うつくしくない愛 #ヒロアカ #夢小説 #女夢主 #治崎廻
治崎は、潔癖症だったのだと思う。
思う、と断定できないのは本人の口から聞いたわけではないからだ。本人は人が無許可で消毒もせず触れ合う方がおかしいと言っていた。それはそれで本人の世界の中では正しいことなので言及しないでいたが、私にも消毒を強要し、私に触れようもんなら私の体を隅からすみまで消毒しようとし、それが終わってやっと触れようというものだから辟易した。デリケートゾーンを消毒液で浸される苦しみは言葉を失ってしまうが、当の本人は慣れたとかなんとかで苦に思ってないのでやめてもらえない。クソみたいなやつだったけど、噂には、腕もなく頭も多少おかしくなっていると聞いてバチが当たったんだとうれしくなった。
名前は知らないけど、治崎の悪行に個性を利用されてしまった女の子がいたらしい。その子を手懐けるために私を利用しようと思ったこともあったらしく、母親の真似事をしろと命じられたこともあった。当然、拒否したが背中に拳銃のつめたさを感じてしまうとどうにもできなかった。そんなことは言い訳だと強くただしい人は私を非難するかもしれない。命が脅かされてなくて、優しくて、強い力を持った人。わたしはそんな人が羨ましくてたまらなかった。靴を舐め、媚びへつらうような生き方しかできないのだ。弱く生まれ弱く育つと。
その女の子は私に多少懐いて、本当の両親のことなどを話してくれたが、それっきりだった。
何の役にも立たないと叱責しながらも、それでも治崎は私に優しく触れた。それだけのことなのに忘れたくとも忘れられない。優しくて頼れる夫に恵まれて、何不自由なく生活をしているのに路地裏で狂ったように笑う治崎を見つけて足早に駆け寄った。
「治崎」
「あ? ナマエかあ。お前がオヤジを隠してるのか?」
「……なわけないでしょ」
「なら用はない。消えろ」
けたけた笑う治崎の頭を思い切り蹴飛ばして逃げた。怒声が背中に刺さり、あのころの習性で身を屈めたくなるが、持っていたペットボトルを投げ、ぽこんという間抜けな音を立てて当たるのを見た。
さよなら治崎、サイテーな男。願わくばさっさと死ね。
2022/7/10
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みやこ 成人/神奈川への望郷の念が強い
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ずっと一緒 #呪術廻戦 #夢小説 #女夢主 #五条悟
同じ海を見ていた #ワールドトリガー #夢小説 #女夢主 #木崎レイジ
同じ海を見ていた #ワールドトリガー #夢小説 #女夢主 #木崎レイジ
「ねえ、私まだ指ある?指がないと……指輪がつけられない、せっかくレイジくんがくれたのに……」
それが彼女の両親が涙ながらに伝えてくれた彼女の遺言となった言葉だった。
日常に戦いがあり、負傷があったはずなのにどこかで自分の周りの人のこととして考えることができていなかったのだな、と妙に冷静に考えている自分がいた。葬式を終えたあとは塩をまかなかった。ついてきたければ、ついてきてほしかった。
それから数日しても霊的な気配はなかったので彼女は安らかに眠ったんだろう。作ってもどうせ壊されてしまうので、ボーダーの侵攻が始まってすぐくらいから石造りの墓を作る風習は薄れ、代わりにいつでも身につけていられて、いつでも持って逃げれるという点から遺骨の炭素をダイヤモンドに変える技術が発達し、短期間で供給できるようになった。それほど沢山の人が亡くなっているということだ。技術の発達には必ず要因がある。今回の場合は死だっただけで。
彼女の両親のご好意で、ダイアモンドと一欠片いただいた。あたたかく穏やかだった彼女は冷たい石ころになってしまった。意外と涙は出ない。
突然らしくないネックレスなんて付け出した俺に何も言う人はいない。皆も知ってるんだろうか、彼女の死を。聞いてまわることでもないので黙っているが本当は誰かに話したかった。彼女の話を聞いて欲しかった。それほどに俺は今弱っているのかもしれない。大切な人を喪った、痛かっただろう、怖かっただろう。守ってやれたら、よかったのにな。
2021/1/25
「ねえ、私まだ指ある?指がないと……指輪がつけられない、せっかくレイジくんがくれたのに……」
それが彼女の両親が涙ながらに伝えてくれた彼女の遺言となった言葉だった。
日常に戦いがあり、負傷があったはずなのにどこかで自分の周りの人のこととして考えることができていなかったのだな、と妙に冷静に考えている自分がいた。葬式を終えたあとは塩をまかなかった。ついてきたければ、ついてきてほしかった。
それから数日しても霊的な気配はなかったので彼女は安らかに眠ったんだろう。作ってもどうせ壊されてしまうので、ボーダーの侵攻が始まってすぐくらいから石造りの墓を作る風習は薄れ、代わりにいつでも身につけていられて、いつでも持って逃げれるという点から遺骨の炭素をダイヤモンドに変える技術が発達し、短期間で供給できるようになった。それほど沢山の人が亡くなっているということだ。技術の発達には必ず要因がある。今回の場合は死だっただけで。
彼女の両親のご好意で、ダイアモンドと一欠片いただいた。あたたかく穏やかだった彼女は冷たい石ころになってしまった。意外と涙は出ない。
突然らしくないネックレスなんて付け出した俺に何も言う人はいない。皆も知ってるんだろうか、彼女の死を。聞いてまわることでもないので黙っているが本当は誰かに話したかった。彼女の話を聞いて欲しかった。それほどに俺は今弱っているのかもしれない。大切な人を喪った、痛かっただろう、怖かっただろう。守ってやれたら、よかったのにな。
2021/1/25
陽炎 #ポケモン剣盾 #夢小説 #男夢主
陽炎 #ポケモン剣盾 #夢小説 #男夢主
架空の誰かに向けていたとしても、彼が恋の歌を歌うのは嫌だった。どんな相手を想像して歌っているんだろう、と想像してしまうからだ。
スパイクタウンのジムを引退してからの彼は肩の力が抜けたように活動している。ライブを精力的に開催したり、バイクでその辺を走っているのを見たりする。
俺はしがない楽器屋の息子だ。
いずれこの寂れた町の小さな楽器屋を継ぐのかと思うと、気が重いのと同時に、ずっとネズのそばに居られるのだと思うとうれしく思う。
錆びたチャイムが来店を知らせる。あんな奇抜な髪あいつしかいない。
「よう、きてやりましたよ」
「おー、いらっしゃい」
「ギターできてますか」
「ああ、さっき上がったところ」
大体のチューニングはネズが行うが、細かいところは俺がやってる。その方が音がいいんだそうだ。
「そうだ、ネズ。八百屋の親父、店閉めるってよ」
「……そうですか」
一瞬のためらいがあり、受容。誰よりもこの街が発展するよう、未来につなげようとしたネズに伝えるのは気が滅入るが、いつかは知り及ぶことになるだろうと思い、伝えた。
「さびしくなりますね」
「ああ、都会の息子さんのところに行くっていうからな」
「おれが何をしても、無駄なことのように思えてきます」
「なんだ? 弱気だな」
「おまえしか聞いている人がいないからですよ」
「そっか……」
沈黙が夕日さす店内を満たしている。
この街から去る決断なんて、俺はできない。幼いころから彼のそばで彼の努力を見てきたから、最後の最後までそばに居てやりたいと決めている。
「おまえは、居なくならないでくださいよ」
「そのつもりだ。ネズがもういいっていうまで居てやるよ」
「それはそれでうっとおしいですね」
やっといつもの生意気な調子が戻ってきた。やっぱりネズはこうでなきゃ。
からん、と音を立てて珍しい来店を告げた。ネズの妹のマリィだ。今は兄からスパイクジムを継ぎ、立派に切り盛りしている。
「アニキ、素直がいいけんね」
「なんです、急に」
「ウチが知らんとでも? いつもナマエさんのこと話し「ワーッッ!!!」」
ネズから珍しく大きな声が出た。今日は珍しいことだらけだ。退屈なこの街もこの兄弟がいると華やぐ。
「俺の噂してんの? 家で?」
「そうそう、ナマエさん素敵やなって」
「またあ……」
「アニキ、素直がいいけんね」
「わ、わかりましたよ……」
「ねー、俺を置いて話さないでよー」
「すーぐナマエさんのこと話すけんね、心配せんとき」
「えーなになに」
「じゃ、邪魔者は帰るけん。アニキ、もうネチネチしたコイバナは効きたくない」
「わかりましたよ……」
「じゃあねー」
「じゃあね、ナマエさん」
「なになに、なんだったの」
「ナマエ」
「何、急に改まって」
「おまえのことがずっと好きでした」
「えっ……コイバナってそういうこと?」
「そういうことです。多分おまえは女性を好きになるだろうから、黙っていましたが、もう疲れました。一方的に想っていただけですが、返事のない恋の歌は飽きたんです」
「えっ待って、勝手に決めないでよ……急に好きって言われても実感わかないけど……ネズ、何、好きって、なに」
「教えないとわかりませんか?」
「わからないよ……俺たちずっと幼馴染だったじゃん……それとは違うの?」
「おまえはそうでないとしても、おれは違いますね。おまえにキスをしたいし、抱かれたい」
「お、おお……」
「ドブみたいな顔いろになりましたね」
「驚きがすごくて」
「はは、面白い」
「てめえ人ごとみたいに」
「ナマエ、返事は」
「イエスでお願いします……でも抱くとかはまだ保留でいいすか」
「まあ、よしとしましょう」
「ありがと……」
「でも、キスは今」
します、という言葉は俺の唇の間ではぜた。ネズの口紅がべったりうつった後解放された。
「お、おお……」
「ふふ、嫌になりましたか?」
「いや、意外と……いけるなと思いまして」
「おや、そうですか」
「やべ、ちんこ勃ってきた」
「そんな躾のなっていないちんこ、引き取り手がいませんよ」
「ネズ意外に居なくていい」
そんな情熱的なセリフが出てくるとは思わなかった。ネズが目を丸くした後なんだこいつという目で見てくる。
高く結ったネズの髪を解いて、俺からキスをした。友達だったとか、恋人になったとかどうでもいい。ただこいつを愛しいと思った。
2022/2/26
架空の誰かに向けていたとしても、彼が恋の歌を歌うのは嫌だった。どんな相手を想像して歌っているんだろう、と想像してしまうからだ。
スパイクタウンのジムを引退してからの彼は肩の力が抜けたように活動している。ライブを精力的に開催したり、バイクでその辺を走っているのを見たりする。
俺はしがない楽器屋の息子だ。
いずれこの寂れた町の小さな楽器屋を継ぐのかと思うと、気が重いのと同時に、ずっとネズのそばに居られるのだと思うとうれしく思う。
錆びたチャイムが来店を知らせる。あんな奇抜な髪あいつしかいない。
「よう、きてやりましたよ」
「おー、いらっしゃい」
「ギターできてますか」
「ああ、さっき上がったところ」
大体のチューニングはネズが行うが、細かいところは俺がやってる。その方が音がいいんだそうだ。
「そうだ、ネズ。八百屋の親父、店閉めるってよ」
「……そうですか」
一瞬のためらいがあり、受容。誰よりもこの街が発展するよう、未来につなげようとしたネズに伝えるのは気が滅入るが、いつかは知り及ぶことになるだろうと思い、伝えた。
「さびしくなりますね」
「ああ、都会の息子さんのところに行くっていうからな」
「おれが何をしても、無駄なことのように思えてきます」
「なんだ? 弱気だな」
「おまえしか聞いている人がいないからですよ」
「そっか……」
沈黙が夕日さす店内を満たしている。
この街から去る決断なんて、俺はできない。幼いころから彼のそばで彼の努力を見てきたから、最後の最後までそばに居てやりたいと決めている。
「おまえは、居なくならないでくださいよ」
「そのつもりだ。ネズがもういいっていうまで居てやるよ」
「それはそれでうっとおしいですね」
やっといつもの生意気な調子が戻ってきた。やっぱりネズはこうでなきゃ。
からん、と音を立てて珍しい来店を告げた。ネズの妹のマリィだ。今は兄からスパイクジムを継ぎ、立派に切り盛りしている。
「アニキ、素直がいいけんね」
「なんです、急に」
「ウチが知らんとでも? いつもナマエさんのこと話し「ワーッッ!!!」」
ネズから珍しく大きな声が出た。今日は珍しいことだらけだ。退屈なこの街もこの兄弟がいると華やぐ。
「俺の噂してんの? 家で?」
「そうそう、ナマエさん素敵やなって」
「またあ……」
「アニキ、素直がいいけんね」
「わ、わかりましたよ……」
「ねー、俺を置いて話さないでよー」
「すーぐナマエさんのこと話すけんね、心配せんとき」
「えーなになに」
「じゃ、邪魔者は帰るけん。アニキ、もうネチネチしたコイバナは効きたくない」
「わかりましたよ……」
「じゃあねー」
「じゃあね、ナマエさん」
「なになに、なんだったの」
「ナマエ」
「何、急に改まって」
「おまえのことがずっと好きでした」
「えっ……コイバナってそういうこと?」
「そういうことです。多分おまえは女性を好きになるだろうから、黙っていましたが、もう疲れました。一方的に想っていただけですが、返事のない恋の歌は飽きたんです」
「えっ待って、勝手に決めないでよ……急に好きって言われても実感わかないけど……ネズ、何、好きって、なに」
「教えないとわかりませんか?」
「わからないよ……俺たちずっと幼馴染だったじゃん……それとは違うの?」
「おまえはそうでないとしても、おれは違いますね。おまえにキスをしたいし、抱かれたい」
「お、おお……」
「ドブみたいな顔いろになりましたね」
「驚きがすごくて」
「はは、面白い」
「てめえ人ごとみたいに」
「ナマエ、返事は」
「イエスでお願いします……でも抱くとかはまだ保留でいいすか」
「まあ、よしとしましょう」
「ありがと……」
「でも、キスは今」
します、という言葉は俺の唇の間ではぜた。ネズの口紅がべったりうつった後解放された。
「お、おお……」
「ふふ、嫌になりましたか?」
「いや、意外と……いけるなと思いまして」
「おや、そうですか」
「やべ、ちんこ勃ってきた」
「そんな躾のなっていないちんこ、引き取り手がいませんよ」
「ネズ意外に居なくていい」
そんな情熱的なセリフが出てくるとは思わなかった。ネズが目を丸くした後なんだこいつという目で見てくる。
高く結ったネズの髪を解いて、俺からキスをした。友達だったとか、恋人になったとかどうでもいい。ただこいつを愛しいと思った。
2022/2/26
瞬きの間に #ダイヤの #カップリング #まなたん
瞬きの間に #ダイヤの #カップリング #まなたん
「かっちゃん、待って!」
もたもたと靴ひもを結ぶ光一郎が、いまでも記憶の片隅に残っている。
「要、行こうぜ」
「あいつ、いっつもとろいな」
「下手くそだし」
聞こえるように言ったのだろう、光一郎は肩を震わせて靴ひもをいじったまま顔を上げようとしない。周りより抜きん出て上手く、父はコーチ、母は父母会長。そんなキャプテンは親の威光を存分に利用して、光一郎に嫌味を言っているらしい、ということは人づてに聞いていた。その時は俺が噂だけで手を出せない、光一郎が解決するかもしれない、と考えていたが、俺の目の前でやられたら話は別だ。
「行かない、それと、光一郎は下手くそなんかじゃない」
いつも静かに投球をし、結果を出していたからかキャプテンは素直に引き下がった。それからスパイクに砂を入れられたり、バッティンググローブを汚されたりと小さな嫌がらせはあったものの、小さいころの俺にはそれ以上に得るものがあった。
かっちゃん、かっちゃんと慕ってくる光一郎に仄かな優越を感じていた。それを侵す者は誰であっても許すつもりは無かった。今となっては浅ましく、光一郎の気持ちを裏切っていた証拠に他ならない。忘れていたかった記憶の一つだ。
『青道高校薬師高校を破って決勝進出』
光一郎が、俺が負けた薬師を破って、決勝へ進んで。新聞に小さい文字列として並べてみると、こんなに簡単に表現できてしまう。そこには、そこに至るには、数えきれないほどの涙が流れているのに。自分の感傷でしかないと理解していても、涙腺が緩んでしまう。
携帯電話のディスプレイに映るメールの下書き、おめでとうの文字はどこか虚しく見えた。
本当にめでたいと思っているのか。本当は悔しくて羨ましくて、それに劣等感が滲んでいた。いままで追われていたならば、これからも追われる立場で、いつだって俺が光一郎を導いてやるんだという傲慢が少なからずあったことを、嫌と言うほど思い知らされた。
たぶん、本当の親友ならばここで真っ先に連絡を取っておめでとう、次も頑張れよと励ましてやるべきだということはなんとなくわかる。が、自分の小さなプライドがそれを邪魔する。いいなぁ、俺も、その舞台に立ちたかったなぁ、と羨む気持ちが一番に出てきてしまう。
あれだけ、人生を野球にささげてきても、差が出てしまう。あたりまえのことなのに、苦しくて仕方がない。まるで自分の選択が、努力が、一気にばかげたもののように見えてきてしまう。同じ夢を見て、同じ場所で夢がただの夢になってしまった仲間には言えるはずもない。最後の最後まで自分の背中を守ってくれた仲間に、そんなこと言うつもりもないが。
春のセンバツの時は、最高ではないが、まぁ悪くは無い成績を残したことで、光一郎と決勝で戦って、自分が選んだチームで、チームメイトたちと夢の舞台へ行くことへの確信すら抱いていた。
もう、遅いだろうしきっと光一郎も寝てしまった、夏の練習は厳しいだろうから、疲れているところを起こしてしまったらいけないと自分に言い聞かせて、下書きを破棄して携帯電話を閉じた。パコ、という間抜けな音ですらいまは神経を逆なでる。
夏大で負けてから、自宅から学校へ通う部員が増えた。大学進学の手段として、野球を選ばなかったチームメイトたちだ。朝起きて、食堂に行ったとき彼らが居ないとき、俺らの夏は終わったのだと再び実感する。食堂の外で、バットがボールを弾き返す快音が、グローブにボールが収まる音が、掛け声が、食事時に聞こえる。起きる時間だって遅い。終わりを実感するには十分すぎるだろう。
はたして、これから先の人生で俺は何度あの夏のことを思い出し、後悔するのだろう。負けたあと、テレビのインタビューなどで後悔はありません、と言う同学年の選手たちの気持ちが、同じ夢を見ていたからこそ、俺にはなんとなくわかる。彼らもまた、記憶にささくれを持ち、ふとしたときに思い出すが、試合後の高揚でまだ実感が湧いていないだけであのときああしておけば、と何度も繰り返すだろう。
後悔をしないのは、頂点に立ったチームのメンバーだけではないだろうか。それももう自分で確かめる手段は無い。俺らの夏はただの夢になってしまったのだから。
だからこそ、まだ可能性が残っている幼馴染に激励の言葉を贈るべきなのかもしれない。終わってしまった夢を託すようで気が引けるが、俺ができなかったこと、ネット越しか画面越しにしか見ることができなかったものを今度はお前が俺に話して聞かせてほしい。
あまり深く考えすぎても文面から重たい気持ちが伝わってしまうだろうから、試合頑張れよ、応援してる。とだけメールを送った。忙しかったら見ないだろうし。相手が好きなタイミングで確認できるメールが、いままではどこにいても繋がってしまうような気がして嫌だったが、この時ばかりは都合がいい。
返事は昼休みに来た。
『今日の夜、少しだけ電話できる?』
『好きな時間にかけてきて大丈夫、二十一時以降ならいつでも』
と返した。メールで、ありがとうだとか当たり障りのない返事が来ると思っていたので拍子抜けした。
もしかしたら、エースとして精神力が強くなったように見えていただけで、不安なのかもしれない。決勝という舞台を前にすくみ上ってしまっているのかもしれない。そんな光一郎に何ができるのか。もう舞台から降ろされた俺に、何ができるのか。
「青道で自分を変えたいんだ」
自信なさげに言うものの、はじめて光一郎が見せた強い意志にたじろぐ以外にできなかった。いままでと同じく、スカウトされた市大三高で野球をするものだと、考えていた。
やはり、光一郎も、ひとりの投手なのだ。自分の投球によってプレーが始まるポジション、ピッチャーの代表格であるエースを俺に預けている状況が、心のどこかで嫌だったのかもしれない。そんな光一郎の存在が、俺の心のどこかでチクリチクリと焦りを生んでいた。それが俺の強さになっていった、そう信じたい。
「かっちゃん」
「ひさしぶり」
マウンドで発する雄々しい声は鳴りを潜めて、控えめに囁かれたなつかしいあだ名に、なぜか安堵した。光一郎は、俺よりいい結果を残すことが確定しても、特別態度を変えたりするやつじゃない。光一郎の心根の優しさなんて俺が良く知っているはずなのに。そんな勘ぐりを声音に乗せないように、極めて冷静に返事をする。
「本当は、数日なんだけどね」
「俺らの人生のなかで、多分一番濃い時間だからなんだか長く感じるんだろな」
「うん、そんな気がする」
言葉を交わしたのは久しぶりだった。昔のままに気安く会話ができて安心した。
「かっちゃん、あのさ」
「なんだ」
「俺、エースとして、頑張ってるんだ」
「見てれば、わかる」
「よかった」
青道という、市大に劣らない野球の名門校で、競争率の高いピッチャー、そのトップであるエースの座を掴んだ光一郎は後輩たちをひっぱり、チームメイトに支えられ、名実ともにエースといっておかしくないのに、わざわざ部外者である俺に評価を委ねるのだろうか。
「何で俺に聞くんだよ」
「だって、かっちゃんはずっと俺にとって、あこがれだから」
「は?」
思わず強い口調で聞き返してしまった。電話口の向こうで息を飲む音がした。光一郎を委縮させたらいけないっていうのは長い付き合いだからわかっていたのに、聞き返さずにはいられなかった。
「だって」
そう光一郎が発した時、電話口の向こうが妙に騒がしくなった。カノジョか?!カノジョか???と口ぐちに言っているのが聞こえる。
「ごめん、切るね」
「おう」
電話は俺から切った。今や結果として俺を越えてしまった光一郎が、俺にあこがれていただなんて聞きたくなかった。大切な幼馴染のあこがれを綺麗なかたちで見せてあげたかった。なんて考えは傲慢なんだろうか。
◆
カノジョだカノジョだ、と騒ぐ奴らに発信履歴を見せて、やっと解放された。
これからもし、カノジョができたとしても、かっちゃんほど心を許せるかどうかわからない。弱い自分をさらけ出せるのは、信頼しているチームメイトにも言えないようなことを言えるのは、やっぱりかっちゃんなのかもしれない、と自分でも分かっている。そんなかっちゃんを乞える存在が、これから現れるとは、今のところ思えない。
自分の中だけで思っていればいいことを、思わず口走ってしまった。かっちゃんに、お前はよくやってるよ、と認められたかった。小学校、中学校、リトル、シニアとずっと俺の前を走って、俺が気弱なふるまいをしていじわるをされた時も、毅然としていじめっこへ立ち向かうかっちゃんはカッコよかった。ああなりたいと思わせるには十分すぎる、ヒーローだった。
でも、ヒーローに守られたままじゃ、俺はずっとかっちゃんの二番手。かっちゃんと肩を並べられるようには到底なれないだろう。俺はかっちゃんの背中を見ているんじゃなく、隣に立って、いつかは、追い抜いていきたい。
あんな強い口調のかっちゃんは久しぶりだ。小学校のとき、いじわるされたときに、嫌なことはちゃんと伝えろ!と怒られた時以来かもしれない。いや、シニアのとき、ミスを押し付けられそうになったとき、主張しろよ!と怒られたこともあった。嫌だったのかもしれない。急に、あこがれだなんて、負けてすぐ、気持ちの整理がついていないときに言われて。かっちゃんから嫌われてしまうことが怖くて、すぐメールで謝ろうと思ったが、たぶんかっちゃんのことだから、どうして謝るのか、なんて聞きそうだ。静かに、でも、強い目で「光一郎は、どうして俺に悪いことをした思ったんだ」って。
俺が、かっちゃんから嫌われたくなくて、なんて返したら呆れられてしまいそうだ。でも、今の俺にはかっちゃんが俺の近しいひとでなくなるのが怖いから、としか返せない。
悩んでいる間に、メールが来た。
『明日、頑張れ。早く寝ろよ』
もしかしたら、怒ってないのかもしれない。
今までぐちゃぐちゃ考えていたこと全部が吹き飛ばして、冷静さを取り戻す。俺は今、かっちゃんからも応援されている。
『ありがとう、頑張る おやすみ』
それだけの短いメールを送った。
本当は、これ以上やりようがないほど努力したから大丈夫なはずなのに不安で仕方ないって、言いたかった。中学の頃ならたぶん、夜遅くにかっちゃんの家に行って、懐中電灯でかっちゃんの部屋を照らして、降りてきてくれるのを待って言ってしまっていた。でも、もう俺はあのころとは違うから、かっちゃんの背中を追っているだけの、気弱な俺とは。
時間は十四時を回ったころだろうか、神宮球場に降り注ぐ全てを焼き尽くしてしまわんばかりの暑さが、マウンドの上の空気を焼く。
吸った酸素が熱い。御幸が構えるミットが黒々と鎮座するだけの空間に、バッターボックスに打者が入ることで崩される。ここまできたら、もうやることは一つ。自分ができることをする。それだけだ。
マウンドの上の光一郎が小さく見える。
決して頼りなくはないが、山岡からホームランを打たれたときの光一郎は、幼いころの弱気が顔を出した、そんな気がした。
平井への四球、御幸が三塁でさしてアウトをひとつ、梵への死球、神谷をサードファールフライで打ち取り、白河に四球で、ツーアウト満塁。自分がその状況下にいると想像するだけで血が凍りそうな緊張のなかに居る光一郎は、いま何を思って決勝のマウンドに居るのだろうか。
膝をついて、うずくまっている光一郎がテレビ中継に映し出された。
同じような目にあってしまったか、と息を飲んだが、続投するようだ。この気迫、上から目線であることは承知で、光一郎は強く、たくましく成長した。心配するチームメイトたちを制し、ニ、三度ボールを捏ね回して、御幸が構えるのを待っている。
だが、相手は原田。御幸の判断で、敬遠をするようだ。次の成宮で勝負ということか。
そして、選手交代。沢村へ。丹波の、甲子園にかける思いをすこしでも受け取ってくれただろうか。沢村のグローブにボールを押し込んで何やら言っている。信頼できる後輩に恵まれ、また沢村も光一郎を尊敬しているのだろう。沢村は素直に頷いて、光一郎の背中を見送った。
◆
マウンドの上で泣き崩れる川上を、どこか違う世界の出来事のように眺めていた。
喜び合う稲実のメンバーとは違う、俺に与えられた現実がじわじわ這い寄ってくる。それからどうやって寮にもどってきたか思い出せない。ただ茫然と、涙を流した。
高校に入ってから、初めてユニフォームを洗濯した。
泥は洗濯板で擦ってからじゃないと落ちないわよ、と何ともなさそうに言っている藤原は、冬の寒いときもこうして洗っていてくれたのだと思うと、また涙が目じりに滲んできてしまう。結果は、どんなに好ゲームだったとしても決勝敗退だ。藤原たちの献身に見合う結果を出せたのだろうか。
それに、いまはまだ深く考えることはできないが、この結果は確実に進路に影響するだろう。感傷に浸る暇もなく現実が押し寄せてくる。もう少しだけ、夢で終わってしまった夢に浸っていたい、それさえも許されないのか。自分たちもそうしてきたはずなのに、世代が交代してゆく。
練習が辛くて、自分を変えたいと思ったことは何度もある。けれど、はじめて、野球をしていることが苦しくなった。セレクションは一校だけ受けたが、練習に参加していない。あいつらにはまだ、甲子園に行ける可能性があって、俺にはない。単純な事実が重く胃に圧し掛かっているような気すらする。
このまえかっちゃんが言っていたとおり、時間の密度が違う。これから先の人生で、あれほどに没頭できる瞬間は来るのか、と考えて急に恐ろしくなった。夢が断たれるまでは楽しみでしょうがなかった明日が、将来が、叫びだしたいほど恐ろしいものになってしまうとは、あのときの自分は考えもしなかった。
遠慮がちに震えた携帯電話が、メールの受信を伝える。実家の親だったら電話をしてくるだろうし、誰がこのタイミングでメールをしてくるのだろう。
『光一郎、明日暇か? 市大の三年で江ノ島に行こうかって話をしているんだけど』
『うん 行く』
敗戦の傷をなめ合うわけでもなく、ただ、用件のみのメール。それが今は心地よい。
『わかった。じゃあ、10時ぐらいに町田まで来て』
OKの絵文字を送った。ひとつ予定ができるだけで、自分がこれから過ごす時間に区切りが生まれて、見通しが立つような気がする。明日、時間が有ったら参考書でも見てこよう。
朝方の混んでいる中央線上りには、部活に行くのだろう、重そうな用具を持った高校生がちらほら乗っていた。これからは自分たちの時代だ、と意気込んでいる姿がいまはまだ純粋に応援だけしていられない。ぼんやりと電車に乗っていると、いろいろな所にまで考えが及んでしまう。稲実の決勝は、今日。山岡は、原田は、と自分から長打を打った打者のことや、四球を選んだ打者などのこと。俺になくて、あいつにはあったものをもつ、成宮のこと。新宿を乗り過ごしそうになってあわてて小田急線に乗り換える。これで町田まで行ってしまえば、ここまで暗い気持ちになることもないんじゃないか、そんな淡い期待を胸に、電車の揺れに身体を任せた。
「わっ!丹波だ!おはよー!」
「丹波ー!でかいからわかりやすいな、た!ん!ばー!」
顔はよく知っているが名前を知らない、かっちゃんのチームメイトを紹介してもらった。深い付き合いではなかったのに、自然に会話を続けることができる。根がいいひと達ばかりなんだろう。俺もかっちゃんも、チームメイトに恵まれたのだと思うと、俺まで嬉しくなる。
「ほんとは、断られると思ってた」
「え?」
窓の外にちらほら海が見えるようになってきてから、かっちゃんは何でもなさそうにつぶやいた。
「俺らが中学最後の試合の後、光一郎泣いて泣いて」
「そ、それは中学の時の話じゃん」
「そうだな、すごかったよ、決勝でのピッチング」
「あ、ありがと」
かっちゃんはなぜか嬉しそうに唇の端を上げて窓の外に視線を逸らした。
「そういうところも」
「え?」
「前までの光一郎だったら、そんなことないよ、とかかっちゃんのほうが、とか言ってた」
「今まで一番良かった、って自分でも思ってるからかも」
「そっか」
よかった、と小さく囁くかっちゃんは、どこか脆く、後悔しているときの顔をしているような気がした。何も言えずに、かっちゃんがぼんやり見つめている海を一緒に眺めるふりをする以外、どうすればいいか選択肢すら思い浮かばなかった。
海にはしゃいでいる市大のみんなをぼんやり眺めながら、いろいろな話をした。すこしだけ生えてきた髪の毛が日に焼けてちくちく痛むのが気になって居たら、大前がさりげなく帽子をかぶせてくれた。
「お互い、悔いが残っちまったな」
このまま、野球を辞めたくない。それだけはかっちゃんも俺も、同じ気持ちだろう。
「そういえばさ、この前言ってたかっちゃんは俺の憧れ、って何」
茶化すときの顔をして、顔を覗き込んできたかっちゃんを軽く小突く。なにかうまいこと言って躱そうとしたが、語彙が追い付かない。それに、かっちゃんは俺がごまかそうとしたらわかってしまうだろう。
「あれはぁ、あのね」
「うん」
「言葉にしにくいなぁ……」
「ゆっくりでいいから、知りたい」
なんだか照れくさくて、かっちゃんの顔が見れない。
「ずっとね、背中ばっかり追いかけてたんだけど、ほんとは隣で、競いたかったんだ。近くに目指すハードルとか、こうなりたい!って目標が無かったら、俺はいまも弱虫のままだったと思うんだ」
黙って聞いてくれているかっちゃんの視線がチリチリ刺さるようで、顔が熱い。海にとびこんでしまいたい。し、とりとめがなくて分かりにくいと自分でも思う。俺らの夏は終わったとはいえ、まだ気温は三十度以上なのだから、暑くて当たり前だろう。
「だからさぁ……憧れなの」
「へ~ぇ」
口調はからかっている風だけれど、表情は優しくどこか照れている風でもある。長年そっとしまっておいた気持ちを馬鹿にされたら、と心の隅で疑っていたが、相手はかっちゃんだ。そんなことするはずがない。
「でもさ、結果として、光一郎の方がすごかったじゃん」
「そういう問題じゃないの」
釈然としない、といった表情で見てくるかっちゃんに、もうこの話は終わり、と言ってもなかなか解放してくれない。
「結果とかそういうんじゃないの、心の支えみたいなものなの」
これでほんとうに終わり!と言ってひざ下だけ海に入った。こんなに太陽が照りつけているのに、水は驚くほど冷たい。
「冷たくないか?」
「……冷たい」
「やっぱり」
沈黙ののち、かっちゃんは、そんな大層なものだったなんて、思いもしなかった。と呟いた。
「俺はさ、やっぱり心のどこかで光一郎が頼りないもの、って意識が抜けてなかったんだろうけど、全然そんなことなくて、でもなんでかな、それがなんとなく寂しい」
今までずっとかっちゃんの強い面しか見てこなかったぶん弱さを見せてくれるようになって、なんだかかっちゃんをもっと知れたような気がして、かっちゃんはきっと悩んでいるのに、なんとなく嬉しい。
「なに嬉しそうな顔してるんだよ」
「だって、なんか、初めて見た気がする。かっちゃんのそういうとこ」
「そうか?」
「そうだよ、ずっと、気を遣ってたのかもしれないけれど、弱いところ見たことなかったから、ずっと支えてくれていたから、今度は俺がなんとかできるかもしれないって」
「そっか、本当に、前とは違うんだな」
「う、うん、多分」
「そこはそうだよ!って断言するとこだろ」
そういうところは簡単に変わらないものなんだなぁ、って笑ってくれて安心した。かっちゃんが笑ってくれていると安心するのは多分小学生のころからずっとだから、今後も続いて行くような気がする。
「ねぇかっちゃん」
「なんだよ」
「これからもし、かっちゃんにカノジョができても、時々はこうして会ってね」
「何言ってるんだよ、あたりまえだろ?親友で幼馴染なんだ、どんなつまんない用事でもいい、繋がりはあるよ」
「そうだよね、安心した」
親友、という言葉にはどうにも胸が騒ぐ。こんなに信頼していて、大好きなのに、親友。親しい友達。じぶんの心の中のわだかまりは、そっとしまっておくべきのわだかまりだろう。俺は今まで、かっちゃんと競い合いたかったはずなのに、今はなんだろう。かっちゃんの何になりたいんだろうか。
「どうした、光一郎」
「ううん、なんでもない」
ほんとうになんでもないのか、と言うときの目が、この時ばかりは心苦しい。今までは、いじわるされてないか、とか、本当に辛くないのか、嫌じゃないのか、っていうときの目だった。けれど今は違うように感じる。かっちゃんは、俺の思ってること全部知っていて、浅ましい、俺は親友だと思っていたのに、軽蔑した。と言わんばかりの目をしているように見える。
「そっか、大前がかき氷食いたいって。お前もなんか食う?」
「うん、一緒に行く」
「だな」
「パピコ二人で分け合うとか、仲いいな」
「フツーそれカノジョとかとやるだろ」
何気ない一言が、じくりと刺さった。いつかかっちゃんが、カノジョと二人、分け合っていたら。
「そうか?俺いままでずっと光一郎と分けてたからカノジョとか想像つかない」
「へぇ~なんかいいなぁ、そういう信頼関係」
「だろ」
信頼が、今は嬉しい。
「どうした、なんか顔が怖いぞ」
「そうだぞー丹波ーお前ガタイ良いから表情暗くなるとめっちゃ怖いぞー」
「ご、ごめん」
「謝らなくてもいいだろー……チャーシューやるよ」
「俺はピーマンをやろう」
「大前、お前はピーマン嫌いなだけだろう、光一郎もピーマン嫌いだよ」
「もう大丈夫になったよ」
「偉いな丹波……こんなカッコいい幼馴染がずっといたんだろ丹波、こんなん惚れるよなぁ」
深いかかわりがあったわけではない人に見抜かれていて、ゾッとした。そんなにわかりやすかっただろうか。あいまいに流したけれど、流れてくれてよかった。確かにかっちゃんのことは大好きだけれど、どういう意味の好きなのか、自分でもよくわからないうちにさらけ出すことにならなくて安心した。
夕暮れの海は、皆の心のしみる何かがあるのだろう。
誰も何も言わずに佇んで、太陽が消え入るのをぼんやり眺めている。だれともなく、帰ろうか、と言って冷房が効いた電車にのそのそ乗った。片瀬江ノ島からの上り電車は思った以上に人が居なくて、感傷的になるにはもってこいの雰囲気だった。
「野球、したいなぁ」
「あぁ、またどこかで、戦ったり、一緒にプレーしたり、しようなぁ」
叶うか叶わないかは別にして、今だけは見えない未来に不確定の約束を投げ出していたい。ほんとはもっと、高校生として野球をしたかった。その思いだけは皆共通して持っているはずだ。
かっちゃんと、市大三のみんなは町田で降りていった。町田から新宿、新宿から国分寺まで一人で帰る。さっきまでが騒がしかったので寂しくて仕方がない。もう寄りかからないと決めたはずなのに、心のどこかでかっちゃん、と言っている気がする。
控えめに震えた携帯電話には、メール受信、かっちゃん。とある。そんなに都合の良いふうにできているのだろうか。
『さびしくてビービ―泣いてるんじゃないか』
『さびしかったけど、泣いてはない』
『そっか、うん、また今度、二人で会おうな』
『うん』
なんだか付き合っているみたいだ。
かっちゃんに大切に思われているってことが嬉しくて、信頼している人と会うことが楽しみで仕方がない。かっちゃんはやっぱりすごい、と一人合点する。
すっかり忘れるところだった受験の参考書を見て、家路につく。先輩たちが置いたままで卒業した参考書と同じものが欲しかったのでちょうどよかった。色とりどりの参考書の山が、なんとなく将来を考えなくちゃならないような気にさせてくる。
野球部の練習ばかりでところどころ赤点をとってしまった、わからないところがある。かっちゃん、とメールをすると間をおいて帰ってきた。
『ね、勉強会しようよ』
『いいじゃん、今週の土日、親出かけるし、勉強合宿だ』
『やった』
今までのかっちゃんちに泊まりに行くときの楽しみ、とはまた違う楽しみを感じている自分に驚いた。今までとは違う大好きのままでかっちゃんを見ているときのほうが、よかったのかもしれない。
根を詰めて受験勉強に向かってみると、同じ会場で、同じ問題を解いて結果を競わなければならないと思うと、青道の皆や、市大三の皆とまた、野球やろう、が随分遠く思えてしまう。大学に入らなくても、野球はできるじゃないか、と自分を甘やかす考えが出てきてしまう。
「光一郎は、何が苦手?」
「数学、公式は覚えてるはずなのに過去問になるとわからなくなる」
「うーん、昔、円の面積でもそんなこと言ってた気がする……公式を読んで覚えたつもりになってて実は基礎ができてないとか」
「かも……学校の問題集やりなおしてみる」
「だな」
「かっちゃんは苦手な科目ないの?」
「古文」
「いとをかし」
「うん、まぁ、えーと、そんな感じ……」
思ったことをすぐ口にして不思議がられてしまった。すっかり温くなった紅茶を一口飲んでまた問題に向かう。
◆
光一郎が何か言いたいときの話し方をしている。でかい図体を小さく丸めて、もくもくと数学の問題集にとりくむ姿は、中学のときと変わっていない。そのたびに俺の母親に背筋が曲がってる!と注意されていた気がする。
「かっちゃんは、不安じゃない?」
「何が」
「今まで、俺たちが野球をしてきた時間を勉強に費やしてきた人たちと、試験問題が一緒なんだよ?」
「野球と同じだよ、ウダウダ悩む前にやる」
「……やっぱり、かっちゃんはすごいや」
「すごくなんかない、光一郎よりすこしだけ屁理屈捏ねるのが上手いだけだよ」
「そういうんじゃない……」
塗装が剥げた何かのオマケのストラップをいじって、思考を纏めようとしている。
「俺は、お前が思ってるほどすごい人間じゃないよ」
自分から自分の価値を提示するのは勇気が要ることだけれど、仕方ない。光一郎が俺より高い目標を見るためには必要なことだろう。
「自分で、自分のことを見るのって勇気がいるし、後悔してるって口にするのも怖かったけれど、かっちゃんはそういうことができるじゃん、そこがすごい」
「……あぁ、そう?ありがとう」
熱弁されてしまい、しどろもどろに返すしかなかった。
集中していて気付かなかったが、そろそろ夕食の準備を考える時間になっていた。カレーの材料の買い置きと、サラダの材料の作り置きがあった気がする。栄養面を考えても、完璧ではないが、悪くもないだろう。
「光一郎は、じゃがいも剥いて」
指先には気をつけろと三度繰り返すと、素直に三度返事をしてくれた。具材を適当な大きさに切って、炒めて、ルーを入れればそれなりのものができる。それでもおいしいおいしいと食べる光一郎は、自分の掌のなかに居たような気がしていた光一郎と何一つ変わっていないような気がする。実際は、俺がそう思いたいだけで光一郎は、これからも俺の思い出の中の光一郎から変わってゆく。
過去にとらわれていて変われなかったのは、俺の方かもしれない。
食器を洗って、教科を変えてまた勉強。
俺も光一郎も単語を覚えるところから始める。光一郎が言っていたように、遅れをとっていることに間違いはない。が、焦って難しいものに取り組んでも時間がかかるばかりなので学校準拠のテキストからこなす。
「光一郎、先に風呂入って来いよ」
「風呂入ったらすぐ眠くなるから、かっちゃん先にして」
「わかった」
中学のころまでは、ガスがもったいないから二人で入っちゃいなさい、と入れられていた。精通の相談をされたときが一番困った思い出が甦ってきた。白いおしっこがでた、とぐずぐず泣く光一郎を一度ネタにしようとしたが、耳まで真赤になって、消え入りそうな声でごめん、と言わせてしまってから、そうもいかなくなった。
「上がったぞ、後は暗記にすればいいじゃん、入ってこいよ」
「うん」
今日一度も音を上げずに勉強していた。相当焦っているのだろう。上がったら、アイスあるぞと言うとすぐに席を立って風呂場に行った。消しカスを捨てて、勉強道具を片付けて暗記テキストをひっぱりだす。付箋や赤線だらけの単語帳をひとり眺めていると、焦りを感じる。やるしかない、とはわかっていても今まで野球しかしてこなかった自分が、などどマイナスのことばかり考えてしまう。光一郎には取りつく島もなく偉そうなことを言っておいてこれだ。光一郎が言う、すごい、がいつから辛くなってしまっていただろう。
「何味がいい?」
「イチゴ」
「うん、ほら」
「ありがと、かっちゃんはチョコミントでしょ」
「光一郎がキライなチョコミントだ」
「キライじゃないけど……辛い」
