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みやこ 成人/神奈川への望郷の念が強い

(waveboxへ飛びます/めちゃまじコメントうれしい/レスはてがろぐ) てがろぐ(ゲロ袋/ブログ/告解室)

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2023年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

薄氷 #ダイヤのA #カップリング #御クリ

薄氷 #ダイヤのA #カップリング #御クリ

 五年、十年先の将来を見据えた進路を計画して進学先を考えろ。
 先生方はそう言うけれども今一瞬先の判断すら危ういって言うのに、少なくとも俺にはそんなことは無理だ。俺がどうってことない屁理屈を捏ね回しても静かに笑うだけのクリス先輩は大人びた表情を崩さずにそうだな、とだけ言ってスコアブックをまた一枚捲る。たとえば目と鼻の先にある柔らかそうな、ぽってりと厚い唇を奪ってしまったらそこから始まるものがあるかもしれないし、今まで積み上げてきた信頼をすべて台無しにしてしまうかもしれない。結果が出てからわかることだってある、と自分の暴挙を正当化するのも、自分を信頼してこのチームの正捕手である俺を支えてくれている先輩を心の底で裏切っているような気になってしまう。実際は行動に移す勇気はなく、自分のなかに黒々とした澱をしまいこむだけ。
 この桃色と言うより青黒い片思いの障害は山ほどあれど有利に進められる可能性はほぼ無いと言っていいだろう。同じ学校同じ部活同じポジション先輩と後輩そして、男同士。考えれば考えるほど絶望的。やっぱりこのまま卒業してもらった方が良いだろう。言われる側はたまったもんじゃないだろう。信じて、慈しみをもって育てた後輩は実は自分の事が好きだったなんて言われたらあの人はどんな反応を見せるだろう。あのいかにもわたしは理性的で、感情に流されることなんてありませんよ、と言わんばかりの表情を少しでもゆがませることができたりするのだろうか。
 皆に優しい憧れの先輩に欲情する俺の頭をどうにかしてほしい。こんな感情知りたくなかった。ただただ野球をやって、普通に卒業して、恋人をつくって、結婚して、っている日本のテンプレ的しあわせな人生を歩みたかった。けれどもうそれも叶わない。この感情に蹴りをつけない限り俺はどこにも向かえないだろう。それくらいは何となくわかる。
 そもそもいつから先輩を、そういった目で見るようになったのか。確実にこれという記憶は無い。気づいたら先輩の背中を追っていた。最初は純粋に先輩のプレーにあこがれていた。上手い捕手にあこがれ、自分もこうなりたいと願い少しでも技を盗もうと、足の運びミットの位置、細かく細かく研究した。ここまでは良い。

 思い当たる節を見つけてしまった。あぁ最悪の男だ俺は。先輩が肩を遣ったあと選手としてプレーするのは高校生のうちは難しいとカントクに報告しているところを偶然盗み聞きしてしまったことがクリス先輩にバレたときの表情だ。あれで俺は道を踏み間違えた。夕日がドラマみたいに先輩の髪を照らしていて、いままで自分にみせたことのない陰鬱で、胸を裂かれるような悲しみを孕んだ表情。別にそのときまで正しい道を行っていたとはお世辞にもいえないけれど。溜息をひとつついて白地に青水玉のパッケージのペットボトルをゴミ箱に投げる。かこん、と小気味良い音をたてて収まった。初恋は甘酸っぱい味なんて誰が言ったんだ。少なくとも俺の初恋は苦くて重たくて舌に胃にいつまでも残る不快な味じゃないか。
 
「オイ御幸ィ!何しんみりしてンだよ!!」
 ヒャハ、と独特の笑い声をあげて倉持が背中を思い切りたたく。こいつはどつくとき手加減をしらないから面倒だ。
「なんだ、倉持か」
「なんだとはなんだよ。俺がせっかくしみったれた御幸をイジりに来たって言うのに」
「はぁ……」
「はい幸せ逃げたー」
「元からねぇよ」
 あまりに声音を落とし過ぎたか、ぎょっとした風にこちらを見てくる。
「え、マジで落ち込んでる?」
「おーおー、落ち込んでる」
 この行き場のない想いをどこに墓をたてて埋めてやればいいのか、こいつが知ってるとは思えないけれど。
「なんだよ、言ってみろよ」
 これは言うまでしつこく言われるだろう。言葉を選んで、決して真意を悟られないように。
「……お前ってさ、初恋っていつ」
「えっ…………し、小三」
「へー」
 まさか恋愛相談をされると思っていなかったのか妙にそわそわとこちらをうかがってくる。今日も陽が沈んでいくけれどあの時ほどえぐみの無い色をしている。
「クラスのさー可愛い女の子。マミちゃんったかなー……俺当時クソガキだったからさー、蛇とか虫とか押し付けて泣かしてた……」
「最悪じゃん」
「なんでだろうな、小さいころって好きな子苛めたくなるのはさ」
「知らねぇ」
「はぁー厳しいな。まぁそこまで憎まれ口叩く余裕があるなら平気だな」
 寮へ戻る倉持の背中にありがとう、と小さく言うと豆だらけの手を一度だけ振って見せた。
 
 いままで恋という恋をしてこなかったせいか、色恋沙汰にはとんと疎い。女の子からはちらほら告白されることはあったけれど、付き合っているうちに予定を合わせるのが、わざわざ会いに行くのが億劫になってキレられて消滅、というパターンが一番多かった。特別何とも思っていなかった人と一緒に居るのが、そんな人のために予定を空けるのが苦痛で仕方がなかった。いま自分が追われる側から追う側になって自分のしてきたことの残酷さを理解した。こんなにも、鳩尾のあたりにずしりと沈むような、刃物が身を通るような痛みを感じながら彼女らは俺を追いかけてきてくれたのか。今更ながら罪悪感が胸を締めつける。だからといって女の子に興味がない訳ではなく、今の夜のオカズだって熟女、JK、JD、コスプレなど幅広いラインナップをスマホに揃えている。やっぱり、俺は同性愛者ってやつなんだろうか。答えはイエスだろう。俺はクリス先輩のことを恋愛多少として、好きなんだから。
 触れてしまいたい、でも、触れたあとの反応が怖い。よこしまな意図を以て触れたところで先輩と後輩との関係を粉々にしてしまうのが、怖い。
 
 ◇
 
 御幸が何か悩んでいるらしい。
 そのようなことを倉持が伊佐敷に無駄に大きな声で相談しているものだから自然に耳に入る。きゃいきゃい煩い倉持の言葉を掻い摘んで纏めると「奴の名誉にかかわることだから内容は言えないけれど悩んでいる」らしい。
「だからって、何故俺に話が回ってくる」
「え?駄目なのか?」
「駄目、ではない、けれど」
「じゃあ頼む、話聞くだけ聞いてやってくれよ」
 現役選手である伊佐敷の頼みを無下にできずに、『御幸の相談事を聞いてやる』という使命を課されてしまった。決して駄目なわけでも嫌なわけでもない。
 ただ、自分が話を聞いたところで御幸はただいつもの人を食ったような笑いを見せて、なんともないですよ、とだけ言うだろう。俺には絶対に本心は見せないし、それを隠そうともしない。要するに信頼を得れていないのだ。それなのにポジションが一緒だからという理由だけで聞いてもお互いの時間の無駄ではないか。
 それに、奴はもう俺の知っている御幸ではない、気がする。これは野球部の人間には角が立つだろうし誰一人として言ったことは無いが現役で、優秀なチームのまとめ役の一人で、正捕手である御幸がいま何に見て、感じて、悩んでいるかなんて俺には想像つかない。あのグラウンドにチームメイトと立ち、頭を巡らせて一瞬一瞬を楽しむことが俺は今後一生できない。
 女々しく、汚らしい自分に嫌気がさす。そんな自分が御幸の悩みをどうにかできるのだろうか。それでもまだ先輩面させてくれている後輩たちに感謝の意を示すためにもここは素直に相談に乗ってやろうじゃないか。
 全体練習、自主練習、入浴を終えたころを見計らってリハビリセンターから寮へ戻った。三年最後の夏が近づくにつれて日中だけでなく夜も湿っぽくなってきた。季節のうつろいをぼんやり眺めていると意識せずとも感傷的になってしまう。野球が生活とともにあった高校生活、たとえどんなに勝ち進んだとしても終わりは必ずやってくるということは頭ではわかっていても想像がつかない。授業が終わったところでなにをするのだろう。放課後部活がない生活が想像つかない。
 見覚えのある少しだけ茶がかかった頭を見つけて自分の中に渦巻く汚い澱に蓋をして慈しんでやまない後輩へ声をかける。
「御幸」
 
 ◇
 
 心臓がひっくり返りそうって多分こんな状況を指すんじゃないか。
 本当にかっこいい人は適当なジャージ姿でもスマートに決まるもんだななんて感想しか抱けない。こんなきれいな人を組み敷く妄想で時々抜いているなんて口が裂けても言えない。
 そんなこと億尾にも出さずにいつもの笑みを顔に貼り付ける。
「わークリス先輩じゃないすか、どうしたんですか」
「どうしたもこうしたも……まぁいい。何か飲みたいものあるか」
「えっマジっすか、じゃあそうだなぁ……いまCMで青春の味!ってやってるやつで」
 先輩は溜息ひとつついて具体的に言え、というけれど俺が飲みたいと思った白地に青水玉のペットボトルを投げてよこした。こういうところがかっこいいんだよ。好きなことが自分の事をわかってくれることがこんなに嬉しいことだって知らなかった。
 男二人で星空眺めながらおしゃべり。傍から見れば奇異の目で見られそうだが、それどころじゃない。内心心臓バクバクどころか口から出てきそうだ。もうこのまま時が止まるか過ぎても巻き戻すかできればいいのに。マジで。
「ところで、御幸」
「なんすか」
「……最近お前何か悩んでいるだろう」
 
 ◇
 
 そこで御幸に黙られるとは思わなかった。遠くでもう寝なさい!と怒鳴る女性の声が聞こえた。御幸は一瞬だけいつもの笑顔を崩し、焦りや悲しみのような感情をくみ取れる表情になったがすぐに笑顔を取り繕う。
「……俺は信頼できないか」
「いえっ!全然、そういうのじゃなくて、っていうかむしろその逆でっていえなんでもなくて……でも」
「俺には言えないか」
「はい、可能性はほぼゼロです」
「そうか、まぁ、でも言いたくなったらいつでも連絡寄越せ、電話でもメールでも」
「は、い」
「よし。良い返事だ。時間取らせて悪かったな」
「いえいえ気にかけて頂けて……その、嬉しいです」
「もちろんだ、青道の正捕手様にできることならな」
 照れ隠しと嫌味の中間のようなことを言ってしまった。御幸はとくに気にしてなさそうに笑っていてほっとした。一度御幸の風呂上りなのか生乾きの頭をかき回しておやすみ、とだけ言って部屋に戻った。
 
 ◇
 
 
 あまりに残酷過ぎやしないか。これ。
 先輩が見切れるまでベンチのそばを離れられなかった。撫でられた湯上りのまだ湿った髪を何度か触ってみたけれど、当たり前だが自分の体温しか感じない。が確かに先輩は俺の髪に触れてあまりに残酷な一言を投げて帰って行った。俺は先輩にとって、青道の正捕手としての価値しかない。俺の初恋は焼け野原になって終わった。
 とぼとぼと寮に歩いていている間ずっと先輩の言葉を反芻していた。信頼できないか、と悪戯っぽく笑いながら言ったクリス先輩、良い返事だ、と先輩らしい余裕を前面に出したクリス先輩。そして俺の頭を子供を可愛がる父親みたいな表情で撫でていったクリス先輩。溜息を一つついてしまう。倉持が言うには幸せが逃げる。
 が、連絡をいつでも寄越していいと言ってもらえたことは大きな収穫だ。俺は嫌な男だからな、あきらめが悪いんだ。
 多分、クリス先輩は俺がすごく「良い子」だと思ってくれているんじゃないか。後輩や同期は扱いは雑でも、先輩みんなにとっていい子だと思っているのでは。そりゃあ同期より先輩の方が良い扱いするなんて当たり前。その上好きな人の前で良い恰好したいという心理は誰にだってある、と思う。俺だってそうだ。クリス先輩の前だから、あんまりガキっぽいことしたくないし、選手として、人間として先輩に認められたいと同時に愛されたい。俺が先輩を想うだけ、先輩も俺を想って欲しい。最後のはちょっと贅沢だけれど、そうなったら最高だ。
 一人で考察している分は、関係が前進することも後退することもない、ある意味幸せな時間だろう。けれど自分から行動を起こさないと人間関係はずっと平坦なままだろう。それを思い切りぶち壊したのが沢村だ。球を受けろと親鳥につき従う雛鳥のようについてくる。もう十時を回ったから消灯だっていうのに煩い奴ら。
「だぁあもううるっせえな今日はもうだめだってさっきから何回言ったらわかるんだ」
 少しきつめに言うと二人は目に見えるほどしゅんとしてしまい、若干罪悪感を感じる。
「じゃあ……明日ならいいんですか」
「いいんじゃないか」
 予想もしないところからクリス先輩の声が聞こえた。
「クリス先輩!!!!」
「こら沢村、もう夜だからな、少し声を落とせ」
「すみません!!!!」
 まったく困った奴だ、と言わんばかりに眉根を寄せて慈愛、のようなものを含んだ目線を沢村と降谷に向けるクリス先輩を見て頭につめたいものが広がる感覚。はぁあ、この人は後輩にはこういう目線で接するのか。馬鹿な奴だな俺も。幼稚で後ろ向きな奴だな。つーか先輩と後輩の無垢なやりとりを、恋愛の尺度で測るからおかしくなるんだよ。俺が先輩のこと好きじゃなけりゃこんなあたりまえのやりとり見てても苦しさなんて感じないんだよ。
「どうした、御幸」
 声をかけられてやっと我に返った。三人とも不思議そうに俺を見ている。あわてていつもの笑顔を貼り付けてちょっとぼんやりしてて、と苦しい言い訳をする。
「明日の練習後、俺とお前で二人の球受けてやろう。沢村と降谷、両方に課題はまだまだあるからな」
「うぃっす、まぁ、クリス先輩がそう仰るなら」
「ありがとうございます!!クリス先輩!!」「ありがとうございます」
「御幸も受けてくれるんだぞ」
「う」
 感謝の言葉を言うのがむずがゆいのか、沢村は唇をとがらせてこちらをじっと見てくる。
「……ありがとうございます」
「へーへー」
 沢村の頬を指でつついて煽り、反撃を食らう前に逃げる。後輩に嫉妬まがいの感情を抱いてしまう自分からも逃げたい。ごめんなこんな先輩で。認められたい大人ぶっていたいとか思うくせしてこれだから。御幸はいつも冷静だなんて誰が言った。忍ぶ恋のひとつも隠し通せそうもないのに。まっすぐに野球に取り組む後輩たちがまぶしい。
 
 正直、自分の中にだけ抱えているのに限界を感じる。物凄く勝手だとは思う。勝手に憧れて、勝手に好きになって、それを抱えきれないから迷惑承知で告白する。あまりに自己中心的だけれど、もう精神状況がおかしいのかもしれない。昔告白してきた女の子に言われる側の気持ちになってみろよ、俺だって断るの気分悪いって言ったのを思い出して胸が悪くなる。本当に、残酷なことをしてきた。まわりまわってしっぺ返しを食らっている。俺も、俺から告白されるクリス先輩の気持ち考えてみないとな。
 そんな目で見てたなんて気持ち悪いって言われるのか。それともお前は野球ができるのに真面目に取り組まないなんてって言われるのか、そもそも捕手でないお前個人に魅力を感じない、とか?俺がネガティブってのを差し引いてもこのくらいが妥当だろう。むしろそうやって叩き切ってくれたほうがスッキリしそうだけれど。さんざんお世話になった先輩に更に迷惑かけるという自己嫌悪で潰れそうになりながら、相談という件名を入れて用件だけを書いたシンプルなメールを用意する。
 よし、もうこんな気持ちさっさと潰して膿をだしてしてしまおう。自分で自分の初恋、初めて夢中になった恋を潰さなければいけないなんて俺何かしたかな。したか。
 
 耳障りな着信音とともに返事が来たことを知らせてくれる。実にシンプルに用件のみ書き表わされている。俺のためだけの時間が、クリス先輩の予定を埋めているかという事実だけで女々しいとは思うものの顔がにやけてしまう。結果はどうであれ俺は前に進める。俺の選択は何一つとして間違ってはいないはずだ。
 
 
 それから数日は最高の気分で練習に取り組めた。というより今まで完全に自己都合で注意散漫なまま練習していたっていうのが自分でも責められるべきだと思う。まだ言ってしまってもいないのにすべて良い方向へ流れて終わったかのようなさわやかな気分。なんなんだこれは。ネガティブ通り越して頭がおかしくなったのか。
 よこしまな思いで先輩を呼び出した日が近づくにつれて罪悪感や焦りで頭がおかしくなりそうになる。常に 胃もたれしているような不快感が神経を逆なでする。なんだよお前オトコノコの日かよ、なんて言う下品でどうということのない冗談にも必要以上に苛立ってしまう。
 俺は感情をコントロールできる、完全に俺は大人だと思っていたけれど違うみたいだ。他人に当たり散らすようじゃまだまだガキだ。駄目だ駄目だと思うだけドツボにはまっている気がする。それもあと数日だけなら、恋の痛みってやつに浸っていてもいいのか、とも思う。午後から急に降り始めた雨が気持ちをも湿らせているのかもしれない。グラウンドを思い切り駆け回って余計なことばかり考える脳味噌をどうにかしたい。
 ここで傘を教室に忘れてきたことに気付いた。舌打ちを一つしてからエナメルバッグを肩にかけて走りだ、そうとして
「御幸」
 
 
 
 聞き覚えのある、俺が聞き間違えようがない声が俺の名前を呼んだのを耳がとらえたのと同時に、俺の心臓が飛び出て落ちた。ほやほやと湯気を立てる心臓をどうにか押し込んで軽薄な笑みをやっとのことで浮かべて振り返る。
「なんすか、ってかどうかしたんですかクリス先輩」
「ちょうどこっちの棟に用があってな。お前傘はどうした」
「いや~教室に置きっぱなしにしちゃったんで、走って行こうかと」
「お前はそういうところが甘いな。風邪をひいたら、とか、転んだらとか考えたりはしないのか」
「ッス……そこまでは……」
「まったく、手のかかる後輩だ」
 まるで子供の世話をする大人みたいな、余裕?余裕と言うより懐が広いのか?なんだこの扱いは。どう考えてもひきっつた笑顔でやっとそうッスね、とだけ返した。叱られてしょぼくれていると勘違いしたのか俺の頭を紺色の飾り気のない折りたたみ傘で小突いてきた。
「ほら、これ使え」
「え、いいんスか」
「今度会う日があるだろう、その日に返してくれればいい」
「ありがとうございます」
 平常心平常心、と心の中でとなえつつ傘を開いた。先輩は深緑の上品な印象の傘を開いて雨のなか練習場へと向かって行った。その背中を追いかけるように借りた傘を開く。
 
 室内練習場に入った途端繰り返される体育会的なあいさつの波を遣り過ごして練習用ユニフォームに着替える。想像ついたことだったはずだけれども背後でボタンを外す音が聞こえる。今まで男同士で恥ずかしがることもないから練習場の隅で着替えるのはあたりまえのことで、何とも思っていなかった。が今はそうもいかない。同性が恋愛対象になるってことはこういうところがつらい。背後から聞こえる衣擦れの音が気になって仕方がない。クリス先輩がネクタイを外して折り目が付かないように綺麗に丸めて、クリス先輩が指定のベストを脱いで畳む、シャツを脱いで畳む、アンダーシャツを着る前に制汗剤を一吹き、アンダーシャツを被って――やめよう。
 
