
 こんな女々しいようでは呆れられてしまう、どうにか涙を押しとどめようとしても、抑えようとすればするほど大きな声をあげて泣いてしまう。
最後に泣いたのはいつだったろうか、クリス先輩に彼女ができた夢を見た日の朝以来だろう。きっと。
「泣き止ませるのも俺の役目になったんだろうな……ほらおいで」
そんなに優しくされたら箍が外れて、俺の好きでクリス先輩を押しつぶしてしまいそうだ、とどこまでも嫌われたくない気持ちが働くが、やっと、やっと恋が実をつけたのだから、こんな時くらいは素直に自分の気持ちを出してみたい。
肩をやさしく摩る手は、間違いなく俺が想い続けたクリス先輩の手なのだと頭で認識しようとすればするほど涙が後がつかえているいるみたいに溢れる。
「御幸はそんなに泣かない印象があったけどな、卒業式でも落ち着いていたし」
違う、本当はクリス先輩が卒業したらもう会えないと本気で思っていたから苦しくて仕方なかった、と言いたいのに嗚咽以外のものが出てこない。言葉にならない代わりに、おそるおそる、首筋に顔をうずめた。もし男にひっつかれるのがイヤでも、すぐに振り払えるようにそっと。
少しだけ身を固めたのがわかった。引こうとしたら引き寄せられたので、拒絶ではなかった。
「あ、いや、血のつながらない他人と、こう、親密な、えーと、初めてでな……こういったことも、二人で落としどころを見つけていこう」
言いたいことは沢山あるのに、わんわん声をあげて泣く以外のことができない。泣け泣け、と言わんばかりに世界で一番大好きな人が背中をなでてくれるのも、今は涙をさらに生産する。
「そうだな……今日は御幸もオフなんだろう?少し歩くが、チョコレートパフェが美味い店があるからそこに行こう、それで、少しキャッチボールをして……」
何やら提案をしてくれるクリス先輩の声をずっと聞いていたい。深く、何度も頷いて同意を示す。先輩とだったら、なにをしても、どこへ行っても良い。これからどんなことをしよう、どこへ行こう。今までの季節の思い出はクリス先輩を起点にして思い出していたが、これからは一緒に過ごして、思い出をたくさん作れると思うと急に楽しみになってきてしまうのだから、俺も現金な奴だ。

日本語には、恋が実るという言葉がある。
成長過程が悩ましかったから、そんなに形がいい実ではないだろうけれど、きっと、美しく色づくだろう。
「そうと決まれば、用意してでかけよう」
素敵な笑顔で微笑まれ、まだ残っていた涙をぬぐわれてしまったら、頷く以外の選択肢を俺は持ち合わせていないし、選ばない。涙声で返事をして、放られた着替えを受け取った。

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2015年10月の本の再録