「わかったわかった、ほら、スプーンとって」
「うん」
一人ひとつのカップアイスが与えられるようになったのも中学を卒業してからだ。それまでは二人で一つ。それが当たり前だと思っていたが、世の中ではカノジョらと分け合うらしい。まだ恋愛のことは分からないけれど、光一郎ほど信頼して心許せる人に出会えるのか、と漠然と考える。ちまちまスプーンの先でアイスを掬う光一郎を横目に、光一郎に英単語帳を押し付ける。
「光一郎、歯ブラシ持ってきたか?」
「うん」
「えらい」
えへへ、随分可愛らしく笑う光一郎の頭を、いつもは高いところにあって届きようもない頭をショリ、ショリと独特の触感と音をたてて撫でる。
「随分生えてきたんだな」
「伸びたって言ってよ……」
「うんうん、伸びた。決勝戦のときはツルッツルだったな」
「うん」
こんなところでも時間の経過を実感してしまって嫌になる。布団を敷きに行こう、と促して和室に二つ布団を敷く。シーツを敷くときいつもシーツを高く放り投げて下に入って、遊んでいた。一度電灯にひっかかってからはしなくなった。
「電気消すぞ」
「うん」
「ちっちゃい電球つけておくか?」
「大丈夫」
「へぇ~……」
「もう、高校三年生だよ」
「だな」
大人しく布団にもぐりこんだ光一郎を見て、暗いところ狭いところ、怖いところが多かった光一郎もいなくなった、と自分に言い聞かせた。
「でもね、かっちゃん」
「何だ?」
「どんなに、いろんなことができるようになっても、見る世界が広くなってもね、俺はかっちゃんのこと、一番大切」
どんな顔で言っているのか、見たいようで、見たくない。冗談ぽく言っているのか、それとも真面目な顔しているのか、知ってしまったらいけないような気がした。布団の上からやさしく肩をなでで、おやすみ、とだけ言った。
溶き卵をご飯にかけて、醤油を適量。
調理という調理ができないのと、面倒なのを解決してくれる。昨日のことが気になって寝付きが悪かった。当の光一郎は醤油をいれすぎたらしく、顔を顰めながら食べている。確かに、この、親でも兄弟でもないのに、大切で、大好きなものを言葉にするとしたら、大切、という言葉が一番合っているような気がする。
「じゃあ、ありがとねかっちゃん」
「うん、また来いよ」
「うん、おばさんにもよろしく」
「わかった」
光一郎は、チームメイトのもとに帰っていった。少しだけ広くなったような気がする自室に一人、何気なく辞書で大切、と引いてみる。もっとも重要で、重んじられるさま。小難しいことを書いてあるが、俺が今まで光一郎に抱いている感情をさすのだろう。きっと。
この気持ちは変わっていない。何が変わっても、これが変わらなければいい。辞書を二人分の布団の上に放り投げて、大切、と口に出してみる。照れくささと、なにかを手放してしまったような焦りがジワリと染み入る。
今度は光一郎とキャッチボールでもしよう。その頃には俺たちの夢は思い出になっているだろうから、僻んだり、感傷的になったりすることもないだろう。
===
多分再録だけど発行年不明
「かっちゃん、待って!」
もたもたと靴ひもを結ぶ光一郎が、いまでも記憶の片隅に残っている。
「要、行こうぜ」
「あいつ、いっつもとろいな」
「下手くそだし」
聞こえるように言ったのだろう、光一郎は肩を震わせて靴ひもをいじったまま顔を上げようとしない。周りより抜きん出て上手く、父はコーチ、母は父母会長。そんなキャプテンは親の威光を存分に利用して、光一郎に嫌味を言っているらしい、ということは人づてに聞いていた。その時は俺が噂だけで手を出せない、光一郎が解決するかもしれない、と考えていたが、俺の目の前でやられたら話は別だ。
「行かない、それと、光一郎は下手くそなんかじゃない」
いつも静かに投球をし、結果を出していたからかキャプテンは素直に引き下がった。それからスパイクに砂を入れられたり、バッティンググローブを汚されたりと小さな嫌がらせはあったものの、小さいころの俺にはそれ以上に得るものがあった。
かっちゃん、かっちゃんと慕ってくる光一郎に仄かな優越を感じていた。それを侵す者は誰であっても許すつもりは無かった。今となっては浅ましく、光一郎の気持ちを裏切っていた証拠に他ならない。忘れていたかった記憶の一つだ。
『青道高校薬師高校を破って決勝進出』
光一郎が、俺が負けた薬師を破って、決勝へ進んで。新聞に小さい文字列として並べてみると、こんなに簡単に表現できてしまう。そこには、そこに至るには、数えきれないほどの涙が流れているのに。自分の感傷でしかないと理解していても、涙腺が緩んでしまう。
携帯電話のディスプレイに映るメールの下書き、おめでとうの文字はどこか虚しく見えた。
本当にめでたいと思っているのか。本当は悔しくて羨ましくて、それに劣等感が滲んでいた。いままで追われていたならば、これからも追われる立場で、いつだって俺が光一郎を導いてやるんだという傲慢が少なからずあったことを、嫌と言うほど思い知らされた。
たぶん、本当の親友ならばここで真っ先に連絡を取っておめでとう、次も頑張れよと励ましてやるべきだということはなんとなくわかる。が、自分の小さなプライドがそれを邪魔する。いいなぁ、俺も、その舞台に立ちたかったなぁ、と羨む気持ちが一番に出てきてしまう。
あれだけ、人生を野球にささげてきても、差が出てしまう。あたりまえのことなのに、苦しくて仕方がない。まるで自分の選択が、努力が、一気にばかげたもののように見えてきてしまう。同じ夢を見て、同じ場所で夢がただの夢になってしまった仲間には言えるはずもない。最後の最後まで自分の背中を守ってくれた仲間に、そんなこと言うつもりもないが。
春のセンバツの時は、最高ではないが、まぁ悪くは無い成績を残したことで、光一郎と決勝で戦って、自分が選んだチームで、チームメイトたちと夢の舞台へ行くことへの確信すら抱いていた。
もう、遅いだろうしきっと光一郎も寝てしまった、夏の練習は厳しいだろうから、疲れているところを起こしてしまったらいけないと自分に言い聞かせて、下書きを破棄して携帯電話を閉じた。パコ、という間抜けな音ですらいまは神経を逆なでる。
夏大で負けてから、自宅から学校へ通う部員が増えた。大学進学の手段として、野球を選ばなかったチームメイトたちだ。朝起きて、食堂に行ったとき彼らが居ないとき、俺らの夏は終わったのだと再び実感する。食堂の外で、バットがボールを弾き返す快音が、グローブにボールが収まる音が、掛け声が、食事時に聞こえる。起きる時間だって遅い。終わりを実感するには十分すぎるだろう。
はたして、これから先の人生で俺は何度あの夏のことを思い出し、後悔するのだろう。負けたあと、テレビのインタビューなどで後悔はありません、と言う同学年の選手たちの気持ちが、同じ夢を見ていたからこそ、俺にはなんとなくわかる。彼らもまた、記憶にささくれを持ち、ふとしたときに思い出すが、試合後の高揚でまだ実感が湧いていないだけであのときああしておけば、と何度も繰り返すだろう。
後悔をしないのは、頂点に立ったチームのメンバーだけではないだろうか。それももう自分で確かめる手段は無い。俺らの夏はただの夢になってしまったのだから。
だからこそ、まだ可能性が残っている幼馴染に激励の言葉を贈るべきなのかもしれない。終わってしまった夢を託すようで気が引けるが、俺ができなかったこと、ネット越しか画面越しにしか見ることができなかったものを今度はお前が俺に話して聞かせてほしい。
あまり深く考えすぎても文面から重たい気持ちが伝わってしまうだろうから、試合頑張れよ、応援してる。とだけメールを送った。忙しかったら見ないだろうし。相手が好きなタイミングで確認できるメールが、いままではどこにいても繋がってしまうような気がして嫌だったが、この時ばかりは都合がいい。
返事は昼休みに来た。
『今日の夜、少しだけ電話できる?』
『好きな時間にかけてきて大丈夫、二十一時以降ならいつでも』
と返した。メールで、ありがとうだとか当たり障りのない返事が来ると思っていたので拍子抜けした。
もしかしたら、エースとして精神力が強くなったように見えていただけで、不安なのかもしれない。決勝という舞台を前にすくみ上ってしまっているのかもしれない。そんな光一郎に何ができるのか。もう舞台から降ろされた俺に、何ができるのか。
「青道で自分を変えたいんだ」
自信なさげに言うものの、はじめて光一郎が見せた強い意志にたじろぐ以外にできなかった。いままでと同じく、スカウトされた市大三高で野球をするものだと、考えていた。
やはり、光一郎も、ひとりの投手なのだ。自分の投球によってプレーが始まるポジション、ピッチャーの代表格であるエースを俺に預けている状況が、心のどこかで嫌だったのかもしれない。そんな光一郎の存在が、俺の心のどこかでチクリチクリと焦りを生んでいた。それが俺の強さになっていった、そう信じたい。
「かっちゃん」
「ひさしぶり」
マウンドで発する雄々しい声は鳴りを潜めて、控えめに囁かれたなつかしいあだ名に、なぜか安堵した。光一郎は、俺よりいい結果を残すことが確定しても、特別態度を変えたりするやつじゃない。光一郎の心根の優しさなんて俺が良く知っているはずなのに。そんな勘ぐりを声音に乗せないように、極めて冷静に返事をする。
「本当は、数日なんだけどね」
「俺らの人生のなかで、多分一番濃い時間だからなんだか長く感じるんだろな」
「うん、そんな気がする」
言葉を交わしたのは久しぶりだった。昔のままに気安く会話ができて安心した。
「かっちゃん、あのさ」
「なんだ」
「俺、エースとして、頑張ってるんだ」
「見てれば、わかる」
「よかった」
青道という、市大に劣らない野球の名門校で、競争率の高いピッチャー、そのトップであるエースの座を掴んだ光一郎は後輩たちをひっぱり、チームメイトに支えられ、名実ともにエースといっておかしくないのに、わざわざ部外者である俺に評価を委ねるのだろうか。
「何で俺に聞くんだよ」
「だって、かっちゃんはずっと俺にとって、あこがれだから」
「は?」
思わず強い口調で聞き返してしまった。電話口の向こうで息を飲む音がした。光一郎を委縮させたらいけないっていうのは長い付き合いだからわかっていたのに、聞き返さずにはいられなかった。
「だって」
そう光一郎が発した時、電話口の向こうが妙に騒がしくなった。カノジョか?!カノジョか???と口ぐちに言っているのが聞こえる。
「ごめん、切るね」
「おう」
電話は俺から切った。今や結果として俺を越えてしまった光一郎が、俺にあこがれていただなんて聞きたくなかった。大切な幼馴染のあこがれを綺麗なかたちで見せてあげたかった。なんて考えは傲慢なんだろうか。
◆
カノジョだカノジョだ、と騒ぐ奴らに発信履歴を見せて、やっと解放された。
これからもし、カノジョができたとしても、かっちゃんほど心を許せるかどうかわからない。弱い自分をさらけ出せるのは、信頼しているチームメイトにも言えないようなことを言えるのは、やっぱりかっちゃんなのかもしれない、と自分でも分かっている。そんなかっちゃんを乞える存在が、これから現れるとは、今のところ思えない。
自分の中だけで思っていればいいことを、思わず口走ってしまった。かっちゃんに、お前はよくやってるよ、と認められたかった。小学校、中学校、リトル、シニアとずっと俺の前を走って、俺が気弱なふるまいをしていじわるをされた時も、毅然としていじめっこへ立ち向かうかっちゃんはカッコよかった。ああなりたいと思わせるには十分すぎる、ヒーローだった。
でも、ヒーローに守られたままじゃ、俺はずっとかっちゃんの二番手。かっちゃんと肩を並べられるようには到底なれないだろう。俺はかっちゃんの背中を見ているんじゃなく、隣に立って、いつかは、追い抜いていきたい。
あんな強い口調のかっちゃんは久しぶりだ。小学校のとき、いじわるされたときに、嫌なことはちゃんと伝えろ!と怒られた時以来かもしれない。いや、シニアのとき、ミスを押し付けられそうになったとき、主張しろよ!と怒られたこともあった。嫌だったのかもしれない。急に、あこがれだなんて、負けてすぐ、気持ちの整理がついていないときに言われて。かっちゃんから嫌われてしまうことが怖くて、すぐメールで謝ろうと思ったが、たぶんかっちゃんのことだから、どうして謝るのか、なんて聞きそうだ。静かに、でも、強い目で「光一郎は、どうして俺に悪いことをした思ったんだ」って。
俺が、かっちゃんから嫌われたくなくて、なんて返したら呆れられてしまいそうだ。でも、今の俺にはかっちゃんが俺の近しいひとでなくなるのが怖いから、としか返せない。
悩んでいる間に、メールが来た。
『明日、頑張れ。早く寝ろよ』
もしかしたら、怒ってないのかもしれない。
今までぐちゃぐちゃ考えていたこと全部が吹き飛ばして、冷静さを取り戻す。俺は今、かっちゃんからも応援されている。
『ありがとう、頑張る おやすみ』
それだけの短いメールを送った。
本当は、これ以上やりようがないほど努力したから大丈夫なはずなのに不安で仕方ないって、言いたかった。中学の頃ならたぶん、夜遅くにかっちゃんの家に行って、懐中電灯でかっちゃんの部屋を照らして、降りてきてくれるのを待って言ってしまっていた。でも、もう俺はあのころとは違うから、かっちゃんの背中を追っているだけの、気弱な俺とは。
時間は十四時を回ったころだろうか、神宮球場に降り注ぐ全てを焼き尽くしてしまわんばかりの暑さが、マウンドの上の空気を焼く。
吸った酸素が熱い。御幸が構えるミットが黒々と鎮座するだけの空間に、バッターボックスに打者が入ることで崩される。ここまできたら、もうやることは一つ。自分ができることをする。それだけだ。
マウンドの上の光一郎が小さく見える。
決して頼りなくはないが、山岡からホームランを打たれたときの光一郎は、幼いころの弱気が顔を出した、そんな気がした。
平井への四球、御幸が三塁でさしてアウトをひとつ、梵への死球、神谷をサードファールフライで打ち取り、白河に四球で、ツーアウト満塁。自分がその状況下にいると想像するだけで血が凍りそうな緊張のなかに居る光一郎は、いま何を思って決勝のマウンドに居るのだろうか。
膝をついて、うずくまっている光一郎がテレビ中継に映し出された。
同じような目にあってしまったか、と息を飲んだが、続投するようだ。この気迫、上から目線であることは承知で、光一郎は強く、たくましく成長した。心配するチームメイトたちを制し、ニ、三度ボールを捏ね回して、御幸が構えるのを待っている。
だが、相手は原田。御幸の判断で、敬遠をするようだ。次の成宮で勝負ということか。
そして、選手交代。沢村へ。丹波の、甲子園にかける思いをすこしでも受け取ってくれただろうか。沢村のグローブにボールを押し込んで何やら言っている。信頼できる後輩に恵まれ、また沢村も光一郎を尊敬しているのだろう。沢村は素直に頷いて、光一郎の背中を見送った。
◆
マウンドの上で泣き崩れる川上を、どこか違う世界の出来事のように眺めていた。
喜び合う稲実のメンバーとは違う、俺に与えられた現実がじわじわ這い寄ってくる。それからどうやって寮にもどってきたか思い出せない。ただ茫然と、涙を流した。
高校に入ってから、初めてユニフォームを洗濯した。
泥は洗濯板で擦ってからじゃないと落ちないわよ、と何ともなさそうに言っている藤原は、冬の寒いときもこうして洗っていてくれたのだと思うと、また涙が目じりに滲んできてしまう。結果は、どんなに好ゲームだったとしても決勝敗退だ。藤原たちの献身に見合う結果を出せたのだろうか。
それに、いまはまだ深く考えることはできないが、この結果は確実に進路に影響するだろう。感傷に浸る暇もなく現実が押し寄せてくる。もう少しだけ、夢で終わってしまった夢に浸っていたい、それさえも許されないのか。自分たちもそうしてきたはずなのに、世代が交代してゆく。
練習が辛くて、自分を変えたいと思ったことは何度もある。けれど、はじめて、野球をしていることが苦しくなった。セレクションは一校だけ受けたが、練習に参加していない。あいつらにはまだ、甲子園に行ける可能性があって、俺にはない。単純な事実が重く胃に圧し掛かっているような気すらする。
このまえかっちゃんが言っていたとおり、時間の密度が違う。これから先の人生で、あれほどに没頭できる瞬間は来るのか、と考えて急に恐ろしくなった。夢が断たれるまでは楽しみでしょうがなかった明日が、将来が、叫びだしたいほど恐ろしいものになってしまうとは、あのときの自分は考えもしなかった。
遠慮がちに震えた携帯電話が、メールの受信を伝える。実家の親だったら電話をしてくるだろうし、誰がこのタイミングでメールをしてくるのだろう。
『光一郎、明日暇か? 市大の三年で江ノ島に行こうかって話をしているんだけど』
『うん 行く』
敗戦の傷をなめ合うわけでもなく、ただ、用件のみのメール。それが今は心地よい。
『わかった。じゃあ、10時ぐらいに町田まで来て』
OKの絵文字を送った。ひとつ予定ができるだけで、自分がこれから過ごす時間に区切りが生まれて、見通しが立つような気がする。明日、時間が有ったら参考書でも見てこよう。
朝方の混んでいる中央線上りには、部活に行くのだろう、重そうな用具を持った高校生がちらほら乗っていた。これからは自分たちの時代だ、と意気込んでいる姿がいまはまだ純粋に応援だけしていられない。ぼんやりと電車に乗っていると、いろいろな所にまで考えが及んでしまう。稲実の決勝は、今日。山岡は、原田は、と自分から長打を打った打者のことや、四球を選んだ打者などのこと。俺になくて、あいつにはあったものをもつ、成宮のこと。新宿を乗り過ごしそうになってあわてて小田急線に乗り換える。これで町田まで行ってしまえば、ここまで暗い気持ちになることもないんじゃないか、そんな淡い期待を胸に、電車の揺れに身体を任せた。
「わっ!丹波だ!おはよー!」
「丹波ー!でかいからわかりやすいな、た!ん!ばー!」
顔はよく知っているが名前を知らない、かっちゃんのチームメイトを紹介してもらった。深い付き合いではなかったのに、自然に会話を続けることができる。根がいいひと達ばかりなんだろう。俺もかっちゃんも、チームメイトに恵まれたのだと思うと、俺まで嬉しくなる。
「ほんとは、断られると思ってた」
「え?」
窓の外にちらほら海が見えるようになってきてから、かっちゃんは何でもなさそうにつぶやいた。
「俺らが中学最後の試合の後、光一郎泣いて泣いて」
「そ、それは中学の時の話じゃん」
「そうだな、すごかったよ、決勝でのピッチング」
「あ、ありがと」
かっちゃんはなぜか嬉しそうに唇の端を上げて窓の外に視線を逸らした。
「そういうところも」
「え?」
「前までの光一郎だったら、そんなことないよ、とかかっちゃんのほうが、とか言ってた」
「今まで一番良かった、って自分でも思ってるからかも」
「そっか」
よかった、と小さく囁くかっちゃんは、どこか脆く、後悔しているときの顔をしているような気がした。何も言えずに、かっちゃんがぼんやり見つめている海を一緒に眺めるふりをする以外、どうすればいいか選択肢すら思い浮かばなかった。
海にはしゃいでいる市大のみんなをぼんやり眺めながら、いろいろな話をした。すこしだけ生えてきた髪の毛が日に焼けてちくちく痛むのが気になって居たら、大前がさりげなく帽子をかぶせてくれた。
「お互い、悔いが残っちまったな」
このまま、野球を辞めたくない。それだけはかっちゃんも俺も、同じ気持ちだろう。
「そういえばさ、この前言ってたかっちゃんは俺の憧れ、って何」
茶化すときの顔をして、顔を覗き込んできたかっちゃんを軽く小突く。なにかうまいこと言って躱そうとしたが、語彙が追い付かない。それに、かっちゃんは俺がごまかそうとしたらわかってしまうだろう。
「あれはぁ、あのね」
「うん」
「言葉にしにくいなぁ……」
「ゆっくりでいいから、知りたい」
なんだか照れくさくて、かっちゃんの顔が見れない。
「ずっとね、背中ばっかり追いかけてたんだけど、ほんとは隣で、競いたかったんだ。近くに目指すハードルとか、こうなりたい!って目標が無かったら、俺はいまも弱虫のままだったと思うんだ」
黙って聞いてくれているかっちゃんの視線がチリチリ刺さるようで、顔が熱い。海にとびこんでしまいたい。し、とりとめがなくて分かりにくいと自分でも思う。俺らの夏は終わったとはいえ、まだ気温は三十度以上なのだから、暑くて当たり前だろう。
「だからさぁ……憧れなの」
「へ~ぇ」
口調はからかっている風だけれど、表情は優しくどこか照れている風でもある。長年そっとしまっておいた気持ちを馬鹿にされたら、と心の隅で疑っていたが、相手はかっちゃんだ。そんなことするはずがない。
「でもさ、結果として、光一郎の方がすごかったじゃん」
「そういう問題じゃないの」
釈然としない、といった表情で見てくるかっちゃんに、もうこの話は終わり、と言ってもなかなか解放してくれない。
「結果とかそういうんじゃないの、心の支えみたいなものなの」
これでほんとうに終わり!と言ってひざ下だけ海に入った。こんなに太陽が照りつけているのに、水は驚くほど冷たい。
「冷たくないか?」
「……冷たい」
「やっぱり」
沈黙ののち、かっちゃんは、そんな大層なものだったなんて、思いもしなかった。と呟いた。
「俺はさ、やっぱり心のどこかで光一郎が頼りないもの、って意識が抜けてなかったんだろうけど、全然そんなことなくて、でもなんでかな、それがなんとなく寂しい」
今までずっとかっちゃんの強い面しか見てこなかったぶん弱さを見せてくれるようになって、なんだかかっちゃんをもっと知れたような気がして、かっちゃんはきっと悩んでいるのに、なんとなく嬉しい。
「なに嬉しそうな顔してるんだよ」
「だって、なんか、初めて見た気がする。かっちゃんのそういうとこ」
「そうか?」
「そうだよ、ずっと、気を遣ってたのかもしれないけれど、弱いところ見たことなかったから、ずっと支えてくれていたから、今度は俺がなんとかできるかもしれないって」
「そっか、本当に、前とは違うんだな」
「う、うん、多分」
「そこはそうだよ!って断言するとこだろ」
そういうところは簡単に変わらないものなんだなぁ、って笑ってくれて安心した。かっちゃんが笑ってくれていると安心するのは多分小学生のころからずっとだから、今後も続いて行くような気がする。
「ねぇかっちゃん」
「なんだよ」
「これからもし、かっちゃんにカノジョができても、時々はこうして会ってね」
「何言ってるんだよ、あたりまえだろ?親友で幼馴染なんだ、どんなつまんない用事でもいい、繋がりはあるよ」
「そうだよね、安心した」
親友、という言葉にはどうにも胸が騒ぐ。こんなに信頼していて、大好きなのに、親友。親しい友達。じぶんの心の中のわだかまりは、そっとしまっておくべきのわだかまりだろう。俺は今まで、かっちゃんと競い合いたかったはずなのに、今はなんだろう。かっちゃんの何になりたいんだろうか。
「どうした、光一郎」
「ううん、なんでもない」
ほんとうになんでもないのか、と言うときの目が、この時ばかりは心苦しい。今までは、いじわるされてないか、とか、本当に辛くないのか、嫌じゃないのか、っていうときの目だった。けれど今は違うように感じる。かっちゃんは、俺の思ってること全部知っていて、浅ましい、俺は親友だと思っていたのに、軽蔑した。と言わんばかりの目をしているように見える。
「そっか、大前がかき氷食いたいって。お前もなんか食う?」
「うん、一緒に行く」
「だな」
「パピコ二人で分け合うとか、仲いいな」
「フツーそれカノジョとかとやるだろ」
何気ない一言が、じくりと刺さった。いつかかっちゃんが、カノジョと二人、分け合っていたら。
「そうか?俺いままでずっと光一郎と分けてたからカノジョとか想像つかない」
「へぇ~なんかいいなぁ、そういう信頼関係」
「だろ」
信頼が、今は嬉しい。
「どうした、なんか顔が怖いぞ」
「そうだぞー丹波ーお前ガタイ良いから表情暗くなるとめっちゃ怖いぞー」
「ご、ごめん」
「謝らなくてもいいだろー……チャーシューやるよ」
「俺はピーマンをやろう」
「大前、お前はピーマン嫌いなだけだろう、光一郎もピーマン嫌いだよ」
「もう大丈夫になったよ」
「偉いな丹波……こんなカッコいい幼馴染がずっといたんだろ丹波、こんなん惚れるよなぁ」
深いかかわりがあったわけではない人に見抜かれていて、ゾッとした。そんなにわかりやすかっただろうか。あいまいに流したけれど、流れてくれてよかった。確かにかっちゃんのことは大好きだけれど、どういう意味の好きなのか、自分でもよくわからないうちにさらけ出すことにならなくて安心した。
夕暮れの海は、皆の心のしみる何かがあるのだろう。
誰も何も言わずに佇んで、太陽が消え入るのをぼんやり眺めている。だれともなく、帰ろうか、と言って冷房が効いた電車にのそのそ乗った。片瀬江ノ島からの上り電車は思った以上に人が居なくて、感傷的になるにはもってこいの雰囲気だった。
「野球、したいなぁ」
「あぁ、またどこかで、戦ったり、一緒にプレーしたり、しようなぁ」
叶うか叶わないかは別にして、今だけは見えない未来に不確定の約束を投げ出していたい。ほんとはもっと、高校生として野球をしたかった。その思いだけは皆共通して持っているはずだ。
かっちゃんと、市大三のみんなは町田で降りていった。町田から新宿、新宿から国分寺まで一人で帰る。さっきまでが騒がしかったので寂しくて仕方がない。もう寄りかからないと決めたはずなのに、心のどこかでかっちゃん、と言っている気がする。
控えめに震えた携帯電話には、メール受信、かっちゃん。とある。そんなに都合の良いふうにできているのだろうか。
『さびしくてビービ―泣いてるんじゃないか』
『さびしかったけど、泣いてはない』
『そっか、うん、また今度、二人で会おうな』
『うん』
なんだか付き合っているみたいだ。
かっちゃんに大切に思われているってことが嬉しくて、信頼している人と会うことが楽しみで仕方がない。かっちゃんはやっぱりすごい、と一人合点する。
すっかり忘れるところだった受験の参考書を見て、家路につく。先輩たちが置いたままで卒業した参考書と同じものが欲しかったのでちょうどよかった。色とりどりの参考書の山が、なんとなく将来を考えなくちゃならないような気にさせてくる。
野球部の練習ばかりでところどころ赤点をとってしまった、わからないところがある。かっちゃん、とメールをすると間をおいて帰ってきた。
『ね、勉強会しようよ』
『いいじゃん、今週の土日、親出かけるし、勉強合宿だ』
『やった』
今までのかっちゃんちに泊まりに行くときの楽しみ、とはまた違う楽しみを感じている自分に驚いた。今までとは違う大好きのままでかっちゃんを見ているときのほうが、よかったのかもしれない。
根を詰めて受験勉強に向かってみると、同じ会場で、同じ問題を解いて結果を競わなければならないと思うと、青道の皆や、市大三の皆とまた、野球やろう、が随分遠く思えてしまう。大学に入らなくても、野球はできるじゃないか、と自分を甘やかす考えが出てきてしまう。
「光一郎は、何が苦手?」
「数学、公式は覚えてるはずなのに過去問になるとわからなくなる」
「うーん、昔、円の面積でもそんなこと言ってた気がする……公式を読んで覚えたつもりになってて実は基礎ができてないとか」
「かも……学校の問題集やりなおしてみる」
「だな」
「かっちゃんは苦手な科目ないの?」
「古文」
「いとをかし」
「うん、まぁ、えーと、そんな感じ……」
思ったことをすぐ口にして不思議がられてしまった。すっかり温くなった紅茶を一口飲んでまた問題に向かう。
◆
光一郎が何か言いたいときの話し方をしている。でかい図体を小さく丸めて、もくもくと数学の問題集にとりくむ姿は、中学のときと変わっていない。そのたびに俺の母親に背筋が曲がってる!と注意されていた気がする。
「かっちゃんは、不安じゃない?」
「何が」
「今まで、俺たちが野球をしてきた時間を勉強に費やしてきた人たちと、試験問題が一緒なんだよ?」
「野球と同じだよ、ウダウダ悩む前にやる」
「……やっぱり、かっちゃんはすごいや」
「すごくなんかない、光一郎よりすこしだけ屁理屈捏ねるのが上手いだけだよ」
「そういうんじゃない……」
塗装が剥げた何かのオマケのストラップをいじって、思考を纏めようとしている。
「俺は、お前が思ってるほどすごい人間じゃないよ」
自分から自分の価値を提示するのは勇気が要ることだけれど、仕方ない。光一郎が俺より高い目標を見るためには必要なことだろう。
「自分で、自分のことを見るのって勇気がいるし、後悔してるって口にするのも怖かったけれど、かっちゃんはそういうことができるじゃん、そこがすごい」
「……あぁ、そう?ありがとう」
熱弁されてしまい、しどろもどろに返すしかなかった。
集中していて気付かなかったが、そろそろ夕食の準備を考える時間になっていた。カレーの材料の買い置きと、サラダの材料の作り置きがあった気がする。栄養面を考えても、完璧ではないが、悪くもないだろう。
「光一郎は、じゃがいも剥いて」
指先には気をつけろと三度繰り返すと、素直に三度返事をしてくれた。具材を適当な大きさに切って、炒めて、ルーを入れればそれなりのものができる。それでもおいしいおいしいと食べる光一郎は、自分の掌のなかに居たような気がしていた光一郎と何一つ変わっていないような気がする。実際は、俺がそう思いたいだけで光一郎は、これからも俺の思い出の中の光一郎から変わってゆく。
過去にとらわれていて変われなかったのは、俺の方かもしれない。
食器を洗って、教科を変えてまた勉強。
俺も光一郎も単語を覚えるところから始める。光一郎が言っていたように、遅れをとっていることに間違いはない。が、焦って難しいものに取り組んでも時間がかかるばかりなので学校準拠のテキストからこなす。
「光一郎、先に風呂入って来いよ」
「風呂入ったらすぐ眠くなるから、かっちゃん先にして」
「わかった」
中学のころまでは、ガスがもったいないから二人で入っちゃいなさい、と入れられていた。精通の相談をされたときが一番困った思い出が甦ってきた。白いおしっこがでた、とぐずぐず泣く光一郎を一度ネタにしようとしたが、耳まで真赤になって、消え入りそうな声でごめん、と言わせてしまってから、そうもいかなくなった。
「上がったぞ、後は暗記にすればいいじゃん、入ってこいよ」
「うん」
今日一度も音を上げずに勉強していた。相当焦っているのだろう。上がったら、アイスあるぞと言うとすぐに席を立って風呂場に行った。消しカスを捨てて、勉強道具を片付けて暗記テキストをひっぱりだす。付箋や赤線だらけの単語帳をひとり眺めていると、焦りを感じる。やるしかない、とはわかっていても今まで野球しかしてこなかった自分が、などどマイナスのことばかり考えてしまう。光一郎には取りつく島もなく偉そうなことを言っておいてこれだ。光一郎が言う、すごい、がいつから辛くなってしまっていただろう。
「何味がいい?」
「イチゴ」
「うん、ほら」
「ありがと、かっちゃんはチョコミントでしょ」
「光一郎がキライなチョコミントだ」
「キライじゃないけど……辛い」
「わかったわかった、ほら、スプーンとって」
「うん」
一人ひとつのカップアイスが与えられるようになったのも中学を卒業してからだ。それまでは二人で一つ。それが当たり前だと思っていたが、世の中ではカノジョらと分け合うらしい。まだ恋愛のことは分からないけれど、光一郎ほど信頼して心許せる人に出会えるのか、と漠然と考える。ちまちまスプーンの先でアイスを掬う光一郎を横目に、光一郎に英単語帳を押し付ける。
「光一郎、歯ブラシ持ってきたか?」
「うん」
「えらい」
えへへ、随分可愛らしく笑う光一郎の頭を、いつもは高いところにあって届きようもない頭をショリ、ショリと独特の触感と音をたてて撫でる。
「随分生えてきたんだな」
「伸びたって言ってよ……」
「うんうん、伸びた。決勝戦のときはツルッツルだったな」
「うん」
こんなところでも時間の経過を実感してしまって嫌になる。布団を敷きに行こう、と促して和室に二つ布団を敷く。シーツを敷くときいつもシーツを高く放り投げて下に入って、遊んでいた。一度電灯にひっかかってからはしなくなった。
「電気消すぞ」
「うん」
「ちっちゃい電球つけておくか?」
「大丈夫」
「へぇ~……」
「もう、高校三年生だよ」
「だな」
大人しく布団にもぐりこんだ光一郎を見て、暗いところ狭いところ、怖いところが多かった光一郎もいなくなった、と自分に言い聞かせた。
「でもね、かっちゃん」
「何だ?」
「どんなに、いろんなことができるようになっても、見る世界が広くなってもね、俺はかっちゃんのこと、一番大切」
どんな顔で言っているのか、見たいようで、見たくない。冗談ぽく言っているのか、それとも真面目な顔しているのか、知ってしまったらいけないような気がした。布団の上からやさしく肩をなでで、おやすみ、とだけ言った。
溶き卵をご飯にかけて、醤油を適量。
調理という調理ができないのと、面倒なのを解決してくれる。昨日のことが気になって寝付きが悪かった。当の光一郎は醤油をいれすぎたらしく、顔を顰めながら食べている。確かに、この、親でも兄弟でもないのに、大切で、大好きなものを言葉にするとしたら、大切、という言葉が一番合っているような気がする。
「じゃあ、ありがとねかっちゃん」
「うん、また来いよ」
「うん、おばさんにもよろしく」
「わかった」
光一郎は、チームメイトのもとに帰っていった。少しだけ広くなったような気がする自室に一人、何気なく辞書で大切、と引いてみる。もっとも重要で、重んじられるさま。小難しいことを書いてあるが、俺が今まで光一郎に抱いている感情をさすのだろう。きっと。
この気持ちは変わっていない。何が変わっても、これが変わらなければいい。辞書を二人分の布団の上に放り投げて、大切、と口に出してみる。照れくささと、なにかを手放してしまったような焦りがジワリと染み入る。
今度は光一郎とキャッチボールでもしよう。その頃には俺たちの夢は思い出になっているだろうから、僻んだり、感傷的になったりすることもないだろう。
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多分再録だけど発行年不明
見送る季節 #ダイヤの #カップリング #御クリ
見送る季節 #ダイヤの #カップリング #御クリ
冬が去っていく。
洗顔のとき、水の温度がすこしだけ温むようになり、早朝にグラウンドに出ても霜が降りていることもなくなってきた。俺は先輩たちの進路を小耳にはさむようになってから、季節が去ってゆくと同時に、先輩たちも去っていくことが頭の隅を占めるようになった。
人間関係での未熟を、技術の未熟を忘れさせてくれる強烈な憧れにあてられてから早いものでもう、五年になる。憧れを追いかけていたら、憧れていた人がもっていたものは、そのひとと実力を争ったわけでもないのに、俺の手の中へ転がり込んできた。そこに自分の努力がなかったとは言わない。それこそ血がにじむような努力をしてきた。が、全盛期の輝きを追い続けてきた俺には、寂しさに似た苦さが残った。
五年の間に、俺からクリス先輩への感情は、憧れ以外のものも盛り込んで肥大し、今に至る。恋、恋とはどんなものだろうか。もしかしたらあの日クリス先輩に負かされてから、俺はずっとクリス先輩に恋をしていたのかもしれない。それほど強い気持ちでクリス先輩を求めてきた。
技術的な面ももちろん、人間としても完璧なようでいてどこか脆い、そんな陰のある強さを同じ場所で見ることが叶わなくなるかと思っただけで、生まれた年度がつくづく恨めしい。さっきからぱらぱらとめくっているスコアブックの内容が全く頭に入ってこない。クリス先輩が肩を壊す前の練習試合。東さんの一個上の代のピッチャーへ、クリス先輩がしたリードの内容が記してある。
「随分懐かしいものを」
本人の登場で思い切り驚いてしまった。対等な存在でありたいと、俗っぽい言い方をすれば、かっこいいところを見せたいと願えば願うほど、理想の対応からかけ離れてしまう。
「居るなら居るって言ってくれればいいじゃないですか」
「熱心に見ていたから、邪魔するのも悪いかと思って」
「これ、先輩がやったリードなんだからいろいろ教えてくださいよ」
無意識ににじみでた、苦しげな笑みを見逃さなかった。
俺が思っているほど強い人ではないのにいつもクリス先輩を等身大以上に見積もってしまいたくなる。
大人びているようでいて、ほんのすこし身の回りのひとたちより達観せざるを得なかっただけだ。
「このときは、まだ怪我していないころだな」
「俺が先輩にあこがれて青道へ進学決めたころの試合なんで、俺にとっても思い出深いんです」
「そうか……」
そういったきり黙りきってしまった先輩の表情を伺えない。もうすぐ卒業なのさみしいので、思い出話がしたいんですと素直に言ってしまえばよかったのに、真意を悟られたくなかったがために、クリス先輩の帰らない思い出を掘り返す必要はなかったのかもしれない。
「俺の怪我がなかったら、正捕手争いを宮内と、俺とお前と小野とでしていたんんだろうな」
「それはもう、きっと」
先輩が自分の怪我に関して、もし、を言うのは珍しい。それを仲間に、特に同年代に吐き出したところで雰囲気を悪くするのが目に見えているからだろう。それに、哲さんや丹波さんは、俺が気づいていればと自分に原因を見つけようとするタイプだからなおさら言いにくいのだろう。
自分を意識的に選んでそういう話を振ったのかはわからないが、心の距離が、以前より縮んでいることを先輩が感じていたのだとしたら、と都合の良い解釈をする。
「先輩が卒業したら、追いかける人がいなくなってしまって」
さびしいです、と続けるつもりだったが、卒業、ここからいなくなって別の場所で生活する、と頭によぎっただけで鼻の奥がツンと痛んでしまう。そんなに涙もろい性質ではないのに。
「お前が追いかけてきたのは俺だったのか?」
「え?」
俺にとっては何をいまさら、と言いたいところだか憧れていたのは俺の勝手な行動ともいえる。
「お前は甲子園のことしか追いかけていないかとおもっていた」
「それは、そうですけど」
どう違うかと問われると答えに詰まるが、甲子園というものは野球で頂点を目指すものにとっての目指すべき偶像であって、クリス先輩は、人間関係も、だれにも言うつもりは無いがすこしだけ寂しかった家庭でのことも全てつぶしてしまうくらい強い光だった。野球にだけ打ち込んでいていいんだ、と思わせてくれた。
「うまく言えないですけど、もっと先輩はとくべつです」
言ってからなんて恥ずかしいことを言ったのか理解した。先輩も驚いて苦笑しているし。特別、という言葉で飾れないほど、それでも崇拝と呼ぶにはキレイな感情では塗れない。クリス先輩の前では、自分が一番わからない気持ちでいっぱいになる。
「そんなにか?」
「そんなにです」
「お前に俺が、なにか残せたってことかな」
「そんな、遠くへ行っちゃうみたいなこと言わないでくださいよ」
「そうだな」
口先だけ、遠くに行かないように言ってはみるが、実際、俺は明日も明後日も、野球というスポーツがある限り練習漬けの毎日で、先輩には進学先での野球があって。同じ世界で生きているようでいて、違う道を歩き出すことは痛いほどわかっている。
野球で繋がった縁が、野球によって緩んでいくような気がして、焦りを生んでいるんだろう。
「俺は」
「なんだ?」
俺がどんな目で先輩を見ているか知る由もない先輩が、後輩がなにか言いよどんでいるのを心配して顔を覗き込んでくる。それだけの行動なのに、衝動的に、いままで我慢に我慢を重ねて築き上げてきた関係を壊してでも、手に入れたい、と頭によぎった。
「……先輩、卒業しても試合とか練習見に来てくださいね」
「ああ、行くつもりだ」
誰かに想いを伝えるということは自分の弱みをさらけだすことだと、実感した。泣いて縋って好きです寂しいですと言えたらどんなに俺の精神が救われるだろうか。
◆
号泣すると思っていた奴らが意外と泣いていなかったので、一層泣きづらくなった。笑顔で見送りたい、心配要りません、甲子園で頑張ってきますと言って、安心して去ってほしかった。
と、思っていながらどうにもこらえきれそうにない。
「御幸」
声を聴いただけで涙腺がゆるむ。あこがれて、でも届かないうちに手からこぼれ落ちていった先輩が、また、手の届かないところへ行ってしまう。
「先輩、ご卒業おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう、お前、怪我ちゃんと治せよ」
俺を見てきたんだろう、なら、わかるよな。と他の先輩に聞こえないように。
「はい」
「うん、いい返事だ」
沢村にするように、一人の後輩の面倒を見る先輩として去ろうとしている。
「先輩」
「なんだ?」
「俺、先輩がもう一度野球しているところ、見たいです」
「見ているだけでいいのか?」
いたずらっぽく笑って、俺の髪についた桜の花びらをつまんでいる。花笛がしたいのか、指先でつまんで引っ張って、息を吹きかけて。
「……随分汚い音がでましたね」
「そうだな」
至極残念そうに花びらを捨てて、向き直る。捨ててしまったのがもったいなく思えて、つい目が花びらを追ってしまった。
「御幸が怪我したって聞いて」
思わず身が竦んだ。一番言われたくないことを、一番言われたくない人に言われてしまった。
「御幸は俺から何を学んだんだ、って。腹立たしいくらい心配だったよ。柄じゃなく、説教までしてしまったくらいには」
「……すみません」
「いや、謝ることはない。現に俺が御幸の状況だったら迷わず試合に出るからな」
どこか本題をぼかしているような印象を受ける。いやに饒舌なのが怪しい。
「先輩、どうかしましたか」
「お前だけは誤魔化せそうにないな」
お前だけは、その言葉がどれだけ俺をよろこばせるか、先輩は絶対に知らない。
「お前は俺を高く評価してくれていたが、なにか、後輩に残せたのか、と思って」
らしくない弱気な声で、怪我をしてぼろぼろだったときの声で囁く。
青道高校野球部という組織のなかで、選手としての道を選んだことで浮いた存在になってしまったクリス先輩に、どこがすごいんだ、と心ない言葉をつぶやく奴がいなかったわけではない。
そのたびにそいつを軽蔑してきたが、先輩はそうもいかなかったのだろう。クリス先輩が心から信頼していた組織からの言葉は、確実に先輩のなかに溜まっていったのだろう。
「俺は、ずっと先輩のこと見てきましたから。怪我する前の、誰もよせつけないくらい守ってもよし、打ってもよし、のときも、選手としては難しいって言われてから、それでも選手としての自分を諦めなかったときとか……後輩って、口でどうこう言うより、その人の背中を見て育っているもんだと思います。っていうか、俺はそうです」