 平常心平常心平常心平常心、と虚しく唱えてできるだけ素早く着替えその場を離れた。おなじ性別というのがここまで重くのしかかってくるとは。はじめて夢中になった人を追っている頭ではあまり深刻に考えてはいなかった。けれど今俺の状況だとかなり重たい枷になりうるんじゃないかと。今更だけど。ヤバい。今のうちにクリス先輩の背中目に焼き付けておかないと。俺がおなじ性別の、同じ部活の先輩が恋愛対象に入っているってわかったらきっともうこんなふうに気軽に話しかけてもくれないだろうし、近くで着替えなんてもってのほかだろうし。
 
 わざわざ先輩を俺の個人的な事情で呼び出しておいてこんなことを考えるのもどうかと思うけれど、ものすごく、出向きたくない。今まで優しくほほえんでくれていたクリス先輩が、嫌悪感丸出しの目でこっちを見るんだろうな、とか、そんな目で見ていたのかって軽蔑したりするのかなって。
 クリス先輩から借りた傘を丁寧に丁寧に畳みながら返事のシュミレートを何度もしたけれど貶されるか断られるかしか考えられない。自分がすっきりするために告白するって決めたはずなのにやっぱりまだいまの関係に未練があるのかもしれない。とりあえず、断られてもいままで通りとは言わなくても避けないでくれ、とは言っておこう。ずいぶんエゴイスティックだけれど、かわいい後輩(?)だったものの最後のお願いくらい聞いてくれそうな気がするけどどうかな。
「で、何なんだ御幸。黙って居ちゃわからん」
「すい、ません」
 脳味噌が茹だって上手く働かない。一言、たったひとことだけ先輩と後輩としてだとか、チームメイトとしてだとかそういうのとは違う意味で、好きですって言ってしまうだけなのに言葉が出てこない。胸にじくじくと燻るまだこの関係を続けたい嫌われたくないという気持ちと、わずかな可能性に賭けたいって気持ちが胃に降りていって中身を掻き回す感覚。
 吐きそうだ。自分がこんなにも意気地なしだなんて知らなかった。今まで俺に好きです、と精一杯の勇気を振り絞ってぶつかってきたコ達のほうが勇敢だ。どんなに背伸びしても俺は、そりゃあ少しは他人より野球はできるかもしれないけれども十六年しか生きていないクソガキなんだってことを嫌というほど思い知らされた。
「ま、俺は推薦が取れそうだし、後輩の面倒を見る余裕はあるから言いたくなったらメールでも電話でも言えばいいさ」
「呼んでおいてすみません」
「……本当にな。 冗談だ。そんな顔するなよ、お前がそんな顔すると調子狂う」
 
 この滝川・クリス・優卑怯なくらいカッコいいッ馬鹿好きっ、口が裂けても言えない言葉を喉でとどめて、悲痛といった言葉が一番近いような表情を引っ込めていつものニヤけ顔を無理やり貼り付けたものだからどこか歪んでいるのが自分でもよくわかる。
「……悩んでいるんだな、本当に些細なことでも他人に話せば気が楽になるかもしれないし、ならないかもしれない」
「ならないんスか」
「俺もお前も野球バカだからな、野球以外の悩みだったら難しいだろう」
 本当に、バレていないのだろうか。
 本当はバレていて、クリス先輩は後輩がゲイだってことを言わないでおいてくれている状態のかもしれない。憶測で物を考えると胃を病みそうになるが、可能性はゼロではない。今更、この人に嫌われるのが、拒絶されるのが怖くて堪らない。
「そうっスねぇ……俺も、先輩もまだまだ子供ってことですかねぇ」
「そうかもな……」
 失礼なこと言っている自覚はある。俺の一個上だとは思えないほど大人びているクリス先輩に向かってあろうことか俺と同列に考えるどころか、子ども扱い。もう俺一回頭冷やした方がいい気がする。
「明日も朝練だろ、早く寝ろよ」
「ウィッス」
 思わずその場にしゃがみ込んでしまう。いろいろなことが一度に起こりすぎて脳味噌が沸騰している。その証拠に傘を返すのを忘れた。
 
 ◇
 
 先輩に向かってまだ子供だ、と言っても笑って許してくれる信頼を裏切りたくはない。が、俺は滝川・クリス・優を憧れを超えた感情を以て接している。この葛藤を何度繰り返したかわからないけれど、葛藤が終わると同時に俺の初恋の息の根が止まる。
 
 なんで、俺が女だったり、クリス先輩が女じゃないんだろう。
 俺が女だったらもっと大々的にアプローチしたりできたし、クリス先輩が女だったら俺が人生をかけて口説くのに。残念なことに俺は男、クリス先輩も男。現代日本社会では同性愛は異性愛よりもまだまだ違う世界のものだってイメージがある。当の俺がそうだった。だからと言って諦めるという選択は無い。まぁ、いつか、俺が男で、恋人も男でよかった、と思える日が来ればベストなんだけれども。
 その前にクリス先輩、女にもてそうだからきっとカワイイ彼女、手は俺みたいに日に焼けて真っ黒でマメだらけじゃない、白魚のような手に小さく桜色の爪が乗っていて、肩は俺みたいに筋肉で覆われていない、守ってあげたくなるような細い肩、腹には腹筋の代わりに、やわらかい脂肪があって、俺みたいに筋肉筋肉アンド筋肉、みたいなゴッツイ脚じゃなくてすらりと綺麗な脚で、そして、女。クリス先輩の遺伝子を後世に遺すことのできる機能をもっている。女。
 俺は、男で、クリス先輩は男だから。俺はクリス先輩のこどもを孕めないし、クリス先輩は俺のこどもを孕めない。あたりまえっちゃあたりまえだけれど、同じ恋愛、性欲でありながら異性愛は生み殖やすことができ、同性だとできない。そんなことがこんなにつらいことだなんて知りたくなかった。
 
 それなのにクリス先輩のこと、諦められない俺っていう男はつくづく救えない。
 
 ◇
 昼休み、今日も体育館裏で誰かが告白されている。
 この夏はじめての蝉がけたたましく鳴いている。一匹だけだというのに気に障るほどのうるささ。もう夏かぁ、結局正捕手争い、できなかったな。なんて口が裂けても言えない。正捕手の座が喉から手が出るほど欲しい奴は沢山居るし、クリス先輩だって好きで怪我しているわけでもないし、一緒に、俺より一年間付き合いの長い同期とグラウンドへ立ちたいだろうし。
 
「私、平瀬くんのことが好きなの。付き合ってもらえないかなぁ……」
 頬を染めて、上目遣いで男に女が、自分の性嗜好に合致すると告白する。
 気持ちを相手に伝えられるだけで、心底羨ましい。
 どうもこの、性別と恋愛の考え方が上手く噛みあわない。男と女の恋愛だったら、イエスかノーか貰えるけれど、男と男だったらまず、同性ということでイエスかノーかそれ以前に、嫌悪感が先立つ可能性が。考えれば考えれば泥沼にのめり込んでいるうえに、沼底で息絶えそうだ。まぁ、そうすればクリス先輩は後輩が同性愛者でした、ってことで悩むことが無くなる。俺が我慢できれば。じめじめした気候をそっくり反映させたような心中を抱えて歩くのも楽じゃない。
 実はまだ、クリス先輩から借りた傘を返せていない。けれどこれが野球以外ではじめてできた俺とクリス先輩のつながりかと思うとなかなか返せない。クリス先輩にとっては迷惑極まりない話で、傘なんて返そうと思えばいつでも返せるのに、一番大人ぶりたいあの人の前でだけ俺は全く大人ぶれない。
 
 ◇
 手の中で傘を弄ぶのもこれで何度目だろうか。
 なんの変哲もない紺色の折りたたみ傘だけれど、これの持ち主はクリス先輩なのだと思うだけで特別なものに思える。どこで買ったのだろう、気に入っていたのかな、などと想いを巡らせるが、詰まる。俺の気持ちはどうあれ不便だろうから返さないと。もう一度開いて皺のないように畳みなおす。自分のよこしまな気持ち全部ここに織り込んで、雨の日に開かれたとき弾けるように。
 夕方からしとしとと降った雨は、日の暮れた今本降りになって窓をたたいている。この傘が無いせいでクリス先輩が雨に降られていたら、俺のせいでクリス先輩が風邪をひくかもしれない。俺がクリス先輩の人生にひどい形で干渉できる。ひとつ溜息をついて最低な考えを振り払い、重い腰を上げる。物理的距離は壁一枚、精神的距離は遥か彼方。皮肉にも寮の部屋は隣だ。
 誰のかわからないサンダルを突っかけてビニール傘をと紺色の折りたたみ傘を持って隣の部屋を訪ねる。
 形式だけのノックをすると金丸の声が返ってくる。
「あれ、御幸先輩どうしたんスか」
「クリス先輩に返したいものあったんだけど……居ないっぽいな」
「そうなんですよ、もしかしたらどこかで雨宿りしてるのかも」
「そっか、ありがとうな。もし帰ってきたら連絡してくれ」
「ウイッス」
 そう言って扉を閉める金丸を後にして青心寮を抜けて、クリス先輩の行っているリハビリセンターまでの道を辿る。夜の学校は昼間の喧騒がうそのように鎮まりかえっている。校舎の方を通って先生方に見つかっても面倒だから倉庫裏の破れたネットから抜け出す。先輩を風邪ひかせてまで叶えたいことなんてない、足は自然と早まった。
 ビニール傘越しに見る夜空は雲に覆われているのがかろうじてわかる。クリス先輩、もういくらか濡れてしまったろうか。アンダーシャツ透けてたら俺の理性はダメだろう。
 
「御幸か?どうしたこんなところで」
 ビルのエントランスで雨宿りをしていたらしいクリス先輩が急に声をかけるもんだから、必要以上に驚いてしまって恥ずかしいったらない。
「いやあの、俺先輩から傘借りたままでしたから」
「それでわざわざここまで……?悪いな、ありがとう」
 わざとゆっくり先輩に傘を手渡した。これで俺とクリス先輩の個人的なつながりはまた一つ薄くなった。何を言うわけでもなく学校を目指して歩く。二人分の足音だけが聞こえる。暗くてよかった。たぶん、俺は今耳まで真赤だろう。
 
「先輩、靴ひも解けてますよ。傘持ってるんで結びなおしたら」
「ありがとう」
 先輩のうなじが見える。いつか先輩のカノジョが独占の標に齧るうなじ、先輩の子供が愛おしげに触れるうなじが今この時だけは、俺が見ている。

===
20140505に出した本の再録です

球場から彼岸まで #ダイヤのA #カップリング #御クリ

球場から彼岸まで #ダイヤのA #カップリング #御クリ


 無機質かつ、事務的な連絡事項が記された、色彩が排除されたはがきがいつか来てしまうことは分かっていた。
『滝川・クリス・優告別式』
 この文字列がすべてを物語っている。

 随分前に病気を患ったとは聞いていたが、先月開かれた青道高校野球部OB会ではおくびにも出していなかった。むしろ元気そうに酒を飲み、もうすぐ十歳になるという孫の写真を見せてくれた。クリス先輩と、写真に写るクリス先輩とよく似た女性と、眉がりりしく、頬が幼子特有のふくふくとしたまるみを持つ滝川一美ちゃん、という名前の少女の写真。お前の字が一字入っている、と冗談めかして言っていた。その話の間ずっと俺に生物学上できなかったことがクリス先輩の娘さん夫婦に拠って成されたんじゃないかコレ、とか考えていました。ごめんなさい。
 大人と言える歳になり、同窓会以外でも会うようになってから俺の執念はとどまることを知らなくなった。結婚秒読みだった女性とは忘れられない人がいる、と言って別れた。あんなに大事にしたい、と思っていた彼女が泣きながら縋っているというのに何とも思わなくなるほどには、俺の心に滝川・クリス・優という男は大きく占めつづけている。これはもう狂気かと言えるのではないだろうか。一緒にプレーできたのはほんの数か月だというのに、数十年にもわたって想いつづけているなんて。俺のなかだけで熟成させていただけなので相対評価ができないけれど、たぶんそうだろう。これはきっと、執念という名前がついている。
 随分早逝だった。結城先輩世代で一番早かったんじゃないだろうか。孫がウエディングドレスを着るところが見たいんだと意気込んで孫の写真を見せて回って、眦にしわをためて愛おしそうに写真に写る娘と孫と妻を眺めていたが、孫の小学校の卒業も待たずに逝ってしまった。
 家族の悲嘆は推し測りきれない。血縁のものが死んでしまう悲しみは何にも代えがたいことだろう。
 急に、足元がゆるんで沼に沈み込むような感覚に襲われる。俺はクリス先輩のなんだったのか。そうだ、後輩だ。ただの後輩だ。
「ふふっ」
 つまるところ俺の煮詰まった片思いが最悪の形で終わった、ということになる。恋愛において最悪が何であるかはわからないけれど。皺と染みの浮いた手をじっと見つめ、何が去っていき、何が残るのか問い詰めたところで、一人で答えに辿りつけるものではない。
 最低限だけ家具が置かれたマンションの一室で笑いが漏れた。俺はあの人にとって何でもない、単なる高校時代過ごした野球部の後輩だ。先輩の人生のなかには先輩を尊敬して慕った後輩なんて山ほどいたはずだ。俺は表面上そうだった。なんてことはない、俺はただクリス先輩の特別なひとになりたかった。
 それをクリス先輩が居る内に言えなかった時点で俺に先輩を想う価値なんてあるのだろうか。
 ぶつけるつもりは無い、一生秘めていようと決めていたものの、ぶつける対象が居なくなるとどうしていいかわからない。ぶつけて傷つけないようにと守る人間はもう居ない、だからと言って故人が、しかも男性が好きだったと知らされても知らされた側が困るだけだろう。本当に何も生まない、生むとしたらドス黒くて粘つく執念だけが俺のなかに遺される、そんな恋だった。
 数年前親の葬式で着た喪服を箪笥から引っ張り出して皺を伸ばす。俺とクリス先輩があの思い出の場所で着ていた服と対になる色をしたスーツとネクタイを身に纏って夕刻からの式の準備をする。日本によくある仏式であることに少し驚いた。父がアメリカ人と言っても育った国の慣習に倣うのだろうか。
 香典袋に御幸一也と薄墨で書く。
 一度だけ、高校のときノートの端に御幸優と書いたことがあった。好きな子の名前と自分の苗字を合わせて書く、思春期ならだれでもやっているだろうほほえましい行動。もしクリス先輩と養子縁組ができて、籍を入れることができたら。同性同士の恋人という誹りを、二人で支え合って耐えることができたらと夢想して書いた名前。急に恥ずかしくなってすぐに消したのも覚えている。
 あのころは本気でクリス先輩と付き合って結婚、養子縁組ができると思っていた。幼いころから大人びていると言われて育ってきたが、今の俺からしてみたら現実が見えていないただのガキでしかない。ガキらしいといえばあのころよく先輩を夜のオカズにして抜いていたな、と。先輩にふざけて彼女の写メがあるんじゃないか、とピクチャフォルダを漁られそうになったときは本気で血の気が引いた。こっそり撮った無防備なクリス先輩の脇腹とかノースリーブアンダーシャツとか制服姿とかしかない。それかクリス先輩に似た顔立ちのゲイ向けAV男優の画像で埋まっていた。そのときバレて軽蔑されていたら俺は、クリス先輩のことを諦めてほかの人と幸せになれていたのだろうか。否、高校生のときですら、既に俺からのクリス先輩への歪んだ恋心はたわわに実っていた。その後数十年落ちることもなくただ腐り、干からびていくとは当時の俺は思ってもみなかっただろう。
 俺にはクリス先輩しか見えていないけれど、クリス先輩はあの全てを受け止めてくれそうなほほえみで尊敬も愛情も庇護も、勝ち得ている。
 式にはクリス先輩の結婚式で見た職場のひとや、野球部の奴らも来ていた。みんながみんな、クリス先輩の死を悼んでいる。クリス先輩がいなくなってしまって悲しいと言っている。
 俺はもう、空虚だ。もう何もなくなってしまった。
 お悔みの言葉を述べて香典を渡した。多分娘さんだろう。クリス先輩の目元とそっくりだ。
「あの……御幸一也さんですか?」
「え、あ、はい」
「父から手紙を預かっています、負担になるようだったら読むなとも」
「え」
 予想もしなかったことに十年ぶりくらいに狼狽えた。真っ白い封筒に御幸へ とだけ書いてあり、固く封をしてある。最後の最後に味な真似をしてくれる。死してなお俺を捉えて離さないつもりだろうか。
 やさしく皆にほほえみかけるクリス先輩は、あのときのようにやさしい声音で俺の苗字を呼ぶことも、あのぽってりとしたくちびるも動くことなく黒縁の枠に収まっている。ずうずうしいことは重々承知の上、今度はどちらかが女になって生まれてきませんか、と静かに祈った。
 エゴの塊みたいな俺だから、先輩には成仏しないでずっと俺のそばに居てほしいと思っていますよ。霊だろうがなんだろうが、あなたが傍にいてほしい。

 緑茶のパック詰め合わせと清めの塩を貰って家路につく前に遺骸に対面させてもらえた。眠るように息を引き取ったらしく、苦しんだような表情でない、今にでも目を開けて、皆に心配かけて悪かったな、と笑いかけてくれそうな死に顔。周りにだれも居ないのを確認してそっと頬に触れた。驚くほどつめたくて固い。本当にこの世のものではなくなってしまったと今更実感する。あの暑い夏広い背中にあこがれて抱きたいと願った身体も、金糸雀色の瞳も、すべて冷たくなってしまっている。悲しいというより喪失感で茫然としたまま斎場をあとにした。タクシーを拾って自宅を目指す。何もなくなってしまった今、クリス先輩からの手紙だけが俺を動かしている。
 皺になるのも構わずスーツの上着をソファへ投げ捨てて、ペーパーナイフで丁寧に開封する。あの若さで死を覚悟していたのか、そんなときに伴侶でなく、愛する娘でも慈しむべき孫でもない、単なる後輩に何を遺したのか。内容によっては、単なる戯れでも俺の生きる目的にもなりうるし死の理由にもなりうる。それを理解して書いているとは到底思えない。震える手を抑えつつ丁寧に二つに折られた紙を開く。

『御幸へ』
『これを読む頃には俺はこの世には居ないんだろうな。俺の世界一可愛い娘にそう言づけたから』
『学生時代のことをいろいろと思い出していたんだよ』
『俺にも、元気に外を走り回れたときがあったこと』
『たくさんの先輩、後輩、同期に恵まれたこと』
『こんなことをお前に遺してどうなるのかは俺にもわからない』
『死を前にすると人はやりのこしたことがしたくなるんだ』
『死にかけの戯言として聞いてくれ むしろ忘れてくれた方がいい』

『実はな』
『俺が居眠りしてしまったとき、お前がこっそり、キスしてきたことあっただろう?』

 頭の先からさぁ、と血がひいていく感覚。
 最近は生きているのか死んでいるのかわからないほど空虚な生活だったためか、このような生きている人間のような感覚はひさしぶりだ。高校を卒業してもう数十年経つというのに、俺の心は滝川・クリス・優が占めていることをあらためて知らされる。この先読み進めたら詰られるのだろうか。最近めっきり弱った胃がきりり、と痛む。

『何十年前のこと蒸し返すなとお前は思うかもしれないが』
『そういう気持ちを抱かれていること当時は怖く感じた』
『お前、吐きそうになっているだろう。何か飲め』

 膨大な時を経ても、俺が生涯の半分以上の時間をかけて想ったひとが、未だに俺を理解してくれている。これ以上の喜びがあるだろうか。最近掃除をさぼっていて生臭い匂いのする冷蔵庫から、カクテル用に買ったグレープフルーツジュースを水垢で曇ったグラスに注いで呷る。独り暮らしが長くなるとこまごまとしたことがどうでもよくなる。どうせ誰が訪ねてくるわけでなし、どうせ誰とも、暮らすわけでなし。
『飲んだか?』
『当時はな、お前が俺にだけ素直なのはそういう目で見ていたからなのかと嫌悪感すら抱いた』
『だがな、お前俺の卒業式に涙を堪えながら』
『いろいろ腹に抱えているだろうに』
『ご卒業おめでとうございます』
『ってな』
『その時やっとお前を恋愛対象として見ることができたんだが』
『時すでに遅しってやつだな』
『その後はお前も大学で女性と付き合っていたから』
『若さゆえの過ちというやつかと思って』
『忘れようとした』