思わず熱弁してしまった。反応が怖くて目を逸らした。純さんがボロボロ泣きながら読んでる、と茶化されながらも読んでいた漫画なんかよりずっとクサい。
「御幸が、誰かについてそんなに語るなんて、はじめて聞いたかもしれない」
無邪気に喜んで、表情をほころばせる先輩。誰にでもそうするわけじゃないんですよ、とまで言わないと、自分の気持ちを表したことにならないらしい。
「先輩という目標に、憧れていたから俺は強くなれたんです」
「俺は、御幸を通して青道に貢献できたってことかな」
「俺だけじゃない、後輩キャッチャー、小野も、狩場も、先輩を見て育ちましたし、これから入ってくるキャッチャーも、俺らのなかにある先輩を見て育ちます。それに、ピッチャー陣も」
俺が言葉を選ぶ余裕がないのを、笑い飛ばすわけでもなく、俺の言葉を待っていてくれる。
「買いかぶり過ぎじゃないか?」
「絶対に違います」
「わかったから、そんなにむきになるな」
喉の奥で笑って、俺の肩を叩く。偶然にも、先輩が怪我したのと同じ肩。
「でも、ありがとう御幸。俺はお前の先輩でよかった」
「先輩、ってだけじゃない、こんどは、ライバルとして」
一瞬、驚いたように目を見開いて、まるで余裕たっぷりの、悪い大人のような顔をして笑って、それは、たのしみだなと返してくれた。さっきの言葉には、先輩後輩としてだけじゃなく、もっと近くて、特別な関係にと思っているのだけど、今、言うべきだろうか。先輩の記念日に、後輩から好きだと言われて戸惑わないはずがないし、いやな気持にさせたら、と悪い方へ悪い方へ考えてしまう。
「御幸、なんて顔しているんだ、できれば笑顔で送って」
「できません」
「え?」
まさか否定されるとは思っていなかったらしく、唖然、を表に出してきた。
「……ハンカチ要るか?」
「持ってます」
最悪のタイミングで涙を堪えきれなくなってしまった。こんなはずじゃなかった。笑顔で、先輩、お元気で、って言ってこっそり想っている予定だった。
「イケメン捕手、が台無しだな」
「なんですかそれ」
「クラスの子が言っていた」
恥ずかしいやら居たたまれないやらで、穴があったら入りたい、ここから逃げたいと強く思った。先輩がうれしそうに、御幸が泣いてくれるほどだとは思っていなかった、だとか言いながら桜の花びらを捕まえようとしていて、泣き顔を見ないでおいてくれているのが唯一の救いだ。
「顔はどうあれ、秋大会のときの御幸はかっこよかったぞ」
「え……?」
「チームの柱として、しっかりやっているじゃないか、って」
また涙があふれてきてしまった。認められたくて、憧れてきた存在に褒められた嬉しさと同時に、遠いところに行ってしまうのだと実感してしまった。
「でも、ごめんなさい」
「どこに謝る必要が……?」
「買いかぶっているのは先輩のほうです」
「珍しいな、御幸が謙遜なんて」
「俺、先輩がほかのチームメイトとかを想う好きとは、また違う意味で、」
◆
ぐすぐすと鼻をすする音がどこからともなく聞こえてくる教室から、写真を撮ろう、ボタンを、という声からなんとか潜り抜けてグラウンドへ向かう。もうみんな揃っていて、後輩に囲まれている。
純が気づいて、ボタンがすべて無くなったブレザーをつまんで笑う。
「やっぱり、毟られてやがんな。ボタン」
「そういうお前も、第二ボタンが」
「まぁなーーー!俺の雄姿を見逃さなかったってわけだ」
「そうだな」
ストレートに褒められると照れてしまうようで、理不尽に小突かれてよろめいた。
「クリスも野球、続けるんだよな」
「ああ」
人懐っこい笑みをうかべて、またクリスが野球しているとこ見てぇな、としみじみ言われてしまったら、いよいよ卒業なんだと今更実感する。
「食堂に置いてあるスコアブック、取ってくる」
「おー、このあとメシ食いに行くって」
「わかった、すぐ行く」
「ん」
証書が入っている丸筒でチャンバラをはじめた純の後頭部を亮介がたたく。いつもの光景を懐かしむ日がいつかやってくる、進行している時はいつも気づかない。
御幸に、よくできた後輩でありながら、強く俺を慕ってくれた選手と話しておきたい、と思っていたら一人食堂でスコアブックをめくっていた。
「随分懐かしいものを……」
泣きながら見るようなものでもないのに、なぜか目じりが潤んでいる。先輩から泣いていることを指摘されるのも気分悪くなるだろうから黙っている。
甲子園出場という球児たちの夢をかなえて、これから上へ上へと勝ち上がって行くことを目標にする御幸から、何か悩んでいるというか言いよどんでいるような印象を受ける。いまだ知らない舞台へと歩んでいく不安があるのだろうか。
と、思ったらあまりに予想外のことでどういうべきか、考えが追い付かない。
「す、好き……?それは、選手としてのあこがれ、とかそういうものとは違う……のか?」
「ごめんなさい、いま言うべきじゃないかもしれないとは思ったんですけれど、違います」
いままでの常識の外側のできごとだが、不思議と嫌悪感は湧かなかった。むしろ信頼している後輩からの一番の好意が心地よかった。ライバルとして高めあいながらも近しい関係で居られる提案が後輩の精一杯の勇気が新しい道を示してくれた。
「耳まで赤い」
「泣いていましたから」
口をとがらせて目を逸らしてしまった御幸に向き直り、先輩後輩でありライバルであり、いちばん近いところで生きていきたい旨をうまくまとめて伝える。
目を見開いたままもう一筋涙を頬につたわせた御幸が可愛くて仕方がなくて。傍でずっと見守りたいのと同時によきライバルでありたくて。これを恋と呼ばないのならば、なにを恋と呼ぶのだろう。
===
2015年春コミの再録
冬が去っていく。
洗顔のとき、水の温度がすこしだけ温むようになり、早朝にグラウンドに出ても霜が降りていることもなくなってきた。俺は先輩たちの進路を小耳にはさむようになってから、季節が去ってゆくと同時に、先輩たちも去っていくことが頭の隅を占めるようになった。
人間関係での未熟を、技術の未熟を忘れさせてくれる強烈な憧れにあてられてから早いものでもう、五年になる。憧れを追いかけていたら、憧れていた人がもっていたものは、そのひとと実力を争ったわけでもないのに、俺の手の中へ転がり込んできた。そこに自分の努力がなかったとは言わない。それこそ血がにじむような努力をしてきた。が、全盛期の輝きを追い続けてきた俺には、寂しさに似た苦さが残った。
五年の間に、俺からクリス先輩への感情は、憧れ以外のものも盛り込んで肥大し、今に至る。恋、恋とはどんなものだろうか。もしかしたらあの日クリス先輩に負かされてから、俺はずっとクリス先輩に恋をしていたのかもしれない。それほど強い気持ちでクリス先輩を求めてきた。
技術的な面ももちろん、人間としても完璧なようでいてどこか脆い、そんな陰のある強さを同じ場所で見ることが叶わなくなるかと思っただけで、生まれた年度がつくづく恨めしい。さっきからぱらぱらとめくっているスコアブックの内容が全く頭に入ってこない。クリス先輩が肩を壊す前の練習試合。東さんの一個上の代のピッチャーへ、クリス先輩がしたリードの内容が記してある。
「随分懐かしいものを」
本人の登場で思い切り驚いてしまった。対等な存在でありたいと、俗っぽい言い方をすれば、かっこいいところを見せたいと願えば願うほど、理想の対応からかけ離れてしまう。
「居るなら居るって言ってくれればいいじゃないですか」
「熱心に見ていたから、邪魔するのも悪いかと思って」
「これ、先輩がやったリードなんだからいろいろ教えてくださいよ」
無意識ににじみでた、苦しげな笑みを見逃さなかった。
俺が思っているほど強い人ではないのにいつもクリス先輩を等身大以上に見積もってしまいたくなる。
大人びているようでいて、ほんのすこし身の回りのひとたちより達観せざるを得なかっただけだ。
「このときは、まだ怪我していないころだな」
「俺が先輩にあこがれて青道へ進学決めたころの試合なんで、俺にとっても思い出深いんです」
「そうか……」
そういったきり黙りきってしまった先輩の表情を伺えない。もうすぐ卒業なのさみしいので、思い出話がしたいんですと素直に言ってしまえばよかったのに、真意を悟られたくなかったがために、クリス先輩の帰らない思い出を掘り返す必要はなかったのかもしれない。
「俺の怪我がなかったら、正捕手争いを宮内と、俺とお前と小野とでしていたんんだろうな」
「それはもう、きっと」
先輩が自分の怪我に関して、もし、を言うのは珍しい。それを仲間に、特に同年代に吐き出したところで雰囲気を悪くするのが目に見えているからだろう。それに、哲さんや丹波さんは、俺が気づいていればと自分に原因を見つけようとするタイプだからなおさら言いにくいのだろう。
自分を意識的に選んでそういう話を振ったのかはわからないが、心の距離が、以前より縮んでいることを先輩が感じていたのだとしたら、と都合の良い解釈をする。
「先輩が卒業したら、追いかける人がいなくなってしまって」
さびしいです、と続けるつもりだったが、卒業、ここからいなくなって別の場所で生活する、と頭によぎっただけで鼻の奥がツンと痛んでしまう。そんなに涙もろい性質ではないのに。
「お前が追いかけてきたのは俺だったのか?」
「え?」
俺にとっては何をいまさら、と言いたいところだか憧れていたのは俺の勝手な行動ともいえる。
「お前は甲子園のことしか追いかけていないかとおもっていた」
「それは、そうですけど」
どう違うかと問われると答えに詰まるが、甲子園というものは野球で頂点を目指すものにとっての目指すべき偶像であって、クリス先輩は、人間関係も、だれにも言うつもりは無いがすこしだけ寂しかった家庭でのことも全てつぶしてしまうくらい強い光だった。野球にだけ打ち込んでいていいんだ、と思わせてくれた。
「うまく言えないですけど、もっと先輩はとくべつです」
言ってからなんて恥ずかしいことを言ったのか理解した。先輩も驚いて苦笑しているし。特別、という言葉で飾れないほど、それでも崇拝と呼ぶにはキレイな感情では塗れない。クリス先輩の前では、自分が一番わからない気持ちでいっぱいになる。
「そんなにか?」
「そんなにです」
「お前に俺が、なにか残せたってことかな」
「そんな、遠くへ行っちゃうみたいなこと言わないでくださいよ」
「そうだな」
口先だけ、遠くに行かないように言ってはみるが、実際、俺は明日も明後日も、野球というスポーツがある限り練習漬けの毎日で、先輩には進学先での野球があって。同じ世界で生きているようでいて、違う道を歩き出すことは痛いほどわかっている。
野球で繋がった縁が、野球によって緩んでいくような気がして、焦りを生んでいるんだろう。
「俺は」
「なんだ?」
俺がどんな目で先輩を見ているか知る由もない先輩が、後輩がなにか言いよどんでいるのを心配して顔を覗き込んでくる。それだけの行動なのに、衝動的に、いままで我慢に我慢を重ねて築き上げてきた関係を壊してでも、手に入れたい、と頭によぎった。
「……先輩、卒業しても試合とか練習見に来てくださいね」
「ああ、行くつもりだ」
誰かに想いを伝えるということは自分の弱みをさらけだすことだと、実感した。泣いて縋って好きです寂しいですと言えたらどんなに俺の精神が救われるだろうか。
◆
号泣すると思っていた奴らが意外と泣いていなかったので、一層泣きづらくなった。笑顔で見送りたい、心配要りません、甲子園で頑張ってきますと言って、安心して去ってほしかった。
と、思っていながらどうにもこらえきれそうにない。
「御幸」
声を聴いただけで涙腺がゆるむ。あこがれて、でも届かないうちに手からこぼれ落ちていった先輩が、また、手の届かないところへ行ってしまう。
「先輩、ご卒業おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう、お前、怪我ちゃんと治せよ」
俺を見てきたんだろう、なら、わかるよな。と他の先輩に聞こえないように。
「はい」
「うん、いい返事だ」
沢村にするように、一人の後輩の面倒を見る先輩として去ろうとしている。
「先輩」
「なんだ?」
「俺、先輩がもう一度野球しているところ、見たいです」
「見ているだけでいいのか?」
いたずらっぽく笑って、俺の髪についた桜の花びらをつまんでいる。花笛がしたいのか、指先でつまんで引っ張って、息を吹きかけて。
「……随分汚い音がでましたね」
「そうだな」
至極残念そうに花びらを捨てて、向き直る。捨ててしまったのがもったいなく思えて、つい目が花びらを追ってしまった。
「御幸が怪我したって聞いて」
思わず身が竦んだ。一番言われたくないことを、一番言われたくない人に言われてしまった。
「御幸は俺から何を学んだんだ、って。腹立たしいくらい心配だったよ。柄じゃなく、説教までしてしまったくらいには」
「……すみません」
「いや、謝ることはない。現に俺が御幸の状況だったら迷わず試合に出るからな」
どこか本題をぼかしているような印象を受ける。いやに饒舌なのが怪しい。
「先輩、どうかしましたか」
「お前だけは誤魔化せそうにないな」
お前だけは、その言葉がどれだけ俺をよろこばせるか、先輩は絶対に知らない。
「お前は俺を高く評価してくれていたが、なにか、後輩に残せたのか、と思って」
らしくない弱気な声で、怪我をしてぼろぼろだったときの声で囁く。
青道高校野球部という組織のなかで、選手としての道を選んだことで浮いた存在になってしまったクリス先輩に、どこがすごいんだ、と心ない言葉をつぶやく奴がいなかったわけではない。
そのたびにそいつを軽蔑してきたが、先輩はそうもいかなかったのだろう。クリス先輩が心から信頼していた組織からの言葉は、確実に先輩のなかに溜まっていったのだろう。
「俺は、ずっと先輩のこと見てきましたから。怪我する前の、誰もよせつけないくらい守ってもよし、打ってもよし、のときも、選手としては難しいって言われてから、それでも選手としての自分を諦めなかったときとか……後輩って、口でどうこう言うより、その人の背中を見て育っているもんだと思います。っていうか、俺はそうです」
思わず熱弁してしまった。反応が怖くて目を逸らした。純さんがボロボロ泣きながら読んでる、と茶化されながらも読んでいた漫画なんかよりずっとクサい。
「御幸が、誰かについてそんなに語るなんて、はじめて聞いたかもしれない」
無邪気に喜んで、表情をほころばせる先輩。誰にでもそうするわけじゃないんですよ、とまで言わないと、自分の気持ちを表したことにならないらしい。
「先輩という目標に、憧れていたから俺は強くなれたんです」
「俺は、御幸を通して青道に貢献できたってことかな」
「俺だけじゃない、後輩キャッチャー、小野も、狩場も、先輩を見て育ちましたし、これから入ってくるキャッチャーも、俺らのなかにある先輩を見て育ちます。それに、ピッチャー陣も」
俺が言葉を選ぶ余裕がないのを、笑い飛ばすわけでもなく、俺の言葉を待っていてくれる。
「買いかぶり過ぎじゃないか?」
「絶対に違います」
「わかったから、そんなにむきになるな」
喉の奥で笑って、俺の肩を叩く。偶然にも、先輩が怪我したのと同じ肩。
「でも、ありがとう御幸。俺はお前の先輩でよかった」
「先輩、ってだけじゃない、こんどは、ライバルとして」
一瞬、驚いたように目を見開いて、まるで余裕たっぷりの、悪い大人のような顔をして笑って、それは、たのしみだなと返してくれた。さっきの言葉には、先輩後輩としてだけじゃなく、もっと近くて、特別な関係にと思っているのだけど、今、言うべきだろうか。先輩の記念日に、後輩から好きだと言われて戸惑わないはずがないし、いやな気持にさせたら、と悪い方へ悪い方へ考えてしまう。
「御幸、なんて顔しているんだ、できれば笑顔で送って」
「できません」
「え?」
まさか否定されるとは思っていなかったらしく、唖然、を表に出してきた。
「……ハンカチ要るか?」
「持ってます」
最悪のタイミングで涙を堪えきれなくなってしまった。こんなはずじゃなかった。笑顔で、先輩、お元気で、って言ってこっそり想っている予定だった。
「イケメン捕手、が台無しだな」
「なんですかそれ」
「クラスの子が言っていた」
恥ずかしいやら居たたまれないやらで、穴があったら入りたい、ここから逃げたいと強く思った。先輩がうれしそうに、御幸が泣いてくれるほどだとは思っていなかった、だとか言いながら桜の花びらを捕まえようとしていて、泣き顔を見ないでおいてくれているのが唯一の救いだ。
「顔はどうあれ、秋大会のときの御幸はかっこよかったぞ」
「え……?」
「チームの柱として、しっかりやっているじゃないか、って」
また涙があふれてきてしまった。認められたくて、憧れてきた存在に褒められた嬉しさと同時に、遠いところに行ってしまうのだと実感してしまった。
「でも、ごめんなさい」
「どこに謝る必要が……?」
「買いかぶっているのは先輩のほうです」
「珍しいな、御幸が謙遜なんて」
「俺、先輩がほかのチームメイトとかを想う好きとは、また違う意味で、」
◆
ぐすぐすと鼻をすする音がどこからともなく聞こえてくる教室から、写真を撮ろう、ボタンを、という声からなんとか潜り抜けてグラウンドへ向かう。もうみんな揃っていて、後輩に囲まれている。
純が気づいて、ボタンがすべて無くなったブレザーをつまんで笑う。
「やっぱり、毟られてやがんな。ボタン」
「そういうお前も、第二ボタンが」
「まぁなーーー!俺の雄姿を見逃さなかったってわけだ」
「そうだな」
ストレートに褒められると照れてしまうようで、理不尽に小突かれてよろめいた。
「クリスも野球、続けるんだよな」
「ああ」
人懐っこい笑みをうかべて、またクリスが野球しているとこ見てぇな、としみじみ言われてしまったら、いよいよ卒業なんだと今更実感する。
「食堂に置いてあるスコアブック、取ってくる」
「おー、このあとメシ食いに行くって」
「わかった、すぐ行く」
「ん」
証書が入っている丸筒でチャンバラをはじめた純の後頭部を亮介がたたく。いつもの光景を懐かしむ日がいつかやってくる、進行している時はいつも気づかない。
御幸に、よくできた後輩でありながら、強く俺を慕ってくれた選手と話しておきたい、と思っていたら一人食堂でスコアブックをめくっていた。
「随分懐かしいものを……」
泣きながら見るようなものでもないのに、なぜか目じりが潤んでいる。先輩から泣いていることを指摘されるのも気分悪くなるだろうから黙っている。
甲子園出場という球児たちの夢をかなえて、これから上へ上へと勝ち上がって行くことを目標にする御幸から、何か悩んでいるというか言いよどんでいるような印象を受ける。いまだ知らない舞台へと歩んでいく不安があるのだろうか。
と、思ったらあまりに予想外のことでどういうべきか、考えが追い付かない。
「す、好き……?それは、選手としてのあこがれ、とかそういうものとは違う……のか?」
「ごめんなさい、いま言うべきじゃないかもしれないとは思ったんですけれど、違います」
いままでの常識の外側のできごとだが、不思議と嫌悪感は湧かなかった。むしろ信頼している後輩からの一番の好意が心地よかった。ライバルとして高めあいながらも近しい関係で居られる提案が後輩の精一杯の勇気が新しい道を示してくれた。
「耳まで赤い」
「泣いていましたから」
口をとがらせて目を逸らしてしまった御幸に向き直り、先輩後輩でありライバルであり、いちばん近いところで生きていきたい旨をうまくまとめて伝える。
目を見開いたままもう一筋涙を頬につたわせた御幸が可愛くて仕方がなくて。傍でずっと見守りたいのと同時によきライバルでありたくて。これを恋と呼ばないのならば、なにを恋と呼ぶのだろう。
===
2015年春コミの再録
Love you #ダイヤの #カップリング #御クリ
Love you #ダイヤの #カップリング #御クリ
◇Love you
「哲さん、ずいぶんノックが上手くなりましたね」
「だな」
今の青道の監督は哲さんになった。俺たちを指導してくれた片岡鉄心監督は他校で教鞭をとりつつ監督業に精を出している。同じ地区で、師弟対決。他所から見れば面白いカードなのかもしれないが、見守る側は気が気でない。哲さんが監督に就任してすぐの数試合は、あまりにノックが上手くいかないものだから途中からコーチとして手伝っている増子さんに代わっていたが、今は現役時代を彷彿とさせるの好打者っぷりを披露している。師の前でみっともないところは見せられない。そんな気概が見て取れる。
現役選手だったころの血が騒ぐ。この歓声、ボールがミットに収まる乾いた音、パットが球を弾く音。土の匂い。かつての先輩と、監督たちが手塩にかけて育てた選手たちがしのぎを削り合うこの空間、目の色を変えて見入ってしまう。
俺たちを指導しているころ、片岡監督は監督としては年若い部類だった。それが今となってはメディアに老将、と実に失礼なラベルを付けて呼ばれている。俺たちがもういい年なのだから、当たり前と言えば当たり前だが、こんなところでも年月の流れを感じてしまう。ふと目線を落とした先にあったクリス先輩の手の甲にも、シミや皺が目立つようになった。その過程を目の前で見届けることができているのだから、幸福と思うべきだろうか。年月の流れは必ずしも悔いばかりを生んでいるわけではない。愛する人の人生を傍で見守り続ける幸せもきっとある。
「どうした、目がうつろだぞ、熱中症か」
「大丈夫です」
クリス先輩お手製の味の薄いスポーツドリンクを差し出されるままに口をつけて、球場のすり鉢の底で、かつての俺たちと同じように駆け回る選手たちを見遣る。遠いところに来てしまった、いや、ながれゆく時と共に行かざるを得なかった。たとえどんな結果を出していようと、過去は美しく、俺たちにとっての過去を現在として生きる選手たちが羨ましい。現役のころは考えることもなかったことだ。
けれどそれが、嫌な気持ちはしない。失うことばかりではなかったから。
青道の選手が決勝点となるであろうヒットを打ち、ガッツポーズをしてベンチに戻る。哲さんは何やら声をかけている。
「これで決まりましたかね」
「御幸がそんなことを言うとな……最後まで何があるかわからないのが野球だろう」
「そうでしたね」
その先輩の言葉通り、その回ですぐ塁に走者が溜まってゆく。一打逆転、サヨナラのチャンスと言うところで出てきた青年。緊張でか、表情が固いがスイングに迷いはない。この状況を楽しめる強さがあるということだろうか。
何度見ても、この光景に慣れない。
青道はすんでのところで夢を断たれ、対する片岡監督のチームは地区代表として甲子園の土を踏むことができる。選手たちと一緒に涙を流す哲さんがあの日バスの中の哲さんとダブってしまう。こうして彼らの季節は一足早く進んでしまった。
哲さんと、増子さん。そして片岡監督に挨拶をして帰路につく。先輩はずっと押し黙ったままだ。毎年このまま、外食をしてから帰宅が慣習になっているので、クリス先輩もそのつもりなのだろう。行きつけの洋食店への道を辿っている。
「すごかったな、試合」
セットのデザート、チョコアイスを大事に大事に食べながら、先輩はやっと試合について言及した。
「ええ、本当に、やっぱりなんだか、高校野球は特別ですね、何か力がある」
「そうだな、この歳になってもうまく言葉にできないが、その通りだ」
それっきり先輩は黙ってちびちびアイスを削る作業に戻った。黙っているときは話しかけても考えている途中だから生返事だけが返ってきて大して覚えていない。共に生きた十九年の歳月は伊達じゃない。
「御幸と出会ってからのことを思い出してたんだ」
「なんだか照れるなぁ」
「それがなぁ、まさかなぁ」
「こんなにスキになっちゃった?ですか?」
「まぁ……そう、うん、そうだな」
いつもははいはい、といったふうに流されるのに、今日は素直に返事をしてくれた。少し驚いて少しだけ表情を見遣った。どこか寂しそうな、大好きな野球の試合を見に行ったあとの表情にしては曇っている、というか。
「この歳になっても、自分の感情に蹴りがつかないものなんだなぁ、と思って」
「え?」
実はキライだった、なんて言われるはずがないけれど話の脈を辿ると背筋が寒くなる。
「高校野球に、悔いを残していないかと言うと、素直に肯定できない、が、嫌な思い出では決してない……難しいな」
「そうですね……」
昼間の熱気が嘘のようだ。さや、と風の音が先輩と俺の間を通り過ぎてゆく。俺だってこんなとき、先輩が悩んでいるときに気の利いた一言も言えないのがもどかしくて、先輩の指をひとさしゆびで絡めとる。
「どうした、手でもつなぐか?」
「違うけど、違くないです繋ぎます」
棚からぼたもち。
少しだけ汗ばんだ先輩の指を自分の指でなぞる。現役時代のときよりはずいぶん大人しくなったけれど、それでも、グリップを握っている人の指をしている。大好きな人と、想いが通じてこうして長い間一緒に生きることができて。幸せ、という言葉に形がなくてよかった。
「べつに、無理に肯定する必要はないと思いますよ」
「冴えてるな」
「でしょう」
この歳になっても、この人に褒められるのは無条件で嬉しい。頬が必要以上ゆるんでしまい、軽くつねってくる。
「この歳になっても、自分の気持ちが一番わからないな」
美しい、という形容詞がぴったりはまるクリス先輩は、悩んでいてもその顔の造形の質を落とすことはない。忙しなく俺の指の爪やら関節やらをいじる先輩は、暑いだろうに、しっかり手を握って離さない。
「御幸と一緒に居るのは、心地いい」
「そりゃあ、よかったです」
「御幸はどうなんだ?」
「そりぁあ、もう、毎日先輩に付けたキスマーク数えながら目覚める朝は最高ですよ」
「……言うようになったな」
ふて腐れたように目を逸らしても手は離さない。
「人生は有限ですから、少しだけ素直になろうかな、と思って」
「良いんだか悪いんだか」
そんな軽口をたたき合って、自宅への河川敷を並んで歩く。高校生のときの俺が知ったらなんて言うだろう。
「あ」
「どうした」
「明日のパンがない」
「買いに行こう、ついでにアイスでも」
「まぁ、たまにはいいんじゃないですか」
目に見えて嬉しそうになって、歩調が速くなる。いとおしさと、大事にしたい、大好きと。胸にじわりとあたたかなものが滲んで身体を満たしてゆく。好きに理由を求めたときもあった。悩んで悩んで、もうやめたほうがいいのかもしれないなんて考えたときもあった。けれど好きであることを誤魔化さず、貫く強さを持つことができて本当によかった。当時のその強さが今の幸せを形作っているかと思うと、よくやった、辛かったろうが今はそれが吹っ飛ぶくらい、胸を張って言える。幸せだと。
閉店間際のスーパーで、クリス先輩に食パンと、牛乳を買います、と伝えた。なぜか本当にいろいろなものを入れてくる。
「なんですかこれ」
「さくさくくまちゃんだ、美味しいぞ」
「……アイスとどっちにするんですか」
「両方だ」
こんなときばっかり気合い入れてカッコいい顔して俺の顔覗き込んでくる。一度くらいこの人の煙に巻かれないでいたいのだけれど、それはきっと向こう十年は無理だろう。
===
C93の本の再録
◇Love you
「哲さん、ずいぶんノックが上手くなりましたね」
「だな」
今の青道の監督は哲さんになった。俺たちを指導してくれた片岡鉄心監督は他校で教鞭をとりつつ監督業に精を出している。同じ地区で、師弟対決。他所から見れば面白いカードなのかもしれないが、見守る側は気が気でない。哲さんが監督に就任してすぐの数試合は、あまりにノックが上手くいかないものだから途中からコーチとして手伝っている増子さんに代わっていたが、今は現役時代を彷彿とさせるの好打者っぷりを披露している。師の前でみっともないところは見せられない。そんな気概が見て取れる。
現役選手だったころの血が騒ぐ。この歓声、ボールがミットに収まる乾いた音、パットが球を弾く音。土の匂い。かつての先輩と、監督たちが手塩にかけて育てた選手たちがしのぎを削り合うこの空間、目の色を変えて見入ってしまう。
俺たちを指導しているころ、片岡監督は監督としては年若い部類だった。それが今となってはメディアに老将、と実に失礼なラベルを付けて呼ばれている。俺たちがもういい年なのだから、当たり前と言えば当たり前だが、こんなところでも年月の流れを感じてしまう。ふと目線を落とした先にあったクリス先輩の手の甲にも、シミや皺が目立つようになった。その過程を目の前で見届けることができているのだから、幸福と思うべきだろうか。年月の流れは必ずしも悔いばかりを生んでいるわけではない。愛する人の人生を傍で見守り続ける幸せもきっとある。
「どうした、目がうつろだぞ、熱中症か」
「大丈夫です」
クリス先輩お手製の味の薄いスポーツドリンクを差し出されるままに口をつけて、球場のすり鉢の底で、かつての俺たちと同じように駆け回る選手たちを見遣る。遠いところに来てしまった、いや、ながれゆく時と共に行かざるを得なかった。たとえどんな結果を出していようと、過去は美しく、俺たちにとっての過去を現在として生きる選手たちが羨ましい。現役のころは考えることもなかったことだ。
けれどそれが、嫌な気持ちはしない。失うことばかりではなかったから。
青道の選手が決勝点となるであろうヒットを打ち、ガッツポーズをしてベンチに戻る。哲さんは何やら声をかけている。
「これで決まりましたかね」
「御幸がそんなことを言うとな……最後まで何があるかわからないのが野球だろう」
「そうでしたね」
その先輩の言葉通り、その回ですぐ塁に走者が溜まってゆく。一打逆転、サヨナラのチャンスと言うところで出てきた青年。緊張でか、表情が固いがスイングに迷いはない。この状況を楽しめる強さがあるということだろうか。
何度見ても、この光景に慣れない。
青道はすんでのところで夢を断たれ、対する片岡監督のチームは地区代表として甲子園の土を踏むことができる。選手たちと一緒に涙を流す哲さんがあの日バスの中の哲さんとダブってしまう。こうして彼らの季節は一足早く進んでしまった。
哲さんと、増子さん。そして片岡監督に挨拶をして帰路につく。先輩はずっと押し黙ったままだ。毎年このまま、外食をしてから帰宅が慣習になっているので、クリス先輩もそのつもりなのだろう。行きつけの洋食店への道を辿っている。
「すごかったな、試合」
セットのデザート、チョコアイスを大事に大事に食べながら、先輩はやっと試合について言及した。
「ええ、本当に、やっぱりなんだか、高校野球は特別ですね、何か力がある」
「そうだな、この歳になってもうまく言葉にできないが、その通りだ」
それっきり先輩は黙ってちびちびアイスを削る作業に戻った。黙っているときは話しかけても考えている途中だから生返事だけが返ってきて大して覚えていない。共に生きた十九年の歳月は伊達じゃない。
「御幸と出会ってからのことを思い出してたんだ」
「なんだか照れるなぁ」
「それがなぁ、まさかなぁ」
「こんなにスキになっちゃった?ですか?」
「まぁ……そう、うん、そうだな」
いつもははいはい、といったふうに流されるのに、今日は素直に返事をしてくれた。少し驚いて少しだけ表情を見遣った。どこか寂しそうな、大好きな野球の試合を見に行ったあとの表情にしては曇っている、というか。
「この歳になっても、自分の感情に蹴りがつかないものなんだなぁ、と思って」
「え?」
実はキライだった、なんて言われるはずがないけれど話の脈を辿ると背筋が寒くなる。
「高校野球に、悔いを残していないかと言うと、素直に肯定できない、が、嫌な思い出では決してない……難しいな」
「そうですね……」
昼間の熱気が嘘のようだ。さや、と風の音が先輩と俺の間を通り過ぎてゆく。俺だってこんなとき、先輩が悩んでいるときに気の利いた一言も言えないのがもどかしくて、先輩の指をひとさしゆびで絡めとる。
「どうした、手でもつなぐか?」
「違うけど、違くないです繋ぎます」
棚からぼたもち。
少しだけ汗ばんだ先輩の指を自分の指でなぞる。現役時代のときよりはずいぶん大人しくなったけれど、それでも、グリップを握っている人の指をしている。大好きな人と、想いが通じてこうして長い間一緒に生きることができて。幸せ、という言葉に形がなくてよかった。
「べつに、無理に肯定する必要はないと思いますよ」
「冴えてるな」
「でしょう」
この歳になっても、この人に褒められるのは無条件で嬉しい。頬が必要以上ゆるんでしまい、軽くつねってくる。
「この歳になっても、自分の気持ちが一番わからないな」
美しい、という形容詞がぴったりはまるクリス先輩は、悩んでいてもその顔の造形の質を落とすことはない。忙しなく俺の指の爪やら関節やらをいじる先輩は、暑いだろうに、しっかり手を握って離さない。
「御幸と一緒に居るのは、心地いい」
「そりゃあ、よかったです」
「御幸はどうなんだ?」
「そりぁあ、もう、毎日先輩に付けたキスマーク数えながら目覚める朝は最高ですよ」
「……言うようになったな」
ふて腐れたように目を逸らしても手は離さない。
「人生は有限ですから、少しだけ素直になろうかな、と思って」
「良いんだか悪いんだか」
そんな軽口をたたき合って、自宅への河川敷を並んで歩く。高校生のときの俺が知ったらなんて言うだろう。
「あ」
「どうした」
「明日のパンがない」
「買いに行こう、ついでにアイスでも」
「まぁ、たまにはいいんじゃないですか」
目に見えて嬉しそうになって、歩調が速くなる。いとおしさと、大事にしたい、大好きと。胸にじわりとあたたかなものが滲んで身体を満たしてゆく。好きに理由を求めたときもあった。悩んで悩んで、もうやめたほうがいいのかもしれないなんて考えたときもあった。けれど好きであることを誤魔化さず、貫く強さを持つことができて本当によかった。当時のその強さが今の幸せを形作っているかと思うと、よくやった、辛かったろうが今はそれが吹っ飛ぶくらい、胸を張って言える。幸せだと。
閉店間際のスーパーで、クリス先輩に食パンと、牛乳を買います、と伝えた。なぜか本当にいろいろなものを入れてくる。
「なんですかこれ」
「さくさくくまちゃんだ、美味しいぞ」
「……アイスとどっちにするんですか」
「両方だ」
こんなときばっかり気合い入れてカッコいい顔して俺の顔覗き込んでくる。一度くらいこの人の煙に巻かれないでいたいのだけれど、それはきっと向こう十年は無理だろう。
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C93の本の再録
桃の季節 #ダイヤの #カップリング #御クリ
桃の季節 #ダイヤの #カップリング #御クリ
「今日の果物は桃です」
「桃」
ふわふわの産毛を撫でさする先から、皮へ実へ指が沈んでいきそうな柔らかさがありながら、独特の繊維質は残っている。一番おいしい季節だ。先輩はというと保護用の白いネットを伸ばして縮めてご満悦だ。
「桃、部活のときに皮切らなくていいから缶詰が人気だったよな」
「ですね、指怪我なんかしたら大変でしたし」
ぬめりを帯びた実と皮の間に果物ナイフを滑り込ませて、種をよけて実を切り出し、小さいフォークを二つ添えて出す。
「御幸、種の回りの実がたべたい」
「はい、どうぞ」
唇を半開きにしているということは、食べさせてくれということなのだろうけれど、これだけ長く一緒にいても恋人らしいことには何故かまだまだ照れがある。おそるおそる先輩の唇の先に種の端を乗せて、ゆっくり口内へ押し込むと、生ぬるい舌先が指先を掠めた。
若いころもそりゃあ素敵で、もう死語になってしまっているのだろうけれど、メロメロだ。けれど今歳を追うことに危険な色気を纏ってきているような気がする。
「先輩、その顔俺以外に見せちゃだめですよ」
「はいはい」
この人には一生敵わない。それを高校の時に悟ってから数十年。高校時代の俺は実に聡かった。現に、今もまだ追いかけ続けている。
「御幸は食べないのか?」
「食べます」
「食べさせてやろうか?」
そうやってまた俺を虜にして止まない笑みを浮かべるのだ。敵うはずがない。
「お願いします」
「素直でよろしい」
冷たい金属が舌をなぞり、さきほどの先輩の舌の熱さが指の先で再び触ったような錯覚を起こした。先輩にそんな劣情を悟られたくなくて桃をひとくち。繊維質と果汁が喉を潤す。またこの季節がやってきた。野球をするもの誰もが憧れる舞台を目指す戦い。今では空調の効いた部屋で見る物になってきてはいるが、必ず青道の試合は、球場へ足を運んでいる。あの熱気は、いまでも俺らを惹きつけてやまない。桃の季節は、俺らがあの頃へ帰る季節。
「久しぶりに、キャッチボールでもするか」
「いいですね」
「よし、着替えてこよう」
皿を洗うのは先輩の仕事。実に手際よく洗い物を済ませることが出来ようになってきた。
「今日の果物は桃です」
「桃」
ふわふわの産毛を撫でさする先から、皮へ実へ指が沈んでいきそうな柔らかさがありながら、独特の繊維質は残っている。一番おいしい季節だ。先輩はというと保護用の白いネットを伸ばして縮めてご満悦だ。
「桃、部活のときに皮切らなくていいから缶詰が人気だったよな」
「ですね、指怪我なんかしたら大変でしたし」
ぬめりを帯びた実と皮の間に果物ナイフを滑り込ませて、種をよけて実を切り出し、小さいフォークを二つ添えて出す。
「御幸、種の回りの実がたべたい」
「はい、どうぞ」
唇を半開きにしているということは、食べさせてくれということなのだろうけれど、これだけ長く一緒にいても恋人らしいことには何故かまだまだ照れがある。おそるおそる先輩の唇の先に種の端を乗せて、ゆっくり口内へ押し込むと、生ぬるい舌先が指先を掠めた。
若いころもそりゃあ素敵で、もう死語になってしまっているのだろうけれど、メロメロだ。けれど今歳を追うことに危険な色気を纏ってきているような気がする。
「先輩、その顔俺以外に見せちゃだめですよ」
「はいはい」
この人には一生敵わない。それを高校の時に悟ってから数十年。高校時代の俺は実に聡かった。現に、今もまだ追いかけ続けている。
「御幸は食べないのか?」
「食べます」
「食べさせてやろうか?」
そうやってまた俺を虜にして止まない笑みを浮かべるのだ。敵うはずがない。
「お願いします」
「素直でよろしい」
冷たい金属が舌をなぞり、さきほどの先輩の舌の熱さが指の先で再び触ったような錯覚を起こした。先輩にそんな劣情を悟られたくなくて桃をひとくち。繊維質と果汁が喉を潤す。またこの季節がやってきた。野球をするもの誰もが憧れる舞台を目指す戦い。今では空調の効いた部屋で見る物になってきてはいるが、必ず青道の試合は、球場へ足を運んでいる。あの熱気は、いまでも俺らを惹きつけてやまない。桃の季節は、俺らがあの頃へ帰る季節。
「久しぶりに、キャッチボールでもするか」
「いいですね」
「よし、着替えてこよう」
皿を洗うのは先輩の仕事。実に手際よく洗い物を済ませることが出来ようになってきた。
埋火 #ダイヤの #カップリング #御クリ
埋火 #ダイヤの #カップリング #御クリ
恋心が実る、という言葉がある。
たびたび日本語には、表し難い気持ちの出現に見舞われた時、すっと隣に寄り添ってくれるような言葉があると思う。他の国の言葉がどうなっているかは知らないけれど、今俺が知っている言葉の中では一番近いものなのだと思う。
俺の気持ちは、実に例えることができるということだ。瑞々しい葉は陽の光をはじいてちかちかと目を刺し、きれいな花をつけて、そして相思相愛を経て、実となるという想像ができる。今このときも、実となる途中と考えることができる前向きな言葉だと思う。
いつ、芽吹いたのかについて考えるとき、いつもいつも恋とはなんだろうかと誰かと話すつもりは無いけれども、自分だけでは決して答えが出ないことを考え始めてしまう。けれど最初は抱きしめたい、それに応えてもらいたい、キスしたい、されたい、といったことを考えたことはなく唯追いつきたい、そして超えたい目標だった。はずだ。
それが今は。
俺の中で実を結ぼうとしているものは、一人よがりから生まれる実はどんなものになるのか。それよりも、クリス先輩に好きです、と伝えてしまってから失うもののほうが多いように思えてならない。戯れに触れてしまってもきっと、どうしたんだ?と少しだけ戸惑って聞き返してくるのだろうと、それはそれで苦しい。俺をひどく傷つけたりはしない優しくて、尊敬できる先輩。そんな先輩と俺は、何になりたいのかも知らないで、欲しい欲しいとだけ心の中で声高に叫んでいる。クリス先輩に対してどんどん盲目になってゆく。
けれどそうやって苦しい苦しいと思いを堆積しながらも、クリス先輩を好きでいることは微塵も苦痛ではない。後輩に向けるものだとは知っているけれど、優しく微笑まれて、御幸怪我はあれからなんともないか?だなんて聞かれてしまったらもう、それだけで満たされてしまうような気になる。
「もう何ともないですよ」
「クセになってしまったら怖いからな、ちゃんと定期的に医者に診てもらえよ」
「そうします」
「聞き分けがいいな、俺の背中を見て育ってきただけのことはある」
敵わない、何度思ったかわからない言葉を反芻する。大学に入ってからも、時に練習に顔を出してくれる。卒業してしまったらもう会えなくなってしまうから、なんて告白をしてしまっていたらどうしても足が遠のいてしまっていたのではと、今だから冷静に考えることができる。卒業式の前日なんて怖くて眠れなかった。先輩の前では泣きたくなくて、どうしたって震える唇を抑えるので精いっぱいだった。
自分が育てた意識もあるであろう沢村の様子や、同じく少しだけ怪我をした降谷の様子なんかを見て、後輩たちの、特に怪我はないかをよく見ている。動きを見ては、肘や膝、各部位への影響を噛み砕いて聞かせている。俺がこの前怪我したときも、あんなふうに心配して声をかけてくれた。
はじめて、後輩として扱ってもらったような気がした。憧れて入ったはいいけれど、ずいぶん素っ気ない扱いを受けていた。それが原動力になって野球に打ち込んだ、のもあるけれど、この人に認められないということひどく寂しい気持ちになったのだから、もしかしたらこの時にはすでに単なる憧れの域を超えていたのかもしれない。
だからこそ、一人の後輩として、チームへの献身の一つの形だとはいえ世話を焼いてもらえる沢村が少しだけ羨ましかった。ああやって素直に?人の心に沁み渡れる愛嬌?があればとも考えなくもなかったが、それはきっと俺にはできない。
きっとみじめったらしく縋りついて、俺も、と言えばきっと戸惑いながらも受け入れてくれるのだろうけれど、俺はクリス先輩と、先輩と後輩以上の関係になりたい。どうしてこんなに、盲目にクリス先輩を求めてしまうのか。誰かに聞いたらわかるのだろうか?時が解決してくれるものなのだろうか?
後輩たちに熱心に指導する先輩を見る視線がひとつだけ湿り気と、熱気を帯びている。誰か聡い奴が気づきやしないかと部員たちをさりげなく見渡すが、皆熱心に指導に聞き入っている。急に先輩に向ける視線が恥ずかしいもののような気がして、皆と違う意識でクリス先輩の話を聞いているのが悪いことのような気がして目を伏せる。
こうでもしていないと、唇に目が行ってしまう。
クリス先輩の事を好きでいる毎日は、迷いはないけれど、ときに苦しい。
あっちからしてみたら後輩の一人なんだろうな、と思うと同時に、一緒にリハビリをすることを許されていたりと、パーソナルスペースに入り込めているような気がする。たぶん俺が勝手に感じている壁は、俺がクリス先輩を見る目が違うってことなんだと思う。埋め方をしらない溝が横たわっている。
◇
高校を卒業してから七ヵ月ほど経ったろうか、久しぶりに坂井さんから連絡が来てはじめて、皆と随分長い間会っていなかったことに気付いた。
「坂井さん、お久しぶりです」
「御幸!久しぶりだな!」
その簡単なあいさつだけで、俺たちは高校生に戻れる。あのころ深めた親交はそう簡単に薄まるようなものではなくて安心した。あれから俺はプロへ、他の皆は大学、就職と、それぞれの道を歩くための選択をした。その道の違いはあれど、こうしてまた旧交を温めることができている。
今日行く気になったのは、こういった集まりには今までずっと参加していたクリス先輩が、お家の都合でアメリカへ行っていると聞いたからだ。
もう、疲れてしまった。あの人が大切だ、愛おしいと自分だけが気持ちを溢れさせるだけの恋に疲れてしまった。いま忙しく新生活をどうにか成り立たせようとしているなかで、クリス先輩を想うことはあまりに、苦しかった。
それでも忘れることはできずに、クリス先輩が大学で活躍している知らせが入れば一人複雑な気持ちに浸っていた。あれだけ素敵な人だから、恋人ができたら、と考えて眠れない夜を過ごしたことも何度もあった。忘れることなどできるはずがない。人生の一番濃密な時間を憧れ、複雑な想いを注ぎ続けたひとを、今自分の事で精一杯だから、というだけで忘れることなんて到底無理なことだったんだ。その証拠に、続々と集まる先輩や同期、後輩たちの群れに、あの人を探してしまう。
たった五カ月、顔を合せなかっただけでこのザマなんだ。よく忘れようだなんて思ったな、と自嘲した。
このまま墓の下にまでもっていくのが一番理想的なんだろう。最近冷えが一段と厳しくなった東京の空へ皆が吐いた白い息がとけてゆく。季節が巡っても、季節ごとに思い出すのは先輩との思い出。季節が巡るたびに、叶わなかった、きっとこれからも叶わないであろう恋を思い出してしまうのは、胃の底に重たいものを入れているような息苦しさを味あわせてくれる。
「よぉ、御幸。お前がこの集まりに出てくるなんて珍しいじゃねぇか」
今は関西の大学野球チームに所属して、野球を続けている純さんに背中を小突かれた。小突く域を超えた衝撃に若干よろめいてしまう。
「今回はたまたま予定が合ったんですよ」
「おーおー、今や有名人になっちまったからな、お前」
ドラフト順位が高めであったことから注目してもらったのもあるが、世間から見たら顔のつくりがいいらしい。気の早い広告会社には高校卒業をした春にもうテレビコマーシャルの話を貰っていた。それが放映されるやいなや俺の知名度は無駄に上がってしまった。繁華街を歩いたら声をかけられるだなんてアニメやドラマの世界のことだと思っていた。付け焼刃の変装として駅ビルの眼鏡屋で、少しだけ色の濃いレンズをはめた眼鏡を買った。それもあまり意味をなさず、集合場所になった交番前で女の人にサインを求められて本当に参ってしまった。純さんや倉持は面白がってサインを求めてくるし。
「なぁんかよぉ、お前がすこし遠いぜ」
純さんがポツリとこぼした一言がひどく重く聞こえた。かつての、共にあのひどく暑い夏を戦ったチームメイトから言われてしまった。選択が違うからといってあの頃と全く同じように、とはいかないのかもしれない。それもそうだろう。皆持っているもの、いないもの、立場。さまざまに抱えながら日々を過ごしている。そうしていれば、行きつく場所が変わってくるなんて、高校にいたときのほうが分かっていた。他人と自分の人生は通過点が一緒であることはあっても共に生きることなんてできやしないんだと、幼いころの自分の方が知っていた。
「そんなこと、言わないでくださいよ純さん」
いつものように、冗談めいた声音で言えただろうか。
「ほんじゃあ、オレンジジュース、ピッチャーで」
髭面の、厳つい表情から発せられた言葉に店員はは、はぁとだけ返して厨房に消えた。未来あるお前らが未成年飲酒なんてつまらないことでケチがついたらいけない、と幹事の坂井先輩が言うものだから、皆素直にジュースをグラスに注いだ。OB名簿があるとはいえ、名門野球部である青道はとにかく部員が多い。その一人一人に声をかけて、この会を実現させた坂井先輩の思いを無下できる奴はこの場には居なかった。それになにより、この人がいた。
「あ、カントクは何飲みますか」
「瓶ビールを頼む」
まさかこの人の前で年齢をごまかして、だなんてできるはずがない。それに礼ちゃん、太田部長、落合コーチと俺らを育ててくれた大人たちの前で、自分たちが生きてきた年齢をごまかしてまで酒を飲みたがるほど酒の味を知っている奴が一人もいなかったというのもある。
「お前らの代はなぁ、甲子園出てからと、出る前とで練習試合の申し込みの数や卒業生たちからの差し入れの依頼が全然!違ったなぁ」
当時を懐かしみながら、礼ちゃんと猪口を傾ける太田部長の髪が全体的に白さが目立つようになってきた。きっとたくさん苦労をかけたのだろう。ドラフト候補になってから野次馬や追っかけのようなものが増え、それに付きまとわれそうになるとうちの生徒に何かご用でしょうか、とあの人のよさそうな笑顔で割って入ってきてくれた。感謝してもしきれない。
「でも、なんとかうまくやっていけてるようで安心したよ。また時間を作って青道の練習にも顔を出してくれよ」
「ええ、ぜひ」
「増子さん、実家のコンビニ、どうですか?」
「わ、悪くは無い」
仕事は楽しいしな、と笑う先輩は少しだけ顔がほっそりしてしまったような気がする。青道生が主なお客さんだからと見通しは明るいらしい。近いから、と頻繁に練習を手伝いに行っているという。口数は多くないものの、行動で示せる増子さんはシブい大人に映るらしく後輩たちから大人気、というのは礼ちゃんの弁だ。
「おっ、クリスじゃねーか!お前間に合ったんだな!!」
純さんのばかでかい声で心臓がひっくりかえりそうになった。
今日は来ないはずじゃ、と誰かに確かめることもできずに思わず身を屈めた。ししょおー!と沢村のこれまたばかでかい声が騒がしい居酒屋のBGMのように聞こえた。
「そうだ、沢村」
いつのまにか増子さんと俺の間に顔を突っ込んできた倉持が言うには、今あの『わかな』と付き合うことになったらしい。結局、カノジョじゃねーかよと口をとがらせる倉持はなかなかそういった出会いがないらしい。根はいいやつなんだけれど、根の良さを知ってもらうにはある程度仲良くならないと、といったところで躓いているらしい。
「おい、倉持、亮介さんが呼ん」
「ハイッ!!!すぐ行きます!!!!」
声をかけた木島も驚く速さで文字通りすっ飛んで行った。あいつなら、きっとすぐに寄り添いあって生きたいと思ってくれる人がすぐに見つかる気がする。
思わず大きくため息をついてしまい、木島と山口に心配されてしまった。
「お前、プロに行ったらやっぱり体格!体格が違うだろう」
「プロテインはトレーナーがついているだろうからいらねーぞ」
「ありがとう木島。その通りだ山口」
襖で仕切られているとはいえ食堂とは違うと言っても自慢の上半身を見せたそうだが、上腕二頭筋をぐにぐにと触れば満足げだ。おしつけがましいようでさっぱりしているから、嫌な感じがしない。このやりとりも、すべてが懐かしい思い出になっている。
「すごい筋肉だな、山口」
「クリス先輩!」
数か月ちょっとじゃ変わりようがない、あの懐かしい声音。どうにか、お久しぶりです、とだけ絞り出した。
「皆、元気にしてたか?」
「そりゃあもう!ご覧のとおりですよ!」
そう言って茶目っ気たっぷりにポーズを決める山口をどんな顔して眺めればいいかわからない。すぐ隣にクリス先輩が座っているという事実だけで今すぐにでも逃げ帰りたい。
「御幸も、木島も久しぶりだな」
「お久しぶりです」
木島に続いて自然に、お久しぶりですとだけ言った。
「御幸は広告でよく見るんだけどなぁ、実物にあったのは久しぶりだ」
「俺もだ。学校の最寄駅にも大きな広告が出てるぞ。頑張ってるんだな」
今度は哲さんまで。二人の尊敬する先輩に褒められて居たたまれない。
「ホラ、お前がやってる飲み物のCM、あれいいよな」
「「「「忘れられない、恋をしよう」」」」
山口、木島、哲さん、そしてクリス先輩が声を揃えて唱えたのは俺が出ているCMのキャッチフレーズだ。恥ずかしさに頭が真っ白になる。その、俺が忘れられない恋をしている人から聞きたい言葉ではなかった。四人はきゃいきゃい言いながら動画サイトの企業公式ページを探している。
「ちょっ、それは」
無慈悲にBGMが流れ始めた。これも仕事のうちだからとマネージャーさんになだめられながら撮影したCMに皆がたかる。軽快な音楽と共にかなり棒読みに近い宣伝文句が騒がしい、さっきまで騒がしかったのに皆一斉に黙って笑いを堪えたような顔をして山口のスマホに見入る。
「うわ~~御幸かっこいい」
「やめろって!」
「かっこいいぞ御幸」
「哲さんまで!」
せめてクリス先輩の前で、俺があんなことを言っているところを見せたくなくて羽交い絞めにしてくる宮さんに少しだけ強めに抵抗する。が、無慈悲にもコマーシャルは流れ続ける。そしてあの、初めて自分の口から言わなければならないと聞かされたときは心臓を握られた心地になった言葉を、画面の向こうの俺はじつに情熱的に言って、やっと終わった。
皆は盛り上がり、急に興味を喪ったらしくそれ以上追及されることは無かった。いつかまたお前と戦いたい、と息巻く哲さんを無理に笑って、俺もです。とだけ返した。
「どうした」
「はは、ちょっと」
変なところでこの人は聡いのだ。ふやけて崩れ始めているストローの袋を所在無さげにいじってごまかそうとするが、哲さんは俺が話を逸らそうとしたとは思ってないらしく、じっと目を見つめてくる。かと思うとハッ、と何かに気付いたようなしぐさをし、声を潜めて、
「お前、好きだったひとがいるのか」
いままで蓋をしていた気持ちの、きつくきつく締めて、奥底に沈めていた気持ちを見透かされたような気がして、途端に居たたまれない、なんだか恥ずかしいことを、悪いことしているような気持ちになる。どこまでバレてしまったのか、と聞いてしまいたいけれど、クリス先輩のことが、哲さんや純さんたちとは違う意味で好きだと尊敬する先輩には知られたくない。少し前までは、ずっと好きでいることなんて怖くない、隠し通せる。このまま墓の下にまで、なんて考えていたけれどすこし揺らされただけでこんなにも動揺してしまう。
「哲さん、ナイショです」
「そうだな、ナイショだ」
いい歳した男二人がゆびきりをするさまは決してかわいらしいものではないけれど、こうした方が哲さんはわかってくれるだろう。自分に言い聞かすようにナイショだ、という哲さんに一抹の不安を覚えながらも、軽々しく言いふらす人ではないから、黙ってオレンジジュースで乾杯する。
「なんだ、ナイショ話か?」
「そうだ。ナイショだ」
クリス先輩の声を聴き間違えようがない。曖昧に笑って、すみません、とだけしか言えない。高校の頃のほうがまだまともに目を合わせて話せていた。分かたれてしまった道の違いからか、ここさえ乗り越えてしまえばまた、自分の中でだけ想いを寄せていられると思ってしまう。下手に距離を縮めてしまうと、物理的に空いてしまった距離に耐えられない、ということはクリス先輩が卒業して三か月のうちに痛いほど知った。
「御幸、活躍してるみたいだな」
「いやぁ、まだまだですよ」
そうか?と言って笑う先輩の、目をすこしだけ細めて唇の端を上向きにする笑い方を懐かしいものとしてとらえてしまったことに耐え切れず、先輩の前だというのに叫びだしたいくらいの激情に襲われた。苦しい、好きです、受け止めて、応えて、と恥も外聞もかなぐり捨てて投げつけるには、俺は大人になりすぎたように思える。
一足先に成人になった先輩たちはこれから監督や大人たちを囲んで飲みなおすらしく、未成年組と分かれて夜の街に消えて行った。クリス先輩の誕生日は十月一日。もう二十になっている。クリス先輩の、誰に向けたわけでなく振られた手から目を離せずに、ぼんやり手を振りかえして帰路についた。
たった一日会えただけで乱れた気持ちを落ち着かせるのに相当の時間を要した。あれだけ近くに居れたのが、言葉を交わせたのが偶然で、これが普通なんだと言い聞かせて、日々の練習に身を粉にして打ち込むことで忘れることに終始した。まぁ、今までの経験から忘れることなんてできずに、居るはずのない、人ごみの中でハッとする、というのを何度か繰り返してものすごく落ち込んで、というサイクルを繰り返すんだろう。花をつけていても、応えてもらえるどころか、花が咲いていることを知られていないから実を結ぶこともない。文字通り、不毛な恋だ。
◇
「まぁーた御幸は不参加か」
「忙しそうだしな」
「クリスだってちょっとは会っておきたかったろ?」
「まぁな、最後に会った……というか見たのはドームで、卵くらいにちっちゃく見えた……くらいだからなぁ」
「クリスですらそうなら、俺らが会える筈もないな、そうだよな皆」
「だな」
「そうですね」
そう言って、御幸が一番最初にコマーシャルをしていた飲料を呷る門田は、大学を卒業してからは就職して、春には子供が生まれるらしい。まだ酒が入っているわけではないのに、散々のろけ話を聞かされた。
週に一回、近所の野球チームで草野球で汗を流している、と聞いた。節目節目で、皆選択を繰り返している。本当は節目だけでなく、毎日に選択の機会が隠れているが、気づいていないだけだと気付いたのはつい最近だった。
御幸とは高校を卒業してからまともに会話をしていない。
もともとこの会に来る回数が極端に少ない。その上、俺が話しかけるとぎこちなく苦笑いをして話を濁そうとする。なにか踏み込まれたくないところがあるのならば、きっともっとうまく隠せる奴だと思っていたが、それができないくらい、露骨に避けていたいのかもしれない。だからといって、そんな扱いを受けるほど何かをした記憶はない。本当に大事で、選手としても人間としても尊敬に値するひとに冷たくあしらわれたままだと、何と無く心苦しい。自分で解決の糸口を持っておこうと、年賀状、暑中見舞いはお互い欠かしたことはない。ほっそりとした御幸の字が近況を書き表したはがきが半年に一度届くことで、いまだ繋がりを保っておけているような気がする。
宴席でも近況を語りつくしたら皆一様に御幸の事を話し出す。身近に生活していた、今や手の届かない存在になってしまった御幸をすこしだけ遠くから、もう自分とは立場が違うといった風に語る。
俺も皆と等しく、御幸とは物理的距離がある。それでも何故か遠い存在、と割り切れてしまえないのは何故だろうか。高校時代に同じポジションで、御幸が俺に憧れてくれていたから、季節のあいさつを欠かさないから、などいろいろ考えてはみるけれど、根拠としては弱い気がする。多分、御幸が遠くにいってしまったことを認めたくないのだろう。もしかしたら、この怪我が無ければ、御幸と回り道なしで戦う未来があったのかもしれないと考えてもしょうがないことまで考えてしまう。
一目元気で顔を見せてほしい、以前のように野球の話や、くだらない話をしたり、軽くキャッチボールがしたい。そんな、高校時代のただの先輩の願い何て聞いていられるほど暇ではないだろうから心の中にとどめておく。
「なんだよクリス、しけた顔して」
「なんでもない」
いつのまにか空いていた猪口に銘も知らない日本酒が注がれる。坂井は未使用の猪口を手に取り、手酌で注ごうとする。それを制してなみなみと注いでやる。
「おっ、クリス飲めるんだ?」
「ほどほどにな……」
「あ、クリスは思ったより弱いよ」
なにやら可愛らしいカタカナの名前がついているカクテルを傾ける楠木が声をかけてくる。
「そうか?俺は飲めない方なのか」
「うーん、それで野球部の飲み行くのキツくないかな?って思う」
「えっ、じゃあ水も飲んどけよ」
と言って程よい冷たさの氷水をせっかく取ってきてくれたので一口飲んでおく。坂井、楠木とグラスと猪口を合わせて、一口呷る。アルコールが食道を焼く感覚と、日本酒特有の籠ったような匂いが鼻をつく。少しで血の流れが良くなった感覚を味わえる。
「こうして皆で酒を飲めるようになるなんてな」
「な、俺らもさ、大きくなっちゃったよな」
「身体ばっかりでかくなったけどな、俺、あのとき降谷にレフト交代する夢まだ見る」
坂井がしみじみと猪口に残った日本酒を揺する。ゲームセットをベンチで迎えた三人でも、あのことを思い出すとき、内容は三者三様だ。しんみりとしてしまった雰囲気を振り払うかのように倉持が割って入ってきてくれた。粗雑なようで、実に細やかな気遣いができる。それも他人に感じさせないように。
「おっ倉持じゃねーか、カノジョできたか」
「坂井先輩」
小湊弟が何か知っている風に坂井の袖口をひっぱる。目に見えて暗くなってゆく倉持の恋路を根掘り葉掘り聞きだそうと随分悪そうな顔になっている。
「おっ、御幸来るっぽいです」
ぴろん、と可愛らしい音を立てたのを聞いて倉持が画面を除いたかと思えば、まさかということを言う。
「それ本当なの」
腕組みをしながら仁王立ち。この迫力を前に嘘を言える奴なんかこの部に居やしない。倉持や木島は直立している。亮介を前にした倉持は画面を見せることで納得させたらしい。
「ホントだ、終わりの方少しだけど来るって」
皆は久しぶりに会う元キャプテンに沸き立つが、いざ会えるとなるとなんだか落ち着かない。期待しすぎてもダメになったときに勝手に失望しそうなので、意識のなかから懸命に追い出す。
消毒液のにおいだか知らないが、独特の香りをもつ温かいおしぼりで手を拭うと、後輩たちが甲斐甲斐しくゴミを回収してくれる。こういった部活内の上下関係なんて久しぶりだ。大学でもそういったことはあったが、高校の後輩に世話をされるときほどあたたかみがあったり、尊敬が自分の身を動かすような行動ではなかった。上の代がそうしていたから、自分もそうする。唯それだけだった。大学在学中の方が、記録に残る結果があったが、自分の中で強く思い出に残っているのは高校時代のことだ。
俺が野球から離れざるを得なくなっても、誰かの憧れであり続けれられたときの方が綺麗に見えているのか知れないが。当たり前のように、結果を求めてきた。が、記憶に残っているのは結果以外のところだ。自分が関わった後輩が怪我なくプレーできている、それに、俺にあこがれて高校を選んだ後輩が、甲子園で活躍し、今はプロになっている。
中学の頃の夢はプロ野球選手。
今から夢を叶えようとして、叶うかと考えても難しいだろう。けれど、きっと誰に言っても負け惜しみに聞こえてしまうだろうから言ったことはないが、吹っ切れている。俺は今、俺ができる最高のプレーをしている。それに後悔が生まれようもない。
「倉持、御幸来ないけど」
「亮介、そうキツイ口調は」
嗜めるのが一拍遅かった。倉持は飛びつく、という言葉が一番近しい動作でスマホの画面を見る。
「かなり遅くなるみたいです……」
「クリス、電話かけてみて」
「俺か?」
何か企んでいるときの含み笑いをして、頷く亮介に促されるままにスマホを手に取る。
「忙しいんだ、出ないかもしれない」
「いいから、きっと出る」
何故か知らないが心臓がざわつく。昔撮って、登録した御幸の顔写真、珍しく年相応にはにかんでいる写真に軽く触れると、発信画面に切り替わった。
◇
「ウッエ?」
思わず変な声が出てしまった。心臓がひっくりかえったまま口から出てきそうだ。想像してみてほしい墓までこの気持ちは持っていく、と決めたつもりの意中の人から電話がかかってくるときの気持ち。
「……もしもし」
「御幸か?」
「はい、御幸です」
久しぶりに声を聴いた。季節のあいさつはすべてハガキだったから実に、数年ぶりだ。血の通った先輩の声に愛おしさが、蓋をしてしまったはずの気持ちが溢れそうになる。
「えーと、今日は来れるのか?」
「今、新宿御苑前なのでもう少しかかりますが、向かってます」
「そうか、皆楽しみにしてるぞ、気を付けて」
「はい」
俺からは切れないから、きっと先輩が切ったんだろう。
たった数秒の会話だというのに、本当に本当に嬉しくて、別れが辛くなるだけだろうに会いたくて仕方がない。皆、楽しみにしていると言っていた。皆のなかにクリス先輩が含まれていることを信じて、各駅停車以外の運行がない路線の窓の外を落ち着かない気持ちで眺める。
◇
「今御苑前だそうだ」
「ああ、じゃあ少しかかるけど、来るね」
「そうだな」
「それにしても意外、クリスとは会ってると思ってた」
「そうか?御幸も忙しいんだ、高校のとき二年だけ一緒に居ただけの先輩に構ってられないだろう」
「……クリスがそんなにムキになるってのも、意外」
「そうか?」
他人に指摘されて初めて気づいた。何か言いたげに熱燗を呷って、にやりと笑う亮介にとりあえず何かを食べさせて黙らせようと取り皿を探す。これ以上深く、この気づきを掘り下げられたくなかった。
「早く来るといいねぇ、御幸」
「ああ、まぁな」
亮介の空になった猪口に冷酒を注ぐ。軽く会釈をしてまた呷る。この兄弟はとにかく酒に強い。何次会まで会を重ねても、涼しい顔をして介抱している。
会って何を話せばいい。あのころみたいに、どれだけ久しぶりに会っても昨日別れたばかりのように話せるとは、今は思えない。
◇
店の中からも外からも、ずいぶん出来上がっている声が聞こえる。
店の中から聞こえる声はどれも聞いたことのあるものばかりだ。ゾノの声なんて聞き間違えようがない。けれどなかなか、ここまで来ておいて踏み出せない。なにもクリス先輩にだけ会いに来たわけじゃない、と自分に言い聞かせても一度再会してしまえば何があふれ出てくるかわからない。それを塞き止めておけるのかもわからない。
「どうしたんスか、そんなところで……?あれ?御幸先輩?」
「金丸……!久しぶりだな」
あのクセの強い代のなかで繊細且つ理性的だった後輩に呼び止められて思わず身を竦めてしまう。
「とりあえず中で何か飲みませんか?外寒かったでしょう」
「ああ……」
ケチのつけようがない、当たり前の声掛けが今は、涙を、不安を我慢することなく吐き出して逃げ去ってしまいたいほどに苦しい。
俺に気付いて、口々に久しぶり、元気にしてたか等々の言葉をかけてくれる先輩後輩、先生方に挨拶をして皆にとっては何度目かわからないほどしたであろう乾杯をする。
「降谷は?」
俺と同じくプロの道を選び、遠くで活躍を聞くだけの後輩の名前を出せば、ほらそこ、と示した先にはクリス先輩の膝を枕にすうすうを寝息を立てる降谷が居た。
「何やってんだあいつ……」
正直なところ羨ましい。金丸が上着をハンガーにかけてくれると言うのでありがたくお願いする。
「御幸!」
これまた聞き間違えようがない声。小湊亮介先輩だ。空の猪口だけ持って先輩の隣に行く。その隣にクリス先輩と降谷が居る。クリス先輩とは逆に座ろうとしたが、わざわざ空けてくれた場所がそこしかなければ、押しのけて行くわけにもいかない。
「久しぶりだな、御幸」
聞き間違えようがない。あるはずがない。不自然でないように、お久しぶりです、と返す。膝で寝ている降谷の頬をつついて、お前も、というと、ぷすう、という間抜けな寝息が返ってきた。
「御幸、猪口」
まさか亮さんから酒を注いでもらう日が来るとは思わなかった。正座をし、姿勢を正す。案の定クリス先輩と自然に会話ができない。きっとクリス先輩にも変に思われているだろう。
「先輩は、お元気でしたか」
「それなりにな……御幸は上手くやってるようじゃないか」
「ありがとうございます、日々精進ですけど……」
どれだけ時が経とうとも、この人に褒められるのが本当にうれしくて仕方がない。思わず頬がゆるんでしまう。
「御幸、よかったねクリスに褒められて」
「はい」
若干涙ぐんだのを、亮さんは気づいていたと思う。
「もっと飲みな、身体温まるよ……クリスも猪口が空いてるよ御幸」
亮さんから徳利を包むおしぼりごと受け取って先輩方にお酌をする。三人で猪口を合わせ、呷る。結婚式では固めの杯と言って夫婦になる人たちが飲み交わす、らしい。
なんてヨコシマなことを考えていたからか、疲れていたからか酔いの回りは恐ろしく早かった。
今度は降谷が起きだして亮さんと飲み、俺はなんとクリス先輩の膝枕という恐ろしいものを享受する機会が与えられた。チンコが勃ってしまわないように必死に今日の練習での配球を思い出す。酒で温まった指先が、優しく髪の毛を梳いては、ときに引っ張ってくる。きっと、これが単なる後輩先輩だけの関係でなくなれば、もっと触れることができるのだろうけれど下手を打てばこんな、今までの報われなさを考えると破格のことである膝枕さえしてもらえなくなるだろう。リスクを取るか、アンパイを取るか。この喉がチリチリとひりつく痛みは、まるで野球みたいじゃないか。
どうすればいいのか、どうしたいのか。本当にわからなくなってきてしまった。本当に大事なのは何なのか、守りたいのは何なのか。唯一つ、この優しく触れてくる手を喪いたくないというのは揺らがない。
「なぁんだ、御幸潰れてやがんのか」
「そうなんだ」
ずいぶん遠くで純さんの声が聞こえる気がする。
「すっげぇ幸せそうな顔」
「テレビで見るときはあんなに辛気臭そうというか、ピリピリしてるのにね」
「憧れの先輩の膝枕で寝てるんだぜ……?俺が東先輩に膝枕してもらえるんだったらこんな腑抜けた顔になるわ、わかるぜ御幸」
純さんの酒臭い息が吹きかけられて思わず顔をしかめる。
「お、こいつ起きてんじゃねーか」
「起き上がれないだけで、意識はしっかりしてますよ……」
「意識しっかりしてたら先輩の膝で寝ないから」
バッサリ、だとかそういう効果音が付きそうな声音で俺の戯言を切り捨てる亮さんから眉間の皺を伸ばされる。
「ずっと気を張ってたんだね、今くらい甘えていいよ……クリスに」
皆はからかうように笑って、よかったなぁなんて言っているけど俺は怖くてクリス先輩の顔が見れない。呆れたような笑い方だったらどうしよう、もう、季節のあいさつすら返ってこなかったら、と嫌に弱気になってしまうがそれをどうにか押し込めて、酔いがひどく回っているふりをして存分に堪能する。明日になったらあのときは酔っぱらっていて、と言い訳をすればいい。どんな関係であれ、続けていたい。
「御幸、本当に飲めないのか?」
めちゃくちゃに酒に弱いからと藤原先輩からも純さんからも薄く作ったカクテル以外はやめておけと言われてから、素直にカシオレをちびちび飲む哲さんの声で少しだけ覚醒した。
「そんな、哲さんに言われたら飲めないわけないです」
「御幸、無理するなよ」
憧れの先輩と、愛してやまない先輩二人から気遣う言葉を掛けられて喜ばないわけがない。普段はこんなにふにゃふにゃ笑わないのだけれど、今は頬が嫌に緩い。
クリス先輩の猪口に、熱燗を注いで、哲さんが酌をしてくれると言うのを断って手酌で注ぐ。チン、と涼やかにグラスと猪口二つが合わさる音ののち、クリス先輩の喉が上下する。
慌てて目を逸らし、哲さんが剥いた枝豆のカラを適当な皿に盛る。
「む、すまんな」
「とんでもない」
酔いがまわっているフリなんてできないかもしれない。実際にかなり酔いがまわってきてしまっている。ごくごく自然な動作でクリス先輩の太腿に頭を預ける。口先だけはすみませんと言って。あまり弱みを見せたりしなかったからか、驚いた様子で所在無さげに俺の眉毛を引っ張っている先輩の瞳は変わるはずがない日本人離れした金色。それもクリス先輩が眼鏡を外してくれたので見えなくなる。この方が都合がいいかもしれない。
ぼやけた視界にはクリス先輩の指先がいっぱいに映る。酒のせいで最高に気持ち悪いけれど、これだけ酔っていれば、このままで居たいっていうあり得ないことを願う気持ちも、別れの辛さもすっきり忘れて明後日からの練習にも清々しい気分で参加できるんじゃないだろうか?