『だがな一度気になったら離れないんだ』
『お前の長くなってきた前髪だとか』
『思いつめてくしゃくしゃになった眉間だとか』
『夜になりはじめるくらいの夕日の眩しさだとか』
『焼き付いて離れなくなった』
『こんなことは妻や娘には口が裂けても言えないが』
『俺はお前のこと』
『後輩以上のものだと思っていた』
『好きだったよ、御幸』
『こんなこと、男に、死んだ男に言われるの不愉快かもしれないが』
『抱えたまま死ぬのはあまりに辛すぎたんだ』
『済まない』
『いざ死が目の前にあるとな』
『俺が俺でなくなるような気がするんだ』
『病室で独り寝付く前などは特に』
『最期にお前と会って気持ちを清算してから死にたかったが』
『駄目だ、気持ちが弱くなってしまってな』
『済まないな、お前にはいつも甘えてしまっている』
『結婚式でのスピーチもな』
『お前に頼んでしまった』
『俺としては諦めるためのケジメのつもりだったんだけどな』
『駄目だったよ』
『でもお前も結婚を考えている女がいると聞いて』
『自分の気持ちに蓋をしたつもりだったけれど』
『この歳になって噴き出した』
『いつもお前には迷惑ばかりかける』
『ありがとう、すまなかった』

 滝川・クリス・優、と署名で占められた細く儚げな文字列をぼんやり見つめる。
 重しを呑んだように腹に暗澹としたものが溜まる感覚が胃を支配する。本当に死んでしまったのだろうか。やっと、やっと想いが通じたのに。やっと糸がつながったかと思ったら結んでいた指が灰になってしまった。こんなことってあるか。俺がなにをした。
 乾いた笑いと、咽が引き攣れたような嗚咽だけが独りの空間に放たれて、消えた。
 クリス先輩も俺の事が好きだったって?俺がクリス先輩を忘れようとして女と付き合っている間にクリス先輩が俺を諦めたって?性質の悪い冗談にも程があるだろう。今までの狂おしいほどの思慕、俺が叶うはずがないと勘定した想いすべてを受け止めてもらえる可能性があった?それを確かめる術はもう無い?
 俺がどんな気持ちでクリス先輩の結婚式で俺じゃない人間との生涯の愛を誓う場で、俺の愛する人が俺じゃない人間と生涯共に支え合うことを誓う行事、結婚を祝うスピーチを読み上げたと思っている……どれだけ、俺が代わりたかったと思っている……あの夜どんなに女に産まれたかったと自分を憎み、呪ったと……男でも、恋愛の舞台にあがって良いのだと知っていたら……

 俺に答えをくれるひとはもう、居ない
 ◇

 季節のうつろいは早いもので、三度目のツツジが色がとりどりに咲いて、地面に落ちた花弁が踏まれて色あせていくサイクルを見届けた。俺の人生はまだまだクリス先輩への妄執を抱いたまま続けなくてはならないらしい。
 無駄に広い墓地のある一角を目指して仏花を手に老体に鞭打って歩を進める。春先の、サーファーたちがぽつぽつ波間を縫う海が見える高台に、俺が生涯をかけて愛した男が眠っている。
 やっとのことでたどり着いた墓石の群れの中の一つの下に、しろいほねとなった先輩が。
 スーツの上着を抱えて袖を捲ってもまだ暑い。春先だからと油断していた。今、目をとじれはそこに第二ボタンどころかブレザーのすべてのボタンを毟り取られて俺に困ったもんだ、と苦笑いを投げかけてくれるような、先輩が居る。先輩の卒業式の日みたいに気持ちよく晴れた日だからなおさらだ。俺はいまだに季節の指標を先輩との思い出で構成している。それほどにクリス先輩を、手が届かない存在でありながら短い期間の先輩との思い出を必死につなぎとめておきたかったのだろう。
 無機質かつつめたい、かつて衝動的に触れた唇の温度を拭い去るような質感の石を丁寧に磨き上げ持ってきた仏花を飾り、線香を焚いて手をあわせる。滝川家ノ墓。虚無感に襲われるたびここに来ては、俺はまだ生きて弔わねばと決意を固くする。そうでもしないと老い先短いこの人生を簡単に、浜風にゆらめく線香の煙のように儚なんでしまいそうになる。
 まだ、きっと生まれ変わってもずっとあなたを追いかけているのだと思います。滝川・クリス・優先輩。

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2014年6月発行の本の再録

あいと輝きと共に #ダイヤのA #カップリング #御クリ

あいと輝きと共に #ダイヤのA #カップリング #御クリ

※哲貴表現を含みます

 鮮やかな色の粒が、友達の手へ転がり出てくる光景をいまでも覚えている。チョコの粒と同じ色をした犬のキャラクターがあしらわれた紙の筒で軽やかな音が幼心を妙に掻きたてた。母の買い物について行き、あれがほしいとねだると、添加物を気にする母は、それはもうおいしいチョコケーキを焼いてくれた。嬉しそうに俺が食べるのを見る母に、これじゃない、みんなと食べたいとは言えなかった。

「クリス先輩、マーブルチョコは一日六粒までにしませんか……あーっ目から光が」
「そんなことする理由が無い」
「クリス先輩。もう四捨五入して三十でしょう。成人病は若いうちの食生活のバランスが大事なんですから」

 そう言って副菜のサラダと煮物の小鉢を寄越す御幸と暮らし始めてから、早いものでもう五年になる。人生は何が起こるかわからないもので、高校時代の後輩と、しかも同性の後輩の恋人という位置に収まることになろうとは、十八の頃俺は想像すらしなかっただろう。
 五度目の、里芋がおいしい季節が巡れば、周りの環境が著しく変化する。増子のところにはもう二人目の子供が生まれたと聞いた。父も、母も、老いた。父とは男の恋人と暮らすと伝えたときに泣かれてから会っていない。母は、言葉にはしないもののやはり孫の顔が見たいと思うことがあるのだろうか。
 だからといって、あちらから終わりにしようと言われない限り親のためにこの環境を手放そうとは思わない。たとえ御幸のスキャンダルのネタにされようとも、愛おしさや、独占欲だとかそういった言葉で片付かない感情を向けていたいのは御幸なのだから。

 昔の自分が知ったら、年上なのは俺なのだから嗜めるべきだし、身を引くべきと思っただろうが、父方の祖母が亡くなったとき、人生の短さを痛感した。
 ならば、好きに生き、愛おしいものを愛おしいと言って生きるべきだろうと、何やらもったいぶって葬られる、言葉の壁を乗り越えられず碌に意思疎通ができなかった祖母の死に顔を見てつくづく思った。
 人間はいつか必ず死ぬ。死を免れないならば、たくさんのものを捨ててでもその腕に抱かれることを選んだ男を傍に置いて死ぬべきだと強く思った。はずだった。

 祖母から受け継いだ瞳は、俺の代で絶やすのかと思うと急に恐ろしくなった。御幸だってそうだ。あの野球で身を立てれるだけの遺伝子を絶やしてしまうことになる。
「ご飯冷めないうちに食べましょう」
「……いただきます」
「まーたなんか考えているでしょう」
 嫌に察しがいい。昔からそうだったかと聞いたことがあったが、先輩に対してだけですよと恥ずかしがる様子もなく言われ反応に困ったことがあったから黙っておく。
「考えているが、今言うべきでない」
「そうですか。俺の傑作鰤大根食べて嫌なことなら忘れてください」
 なるほどほくほくと湯気を立ててつややかに盛り付けられている鰤と、今の季節筋張っておらず、仄かにあまく、口のなかでとろける大根を安く食べれる。どれもこれも美味しい。
「美味しい」
「よかった」
 何てこともない、昨日と変わらない食卓の風景で、日本中のどの家庭でも起こりうる会話だろう。料理を作った人に、感謝をこめて、美味しいと伝える。何の変哲もないだろうと言い聞かせるように思えば思うほど、自分の恋が間違っていたのか、という最悪の答えを弾きだしてしまう。恋に間違いはない。あるはずがない。
理性で感情を抑えることの無意味さは、御幸と暮らし始めるときに嫌というほど理解したはずだ。



「は、子供」
「そう、もう五歳になるのよ」
 駅で偶然、藤原、今は結城貴子になった藤原に会った。
 照れ臭いのか、母の後ろに隠れた男の子と、こんにちは!と哲也そっくりの眉と目元で元気よく挨拶する女の子を二人連れて、哲也の実家まで行くそうだ。
「はじめまして、結城、」
「清美です!!」
「ほら、おなまえは?ですって……ごめんなさい恥ずかしがっちゃって……」
「いいんだ、滝川・クリス・優です。こんにちは清美ちゃんと」
 小さな手で顔を隠しきれないまま、指の間から伺う仕草がかわいらしい。
「直樹です……」
「直樹くん」
 最近連絡を取るだけで会っていないシニア時代の友人?を思い出してしまった。
「ね、ゆうさんは、どうしてお名前が三つあるの?きよには二つしかないのに」
 もちもちやわらかそうな頬を不満げに膨らませて、お出かけ用のピンクのポシェットをいじりながら純粋な疑問を投げかけてくる。
「それはね、お父さんが外国人だから、三つあるんだよ」
「いいなぁ……なんだかおとくだね」
「お得かな?そう言われたのは初めてだなぁ」
 笑いかければ素直に笑いかけてくれる。かわいい姉弟に恵まれて、これが俗にいうしあわせな家庭なのだろう。
「クリス君はどう?結婚とか、した?」
「いや……縁がなくてな」
「あらぁ……優しくてかっこいいんだから、引く手あまたなんでしょう?」
 笑って誤魔化したものの、顔が引き攣っているのが自分でもよく分かる。都合よくホームに滑り込んでくる電車の、学生のときよりずっとありがたみが増した椅子に腰かけて深くため息をついた。哲也と藤原の結婚式にも誰かに同じようなことを言われた気がする。確か、宮内だった気がする。
 何も藤原、今は結城、に悪気があってこのタイミングで結婚を話題にしたわけじゃない。わかってはいるものの、冬という季節がそうさせるのか気分が落ち込んでしまう。父の涙を見てからどうも気分が晴れない。当たり前だろう。仕事で忙しいなか、シニアの練習を見に来てくれたり、練習に、リハビリに付き合ってくれた父の涙を見てしまったら、なにか悪いことをしてしまった気になる。正直な所、動揺した。
 父なら、常に俺の味方でいてくれると思っていた。
 それとこれとでは問題の性質が違うから、と自分でもなんとなく理由はわかっているが、言葉にしてしまうのが恐ろしい。家族を捨てなければ、恋人を手に入れられないのだろうか。

「お見合い」
「そうだ」
 何やらいい紙で包まれた写真を手渡される。父の髪にも白いものが目立つようになってきた。爪の間に詰まった機械油の塊から目を逸らして、窓の外に目を遣ればもう凍って落ちてきそうな雲が折り重なっている。

「で、みすみす釣書を受け取ってきたわけか」
「なんか、こう、親父って、ずっと健康で強い存在だと思っていたんですけど、意外とそうでもないんだなーっ、て」
 御幸の言い分は痛いほどわかる。強さの象徴であった父が見せた弱さが怖くて仕方がなく、自分が悪いことをしている気になってしまう。
「それは、お互い様だ。俺の親父とも一悶着あったあとやつれた気がする」
「あの強烈な親父さんがですか」
「強烈……」
「シニア時代から結構印象強かったです」
「確かに、奇抜な父親だったがな、俺が怪我したとき支えてくれた親父なんだ」
「プロ野球まで行ってる親父さんですから、物凄く忙しかったと思います」
「そんな父が、男の恋人と住むって言ったら、泣いて怒って大変だったんだ」
 俺というものがありながら、と感情的に叱責するつもりがいつの間にか自分の悩みを吐き出していた。自分の家族の問題は自分で解決すべきだと思うが、冬という季節が気を弱くさせるのだろう。
当の御幸は驚いた顔を隠そうともせずこちらを見つめてくる。シニアの試合で始めてあった日の時みたいに。

「そういうプライベートな悩み言ってくれるのすごくうれしいです」
「……そうか?」
「俺、ずっと先輩の支えになりたかった」
「支え?」
 もうずっと、支えてもらっていると喉まで出かかったがまだなにか言いたそうなので続きを待つ。
「先輩の、大事なものになりたかった」
「なんで過去形なんだ?大事じゃなかったらわざわざ他人と暮らさないぞ」
「そういうことサラッと言えちゃうのほんとずるいです」

「でも、俺らもずいぶんいい年になりましたね」
 どこか遠くを眺めているような表情に背筋が凍る。歳を理由に別れを切り出そうとしているのか。

「そうだな」
「これからおじいさんになったら、っていうか、おじいさんになるまでも、それからも先輩のしわが増えていくところ見てられるの、嬉しいです」
 衒いもなく言われて顔に熱が集まるのを感じる。自分が一番欲しかった言葉を一番大事な人にかけられて恥ずかしさより多幸感が勝る。
「そうか」
「人の心は、無理やり押し通したりしなくても時間が解決してくれたりしますし、俺らがウジウジ悩んだって仕方ないです」
 優しく頬を撫でられながら諭されると、あの時から随分時が経ったと実感する。そしてこれからもここで過ごしていくのだろう。
「釣書返してきます」
「いってらっしゃい、俺が夕飯を作っておこう」
「いやそれは……結構です……」
「米くらいは研げる!」
「研げません!現実を見てください!!」

 御幸がどうしても俺が作ると食い下がるので仕方なく台所は譲ってやる。もう外は寒いからと襟巻を手渡すと、適当に巻きつけるものだから汚い折り目がついてしまっている。
「こういうところ、気にした方がいいぞ」
「だって直したらこれを口実にキスできな」
 先に唇を塞いでやると、さっきまでの余裕はどこへやら耳を真っ赤にして靴に爪先を押し込んでいる。
「お米研げないけどかっこいい」
「そりゃどうも……一言余計だけどな。さっさと行って来い」
「はい」
 風呂ぐらいなら沸かしてやれる。早く帰って来い、そして一緒に過ごすよろこびを感じよう。

Angel snow #ダイヤのA #カップリング #雅鳴

Angel snow #ダイヤのA #カップリング #雅鳴

「わっ、雪の予報!」
 はしゃぐ鳴を横目に、室内練習場への変更を部員へ伝える。幼いころは雪が降ると、いつもの家の庭が別のものに変わったようで、天気予報に雪だるまマークがついていると、寝る前に布団から出したほほが冷たくなることすら、楽しみな気持ちを煽る理由になり得たが、それから十年経てば、ただ指先を冷やし、グラウンドが使えなくなるだけの、雨と何ら変わらない位置づけの天気になった。
 代替わりして初めての長期休みの練習を一日でも削られたくなかったが天候だけは文句を言っても仕方がない。予報は積もらないと言っていた。それだけでもありがたいと思わなければ。
「せっかくの雪なのに雅さんの眉間にはふっかぁあい皺」
 主将と正捕手の重みを支えるだけで精一杯の今、鳴の冗談ですら構う気力が無い。
「無視!?」

 きゃんきゃん喧しい鳴を目線で制し、室内ブルペンへと着替えを持って向かう。泣いても笑っても夏は来て、過ぎていく。ゴールのようで通過点である甲子園へ、どのように時間を使えるかが重要であるはずなのに、どうにも空回っているような気がする。
 野球はひとりでするスポーツではないから、自分ばかりが躍起になってもしかたがないことは分かっているが、主将になって数か月の今、どうしても前主将の手腕がちらつく。こんなとき、あのひとならどうしただろうか、ということが頭を何度もよぎってしまう。

「あっ、ねぇ、雪じゃない?」
 雪が降ることが楽しみで仕方が無かった鳴の歓声で、思いつめていることがばかばかしくなる。

「これはまだ雨だろう」
「そんっなに嫌なの?!そんっなに雪だって認めたくないの!?」
「練習できなくなるだけじゃねぇか」
 芝居かかった溜息をついて、生意気そうに寄せた細い眉を吊り上げて文句ありげに睨んでくる。
「ジンセーって、野球しかないわけじゃなくない?」
「……お前からそんな言葉が聞けるとはなぁ」
「え?俺って雅さんから見るとそう見える?」
 意外だった。野球意外に興味がないと認識していた鳴が、他にも目を向けている。
「違うのか」
「そうだよ」

嫌に冷静に返されてたじろいでしまう。この普段の口調と、マジメな話をするときの差に、蛇に睨まれたかカエルのように情けなく縮こまってしまう。鳴は軽薄で、思慮のしの字もないイメージを持っていたが、すぐに覆されたことを思い出す。
「現に、俺が夏大で暴投したあとも、フツーに次の日、来たし」
 そう言って帽子を被る。身長差によって表情がうかがえなくなる。

「俺さ、夏大が終わると人生もそこで終わると思ってたくらい、先が見えなかった」
「けど、先輩たち、俺の暴投がなければもっといけたのに、お前にはつぎがあるって言ってくれた」
「んー……なにがいいたいかっていうと、ええっと、こんなに楽しい天気を楽しまないと損だって……雪で気分暗くなっても、今日も練習したなって過ごした一日も、同じ一日っていうかぁ」
「……お前が元気づけようとしていることはわかった」
「べぇっつに。俺がシケたツラしたキャッチャーに投げ込みたくないだけだしぃ」
「こいつ……」
 冗談でもなんでもなく、本気でそうおもっているのだろう。その証拠にもうこの会話に興味をなくし、雪の粒を追いかけまわしている。だからこそ、自分の弱さを見透かされても嫌悪が先立たないのだろう。
「つめた」
「バカ、指が霜焼けたらどうするんだ」
「こんなちょっとじゃならない。過保護すぎ」
 コートに突っ込んでいた手に鳴の冷え切った手が添えられて、思わず身震いしてしまった。照れ隠しに振り払おうとしてもここで暖をとるつもりらしく、きつく手首を握っている。
「ふざけんなよ鳴」
「あったかい」
 やりあうことすら億劫で、そのまま室内練習場まで半ば引き摺るようなかたちで向かう。
「うわ雅さん腕毛?ちがうなぁ手の甲毛?もっさもさ」
「うるせぇなほんとに」
「え、気にしてたりするの」
「してねぇ」
 ムキにならないでよ、と弱みを見つけたと言わんばかりのあくどい笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。
「俺すね毛だけ全然生えてないけど、生えてないとそれはそれでなんとなーくやだよ?」
「フォローしてるつもりか?」
「べっつにぃ」
 この言い方のときは、多分身体的特徴に言及したことを気に病んでいる言い方だ。二年とすこしで鳴の機嫌についての知識が無駄についてしまった。



「あっ雅さん自販機」
「だからなんだ」
「ココア飲みたい」
「……監督室にポットとコーヒーの粉を見たことがある」
「そういうのは別にいい」
 ココアがのみたいー、と言っても雅さんは大して気にした様子もない。室内練習場まで引き摺るつもりなのだろう。洒落っ気のない紺色のマフラーをぐるぐる巻いて鼻を真っ赤にしちゃって、雅さんずいぶんかわいいことするじゃん。

 雅さんの掌はマメでガチガチに固い。固くなっている皮膚のキワを削ると、あたたかいポケットから追い出されてしまうのでやめておく。かさぶた剥がすみたいで楽しいのだけど。
「冬が終わったら、春、春が終わったらあっという間に夏だね」
「ああ」
「来年の夏は勝とうね」
「ああ」
 夏のあのバッターボックスより少し高いあのマウンドで息がとまるわけでもないけれど、たぶん甲子園球場はまた違うんだろう。
「意気込みが残っているうちに投げるか」
「ウン」
「……素直に返事するなんて……そんなにココアが飲みたかったのか、鳴」
「えー、ウンまぁだいたいそんなかんじ」
 変にマジメに受けとられてしまったから否定しないでおく。もしかしたら買ってくれるかもしれないし。
「練習終わったら買ってやるよ」
「マジで!?!」