最後の記憶がそれで、今はどこか知らない家の廊下に座っている。
初めてこんなに飲んだ気がする。気心知れた仲間と久しぶりに合えて本当に嬉しかった。思えば高校ほど腹を割っていた時期はなかったのかもしれない。大人になればなるほど、誰かに自分をさらけ出すことが怖くなっていった。
身体を起こしていると気分が悪くなるので寝ころぶ、というよりずり落ちた。冷たいフローリングに頬を当てて涼んでいると、床を軋ませる音が聞こえる
「目が覚めたか?」
「クリス、せんぱい?」
「ここは俺の家だ。一人暮らしだし、遠慮なく吐くといい」
そう言って冷たい水が入ったグラスを差し出してくるクリス先輩の表情が暗くて見えず、何と無くきまりが悪い。
「俺、吐きました?」
「少しな」
好きな人の前で酔いすぎて吐くだなんて、カッコ悪すぎて別の意味で頭が痛い。でも繕う余裕もないほどには酔ってしまっている。貰った水を少しだけ飲み下す。今更気づいたけれど着せてもらっているジャージ、青道の学校ジャージだ。これを着ていた頃も好きだったけれど、これを着なくなった今もずっと好きだ。これだけは疑いようがない。求めて、求めても手を伸ばすことすら怖がっていたから当たり前だけど、進みようがない恋だ。
しんみりしていたらまた吐き気を催してしまった。
「せんぱい、すみません吐きそう」
「こっちだ」
よろめくと結構強い力で支えてくれる。不覚にもきゅんとしてしまった。ちゃんと掃除してある便器に向かってえづくが、先輩が去る気配が無い。
「せんっ、ぱい、もう大丈夫ですから」
「喉に詰まらせたりしたら大変だろう……いいから」
と言って背中を摩ってくれる先輩の手のぬくみを感じながら、無理やり追い出す気力もなくおとなしくえづく。
「吐ききったならすっきりすると思うが……まだ気分悪いんだろう?」
「はい……」
心配そうにのぞきこんでくれるのが嬉しくて、勘違いしてしまいそうだ。こんなに近くて遠い。酔っていると情緒が安定しない。何故か涙が滲んでくる。先輩ったらあわててる。
「泣くほど気持ち悪いのか……?」
「ぢがいばず」
全然カッコ良くない。好きな人の前でくらいカッコいい自分を見ていてほしいのに。唾液でべちゃべちゃになった口の端をハンカチでぬぐって、クリス先輩の両腕をとって向かい合う。
「ばの」
涙声になってしまって本当に恥ずかしい。
「どうかしたか、水か?」
「ぢがいばず、あじだ、いいだいごとがばるので」
「明日か?明日は一日暇だから大丈夫だ」
そう言って水を飲ませてくれようとする先輩の好意をありがたくいただく。先輩は困った後輩を放っておけないだけ、と考えるのがふつうだけれど、今はそう、お互いに酔っぱらっているから。
◇
言うだけ言って満足したのか、せまっくるしい便所の床で眠い眠いといつもの冷静さや人と関わるとき一線引いたような態度をどこかで落としてきたみたいにぐずる。ぐずぐずと脚にまとわりついては、寒いからと言って離さない。
在学中も、先輩後輩として理想的な関係であったと思う。お互いを尊敬し、慕いあう関係であったと俺は思っていた。いつからか、多分甲子園行きを決めたあたりから御幸に負担をかけてはいけない、もう彼の時代なのだからと足が遠のいた時期があったが、それから数か月は何も変わらず過ごしていたはずだ。
ただ、俺が少し遠くから御幸を見たことで湧いた澱が胸の奥底に沈んでいる。どうして御幸は、今や俺より実績がありながらも憧れであると慕ってくれているのだろうか。昔の俺の偶像を御幸のなかで作り上げているだけで、今の俺のことを尊敬しているわけではないのかもしれないということが気になってしまっている。
御幸が慕ってくれるのを、先輩先輩と情を注いでくれるのをいいことに、御幸の気持ちに胡坐をかいている、尊敬する価値が薄れた単なる年長者に成り下がってはいないだろうか。
その、曇りない尊敬に値する人間であり続けて居れているだろうか。
今日だって、御幸が珍しく甘えてくるものだから、嬉しかった。俺が大切にした後輩が、こうして少し弱いところを見せて頼ってくれるのだから自分に少しだけ価値を見いだせたような気がする。特に膝枕をせがんだり、泣きながら自分に何かを伝えようとしていた姿が目に焼き付いている。今は泣き腫らした目元をそのままに安らかな寝息を立てている。慣れない暮らしで、気を張っていたんだろう。眼鏡を外してやると少しだけ幼げのある表情が見える。自分とそう変わらない後輩が、立派になったことの嬉しさと、あんなに泣くほど大変なことを伝えられるのかと思うと少し心配になる。
「へんぱい」
「どうした?眩しいか?雨戸閉めてくる」
「ふふ」
満足げににやけたあと寝入ってしまった。ここまで遠慮が無いのに嫌な気がしない。むしろ甘やかしてやりたくなる。
せまっ苦しい一人暮らしの家に男二人が寝場所を確保するだけで大変だ。どうにか御幸の居ないスペースを探して寝ころぶ。
プロ野球選手として、テレビの向こう側にいるところを見る機会の方が増えたのにこうして俺の家でだらしなく腹を出して眠っている。不思議な気分だ。高校を卒業してしまえば、学生時代に培った縁というものは多少なりとも薄れてしまうものだと思っていたが、物理的な距離が一番離れてしまったこの後輩とはなぜか、繋がっている。
◇
酔っぱらって、寝落ちた後記憶が消える人も居るらしい。俺はそうではないし、クリス先輩もそうではないようだ。
台所からは味噌汁の匂いがする。先輩が作ってくれた味噌汁を食べれるなんて、幸せすぎて明日世界が終わるじゃないだろうか。
「起きたか?」
「……起きました」
「そうか、洗面所に新しい歯ブラシあるから、使っていいぞ」
「何から何まで本当にすみません」
「いいんだ」
こんなに優しく、微笑みかけてくれる。昨日は、言いたいことが有ると言ったけれど冷静になった今、この関係を投げ打ってまで先輩後輩以外の関係になることが本当にいいことなのかと、洗面所に二つ並んだ歯ブラシを見て思う。
いい、悪い、簡単、困難を別にして、俺はこの人に触れたい。応えて、もらいたい。駄目だったら、謝って、それでいい。先輩には悪いけどもう俺は耐えられない。墓までもっていくつもりだったのに、たった数年で耐えられないほど大きく膨らんだ恋心は、果たして実をつけるのだろうか。
白米と漬物と味噌汁。吐いてほぼ空になった胃に染みる。たぶんこれは出汁をとらずに唯味噌を入れただけの味噌汁だが、先輩が作ったと言うだけで最高に美味しく感じる。
「で、言いたいことってなんだ?」
「えっ、あ~あの、ご飯食べ終わってからでもいいですか?」
心の準備が、と言っていつものように笑うと、そうかとだけ言われて沈黙。言わないと、言わないと後退はないが進展もないと言い聞かせれば言い聞かせるほど気分が沈む。紙パックの烏龍茶をグラスに注いで、どうにか流し込む。
こまごまと世話を焼いてくれたうえに、食後のほうじ茶まで淹れてもらってしまった。ありがたいと同時にとても申し訳ない。
「あの」
「うん、どうしたんだ改まって」
全身の血が逆流しているような音が聞こえる。先輩は人と話すとき目を逸らさない。わかっていたはずなのに今はそれが耐えられそうにない。
「あの、俺」
「うん、ゆっくりでいい」
もう言ってしまうつもりでいたのに、まだまだ緊張はし続ける。グラスに残った烏龍茶を呷る。
「ずっと、先輩にあこがれていました」
もう、無意識のうちに剥がれ落ちてくるように言葉を発する以外に、何もできない。唯少しでも真意が伝わるように、瞳に熱を込めて。
「でも、自分でも知らないうちに、憧れ以上の存在に、先輩がなっていって」
「自分の中でもそんなこと初めてだったので、すごく怖くて」
「最初は、憧れだったんです、けれど今は、今も憧れですけれど、ほかにも、あって」
「俺は、もうどうしようもなくあなたの事が好きなんです」
時計の音だけが聞こえる。俯いたまま、未だに俺の方を見つめ続けて居るであろう先輩の顔を見れない。指先から冷えてなくなっていくような感覚に襲われる。
「そうか……」
やっとそれだけ言った、といった風に聞こえた先輩の言葉には呆れや嫌悪というよりは驚きが優っているように聞こえる。
「それは、多分……先輩と、後輩……いままでのような感覚で好き、と言っている訳ではなさそうだな」
「はい」
「そうか……あ、いや、嫌だと言っている訳では無く、少し驚いてしまって……」
当たり前だろう、いままで後輩だと思っていた男から好きと言われて戸惑わない人はいないと思う。それに言う側は唯好きと伝えればいいが、受け取る側は処遇を決めなければならない。
でも、拒絶はとりあえず無いらしく安心した。
「どう、したらいい?」
「え?」
「正直、わからないんだ……確かに御幸のことは大切な存在だけれど、そういう対象としてみたことがないから、自分の中でも、わからない……そもそも御幸の尊敬に値するのかについて疑問があって、あとずっと素っ気なかったから嫌われているものだと思っていたし……その、そりゃあ昔の俺はそれなりに野球ができていたが……今は……」
急にそんな、いままで後輩として見ていた奴から言われたらさすがのクリス先輩も焦るらしい。目線をうろうろと落ち着かなく動かして、いつも自信満々に見つめてくるが今は目を伏せている。
「そうじゃなくて……あの俺、あのときずっと、絶対叶わなないだろうから、自分の中で気持ちを閉じ込めていおくこととか、会っても、別れてしまうのがその、つらくて……変な態度とってごめんなさい……でもそんな卑下しないでください……」
取り留めなく、頭に浮かんだ言葉をそのまま吐きだしている。どうしたら伝わるだろうか。俺の中で尊敬というものはあなたのためにあるような言葉で、年を経て変化しつづけるあなたを尊いと思うことであることが。クリス先輩への尊敬やまた他の言葉にできない気持ちたちを、自分の言葉で伝えて先輩へ俺からの気持ちに納得してもらわないとならない。好きの羅列以外で、だ。
「別に、世間の恋人像に当てはめろとは言いません、一緒に、一緒に居てください……俺も、先輩にどうやって百パーセント伝えられるかわからないから、俺と一緒に探してください……」
やっとそれだけ絞り出して、まだ少しだけ眠そうなクリス先輩に縋るような目を向けてしまう。ダメだったら諦めよう、と思っていたがこんなことではそれも難しいだろう。
先輩は一つため息をつくと箱ティッシュを引き寄せて二三枚抜き取り、俺の鼻先に押し付けた。
「そうだな……探してみようか。俺と御幸で友達でも、先輩でもない、後輩でもない新しい関係を……ってまた泣いてるのか……?」
こんな女々しいようでは呆れられてしまう、どうにか涙を押しとどめようとしても、抑えようとすればするほど大きな声をあげて泣いてしまう。
最後に泣いたのはいつだったろうか、クリス先輩に彼女ができた夢を見た日の朝以来だろう。きっと。
「泣き止ませるのも俺の役目になったんだろうな……ほらおいで」
そんなに優しくされたら箍が外れて、俺の好きでクリス先輩を押しつぶしてしまいそうだ、とどこまでも嫌われたくない気持ちが働くが、やっと、やっと恋が実をつけたのだから、こんな時くらいは素直に自分の気持ちを出してみたい。
肩をやさしく摩る手は、間違いなく俺が想い続けたクリス先輩の手なのだと頭で認識しようとすればするほど涙が後がつかえているいるみたいに溢れる。
「御幸はそんなに泣かない印象があったけどな、卒業式でも落ち着いていたし」
違う、本当はクリス先輩が卒業したらもう会えないと本気で思っていたから苦しくて仕方なかった、と言いたいのに嗚咽以外のものが出てこない。言葉にならない代わりに、おそるおそる、首筋に顔をうずめた。もし男にひっつかれるのがイヤでも、すぐに振り払えるようにそっと。
少しだけ身を固めたのがわかった。引こうとしたら引き寄せられたので、拒絶ではなかった。
「あ、いや、血のつながらない他人と、こう、親密な、えーと、初めてでな……こういったことも、二人で落としどころを見つけていこう」
言いたいことは沢山あるのに、わんわん声をあげて泣く以外のことができない。泣け泣け、と言わんばかりに世界で一番大好きな人が背中をなでてくれるのも、今は涙をさらに生産する。
「そうだな……今日は御幸もオフなんだろう?少し歩くが、チョコレートパフェが美味い店があるからそこに行こう、それで、少しキャッチボールをして……」
何やら提案をしてくれるクリス先輩の声をずっと聞いていたい。深く、何度も頷いて同意を示す。先輩とだったら、なにをしても、どこへ行っても良い。これからどんなことをしよう、どこへ行こう。今までの季節の思い出はクリス先輩を起点にして思い出していたが、これからは一緒に過ごして、思い出をたくさん作れると思うと急に楽しみになってきてしまうのだから、俺も現金な奴だ。
日本語には、恋が実るという言葉がある。
成長過程が悩ましかったから、そんなに形がいい実ではないだろうけれど、きっと、美しく色づくだろう。
「そうと決まれば、用意してでかけよう」
素敵な笑顔で微笑まれ、まだ残っていた涙をぬぐわれてしまったら、頷く以外の選択肢を俺は持ち合わせていないし、選ばない。涙声で返事をして、放られた着替えを受け取った。
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2015年10月の本の再録
恋心が実る、という言葉がある。
たびたび日本語には、表し難い気持ちの出現に見舞われた時、すっと隣に寄り添ってくれるような言葉があると思う。他の国の言葉がどうなっているかは知らないけれど、今俺が知っている言葉の中では一番近いものなのだと思う。
俺の気持ちは、実に例えることができるということだ。瑞々しい葉は陽の光をはじいてちかちかと目を刺し、きれいな花をつけて、そして相思相愛を経て、実となるという想像ができる。今このときも、実となる途中と考えることができる前向きな言葉だと思う。
いつ、芽吹いたのかについて考えるとき、いつもいつも恋とはなんだろうかと誰かと話すつもりは無いけれども、自分だけでは決して答えが出ないことを考え始めてしまう。けれど最初は抱きしめたい、それに応えてもらいたい、キスしたい、されたい、といったことを考えたことはなく唯追いつきたい、そして超えたい目標だった。はずだ。
それが今は。
俺の中で実を結ぼうとしているものは、一人よがりから生まれる実はどんなものになるのか。それよりも、クリス先輩に好きです、と伝えてしまってから失うもののほうが多いように思えてならない。戯れに触れてしまってもきっと、どうしたんだ?と少しだけ戸惑って聞き返してくるのだろうと、それはそれで苦しい。俺をひどく傷つけたりはしない優しくて、尊敬できる先輩。そんな先輩と俺は、何になりたいのかも知らないで、欲しい欲しいとだけ心の中で声高に叫んでいる。クリス先輩に対してどんどん盲目になってゆく。
けれどそうやって苦しい苦しいと思いを堆積しながらも、クリス先輩を好きでいることは微塵も苦痛ではない。後輩に向けるものだとは知っているけれど、優しく微笑まれて、御幸怪我はあれからなんともないか?だなんて聞かれてしまったらもう、それだけで満たされてしまうような気になる。
「もう何ともないですよ」
「クセになってしまったら怖いからな、ちゃんと定期的に医者に診てもらえよ」
「そうします」
「聞き分けがいいな、俺の背中を見て育ってきただけのことはある」
敵わない、何度思ったかわからない言葉を反芻する。大学に入ってからも、時に練習に顔を出してくれる。卒業してしまったらもう会えなくなってしまうから、なんて告白をしてしまっていたらどうしても足が遠のいてしまっていたのではと、今だから冷静に考えることができる。卒業式の前日なんて怖くて眠れなかった。先輩の前では泣きたくなくて、どうしたって震える唇を抑えるので精いっぱいだった。
自分が育てた意識もあるであろう沢村の様子や、同じく少しだけ怪我をした降谷の様子なんかを見て、後輩たちの、特に怪我はないかをよく見ている。動きを見ては、肘や膝、各部位への影響を噛み砕いて聞かせている。俺がこの前怪我したときも、あんなふうに心配して声をかけてくれた。
はじめて、後輩として扱ってもらったような気がした。憧れて入ったはいいけれど、ずいぶん素っ気ない扱いを受けていた。それが原動力になって野球に打ち込んだ、のもあるけれど、この人に認められないということひどく寂しい気持ちになったのだから、もしかしたらこの時にはすでに単なる憧れの域を超えていたのかもしれない。
だからこそ、一人の後輩として、チームへの献身の一つの形だとはいえ世話を焼いてもらえる沢村が少しだけ羨ましかった。ああやって素直に?人の心に沁み渡れる愛嬌?があればとも考えなくもなかったが、それはきっと俺にはできない。
きっとみじめったらしく縋りついて、俺も、と言えばきっと戸惑いながらも受け入れてくれるのだろうけれど、俺はクリス先輩と、先輩と後輩以上の関係になりたい。どうしてこんなに、盲目にクリス先輩を求めてしまうのか。誰かに聞いたらわかるのだろうか?時が解決してくれるものなのだろうか?
後輩たちに熱心に指導する先輩を見る視線がひとつだけ湿り気と、熱気を帯びている。誰か聡い奴が気づきやしないかと部員たちをさりげなく見渡すが、皆熱心に指導に聞き入っている。急に先輩に向ける視線が恥ずかしいもののような気がして、皆と違う意識でクリス先輩の話を聞いているのが悪いことのような気がして目を伏せる。
こうでもしていないと、唇に目が行ってしまう。
クリス先輩の事を好きでいる毎日は、迷いはないけれど、ときに苦しい。
あっちからしてみたら後輩の一人なんだろうな、と思うと同時に、一緒にリハビリをすることを許されていたりと、パーソナルスペースに入り込めているような気がする。たぶん俺が勝手に感じている壁は、俺がクリス先輩を見る目が違うってことなんだと思う。埋め方をしらない溝が横たわっている。
◇
高校を卒業してから七ヵ月ほど経ったろうか、久しぶりに坂井さんから連絡が来てはじめて、皆と随分長い間会っていなかったことに気付いた。
「坂井さん、お久しぶりです」
「御幸!久しぶりだな!」
その簡単なあいさつだけで、俺たちは高校生に戻れる。あのころ深めた親交はそう簡単に薄まるようなものではなくて安心した。あれから俺はプロへ、他の皆は大学、就職と、それぞれの道を歩くための選択をした。その道の違いはあれど、こうしてまた旧交を温めることができている。
今日行く気になったのは、こういった集まりには今までずっと参加していたクリス先輩が、お家の都合でアメリカへ行っていると聞いたからだ。
もう、疲れてしまった。あの人が大切だ、愛おしいと自分だけが気持ちを溢れさせるだけの恋に疲れてしまった。いま忙しく新生活をどうにか成り立たせようとしているなかで、クリス先輩を想うことはあまりに、苦しかった。
それでも忘れることはできずに、クリス先輩が大学で活躍している知らせが入れば一人複雑な気持ちに浸っていた。あれだけ素敵な人だから、恋人ができたら、と考えて眠れない夜を過ごしたことも何度もあった。忘れることなどできるはずがない。人生の一番濃密な時間を憧れ、複雑な想いを注ぎ続けたひとを、今自分の事で精一杯だから、というだけで忘れることなんて到底無理なことだったんだ。その証拠に、続々と集まる先輩や同期、後輩たちの群れに、あの人を探してしまう。
たった五カ月、顔を合せなかっただけでこのザマなんだ。よく忘れようだなんて思ったな、と自嘲した。
このまま墓の下にまでもっていくのが一番理想的なんだろう。最近冷えが一段と厳しくなった東京の空へ皆が吐いた白い息がとけてゆく。季節が巡っても、季節ごとに思い出すのは先輩との思い出。季節が巡るたびに、叶わなかった、きっとこれからも叶わないであろう恋を思い出してしまうのは、胃の底に重たいものを入れているような息苦しさを味あわせてくれる。
「よぉ、御幸。お前がこの集まりに出てくるなんて珍しいじゃねぇか」
今は関西の大学野球チームに所属して、野球を続けている純さんに背中を小突かれた。小突く域を超えた衝撃に若干よろめいてしまう。
「今回はたまたま予定が合ったんですよ」
「おーおー、今や有名人になっちまったからな、お前」
ドラフト順位が高めであったことから注目してもらったのもあるが、世間から見たら顔のつくりがいいらしい。気の早い広告会社には高校卒業をした春にもうテレビコマーシャルの話を貰っていた。それが放映されるやいなや俺の知名度は無駄に上がってしまった。繁華街を歩いたら声をかけられるだなんてアニメやドラマの世界のことだと思っていた。付け焼刃の変装として駅ビルの眼鏡屋で、少しだけ色の濃いレンズをはめた眼鏡を買った。それもあまり意味をなさず、集合場所になった交番前で女の人にサインを求められて本当に参ってしまった。純さんや倉持は面白がってサインを求めてくるし。
「なぁんかよぉ、お前がすこし遠いぜ」
純さんがポツリとこぼした一言がひどく重く聞こえた。かつての、共にあのひどく暑い夏を戦ったチームメイトから言われてしまった。選択が違うからといってあの頃と全く同じように、とはいかないのかもしれない。それもそうだろう。皆持っているもの、いないもの、立場。さまざまに抱えながら日々を過ごしている。そうしていれば、行きつく場所が変わってくるなんて、高校にいたときのほうが分かっていた。他人と自分の人生は通過点が一緒であることはあっても共に生きることなんてできやしないんだと、幼いころの自分の方が知っていた。
「そんなこと、言わないでくださいよ純さん」
いつものように、冗談めいた声音で言えただろうか。
「ほんじゃあ、オレンジジュース、ピッチャーで」
髭面の、厳つい表情から発せられた言葉に店員はは、はぁとだけ返して厨房に消えた。未来あるお前らが未成年飲酒なんてつまらないことでケチがついたらいけない、と幹事の坂井先輩が言うものだから、皆素直にジュースをグラスに注いだ。OB名簿があるとはいえ、名門野球部である青道はとにかく部員が多い。その一人一人に声をかけて、この会を実現させた坂井先輩の思いを無下できる奴はこの場には居なかった。それになにより、この人がいた。
「あ、カントクは何飲みますか」
「瓶ビールを頼む」
まさかこの人の前で年齢をごまかして、だなんてできるはずがない。それに礼ちゃん、太田部長、落合コーチと俺らを育ててくれた大人たちの前で、自分たちが生きてきた年齢をごまかしてまで酒を飲みたがるほど酒の味を知っている奴が一人もいなかったというのもある。
「お前らの代はなぁ、甲子園出てからと、出る前とで練習試合の申し込みの数や卒業生たちからの差し入れの依頼が全然!違ったなぁ」
当時を懐かしみながら、礼ちゃんと猪口を傾ける太田部長の髪が全体的に白さが目立つようになってきた。きっとたくさん苦労をかけたのだろう。ドラフト候補になってから野次馬や追っかけのようなものが増え、それに付きまとわれそうになるとうちの生徒に何かご用でしょうか、とあの人のよさそうな笑顔で割って入ってきてくれた。感謝してもしきれない。
「でも、なんとかうまくやっていけてるようで安心したよ。また時間を作って青道の練習にも顔を出してくれよ」
「ええ、ぜひ」
「増子さん、実家のコンビニ、どうですか?」
「わ、悪くは無い」
仕事は楽しいしな、と笑う先輩は少しだけ顔がほっそりしてしまったような気がする。青道生が主なお客さんだからと見通しは明るいらしい。近いから、と頻繁に練習を手伝いに行っているという。口数は多くないものの、行動で示せる増子さんはシブい大人に映るらしく後輩たちから大人気、というのは礼ちゃんの弁だ。
「おっ、クリスじゃねーか!お前間に合ったんだな!!」
純さんのばかでかい声で心臓がひっくりかえりそうになった。
今日は来ないはずじゃ、と誰かに確かめることもできずに思わず身を屈めた。ししょおー!と沢村のこれまたばかでかい声が騒がしい居酒屋のBGMのように聞こえた。
「そうだ、沢村」
いつのまにか増子さんと俺の間に顔を突っ込んできた倉持が言うには、今あの『わかな』と付き合うことになったらしい。結局、カノジョじゃねーかよと口をとがらせる倉持はなかなかそういった出会いがないらしい。根はいいやつなんだけれど、根の良さを知ってもらうにはある程度仲良くならないと、といったところで躓いているらしい。
「おい、倉持、亮介さんが呼ん」
「ハイッ!!!すぐ行きます!!!!」
声をかけた木島も驚く速さで文字通りすっ飛んで行った。あいつなら、きっとすぐに寄り添いあって生きたいと思ってくれる人がすぐに見つかる気がする。
思わず大きくため息をついてしまい、木島と山口に心配されてしまった。
「お前、プロに行ったらやっぱり体格!体格が違うだろう」
「プロテインはトレーナーがついているだろうからいらねーぞ」
「ありがとう木島。その通りだ山口」
襖で仕切られているとはいえ食堂とは違うと言っても自慢の上半身を見せたそうだが、上腕二頭筋をぐにぐにと触れば満足げだ。おしつけがましいようでさっぱりしているから、嫌な感じがしない。このやりとりも、すべてが懐かしい思い出になっている。
「すごい筋肉だな、山口」
「クリス先輩!」
数か月ちょっとじゃ変わりようがない、あの懐かしい声音。どうにか、お久しぶりです、とだけ絞り出した。
「皆、元気にしてたか?」
「そりゃあもう!ご覧のとおりですよ!」
そう言って茶目っ気たっぷりにポーズを決める山口をどんな顔して眺めればいいかわからない。すぐ隣にクリス先輩が座っているという事実だけで今すぐにでも逃げ帰りたい。
「御幸も、木島も久しぶりだな」
「お久しぶりです」
木島に続いて自然に、お久しぶりですとだけ言った。
「御幸は広告でよく見るんだけどなぁ、実物にあったのは久しぶりだ」
「俺もだ。学校の最寄駅にも大きな広告が出てるぞ。頑張ってるんだな」
今度は哲さんまで。二人の尊敬する先輩に褒められて居たたまれない。
「ホラ、お前がやってる飲み物のCM、あれいいよな」
「「「「忘れられない、恋をしよう」」」」
山口、木島、哲さん、そしてクリス先輩が声を揃えて唱えたのは俺が出ているCMのキャッチフレーズだ。恥ずかしさに頭が真っ白になる。その、俺が忘れられない恋をしている人から聞きたい言葉ではなかった。四人はきゃいきゃい言いながら動画サイトの企業公式ページを探している。
「ちょっ、それは」
無慈悲にBGMが流れ始めた。これも仕事のうちだからとマネージャーさんになだめられながら撮影したCMに皆がたかる。軽快な音楽と共にかなり棒読みに近い宣伝文句が騒がしい、さっきまで騒がしかったのに皆一斉に黙って笑いを堪えたような顔をして山口のスマホに見入る。
「うわ~~御幸かっこいい」
「やめろって!」
「かっこいいぞ御幸」
「哲さんまで!」
せめてクリス先輩の前で、俺があんなことを言っているところを見せたくなくて羽交い絞めにしてくる宮さんに少しだけ強めに抵抗する。が、無慈悲にもコマーシャルは流れ続ける。そしてあの、初めて自分の口から言わなければならないと聞かされたときは心臓を握られた心地になった言葉を、画面の向こうの俺はじつに情熱的に言って、やっと終わった。
皆は盛り上がり、急に興味を喪ったらしくそれ以上追及されることは無かった。いつかまたお前と戦いたい、と息巻く哲さんを無理に笑って、俺もです。とだけ返した。
「どうした」
「はは、ちょっと」
変なところでこの人は聡いのだ。ふやけて崩れ始めているストローの袋を所在無さげにいじってごまかそうとするが、哲さんは俺が話を逸らそうとしたとは思ってないらしく、じっと目を見つめてくる。かと思うとハッ、と何かに気付いたようなしぐさをし、声を潜めて、
「お前、好きだったひとがいるのか」
いままで蓋をしていた気持ちの、きつくきつく締めて、奥底に沈めていた気持ちを見透かされたような気がして、途端に居たたまれない、なんだか恥ずかしいことを、悪いことしているような気持ちになる。どこまでバレてしまったのか、と聞いてしまいたいけれど、クリス先輩のことが、哲さんや純さんたちとは違う意味で好きだと尊敬する先輩には知られたくない。少し前までは、ずっと好きでいることなんて怖くない、隠し通せる。このまま墓の下にまで、なんて考えていたけれどすこし揺らされただけでこんなにも動揺してしまう。
「哲さん、ナイショです」
「そうだな、ナイショだ」
いい歳した男二人がゆびきりをするさまは決してかわいらしいものではないけれど、こうした方が哲さんはわかってくれるだろう。自分に言い聞かすようにナイショだ、という哲さんに一抹の不安を覚えながらも、軽々しく言いふらす人ではないから、黙ってオレンジジュースで乾杯する。
「なんだ、ナイショ話か?」
「そうだ。ナイショだ」
クリス先輩の声を聴き間違えようがない。曖昧に笑って、すみません、とだけしか言えない。高校の頃のほうがまだまともに目を合わせて話せていた。分かたれてしまった道の違いからか、ここさえ乗り越えてしまえばまた、自分の中でだけ想いを寄せていられると思ってしまう。下手に距離を縮めてしまうと、物理的に空いてしまった距離に耐えられない、ということはクリス先輩が卒業して三か月のうちに痛いほど知った。
「御幸、活躍してるみたいだな」
「いやぁ、まだまだですよ」
そうか?と言って笑う先輩の、目をすこしだけ細めて唇の端を上向きにする笑い方を懐かしいものとしてとらえてしまったことに耐え切れず、先輩の前だというのに叫びだしたいくらいの激情に襲われた。苦しい、好きです、受け止めて、応えて、と恥も外聞もかなぐり捨てて投げつけるには、俺は大人になりすぎたように思える。
一足先に成人になった先輩たちはこれから監督や大人たちを囲んで飲みなおすらしく、未成年組と分かれて夜の街に消えて行った。クリス先輩の誕生日は十月一日。もう二十になっている。クリス先輩の、誰に向けたわけでなく振られた手から目を離せずに、ぼんやり手を振りかえして帰路についた。
たった一日会えただけで乱れた気持ちを落ち着かせるのに相当の時間を要した。あれだけ近くに居れたのが、言葉を交わせたのが偶然で、これが普通なんだと言い聞かせて、日々の練習に身を粉にして打ち込むことで忘れることに終始した。まぁ、今までの経験から忘れることなんてできずに、居るはずのない、人ごみの中でハッとする、というのを何度か繰り返してものすごく落ち込んで、というサイクルを繰り返すんだろう。花をつけていても、応えてもらえるどころか、花が咲いていることを知られていないから実を結ぶこともない。文字通り、不毛な恋だ。
◇
「まぁーた御幸は不参加か」
「忙しそうだしな」
「クリスだってちょっとは会っておきたかったろ?」
「まぁな、最後に会った……というか見たのはドームで、卵くらいにちっちゃく見えた……くらいだからなぁ」
「クリスですらそうなら、俺らが会える筈もないな、そうだよな皆」
「だな」
「そうですね」
そう言って、御幸が一番最初にコマーシャルをしていた飲料を呷る門田は、大学を卒業してからは就職して、春には子供が生まれるらしい。まだ酒が入っているわけではないのに、散々のろけ話を聞かされた。
週に一回、近所の野球チームで草野球で汗を流している、と聞いた。節目節目で、皆選択を繰り返している。本当は節目だけでなく、毎日に選択の機会が隠れているが、気づいていないだけだと気付いたのはつい最近だった。
御幸とは高校を卒業してからまともに会話をしていない。
もともとこの会に来る回数が極端に少ない。その上、俺が話しかけるとぎこちなく苦笑いをして話を濁そうとする。なにか踏み込まれたくないところがあるのならば、きっともっとうまく隠せる奴だと思っていたが、それができないくらい、露骨に避けていたいのかもしれない。だからといって、そんな扱いを受けるほど何かをした記憶はない。本当に大事で、選手としても人間としても尊敬に値するひとに冷たくあしらわれたままだと、何と無く心苦しい。自分で解決の糸口を持っておこうと、年賀状、暑中見舞いはお互い欠かしたことはない。ほっそりとした御幸の字が近況を書き表したはがきが半年に一度届くことで、いまだ繋がりを保っておけているような気がする。
宴席でも近況を語りつくしたら皆一様に御幸の事を話し出す。身近に生活していた、今や手の届かない存在になってしまった御幸をすこしだけ遠くから、もう自分とは立場が違うといった風に語る。
俺も皆と等しく、御幸とは物理的距離がある。それでも何故か遠い存在、と割り切れてしまえないのは何故だろうか。高校時代に同じポジションで、御幸が俺に憧れてくれていたから、季節のあいさつを欠かさないから、などいろいろ考えてはみるけれど、根拠としては弱い気がする。多分、御幸が遠くにいってしまったことを認めたくないのだろう。もしかしたら、この怪我が無ければ、御幸と回り道なしで戦う未来があったのかもしれないと考えてもしょうがないことまで考えてしまう。
一目元気で顔を見せてほしい、以前のように野球の話や、くだらない話をしたり、軽くキャッチボールがしたい。そんな、高校時代のただの先輩の願い何て聞いていられるほど暇ではないだろうから心の中にとどめておく。
「なんだよクリス、しけた顔して」
「なんでもない」
いつのまにか空いていた猪口に銘も知らない日本酒が注がれる。坂井は未使用の猪口を手に取り、手酌で注ごうとする。それを制してなみなみと注いでやる。
「おっ、クリス飲めるんだ?」
「ほどほどにな……」
「あ、クリスは思ったより弱いよ」
なにやら可愛らしいカタカナの名前がついているカクテルを傾ける楠木が声をかけてくる。
「そうか?俺は飲めない方なのか」
「うーん、それで野球部の飲み行くのキツくないかな?って思う」
「えっ、じゃあ水も飲んどけよ」
と言って程よい冷たさの氷水をせっかく取ってきてくれたので一口飲んでおく。坂井、楠木とグラスと猪口を合わせて、一口呷る。アルコールが食道を焼く感覚と、日本酒特有の籠ったような匂いが鼻をつく。少しで血の流れが良くなった感覚を味わえる。
「こうして皆で酒を飲めるようになるなんてな」
「な、俺らもさ、大きくなっちゃったよな」
「身体ばっかりでかくなったけどな、俺、あのとき降谷にレフト交代する夢まだ見る」
坂井がしみじみと猪口に残った日本酒を揺する。ゲームセットをベンチで迎えた三人でも、あのことを思い出すとき、内容は三者三様だ。しんみりとしてしまった雰囲気を振り払うかのように倉持が割って入ってきてくれた。粗雑なようで、実に細やかな気遣いができる。それも他人に感じさせないように。
「おっ倉持じゃねーか、カノジョできたか」
「坂井先輩」
小湊弟が何か知っている風に坂井の袖口をひっぱる。目に見えて暗くなってゆく倉持の恋路を根掘り葉掘り聞きだそうと随分悪そうな顔になっている。
「おっ、御幸来るっぽいです」
ぴろん、と可愛らしい音を立てたのを聞いて倉持が画面を除いたかと思えば、まさかということを言う。
「それ本当なの」
腕組みをしながら仁王立ち。この迫力を前に嘘を言える奴なんかこの部に居やしない。倉持や木島は直立している。亮介を前にした倉持は画面を見せることで納得させたらしい。
「ホントだ、終わりの方少しだけど来るって」
皆は久しぶりに会う元キャプテンに沸き立つが、いざ会えるとなるとなんだか落ち着かない。期待しすぎてもダメになったときに勝手に失望しそうなので、意識のなかから懸命に追い出す。
消毒液のにおいだか知らないが、独特の香りをもつ温かいおしぼりで手を拭うと、後輩たちが甲斐甲斐しくゴミを回収してくれる。こういった部活内の上下関係なんて久しぶりだ。大学でもそういったことはあったが、高校の後輩に世話をされるときほどあたたかみがあったり、尊敬が自分の身を動かすような行動ではなかった。上の代がそうしていたから、自分もそうする。唯それだけだった。大学在学中の方が、記録に残る結果があったが、自分の中で強く思い出に残っているのは高校時代のことだ。
俺が野球から離れざるを得なくなっても、誰かの憧れであり続けれられたときの方が綺麗に見えているのか知れないが。当たり前のように、結果を求めてきた。が、記憶に残っているのは結果以外のところだ。自分が関わった後輩が怪我なくプレーできている、それに、俺にあこがれて高校を選んだ後輩が、甲子園で活躍し、今はプロになっている。
中学の頃の夢はプロ野球選手。
今から夢を叶えようとして、叶うかと考えても難しいだろう。けれど、きっと誰に言っても負け惜しみに聞こえてしまうだろうから言ったことはないが、吹っ切れている。俺は今、俺ができる最高のプレーをしている。それに後悔が生まれようもない。
「倉持、御幸来ないけど」
「亮介、そうキツイ口調は」
嗜めるのが一拍遅かった。倉持は飛びつく、という言葉が一番近しい動作でスマホの画面を見る。
「かなり遅くなるみたいです……」
「クリス、電話かけてみて」
「俺か?」
何か企んでいるときの含み笑いをして、頷く亮介に促されるままにスマホを手に取る。
「忙しいんだ、出ないかもしれない」
「いいから、きっと出る」
何故か知らないが心臓がざわつく。昔撮って、登録した御幸の顔写真、珍しく年相応にはにかんでいる写真に軽く触れると、発信画面に切り替わった。
◇
「ウッエ?」
思わず変な声が出てしまった。心臓がひっくりかえったまま口から出てきそうだ。想像してみてほしい墓までこの気持ちは持っていく、と決めたつもりの意中の人から電話がかかってくるときの気持ち。
「……もしもし」
「御幸か?」
「はい、御幸です」
久しぶりに声を聴いた。季節のあいさつはすべてハガキだったから実に、数年ぶりだ。血の通った先輩の声に愛おしさが、蓋をしてしまったはずの気持ちが溢れそうになる。
「えーと、今日は来れるのか?」
「今、新宿御苑前なのでもう少しかかりますが、向かってます」
「そうか、皆楽しみにしてるぞ、気を付けて」
「はい」
俺からは切れないから、きっと先輩が切ったんだろう。
たった数秒の会話だというのに、本当に本当に嬉しくて、別れが辛くなるだけだろうに会いたくて仕方がない。皆、楽しみにしていると言っていた。皆のなかにクリス先輩が含まれていることを信じて、各駅停車以外の運行がない路線の窓の外を落ち着かない気持ちで眺める。
◇
「今御苑前だそうだ」
「ああ、じゃあ少しかかるけど、来るね」
「そうだな」
「それにしても意外、クリスとは会ってると思ってた」
「そうか?御幸も忙しいんだ、高校のとき二年だけ一緒に居ただけの先輩に構ってられないだろう」
「……クリスがそんなにムキになるってのも、意外」
「そうか?」
他人に指摘されて初めて気づいた。何か言いたげに熱燗を呷って、にやりと笑う亮介にとりあえず何かを食べさせて黙らせようと取り皿を探す。これ以上深く、この気づきを掘り下げられたくなかった。
「早く来るといいねぇ、御幸」
「ああ、まぁな」
亮介の空になった猪口に冷酒を注ぐ。軽く会釈をしてまた呷る。この兄弟はとにかく酒に強い。何次会まで会を重ねても、涼しい顔をして介抱している。
会って何を話せばいい。あのころみたいに、どれだけ久しぶりに会っても昨日別れたばかりのように話せるとは、今は思えない。
◇
店の中からも外からも、ずいぶん出来上がっている声が聞こえる。
店の中から聞こえる声はどれも聞いたことのあるものばかりだ。ゾノの声なんて聞き間違えようがない。けれどなかなか、ここまで来ておいて踏み出せない。なにもクリス先輩にだけ会いに来たわけじゃない、と自分に言い聞かせても一度再会してしまえば何があふれ出てくるかわからない。それを塞き止めておけるのかもわからない。
「どうしたんスか、そんなところで……?あれ?御幸先輩?」
「金丸……!久しぶりだな」
あのクセの強い代のなかで繊細且つ理性的だった後輩に呼び止められて思わず身を竦めてしまう。
「とりあえず中で何か飲みませんか?外寒かったでしょう」
「ああ……」
ケチのつけようがない、当たり前の声掛けが今は、涙を、不安を我慢することなく吐き出して逃げ去ってしまいたいほどに苦しい。
俺に気付いて、口々に久しぶり、元気にしてたか等々の言葉をかけてくれる先輩後輩、先生方に挨拶をして皆にとっては何度目かわからないほどしたであろう乾杯をする。
「降谷は?」
俺と同じくプロの道を選び、遠くで活躍を聞くだけの後輩の名前を出せば、ほらそこ、と示した先にはクリス先輩の膝を枕にすうすうを寝息を立てる降谷が居た。
「何やってんだあいつ……」
正直なところ羨ましい。金丸が上着をハンガーにかけてくれると言うのでありがたくお願いする。
「御幸!」
これまた聞き間違えようがない声。小湊亮介先輩だ。空の猪口だけ持って先輩の隣に行く。その隣にクリス先輩と降谷が居る。クリス先輩とは逆に座ろうとしたが、わざわざ空けてくれた場所がそこしかなければ、押しのけて行くわけにもいかない。
「久しぶりだな、御幸」
聞き間違えようがない。あるはずがない。不自然でないように、お久しぶりです、と返す。膝で寝ている降谷の頬をつついて、お前も、というと、ぷすう、という間抜けな寝息が返ってきた。
「御幸、猪口」
まさか亮さんから酒を注いでもらう日が来るとは思わなかった。正座をし、姿勢を正す。案の定クリス先輩と自然に会話ができない。きっとクリス先輩にも変に思われているだろう。
「先輩は、お元気でしたか」
「それなりにな……御幸は上手くやってるようじゃないか」
「ありがとうございます、日々精進ですけど……」
どれだけ時が経とうとも、この人に褒められるのが本当にうれしくて仕方がない。思わず頬がゆるんでしまう。
「御幸、よかったねクリスに褒められて」
「はい」
若干涙ぐんだのを、亮さんは気づいていたと思う。
「もっと飲みな、身体温まるよ……クリスも猪口が空いてるよ御幸」
亮さんから徳利を包むおしぼりごと受け取って先輩方にお酌をする。三人で猪口を合わせ、呷る。結婚式では固めの杯と言って夫婦になる人たちが飲み交わす、らしい。
なんてヨコシマなことを考えていたからか、疲れていたからか酔いの回りは恐ろしく早かった。
今度は降谷が起きだして亮さんと飲み、俺はなんとクリス先輩の膝枕という恐ろしいものを享受する機会が与えられた。チンコが勃ってしまわないように必死に今日の練習での配球を思い出す。酒で温まった指先が、優しく髪の毛を梳いては、ときに引っ張ってくる。きっと、これが単なる後輩先輩だけの関係でなくなれば、もっと触れることができるのだろうけれど下手を打てばこんな、今までの報われなさを考えると破格のことである膝枕さえしてもらえなくなるだろう。リスクを取るか、アンパイを取るか。この喉がチリチリとひりつく痛みは、まるで野球みたいじゃないか。
どうすればいいのか、どうしたいのか。本当にわからなくなってきてしまった。本当に大事なのは何なのか、守りたいのは何なのか。唯一つ、この優しく触れてくる手を喪いたくないというのは揺らがない。
「なぁんだ、御幸潰れてやがんのか」
「そうなんだ」
ずいぶん遠くで純さんの声が聞こえる気がする。
「すっげぇ幸せそうな顔」
「テレビで見るときはあんなに辛気臭そうというか、ピリピリしてるのにね」
「憧れの先輩の膝枕で寝てるんだぜ……?俺が東先輩に膝枕してもらえるんだったらこんな腑抜けた顔になるわ、わかるぜ御幸」
純さんの酒臭い息が吹きかけられて思わず顔をしかめる。
「お、こいつ起きてんじゃねーか」
「起き上がれないだけで、意識はしっかりしてますよ……」
「意識しっかりしてたら先輩の膝で寝ないから」
バッサリ、だとかそういう効果音が付きそうな声音で俺の戯言を切り捨てる亮さんから眉間の皺を伸ばされる。
「ずっと気を張ってたんだね、今くらい甘えていいよ……クリスに」
皆はからかうように笑って、よかったなぁなんて言っているけど俺は怖くてクリス先輩の顔が見れない。呆れたような笑い方だったらどうしよう、もう、季節のあいさつすら返ってこなかったら、と嫌に弱気になってしまうがそれをどうにか押し込めて、酔いがひどく回っているふりをして存分に堪能する。明日になったらあのときは酔っぱらっていて、と言い訳をすればいい。どんな関係であれ、続けていたい。
「御幸、本当に飲めないのか?」
めちゃくちゃに酒に弱いからと藤原先輩からも純さんからも薄く作ったカクテル以外はやめておけと言われてから、素直にカシオレをちびちび飲む哲さんの声で少しだけ覚醒した。
「そんな、哲さんに言われたら飲めないわけないです」
「御幸、無理するなよ」
憧れの先輩と、愛してやまない先輩二人から気遣う言葉を掛けられて喜ばないわけがない。普段はこんなにふにゃふにゃ笑わないのだけれど、今は頬が嫌に緩い。
クリス先輩の猪口に、熱燗を注いで、哲さんが酌をしてくれると言うのを断って手酌で注ぐ。チン、と涼やかにグラスと猪口二つが合わさる音ののち、クリス先輩の喉が上下する。
慌てて目を逸らし、哲さんが剥いた枝豆のカラを適当な皿に盛る。
「む、すまんな」
「とんでもない」
酔いがまわっているフリなんてできないかもしれない。実際にかなり酔いがまわってきてしまっている。ごくごく自然な動作でクリス先輩の太腿に頭を預ける。口先だけはすみませんと言って。あまり弱みを見せたりしなかったからか、驚いた様子で所在無さげに俺の眉毛を引っ張っている先輩の瞳は変わるはずがない日本人離れした金色。それもクリス先輩が眼鏡を外してくれたので見えなくなる。この方が都合がいいかもしれない。
ぼやけた視界にはクリス先輩の指先がいっぱいに映る。酒のせいで最高に気持ち悪いけれど、これだけ酔っていれば、このままで居たいっていうあり得ないことを願う気持ちも、別れの辛さもすっきり忘れて明後日からの練習にも清々しい気分で参加できるんじゃないだろうか?
最後の記憶がそれで、今はどこか知らない家の廊下に座っている。
初めてこんなに飲んだ気がする。気心知れた仲間と久しぶりに合えて本当に嬉しかった。思えば高校ほど腹を割っていた時期はなかったのかもしれない。大人になればなるほど、誰かに自分をさらけ出すことが怖くなっていった。
身体を起こしていると気分が悪くなるので寝ころぶ、というよりずり落ちた。冷たいフローリングに頬を当てて涼んでいると、床を軋ませる音が聞こえる
「目が覚めたか?」
「クリス、せんぱい?」
「ここは俺の家だ。一人暮らしだし、遠慮なく吐くといい」
そう言って冷たい水が入ったグラスを差し出してくるクリス先輩の表情が暗くて見えず、何と無くきまりが悪い。
「俺、吐きました?」
「少しな」
好きな人の前で酔いすぎて吐くだなんて、カッコ悪すぎて別の意味で頭が痛い。でも繕う余裕もないほどには酔ってしまっている。貰った水を少しだけ飲み下す。今更気づいたけれど着せてもらっているジャージ、青道の学校ジャージだ。これを着ていた頃も好きだったけれど、これを着なくなった今もずっと好きだ。これだけは疑いようがない。求めて、求めても手を伸ばすことすら怖がっていたから当たり前だけど、進みようがない恋だ。
しんみりしていたらまた吐き気を催してしまった。
「せんぱい、すみません吐きそう」
「こっちだ」
よろめくと結構強い力で支えてくれる。不覚にもきゅんとしてしまった。ちゃんと掃除してある便器に向かってえづくが、先輩が去る気配が無い。
「せんっ、ぱい、もう大丈夫ですから」
「喉に詰まらせたりしたら大変だろう……いいから」
と言って背中を摩ってくれる先輩の手のぬくみを感じながら、無理やり追い出す気力もなくおとなしくえづく。
「吐ききったならすっきりすると思うが……まだ気分悪いんだろう?」
「はい……」
心配そうにのぞきこんでくれるのが嬉しくて、勘違いしてしまいそうだ。こんなに近くて遠い。酔っていると情緒が安定しない。何故か涙が滲んでくる。先輩ったらあわててる。
「泣くほど気持ち悪いのか……?」
「ぢがいばず」
全然カッコ良くない。好きな人の前でくらいカッコいい自分を見ていてほしいのに。唾液でべちゃべちゃになった口の端をハンカチでぬぐって、クリス先輩の両腕をとって向かい合う。
「ばの」
涙声になってしまって本当に恥ずかしい。
「どうかしたか、水か?」
「ぢがいばず、あじだ、いいだいごとがばるので」
「明日か?明日は一日暇だから大丈夫だ」
そう言って水を飲ませてくれようとする先輩の好意をありがたくいただく。先輩は困った後輩を放っておけないだけ、と考えるのがふつうだけれど、今はそう、お互いに酔っぱらっているから。
◇
言うだけ言って満足したのか、せまっくるしい便所の床で眠い眠いといつもの冷静さや人と関わるとき一線引いたような態度をどこかで落としてきたみたいにぐずる。ぐずぐずと脚にまとわりついては、寒いからと言って離さない。
在学中も、先輩後輩として理想的な関係であったと思う。お互いを尊敬し、慕いあう関係であったと俺は思っていた。いつからか、多分甲子園行きを決めたあたりから御幸に負担をかけてはいけない、もう彼の時代なのだからと足が遠のいた時期があったが、それから数か月は何も変わらず過ごしていたはずだ。
ただ、俺が少し遠くから御幸を見たことで湧いた澱が胸の奥底に沈んでいる。どうして御幸は、今や俺より実績がありながらも憧れであると慕ってくれているのだろうか。昔の俺の偶像を御幸のなかで作り上げているだけで、今の俺のことを尊敬しているわけではないのかもしれないということが気になってしまっている。
御幸が慕ってくれるのを、先輩先輩と情を注いでくれるのをいいことに、御幸の気持ちに胡坐をかいている、尊敬する価値が薄れた単なる年長者に成り下がってはいないだろうか。
その、曇りない尊敬に値する人間であり続けて居れているだろうか。
今日だって、御幸が珍しく甘えてくるものだから、嬉しかった。俺が大切にした後輩が、こうして少し弱いところを見せて頼ってくれるのだから自分に少しだけ価値を見いだせたような気がする。特に膝枕をせがんだり、泣きながら自分に何かを伝えようとしていた姿が目に焼き付いている。今は泣き腫らした目元をそのままに安らかな寝息を立てている。慣れない暮らしで、気を張っていたんだろう。眼鏡を外してやると少しだけ幼げのある表情が見える。自分とそう変わらない後輩が、立派になったことの嬉しさと、あんなに泣くほど大変なことを伝えられるのかと思うと少し心配になる。
「へんぱい」
「どうした?眩しいか?雨戸閉めてくる」
「ふふ」
満足げににやけたあと寝入ってしまった。ここまで遠慮が無いのに嫌な気がしない。むしろ甘やかしてやりたくなる。
せまっ苦しい一人暮らしの家に男二人が寝場所を確保するだけで大変だ。どうにか御幸の居ないスペースを探して寝ころぶ。
プロ野球選手として、テレビの向こう側にいるところを見る機会の方が増えたのにこうして俺の家でだらしなく腹を出して眠っている。不思議な気分だ。高校を卒業してしまえば、学生時代に培った縁というものは多少なりとも薄れてしまうものだと思っていたが、物理的な距離が一番離れてしまったこの後輩とはなぜか、繋がっている。
◇
酔っぱらって、寝落ちた後記憶が消える人も居るらしい。俺はそうではないし、クリス先輩もそうではないようだ。
台所からは味噌汁の匂いがする。先輩が作ってくれた味噌汁を食べれるなんて、幸せすぎて明日世界が終わるじゃないだろうか。
「起きたか?」
「……起きました」
「そうか、洗面所に新しい歯ブラシあるから、使っていいぞ」
「何から何まで本当にすみません」
「いいんだ」
こんなに優しく、微笑みかけてくれる。昨日は、言いたいことが有ると言ったけれど冷静になった今、この関係を投げ打ってまで先輩後輩以外の関係になることが本当にいいことなのかと、洗面所に二つ並んだ歯ブラシを見て思う。
いい、悪い、簡単、困難を別にして、俺はこの人に触れたい。応えて、もらいたい。駄目だったら、謝って、それでいい。先輩には悪いけどもう俺は耐えられない。墓までもっていくつもりだったのに、たった数年で耐えられないほど大きく膨らんだ恋心は、果たして実をつけるのだろうか。
白米と漬物と味噌汁。吐いてほぼ空になった胃に染みる。たぶんこれは出汁をとらずに唯味噌を入れただけの味噌汁だが、先輩が作ったと言うだけで最高に美味しく感じる。
「で、言いたいことってなんだ?」
「えっ、あ~あの、ご飯食べ終わってからでもいいですか?」
心の準備が、と言っていつものように笑うと、そうかとだけ言われて沈黙。言わないと、言わないと後退はないが進展もないと言い聞かせれば言い聞かせるほど気分が沈む。紙パックの烏龍茶をグラスに注いで、どうにか流し込む。
こまごまと世話を焼いてくれたうえに、食後のほうじ茶まで淹れてもらってしまった。ありがたいと同時にとても申し訳ない。
「あの」
「うん、どうしたんだ改まって」
全身の血が逆流しているような音が聞こえる。先輩は人と話すとき目を逸らさない。わかっていたはずなのに今はそれが耐えられそうにない。
「あの、俺」
「うん、ゆっくりでいい」
もう言ってしまうつもりでいたのに、まだまだ緊張はし続ける。グラスに残った烏龍茶を呷る。
「ずっと、先輩にあこがれていました」
もう、無意識のうちに剥がれ落ちてくるように言葉を発する以外に、何もできない。唯少しでも真意が伝わるように、瞳に熱を込めて。
「でも、自分でも知らないうちに、憧れ以上の存在に、先輩がなっていって」
「自分の中でもそんなこと初めてだったので、すごく怖くて」
「最初は、憧れだったんです、けれど今は、今も憧れですけれど、ほかにも、あって」
「俺は、もうどうしようもなくあなたの事が好きなんです」
時計の音だけが聞こえる。俯いたまま、未だに俺の方を見つめ続けて居るであろう先輩の顔を見れない。指先から冷えてなくなっていくような感覚に襲われる。
「そうか……」
やっとそれだけ言った、といった風に聞こえた先輩の言葉には呆れや嫌悪というよりは驚きが優っているように聞こえる。
「それは、多分……先輩と、後輩……いままでのような感覚で好き、と言っている訳ではなさそうだな」
「はい」
「そうか……あ、いや、嫌だと言っている訳では無く、少し驚いてしまって……」
当たり前だろう、いままで後輩だと思っていた男から好きと言われて戸惑わない人はいないと思う。それに言う側は唯好きと伝えればいいが、受け取る側は処遇を決めなければならない。
でも、拒絶はとりあえず無いらしく安心した。
「どう、したらいい?」
「え?」
「正直、わからないんだ……確かに御幸のことは大切な存在だけれど、そういう対象としてみたことがないから、自分の中でも、わからない……そもそも御幸の尊敬に値するのかについて疑問があって、あとずっと素っ気なかったから嫌われているものだと思っていたし……その、そりゃあ昔の俺はそれなりに野球ができていたが……今は……」
急にそんな、いままで後輩として見ていた奴から言われたらさすがのクリス先輩も焦るらしい。目線をうろうろと落ち着かなく動かして、いつも自信満々に見つめてくるが今は目を伏せている。
「そうじゃなくて……あの俺、あのときずっと、絶対叶わなないだろうから、自分の中で気持ちを閉じ込めていおくこととか、会っても、別れてしまうのがその、つらくて……変な態度とってごめんなさい……でもそんな卑下しないでください……」
取り留めなく、頭に浮かんだ言葉をそのまま吐きだしている。どうしたら伝わるだろうか。俺の中で尊敬というものはあなたのためにあるような言葉で、年を経て変化しつづけるあなたを尊いと思うことであることが。クリス先輩への尊敬やまた他の言葉にできない気持ちたちを、自分の言葉で伝えて先輩へ俺からの気持ちに納得してもらわないとならない。好きの羅列以外で、だ。
「別に、世間の恋人像に当てはめろとは言いません、一緒に、一緒に居てください……俺も、先輩にどうやって百パーセント伝えられるかわからないから、俺と一緒に探してください……」
やっとそれだけ絞り出して、まだ少しだけ眠そうなクリス先輩に縋るような目を向けてしまう。ダメだったら諦めよう、と思っていたがこんなことではそれも難しいだろう。
先輩は一つため息をつくと箱ティッシュを引き寄せて二三枚抜き取り、俺の鼻先に押し付けた。
「そうだな……探してみようか。俺と御幸で友達でも、先輩でもない、後輩でもない新しい関係を……ってまた泣いてるのか……?」
こんな女々しいようでは呆れられてしまう、どうにか涙を押しとどめようとしても、抑えようとすればするほど大きな声をあげて泣いてしまう。
最後に泣いたのはいつだったろうか、クリス先輩に彼女ができた夢を見た日の朝以来だろう。きっと。
「泣き止ませるのも俺の役目になったんだろうな……ほらおいで」
そんなに優しくされたら箍が外れて、俺の好きでクリス先輩を押しつぶしてしまいそうだ、とどこまでも嫌われたくない気持ちが働くが、やっと、やっと恋が実をつけたのだから、こんな時くらいは素直に自分の気持ちを出してみたい。
肩をやさしく摩る手は、間違いなく俺が想い続けたクリス先輩の手なのだと頭で認識しようとすればするほど涙が後がつかえているいるみたいに溢れる。
「御幸はそんなに泣かない印象があったけどな、卒業式でも落ち着いていたし」
違う、本当はクリス先輩が卒業したらもう会えないと本気で思っていたから苦しくて仕方なかった、と言いたいのに嗚咽以外のものが出てこない。言葉にならない代わりに、おそるおそる、首筋に顔をうずめた。もし男にひっつかれるのがイヤでも、すぐに振り払えるようにそっと。
少しだけ身を固めたのがわかった。引こうとしたら引き寄せられたので、拒絶ではなかった。
「あ、いや、血のつながらない他人と、こう、親密な、えーと、初めてでな……こういったことも、二人で落としどころを見つけていこう」
言いたいことは沢山あるのに、わんわん声をあげて泣く以外のことができない。泣け泣け、と言わんばかりに世界で一番大好きな人が背中をなでてくれるのも、今は涙をさらに生産する。
「そうだな……今日は御幸もオフなんだろう?少し歩くが、チョコレートパフェが美味い店があるからそこに行こう、それで、少しキャッチボールをして……」
何やら提案をしてくれるクリス先輩の声をずっと聞いていたい。深く、何度も頷いて同意を示す。先輩とだったら、なにをしても、どこへ行っても良い。これからどんなことをしよう、どこへ行こう。今までの季節の思い出はクリス先輩を起点にして思い出していたが、これからは一緒に過ごして、思い出をたくさん作れると思うと急に楽しみになってきてしまうのだから、俺も現金な奴だ。
日本語には、恋が実るという言葉がある。
成長過程が悩ましかったから、そんなに形がいい実ではないだろうけれど、きっと、美しく色づくだろう。
「そうと決まれば、用意してでかけよう」
素敵な笑顔で微笑まれ、まだ残っていた涙をぬぐわれてしまったら、頷く以外の選択肢を俺は持ち合わせていないし、選ばない。涙声で返事をして、放られた着替えを受け取った。
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2015年10月の本の再録
薄氷 #ダイヤのA #カップリング #御クリ
薄氷 #ダイヤのA #カップリング #御クリ
五年、十年先の将来を見据えた進路を計画して進学先を考えろ。
先生方はそう言うけれども今一瞬先の判断すら危ういって言うのに、少なくとも俺にはそんなことは無理だ。俺がどうってことない屁理屈を捏ね回しても静かに笑うだけのクリス先輩は大人びた表情を崩さずにそうだな、とだけ言ってスコアブックをまた一枚捲る。たとえば目と鼻の先にある柔らかそうな、ぽってりと厚い唇を奪ってしまったらそこから始まるものがあるかもしれないし、今まで積み上げてきた信頼をすべて台無しにしてしまうかもしれない。結果が出てからわかることだってある、と自分の暴挙を正当化するのも、自分を信頼してこのチームの正捕手である俺を支えてくれている先輩を心の底で裏切っているような気になってしまう。実際は行動に移す勇気はなく、自分のなかに黒々とした澱をしまいこむだけ。
この桃色と言うより青黒い片思いの障害は山ほどあれど有利に進められる可能性はほぼ無いと言っていいだろう。同じ学校同じ部活同じポジション先輩と後輩そして、男同士。考えれば考えるほど絶望的。やっぱりこのまま卒業してもらった方が良いだろう。言われる側はたまったもんじゃないだろう。信じて、慈しみをもって育てた後輩は実は自分の事が好きだったなんて言われたらあの人はどんな反応を見せるだろう。あのいかにもわたしは理性的で、感情に流されることなんてありませんよ、と言わんばかりの表情を少しでもゆがませることができたりするのだろうか。
皆に優しい憧れの先輩に欲情する俺の頭をどうにかしてほしい。こんな感情知りたくなかった。ただただ野球をやって、普通に卒業して、恋人をつくって、結婚して、っている日本のテンプレ的しあわせな人生を歩みたかった。けれどもうそれも叶わない。この感情に蹴りをつけない限り俺はどこにも向かえないだろう。それくらいは何となくわかる。
そもそもいつから先輩を、そういった目で見るようになったのか。確実にこれという記憶は無い。気づいたら先輩の背中を追っていた。最初は純粋に先輩のプレーにあこがれていた。上手い捕手にあこがれ、自分もこうなりたいと願い少しでも技を盗もうと、足の運びミットの位置、細かく細かく研究した。ここまでは良い。
思い当たる節を見つけてしまった。あぁ最悪の男だ俺は。先輩が肩を遣ったあと選手としてプレーするのは高校生のうちは難しいとカントクに報告しているところを偶然盗み聞きしてしまったことがクリス先輩にバレたときの表情だ。あれで俺は道を踏み間違えた。夕日がドラマみたいに先輩の髪を照らしていて、いままで自分にみせたことのない陰鬱で、胸を裂かれるような悲しみを孕んだ表情。別にそのときまで正しい道を行っていたとはお世辞にもいえないけれど。溜息をひとつついて白地に青水玉のパッケージのペットボトルをゴミ箱に投げる。かこん、と小気味良い音をたてて収まった。初恋は甘酸っぱい味なんて誰が言ったんだ。少なくとも俺の初恋は苦くて重たくて舌に胃にいつまでも残る不快な味じゃないか。
「オイ御幸ィ!何しんみりしてンだよ!!」
ヒャハ、と独特の笑い声をあげて倉持が背中を思い切りたたく。こいつはどつくとき手加減をしらないから面倒だ。
「なんだ、倉持か」
「なんだとはなんだよ。俺がせっかくしみったれた御幸をイジりに来たって言うのに」
「はぁ……」
「はい幸せ逃げたー」
「元からねぇよ」
あまりに声音を落とし過ぎたか、ぎょっとした風にこちらを見てくる。
「え、マジで落ち込んでる?」
「おーおー、落ち込んでる」
この行き場のない想いをどこに墓をたてて埋めてやればいいのか、こいつが知ってるとは思えないけれど。
「なんだよ、言ってみろよ」
これは言うまでしつこく言われるだろう。言葉を選んで、決して真意を悟られないように。
「……お前ってさ、初恋っていつ」
「えっ…………し、小三」
「へー」
まさか恋愛相談をされると思っていなかったのか妙にそわそわとこちらをうかがってくる。今日も陽が沈んでいくけれどあの時ほどえぐみの無い色をしている。
「クラスのさー可愛い女の子。マミちゃんったかなー……俺当時クソガキだったからさー、蛇とか虫とか押し付けて泣かしてた……」
「最悪じゃん」
「なんでだろうな、小さいころって好きな子苛めたくなるのはさ」
「知らねぇ」
「はぁー厳しいな。まぁそこまで憎まれ口叩く余裕があるなら平気だな」
寮へ戻る倉持の背中にありがとう、と小さく言うと豆だらけの手を一度だけ振って見せた。
いままで恋という恋をしてこなかったせいか、色恋沙汰にはとんと疎い。女の子からはちらほら告白されることはあったけれど、付き合っているうちに予定を合わせるのが、わざわざ会いに行くのが億劫になってキレられて消滅、というパターンが一番多かった。特別何とも思っていなかった人と一緒に居るのが、そんな人のために予定を空けるのが苦痛で仕方がなかった。いま自分が追われる側から追う側になって自分のしてきたことの残酷さを理解した。こんなにも、鳩尾のあたりにずしりと沈むような、刃物が身を通るような痛みを感じながら彼女らは俺を追いかけてきてくれたのか。今更ながら罪悪感が胸を締めつける。だからといって女の子に興味がない訳ではなく、今の夜のオカズだって熟女、JK、JD、コスプレなど幅広いラインナップをスマホに揃えている。やっぱり、俺は同性愛者ってやつなんだろうか。答えはイエスだろう。俺はクリス先輩のことを恋愛多少として、好きなんだから。
触れてしまいたい、でも、触れたあとの反応が怖い。よこしまな意図を以て触れたところで先輩と後輩との関係を粉々にしてしまうのが、怖い。
◇
御幸が何か悩んでいるらしい。
そのようなことを倉持が伊佐敷に無駄に大きな声で相談しているものだから自然に耳に入る。きゃいきゃい煩い倉持の言葉を掻い摘んで纏めると「奴の名誉にかかわることだから内容は言えないけれど悩んでいる」らしい。
「だからって、何故俺に話が回ってくる」
「え?駄目なのか?」
「駄目、ではない、けれど」
「じゃあ頼む、話聞くだけ聞いてやってくれよ」
現役選手である伊佐敷の頼みを無下にできずに、『御幸の相談事を聞いてやる』という使命を課されてしまった。決して駄目なわけでも嫌なわけでもない。
ただ、自分が話を聞いたところで御幸はただいつもの人を食ったような笑いを見せて、なんともないですよ、とだけ言うだろう。俺には絶対に本心は見せないし、それを隠そうともしない。要するに信頼を得れていないのだ。それなのにポジションが一緒だからという理由だけで聞いてもお互いの時間の無駄ではないか。
それに、奴はもう俺の知っている御幸ではない、気がする。これは野球部の人間には角が立つだろうし誰一人として言ったことは無いが現役で、優秀なチームのまとめ役の一人で、正捕手である御幸がいま何に見て、感じて、悩んでいるかなんて俺には想像つかない。あのグラウンドにチームメイトと立ち、頭を巡らせて一瞬一瞬を楽しむことが俺は今後一生できない。
女々しく、汚らしい自分に嫌気がさす。そんな自分が御幸の悩みをどうにかできるのだろうか。それでもまだ先輩面させてくれている後輩たちに感謝の意を示すためにもここは素直に相談に乗ってやろうじゃないか。
全体練習、自主練習、入浴を終えたころを見計らってリハビリセンターから寮へ戻った。三年最後の夏が近づくにつれて日中だけでなく夜も湿っぽくなってきた。季節のうつろいをぼんやり眺めていると意識せずとも感傷的になってしまう。野球が生活とともにあった高校生活、たとえどんなに勝ち進んだとしても終わりは必ずやってくるということは頭ではわかっていても想像がつかない。授業が終わったところでなにをするのだろう。放課後部活がない生活が想像つかない。
見覚えのある少しだけ茶がかかった頭を見つけて自分の中に渦巻く汚い澱に蓋をして慈しんでやまない後輩へ声をかける。
「御幸」
◇
心臓がひっくり返りそうって多分こんな状況を指すんじゃないか。
本当にかっこいい人は適当なジャージ姿でもスマートに決まるもんだななんて感想しか抱けない。こんなきれいな人を組み敷く妄想で時々抜いているなんて口が裂けても言えない。
そんなこと億尾にも出さずにいつもの笑みを顔に貼り付ける。
「わークリス先輩じゃないすか、どうしたんですか」
「どうしたもこうしたも……まぁいい。何か飲みたいものあるか」
「えっマジっすか、じゃあそうだなぁ……いまCMで青春の味!ってやってるやつで」
先輩は溜息ひとつついて具体的に言え、というけれど俺が飲みたいと思った白地に青水玉のペットボトルを投げてよこした。こういうところがかっこいいんだよ。好きなことが自分の事をわかってくれることがこんなに嬉しいことだって知らなかった。
男二人で星空眺めながらおしゃべり。傍から見れば奇異の目で見られそうだが、それどころじゃない。内心心臓バクバクどころか口から出てきそうだ。もうこのまま時が止まるか過ぎても巻き戻すかできればいいのに。マジで。
「ところで、御幸」
「なんすか」
「……最近お前何か悩んでいるだろう」
◇
そこで御幸に黙られるとは思わなかった。遠くでもう寝なさい!と怒鳴る女性の声が聞こえた。御幸は一瞬だけいつもの笑顔を崩し、焦りや悲しみのような感情をくみ取れる表情になったがすぐに笑顔を取り繕う。
「……俺は信頼できないか」
「いえっ!全然、そういうのじゃなくて、っていうかむしろその逆でっていえなんでもなくて……でも」
「俺には言えないか」
「はい、可能性はほぼゼロです」
「そうか、まぁ、でも言いたくなったらいつでも連絡寄越せ、電話でもメールでも」
「は、い」
「よし。良い返事だ。時間取らせて悪かったな」
「いえいえ気にかけて頂けて……その、嬉しいです」
「もちろんだ、青道の正捕手様にできることならな」
照れ隠しと嫌味の中間のようなことを言ってしまった。御幸はとくに気にしてなさそうに笑っていてほっとした。一度御幸の風呂上りなのか生乾きの頭をかき回しておやすみ、とだけ言って部屋に戻った。
◇
あまりに残酷過ぎやしないか。これ。
先輩が見切れるまでベンチのそばを離れられなかった。撫でられた湯上りのまだ湿った髪を何度か触ってみたけれど、当たり前だが自分の体温しか感じない。が確かに先輩は俺の髪に触れてあまりに残酷な一言を投げて帰って行った。俺は先輩にとって、青道の正捕手としての価値しかない。俺の初恋は焼け野原になって終わった。
とぼとぼと寮に歩いていている間ずっと先輩の言葉を反芻していた。信頼できないか、と悪戯っぽく笑いながら言ったクリス先輩、良い返事だ、と先輩らしい余裕を前面に出したクリス先輩。そして俺の頭を子供を可愛がる父親みたいな表情で撫でていったクリス先輩。溜息を一つついてしまう。倉持が言うには幸せが逃げる。
が、連絡をいつでも寄越していいと言ってもらえたことは大きな収穫だ。俺は嫌な男だからな、あきらめが悪いんだ。
多分、クリス先輩は俺がすごく「良い子」だと思ってくれているんじゃないか。後輩や同期は扱いは雑でも、先輩みんなにとっていい子だと思っているのでは。そりゃあ同期より先輩の方が良い扱いするなんて当たり前。その上好きな人の前で良い恰好したいという心理は誰にだってある、と思う。俺だってそうだ。クリス先輩の前だから、あんまりガキっぽいことしたくないし、選手として、人間として先輩に認められたいと同時に愛されたい。俺が先輩を想うだけ、先輩も俺を想って欲しい。最後のはちょっと贅沢だけれど、そうなったら最高だ。
一人で考察している分は、関係が前進することも後退することもない、ある意味幸せな時間だろう。けれど自分から行動を起こさないと人間関係はずっと平坦なままだろう。それを思い切りぶち壊したのが沢村だ。球を受けろと親鳥につき従う雛鳥のようについてくる。もう十時を回ったから消灯だっていうのに煩い奴ら。
「だぁあもううるっせえな今日はもうだめだってさっきから何回言ったらわかるんだ」
少しきつめに言うと二人は目に見えるほどしゅんとしてしまい、若干罪悪感を感じる。
「じゃあ……明日ならいいんですか」
「いいんじゃないか」
予想もしないところからクリス先輩の声が聞こえた。
「クリス先輩!!!!」
「こら沢村、もう夜だからな、少し声を落とせ」
「すみません!!!!」
まったく困った奴だ、と言わんばかりに眉根を寄せて慈愛、のようなものを含んだ目線を沢村と降谷に向けるクリス先輩を見て頭につめたいものが広がる感覚。はぁあ、この人は後輩にはこういう目線で接するのか。馬鹿な奴だな俺も。幼稚で後ろ向きな奴だな。つーか先輩と後輩の無垢なやりとりを、恋愛の尺度で測るからおかしくなるんだよ。俺が先輩のこと好きじゃなけりゃこんなあたりまえのやりとり見てても苦しさなんて感じないんだよ。
「どうした、御幸」
声をかけられてやっと我に返った。三人とも不思議そうに俺を見ている。あわてていつもの笑顔を貼り付けてちょっとぼんやりしてて、と苦しい言い訳をする。
「明日の練習後、俺とお前で二人の球受けてやろう。沢村と降谷、両方に課題はまだまだあるからな」
「うぃっす、まぁ、クリス先輩がそう仰るなら」
「ありがとうございます!!クリス先輩!!」「ありがとうございます」
「御幸も受けてくれるんだぞ」
「う」
感謝の言葉を言うのがむずがゆいのか、沢村は唇をとがらせてこちらをじっと見てくる。
「……ありがとうございます」
「へーへー」
沢村の頬を指でつついて煽り、反撃を食らう前に逃げる。後輩に嫉妬まがいの感情を抱いてしまう自分からも逃げたい。ごめんなこんな先輩で。認められたい大人ぶっていたいとか思うくせしてこれだから。御幸はいつも冷静だなんて誰が言った。忍ぶ恋のひとつも隠し通せそうもないのに。まっすぐに野球に取り組む後輩たちがまぶしい。
正直、自分の中にだけ抱えているのに限界を感じる。物凄く勝手だとは思う。勝手に憧れて、勝手に好きになって、それを抱えきれないから迷惑承知で告白する。あまりに自己中心的だけれど、もう精神状況がおかしいのかもしれない。昔告白してきた女の子に言われる側の気持ちになってみろよ、俺だって断るの気分悪いって言ったのを思い出して胸が悪くなる。本当に、残酷なことをしてきた。まわりまわってしっぺ返しを食らっている。俺も、俺から告白されるクリス先輩の気持ち考えてみないとな。
そんな目で見てたなんて気持ち悪いって言われるのか。それともお前は野球ができるのに真面目に取り組まないなんてって言われるのか、そもそも捕手でないお前個人に魅力を感じない、とか?俺がネガティブってのを差し引いてもこのくらいが妥当だろう。むしろそうやって叩き切ってくれたほうがスッキリしそうだけれど。さんざんお世話になった先輩に更に迷惑かけるという自己嫌悪で潰れそうになりながら、相談という件名を入れて用件だけを書いたシンプルなメールを用意する。
よし、もうこんな気持ちさっさと潰して膿をだしてしてしまおう。自分で自分の初恋、初めて夢中になった恋を潰さなければいけないなんて俺何かしたかな。したか。
耳障りな着信音とともに返事が来たことを知らせてくれる。実にシンプルに用件のみ書き表わされている。俺のためだけの時間が、クリス先輩の予定を埋めているかという事実だけで女々しいとは思うものの顔がにやけてしまう。結果はどうであれ俺は前に進める。俺の選択は何一つとして間違ってはいないはずだ。
それから数日は最高の気分で練習に取り組めた。というより今まで完全に自己都合で注意散漫なまま練習していたっていうのが自分でも責められるべきだと思う。まだ言ってしまってもいないのにすべて良い方向へ流れて終わったかのようなさわやかな気分。なんなんだこれは。ネガティブ通り越して頭がおかしくなったのか。
よこしまな思いで先輩を呼び出した日が近づくにつれて罪悪感や焦りで頭がおかしくなりそうになる。常に 胃もたれしているような不快感が神経を逆なでする。なんだよお前オトコノコの日かよ、なんて言う下品でどうということのない冗談にも必要以上に苛立ってしまう。
俺は感情をコントロールできる、完全に俺は大人だと思っていたけれど違うみたいだ。他人に当たり散らすようじゃまだまだガキだ。駄目だ駄目だと思うだけドツボにはまっている気がする。それもあと数日だけなら、恋の痛みってやつに浸っていてもいいのか、とも思う。午後から急に降り始めた雨が気持ちをも湿らせているのかもしれない。グラウンドを思い切り駆け回って余計なことばかり考える脳味噌をどうにかしたい。
ここで傘を教室に忘れてきたことに気付いた。舌打ちを一つしてからエナメルバッグを肩にかけて走りだ、そうとして
「御幸」
聞き覚えのある、俺が聞き間違えようがない声が俺の名前を呼んだのを耳がとらえたのと同時に、俺の心臓が飛び出て落ちた。ほやほやと湯気を立てる心臓をどうにか押し込んで軽薄な笑みをやっとのことで浮かべて振り返る。
「なんすか、ってかどうかしたんですかクリス先輩」
「ちょうどこっちの棟に用があってな。お前傘はどうした」
「いや~教室に置きっぱなしにしちゃったんで、走って行こうかと」
「お前はそういうところが甘いな。風邪をひいたら、とか、転んだらとか考えたりはしないのか」
「ッス……そこまでは……」
「まったく、手のかかる後輩だ」
まるで子供の世話をする大人みたいな、余裕?余裕と言うより懐が広いのか?なんだこの扱いは。どう考えてもひきっつた笑顔でやっとそうッスね、とだけ返した。叱られてしょぼくれていると勘違いしたのか俺の頭を紺色の飾り気のない折りたたみ傘で小突いてきた。
「ほら、これ使え」
「え、いいんスか」
「今度会う日があるだろう、その日に返してくれればいい」
「ありがとうございます」
平常心平常心、と心の中でとなえつつ傘を開いた。先輩は深緑の上品な印象の傘を開いて雨のなか練習場へと向かって行った。その背中を追いかけるように借りた傘を開く。
室内練習場に入った途端繰り返される体育会的なあいさつの波を遣り過ごして練習用ユニフォームに着替える。想像ついたことだったはずだけれども背後でボタンを外す音が聞こえる。今まで男同士で恥ずかしがることもないから練習場の隅で着替えるのはあたりまえのことで、何とも思っていなかった。が今はそうもいかない。同性が恋愛対象になるってことはこういうところがつらい。背後から聞こえる衣擦れの音が気になって仕方がない。クリス先輩がネクタイを外して折り目が付かないように綺麗に丸めて、クリス先輩が指定のベストを脱いで畳む、シャツを脱いで畳む、アンダーシャツを着る前に制汗剤を一吹き、アンダーシャツを被って――やめよう。
平常心平常心平常心平常心、と虚しく唱えてできるだけ素早く着替えその場を離れた。おなじ性別というのがここまで重くのしかかってくるとは。はじめて夢中になった人を追っている頭ではあまり深刻に考えてはいなかった。けれど今俺の状況だとかなり重たい枷になりうるんじゃないかと。今更だけど。ヤバい。今のうちにクリス先輩の背中目に焼き付けておかないと。俺がおなじ性別の、同じ部活の先輩が恋愛対象に入っているってわかったらきっともうこんなふうに気軽に話しかけてもくれないだろうし、近くで着替えなんてもってのほかだろうし。
わざわざ先輩を俺の個人的な事情で呼び出しておいてこんなことを考えるのもどうかと思うけれど、ものすごく、出向きたくない。今まで優しくほほえんでくれていたクリス先輩が、嫌悪感丸出しの目でこっちを見るんだろうな、とか、そんな目で見ていたのかって軽蔑したりするのかなって。
クリス先輩から借りた傘を丁寧に丁寧に畳みながら返事のシュミレートを何度もしたけれど貶されるか断られるかしか考えられない。自分がすっきりするために告白するって決めたはずなのにやっぱりまだいまの関係に未練があるのかもしれない。とりあえず、断られてもいままで通りとは言わなくても避けないでくれ、とは言っておこう。ずいぶんエゴイスティックだけれど、かわいい後輩(?)だったものの最後のお願いくらい聞いてくれそうな気がするけどどうかな。
「で、何なんだ御幸。黙って居ちゃわからん」
「すい、ません」
脳味噌が茹だって上手く働かない。一言、たったひとことだけ先輩と後輩としてだとか、チームメイトとしてだとかそういうのとは違う意味で、好きですって言ってしまうだけなのに言葉が出てこない。胸にじくじくと燻るまだこの関係を続けたい嫌われたくないという気持ちと、わずかな可能性に賭けたいって気持ちが胃に降りていって中身を掻き回す感覚。
吐きそうだ。自分がこんなにも意気地なしだなんて知らなかった。今まで俺に好きです、と精一杯の勇気を振り絞ってぶつかってきたコ達のほうが勇敢だ。どんなに背伸びしても俺は、そりゃあ少しは他人より野球はできるかもしれないけれども十六年しか生きていないクソガキなんだってことを嫌というほど思い知らされた。
「ま、俺は推薦が取れそうだし、後輩の面倒を見る余裕はあるから言いたくなったらメールでも電話でも言えばいいさ」
「呼んでおいてすみません」
「……本当にな。 冗談だ。そんな顔するなよ、お前がそんな顔すると調子狂う」
この滝川・クリス・優卑怯なくらいカッコいいッ馬鹿好きっ、口が裂けても言えない言葉を喉でとどめて、悲痛といった言葉が一番近いような表情を引っ込めていつものニヤけ顔を無理やり貼り付けたものだからどこか歪んでいるのが自分でもよくわかる。
「……悩んでいるんだな、本当に些細なことでも他人に話せば気が楽になるかもしれないし、ならないかもしれない」
「ならないんスか」
「俺もお前も野球バカだからな、野球以外の悩みだったら難しいだろう」
本当に、バレていないのだろうか。
本当はバレていて、クリス先輩は後輩がゲイだってことを言わないでおいてくれている状態のかもしれない。憶測で物を考えると胃を病みそうになるが、可能性はゼロではない。今更、この人に嫌われるのが、拒絶されるのが怖くて堪らない。
「そうっスねぇ……俺も、先輩もまだまだ子供ってことですかねぇ」
「そうかもな……」
失礼なこと言っている自覚はある。俺の一個上だとは思えないほど大人びているクリス先輩に向かってあろうことか俺と同列に考えるどころか、子ども扱い。もう俺一回頭冷やした方がいい気がする。
「明日も朝練だろ、早く寝ろよ」
「ウィッス」
思わずその場にしゃがみ込んでしまう。いろいろなことが一度に起こりすぎて脳味噌が沸騰している。その証拠に傘を返すのを忘れた。
◇
先輩に向かってまだ子供だ、と言っても笑って許してくれる信頼を裏切りたくはない。が、俺は滝川・クリス・優を憧れを超えた感情を以て接している。この葛藤を何度繰り返したかわからないけれど、葛藤が終わると同時に俺の初恋の息の根が止まる。
なんで、俺が女だったり、クリス先輩が女じゃないんだろう。
俺が女だったらもっと大々的にアプローチしたりできたし、クリス先輩が女だったら俺が人生をかけて口説くのに。残念なことに俺は男、クリス先輩も男。現代日本社会では同性愛は異性愛よりもまだまだ違う世界のものだってイメージがある。当の俺がそうだった。だからと言って諦めるという選択は無い。まぁ、いつか、俺が男で、恋人も男でよかった、と思える日が来ればベストなんだけれども。
その前にクリス先輩、女にもてそうだからきっとカワイイ彼女、手は俺みたいに日に焼けて真っ黒でマメだらけじゃない、白魚のような手に小さく桜色の爪が乗っていて、肩は俺みたいに筋肉で覆われていない、守ってあげたくなるような細い肩、腹には腹筋の代わりに、やわらかい脂肪があって、俺みたいに筋肉筋肉アンド筋肉、みたいなゴッツイ脚じゃなくてすらりと綺麗な脚で、そして、女。クリス先輩の遺伝子を後世に遺すことのできる機能をもっている。女。
俺は、男で、クリス先輩は男だから。俺はクリス先輩のこどもを孕めないし、クリス先輩は俺のこどもを孕めない。あたりまえっちゃあたりまえだけれど、同じ恋愛、性欲でありながら異性愛は生み殖やすことができ、同性だとできない。そんなことがこんなにつらいことだなんて知りたくなかった。
それなのにクリス先輩のこと、諦められない俺っていう男はつくづく救えない。
◇
昼休み、今日も体育館裏で誰かが告白されている。
この夏はじめての蝉がけたたましく鳴いている。一匹だけだというのに気に障るほどのうるささ。もう夏かぁ、結局正捕手争い、できなかったな。なんて口が裂けても言えない。正捕手の座が喉から手が出るほど欲しい奴は沢山居るし、クリス先輩だって好きで怪我しているわけでもないし、一緒に、俺より一年間付き合いの長い同期とグラウンドへ立ちたいだろうし。
「私、平瀬くんのことが好きなの。付き合ってもらえないかなぁ……」
頬を染めて、上目遣いで男に女が、自分の性嗜好に合致すると告白する。
気持ちを相手に伝えられるだけで、心底羨ましい。
どうもこの、性別と恋愛の考え方が上手く噛みあわない。男と女の恋愛だったら、イエスかノーか貰えるけれど、男と男だったらまず、同性ということでイエスかノーかそれ以前に、嫌悪感が先立つ可能性が。考えれば考えれば泥沼にのめり込んでいるうえに、沼底で息絶えそうだ。まぁ、そうすればクリス先輩は後輩が同性愛者でした、ってことで悩むことが無くなる。俺が我慢できれば。じめじめした気候をそっくり反映させたような心中を抱えて歩くのも楽じゃない。
実はまだ、クリス先輩から借りた傘を返せていない。けれどこれが野球以外ではじめてできた俺とクリス先輩のつながりかと思うとなかなか返せない。クリス先輩にとっては迷惑極まりない話で、傘なんて返そうと思えばいつでも返せるのに、一番大人ぶりたいあの人の前でだけ俺は全く大人ぶれない。
◇
手の中で傘を弄ぶのもこれで何度目だろうか。
なんの変哲もない紺色の折りたたみ傘だけれど、これの持ち主はクリス先輩なのだと思うだけで特別なものに思える。どこで買ったのだろう、気に入っていたのかな、などと想いを巡らせるが、詰まる。俺の気持ちはどうあれ不便だろうから返さないと。もう一度開いて皺のないように畳みなおす。自分のよこしまな気持ち全部ここに織り込んで、雨の日に開かれたとき弾けるように。
夕方からしとしとと降った雨は、日の暮れた今本降りになって窓をたたいている。この傘が無いせいでクリス先輩が雨に降られていたら、俺のせいでクリス先輩が風邪をひくかもしれない。俺がクリス先輩の人生にひどい形で干渉できる。ひとつ溜息をついて最低な考えを振り払い、重い腰を上げる。物理的距離は壁一枚、精神的距離は遥か彼方。皮肉にも寮の部屋は隣だ。
誰のかわからないサンダルを突っかけてビニール傘をと紺色の折りたたみ傘を持って隣の部屋を訪ねる。
形式だけのノックをすると金丸の声が返ってくる。
「あれ、御幸先輩どうしたんスか」
「クリス先輩に返したいものあったんだけど……居ないっぽいな」
「そうなんですよ、もしかしたらどこかで雨宿りしてるのかも」
「そっか、ありがとうな。もし帰ってきたら連絡してくれ」
「ウイッス」
そう言って扉を閉める金丸を後にして青心寮を抜けて、クリス先輩の行っているリハビリセンターまでの道を辿る。夜の学校は昼間の喧騒がうそのように鎮まりかえっている。校舎の方を通って先生方に見つかっても面倒だから倉庫裏の破れたネットから抜け出す。先輩を風邪ひかせてまで叶えたいことなんてない、足は自然と早まった。
ビニール傘越しに見る夜空は雲に覆われているのがかろうじてわかる。クリス先輩、もういくらか濡れてしまったろうか。アンダーシャツ透けてたら俺の理性はダメだろう。
「御幸か?どうしたこんなところで」