 言ってみるもんだ。俺意外にはちょくちょくパン買ってもらったりしてるみたいなんだけど。
「よくよく考えたらお前も後輩だった」
「なにそれ」
 そんなにしっかり、俺より先に高校野球を終えるって言いきらなくてもいいじゃん。
 ほんものよりずっと美味しそうなココアの絵がなんとなく憎らしい。ほんとうはココアが欲しいんじゃないのに。

「雅さん、雪」
「ああ」
「積もったら雪合戦しよう」
「しねぇよ、みんなで雪かきだ」
「えー……それってみんなでやるの」
「たりめーだ、レギュラーだけふんぞり返る訳にはいかないだろう。野球は一人でやるスポーツじゃねぇんだ」
 稲実くらい人がいれば、レギュラーは練習した方がいいんじゃないかって思ったけど黙っておく。
「手、あっためてよ」
「はぁ?てめぇの首にでも手あててろよ」
「それがヤだから言ってんじゃん」
舌打ちされた。雅さんのコートのポケットに突っ込んだ左手を右手に差し替えたらまた舌打ち。
「鳴」
「なーに」
この、大人びているようで、子供らしく感情を思い切りぶつけてくるところがどうにも、自分だけが知っているようで変に嬉しい。なんだか特別な存在になれたような気になる。バッテリーほど、不思議な関係を俺は知らないからそう思うのかもしれない。たぶん外から見たら近く見えるのかもしれないけれど、実際のところは何とも言い難い。近いようでいて、ただの同じスポーツをやっているだけ、とも言える。
俺にとっては、一番つらかったときに支えてくれた(たぶん本人はそう思ってなくても)ひとだから、なんとなく、トクベツだと思っている。
雅さんも、なんとなくでも、すこしだけみんなと違うって思ってくれてたらいいな、と雅さんの鼻先に触れてとけた雪の粒を見つめながら考えた。
もう、冬がはじまる。

けものみち #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #ゲオルギウス

けものみち #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #ゲオルギウス


 魔術の発端は、ヒトが抱くささやかな悪戯心や、あこがれのあの人が振り返ってほしい、自分とは別の人間に心を奪われてしまってにっちもさっちもいかなくなってしまった弱さを押し隠したい、なんていうささやかな願いなんじゃないかなと夢想する。

 そんな俺のしたたかな劣情を映し出した液体は、俺が知っている色の中で一番近い色は紺色だが、フラスコを傾けると水面が眩しいくらい鮮やかな赤に照る。
 俺は俺の魔術師としての才能なんて一切無いと思っていた。なんとなく便利な技術で、おまじないの域を出ないだろうと本気で思っていたし、知識がないながらも懸命に作ったもので、すてきなあの子がどんな顔が見せてくれるんだろう、なんてくらいにしか思っていなかった。そしてもしかしたら、俺のこの妙な体質の仲間が出来て、ともに歩んでくれるかもしれない……それは思い上がり過ぎじゃないか、いやでも彼は、普通の人間なんかとは違うから大丈夫、だなんて考えていた。

 人類史を紐解くと、思想というものは流れゆくものであると実感する。
 女性に関して言うと、今からは考えられないし、失礼だし配慮に欠けるどころの騒ぎじゃないとは思うが、女性そのものが堕落を誘う、楽園を追われた原罪の象徴だとみなしていた時代があった。
 男性を堕落させるから罪、という論理であるらしい。過去に存在した思想に関して現在から解き明かすとして仮定の域を超えることは無いが、随分な言いようだ。
 けれどその時代に生きた先人たちの考え方を根本から否定する気になれない。なんだかんだ言いながらも俺は人類が愛おしいのだと思う。迷い、間違えながらも前に進むことをやめない人類が。
 それじゃないとこんなに危ない、ストレスで胃が千切れ飛びそうなことできやしない。途中で自害しているだろう。

 だから、この薬を作ったのは単なる興味でもある。
 たとえば、その教えに殉じて命すら差し出した人間が、原罪そのものになったとしたらどうなるのか?

 泣き狂うのか、それとも新たな生、いや性を楽しむのか?

「マスター、ちょっと」
 例の薬を少しずつ投与して、五日目に差し掛かるかというときに声をかけられた。わくわくをどうにか押し込めて、努めて平静に、何?どうかした?と返事する。
「その、少し言いづらいことで」
「じゃあ、俺の部屋で話しましょう」

 自然に自室に連れ込めたこともうれしい。俺への警戒心がずいぶん薄れたことが伺える。無駄を完全にそぎ落としたこの無機質な部屋が今は華やいで見える。
「で、どうしました?」
「その……私もにわかに信じがたいことなのですが」
「はぁ」
 好青年ぶって、心底あなたを心配していますあなたの現在の命も守る主として、というふうに接してみせる。所在無さげにマントの端をいじるゲオルギウスにあったかいほうじ茶を淹れて渡す。一緒にきなこもちを添えて。
 不安定な丸椅子ではなく、ベッドの端に腰かけるように勧める。
 勧められるがままに俺の隣に座るゲオルギウスの顔を覗き込むと、言うか言うまいか迷っているように見える。
「言えないようなことですか?」
「それが……その」
 そりゃあ言えないよな。五日といったらそろそろ子宮の形成が終わり、膣の形成が終わり、膣口の形成が始まる頃だ。その前に乳房が形成されているはずだ。そりゃあ、もう無視できない。気のせいだと自分に言い聞かせるのも限界だろう。
「何でも言ってください、あなたの力になりたい」
 その言葉に心動かされたのか、固くひきむすばれた唇が解け、喉から引き絞られるように言葉がこぼれ出る。
「身体が、女に」
「えっ…と……それはどういう?」
 初めて聞きました、そんなことにわかに信じがたいと言わんばかりの表情を顔に貼り付け、内心では成功を喜ぶ幼児のように無邪気に笑い、ねぇ、すごいでしょう、私は何もできない単なる人の子ではありませんと自分の力量を誇示したくなる。それをどうにか抑え、鎧の上から身体を伺おうとする。

「やはり見てもらった方が早いだろう」
「えっ?」
 おそろしいほど複雑な鎧の留め金を外し始めた。元は男だからべつに恥ずかしがる必要は無いはずだが、今は女の身体をしているはずだから見てはいけないような気がして、目を伏せた。

「マスター」
 なんだか声も少し変わっている気がする。俺より先にキャスタークラスのサーヴァントに相談されていたらなにもかもが終わっていた。そうなっていないということは運命の女神や、もしかしたら彼が祈る神ですら俺の味方だったりして。
「その、シーツどけても大丈夫でしょうか」
 肌を見せることを、思想上忌避していたはずの時代から来た人だからひどく迷っているだろう。顔面は蒼白で、唇は紫色になってしまっている。
「ムリしないでください、ストレスの方が良くないです、きっと」
「いや、その、信じてもらいたいのです、本当にそうなってしまってしまったことを」
 震える手でシーツで包まれた傷だらけの身体を露わにする。
 先日風呂で見たときは立派な胸筋があったところの少し上側に、そこそこの大きさの乳房があった。
「あっ、本当にあるんですね……」
「これで信じてもらえただろうか」
「うん、ちょっと信じられなかったですが……」
 まじまじと眺めていると肌を隠されてしまった。あわてて目を逸らす。
「でも胸がちょっと変わっちゃっただけでしょう?ならそこまで支障ないんじゃ」
 唇を噛みしめて目を逸らされてしまった。それはそうだろう。もうそろそろ生理が始まってもいいくらいの時期だから体調もおかしくなってきているのだろう。少しかわいそうになってきて、横になってと言うと素直に従う。
「数日前から下腹部が痛くて」
 生理痛だろう。下腹部を温めるようにさすると大人しく受け入れられた。
「頭も痛いし身体も熱い」
 小さな湯たんぽを引っ張り出して、湯を用意する。横になった途端眠気が襲ってきたのだろう、瞼が落ちかけている。
 タオルにくるんだ湯たんぽをシーツに押し込んで、腹にあてると少しよくなるらしいのであててやる。眉間に刻まれた皺が少しだけ緩くなったような気がする。
「我慢できないくらい痛いなら痛み止めあげるよ」
「マスターは痛み止めを常用しているのですか?」
「うん、怪我したときとか我慢できないくらいときありますし」

 明かりを消して、少し寝たら?と言うと暗がりの中で頷いた衣擦れの音がした。表情は窺い知れないが沈痛な面持ちでこちらの反応を伺っているのだろう。
「大丈夫、俺は味方です、それに誰にも言いません。安心してください」
「ありがとう」
 掠れた声で言うものだから、英霊となるまで、英霊となってからも強く在った人だというのに急に庇護欲をくすぐられてしまった。痛むと言っていた腰のあたりを優しくなでる。
「こんなこと、主が許すはずがない」
「え?」
「罪の具現である女になるなんて」

 価値観が違う時代から来た人間なのだから、とどれだけ言い聞かせても、体中の血が端から凍っていくのがわかる。
 もしかしたら、この人が私と同じ状況―性が自分の意志に関わらず突然、前触れなく変わってしまう―になったら、縋るものがある人間ならば、こんな状況になってしまった私を救ってくれるかもしれない、と思っていた。
 俺は彼をなんだと思っていたのだろうか。人間より素晴らしい生き物だと言われているのだから、もしかしたら俺とは違う考え方で、この状況を撥ね退けてくれるかもしれないなんて考えていた。
 勝手に身体を、興味が向くままに変えておいて、自分の思ったとおりの反応を得ることができなかったからと失望をして。随分非道なマネをしたという自覚はある。
「じゃあ、その主に俺の事も助けてって言っておいてください」
「何故です……あなたは男性でしょう」
「今はそう見えますよね」
 俺は深くため息をついて、発言の意図がつかめずにいるゲオルギウスの腰を撫で続けたまま言葉を選んで話を戻す。
「堕落を誘う、あなたが言うところの原罪そのものに、自分の意志に関係なく、自分とは全く別の女になってしまう、ということです」
 意味が解らない、と言う目で見てくるゲオルギウスに触れる手は今は筋張っているが、自らの意志に関わらず、オレンジ色の髪と琥珀色の瞳を持った女に変わるときがある。人格は一緒のままだ。そんないかれた状況でも、男から女に、見た目が全く変わったというのに変わらず「俺/私」を認識し、名前を呼ぶダ・ヴィンチちゃん、ドクター・ロマニ、本来一人のマスターに一人のみ召喚ができるはずのサーヴァントたち。それに、マシュ。
 サーヴァントをその身を貸出したとはいえ、カルデアがこうなってしまう前から俺の事を知っているはずの俺の後輩。そのマシュですら俺/私の事を認識できていない。
「言ってる意味、わからないですよね……ごめんなさい」
 何に対しての謝罪だろう。きっと範囲が広すぎて自分でも収拾がつかない範囲への謝罪。ゲオルギウスは上掛けが落ちてくるのも厭わず手を伸ばし、頭を撫でてくれる。そのまま倒れ込むように隣に横になると、そのまま抱きしめてくれる。押し付けられた胸はさきほどより少し大きくなったような気がする。もちろん胸筋ではない。温かく、やわらかな脂肪だ。
「肌を晒すなどと、昔は考えられなかったのですが」
 ふふ、と小さく頭の上で笑ったのがわかった。

「お辛かったことでしょう」
 お前に何がわかる、偉そうに、そうやって一歩上の立場から見下ろして、あなたが誠心誠意、文字通り全て捧げた存在が貴方に何をしてくれた、などと口汚くののしりたかったが喉には嗚咽が張り付いて、そんな言葉でてきやしない。ただ彼の身体に残る傷跡に爪を立ててささやかに、目と鼻の先にある安らぎに抵抗する。
「時々、あの四十七人が冷凍保存されている部屋で一人嘆いていますね」
「なんでしってるんですか」
「子供の考えることくらい、大人はお見通しなのですよ、マスター」
 悔しくて堪らない。惨めったらしくて、腹立たしさすら感じる。ゲオルギウスの言うとおり、もう何もかも、人類史だなんだって全部投げたしたくなったらあそこに行っている。このなかの誰か一人でも奇跡的に起きだして、俺の代わりになってくれやしないかって泣いている。だれかにこんな役目押し付けて、どこかへ行ってしまいたいと嘆いている。
 できるだけサーヴァントの前では強い主人であろうとしている。そうでもしないと寝首をかかれやしないかと気が気でない。そんな努力が無駄だと笑われたような気になってしまう。普段ならこちらも、そうなんだ、と笑い飛ばせたようなことが妙に心がささくれ立つ。
「あんたなんか大嫌いだ」
「とおっしゃられますが、いささか抱きしめる力が強すぎるようですよ、マスター。少し苦しいです」
「ごめんなさい、好きです」
「ええ、私もです……マスター、言葉と行動が一致していませんが」
「ごめん、もう少しこのままでいさせてください」
 あなたが俺に言う好きと、俺があなたに言う好きの意味は違うと言ってもっともっと困らせてみたい、と思うだけにとどめておく。

 ◆◆◆
「これから数日、俺の部屋で寝起きしてください」
 よそ様の胸に顔をうずめている割には偉そうな物言いだが、そうでもしないと俺のちっぽけなプライドが守れない。
「どうしたのです、急に」
「治してあげます」
 自分でやっておいて治すもなにもないが、効果が早く切れるようにする薬には少し匂いがある。その時にバレてしまってはきっとカルデアじゅうの聖人たちに囲まれて人として歩むべき正当な道を説かれ、今度こそ俺の精神は音もなく壊れるのだろう。と予想がついている。
 強すぎる光は影を落とすことを知らない、自分がそう、強すぎる光であるからこそ影が見えない人たちばかりだから、自分の身体がおかしいからといって、他人も同じ状況に置こうとするなど、俺の卑小な考えなんて理解できない。それでも救うべき哀れな子羊のために懸命に「救って」みせようとするだろう。きっと俺の目の前にいる人もそうだ。

 他人に勝手に求めて、勝手に失望して。
 ときに双方向に求めあっていたら「恋が成就する」だなんて言う。俺が、そして彼が愛した人類はそうして命をつないできたかと思うと、少しだけ恐ろしい。そんな恐ろしく低い確率を踏み越えて人類はここまで命をつなげたのだ。
 恐ろしい、と感じるのは無理もないと思う。だってできなかったことは理解しようがない。残念ながら。人類すべてを愛して死んでいった人と、その人ただ一人を愛している俺。どうしたって違いすぎるじゃないか。
「目立たないように、布で押さえましょう」
「ええ、お願いします」
 包帯として使っていた、要らなくなった衣服を切り、縫い合わせて作った布をなるべく裸の胸を視界に入れないように、それでいて、極力俺の部屋に居てもらうものの、誰かに見た目で異変に気付かれないよう、豊満になりつつある胸を押しつぶすようにして布を巻いてゆく。
「マスター」
「どうかしましたか?」
「いえその、少し苦しいです」
「すみません、でも緩めると目立ってしまうので……」
「では、ここから出るときは布を締めていただく、ではいけませんか」
 少しの間逡巡し、それで構いませんと言って布をほどく。圧を失った脂肪はもとの大きさに戻り、ゲオルギウスは大きく息を吐いた。
 体調が思わしくないのか、失礼、と断りを入れたあとベッドに横たわりぬるくなった湯たんぽを引き寄せる。確か俺/私が生理痛のときに飲んでいた豆乳があったはずだ。どれだけ効果があるかはわからないが、何もしないよりいいだろう。
 紙パックに入った、賞味期限にはまだ余裕がある豆乳をマグにあけ、電子レンジであたためる。人肌程度に温まったところで引きあげて、試験管の三分の一まで水を注いだものにラムネのような薬剤を溶かし、静かにマグへ注ぐ。うまく豆乳の匂いと混ざって気にならなくなった。これで少しだけ、もとに戻るのが早まるはずだ。
 気分が悪そうに眉間にしわを刻むゲオルギウスの側に腰かけ、サイドテーブルにそっとマグを置く。
「起き上がれますか?女の方の俺があなたのような症状になっていたときに飲んでいたものを飲んでみませんか」
 だるそうに身体を起こすゲオルギウスの腰にクッションをあててやり、ハンカチで包んだマグを持たせる。マシュがスミレの花を刺繍をしてくれたかわいらしいハンカチ、それが少しだけ罪悪感を刺激する。
 ぽってり厚い唇がだるそうに薄く開かれ、溜息が零れる。顔と精神性が美しいひとはなにをしても綺麗だ。それはほかの英霊たちもうそうだけれど、刹那的に生きた人間の表情は誰も見たことが無いものである可能性がある。それでいて自分しか知らないかもしれない。それに得もいえない喜びを感じる。なんだか、憧れていたものが少し身近になったような錯覚に陥る、少しの失望を含んだ喜び。

 明かりを落として、昔聞いた歌を口ずさんで子守唄代わりにする。ふるさとを想い、家族や友達の息災を願う歌。
 いつもは頭を撫でようものなら、明言こそしないものの好ましくない、といったそぶりをされるが、今はむしろ心地よさそうにその長い髪を預けてくれている。時々何かの鱗だったり、欠片、血の塊などが絡んでいるのを丁寧に取り除き、俺/私が使っている櫛で梳くと元通りの艶が戻ってくる。
 手に取った毛束にこっそりキスを落として、何事も無かったように、梳く。今まで彼に相対するときは尊敬を全面に押し出してきたのに、ここらで我慢が足りなくなってしまった。今なら、彼、いや何と呼ぶべきかわからないが、この人と俺は理論上子を成せる、とあまりに倫理に反したことが頭をよぎったことを恥じる間もなく、ゲオルギウスの苦しそうな吐息に意識を引きずられる。
 ときにひどく傷むらしく、額に脂汗が浮いている。固く絞ったタオルで額をぬぐうと気持ちよさそうに目を細める。やっと、俺が彼に何かしてあげられた。
 してあげられた、といっても原因が俺なので手放しで喜べない。鎧越しでない彼の掌はひどく熱くて、傷とマメだらけだった。
「これから数日は、ここから出ないでください……もう、声が女性のものになっています」
 無言で頷いてくれる。いい機会だからマントを洗濯し、鎧にさび止めを塗っておくのもいいだろう。俺は変な方向に前向きだ。

 ◇
 朝、俺のものではない体温と寝息で目が覚める。それが自分が好ましいと思っている人ならばなおさらだ。まだ深い眠りの中にいることを確かめたのち、そっと肩に触れる。どこで貰ってきたのかわからない、きっと人間の者ではない深い噛み傷。その歯列の一つ一つをなぞっているうちに、聞きなれない女性の声で、おはようございます、マスター、と声を駆けられる。
「起こしてしまいましたか?すみません」
「問題ありません、そろそろいつも起床している時間ですから」
 ゲオルギウスが起き上がると俺の頬に髪の毛が降ってくる。失礼、とすぐ払われてしまったけれど、彼の匂いがふわりと鼻をくすぐるのでそう悪くない。

「マスター、これは?」
「その、下着の当て布です。こう、包装を剥がして……」
「そうだったのですか、これは失礼」
「いいえ、とんでもない……使い終わった当て布は隅にある箱に入れておいてください」
 申し訳なさそうにトイレに入り、生理用ナプキンを取り換える。言葉にしてしまえばそれだけのことなのに、ひどくそそる。そんな邪心を振り払うように朝食の準備をする。昨日のうちにドクター・ロマニにはオブラートにくるんで話をつけてあるから、よほどの緊急事態が無い限りは施錠したままになるはずだ。目玉焼きと、ベーコンと、トマトと豆のスープと、パン。あの恵まれた体格を意地するためにはこれでは少ないかと思ったが、食欲がいつもより無いらしいので、このくらいにしておく。
 食事の前にも、彼は何かに祈りをささげている。俺には祈る神なんていないが、先に食べ物に手をつけるのもなんだか居心地が悪くて黙って待っている。
「お待たせいたしました、いただきましょう」
「ええ、そうしましょう」
 さくり、と彼の歯がトーストに突き立てられたのを盗み見て、この人は特別おいしそうにものを食べるなと思う。自分が作った、あまり見栄えがいいとは言えない食べ物をおいしそうに食べているところを見ると悪い気はしない。