ビルのエントランスで雨宿りをしていたらしいクリス先輩が急に声をかけるもんだから、必要以上に驚いてしまって恥ずかしいったらない。
「いやあの、俺先輩から傘借りたままでしたから」
「それでわざわざここまで……?悪いな、ありがとう」
わざとゆっくり先輩に傘を手渡した。これで俺とクリス先輩の個人的なつながりはまた一つ薄くなった。何を言うわけでもなく学校を目指して歩く。二人分の足音だけが聞こえる。暗くてよかった。たぶん、俺は今耳まで真赤だろう。
「先輩、靴ひも解けてますよ。傘持ってるんで結びなおしたら」
「ありがとう」
先輩のうなじが見える。いつか先輩のカノジョが独占の標に齧るうなじ、先輩の子供が愛おしげに触れるうなじが今この時だけは、俺が見ている。
===
20140505に出した本の再録です
五年、十年先の将来を見据えた進路を計画して進学先を考えろ。
先生方はそう言うけれども今一瞬先の判断すら危ういって言うのに、少なくとも俺にはそんなことは無理だ。俺がどうってことない屁理屈を捏ね回しても静かに笑うだけのクリス先輩は大人びた表情を崩さずにそうだな、とだけ言ってスコアブックをまた一枚捲る。たとえば目と鼻の先にある柔らかそうな、ぽってりと厚い唇を奪ってしまったらそこから始まるものがあるかもしれないし、今まで積み上げてきた信頼をすべて台無しにしてしまうかもしれない。結果が出てからわかることだってある、と自分の暴挙を正当化するのも、自分を信頼してこのチームの正捕手である俺を支えてくれている先輩を心の底で裏切っているような気になってしまう。実際は行動に移す勇気はなく、自分のなかに黒々とした澱をしまいこむだけ。
この桃色と言うより青黒い片思いの障害は山ほどあれど有利に進められる可能性はほぼ無いと言っていいだろう。同じ学校同じ部活同じポジション先輩と後輩そして、男同士。考えれば考えるほど絶望的。やっぱりこのまま卒業してもらった方が良いだろう。言われる側はたまったもんじゃないだろう。信じて、慈しみをもって育てた後輩は実は自分の事が好きだったなんて言われたらあの人はどんな反応を見せるだろう。あのいかにもわたしは理性的で、感情に流されることなんてありませんよ、と言わんばかりの表情を少しでもゆがませることができたりするのだろうか。
皆に優しい憧れの先輩に欲情する俺の頭をどうにかしてほしい。こんな感情知りたくなかった。ただただ野球をやって、普通に卒業して、恋人をつくって、結婚して、っている日本のテンプレ的しあわせな人生を歩みたかった。けれどもうそれも叶わない。この感情に蹴りをつけない限り俺はどこにも向かえないだろう。それくらいは何となくわかる。
そもそもいつから先輩を、そういった目で見るようになったのか。確実にこれという記憶は無い。気づいたら先輩の背中を追っていた。最初は純粋に先輩のプレーにあこがれていた。上手い捕手にあこがれ、自分もこうなりたいと願い少しでも技を盗もうと、足の運びミットの位置、細かく細かく研究した。ここまでは良い。
思い当たる節を見つけてしまった。あぁ最悪の男だ俺は。先輩が肩を遣ったあと選手としてプレーするのは高校生のうちは難しいとカントクに報告しているところを偶然盗み聞きしてしまったことがクリス先輩にバレたときの表情だ。あれで俺は道を踏み間違えた。夕日がドラマみたいに先輩の髪を照らしていて、いままで自分にみせたことのない陰鬱で、胸を裂かれるような悲しみを孕んだ表情。別にそのときまで正しい道を行っていたとはお世辞にもいえないけれど。溜息をひとつついて白地に青水玉のパッケージのペットボトルをゴミ箱に投げる。かこん、と小気味良い音をたてて収まった。初恋は甘酸っぱい味なんて誰が言ったんだ。少なくとも俺の初恋は苦くて重たくて舌に胃にいつまでも残る不快な味じゃないか。
「オイ御幸ィ!何しんみりしてンだよ!!」
ヒャハ、と独特の笑い声をあげて倉持が背中を思い切りたたく。こいつはどつくとき手加減をしらないから面倒だ。
「なんだ、倉持か」
「なんだとはなんだよ。俺がせっかくしみったれた御幸をイジりに来たって言うのに」
「はぁ……」
「はい幸せ逃げたー」
「元からねぇよ」
あまりに声音を落とし過ぎたか、ぎょっとした風にこちらを見てくる。
「え、マジで落ち込んでる?」
「おーおー、落ち込んでる」
この行き場のない想いをどこに墓をたてて埋めてやればいいのか、こいつが知ってるとは思えないけれど。
「なんだよ、言ってみろよ」
これは言うまでしつこく言われるだろう。言葉を選んで、決して真意を悟られないように。
「……お前ってさ、初恋っていつ」
「えっ…………し、小三」
「へー」
まさか恋愛相談をされると思っていなかったのか妙にそわそわとこちらをうかがってくる。今日も陽が沈んでいくけれどあの時ほどえぐみの無い色をしている。
「クラスのさー可愛い女の子。マミちゃんったかなー……俺当時クソガキだったからさー、蛇とか虫とか押し付けて泣かしてた……」
「最悪じゃん」
「なんでだろうな、小さいころって好きな子苛めたくなるのはさ」
「知らねぇ」
「はぁー厳しいな。まぁそこまで憎まれ口叩く余裕があるなら平気だな」
寮へ戻る倉持の背中にありがとう、と小さく言うと豆だらけの手を一度だけ振って見せた。
いままで恋という恋をしてこなかったせいか、色恋沙汰にはとんと疎い。女の子からはちらほら告白されることはあったけれど、付き合っているうちに予定を合わせるのが、わざわざ会いに行くのが億劫になってキレられて消滅、というパターンが一番多かった。特別何とも思っていなかった人と一緒に居るのが、そんな人のために予定を空けるのが苦痛で仕方がなかった。いま自分が追われる側から追う側になって自分のしてきたことの残酷さを理解した。こんなにも、鳩尾のあたりにずしりと沈むような、刃物が身を通るような痛みを感じながら彼女らは俺を追いかけてきてくれたのか。今更ながら罪悪感が胸を締めつける。だからといって女の子に興味がない訳ではなく、今の夜のオカズだって熟女、JK、JD、コスプレなど幅広いラインナップをスマホに揃えている。やっぱり、俺は同性愛者ってやつなんだろうか。答えはイエスだろう。俺はクリス先輩のことを恋愛多少として、好きなんだから。
触れてしまいたい、でも、触れたあとの反応が怖い。よこしまな意図を以て触れたところで先輩と後輩との関係を粉々にしてしまうのが、怖い。
◇
御幸が何か悩んでいるらしい。
そのようなことを倉持が伊佐敷に無駄に大きな声で相談しているものだから自然に耳に入る。きゃいきゃい煩い倉持の言葉を掻い摘んで纏めると「奴の名誉にかかわることだから内容は言えないけれど悩んでいる」らしい。
「だからって、何故俺に話が回ってくる」
「え?駄目なのか?」
「駄目、ではない、けれど」
「じゃあ頼む、話聞くだけ聞いてやってくれよ」
現役選手である伊佐敷の頼みを無下にできずに、『御幸の相談事を聞いてやる』という使命を課されてしまった。決して駄目なわけでも嫌なわけでもない。
ただ、自分が話を聞いたところで御幸はただいつもの人を食ったような笑いを見せて、なんともないですよ、とだけ言うだろう。俺には絶対に本心は見せないし、それを隠そうともしない。要するに信頼を得れていないのだ。それなのにポジションが一緒だからという理由だけで聞いてもお互いの時間の無駄ではないか。
それに、奴はもう俺の知っている御幸ではない、気がする。これは野球部の人間には角が立つだろうし誰一人として言ったことは無いが現役で、優秀なチームのまとめ役の一人で、正捕手である御幸がいま何に見て、感じて、悩んでいるかなんて俺には想像つかない。あのグラウンドにチームメイトと立ち、頭を巡らせて一瞬一瞬を楽しむことが俺は今後一生できない。
女々しく、汚らしい自分に嫌気がさす。そんな自分が御幸の悩みをどうにかできるのだろうか。それでもまだ先輩面させてくれている後輩たちに感謝の意を示すためにもここは素直に相談に乗ってやろうじゃないか。
全体練習、自主練習、入浴を終えたころを見計らってリハビリセンターから寮へ戻った。三年最後の夏が近づくにつれて日中だけでなく夜も湿っぽくなってきた。季節のうつろいをぼんやり眺めていると意識せずとも感傷的になってしまう。野球が生活とともにあった高校生活、たとえどんなに勝ち進んだとしても終わりは必ずやってくるということは頭ではわかっていても想像がつかない。授業が終わったところでなにをするのだろう。放課後部活がない生活が想像つかない。
見覚えのある少しだけ茶がかかった頭を見つけて自分の中に渦巻く汚い澱に蓋をして慈しんでやまない後輩へ声をかける。
「御幸」
◇
心臓がひっくり返りそうって多分こんな状況を指すんじゃないか。
本当にかっこいい人は適当なジャージ姿でもスマートに決まるもんだななんて感想しか抱けない。こんなきれいな人を組み敷く妄想で時々抜いているなんて口が裂けても言えない。
そんなこと億尾にも出さずにいつもの笑みを顔に貼り付ける。
「わークリス先輩じゃないすか、どうしたんですか」
「どうしたもこうしたも……まぁいい。何か飲みたいものあるか」
「えっマジっすか、じゃあそうだなぁ……いまCMで青春の味!ってやってるやつで」
先輩は溜息ひとつついて具体的に言え、というけれど俺が飲みたいと思った白地に青水玉のペットボトルを投げてよこした。こういうところがかっこいいんだよ。好きなことが自分の事をわかってくれることがこんなに嬉しいことだって知らなかった。
男二人で星空眺めながらおしゃべり。傍から見れば奇異の目で見られそうだが、それどころじゃない。内心心臓バクバクどころか口から出てきそうだ。もうこのまま時が止まるか過ぎても巻き戻すかできればいいのに。マジで。
「ところで、御幸」
「なんすか」
「……最近お前何か悩んでいるだろう」
◇
そこで御幸に黙られるとは思わなかった。遠くでもう寝なさい!と怒鳴る女性の声が聞こえた。御幸は一瞬だけいつもの笑顔を崩し、焦りや悲しみのような感情をくみ取れる表情になったがすぐに笑顔を取り繕う。
「……俺は信頼できないか」
「いえっ!全然、そういうのじゃなくて、っていうかむしろその逆でっていえなんでもなくて……でも」
「俺には言えないか」
「はい、可能性はほぼゼロです」
「そうか、まぁ、でも言いたくなったらいつでも連絡寄越せ、電話でもメールでも」
「は、い」
「よし。良い返事だ。時間取らせて悪かったな」
「いえいえ気にかけて頂けて……その、嬉しいです」
「もちろんだ、青道の正捕手様にできることならな」
照れ隠しと嫌味の中間のようなことを言ってしまった。御幸はとくに気にしてなさそうに笑っていてほっとした。一度御幸の風呂上りなのか生乾きの頭をかき回しておやすみ、とだけ言って部屋に戻った。
◇
あまりに残酷過ぎやしないか。これ。
先輩が見切れるまでベンチのそばを離れられなかった。撫でられた湯上りのまだ湿った髪を何度か触ってみたけれど、当たり前だが自分の体温しか感じない。が確かに先輩は俺の髪に触れてあまりに残酷な一言を投げて帰って行った。俺は先輩にとって、青道の正捕手としての価値しかない。俺の初恋は焼け野原になって終わった。
とぼとぼと寮に歩いていている間ずっと先輩の言葉を反芻していた。信頼できないか、と悪戯っぽく笑いながら言ったクリス先輩、良い返事だ、と先輩らしい余裕を前面に出したクリス先輩。そして俺の頭を子供を可愛がる父親みたいな表情で撫でていったクリス先輩。溜息を一つついてしまう。倉持が言うには幸せが逃げる。
が、連絡をいつでも寄越していいと言ってもらえたことは大きな収穫だ。俺は嫌な男だからな、あきらめが悪いんだ。
多分、クリス先輩は俺がすごく「良い子」だと思ってくれているんじゃないか。後輩や同期は扱いは雑でも、先輩みんなにとっていい子だと思っているのでは。そりゃあ同期より先輩の方が良い扱いするなんて当たり前。その上好きな人の前で良い恰好したいという心理は誰にだってある、と思う。俺だってそうだ。クリス先輩の前だから、あんまりガキっぽいことしたくないし、選手として、人間として先輩に認められたいと同時に愛されたい。俺が先輩を想うだけ、先輩も俺を想って欲しい。最後のはちょっと贅沢だけれど、そうなったら最高だ。
一人で考察している分は、関係が前進することも後退することもない、ある意味幸せな時間だろう。けれど自分から行動を起こさないと人間関係はずっと平坦なままだろう。それを思い切りぶち壊したのが沢村だ。球を受けろと親鳥につき従う雛鳥のようについてくる。もう十時を回ったから消灯だっていうのに煩い奴ら。
「だぁあもううるっせえな今日はもうだめだってさっきから何回言ったらわかるんだ」
少しきつめに言うと二人は目に見えるほどしゅんとしてしまい、若干罪悪感を感じる。
「じゃあ……明日ならいいんですか」
「いいんじゃないか」
予想もしないところからクリス先輩の声が聞こえた。
「クリス先輩!!!!」
「こら沢村、もう夜だからな、少し声を落とせ」
「すみません!!!!」
まったく困った奴だ、と言わんばかりに眉根を寄せて慈愛、のようなものを含んだ目線を沢村と降谷に向けるクリス先輩を見て頭につめたいものが広がる感覚。はぁあ、この人は後輩にはこういう目線で接するのか。馬鹿な奴だな俺も。幼稚で後ろ向きな奴だな。つーか先輩と後輩の無垢なやりとりを、恋愛の尺度で測るからおかしくなるんだよ。俺が先輩のこと好きじゃなけりゃこんなあたりまえのやりとり見てても苦しさなんて感じないんだよ。
「どうした、御幸」
声をかけられてやっと我に返った。三人とも不思議そうに俺を見ている。あわてていつもの笑顔を貼り付けてちょっとぼんやりしてて、と苦しい言い訳をする。
「明日の練習後、俺とお前で二人の球受けてやろう。沢村と降谷、両方に課題はまだまだあるからな」
「うぃっす、まぁ、クリス先輩がそう仰るなら」
「ありがとうございます!!クリス先輩!!」「ありがとうございます」
「御幸も受けてくれるんだぞ」
「う」
感謝の言葉を言うのがむずがゆいのか、沢村は唇をとがらせてこちらをじっと見てくる。
「……ありがとうございます」
「へーへー」
沢村の頬を指でつついて煽り、反撃を食らう前に逃げる。後輩に嫉妬まがいの感情を抱いてしまう自分からも逃げたい。ごめんなこんな先輩で。認められたい大人ぶっていたいとか思うくせしてこれだから。御幸はいつも冷静だなんて誰が言った。忍ぶ恋のひとつも隠し通せそうもないのに。まっすぐに野球に取り組む後輩たちがまぶしい。
正直、自分の中にだけ抱えているのに限界を感じる。物凄く勝手だとは思う。勝手に憧れて、勝手に好きになって、それを抱えきれないから迷惑承知で告白する。あまりに自己中心的だけれど、もう精神状況がおかしいのかもしれない。昔告白してきた女の子に言われる側の気持ちになってみろよ、俺だって断るの気分悪いって言ったのを思い出して胸が悪くなる。本当に、残酷なことをしてきた。まわりまわってしっぺ返しを食らっている。俺も、俺から告白されるクリス先輩の気持ち考えてみないとな。
そんな目で見てたなんて気持ち悪いって言われるのか。それともお前は野球ができるのに真面目に取り組まないなんてって言われるのか、そもそも捕手でないお前個人に魅力を感じない、とか?俺がネガティブってのを差し引いてもこのくらいが妥当だろう。むしろそうやって叩き切ってくれたほうがスッキリしそうだけれど。さんざんお世話になった先輩に更に迷惑かけるという自己嫌悪で潰れそうになりながら、相談という件名を入れて用件だけを書いたシンプルなメールを用意する。
よし、もうこんな気持ちさっさと潰して膿をだしてしてしまおう。自分で自分の初恋、初めて夢中になった恋を潰さなければいけないなんて俺何かしたかな。したか。
耳障りな着信音とともに返事が来たことを知らせてくれる。実にシンプルに用件のみ書き表わされている。俺のためだけの時間が、クリス先輩の予定を埋めているかという事実だけで女々しいとは思うものの顔がにやけてしまう。結果はどうであれ俺は前に進める。俺の選択は何一つとして間違ってはいないはずだ。
それから数日は最高の気分で練習に取り組めた。というより今まで完全に自己都合で注意散漫なまま練習していたっていうのが自分でも責められるべきだと思う。まだ言ってしまってもいないのにすべて良い方向へ流れて終わったかのようなさわやかな気分。なんなんだこれは。ネガティブ通り越して頭がおかしくなったのか。
よこしまな思いで先輩を呼び出した日が近づくにつれて罪悪感や焦りで頭がおかしくなりそうになる。常に 胃もたれしているような不快感が神経を逆なでする。なんだよお前オトコノコの日かよ、なんて言う下品でどうということのない冗談にも必要以上に苛立ってしまう。
俺は感情をコントロールできる、完全に俺は大人だと思っていたけれど違うみたいだ。他人に当たり散らすようじゃまだまだガキだ。駄目だ駄目だと思うだけドツボにはまっている気がする。それもあと数日だけなら、恋の痛みってやつに浸っていてもいいのか、とも思う。午後から急に降り始めた雨が気持ちをも湿らせているのかもしれない。グラウンドを思い切り駆け回って余計なことばかり考える脳味噌をどうにかしたい。
ここで傘を教室に忘れてきたことに気付いた。舌打ちを一つしてからエナメルバッグを肩にかけて走りだ、そうとして
「御幸」
聞き覚えのある、俺が聞き間違えようがない声が俺の名前を呼んだのを耳がとらえたのと同時に、俺の心臓が飛び出て落ちた。ほやほやと湯気を立てる心臓をどうにか押し込んで軽薄な笑みをやっとのことで浮かべて振り返る。
「なんすか、ってかどうかしたんですかクリス先輩」
「ちょうどこっちの棟に用があってな。お前傘はどうした」
「いや~教室に置きっぱなしにしちゃったんで、走って行こうかと」
「お前はそういうところが甘いな。風邪をひいたら、とか、転んだらとか考えたりはしないのか」
「ッス……そこまでは……」
「まったく、手のかかる後輩だ」
まるで子供の世話をする大人みたいな、余裕?余裕と言うより懐が広いのか?なんだこの扱いは。どう考えてもひきっつた笑顔でやっとそうッスね、とだけ返した。叱られてしょぼくれていると勘違いしたのか俺の頭を紺色の飾り気のない折りたたみ傘で小突いてきた。
「ほら、これ使え」
「え、いいんスか」
「今度会う日があるだろう、その日に返してくれればいい」
「ありがとうございます」
平常心平常心、と心の中でとなえつつ傘を開いた。先輩は深緑の上品な印象の傘を開いて雨のなか練習場へと向かって行った。その背中を追いかけるように借りた傘を開く。
室内練習場に入った途端繰り返される体育会的なあいさつの波を遣り過ごして練習用ユニフォームに着替える。想像ついたことだったはずだけれども背後でボタンを外す音が聞こえる。今まで男同士で恥ずかしがることもないから練習場の隅で着替えるのはあたりまえのことで、何とも思っていなかった。が今はそうもいかない。同性が恋愛対象になるってことはこういうところがつらい。背後から聞こえる衣擦れの音が気になって仕方がない。クリス先輩がネクタイを外して折り目が付かないように綺麗に丸めて、クリス先輩が指定のベストを脱いで畳む、シャツを脱いで畳む、アンダーシャツを着る前に制汗剤を一吹き、アンダーシャツを被って――やめよう。
平常心平常心平常心平常心、と虚しく唱えてできるだけ素早く着替えその場を離れた。おなじ性別というのがここまで重くのしかかってくるとは。はじめて夢中になった人を追っている頭ではあまり深刻に考えてはいなかった。けれど今俺の状況だとかなり重たい枷になりうるんじゃないかと。今更だけど。ヤバい。今のうちにクリス先輩の背中目に焼き付けておかないと。俺がおなじ性別の、同じ部活の先輩が恋愛対象に入っているってわかったらきっともうこんなふうに気軽に話しかけてもくれないだろうし、近くで着替えなんてもってのほかだろうし。
わざわざ先輩を俺の個人的な事情で呼び出しておいてこんなことを考えるのもどうかと思うけれど、ものすごく、出向きたくない。今まで優しくほほえんでくれていたクリス先輩が、嫌悪感丸出しの目でこっちを見るんだろうな、とか、そんな目で見ていたのかって軽蔑したりするのかなって。
クリス先輩から借りた傘を丁寧に丁寧に畳みながら返事のシュミレートを何度もしたけれど貶されるか断られるかしか考えられない。自分がすっきりするために告白するって決めたはずなのにやっぱりまだいまの関係に未練があるのかもしれない。とりあえず、断られてもいままで通りとは言わなくても避けないでくれ、とは言っておこう。ずいぶんエゴイスティックだけれど、かわいい後輩(?)だったものの最後のお願いくらい聞いてくれそうな気がするけどどうかな。
「で、何なんだ御幸。黙って居ちゃわからん」
「すい、ません」
脳味噌が茹だって上手く働かない。一言、たったひとことだけ先輩と後輩としてだとか、チームメイトとしてだとかそういうのとは違う意味で、好きですって言ってしまうだけなのに言葉が出てこない。胸にじくじくと燻るまだこの関係を続けたい嫌われたくないという気持ちと、わずかな可能性に賭けたいって気持ちが胃に降りていって中身を掻き回す感覚。
吐きそうだ。自分がこんなにも意気地なしだなんて知らなかった。今まで俺に好きです、と精一杯の勇気を振り絞ってぶつかってきたコ達のほうが勇敢だ。どんなに背伸びしても俺は、そりゃあ少しは他人より野球はできるかもしれないけれども十六年しか生きていないクソガキなんだってことを嫌というほど思い知らされた。
「ま、俺は推薦が取れそうだし、後輩の面倒を見る余裕はあるから言いたくなったらメールでも電話でも言えばいいさ」
「呼んでおいてすみません」
「……本当にな。 冗談だ。そんな顔するなよ、お前がそんな顔すると調子狂う」
この滝川・クリス・優卑怯なくらいカッコいいッ馬鹿好きっ、口が裂けても言えない言葉を喉でとどめて、悲痛といった言葉が一番近いような表情を引っ込めていつものニヤけ顔を無理やり貼り付けたものだからどこか歪んでいるのが自分でもよくわかる。
「……悩んでいるんだな、本当に些細なことでも他人に話せば気が楽になるかもしれないし、ならないかもしれない」
「ならないんスか」
「俺もお前も野球バカだからな、野球以外の悩みだったら難しいだろう」
本当に、バレていないのだろうか。
本当はバレていて、クリス先輩は後輩がゲイだってことを言わないでおいてくれている状態のかもしれない。憶測で物を考えると胃を病みそうになるが、可能性はゼロではない。今更、この人に嫌われるのが、拒絶されるのが怖くて堪らない。
「そうっスねぇ……俺も、先輩もまだまだ子供ってことですかねぇ」
「そうかもな……」
失礼なこと言っている自覚はある。俺の一個上だとは思えないほど大人びているクリス先輩に向かってあろうことか俺と同列に考えるどころか、子ども扱い。もう俺一回頭冷やした方がいい気がする。
「明日も朝練だろ、早く寝ろよ」
「ウィッス」
思わずその場にしゃがみ込んでしまう。いろいろなことが一度に起こりすぎて脳味噌が沸騰している。その証拠に傘を返すのを忘れた。
◇
先輩に向かってまだ子供だ、と言っても笑って許してくれる信頼を裏切りたくはない。が、俺は滝川・クリス・優を憧れを超えた感情を以て接している。この葛藤を何度繰り返したかわからないけれど、葛藤が終わると同時に俺の初恋の息の根が止まる。
なんで、俺が女だったり、クリス先輩が女じゃないんだろう。
俺が女だったらもっと大々的にアプローチしたりできたし、クリス先輩が女だったら俺が人生をかけて口説くのに。残念なことに俺は男、クリス先輩も男。現代日本社会では同性愛は異性愛よりもまだまだ違う世界のものだってイメージがある。当の俺がそうだった。だからと言って諦めるという選択は無い。まぁ、いつか、俺が男で、恋人も男でよかった、と思える日が来ればベストなんだけれども。
その前にクリス先輩、女にもてそうだからきっとカワイイ彼女、手は俺みたいに日に焼けて真っ黒でマメだらけじゃない、白魚のような手に小さく桜色の爪が乗っていて、肩は俺みたいに筋肉で覆われていない、守ってあげたくなるような細い肩、腹には腹筋の代わりに、やわらかい脂肪があって、俺みたいに筋肉筋肉アンド筋肉、みたいなゴッツイ脚じゃなくてすらりと綺麗な脚で、そして、女。クリス先輩の遺伝子を後世に遺すことのできる機能をもっている。女。
俺は、男で、クリス先輩は男だから。俺はクリス先輩のこどもを孕めないし、クリス先輩は俺のこどもを孕めない。あたりまえっちゃあたりまえだけれど、同じ恋愛、性欲でありながら異性愛は生み殖やすことができ、同性だとできない。そんなことがこんなにつらいことだなんて知りたくなかった。
それなのにクリス先輩のこと、諦められない俺っていう男はつくづく救えない。
◇
昼休み、今日も体育館裏で誰かが告白されている。
この夏はじめての蝉がけたたましく鳴いている。一匹だけだというのに気に障るほどのうるささ。もう夏かぁ、結局正捕手争い、できなかったな。なんて口が裂けても言えない。正捕手の座が喉から手が出るほど欲しい奴は沢山居るし、クリス先輩だって好きで怪我しているわけでもないし、一緒に、俺より一年間付き合いの長い同期とグラウンドへ立ちたいだろうし。
「私、平瀬くんのことが好きなの。付き合ってもらえないかなぁ……」
頬を染めて、上目遣いで男に女が、自分の性嗜好に合致すると告白する。
気持ちを相手に伝えられるだけで、心底羨ましい。
どうもこの、性別と恋愛の考え方が上手く噛みあわない。男と女の恋愛だったら、イエスかノーか貰えるけれど、男と男だったらまず、同性ということでイエスかノーかそれ以前に、嫌悪感が先立つ可能性が。考えれば考えれば泥沼にのめり込んでいるうえに、沼底で息絶えそうだ。まぁ、そうすればクリス先輩は後輩が同性愛者でした、ってことで悩むことが無くなる。俺が我慢できれば。じめじめした気候をそっくり反映させたような心中を抱えて歩くのも楽じゃない。
実はまだ、クリス先輩から借りた傘を返せていない。けれどこれが野球以外ではじめてできた俺とクリス先輩のつながりかと思うとなかなか返せない。クリス先輩にとっては迷惑極まりない話で、傘なんて返そうと思えばいつでも返せるのに、一番大人ぶりたいあの人の前でだけ俺は全く大人ぶれない。
◇
手の中で傘を弄ぶのもこれで何度目だろうか。
なんの変哲もない紺色の折りたたみ傘だけれど、これの持ち主はクリス先輩なのだと思うだけで特別なものに思える。どこで買ったのだろう、気に入っていたのかな、などと想いを巡らせるが、詰まる。俺の気持ちはどうあれ不便だろうから返さないと。もう一度開いて皺のないように畳みなおす。自分のよこしまな気持ち全部ここに織り込んで、雨の日に開かれたとき弾けるように。
夕方からしとしとと降った雨は、日の暮れた今本降りになって窓をたたいている。この傘が無いせいでクリス先輩が雨に降られていたら、俺のせいでクリス先輩が風邪をひくかもしれない。俺がクリス先輩の人生にひどい形で干渉できる。ひとつ溜息をついて最低な考えを振り払い、重い腰を上げる。物理的距離は壁一枚、精神的距離は遥か彼方。皮肉にも寮の部屋は隣だ。
誰のかわからないサンダルを突っかけてビニール傘をと紺色の折りたたみ傘を持って隣の部屋を訪ねる。
形式だけのノックをすると金丸の声が返ってくる。
「あれ、御幸先輩どうしたんスか」
「クリス先輩に返したいものあったんだけど……居ないっぽいな」
「そうなんですよ、もしかしたらどこかで雨宿りしてるのかも」
「そっか、ありがとうな。もし帰ってきたら連絡してくれ」
「ウイッス」
そう言って扉を閉める金丸を後にして青心寮を抜けて、クリス先輩の行っているリハビリセンターまでの道を辿る。夜の学校は昼間の喧騒がうそのように鎮まりかえっている。校舎の方を通って先生方に見つかっても面倒だから倉庫裏の破れたネットから抜け出す。先輩を風邪ひかせてまで叶えたいことなんてない、足は自然と早まった。
ビニール傘越しに見る夜空は雲に覆われているのがかろうじてわかる。クリス先輩、もういくらか濡れてしまったろうか。アンダーシャツ透けてたら俺の理性はダメだろう。
「御幸か?どうしたこんなところで」
ビルのエントランスで雨宿りをしていたらしいクリス先輩が急に声をかけるもんだから、必要以上に驚いてしまって恥ずかしいったらない。
「いやあの、俺先輩から傘借りたままでしたから」
「それでわざわざここまで……?悪いな、ありがとう」
わざとゆっくり先輩に傘を手渡した。これで俺とクリス先輩の個人的なつながりはまた一つ薄くなった。何を言うわけでもなく学校を目指して歩く。二人分の足音だけが聞こえる。暗くてよかった。たぶん、俺は今耳まで真赤だろう。
「先輩、靴ひも解けてますよ。傘持ってるんで結びなおしたら」
「ありがとう」
先輩のうなじが見える。いつか先輩のカノジョが独占の標に齧るうなじ、先輩の子供が愛おしげに触れるうなじが今この時だけは、俺が見ている。
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20140505に出した本の再録です
球場から彼岸まで #ダイヤのA #カップリング #御クリ
球場から彼岸まで #ダイヤのA #カップリング #御クリ
無機質かつ、事務的な連絡事項が記された、色彩が排除されたはがきがいつか来てしまうことは分かっていた。
『滝川・クリス・優告別式』
この文字列がすべてを物語っている。
随分前に病気を患ったとは聞いていたが、先月開かれた青道高校野球部OB会ではおくびにも出していなかった。むしろ元気そうに酒を飲み、もうすぐ十歳になるという孫の写真を見せてくれた。クリス先輩と、写真に写るクリス先輩とよく似た女性と、眉がりりしく、頬が幼子特有のふくふくとしたまるみを持つ滝川一美ちゃん、という名前の少女の写真。お前の字が一字入っている、と冗談めかして言っていた。その話の間ずっと俺に生物学上できなかったことがクリス先輩の娘さん夫婦に拠って成されたんじゃないかコレ、とか考えていました。ごめんなさい。
大人と言える歳になり、同窓会以外でも会うようになってから俺の執念はとどまることを知らなくなった。結婚秒読みだった女性とは忘れられない人がいる、と言って別れた。あんなに大事にしたい、と思っていた彼女が泣きながら縋っているというのに何とも思わなくなるほどには、俺の心に滝川・クリス・優という男は大きく占めつづけている。これはもう狂気かと言えるのではないだろうか。一緒にプレーできたのはほんの数か月だというのに、数十年にもわたって想いつづけているなんて。俺のなかだけで熟成させていただけなので相対評価ができないけれど、たぶんそうだろう。これはきっと、執念という名前がついている。
随分早逝だった。結城先輩世代で一番早かったんじゃないだろうか。孫がウエディングドレスを着るところが見たいんだと意気込んで孫の写真を見せて回って、眦にしわをためて愛おしそうに写真に写る娘と孫と妻を眺めていたが、孫の小学校の卒業も待たずに逝ってしまった。
家族の悲嘆は推し測りきれない。血縁のものが死んでしまう悲しみは何にも代えがたいことだろう。
急に、足元がゆるんで沼に沈み込むような感覚に襲われる。俺はクリス先輩のなんだったのか。そうだ、後輩だ。ただの後輩だ。
「ふふっ」
つまるところ俺の煮詰まった片思いが最悪の形で終わった、ということになる。恋愛において最悪が何であるかはわからないけれど。皺と染みの浮いた手をじっと見つめ、何が去っていき、何が残るのか問い詰めたところで、一人で答えに辿りつけるものではない。
最低限だけ家具が置かれたマンションの一室で笑いが漏れた。俺はあの人にとって何でもない、単なる高校時代過ごした野球部の後輩だ。先輩の人生のなかには先輩を尊敬して慕った後輩なんて山ほどいたはずだ。俺は表面上そうだった。なんてことはない、俺はただクリス先輩の特別なひとになりたかった。
それをクリス先輩が居る内に言えなかった時点で俺に先輩を想う価値なんてあるのだろうか。
ぶつけるつもりは無い、一生秘めていようと決めていたものの、ぶつける対象が居なくなるとどうしていいかわからない。ぶつけて傷つけないようにと守る人間はもう居ない、だからと言って故人が、しかも男性が好きだったと知らされても知らされた側が困るだけだろう。本当に何も生まない、生むとしたらドス黒くて粘つく執念だけが俺のなかに遺される、そんな恋だった。
数年前親の葬式で着た喪服を箪笥から引っ張り出して皺を伸ばす。俺とクリス先輩があの思い出の場所で着ていた服と対になる色をしたスーツとネクタイを身に纏って夕刻からの式の準備をする。日本によくある仏式であることに少し驚いた。父がアメリカ人と言っても育った国の慣習に倣うのだろうか。
香典袋に御幸一也と薄墨で書く。
一度だけ、高校のときノートの端に御幸優と書いたことがあった。好きな子の名前と自分の苗字を合わせて書く、思春期ならだれでもやっているだろうほほえましい行動。もしクリス先輩と養子縁組ができて、籍を入れることができたら。同性同士の恋人という誹りを、二人で支え合って耐えることができたらと夢想して書いた名前。急に恥ずかしくなってすぐに消したのも覚えている。
あのころは本気でクリス先輩と付き合って結婚、養子縁組ができると思っていた。幼いころから大人びていると言われて育ってきたが、今の俺からしてみたら現実が見えていないただのガキでしかない。ガキらしいといえばあのころよく先輩を夜のオカズにして抜いていたな、と。先輩にふざけて彼女の写メがあるんじゃないか、とピクチャフォルダを漁られそうになったときは本気で血の気が引いた。こっそり撮った無防備なクリス先輩の脇腹とかノースリーブアンダーシャツとか制服姿とかしかない。それかクリス先輩に似た顔立ちのゲイ向けAV男優の画像で埋まっていた。そのときバレて軽蔑されていたら俺は、クリス先輩のことを諦めてほかの人と幸せになれていたのだろうか。否、高校生のときですら、既に俺からのクリス先輩への歪んだ恋心はたわわに実っていた。その後数十年落ちることもなくただ腐り、干からびていくとは当時の俺は思ってもみなかっただろう。
俺にはクリス先輩しか見えていないけれど、クリス先輩はあの全てを受け止めてくれそうなほほえみで尊敬も愛情も庇護も、勝ち得ている。
式にはクリス先輩の結婚式で見た職場のひとや、野球部の奴らも来ていた。みんながみんな、クリス先輩の死を悼んでいる。クリス先輩がいなくなってしまって悲しいと言っている。
俺はもう、空虚だ。もう何もなくなってしまった。
お悔みの言葉を述べて香典を渡した。多分娘さんだろう。クリス先輩の目元とそっくりだ。
「あの……御幸一也さんですか?」
「え、あ、はい」
「父から手紙を預かっています、負担になるようだったら読むなとも」
「え」
予想もしなかったことに十年ぶりくらいに狼狽えた。真っ白い封筒に御幸へ とだけ書いてあり、固く封をしてある。最後の最後に味な真似をしてくれる。死してなお俺を捉えて離さないつもりだろうか。
やさしく皆にほほえみかけるクリス先輩は、あのときのようにやさしい声音で俺の苗字を呼ぶことも、あのぽってりとしたくちびるも動くことなく黒縁の枠に収まっている。ずうずうしいことは重々承知の上、今度はどちらかが女になって生まれてきませんか、と静かに祈った。
エゴの塊みたいな俺だから、先輩には成仏しないでずっと俺のそばに居てほしいと思っていますよ。霊だろうがなんだろうが、あなたが傍にいてほしい。
緑茶のパック詰め合わせと清めの塩を貰って家路につく前に遺骸に対面させてもらえた。眠るように息を引き取ったらしく、苦しんだような表情でない、今にでも目を開けて、皆に心配かけて悪かったな、と笑いかけてくれそうな死に顔。周りにだれも居ないのを確認してそっと頬に触れた。驚くほどつめたくて固い。本当にこの世のものではなくなってしまったと今更実感する。あの暑い夏広い背中にあこがれて抱きたいと願った身体も、金糸雀色の瞳も、すべて冷たくなってしまっている。悲しいというより喪失感で茫然としたまま斎場をあとにした。タクシーを拾って自宅を目指す。何もなくなってしまった今、クリス先輩からの手紙だけが俺を動かしている。
皺になるのも構わずスーツの上着をソファへ投げ捨てて、ペーパーナイフで丁寧に開封する。あの若さで死を覚悟していたのか、そんなときに伴侶でなく、愛する娘でも慈しむべき孫でもない、単なる後輩に何を遺したのか。内容によっては、単なる戯れでも俺の生きる目的にもなりうるし死の理由にもなりうる。それを理解して書いているとは到底思えない。震える手を抑えつつ丁寧に二つに折られた紙を開く。
『御幸へ』
『これを読む頃には俺はこの世には居ないんだろうな。俺の世界一可愛い娘にそう言づけたから』
『学生時代のことをいろいろと思い出していたんだよ』
『俺にも、元気に外を走り回れたときがあったこと』
『たくさんの先輩、後輩、同期に恵まれたこと』
『こんなことをお前に遺してどうなるのかは俺にもわからない』
『死を前にすると人はやりのこしたことがしたくなるんだ』
『死にかけの戯言として聞いてくれ むしろ忘れてくれた方がいい』
『実はな』
『俺が居眠りしてしまったとき、お前がこっそり、キスしてきたことあっただろう?』
頭の先からさぁ、と血がひいていく感覚。
最近は生きているのか死んでいるのかわからないほど空虚な生活だったためか、このような生きている人間のような感覚はひさしぶりだ。高校を卒業してもう数十年経つというのに、俺の心は滝川・クリス・優が占めていることをあらためて知らされる。この先読み進めたら詰られるのだろうか。最近めっきり弱った胃がきりり、と痛む。
『何十年前のこと蒸し返すなとお前は思うかもしれないが』
『そういう気持ちを抱かれていること当時は怖く感じた』
『お前、吐きそうになっているだろう。何か飲め』
膨大な時を経ても、俺が生涯の半分以上の時間をかけて想ったひとが、未だに俺を理解してくれている。これ以上の喜びがあるだろうか。最近掃除をさぼっていて生臭い匂いのする冷蔵庫から、カクテル用に買ったグレープフルーツジュースを水垢で曇ったグラスに注いで呷る。独り暮らしが長くなるとこまごまとしたことがどうでもよくなる。どうせ誰が訪ねてくるわけでなし、どうせ誰とも、暮らすわけでなし。
『飲んだか?』
『当時はな、お前が俺にだけ素直なのはそういう目で見ていたからなのかと嫌悪感すら抱いた』
『だがな、お前俺の卒業式に涙を堪えながら』
『いろいろ腹に抱えているだろうに』
『ご卒業おめでとうございます』
『ってな』
『その時やっとお前を恋愛対象として見ることができたんだが』
『時すでに遅しってやつだな』
『その後はお前も大学で女性と付き合っていたから』
『若さゆえの過ちというやつかと思って』
『忘れようとした』
『だがな一度気になったら離れないんだ』
『お前の長くなってきた前髪だとか』
『思いつめてくしゃくしゃになった眉間だとか』
『夜になりはじめるくらいの夕日の眩しさだとか』
『焼き付いて離れなくなった』
『こんなことは妻や娘には口が裂けても言えないが』
『俺はお前のこと』
『後輩以上のものだと思っていた』
『好きだったよ、御幸』
『こんなこと、男に、死んだ男に言われるの不愉快かもしれないが』
『抱えたまま死ぬのはあまりに辛すぎたんだ』
『済まない』
『いざ死が目の前にあるとな』
『俺が俺でなくなるような気がするんだ』
『病室で独り寝付く前などは特に』
『最期にお前と会って気持ちを清算してから死にたかったが』
『駄目だ、気持ちが弱くなってしまってな』
『済まないな、お前にはいつも甘えてしまっている』
『結婚式でのスピーチもな』
『お前に頼んでしまった』
『俺としては諦めるためのケジメのつもりだったんだけどな』
『駄目だったよ』
『でもお前も結婚を考えている女がいると聞いて』
『自分の気持ちに蓋をしたつもりだったけれど』
『この歳になって噴き出した』
『いつもお前には迷惑ばかりかける』
『ありがとう、すまなかった』
滝川・クリス・優、と署名で占められた細く儚げな文字列をぼんやり見つめる。
重しを呑んだように腹に暗澹としたものが溜まる感覚が胃を支配する。本当に死んでしまったのだろうか。やっと、やっと想いが通じたのに。やっと糸がつながったかと思ったら結んでいた指が灰になってしまった。こんなことってあるか。俺がなにをした。
乾いた笑いと、咽が引き攣れたような嗚咽だけが独りの空間に放たれて、消えた。
クリス先輩も俺の事が好きだったって?俺がクリス先輩を忘れようとして女と付き合っている間にクリス先輩が俺を諦めたって?性質の悪い冗談にも程があるだろう。今までの狂おしいほどの思慕、俺が叶うはずがないと勘定した想いすべてを受け止めてもらえる可能性があった?それを確かめる術はもう無い?