 仮にも彼も大衆からあがめられた存在であるが、今は洗い物を進んでしている。今日の朝の薬も飲ませたし、端的に言えば暇、である。
 それを聞いたゲオルギウスは、カメラを取ってきて欲しいという。持ってくると、マスター、と呼ばれ、脚の間に誘われる。この人は俺が純粋で、よこしまな心を持たない子供だと思ってはいないだろうか、と疑念に駆られるが大人しく収まっておく。柔らかな胸が背中にあたって気が気じゃない。
「あなたが救ってきた者たちの記録です」
 そんなものを撮っているとは知らなかった。思わず見入ってしまう。ローマの市街地で遊ぶ子供、寝ぼけ眼のマシュの髪の毛を梳くブーティカ、しくみが気になるのかレンズを覗き込むネロ、母の腕に抱かれるオルレアンの子供、ジャンヌの旗を広げて模様に見入るマシュ、それにドレイクの部下たちに飲みつぶされた俺、それを笑って冷やかすドレイク、介抱するマシュ。光源が松明だけなのでどうしても暗いが、その笑顔はどこまでも明るい。
 霧に煙るロンドン、モードレッドにジキル、寝所に行く前に行き倒れたアンデルセン、物思いにふけるシェイクスピア、折り紙をするフランケンシュタインと、俺とマシュ、遠くから撮ったのでピントがぼけているニコラ博士。そしてアメリカ。どこまでも広がる荒涼、という言葉が似合う大地にたたずむジェロニモと、その話を聞き入るマシュ。俺の顔に木の実を並べて遊ぶエリザベートとビリーと、それをたしなめるロビンフッド、エジソンの毛並に触れるか触れまいか迷う俺と、それを見守るブラヴァツキー。
 思わず笑いが零れる。恐ろしいくらいの責任が俺の両肩に圧し掛かり、おかしな体質まで抱えているのに、実にほほえましいじゃないか。
「こうして、皆あなたが血反吐を吐きながらも立ち向かうからこそ、生きた証を残せているのです」
 いつもみたいに説教臭くなく、優しくささやくように言い聞かせてくる。この人なりに俺を奮い立たせようとしているのかもしれない。

「これ、一枚もあなたの写真がないですね」
「そうですね……私はいつも撮る側でしたからね」
「治ったら、俺があなたのことを撮りたいです」
「ええ、そうですね、お願いしましょう」

「そう言えば、体調はよくなりましたか?」
「おかげさまで、随分良くなりました。時に刺しこむように痛みはしますが……そんな悲しそうな顔をするほどではありませんよ」
「本当ですか?遠慮はなさらないでくださいね」
「本当ですよ、ありがとうマスター」
 慈愛、という言葉が似合う笑みの作り方は変わらない。いまこの表情を記録に残したかった。

「あの」
「なんです?」
 本来メンテナンスが不要なはずの英霊の装備にさび止めを塗る手を止めて、こちらに注意を向けてくれる。
「竜を殺すこと……というか自分より強大なものに立ち向かうのが、怖いと思うときはありますか?」
「それはもう、怖くて堪らないときもありますよ」
 驚きのあまり彼から目を離せないでいると、苦笑いを一つ零して鎧を分解しはじめる。
「本当に?あなたほどの人でも?」
「ええ」
 意外だった。誰も彼もそんなそぶり見せたことが無いのに。彼ほどに伝説を積んで、英霊として召し抱えられるほどの偉大な魂でも、強大な敵は恐ろしいのだ。
「あの、俺本当にいつもいつも、怖くて……異形の敵や、思想を違えた英霊が、そしてあの、ソロモンが」
「マスター、あなたは本当に良く頑張っています……ドクターに聞いたら、あなたは特別な訓練を受けたわけでもない方だというじゃないですか」
「いつだって逃げたい、という気持ちが起きてしまう」
「あれだけの敵が立て続けに来るのであれば、そうなっても仕方ありませんね」
「……あなたは怒ると思っていました」
「怒る?」
「意気地なし、お前の両肩に人類の未来がかかっているというのに、って」
「……マスター、あなた私をそんなことすると思っていたのですか」
「だって、今までこうして話す機会もなかったですし」
「そうですね、いい機会だったかもしれませんね」
 とんでもない状況に陥っているというのに、悲観的な雰囲気は無い。むしろ前向きにとらえているような気すらする。

「あなたが苦しいとき、私が傍に居りましょう」
 胸がつぶれそうなほど苦しい。文脈からしてそんな意味じゃないはずなのに、すべてが終わってしまえば、英霊の座とかいう場所に戻ってしまうというのに。悟られぬよう笑顔で、そうですね、よろしくお願いしますと絞り出すのが苦しくて仕方ない。
「ほら、もう泣きそうな顔はおよしなさい、愛らしいお顔が台無しですよ」
「……子ども扱いはやめてください」
「おや、それは失礼」
 そうやってまた優しい言葉をくれたり、不用意に触れてきたり。俺が心残りをたくさんゲオルギウスに残してしまうようなことをする。人理さえ救済していまえば、俺の役割は終わりだから、合理的といえば合理的と言えるだろう。人理救済までは生かされているのだ。あなたへの執着で、俺は生き延びると言ったら、彼はどんな顔をするだろう。その執着が遠因となってあなたの身体は今こんな状態になって居ると知ったら。
 なんて恐ろしい想像だろう。知らせなくていいことは知らせないでおきたい。彼が、英霊の座とやらに帰ってしまうときには全て忘れてしまうにしても、俺がマスターだったときに、深い悲しみに沈んでほしくない。
 自分でも支離滅裂だとは分かっている。なら懺悔でもしようか?彼の祈る神に。あなたを崇拝する信者を、いずれ必ず別れが来る存在に執着するあまり、自分の体質に近づけて、教義上、良しとしない存在にしました。それでも、それでも俺は彼を愛おしいと同じ口で宣ことを許しますか。
 そこまで考えて、俺は許しなど求めていないことに気付いた。この背徳こそ、彼がいなくなったあと俺と彼をつなぐ。ならば許させてはいけない罪なんだ。これで俺の凶行にも説明が付く。
「マスター、どうしました。難しい顔をして」
「いえ、なんでもありません」
 笑い出したいのを堪えて、さっきから床についてしまっている髪をまとめる髪ゴムを探す。自分でも面白い道理を考え付いたものだ。

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おそらく2016年6月19日発行のぐだゲオコピ本の再録です。

憐みを抱かぬよう喉に牙を立てて #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #アルジュナ

憐みを抱かぬよう喉に牙を立てて #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #アルジュナ


 じわじわと意識が覚醒し、現実に浮上する。
 けたたましいセミの鳴き声と、肌に張り付くTシャツのうっとおしさに辟易しながらどうにか身を起こす。
 最近、何かを忘れているような気がしてならない。それが何なのか一切思い出せないのだから性質が悪い。
 昨日の晩御飯……アルジュナとうどん屋で食べた。この暑いのにアルジュナが汗みずくになりながら熱いきつねうどんを食べていたことだって覚えている。
 今週末の小テスト……だんだんわけがわからなくなりつつある古文の書き下しテストがある。
 と、思考を練っているうちに起床しないと間に合わない時間になっている。

 慌てて飛び起き、急いで身支度を整える。
 台所に置いてあったバターロールを無理やり押し込んで、夏用のベストを羽織る。
 制服が白だと所作に気を遣わなければならないので面倒で仕方ない。

 玄関を開けると、見知った顔が腕時計を見ていた。
「二分遅刻です」
「ごめんね」
 返事をせずに歩き始めたのはあまり怒っていない証拠だ。
 気に食わないなら徹底的に叱責してくる。胸をなでおろして歩き始めた彼につづく。

 前後に人がいないことを確認して、その指に自分の指を軽く這わせる。
 案の定、こんなところで、と責めるような目線が横顔に刺さる。
「だめ?」
 彼にしては珍しく、迷っているのか目を泳がせ、観念したかのように唇を軽く噛んで指を絡ませてくる。
 俺が軽く笑い声を漏らすと、何がおかしいと言わんばかりに爪を立てられる。それすらいとおしくてそのまま手を握る。

 ああ、幸せだなぁ、だなんて考えながら。


 ◇◇
 授業中も、アルジュナの掌の感触を思い出してはにやついている。
 俺より少し大きな掌、短く切ってある形の綺麗な爪、指の関節のひとつひとつを。

 けれどテストがそう遠くないからあまり意識を離していられない。
 あまり興味が持てないものの、どうにか置いていかれないよう手を動かす。

 ◇
 一番楽しみなのは、もちろん昼食の時間だ。
 学食で買った菓子パンと、烏龍茶の紙パックを持って階段を一番上までのぼる。
 両手がふさがっているので、すこし品が無いが、脚でノックすると扉が開いた。
 本当は生徒立ち入り禁止なのだが、なんというか生徒会特権とかいうやつでどうにかなってしまっているらしい。
「あれ?アルジュナ、ごはんは?」
「あなたと会う前に買いました」
「そっか、あるならいいや」

 日蔭に陣取っても暑い。湿気を帯びたぬるい風が頬を撫でる程度の涼だけだが、なぜかどれだけ暑かろうが寒かろうが、俺たちはここで昼食を取るようになっている。
 あたりまえのようにアルジュナが隣に腰を下ろす。さらに暑くなるが、これで拒絶の意志を少しでもにじませようものなら以降近寄りもしなくなるから黙っておく。

 暑い中甘ったるい菓子パンを全部食べる気になれずに半分以上残してしまう。
「食欲ないんですか?」
「んー、もっとさっぱりしたものがよかったかな、ってカンジかな……大丈夫、足りるよ」
 心配そうに覗きこんでくる黒い瞳が俺の青い瞳を写した。そんなに近く寄らなくてもいいのに、と思うけれど、ここまで近いならキスができる距離だ、とも思う。

 軽く顎を掴んで引き寄せると、俺よりずっと力が強いのに抵抗の色さえ見せない。
 すんなりキスが成功してしまった。人目を気にする方なので、嫌がられると思った。

 よくよく考えてみれば建物の高さの関係からどこからも死角になるのがこの日蔭だ。
 彼がそういうことを考えるとは思いにくいけど、ここなら何でもできてしまう。
 この前初めて身体の関係になったばかりでこんなところで盛るのはハードルが高いかな、いやでもその後サルみたいにヤりまくったな……などと思ったけれど俺の身体はそれほど抑えが利く方でもない。

 ご飯を食べているアルジュナが暑がってもべたべたと彼の身体に掌を這わせていると案の定。
「ちょっと……」
「うん、勃っちゃった……」
 ゴムはある。と財布のコインケースから取り出すと、アルジュナは少し目を見開いて、呆れたように深いため息をついてみせた。
 それも、フリ、だろう。彼の身体を触っているときから、彼のスキなところだけを触っていたのだから彼だって そういう 気になっているはずだ。
 汚してしまうから、俺と彼の上着とスラックスを取り払ってしまう。嫌に風通しがよくなってしまい、羞恥だか解放感だかわからない感覚が脳味噌を染めあげた。
 背中がコンクリートに当たらないように、俺の上着をアルジュナの背中に敷いて、小分けにして常備してあるローションを後孔に塗りつける。この感覚がどうにもなれないらしく、身を固くしてる。
 好きな人が不安だったり、嫌だと思うことはしたくなくて空いている手で頬に触れると、素直にすり寄ってくる。こういう時はいつもの生意気さはなりを潜めて、とことん甘えてくる。
「痛い……?ごめんね……」
「痛くは、ないんです」
「?」
「なんだか、慣れない感覚があるだけで」
 後孔で気持ちよくなるにはある程度慣れが必要だというが、少しでも気持ちよくなってくれていれば良い。
 ある程度解れたところで指を引き抜いて、指用のコンドームを外して、ペニスにコンドームをかぶせる。正直あまり好きな匂いでも感触でもないが、一度中出しをしたら翌日腹が痛くなったと言っていたので、俺のわがままで彼の体調が良くなるのはいただけない。
「挿れるね、痛かったら言って」

 痛くても言わないことを知っていながら、優しい恋人のふりをする。声を上げてしまわないように、大事な指に歯を立てている。
「ちょっと、指噛んだら弓を引けないでしょ……」
 ほら、と俺の指を差し出すと、これまた素直に俺の指を口腔に招き入れる。
 優しく舐められ、先端を吸われ、音を立てて抽出され。
 こんなことされたら嫌でも俺の身体の裡にも火が灯る。このクソ暑いのに、煽られたら火が大きく燃え上がるなんてあたりまえなんだ。


「ふ、っ、――ッく……んッ」
「苦しい?」
 嫌々、と首を振って否定の意志を示すアルジュナの、額に張り付いた前髪を払って唇を押し付ける、おそるおそる舌を挿入すると、アルジュナの方も少しずつこちらに舌を挿しいれていたらしく、軽く触れあった。
 時に唇を離してはまた寄せて、それで相手を食らいつくしてしまえたらと言わんばかりの動物的衝動で互いの身体に触れあう。

 徐々にアルジュナの声音に甘ったるさが帯びてきて安心した。
 引き締まった身体に汗の粒が浮いては流れる。
 互いの汗が、体温が混ざり合ってこのまま一つになりたい、だなんて夢見がちなことを考え付くくらいにはこのうだるような熱気と、むせかえるような興奮は俺の思考を鈍らせる。

「はァっ……う、くッ……ぐっ、うう……ぅ、アッ……」
「んっ、ふ、ンっ……!アルジュナ、ねぇ」
 きつく閉じられていた瞼が押し上げられ、こちらの声に反応する。言葉にならない、口の形だけで好き、と伝える。
 アルジュナの唇がわたしも、と形作るのを見て、安心した。
「あ、あァッ、もう、ダメっ、ンっ……出るから、テイッ、シュ、おねがいッ……だから……!」
 彼の肌に白濁が飛び散るさまはそれはもう興奮するのだが、今制服を汚してしまうのはよくない。しかたなくポケットに忍ばせていたコンドームをアルジュナのペニスの亀頭に被せてやる。
 ぱちゅん、ぱちゅんと下品な水音がするたびに彼が身を竦ませるのがどうにも胸にクるものがある。俺もそろそろ限界だが、アルジュナの方が先に達するだろう。
 だんだんと表情がうつろになってゆき、手で俺の身体のどこかに触れようと探り出したら、ということをつい最近知った。
 俺の背に手が回ったかと思ったときには息を詰めていても漏れる嬌声とともに、アルジュナはひときわ強く俺を抱いて達した。
 意地でも達するとき声を上げようとしない。ラブホなど、声を上げれるところなら遠慮なく絶頂するアルジュナの声を聴けるのだろうか。今度私服で行ってみようか。

「ごめんね、もう少し」
「ええ」
 イったあとのアルジュナは後が怖いくらい優しい。
 両手を俺の頬に当て、唇の感触を楽しむように押し当てて、俺の腹の底に溜まる欲をすべて吸い取ってしまうかのように優しく俺の吐精を促す。それに流されるように彼の胎内、正しくはコンドームにみっともない声をあげて射精してしまう。
 スッと冷水を浴びせられるように冷静になってしまうのが男の性であるとしても、これはあまりに情緒がない。
 きわめて冷静に、授業に遅れないように汗拭きシートで互いの身体を拭い、コンドームをビニールに放り込む。ときに軽く唇を重ねては見つめ合っているものだから遅々としているが。

 ◇
 興奮冷めやらぬ火照った肌を寄せ合いながら、すっかりぬるくなった烏龍茶を飲み下す。
「帰り、ちょっと待っててね」
「わかりました」
「忙しかったら帰ってていいよ」
「いえ、平気です」
「ん」
 最後に唇ををどちらともなく寄せ、離れる。今までただご飯を食べていただけですよ、と言わんばかりの澄まし顔で。



 ◇
 やはり、俺は何か忘れている。
 すっかり日が陰った廊下は、人の気配がしないだけでこんなにも不気味だ。

 俺がどこからきてここに居るのか、何故家に俺だけが居て、こんなにも、俺にとって都合の良い世界なのか。
 そういった疑問が湧いてはあぶくのように消えてゆく。疑問を覚えていられないのだ。それを考えることを禁じられているかのように。
 俺だけが、何かを忘れている。
 不安でも、誰に話しても気のせいで片付けられそうなことだ。拳を握り込んで爪が食い込む。痛みを確かに感じるので夢ではないはずだ。

 当てもなく廊下をさまようが、それで思い出すはずもない。
 こんなに遅くなってしまったのだから、アルジュナは怒って帰ってしまったかもしれない。

 ◇
「え?」
「え?じゃありません、どうしたんですかこんなに遅くまで」
「いや、ちょっとね……」
「……私にも言えないことですか……?」
 怒ってみせたのは最初の方だけで、こんなに遅くまで学校に居残っていたことが心配だったとひしひしと伝わってくる。
 彼の貌を西日がきつく照らす。朱と、彼の深い黒色の瞳。失礼ながら禍々しい色の取り合わせに生唾を呑みこむ。
「言っても」
「しょうがないだなんて言うんですか?」
「う……」
 責める意図はないだろうが、状況が状況なので反抗しづらい。暑さで頭をおかしくしたのか?と心配させたくないので言葉を選んで自分の中の違和感をどうにか言葉にする。
「笑わないで、聞いてくれる?」
 頷いて、歩き始めた俺と歩幅を合わせてくれる。

「ちょっと前から、なんかおかしいなって思うんだ」
「おかしい……ですか?」
 思い当たる節がもちろんないであろうアルジュナも、思案をめぐらせている。
「うん、なんというか、俺に都合がよすぎるんだ。何もかも。特に、アルジュナ。君に関して」
 いよいよ俺の言っている意味がわからなくなったのか、怪訝そうな顔で俺の顔を見遣る。
 やはりアルジュナにはわからないらしい。けれど俺は言葉を続ける。全体を離してしまえば少しくらいヒントがあるかもしれないと信じて。

「君は、俺をそんな切実に俺を求め、俺を愛してくれる、のかな」
「何が言いたいのです、それに、私を疑うのですか?」
 少しずつ声が震えているアルジュナの腕を掴み、声を抑えるように目で示す。

 黒と青が交わる。
 朱に染まっていた空が藤色に染まり始めている。
 これ以上は、「アルジュナ」に失礼だろう。
 妻を愛し、子を愛し、民に愛され、民を愛した彼に。
 俺と言う個体を愛している今、この時が。

「ごめんね、俺を好きにならせて」
「何を、言うのです」
 いよいよ怒ってしまう。その前に片をつけなければ。

「もういいよ、君は、偽物だ」




 途端、蒼穹にひびが走った。
 バリバリと音を立てて空が剥がれ落ちてゆく。

 普通ならあり得ないことだが、俺は極めて冷静に、泣き崩れる俺の望んだ「アルジュナ」の背中を摩る。
 確かに温かい。が、この涙もきっと俺がそうであれと望んだ、「俺を愛してくれるアルジュナ」だからこそ、だ。

「ここで安寧を得ていれば貴方は危険にさらされることも、悲しみに暮れて"私"に泣きつくこともないというのに……だからあれほど沢山あった聖杯の一つにそう願ったのではないのですか」
「ごめん、迷惑だった?」
「そうではありません、貴方が、辛いと嘆くことのない世界で、温かな生活を、貴方がもと居た世界のまま暮らしてほしかった」
「でも、そのままじゃアルジュナが生きた証も、守った人たちも、残らないから……でも、ありがとう、君のことを、心から――――」



 ◇◇
「ごめん、これは僕の責任だ」
「謝ることじゃないよ、ドクター・ロマン。仮にも聖杯を扱うのだから、こうなる可能性を考えておくべきで、聖杯の力を甘く見た俺が」
「先輩、顔色が悪いです……ドクター、ここは先輩を休ませてあげたほうが」
「そうだね、申し訳ない……ゆっくり休んでね」

 今までずっと寝ていたようなものなのに、眠る気なんてなれない。
 いうなればできのいい夢だ。そんなものも聖杯が叶えてくれるだなんて。
 それにあれはある意味本物のアルジュナだ。
 俺が聖杯で仮想世界を作り、それにアルジュナを呼び寄せた、のだと思う。
 きっと、狂化を取り付ける要領で、聖杯は余計な気を利かせててくれたのだろう。醒めてしまった幸せな夢など、惨めさを際立たせるだけだと言うのに。



 光の粒が舞い、英霊が実体化する。
 白い外套に、黒い髪、それに合わせて設えたかのような黒い瞳。
 今一番顔を合わせたくないが、そうも言ってられない。


「……見た?」
「ええ」
 涼しい顔で言ってのける。
 俺としては恥ずかしさで今すぐここから消えてしまいたい。都合よく目の前の英霊を書き換えた上にその時までは本気で愛し合っていると信じて疑わなかったのだから。
 自分の幸せな夢が恥ずかしい思い出になってしまったことがなにより悲しくて、恥入る余裕などないのだから、これ以上ここに居ないでほしい。

「あれは、私であって、私でない」
「というと?」
「それを考えるのが子供の役目です、マスター」
 そう言って彼は手袋を外し、俺の頬に触れた。
 変わらず温かな肌に、今は失われた「アルジュナ」が思い出されて胸がチクリと痛む。
「貴方が、そうであってほしいと願う方を信じなさい。その方が快いでしょう」
「そうだね、さすが、施しの英雄」

 厭味に聞こえたから厭味で返した。
 それだけのことなのに、妙に感傷的になってしまう。失ったのが悲しいのか、現実の彼は悪くないのに当たり散らしたことが恥ずかしいのか、その両方か。どれであっても俺のせいだ。それでも今は俺だけの胸の裡に広がる痛みに浸っていることくらいは許されるのではないだろうか。

「ごめん、すこし寝る」
「そうですか、では」
 何の余韻もなく彼は去っていく。
 あの「アルジュナ」だったら、添い寝をしてくれていただろうか、と夢想しながら眠りにつく。

2016/8/28
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概念礼装「ヴァーサス」に着想を得た学パロからのそんなもんありませ〜ん

碇を下ろせない港のよう #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #天草四郎時貞

碇を下ろせない港のよう #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #天草四郎時貞

 重苦しい、棺に似た入れ物に、見たこともない言葉が書き連ねられた古くて薄汚い布を何重に巻かれたものを、人類の英知と、武勇とを持ち合わせた英霊たちが欲しがっている、という事実に実感を持てないでいる。
 英霊たちが明かした聖杯にかける願いは人それぞれだが、実にありふれた願いを持った英霊たちが多い、というのが俺が感じた印象だった。
 結局、英霊だ何だと箔付きのお椅子に座っていながら、あれらは欲張りな人間の枠を脱していない。だからこそ俺も彼らに、同じ人間として愛着を持ち、同じ志を持つ同士としてこの過酷な使命を未だ放り投げてしまわないでいる。

 魔術が込められた錠を解いていくうちに、それの実態が見て取れる。

 どれだけの人が悲願を込めたのか、知るよしもない。
 それはどれも相当に古いもののはずだが、その深みのある金には濁り一つない。
 俺らはこれを、聖杯と呼んでいる。

 本来ならこれは一つだけ存在するはずだが、今回のは何もかもがイレギュラー。ここに並ぶ聖杯は十一もある。イレギュラーついでに、それを英霊の霊核と融合させることで、英霊の持つ力を格段に上げる、というのだ。

 一つの聖杯を七基の英霊たちで奪い合あった彼らに言ったら卒倒しそうだ。
 聖杯を一基の英霊につかうだなんて、それも五つも、それで死後の安らぎを人類に売り渡してまで欲した悲願が五つも叶ってしまうではないか、となじられるだろうか?

 いや、それはないかと思う。たぶん。
 彼らの願いは、人類が存在してこそ意味があるもので、人理が焼き尽くされた後叶っても意味がないものがほとんどだ。
 マタ・ハリは永遠の若さを、ジェロニモはこれ以上奪われぬよう、と願うという。といった要領で、彼らはめいめい、人類が存在する前提で願いを聖杯に託すつもりでいる。

 なら、無欲そうに見える英霊に聖杯を託そうと考え、俺はあるサーヴァントを選んだ。

 彼の名前は天草四郎時貞。
 日本史の授業を話半分に聞いていた俺ですら彼のことを知っている。彼は、秘密だなんだとはぐらかし、一度も俺に聖杯に託す願いを教えてくれたことはないけれど、きっと彼なら、聖杯をその身体に受け入れ、より強力なサーヴァントとして人理修復に協力してくれることだろう。


 ◇◇◇
「マスター、それは」
 彼が表情を変えるのを初めて見たかもしれない。
「うん、そう。四郎くんは見たことあるんだよね」
 聖杯大戦のことは、ロード・エルメロイ二世の書棚の隅に積まれていた資料で読んだ。
 ユグドミレニアが冬木から奪った聖杯を奪って、何らかの願いを叶えようとした。ということはわかっている。その前に、得物が手に届く範囲にある彼を令呪で縛る必要がありそうだ。

「サーヴァント・ルーラー……天草四郎時貞に令呪を以て命ずる。黙って話を聞いて、そして、質問に答えて」
 眩い緋の光が視界を染めたのち、手の甲のあざが一つ消え、彼はとりあえず俺を殺して聖杯を奪うということができなくなる。
 いつもの穏やかな表情とはなんだか違う表情をしている。笑みはもちろん、いつもと変わらぬ柔らかさな笑みだが、目が笑っていない。むしろ冷たい氷の刃を模した視線が俺に刺さる。

「だって、そうでもしないと俺が三池典太の錆になっちゃうでしょ」
「そのようなことは」
「しない、と言える?これが君の願いを叶えることができるかもしれないものだったら?」

 答えはなかった。
 彼ほどの人格者が、犠牲を厭わずかなえたい願いとはなんだろうか?俺は本来の目的とは逸れていることを自覚しながらも、彼の願いを聞いてみたくなってしまった。令呪が効いている今がチャンスだろう。

「ねぇ、聞かせて。君の願いは?なんでそんなにコレがほしいの?」
 彼の眼前で五つの聖杯を鳴らせてみせた。
 完全に余計なことではあるが、彼の眉間に皺がよったところを見ることができただけでよしとしよう。

 ◇
「四郎くんは、何か叶えたい願いがあるの?」
「……全人類の、救済です」
「え?」
 言っている意味がよくわからない。というか、おおざっぱすぎて、具体的にどうしたいのかがわからない。俺だって人理の修復を担っており、大枠で言えば俺と同じ願い、と言えなくもないかもしれない。
「もうちょっとわかりやすく」
 彼は、深く深くため息をついて、聞き分けの悪い子供に言い聞かせる親のような穏やかな声音で、この世の地獄を経て得た理想を語り始めた。

「人は、欲を抱きます」
「欲は、善きもの、悪きもの両方を呼びます」

「えーでもそれが人間ってもんじゃない?」
「貴方が話せと言ったのでしょう……話は最後までお聞きなさい」
「はぁい」

 割と強烈にねめつけられて、身を竦める。再び視線を宙に戻して話を続ける。
「……私は、人間が生み出したシステムに押しつぶされる人間を……それを生み出す人間の性質を見過ごしておきたくないということです」
「んー……まだわかんないな……あのさ、四郎くんはすっっっっごいひどい目、って言葉で表せないくらいの目に遭ったのに、なのにまだ、人類を救いたいなんて思うの?」

 また、能面のような笑みを浮かべた。俺はこの笑い方が好きじゃない。なんだか、俺と四郎くんのココロの間に、薄膜を張ったような気がする。さっきみたいに怒りの片鱗をにじませた彼の方がよっぽど魅力的だ。
「私は、憎しみを捨てました」
「ウッソー!そんなゴミ捨て場にちゃんと分別して捨てましたーみたいなノリでできること……なの?」
 彼があまりに穏やかななかにも切なげな表情を浮かべているものだから、途中から語気を保てなくなってしまった。それ以上、言ってはいけないような気もする。いつもの彼じゃないみたいだ。どんなことにも余裕綽々、みたいな表情で同じ年代とは思えない彼とは違うみたいだ。

「ええ、それは自身に対する裏切りではありますが、私は、そうしたかったから、そうしただけで、そのように悲しい顔をなさる必要はないのですよ」

「でも……それって、四郎くんは救われる?」
「私ですか……?それは……わかりません」
 願いを叶えたあとの自分の事なんて初めて思い至った、といった表情で思案を巡らせている。きっと、あまりに願いが大きすぎてそんなところに脳のリソースを割くということ事態思い至らなかったのだろう。

「そっかぁ……それは個人的にイヤだな……」
「それほどですか?」
「うん……そんなにまで頑張ってる人が、やったー!幸せー!ってならないと俺は悲しいな……って、でも四郎くんが望む世界はそんな気持ちも抱かなくなるんだよねきっと……うーん、まあそれはそれで効率がいいのかな……?」
 彼の願いと自分の価値観、どう算段しても掠りもしない。それでも彼個人が報われてほしいと願ってしまう。
「四郎くんは、それが良いんだよね?」
「ええ」

 迷いなく、それが唯一の正しい答えだと信じて疑わない彼があまりに高潔で、俺からずっと遠くにいるような気がしてならない。
 個人の快、不快から遠く離れたところで一人、理想を叶えるために戦う彼は同じものを救おうとしているはずなのに俺とは違いすぎる。

 自分の死が、仲間の死が、修正後はなかったことになる人たちであるとはいえ、死が恐ろしい、傷つくことが怖いと嘆く俺とは、覚悟の質が違うのかもしれない。
「わかった、じゃあ、こうしよう」

「俺と、四郎くんで人理の修復を頑張る!そうしないと四郎くんの救いたい人類がいなくなっちゃうから。そしたら、四郎くんはなんかいろいろ考えて、全人類救済できる方法を探す!で、俺は四郎くんが報われて、かつ四郎くんの願いが叶う方法を探す。これでどう?」
 そんな、子供が叶わぬ理想を語るのを穏やかに眺める老人のような目で俺を見ないでほしい。喜びも怒りも悲しみも捨て去った人間はこういう顔をするのだとあらためて実感する。それがなぜか寂しくて仕方がない。
「お好きになさればよろしいかと。マスターがどうなさろうと、私は私の願望を叶えるだけです」
「そっか、それでいいよ。そうしよう」

 でもやっぱり寂しいものは寂しいから、人理の修復が全部うまくいって、マシュも元気になって、それでも聖杯があったらこっそり……?というのもいいかもしれない。


 ◇◇◇
 やっと本題を思い出した。
 一方通行気味ではあったものの、久しぶりに同年代に見える男の子としゃべれてついはしゃいでしまった。彼の霊核と聖杯を融合させる、という目的があった。ドクターが言うには、霊核のある胸部に近づければ自然と取り込まれるという。簡単すぎ手拍子抜けした。なんかもっとこう……概念礼装のフォーマルクラフトのお姉さんのように、かっこいい呪文を並び立ててみたかった。
「それじゃあ、じっとしててね」
 令呪で縛りを与えている今、じっとしているか、俺の質問に答える以外のことができない彼に追い打ちをかけるように念押しして、聖杯を一つ手に取る。
「っと、その前に……ごめん、ちょっと襟元緩めて胸のあたり出すね」

 返事を聞く前に衣服を緩める。無数の刀傷と、やけどの痕に思わず手を引いてしまった。
「お見苦しいものを見せましたね、失礼」
「い、いや、四郎くんが謝る事じゃ……」

 彼にそんなことを言わせてしまったことがなぜだが嫌に胸を騒がせる。痩せていて筋肉があるわけではない俺の身体とは違い、しっかり筋肉がついている。じろじろ見るのも怪しまれそうなので、聖杯を一つ手に取る。
「痛かったらごめんね」
「構いません」

 この世に堪えることなど存在しない、と言わんばかりに決意を宿した視線からあわてて目を逸らし、彼の胸部に聖杯を近づけると、鈍色、に一番近い色が視界を支配した。それでも聖杯を取り落としてしまわないよう、手に力を込める。
「ッ、グっ……!!」
「えっ痛い……?!ごめん、ごめんなさい……」
 傍らで握りこんだ彼の手のひらが、強く握りすぎて色が変わっているのが見えた。それでも叫びの一つもあげずに、彼は耐える。歯を食いしばり過ぎてギチギチと音を立てるほど苦しいのに、恨み言ひとつ言わない。
 きっと人理の修復のそのあと、彼の目的を果たす際の障害をより効率良く排除するために受け入れた聖杯だろうけれど、彼の力になれば良いとも思ったけれど、彼が苦しむためにすることだろうか……?俺は今、正しいことをしているのだろうか……?
「躊躇うことはありません、続けなさい」
「は、はい……!」
 あまりの気迫に思わず敬語になってしまう。
 額に張り付いた髪を彼の耳にかけると、表情がよく見えてしまった。
 彼が見せるささやかな人間らしさがそこにあるだなんて、想像すらしてなかった。痛みに耐え、喉元にまででかかった叫びを押しとどめる彼は、何と言ったらいいか全然わからないが、その、とってもステキだった。高潔な理想と、垣間見える人間らしさ。それがたまらなくステキに見えた。なぜそう思うのかわからないけど、俺の心の中がすごく、キラキラしてる。


「ボヤボヤしない!次!」
 一つ聖杯を飲み込んだだけで痛みで起き上がれないのに、それでも彼は理想を追うために強さを得ることを躊躇わないのだろう。息が上がっているのが落ち着いてしまったら、それはそれで苦しいのだろうから、何故かほほを伝う涙を袖でぬぐって、もう一つ聖杯を手に取る。
「ごめんね、いくよ」
 触れると同時に、うめき声がまたひとつ上がる。
 苦しげに眉を寄せる彼が見ていられなくて、彼の肩に額を寄せて視界を塞ぐ。当の四郎くんは一瞬身をすくめたが、すぐに小さい子供にするように頭をなでてくれた。四郎くんの方がずっとつらくて、痛いのに。

 ◇
「がアッ……!!!」
 最後の聖杯を飲み込むのが一番つらそうだ。辛いものを食べる時みたいに、すこしずつなれていくみたいなことはないらしい。さっきからずっと俺の頭をなでていてくれたけれど、このときばかりは俺の背中のあたりで握りこんだ手を震わせている。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
「私はッ……大丈夫です」
 顔色が真っ青の人が言っても説得力のかけらもない。どうにか一秒でも早く終わるよう、祈ることしかできなかった。

 ◇
 汗にまみれた彼の身体を濡れタオルで拭き終わるころには、彼も不自由なく起き上がることができるようになっていた。本当に、強い人だ。
「ごめんね、あんなに痛いなんて知らなかったんだ」
「問題ありません。私はこれで私の願望に一歩近づいたのですから」
 なんだか決定的にすれ違っているとは思うけれど、彼がそれでいいと言うなら、俺がどうこう言っても仕方ないだろう。それがたまらなく、苦しい。
「マスター、どうされたのです」
「わがんないげどぉ……」

 汚らしい涙声しか出てこない。何でかわからないのに泣いたのは久しぶりで、自分でも戸惑っている。彼がいつもより少しあわてた様子で俺の目元にタオルを押しつけてくるのがおかしくて、笑いが一緒に出てきそうになる。
「ねぇっ……!!!四郎ぐんはぁ……!ほんどうにぞれでいいのぉ……?!!」

「ええ、そう、決めましたから」
 それはまるで、どれだけ石やら木の枝やらを投げても波紋の一つもたたない湖のようで、きっとそれが切なくて、俺はみっともなく泣いているんだろう。
 大事にしたいと思った人から見向きもされない、被害者ぶりたい子供の稚拙な恋心が、どうしようもなくくすぶっている。

 彼は決して冷たいひとではない。こうして泣き出した子供を前にしたら、落ち着くまでそばにいてくれるくらいのことはしてくれるのだ。
「落ち着きましたか?」
「うん……ありがとう」
「それはよかった」

 そう言って何もなかったかのように去ろうとしている。
「ねぇ、ちょっと待って」
「どうしました?」
「あのさ、俺が四郎くんが報われる方法で、願いを叶える方法を探すっていうのは本当だからね」

「それはそれは……やってみるといいでしょう」

 彼がそんな笑い方をすることを知りたくもなかったし、知ってしまったことで俺の何かが変わってしまったことなんて、彼に知れたらどうなってしまうだろう。
 恐ろしくて、たまらない。

誰かのためにできること #FateGrandOrder #男夢主 #ゲオルギウス

誰かのためにできること #FateGrandOrder #男夢主 #ゲオルギウス
 古い書物の匂いが強くなるごとに、自分がいつもいる世界と隔絶されるような気がして、一人になりたいときはここに籠ることが増えた。
 あの、サーヴァントとかいう人間の理解の範疇を超えた生き物たちの中に居ると気が滅入ってしまう。あれは、たしかに見た目も触れた感覚も人間だが、決定的に違いすぎる。

 それはサーヴァントだから、俺と違いすぎるのか、育ってきた環境が違うからすれ違いは否めないのかがわからない。どんなに近づきたいと思っても、その決定的な違いが俺を邪魔する。


 ◇
 血の海、と表現するのが一番近いだろう。
 何と名前が付いている生き物かは知らないが、血は赤い。それをものともせず赤銅の鎧で固めた、ある人々に聖人と崇められるその人は、息絶えたそれに向かって歩みを進める。

「や、やめようよ、もう死んでる」
 怯えきった声が喉を滑り出し、震える手でマントの裾を掴もうと手を伸ばす。陰り始めた陽に隠れて表情が読み取れない。それに、このまま彼に背いたからと首を刎ねられるかもという疑念が浮かんで、手を引っ込めた。
 いつもなら、俺が恐れていると感じているなら心配はいらないと安心させるために頭を撫でてくれるのに、今は俺に背を向けて再び抜刀した。

「いいえ、マスター。あれは子を孕んでいます」
 竜殺し。
 その言葉が頭を何度もよぎった。自分の信じる正しさのためならどんなに残虐な手段を選んでも許されると考える存在だからこそ、何のためらいもなくその刃をワイバーンと呼ばれる生き物の胎に突き立てることができるのだろう。
 甘いことを言っている。理不尽なのは俺の方で、いずれ修正され、なかったことにされる世界であるものの人々が安心して生活するようにするには、今ここで殺しておくべきである、ということもわかっている。
 それでも、あんなに温厚で、師として尊敬に値する人が、自分が非道と考える道を歩んでいる。

 俺が目を背ける暇も、みっともなく悲鳴をあげるのを抑える余裕すらなく、肉と骨と臓器が断たれる不愉快な音をたてて彼は未だ生まれぬ竜の子を屠った。

 深い緋色の夕日に、白いマントが翻る。
 何に、どんな許しを請うているのか、何に、祈っているのか知る由もない。彼が信じる神はこの筆舌に尽くしがたい惨状がまかり通るということに関して、何か言及しているのかもしれない。

 ◇
 史学に触れたことがあるならばその名前を聞くのは一度では済まない、皇帝ネロの陣営に加わったとはいえカルデアのようなふかふかの布団と空調が用意されているわけではない。

 血と泥と汗を冷たい川で流し、ごわごわと固い服に着替える。最初の頃は不快だったけれど、もうとっくに慣れてしまった。
 もしかしたら、俺もゲオル先生や、ほかのサーヴァントたちと同じように、「総合的に考えれば必要になる殺害」にいつか慣れてしまう日が来てしまうのだろうか?
 たとえば、環境に慣れてしまうように。

 想像しただけで怖気が走った。未だ生まれぬ子ですら手をかけて、それを必要と断じる価値観をいつか俺が持ちえたとして、そうなってしまった俺のことを人間と呼べるだろうか?それはどちらかというと、大事な使命のために小さいものを切り捨てることを容認する、英雄と言うやつの価値観になるのかもしれない、と悶々と夢想する。

 パチパチと火の粉が爆ぜる音と、葉擦れの音が今は恐ろしく感じる。

「おや、マスター」
 急に、俺の思考の根源に居る人から声をかけられて大げさに驚いてしまった。
「隣に座ってもよろしいかな?」
「ええ、どうぞ」
 それ以外に選択肢はないだろう。俺が腰かけていた倒木に彼が腰を下ろせる場所をつくる。鎧のぶんだけ体積が増えるので、必然的に近寄ることになってしまう。
「恐ろしいかったのですね、あれが」

 あたりまえのことを言われて、正答がわからずたじろいでしまう。
 きっと、普段接している彼の性格からすると、正直に恐ろしかった、と言ってしまって良いだろうが、ネロ陣営の兵士、サーヴァントたちも無傷だったわけではない。そのように死力を尽くして戦った彼ら、彼らの戦いぶりを、怖かったの一言で言ってしまうのがどうにも失礼のような気がしてならない。

「マスター」
 呼ばれて顔を上げると、カルデアで見るような、俺が人生の師として仰ぐ人のやわらかな笑顔がそこにあった。
 笑顔一つで疑念が、緊張が、ほどけて消えて行ってしまうのだから、我ながら単純だと思う。鎧越しで、体温なんてひとかけらも感じられないけれど腕に手を伸ばしたら冷たい小手越しの掌が重ねられた。
「めずらしい、オルレアンで甘えたはもう治ったのかと思いました」
「いけませんか?」
 拗ねたように笑いかける余裕が出てきた。それを見てゲオル先生も安心したらしく、仕方ないと甘んじてくれるらしい。
「とっっても怖かったです!そうした方が、これからここで生きる人のためになることはわかります、それでも怖いものは怖かった!」
「そうそう、子供は素直が一番です。マスター……わかっていただけて嬉しいです」
「また子ども扱いする……怖いし、ひどいことするなって思うけど、わかるよ」

 額で軽く鎧を小突くと、驚いたような顔をされてしまった。日頃彼がどれだけ俺を子供だと思っているかがわかる。
「私から見たら、子供どころか、この世に生きる人類すべてが愛し児のようなものですから」
 こうして、遠くを見るような顔をするゲオル先生はあまり好きではない。隣にいるのは俺なのに、彼が見ているのは気が遠くなるほどたくさんの人なのだから。そのうちの一人の事なんて気にかけたことありません、と言われているような気がしてしまう。それでも、俺は尊敬と親愛と、そのほか俺も知り得ない気持ちを込めた視線を、ゲオル先生に受け取られる気配がないとしても、投げかけてしまう。


「じゃあ、ゲオル先生は人を好きになったことなんてないんだね」
 俺の意図がはかりかねる、と言った表情をさせてしまった。彼としては、好きなのだ。
 ただ、俺の好きと違うだけで。
「ごめんなさい、なんでもないです」
「そうですか?」
 きっともう、俺が眠たくなって自分ができないことを言いだしているのだと、ゲオル先生は考えている。その証拠に、俺が最後まで守っていた火を消そうとしている。
「まだ寝ない」
「マスター、よい子は寝る時間です」
「悪い大人だから寝ない」

 彼は優しいのであって甘くはない。俺のささやかな駄々もどこ吹く風で、念入りに火を消している。
「寝ないって言ったのに……」
「おや、子守唄が必要ですか?」
 ほら、こうしてわざわざ子守唄、と、さきほど俺が子ども扱いをするなといったらこの返しだ。
「……いいえ」
「よろしい。おやすみなさい、マスター」
「……おやすみなさい」

 わしわしと、子犬を撫でるように髪を撫でて、肩を軽く叩いて「足元に気を付けて」と言ってくれる。ここまで片付けられてしまったら寝るしかない。素直に寝所に向かう途中、思わず大きなため息が零れた。
 あれはやはり違いすぎる。
 その認識を深めるとともにあれが触れてくる回数が増えた。違いすぎるとわかっていくごとに思考が引きずられてゆく。
 変わりゆく自分と、あれを人型に、血の通った人間と同じ温度で作り上げたカルデアの召喚システムの考案者と、あれの在り方。どれから恐れていいかわからない。

 いや、もっと恐ろしいものがある。
 あれに深入りし、あまつさえ情を注ごうとしている自分の正気が一番恐ろしくてならない。

 俺の頭上でいつの時代も変わらず輝く星、あの瞬きがここに光として届く年月に比べれば些細な悩みなのかもしれない。そんなことを考えながら、眠れないであろう身体を寝台に押し込んだ。

2016/8/14

阿修羅姫 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #アルジュナ

阿修羅姫 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #アルジュナ
 
 少女が女に、母が女に、娼婦が女に、もとより、そしてこれからも口紅は女のものであった。
 しかしそれは、まともに生きている女が織りなすことであり、織機を手繰る女が数人を残して魔術王に焼却された今、そのようなことは実に些細なことといえるだろう。
 現に、この眼が痛くなりそうなほどの赤を、俺は彼に別の意味で使用した、といえるだろう。

 ことの起こりは数か月前に遡る。逆に言うと、俺はもう数か月もかの大英雄、アルジュナを侮辱に近い扱いをしておきながら首と胴が繋がっているし、眉間も心臓も矢で穿たれていない。

 これ以上、わずかに残った人間が積み重ねた英知の結晶の風化を進めないよう、完璧な温度管理がされた書物が堆積している書庫の底の底、そこに彼の原典が眠っていた。
 誰の解釈をも交えたくなかったからと、原文、といっても現代ヒンディー語ではなく、古語やら訛りなどで読み進めていくのは恐ろしいほどの労力だったが、不思議と苦痛は感じなかった。それより、ほんの一面でも彼を知れたような気がして、嬉しさを感じていた。

 最初、敵として相対した彼だが、奇跡が幾重にも重なって彼がこのカルデアに召喚されたときは先行している印象が、今の彼と、敵であった彼とは別存在だと頭では分かっているものの、一度その矢が俺を、マシュを、そして人類の未来をも穿とうとした弓兵が恐ろしくてあまり深くかかわろうとはしなかった。
 が、カルデアの電力供給が危うくなった際に行った魔力供給、と大義名分が掲げられているが魔力が込められた体液をサーヴァントが摂取するという、愛に夢見て恋に恋する乙女たちを唾棄するような行為のあと、自分でも恐ろしいほど短慮であるとは理解しているものの、留めがたい執着を彼に向けてしまっている。

 英霊の座とかいうところで、聖杯戦争に関する知識を多少はつけているらしいので説明はいらなかった。
 それに、魔術師でもない俺が、英霊を何基も従えるという不条理に合点がいっていなかったらしく、魔力供給のため必要である、という言葉に特段驚きはしなかった。

 そこまではいい。
 今まで肌を重ねた英霊たち、俺を憐れんで、少しでも良い目にあうようにと尽くしてくれた者、俺を地獄の底に堕すためなら心臓を差し出す、と言わんばかりの憎悪をぶつけてくる者、ただひたすらわが身に起こる不条理から意識を逸らそうとする者、悲しいかな多種多様な反応をこの眼で見てきた。
 だが、さりさやと触り慣れない感触の白絹の外套に手を掛けようとしても、その安い黒ガラスをはめたような瞳には何の感慨も映し出さない。常に気高く、ヒトとは一線を画そうとする彼なら、俺を憐れんできそうなものだと予想していたので拍子抜けした。
「アルジュナ」
 目の前で掌を振って見せると、大げさなくらい驚いてからやっと俺に意識が向けられる。やっぱりいつもと様子が違う。だからと言って世の中のいわゆるカノジョを大事にする男とは違い、心の準備が整うまで待ってやることを状況が許してはくれない。
「ごめんね、恨んでくれていいから」
 英霊という、人間とは違う生き物が彼が俺を恨むようなことがあっても、英霊たろうとする彼が俺を害するようなことはしない、と分かっているからこんな言葉がいけしゃあしゃあと言える。
 いつもよりずっと人間らしい彼の瞳が、雄弁に語る。こわい、どうしてこんな、でもおれは、って。

 というのは妄想だが、不安そうに表情がゆがんでいるのは事実だ。これまで有能かつ人格者として、俺やマシュを助けてくれた彼に無体はなるべく働きたくない。
 どうしたものかと、完全に固まってしまったアルジュナから外套を手際よく剥ぎながら考える。
 うすぼんやりと見える身体が、一つの現実として俺の前に横たわる。ふたつの腕がすらりと、それでいて右肩が厚く鍛え上げられた肩、浅黒くつややかな肌をほめたたえる語彙があまりにもなさすぎて、喉まで出かけた賛辞を呑みこみ、唯、きれい、とだけ素直に述べた。
 アルジュナは上掛けをひきよせ、包まってしまった。
 背を向けられてしまってどんな表情で稚拙な賛辞を受けたのか伺えない。生前から言われ続けていたであろう、彼を称える言葉を受けたのか、気になるところだが、追及はしないでおく。

「あった」
 掌に収まる、赤地に花柄をあしらった小さな筒。
 少し前に、今はもうこの世にいないスタッフが買い置きをしていたらしい、口紅。このまえ整理していたら出てきたものだ。
 それと、瓶入りのリップクリーム。

 薬指で少しリップクリームを取り、アルジュナの肩を軽く叩く。
「ねぇ、こっちむいて。魔法をかけてあげる」


 主の魔力が無いがゆえにこんな目に遭っているというのに、と、目が語っている。もちろん、俺が使う、ここで定義されてい魔法は、サーヴァントの対魔力の前では塵以下、分子以下でしかない。
 顎に手をかけ、強いない程度に軽く上向きにする。
 やはりまだ身体が固い。そりゃあそうだろう。けれど英霊として、人類史を救済するという使命を掲げられたら英霊は、アルジュナは断れない。あまりに憐れ。
 そっと唇にリップクリームを塗る。こんなに冷たい目で見てくるのに唇は十分熱を持っている。
 俺がまだ何にも特別なところがない、将来がうすぼんやりと不安なだけの学生だったころ、恋人には優しく触れたい、愛おしくて堪らない人と肌を重ねたいと思っていたけれど、こんな状況下で、何基もの英霊たちに、人類史に、種馬扱いを受けるとは思わなかった。
 恋を知らぬうちに他人の肌の温みを知ってしまった今、どうやって恋をせよというのか。

「マスター」
 急に動かなくなって心配になったか、何の感慨もない瞳はそのままに声をかけてくる。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてて」
 よっぽど憐れな表情をしていたのだろう、やっと彼の表情が揺らいだ。
 彼の唇をふにふにと弄んでいるが、特にとがめられない。

「なんでこんな、こんなことになっちゃったのかな」
 意図せず唇が震え、目頭が熱くなる。アルジュナはいい迷惑だろうし、さっさと済ませたいだろうに。どうにか歯を食いしばり、声を抑える。
「あなたは」
 いつもの冷やかな声が嘘かと思うくらい、優しい声をしている。こんな話し方ができるだなんて知らなかった。
「あなたは、この大役を背負うには弱く、それでいて優しすぎた」
「え?」
 自然に貶されたような気もするが黙って聞く。いつのまにか背中に腕が回され、彼の上に倒れ込んでしまう。必要以上に触れたら嫌がられるかと思っていたが、彼が抱き寄せてきた。だんだんと脳味噌の処理能力を上回りつつあるのがわかる。
「どうして優しくしてくれるの?」
 答えは無い。
 代わりに背中を摩る手が優しい。こうしていると、いつか俺の元から去ってしまう人、いや、聖杯が練り上げた魔術で霊核を固めた人形にほだされてしまいそうだ。
 優しさの先に理想の恋があったとしても、ただひとり残される俺が悲しいだけなのに。
「こんなものは優しさのうちには入らないでしょう……しいて言うなら、そうですね……」

 それきり彼は考え込んでしまった。
 抱きとめられたままでは恥ずかしいからと身をよじって抜け出そうとするが、筋力Aランクは伊達じゃない。彼の素肌に触れている、と認識するだけで顔が火照って仕方ないのに彼は涼しい顔で、言い方を選んでいるように見える。
「憐憫……そういったものが近いでしょう」
「うーん、かわいそうってこと?」
「まぁ、そういうことです」
「そうかぁ、そうだよね」
「ですから遠慮はいりません。十分に私の身体を食いつぶしなさい、マスター」

 これからセックスしようという相手にそんな言葉をかけられたのは人類史上俺がきっと初めてだろう。
 それに俺はそこまでセックスに情熱を注げないので英霊を満足させるなど、食いつぶすほどに抱くというのは無茶というものだ。本当に俺だけがキモチイイだけの、いうなれば性処理だ。
「やっぱり、アルジュナはさ、すごいよね」
 それだけが口を衝いて出てきた。後が続かずあたふたしてしまう。なにかうまいことを言わなければと足りない頭を稼働させる。
「なんか、いっつも弱音を吐いたりとか、悲しんだりとかしないで、平然と構えてる。さすが、授かりの英雄というか」

 アルジュナは俺の言葉を受けて、一つ溜息をついた。
「貴方にはそう見えるのですね」

 ◆◆◆
 その言葉には呆れや嘲り、底の方に少しの嘆きが見て取れた。まるでそうじゃないみたいな物言いだけれど、違うのだろうか。少しだけ思考の外に追いやられた口紅の存在を思い出し、手の中ですっかり温まった筒の蓋を引き抜く。
 嫌味なほどつややかな赤。それを彼の唇に近づけると思いきり顔を逸らされてしまった。
「何するんです」
「何って、さっき魔法をかけてあげるって言ったじゃん」
「……?」
 真意が掴めないらしく、されるがままになってくれた。口紅を薬指にとって、彼の唇に優しく色を塗り込む。これを使っていたモデルは色白だったが、彼に誂えたものかと錯覚するほど肌の色に合っている。
「やっぱり。すっごく似合うよ」
「……これのどこが魔法なのです」
「かけたよ、魔法。これをつけている間は、アルジュナは女の子になるの」
 嫌悪に顔を歪めることも、呆れて溜息をつくこともなく、ただ彼の望む虚無を瞳に宿していた。
 虚無と孤独を望む彼らしい、一時の主人の気まぐれなど意に介さない、といった態度で寝台に横たわる。
 身体を重ねるとはいえ、彼の特別になったなどど間違っても錯覚してはいけない。そんな恐ろしい発想自体恥じるべきだ。
 彼は俺がマスターとして力が足りていないから、妻が居た身でありながらもここで女役をしなくてはならないという前提を頭の隅に追いやらないようにする。そうでなければ人類のために身体を許してくれた英霊たちに申し訳が立たない。

 そんな態度に腹を立て、俺だって被害者だ、と怒りにまかせて乱暴に抱くこともできるが射精したあとの賢者タイムに自己嫌悪で潰れてしまうことは目に見えているので、どうにか堪える。

「女、ね」
「うん、そう女の子」
 笑った。
 バカバカしくて、じゃなく、かわいそうだから、でもなく、ただおかしいから笑った。彼が厭味ったらしく笑うときは本当に厭味ったらしいからよくわかる。
「いいでしょう、あなたは、私を生んだ母と、妻と、同じ性にするというのですね」
「そう、かわいい女の子」
「はは、貴方も相当に、狂っている」
「そうかも」
 狂人と英雄。異質すぎるからこそ互いに興味を持ち、少なくともお互いを憎みあうことなく、愛のないセックスに臨めるのかもしれない。


「うわ~~そのイヤイヤする手コキ最高だよ」
「……」
「やっぱ弓兵は手にマメができるもんなんだね」
「……」
 その、わざとらしい無表情もそそる。引き結ばれたり、恐ろしいものを見て驚いた、といったように薄く開かれる唇はキスの一つもしていないのですこしも崩れていない。彼と共に寝台に横たわり、俺は彼の首に軽く抱き着いている。無理な姿勢だからこそたどたどしい手の動きが嫌にそそる。
「貴方は、男触れられても、その」
「いやむしろ俺は男の方が」
 意味がわからない、という顔をされてしまった。今から価値観の相違から埋めていたら、その間に人類が滅びてしまいそうだ。
「そう言えば、口と尻どっちがいい?」
「は?」
「そのままだよ。どっちがいい?どっちでも痛くないようにやれる自信あるけど」
 彼の長い長い逡巡ののち、口を選んだらしくためらいがちに唇が触れた。確かに直前まで手でできるし、粘膜接触の時間は少なく済むだろう。
 その上は俺は、認めたくはないが早漏のケがある。その方が、俺に大して興味がない英霊たちにとっては都合がいいのだろう。俺だってさっさと出して寝たい。それかどこか、俺と相思相愛になってくれるだけの慈悲のある存在の元で眠りたい。
 心ばかりが逆剥けてゆく。身体ばかりが充たされてゆく。

 これを充足と、言えるのなら。


「ごめん、もう」
 軽いため息が先端をくすぐる。甘えを含んだ腹立ちまぎれに、頭をはたいたのち首が胴についていれるような立場だったらどんなにいいか。彼が含んだのを視界の端に捉えたのち、次に我に返ったのは彼が喉に引っ掛けたらしく咳き込む音だった。背中をさすられても嫌かな、と考えてペットボトルの水の蓋を開けて渡す。
 彼がここにきたころ、ペットボトルを開けようとした彼が、蓋ごとボトルをねじ切ったのは今となってはいい思い出だ。照れ臭ささとばつの悪さがない交ぜになった表情でほほえみあったのがはるか昔のことのようだ。

「ごめんね、恨んでくれていいから」
 いっそ恨んで、呪って、罵ってくれた方が楽だろう。そうすれば悪いことをしている、と自分で認識できる。
 こんな外道な真似を人類のためにしているだなんて言われていると、倫理観というものが何であるか、徐々に剥離してしまう。まるでアルジュナのためにそう言っているように聞こえるが、きっと見透かしているだろう。
 自分のために、恨めと言っていると。その浅ましさも。
 それを全て憐憫、その一言で済ませたところはさすがの大英雄といったところか。結局は人間とは呼べない、ヒトの形をした何か。
「私は、貴方を恨まない」

 ふ、と視界が暗くなったかと思うと、唇に生温い肉の感触。

 顔が離れて初めてキスされたと認識した。やけに長いと思ったら、唇の色が俺の唇に全て移されている。唇に膜が張ったようなねとつきでわかる。
「こんなに憐れな人の子を、私は恨めない」
 生前妻が居た身でこのようなことをされて、被害者、と呼べる立場だというのに彼はどこまでも、世界を、人類を、この世の有象無象を無意識のうちに愛する、英雄だ。
 その意志を称賛しに、全てが終わって一人取り残されても、彼の墓くらいは参っておこう。と一人心に決めた。


2016/7/1

さざなみが浚う夜 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #アルジュナ

さざなみが浚う夜 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #アルジュナ


「また泣いているのですか」
 アルジュナが頭の上で溜息をついたのがわかる。呆れ、ではなく、自分と添い寝して何が不満なのか、と言わんばかりの自信からくるため息だ。
「英霊になるほどのすばらしいお方にはわかりませんよーだ」
「僻んだ子供ほどかわいくないものはないですね…………あなたからふっかけてきたのに勝手に悲観的になるのはおよしなさい」
「アルジュナきらい」
「なら離しなさい」
 筋力Aクラスの彼に頭をはたかれると、アルジュナが思っている以上にやられた側は痛いのだと理解してほしい。現にばちん、ととってもいい音がした。
「……ごめん」
 返事の代わりに頭が撫でられる。
 こんな、いつかは役目を終えて消えていってしまう存在に入れ込んで、不毛すぎるということは自分が一番よく分かっている。けれどこんな立場に置かれて、誰とも深く心を結ぶことが不利益になる状態で、必要となればセックスをしなければならない。余りに惨めな役回りだ。
 何かに縋らずにいままで自害せずにいれたとは思えない。

 いうなれば俺は、人理焼却を阻止するために生きているのではない。
 これは誰にも言ったことがないけれど、多分今俺は彼を、アルジュナを失いたくないがためにこの役割に甘んじている。
 唯一人、俺のこの惨めな役を確かに惨めであると認め、半端な慰めをしようとしない。それだけがどんなに嬉しかったか。
 俺がこの状況に感じている違和感を認めてくれる人がほかに居ただけで救われた。そうでもしないときっと気が狂っていただろう。彼が寝入り端に語る、真実とも虚構ともとれる話だけが楽しみだ。

「え?俺の話?」
「ええ、私ばかりが話していても飽きるでしょう」
「そんなことない、アルジュナの話おもしろいよ」
「私が飽きたのです」
「あっそう……」
 そう言われても、彼に話して聞かせるほどの話があるだろうか。ここに来る前は、本当に平凡な人生だったのだ。
 逡巡していると、アルジュナは本当に寝入る気らしく外套と手袋をはずしてサイドテーブルに置いた。
 普段隠されているところが露わになるとどうしてこうも扇情的なのか。あわてて目を逸らしても、きっと彼は気づいている。俺がどんな気持ちでここに居るか。
「毎日学校に行って、帰って、塾に行って、将来はきっと大学に入るんだろうなって思ってた。で、将来どうなるかが何となく不安で、それだけ」
「それだけ、ということもないでしょう」
 いちいち学校はどうとか説明する必要が無いので、いいシステムだと思う。生きた世界が違いすぎた二人をひとときの主従としてまとめ上げるとしたら随分と効率がよくなる。
 だとしても彼には理解できないだろう。
 日本人の平均寿命からしてみるとあまりに短い生を、瞬きのように生きた彼にはこうして流されるまま生き、滞留してはまた流れるという生き方が。
 さすがに聖杯も、そんなところまではめんどうみてはくれないらしい。

「つまらなくはなかったよ、少なくとも、辛くなかった」
 彼は極端に光が絞られた瞳で射抜くようにこちらを見つめている。ここでも彼は射手としての才能を遺憾なく発揮している。現に何とは言わないが既に撃ち抜かれて、無残にばらまいている。

「戻りたいですか」
「……ひどいこと言うね」
 くつくつと彼の喉奥で磨り潰した嘲笑が零れた。

 戻りたい。こんなつらいことはもう終わりにしたい。痛いのも、苦しいのも、嫌がられながらセックスするのも、訳の分からない生き物に食われかけるのも、自分犠牲が当たり前の人間たちのなかで一人、死が怖くてたまらないのも、全部終わりだ。
 終わりにして。

 けれどそんなことできやしないとわかっているから、彼はこうして俺の心に爪を立てて血が滲むのを見て楽しんでいる。
 サーヴァントは、いずれ消える。きっとこの役目が終わる頃、彼は消え、英霊の座とやらで召喚を待つだけの存在に戻るだろう。英霊の記憶に齟齬があっては困るから、ここにいたことなんて全部忘れて。唯一覚えているのは俺一人。
 そんなこと、願い下げだ。人理救済、とかかっこいいことを言っておいて俺一人酷い役回りの末に彼を失わないと終わらないなら―――――

「どうしたのです、珍しく怖い顔をして」
「え?」
 かさついた指が俺の頬を撫でたのを理解したのはずいぶん経ってからだった。
「私の使命を見失ってくれるな、マスター」
「うん、そうだよね」
 彼は別にここに俺の世話をしに来たわけじゃない。もっと大きなことを叶えるためにここに居る。わざわざ念押しされると、ちくりと胸が痛む。勝手に想って、勝手に傷ついて。こんなに苦しいのだから、これくらい許されてもいいのでは、と思う気持ちと、恥じ入るべきだ、という気持ちが交錯する。

 考えるのがばかばかしくなって、布団をまくり上げて潜り込む。彼の態度は冷たいが、身体はぬくい。
 勝っても負けても、いずれアルジュナは俺の元からいなくなり、アルジュナは俺の事を忘れる。俺はいつまでも捉われたままだ。あまりに損な役回りで笑みがこみあげて来る。
「大丈夫、君たち英霊の努力を無駄にしないように最大限努力する」
「いいでしょう」
 その答えに満足したのか、彼は目を閉じ、眠りに入った。俺はひとり取り残されたまま、彼の貌を見つめている。
 彼の貌、吐息、ぬくもり。感じ得るすべてのものを記憶に刻みつけておくよう、俺は眠りゆく頭をどうにか保ちつつ彼に触れないぎりぎりの距離に身体を横たえた。
 文字通り、生き世界が違いすぎるのだ。出会ってしまったから今こんなにも予期する別れが苦しい。
 もっと俺が大人だったら、先々を悲観せず、毎日毎日を刻みつけながら生きればいいとわかるのだけど、今は昏い水底に沈んでいるような気になる。もっと大人になったら、こんな変な人の想い方をしなくても済むのかな、と夢想し、迫ってきた眠気に素直に意識を引き渡した。

2017/7/1

ある恋の話 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #エドモン・ダンテス

ある恋の話 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #エドモン・ダンテス


「煙草一本ちょうだい」
 黙って差し出される小箱から一本引き抜いて、ライターを探す。シュ、と火打石の音擦れる音が聞こえたかと思えば小さなプラスチック円筒の先に火が灯されている。
 慌てて煙草を咥えて、吸いながら火を穂先につける。
「ありがと」
 特に返事はなく、彼は元通り長椅子にゆったり腰かけなおし、読みかけの本を開く。自分の部屋で読めばいいのに、という言葉は、奇しくも同室になった、少年の姿で現界したサーヴァントの顔を思い出した。もとより博識な彼の事だから書庫の書物をかたっぱしから読んで、どれかで副流煙のことを読んでのことだろう。
 その上で、彼なりに子供に気遣っているのだろう。
「ライターの使い方、知ってたんだね」
「お前が使ってただろう」
 彼の前で確かに使ったことがあった。そんなところまで見ていたのかと感心してしまう。

「ねぇ、恋バナしよ」
「はぁ?」
 心底不愉快、といったような返事が返ってきた。
 それもそうだろう。彼の恋は恐ろしいほど残酷に潰えているのだから。
 華々しい人生の幕開けともいえる披露宴の最中、物々しい雰囲気のなか引っ立てられてゆく若かりし頃の彼の心中を端から眺めているだけで絶望に呑まれそうになる。
「俺もなんかさぁ、こう、身を焦がすような恋がしてみたいなぁって……」
「それを知らずに死地に赴いているのか」
 鼻で笑われてしまうかと思ったが、以外と冷静に返された。今の言葉は、やはり彼はエドモン・ダンテスの残滓の上に復讐の神という概念を盛り付けているのではないか、という仮説を裏付ける。
「そうなの……なんかここのみんなは大切だけど、家族みたいな感じがしちゃってさ……なんかトキメキがない」
「トキメキ?」
 この人の口からトキメキ、なんて言葉が出てくるのは不似合でしかない。きっと冷たそうな青白い肌と同じく冷たい血が流れていて、俺の不格好な恋など一笑に付されてしまうだろう。

 いや、俺が知らないだけで恋多き男だったのかもしれない。
「そうトキメキ。もう絶対コイツじゃないとダメ、みたいな衝動がないというか……」
「ああ……それは確かに恋とは呼ばないな」

 うーん、と思いあぐねて俺はうろうろと、時に灰を灰皿に落として部屋を徘徊する。
「じゃあさ、メルセデスに恋してた?エデには?」
 不機嫌どころで済まされないくらい嫌そうな顔をした彼は、子供の言うことだからと受け流そうとしているのが見てわかる。

 けれど子供の浅知恵は思わぬ方向に振り切ることもある。俺はあの島から抜け出し、彼を呼び出すまででなにか落としてきてしまったようだ。

 青白い肌をもっと青くして、言葉を絞り出そうとしている彼を眺めている。いくら強く睨んでも、俺の言葉が翻らないのを知ると言葉を選んでいるのがわかる。嫌なら無視するとか、他にやりかたがあるだろうに、なんだかんだとまっすぐで、綺麗な心を持ってる男だと思う。そのまっすぐさを逆手にとって、共に魔術王に勝利した、という勝利の証の具現である俺は、彼にどこまで許されるのか試したくなった。
「してたさ」
 それだけつぶやくように言うと、不機嫌さが極まれたのか、備え付けの冷蔵庫から強いラム酒を取り出してきた。グラスは二つ。

「どんなとこが好きだった?」
 やさしい飴色の液体が、繊細なつくりのグラスに注がれてゆくのを眺めながら、さらに質問を続ける。彼はやっかいな子供を相手にして、すっかり困ってしまった大人の顔をして簡単なつまみを作っている。きまりの悪さを呑みこむように呷り、酒臭い息を吐きながらも手は止めないでいる。半ばやけくそと言ったようにつらつらと語る。

「メルセデスは、」
 昔恋した女を語る彼は、むせかえるくらいの色気を放っている。
 この前エリザベートと一緒に見た映画に、傷つく男はうつくしい、だなんてセリフがあったけれど、まさにその通りだ。昔愛して、共に将来を誓い合った女、自分を待っていてくれなかった女、病に臥せ、悲しみのままに死んでいった父のことを気にかけてくれていた女、そして、憎しみに呑まれそうになったとき救い上げてくれた女のことを語る彼はひどくうつくしかった。ときに切なげに眉をしかめる様など、不埒ながら軽く絶頂すら覚えた。

 チーズとトマトとバジルソースのカプレーゼと、オリーブ。料理の本も読んだのだろう、俺が食べ慣れている味だった。ラム酒は相当キツイもので、俺は彼ほど気前よく飲めないでいた。酔わないと語れないことなのだろう。

「そうかぁ、ありがとうね。なんとなくだけど、俺も恋ってやつが少しだけ身近に感じられたよ」
 舌打ちですませてくれるだけありがたいと思う。あの仄暗いシャトー・ディフでこの話をしていたならもっと違う展開が待っていたに違いない。例えば物言わぬ骸になるとか。
「でも、元カノの名前を、名前がわからないって言ってる女の人につけるのは正直……」
 これが一番悪手だったらしい。彼の不機嫌オーラで俺の肌がチリチリ痛むような感覚に襲われる。
「わかったよ……恥ずかしいんだね……」
「まさかアレだとは思わなかったからな」
くつくつと喉奥で笑みを磨り潰す笑い方をし、彼はまた煙草に火をつけた。俺も彼と同じマッチから火を貰いぼんやり考えた。その感情を恋と呼ぶのなら、俺はもうとっくに恋を知っていたし、していた。今彼に話したらきっととても驚いてしまうだろうから、もう少し暖めておくけれど、俺は彼に恋をしている。この切ないくらいの独占欲、庇護欲、俺はこれを恋と呼ぶ。

歪んだ真珠は歪みに気づかないまま #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #エドモン・ダンテス

歪んだ真珠は歪みに気づかないまま #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #エドモン・ダンテス



 アンドロイドは電気羊の夢を見るか、だなんて知りはしないけれど、俺は今日もひどく恐ろしい夢を見る。

 婚礼のため着飾った美しい人、そして、俺の恋敵、と呼ぶにはあまりに烏滸がましすぎる女性。
 それを愛おしげにみつめれば同じ熱を持った視線が返ってくる。これを幸せと呼ばずに何と呼ぶのかわからないくらいの全身を包む純然たる幸福。と、同時に身体の末端から凍て腐り落ちそうなほどの嫉妬の炎が身を焼く苦しみ。
 ひどい、俺の感情と、この夢の主の感情が交錯している。

 場面が変わり、ひどく喧しく響く靴音、不穏な囁き声。

 そして、気づいたときには。狭苦しくて、自由がきかない。誰かが話す声がするけれど、声を発することはしない。
 何やら男の声がしたのち、体が急に宙へ浮いたと脳が認識したかと思えば、全身を叩きつけられるような痛みが体中に走った。
 これだけのことが一気に起きるものだから、混乱はしているものの身体は勝手に動き、足枷を外して酸素を欲して海面を目指す。
 俺自身はそう泳ぎがうまくないはずなのに、夢の中の俺は迷わず泳ぎだす。この先に島が無かったら、見つかってしまったらと胸に溜まる焦燥感はあるものの、ひとつ共通しているのが、唯生きたいと願う気持ちだ。

 俺はこの夢をみるサーヴァントを知っている。
 どういう仕組みだか知らないけれど、サーヴァントとマスターはときたま夢を共有するのだ。
 初めてサーヴァントの夢を共有したときは恐ろしくて恐ろしくて、久しぶりに声を上げて泣き喚いてしまった。それがブーティカの夢だったのも一因だが、酷い、という言葉だけでは片付かないこの世の、何度繰り返されたかわからない地獄がそこにはあった。
 あまりに大声で泣いていたのだろう、驚いたマシュが駆けつけてくれて、あたたかいタオルで顔を拭ってくれたかと思ったら安心してそのまま眠ってしまった。

 けれど何度か繰り返すうちに、少しだけお酒を飲んで眠ってしまえばいいことが分かった。何度もマシュを叩き起こすのも悪い。

 消灯時間が過ぎているため足元に等間隔に付けられた無機質な灯りを頼りに、食糧庫からラム酒と、一つのライムと少々の塩を失敬し、サーヴァントとスタッフたちが談話室として使用している部屋の中でも自然と口数が少ない者が集まる部屋に向かう。
 これだけ夜遅ければ子供の身体をもったサーヴァントたちは、アンデルセンを除いて寝静まって入るだろうが、念には念いれる。

 今日ばかりは陽気にお喋りする気にはなれない。

 蝋燭の灯りに、青白い顔がぼんやり浮かんでいるのだけ見えたからすこし驚いたけれど、気だるげに視線がこちらを捉え、隣に座るよう促す仕草で彼が巌窟王であることを認識した。
 蝋燭でタバコを灯し、こちらに寄越してくれる。なんだか今日はとってもサービスがよくて後が怖い。

 彼はいつもつけている黒い手袋を外し、氷の塊をアイスピックで表面を削り、それを繊細なつくりのグラスに浮かべ、水で湿らせた飲み口に塩をまぶす。
 それから、胸元から小さなナイフを取り出すと、俺が手でいじっていたライムを二つに切って、一つを寄越してくる。
 少しお行儀が悪いけれど、それを齧りながらちびちびグラスを傾ける。

「あのね」
 返事はなく、唯目線が俺に注がれるだけだ。けれどそれが心地よい。聞く気が無いときは黙って煙草を吹かすだけだからわかりやすい。
「サーヴァントはマスターとときに夢の内容を共有することがあるんだけど」
 これは彼にとっても予想外だったらしく、ひどくむせてしまった。いつもなら身体に触れようとすると嫌がるけれど、背中を摩ってもなにも言われない。
「で、どんな内容だった」
「言っていい?っていうか言わないと怖くて」
 冷静さを取り戻した彼は灰皿に灰を落として、こちらに向き直る。聞く気はあるらしい。

「……っていう夢」
 彼は苦虫を数十匹同時に噛み潰したような顔をしてタバコをふかしている。まさが自分の夢を覗き見られたとは思ってもみなかったらしい。
 彼はベストの内ポケットをまさぐると、ひとつの小物を取り出し、テーブルの上に置いた。

「なにこれ」
「指輪だ」
 もしかしなくても、そうだろう。これは男物で、並べて置いてある小箱は、
「開けていい」
 制止が返ってこなかったのを肯定と受取り、所々削れた、もとは薄紅色をしていたであろう小箱を開ける。
 案の定、女物の結婚指輪だ。
「男用の婚約指輪が無い……?」
「看守共に奪われた。きっと高く売れたろうよ」
 踏み込んではいけなかったところを踏み込んでも、最近はひどく癇癪を起されることは無くなってきた気がする。以前なら、怒らせてしまったらさっさと自室へ帰ってしまっていたから。
「綺麗だね」
「当たり前だろう、そのとき一番腕のいい細工師に頼んだ」
「惚れてたんだ」
 鼻で笑って、まぁな、と返してくれる辺り、彼は本当に丸くなったと思う。
「いやでも、そういう体験しないままいつ死ぬかもわからないところに行くのってなんか損した気分」
「お前には居なかったのか?」
「居たけど、元カノ忘れられないって、大失恋」
「ン……?」
 彼の常識の中では論理の破綻が起きたのだろう。皺ひとつない綺麗な肌に深く皺が刻まれる。
 いちいち説明するのが面倒で、小さくため息をついて、言葉を選んで、けれど語気には悲壮感を込めずに意図を正確に伝えるためだけの言葉を発する。
「俺は男が好きなの……あっでもできれば冷たくしないで」
「……好きにすればいい」
 生前の時代によっては引き攣った表情をどうにか押隠す、興味本位でシてみたいだとか好き勝手言う。彼なら、こう言ってくれるとなんとなく予想していた。
「失恋っていつかは忘れるものかな」
 酷な質問を選んで投げかけた。こんなもの後生大事に取っておいているくらいだから、忘れていないことくらい目に見えている。それでも、俺はひどく幼く、残酷な方法で、彼の意識からもう戻らない人、彼が愛し、恨みに恨みぬいたひとではなく俺を見て欲しいと思った。
 それは愛でも、恋でもなくても構わない。いや、でも愛か恋であってほしいけれども……。いや難しい。まだ保留にしておこう。

 バカなことやっているっていうことは自分が一番知っている。自己嫌悪のあまり恐ろしい夢のことはどこか遠くへ行ってしまい、代わりに自分の浅ましさや愚かしさに頭が真っ白になって手に溜まった汗が凍ってしまいそうなほど手が冷えてしまった。
 そりゃあ、健全なオトコノコですよ。好きな人が手を取って温めたりしてくれないものかな、なんて考えました。

 きっと、恋が叶う可能性があるって思っていたから彼も、俺もこんなにも苦しいんだろう。
「あっ、じゃあ、この女物の結婚指輪を触媒にしたら」
「やめろ」
 多少の怒気を含んだ、けれどできの悪い後輩を押しとどめるようなやわらかさが感じられる声音で制止の言葉が投げかけられる。
「メルセデスは、英霊の座に召し抱えられるだけの器を持ち合わせてはいない」
 彼は何でもなさそうにそう言ってのけ、ライムをひと齧りしたのちラムを呷った。メルセデス、彼を裏切る前のメルセデスに会える可能性を切り捨てた。少しでも喜んでくれたら、なんて単純な思考回路で弾きだされた答えはあまりにも幼稚だった。自分の立場を顧みず思いつきで発言したことが恥ずかしい。
「代わりにこれをやろう、マスター」
 そう言って俺の掌に落とされたのは飾り気のない男ものの結婚指輪。冷たい銀がすぐに俺の体温で温まってしまう。
「これって」
「俺の触媒としては申し分ないだろう」
 蠱惑的に笑む彼は、満足げというか、吹っ切れたような表情でまた一つラムを呷った。 唇の端を懸命に噛みしめていないと、破顔してしまいそうだ。ありがと、とだけ言って襟元をまさぐりネームタグを探りあて、一度外す。
 身元が分からないくらいの死体になったとき使うタグに、俺の片想い相手の結婚指輪が通っているというのはなんだか不思議な気分だ。
「ごめん、留め具が付けられない」
「貸してみろ」
 手袋を外した彼の指先が俺の首筋を掠める。赤みがさした首筋に気付かれなきゃいいけど。
 指輪を服の上から抑えて、どうにか笑みをかみ殺して、噛みしめても噛みしめても綻びそうになる頬を少し抓る。

「できたぞ」
「ありがと」
 彼は慌てて灰を灰皿に落とし、残ったラムを呷って大きくあくびをひとつ。
「俺はもう寝るぞ、―――もさっさと寝ろ」
「うん、俺は飲み終わるまでもう少しかかるから」
 彼は長身をゆっくり起こし、俺の髪の毛を無遠慮に―ペットの犬を撫でるように―掻き混ぜ、おやすみ、とささやいて去って行った。

 一人取り残された俺はすっかり氷が解けて薄くなったラムにライムを絞って、一気に呷る。あの人たらしは、小説で読んだ通り、エドモン・ダンテスのやり口そのものじゃないか。何が巌窟王だ、と苛立ち紛れに呷ったラムに溶け残った氷を噛み砕く。
 こんな、結婚指輪だなんて、彼以外呼び出しようなない物を俺に与えるってことがどういうことだかわかってやっているわけがない、と早鐘のようになり続ける心臓に言い聞かせる。
 こんな日はさっさと寝てしまうに限る。深く深く眠らないと、今度はエドモンとメルセデスのデートの夢なんて見たら今度こそ立ち直れなさそうだし。

2016/5/31