俺がどんな気持ちでクリス先輩の結婚式で俺じゃない人間との生涯の愛を誓う場で、俺の愛する人が俺じゃない人間と生涯共に支え合うことを誓う行事、結婚を祝うスピーチを読み上げたと思っている……どれだけ、俺が代わりたかったと思っている……あの夜どんなに女に産まれたかったと自分を憎み、呪ったと……男でも、恋愛の舞台にあがって良いのだと知っていたら……
俺に答えをくれるひとはもう、居ない
◇
季節のうつろいは早いもので、三度目のツツジが色がとりどりに咲いて、地面に落ちた花弁が踏まれて色あせていくサイクルを見届けた。俺の人生はまだまだクリス先輩への妄執を抱いたまま続けなくてはならないらしい。
無駄に広い墓地のある一角を目指して仏花を手に老体に鞭打って歩を進める。春先の、サーファーたちがぽつぽつ波間を縫う海が見える高台に、俺が生涯をかけて愛した男が眠っている。
やっとのことでたどり着いた墓石の群れの中の一つの下に、しろいほねとなった先輩が。
スーツの上着を抱えて袖を捲ってもまだ暑い。春先だからと油断していた。今、目をとじれはそこに第二ボタンどころかブレザーのすべてのボタンを毟り取られて俺に困ったもんだ、と苦笑いを投げかけてくれるような、先輩が居る。先輩の卒業式の日みたいに気持ちよく晴れた日だからなおさらだ。俺はいまだに季節の指標を先輩との思い出で構成している。それほどにクリス先輩を、手が届かない存在でありながら短い期間の先輩との思い出を必死につなぎとめておきたかったのだろう。
無機質かつつめたい、かつて衝動的に触れた唇の温度を拭い去るような質感の石を丁寧に磨き上げ持ってきた仏花を飾り、線香を焚いて手をあわせる。滝川家ノ墓。虚無感に襲われるたびここに来ては、俺はまだ生きて弔わねばと決意を固くする。そうでもしないと老い先短いこの人生を簡単に、浜風にゆらめく線香の煙のように儚なんでしまいそうになる。
まだ、きっと生まれ変わってもずっとあなたを追いかけているのだと思います。滝川・クリス・優先輩。
===
2014年6月発行の本の再録
無機質かつ、事務的な連絡事項が記された、色彩が排除されたはがきがいつか来てしまうことは分かっていた。
『滝川・クリス・優告別式』
この文字列がすべてを物語っている。
随分前に病気を患ったとは聞いていたが、先月開かれた青道高校野球部OB会ではおくびにも出していなかった。むしろ元気そうに酒を飲み、もうすぐ十歳になるという孫の写真を見せてくれた。クリス先輩と、写真に写るクリス先輩とよく似た女性と、眉がりりしく、頬が幼子特有のふくふくとしたまるみを持つ滝川一美ちゃん、という名前の少女の写真。お前の字が一字入っている、と冗談めかして言っていた。その話の間ずっと俺に生物学上できなかったことがクリス先輩の娘さん夫婦に拠って成されたんじゃないかコレ、とか考えていました。ごめんなさい。
大人と言える歳になり、同窓会以外でも会うようになってから俺の執念はとどまることを知らなくなった。結婚秒読みだった女性とは忘れられない人がいる、と言って別れた。あんなに大事にしたい、と思っていた彼女が泣きながら縋っているというのに何とも思わなくなるほどには、俺の心に滝川・クリス・優という男は大きく占めつづけている。これはもう狂気かと言えるのではないだろうか。一緒にプレーできたのはほんの数か月だというのに、数十年にもわたって想いつづけているなんて。俺のなかだけで熟成させていただけなので相対評価ができないけれど、たぶんそうだろう。これはきっと、執念という名前がついている。
随分早逝だった。結城先輩世代で一番早かったんじゃないだろうか。孫がウエディングドレスを着るところが見たいんだと意気込んで孫の写真を見せて回って、眦にしわをためて愛おしそうに写真に写る娘と孫と妻を眺めていたが、孫の小学校の卒業も待たずに逝ってしまった。
家族の悲嘆は推し測りきれない。血縁のものが死んでしまう悲しみは何にも代えがたいことだろう。
急に、足元がゆるんで沼に沈み込むような感覚に襲われる。俺はクリス先輩のなんだったのか。そうだ、後輩だ。ただの後輩だ。
「ふふっ」
つまるところ俺の煮詰まった片思いが最悪の形で終わった、ということになる。恋愛において最悪が何であるかはわからないけれど。皺と染みの浮いた手をじっと見つめ、何が去っていき、何が残るのか問い詰めたところで、一人で答えに辿りつけるものではない。
最低限だけ家具が置かれたマンションの一室で笑いが漏れた。俺はあの人にとって何でもない、単なる高校時代過ごした野球部の後輩だ。先輩の人生のなかには先輩を尊敬して慕った後輩なんて山ほどいたはずだ。俺は表面上そうだった。なんてことはない、俺はただクリス先輩の特別なひとになりたかった。
それをクリス先輩が居る内に言えなかった時点で俺に先輩を想う価値なんてあるのだろうか。
ぶつけるつもりは無い、一生秘めていようと決めていたものの、ぶつける対象が居なくなるとどうしていいかわからない。ぶつけて傷つけないようにと守る人間はもう居ない、だからと言って故人が、しかも男性が好きだったと知らされても知らされた側が困るだけだろう。本当に何も生まない、生むとしたらドス黒くて粘つく執念だけが俺のなかに遺される、そんな恋だった。
数年前親の葬式で着た喪服を箪笥から引っ張り出して皺を伸ばす。俺とクリス先輩があの思い出の場所で着ていた服と対になる色をしたスーツとネクタイを身に纏って夕刻からの式の準備をする。日本によくある仏式であることに少し驚いた。父がアメリカ人と言っても育った国の慣習に倣うのだろうか。
香典袋に御幸一也と薄墨で書く。
一度だけ、高校のときノートの端に御幸優と書いたことがあった。好きな子の名前と自分の苗字を合わせて書く、思春期ならだれでもやっているだろうほほえましい行動。もしクリス先輩と養子縁組ができて、籍を入れることができたら。同性同士の恋人という誹りを、二人で支え合って耐えることができたらと夢想して書いた名前。急に恥ずかしくなってすぐに消したのも覚えている。
あのころは本気でクリス先輩と付き合って結婚、養子縁組ができると思っていた。幼いころから大人びていると言われて育ってきたが、今の俺からしてみたら現実が見えていないただのガキでしかない。ガキらしいといえばあのころよく先輩を夜のオカズにして抜いていたな、と。先輩にふざけて彼女の写メがあるんじゃないか、とピクチャフォルダを漁られそうになったときは本気で血の気が引いた。こっそり撮った無防備なクリス先輩の脇腹とかノースリーブアンダーシャツとか制服姿とかしかない。それかクリス先輩に似た顔立ちのゲイ向けAV男優の画像で埋まっていた。そのときバレて軽蔑されていたら俺は、クリス先輩のことを諦めてほかの人と幸せになれていたのだろうか。否、高校生のときですら、既に俺からのクリス先輩への歪んだ恋心はたわわに実っていた。その後数十年落ちることもなくただ腐り、干からびていくとは当時の俺は思ってもみなかっただろう。
俺にはクリス先輩しか見えていないけれど、クリス先輩はあの全てを受け止めてくれそうなほほえみで尊敬も愛情も庇護も、勝ち得ている。
式にはクリス先輩の結婚式で見た職場のひとや、野球部の奴らも来ていた。みんながみんな、クリス先輩の死を悼んでいる。クリス先輩がいなくなってしまって悲しいと言っている。
俺はもう、空虚だ。もう何もなくなってしまった。
お悔みの言葉を述べて香典を渡した。多分娘さんだろう。クリス先輩の目元とそっくりだ。
「あの……御幸一也さんですか?」
「え、あ、はい」
「父から手紙を預かっています、負担になるようだったら読むなとも」
「え」
予想もしなかったことに十年ぶりくらいに狼狽えた。真っ白い封筒に御幸へ とだけ書いてあり、固く封をしてある。最後の最後に味な真似をしてくれる。死してなお俺を捉えて離さないつもりだろうか。
やさしく皆にほほえみかけるクリス先輩は、あのときのようにやさしい声音で俺の苗字を呼ぶことも、あのぽってりとしたくちびるも動くことなく黒縁の枠に収まっている。ずうずうしいことは重々承知の上、今度はどちらかが女になって生まれてきませんか、と静かに祈った。
エゴの塊みたいな俺だから、先輩には成仏しないでずっと俺のそばに居てほしいと思っていますよ。霊だろうがなんだろうが、あなたが傍にいてほしい。
緑茶のパック詰め合わせと清めの塩を貰って家路につく前に遺骸に対面させてもらえた。眠るように息を引き取ったらしく、苦しんだような表情でない、今にでも目を開けて、皆に心配かけて悪かったな、と笑いかけてくれそうな死に顔。周りにだれも居ないのを確認してそっと頬に触れた。驚くほどつめたくて固い。本当にこの世のものではなくなってしまったと今更実感する。あの暑い夏広い背中にあこがれて抱きたいと願った身体も、金糸雀色の瞳も、すべて冷たくなってしまっている。悲しいというより喪失感で茫然としたまま斎場をあとにした。タクシーを拾って自宅を目指す。何もなくなってしまった今、クリス先輩からの手紙だけが俺を動かしている。
皺になるのも構わずスーツの上着をソファへ投げ捨てて、ペーパーナイフで丁寧に開封する。あの若さで死を覚悟していたのか、そんなときに伴侶でなく、愛する娘でも慈しむべき孫でもない、単なる後輩に何を遺したのか。内容によっては、単なる戯れでも俺の生きる目的にもなりうるし死の理由にもなりうる。それを理解して書いているとは到底思えない。震える手を抑えつつ丁寧に二つに折られた紙を開く。
『御幸へ』
『これを読む頃には俺はこの世には居ないんだろうな。俺の世界一可愛い娘にそう言づけたから』
『学生時代のことをいろいろと思い出していたんだよ』
『俺にも、元気に外を走り回れたときがあったこと』
『たくさんの先輩、後輩、同期に恵まれたこと』
『こんなことをお前に遺してどうなるのかは俺にもわからない』
『死を前にすると人はやりのこしたことがしたくなるんだ』
『死にかけの戯言として聞いてくれ むしろ忘れてくれた方がいい』
『実はな』
『俺が居眠りしてしまったとき、お前がこっそり、キスしてきたことあっただろう?』
頭の先からさぁ、と血がひいていく感覚。
最近は生きているのか死んでいるのかわからないほど空虚な生活だったためか、このような生きている人間のような感覚はひさしぶりだ。高校を卒業してもう数十年経つというのに、俺の心は滝川・クリス・優が占めていることをあらためて知らされる。この先読み進めたら詰られるのだろうか。最近めっきり弱った胃がきりり、と痛む。
『何十年前のこと蒸し返すなとお前は思うかもしれないが』
『そういう気持ちを抱かれていること当時は怖く感じた』
『お前、吐きそうになっているだろう。何か飲め』
膨大な時を経ても、俺が生涯の半分以上の時間をかけて想ったひとが、未だに俺を理解してくれている。これ以上の喜びがあるだろうか。最近掃除をさぼっていて生臭い匂いのする冷蔵庫から、カクテル用に買ったグレープフルーツジュースを水垢で曇ったグラスに注いで呷る。独り暮らしが長くなるとこまごまとしたことがどうでもよくなる。どうせ誰が訪ねてくるわけでなし、どうせ誰とも、暮らすわけでなし。
『飲んだか?』
『当時はな、お前が俺にだけ素直なのはそういう目で見ていたからなのかと嫌悪感すら抱いた』
『だがな、お前俺の卒業式に涙を堪えながら』
『いろいろ腹に抱えているだろうに』
『ご卒業おめでとうございます』
『ってな』
『その時やっとお前を恋愛対象として見ることができたんだが』
『時すでに遅しってやつだな』
『その後はお前も大学で女性と付き合っていたから』
『若さゆえの過ちというやつかと思って』
『忘れようとした』
『だがな一度気になったら離れないんだ』
『お前の長くなってきた前髪だとか』
『思いつめてくしゃくしゃになった眉間だとか』
『夜になりはじめるくらいの夕日の眩しさだとか』
『焼き付いて離れなくなった』
『こんなことは妻や娘には口が裂けても言えないが』
『俺はお前のこと』
『後輩以上のものだと思っていた』
『好きだったよ、御幸』
『こんなこと、男に、死んだ男に言われるの不愉快かもしれないが』
『抱えたまま死ぬのはあまりに辛すぎたんだ』
『済まない』
『いざ死が目の前にあるとな』
『俺が俺でなくなるような気がするんだ』
『病室で独り寝付く前などは特に』
『最期にお前と会って気持ちを清算してから死にたかったが』
『駄目だ、気持ちが弱くなってしまってな』
『済まないな、お前にはいつも甘えてしまっている』
『結婚式でのスピーチもな』
『お前に頼んでしまった』
『俺としては諦めるためのケジメのつもりだったんだけどな』
『駄目だったよ』
『でもお前も結婚を考えている女がいると聞いて』
『自分の気持ちに蓋をしたつもりだったけれど』
『この歳になって噴き出した』
『いつもお前には迷惑ばかりかける』
『ありがとう、すまなかった』
滝川・クリス・優、と署名で占められた細く儚げな文字列をぼんやり見つめる。
重しを呑んだように腹に暗澹としたものが溜まる感覚が胃を支配する。本当に死んでしまったのだろうか。やっと、やっと想いが通じたのに。やっと糸がつながったかと思ったら結んでいた指が灰になってしまった。こんなことってあるか。俺がなにをした。
乾いた笑いと、咽が引き攣れたような嗚咽だけが独りの空間に放たれて、消えた。
クリス先輩も俺の事が好きだったって?俺がクリス先輩を忘れようとして女と付き合っている間にクリス先輩が俺を諦めたって?性質の悪い冗談にも程があるだろう。今までの狂おしいほどの思慕、俺が叶うはずがないと勘定した想いすべてを受け止めてもらえる可能性があった?それを確かめる術はもう無い?
俺がどんな気持ちでクリス先輩の結婚式で俺じゃない人間との生涯の愛を誓う場で、俺の愛する人が俺じゃない人間と生涯共に支え合うことを誓う行事、結婚を祝うスピーチを読み上げたと思っている……どれだけ、俺が代わりたかったと思っている……あの夜どんなに女に産まれたかったと自分を憎み、呪ったと……男でも、恋愛の舞台にあがって良いのだと知っていたら……
俺に答えをくれるひとはもう、居ない
◇
季節のうつろいは早いもので、三度目のツツジが色がとりどりに咲いて、地面に落ちた花弁が踏まれて色あせていくサイクルを見届けた。俺の人生はまだまだクリス先輩への妄執を抱いたまま続けなくてはならないらしい。
無駄に広い墓地のある一角を目指して仏花を手に老体に鞭打って歩を進める。春先の、サーファーたちがぽつぽつ波間を縫う海が見える高台に、俺が生涯をかけて愛した男が眠っている。
やっとのことでたどり着いた墓石の群れの中の一つの下に、しろいほねとなった先輩が。
スーツの上着を抱えて袖を捲ってもまだ暑い。春先だからと油断していた。今、目をとじれはそこに第二ボタンどころかブレザーのすべてのボタンを毟り取られて俺に困ったもんだ、と苦笑いを投げかけてくれるような、先輩が居る。先輩の卒業式の日みたいに気持ちよく晴れた日だからなおさらだ。俺はいまだに季節の指標を先輩との思い出で構成している。それほどにクリス先輩を、手が届かない存在でありながら短い期間の先輩との思い出を必死につなぎとめておきたかったのだろう。
無機質かつつめたい、かつて衝動的に触れた唇の温度を拭い去るような質感の石を丁寧に磨き上げ持ってきた仏花を飾り、線香を焚いて手をあわせる。滝川家ノ墓。虚無感に襲われるたびここに来ては、俺はまだ生きて弔わねばと決意を固くする。そうでもしないと老い先短いこの人生を簡単に、浜風にゆらめく線香の煙のように儚なんでしまいそうになる。
まだ、きっと生まれ変わってもずっとあなたを追いかけているのだと思います。滝川・クリス・優先輩。
===
2014年6月発行の本の再録
あいと輝きと共に #ダイヤのA #カップリング #御クリ
あいと輝きと共に #ダイヤのA #カップリング #御クリ
※哲貴表現を含みます
鮮やかな色の粒が、友達の手へ転がり出てくる光景をいまでも覚えている。チョコの粒と同じ色をした犬のキャラクターがあしらわれた紙の筒で軽やかな音が幼心を妙に掻きたてた。母の買い物について行き、あれがほしいとねだると、添加物を気にする母は、それはもうおいしいチョコケーキを焼いてくれた。嬉しそうに俺が食べるのを見る母に、これじゃない、みんなと食べたいとは言えなかった。
「クリス先輩、マーブルチョコは一日六粒までにしませんか……あーっ目から光が」
「そんなことする理由が無い」
「クリス先輩。もう四捨五入して三十でしょう。成人病は若いうちの食生活のバランスが大事なんですから」
そう言って副菜のサラダと煮物の小鉢を寄越す御幸と暮らし始めてから、早いものでもう五年になる。人生は何が起こるかわからないもので、高校時代の後輩と、しかも同性の後輩の恋人という位置に収まることになろうとは、十八の頃俺は想像すらしなかっただろう。
五度目の、里芋がおいしい季節が巡れば、周りの環境が著しく変化する。増子のところにはもう二人目の子供が生まれたと聞いた。父も、母も、老いた。父とは男の恋人と暮らすと伝えたときに泣かれてから会っていない。母は、言葉にはしないもののやはり孫の顔が見たいと思うことがあるのだろうか。
だからといって、あちらから終わりにしようと言われない限り親のためにこの環境を手放そうとは思わない。たとえ御幸のスキャンダルのネタにされようとも、愛おしさや、独占欲だとかそういった言葉で片付かない感情を向けていたいのは御幸なのだから。
昔の自分が知ったら、年上なのは俺なのだから嗜めるべきだし、身を引くべきと思っただろうが、父方の祖母が亡くなったとき、人生の短さを痛感した。
ならば、好きに生き、愛おしいものを愛おしいと言って生きるべきだろうと、何やらもったいぶって葬られる、言葉の壁を乗り越えられず碌に意思疎通ができなかった祖母の死に顔を見てつくづく思った。
人間はいつか必ず死ぬ。死を免れないならば、たくさんのものを捨ててでもその腕に抱かれることを選んだ男を傍に置いて死ぬべきだと強く思った。はずだった。
祖母から受け継いだ瞳は、俺の代で絶やすのかと思うと急に恐ろしくなった。御幸だってそうだ。あの野球で身を立てれるだけの遺伝子を絶やしてしまうことになる。
「ご飯冷めないうちに食べましょう」
「……いただきます」
「まーたなんか考えているでしょう」
嫌に察しがいい。昔からそうだったかと聞いたことがあったが、先輩に対してだけですよと恥ずかしがる様子もなく言われ反応に困ったことがあったから黙っておく。
「考えているが、今言うべきでない」
「そうですか。俺の傑作鰤大根食べて嫌なことなら忘れてください」
なるほどほくほくと湯気を立ててつややかに盛り付けられている鰤と、今の季節筋張っておらず、仄かにあまく、口のなかでとろける大根を安く食べれる。どれもこれも美味しい。
「美味しい」
「よかった」
何てこともない、昨日と変わらない食卓の風景で、日本中のどの家庭でも起こりうる会話だろう。料理を作った人に、感謝をこめて、美味しいと伝える。何の変哲もないだろうと言い聞かせるように思えば思うほど、自分の恋が間違っていたのか、という最悪の答えを弾きだしてしまう。恋に間違いはない。あるはずがない。
理性で感情を抑えることの無意味さは、御幸と暮らし始めるときに嫌というほど理解したはずだ。
◆
「は、子供」
「そう、もう五歳になるのよ」
駅で偶然、藤原、今は結城貴子になった藤原に会った。
照れ臭いのか、母の後ろに隠れた男の子と、こんにちは!と哲也そっくりの眉と目元で元気よく挨拶する女の子を二人連れて、哲也の実家まで行くそうだ。
「はじめまして、結城、」
「清美です!!」
「ほら、おなまえは?ですって……ごめんなさい恥ずかしがっちゃって……」
「いいんだ、滝川・クリス・優です。こんにちは清美ちゃんと」
小さな手で顔を隠しきれないまま、指の間から伺う仕草がかわいらしい。
「直樹です……」
「直樹くん」
最近連絡を取るだけで会っていないシニア時代の友人?を思い出してしまった。
「ね、ゆうさんは、どうしてお名前が三つあるの?きよには二つしかないのに」
もちもちやわらかそうな頬を不満げに膨らませて、お出かけ用のピンクのポシェットをいじりながら純粋な疑問を投げかけてくる。
「それはね、お父さんが外国人だから、三つあるんだよ」
「いいなぁ……なんだかおとくだね」
「お得かな?そう言われたのは初めてだなぁ」
笑いかければ素直に笑いかけてくれる。かわいい姉弟に恵まれて、これが俗にいうしあわせな家庭なのだろう。
「クリス君はどう?結婚とか、した?」
「いや……縁がなくてな」
「あらぁ……優しくてかっこいいんだから、引く手あまたなんでしょう?」
笑って誤魔化したものの、顔が引き攣っているのが自分でもよく分かる。都合よくホームに滑り込んでくる電車の、学生のときよりずっとありがたみが増した椅子に腰かけて深くため息をついた。哲也と藤原の結婚式にも誰かに同じようなことを言われた気がする。確か、宮内だった気がする。
何も藤原、今は結城、に悪気があってこのタイミングで結婚を話題にしたわけじゃない。わかってはいるものの、冬という季節がそうさせるのか気分が落ち込んでしまう。父の涙を見てからどうも気分が晴れない。当たり前だろう。仕事で忙しいなか、シニアの練習を見に来てくれたり、練習に、リハビリに付き合ってくれた父の涙を見てしまったら、なにか悪いことをしてしまった気になる。正直な所、動揺した。
父なら、常に俺の味方でいてくれると思っていた。
それとこれとでは問題の性質が違うから、と自分でもなんとなく理由はわかっているが、言葉にしてしまうのが恐ろしい。家族を捨てなければ、恋人を手に入れられないのだろうか。
「お見合い」
「そうだ」
何やらいい紙で包まれた写真を手渡される。父の髪にも白いものが目立つようになってきた。爪の間に詰まった機械油の塊から目を逸らして、窓の外に目を遣ればもう凍って落ちてきそうな雲が折り重なっている。
「で、みすみす釣書を受け取ってきたわけか」
「なんか、こう、親父って、ずっと健康で強い存在だと思っていたんですけど、意外とそうでもないんだなーっ、て」
御幸の言い分は痛いほどわかる。強さの象徴であった父が見せた弱さが怖くて仕方がなく、自分が悪いことをしている気になってしまう。
「それは、お互い様だ。俺の親父とも一悶着あったあとやつれた気がする」
「あの強烈な親父さんがですか」
「強烈……」
「シニア時代から結構印象強かったです」
「確かに、奇抜な父親だったがな、俺が怪我したとき支えてくれた親父なんだ」
「プロ野球まで行ってる親父さんですから、物凄く忙しかったと思います」
「そんな父が、男の恋人と住むって言ったら、泣いて怒って大変だったんだ」
俺というものがありながら、と感情的に叱責するつもりがいつの間にか自分の悩みを吐き出していた。自分の家族の問題は自分で解決すべきだと思うが、冬という季節が気を弱くさせるのだろう。
当の御幸は驚いた顔を隠そうともせずこちらを見つめてくる。シニアの試合で始めてあった日の時みたいに。
「そういうプライベートな悩み言ってくれるのすごくうれしいです」
「……そうか?」
「俺、ずっと先輩の支えになりたかった」
「支え?」
もうずっと、支えてもらっていると喉まで出かかったがまだなにか言いたそうなので続きを待つ。
「先輩の、大事なものになりたかった」
「なんで過去形なんだ?大事じゃなかったらわざわざ他人と暮らさないぞ」
「そういうことサラッと言えちゃうのほんとずるいです」
「でも、俺らもずいぶんいい年になりましたね」
どこか遠くを眺めているような表情に背筋が凍る。歳を理由に別れを切り出そうとしているのか。
「そうだな」
「これからおじいさんになったら、っていうか、おじいさんになるまでも、それからも先輩のしわが増えていくところ見てられるの、嬉しいです」
衒いもなく言われて顔に熱が集まるのを感じる。自分が一番欲しかった言葉を一番大事な人にかけられて恥ずかしさより多幸感が勝る。
「そうか」
「人の心は、無理やり押し通したりしなくても時間が解決してくれたりしますし、俺らがウジウジ悩んだって仕方ないです」
優しく頬を撫でられながら諭されると、あの時から随分時が経ったと実感する。そしてこれからもここで過ごしていくのだろう。
「釣書返してきます」
「いってらっしゃい、俺が夕飯を作っておこう」
「いやそれは……結構です……」
「米くらいは研げる!」
「研げません!現実を見てください!!」
御幸がどうしても俺が作ると食い下がるので仕方なく台所は譲ってやる。もう外は寒いからと襟巻を手渡すと、適当に巻きつけるものだから汚い折り目がついてしまっている。
「こういうところ、気にした方がいいぞ」
「だって直したらこれを口実にキスできな」
先に唇を塞いでやると、さっきまでの余裕はどこへやら耳を真っ赤にして靴に爪先を押し込んでいる。
「お米研げないけどかっこいい」
「そりゃどうも……一言余計だけどな。さっさと行って来い」
「はい」
風呂ぐらいなら沸かしてやれる。早く帰って来い、そして一緒に過ごすよろこびを感じよう。
※哲貴表現を含みます
鮮やかな色の粒が、友達の手へ転がり出てくる光景をいまでも覚えている。チョコの粒と同じ色をした犬のキャラクターがあしらわれた紙の筒で軽やかな音が幼心を妙に掻きたてた。母の買い物について行き、あれがほしいとねだると、添加物を気にする母は、それはもうおいしいチョコケーキを焼いてくれた。嬉しそうに俺が食べるのを見る母に、これじゃない、みんなと食べたいとは言えなかった。
「クリス先輩、マーブルチョコは一日六粒までにしませんか……あーっ目から光が」
「そんなことする理由が無い」
「クリス先輩。もう四捨五入して三十でしょう。成人病は若いうちの食生活のバランスが大事なんですから」
そう言って副菜のサラダと煮物の小鉢を寄越す御幸と暮らし始めてから、早いものでもう五年になる。人生は何が起こるかわからないもので、高校時代の後輩と、しかも同性の後輩の恋人という位置に収まることになろうとは、十八の頃俺は想像すらしなかっただろう。
五度目の、里芋がおいしい季節が巡れば、周りの環境が著しく変化する。増子のところにはもう二人目の子供が生まれたと聞いた。父も、母も、老いた。父とは男の恋人と暮らすと伝えたときに泣かれてから会っていない。母は、言葉にはしないもののやはり孫の顔が見たいと思うことがあるのだろうか。
だからといって、あちらから終わりにしようと言われない限り親のためにこの環境を手放そうとは思わない。たとえ御幸のスキャンダルのネタにされようとも、愛おしさや、独占欲だとかそういった言葉で片付かない感情を向けていたいのは御幸なのだから。
昔の自分が知ったら、年上なのは俺なのだから嗜めるべきだし、身を引くべきと思っただろうが、父方の祖母が亡くなったとき、人生の短さを痛感した。
ならば、好きに生き、愛おしいものを愛おしいと言って生きるべきだろうと、何やらもったいぶって葬られる、言葉の壁を乗り越えられず碌に意思疎通ができなかった祖母の死に顔を見てつくづく思った。
人間はいつか必ず死ぬ。死を免れないならば、たくさんのものを捨ててでもその腕に抱かれることを選んだ男を傍に置いて死ぬべきだと強く思った。はずだった。
祖母から受け継いだ瞳は、俺の代で絶やすのかと思うと急に恐ろしくなった。御幸だってそうだ。あの野球で身を立てれるだけの遺伝子を絶やしてしまうことになる。
「ご飯冷めないうちに食べましょう」
「……いただきます」
「まーたなんか考えているでしょう」
嫌に察しがいい。昔からそうだったかと聞いたことがあったが、先輩に対してだけですよと恥ずかしがる様子もなく言われ反応に困ったことがあったから黙っておく。
「考えているが、今言うべきでない」
「そうですか。俺の傑作鰤大根食べて嫌なことなら忘れてください」
なるほどほくほくと湯気を立ててつややかに盛り付けられている鰤と、今の季節筋張っておらず、仄かにあまく、口のなかでとろける大根を安く食べれる。どれもこれも美味しい。
「美味しい」
「よかった」
何てこともない、昨日と変わらない食卓の風景で、日本中のどの家庭でも起こりうる会話だろう。料理を作った人に、感謝をこめて、美味しいと伝える。何の変哲もないだろうと言い聞かせるように思えば思うほど、自分の恋が間違っていたのか、という最悪の答えを弾きだしてしまう。恋に間違いはない。あるはずがない。
理性で感情を抑えることの無意味さは、御幸と暮らし始めるときに嫌というほど理解したはずだ。
◆
「は、子供」
「そう、もう五歳になるのよ」
駅で偶然、藤原、今は結城貴子になった藤原に会った。
照れ臭いのか、母の後ろに隠れた男の子と、こんにちは!と哲也そっくりの眉と目元で元気よく挨拶する女の子を二人連れて、哲也の実家まで行くそうだ。
「はじめまして、結城、」
「清美です!!」
「ほら、おなまえは?ですって……ごめんなさい恥ずかしがっちゃって……」
「いいんだ、滝川・クリス・優です。こんにちは清美ちゃんと」
小さな手で顔を隠しきれないまま、指の間から伺う仕草がかわいらしい。
「直樹です……」
「直樹くん」
最近連絡を取るだけで会っていないシニア時代の友人?を思い出してしまった。
「ね、ゆうさんは、どうしてお名前が三つあるの?きよには二つしかないのに」
もちもちやわらかそうな頬を不満げに膨らませて、お出かけ用のピンクのポシェットをいじりながら純粋な疑問を投げかけてくる。
「それはね、お父さんが外国人だから、三つあるんだよ」
「いいなぁ……なんだかおとくだね」
「お得かな?そう言われたのは初めてだなぁ」
笑いかければ素直に笑いかけてくれる。かわいい姉弟に恵まれて、これが俗にいうしあわせな家庭なのだろう。
「クリス君はどう?結婚とか、した?」
「いや……縁がなくてな」
「あらぁ……優しくてかっこいいんだから、引く手あまたなんでしょう?」
笑って誤魔化したものの、顔が引き攣っているのが自分でもよく分かる。都合よくホームに滑り込んでくる電車の、学生のときよりずっとありがたみが増した椅子に腰かけて深くため息をついた。哲也と藤原の結婚式にも誰かに同じようなことを言われた気がする。確か、宮内だった気がする。
何も藤原、今は結城、に悪気があってこのタイミングで結婚を話題にしたわけじゃない。わかってはいるものの、冬という季節がそうさせるのか気分が落ち込んでしまう。父の涙を見てからどうも気分が晴れない。当たり前だろう。仕事で忙しいなか、シニアの練習を見に来てくれたり、練習に、リハビリに付き合ってくれた父の涙を見てしまったら、なにか悪いことをしてしまった気になる。正直な所、動揺した。
父なら、常に俺の味方でいてくれると思っていた。
それとこれとでは問題の性質が違うから、と自分でもなんとなく理由はわかっているが、言葉にしてしまうのが恐ろしい。家族を捨てなければ、恋人を手に入れられないのだろうか。
「お見合い」
「そうだ」
何やらいい紙で包まれた写真を手渡される。父の髪にも白いものが目立つようになってきた。爪の間に詰まった機械油の塊から目を逸らして、窓の外に目を遣ればもう凍って落ちてきそうな雲が折り重なっている。
「で、みすみす釣書を受け取ってきたわけか」
「なんか、こう、親父って、ずっと健康で強い存在だと思っていたんですけど、意外とそうでもないんだなーっ、て」
御幸の言い分は痛いほどわかる。強さの象徴であった父が見せた弱さが怖くて仕方がなく、自分が悪いことをしている気になってしまう。
「それは、お互い様だ。俺の親父とも一悶着あったあとやつれた気がする」
「あの強烈な親父さんがですか」
「強烈……」
「シニア時代から結構印象強かったです」
「確かに、奇抜な父親だったがな、俺が怪我したとき支えてくれた親父なんだ」
「プロ野球まで行ってる親父さんですから、物凄く忙しかったと思います」
「そんな父が、男の恋人と住むって言ったら、泣いて怒って大変だったんだ」
俺というものがありながら、と感情的に叱責するつもりがいつの間にか自分の悩みを吐き出していた。自分の家族の問題は自分で解決すべきだと思うが、冬という季節が気を弱くさせるのだろう。
当の御幸は驚いた顔を隠そうともせずこちらを見つめてくる。シニアの試合で始めてあった日の時みたいに。
「そういうプライベートな悩み言ってくれるのすごくうれしいです」
「……そうか?」
「俺、ずっと先輩の支えになりたかった」
「支え?」
もうずっと、支えてもらっていると喉まで出かかったがまだなにか言いたそうなので続きを待つ。
「先輩の、大事なものになりたかった」
「なんで過去形なんだ?大事じゃなかったらわざわざ他人と暮らさないぞ」
「そういうことサラッと言えちゃうのほんとずるいです」
「でも、俺らもずいぶんいい年になりましたね」
どこか遠くを眺めているような表情に背筋が凍る。歳を理由に別れを切り出そうとしているのか。
「そうだな」
「これからおじいさんになったら、っていうか、おじいさんになるまでも、それからも先輩のしわが増えていくところ見てられるの、嬉しいです」
衒いもなく言われて顔に熱が集まるのを感じる。自分が一番欲しかった言葉を一番大事な人にかけられて恥ずかしさより多幸感が勝る。
「そうか」
「人の心は、無理やり押し通したりしなくても時間が解決してくれたりしますし、俺らがウジウジ悩んだって仕方ないです」
優しく頬を撫でられながら諭されると、あの時から随分時が経ったと実感する。そしてこれからもここで過ごしていくのだろう。
「釣書返してきます」
「いってらっしゃい、俺が夕飯を作っておこう」
「いやそれは……結構です……」
「米くらいは研げる!」
「研げません!現実を見てください!!」
御幸がどうしても俺が作ると食い下がるので仕方なく台所は譲ってやる。もう外は寒いからと襟巻を手渡すと、適当に巻きつけるものだから汚い折り目がついてしまっている。
「こういうところ、気にした方がいいぞ」
「だって直したらこれを口実にキスできな」
先に唇を塞いでやると、さっきまでの余裕はどこへやら耳を真っ赤にして靴に爪先を押し込んでいる。
「お米研げないけどかっこいい」
「そりゃどうも……一言余計だけどな。さっさと行って来い」
「はい」
風呂ぐらいなら沸かしてやれる。早く帰って来い、そして一緒に過ごすよろこびを感じよう。
Angel snow #ダイヤのA #カップリング #雅鳴
Angel snow #ダイヤのA #カップリング #雅鳴
「わっ、雪の予報!」
はしゃぐ鳴を横目に、室内練習場への変更を部員へ伝える。幼いころは雪が降ると、いつもの家の庭が別のものに変わったようで、天気予報に雪だるまマークがついていると、寝る前に布団から出したほほが冷たくなることすら、楽しみな気持ちを煽る理由になり得たが、それから十年経てば、ただ指先を冷やし、グラウンドが使えなくなるだけの、雨と何ら変わらない位置づけの天気になった。
代替わりして初めての長期休みの練習を一日でも削られたくなかったが天候だけは文句を言っても仕方がない。予報は積もらないと言っていた。それだけでもありがたいと思わなければ。
「せっかくの雪なのに雅さんの眉間にはふっかぁあい皺」
主将と正捕手の重みを支えるだけで精一杯の今、鳴の冗談ですら構う気力が無い。
「無視!?」
きゃんきゃん喧しい鳴を目線で制し、室内ブルペンへと着替えを持って向かう。泣いても笑っても夏は来て、過ぎていく。ゴールのようで通過点である甲子園へ、どのように時間を使えるかが重要であるはずなのに、どうにも空回っているような気がする。
野球はひとりでするスポーツではないから、自分ばかりが躍起になってもしかたがないことは分かっているが、主将になって数か月の今、どうしても前主将の手腕がちらつく。こんなとき、あのひとならどうしただろうか、ということが頭を何度もよぎってしまう。
「あっ、ねぇ、雪じゃない?」
雪が降ることが楽しみで仕方が無かった鳴の歓声で、思いつめていることがばかばかしくなる。
「これはまだ雨だろう」
「そんっなに嫌なの?!そんっなに雪だって認めたくないの!?」
「練習できなくなるだけじゃねぇか」
芝居かかった溜息をついて、生意気そうに寄せた細い眉を吊り上げて文句ありげに睨んでくる。
「ジンセーって、野球しかないわけじゃなくない?」
「……お前からそんな言葉が聞けるとはなぁ」
「え?俺って雅さんから見るとそう見える?」
意外だった。野球意外に興味がないと認識していた鳴が、他にも目を向けている。
「違うのか」
「そうだよ」
嫌に冷静に返されてたじろいでしまう。この普段の口調と、マジメな話をするときの差に、蛇に睨まれたかカエルのように情けなく縮こまってしまう。鳴は軽薄で、思慮のしの字もないイメージを持っていたが、すぐに覆されたことを思い出す。
「現に、俺が夏大で暴投したあとも、フツーに次の日、来たし」
そう言って帽子を被る。身長差によって表情がうかがえなくなる。
「俺さ、夏大が終わると人生もそこで終わると思ってたくらい、先が見えなかった」
「けど、先輩たち、俺の暴投がなければもっといけたのに、お前にはつぎがあるって言ってくれた」
「んー……なにがいいたいかっていうと、ええっと、こんなに楽しい天気を楽しまないと損だって……雪で気分暗くなっても、今日も練習したなって過ごした一日も、同じ一日っていうかぁ」
「……お前が元気づけようとしていることはわかった」
「べぇっつに。俺がシケたツラしたキャッチャーに投げ込みたくないだけだしぃ」
「こいつ……」
冗談でもなんでもなく、本気でそうおもっているのだろう。その証拠にもうこの会話に興味をなくし、雪の粒を追いかけまわしている。だからこそ、自分の弱さを見透かされても嫌悪が先立たないのだろう。
「つめた」
「バカ、指が霜焼けたらどうするんだ」
「こんなちょっとじゃならない。過保護すぎ」
コートに突っ込んでいた手に鳴の冷え切った手が添えられて、思わず身震いしてしまった。照れ隠しに振り払おうとしてもここで暖をとるつもりらしく、きつく手首を握っている。
「ふざけんなよ鳴」
「あったかい」
やりあうことすら億劫で、そのまま室内練習場まで半ば引き摺るようなかたちで向かう。
「うわ雅さん腕毛?ちがうなぁ手の甲毛?もっさもさ」
「うるせぇなほんとに」
「え、気にしてたりするの」
「してねぇ」
ムキにならないでよ、と弱みを見つけたと言わんばかりのあくどい笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。
「俺すね毛だけ全然生えてないけど、生えてないとそれはそれでなんとなーくやだよ?」
「フォローしてるつもりか?」
「べっつにぃ」
この言い方のときは、多分身体的特徴に言及したことを気に病んでいる言い方だ。二年とすこしで鳴の機嫌についての知識が無駄についてしまった。
◆
「あっ雅さん自販機」
「だからなんだ」
「ココア飲みたい」
「……監督室にポットとコーヒーの粉を見たことがある」
「そういうのは別にいい」
ココアがのみたいー、と言っても雅さんは大して気にした様子もない。室内練習場まで引き摺るつもりなのだろう。洒落っ気のない紺色のマフラーをぐるぐる巻いて鼻を真っ赤にしちゃって、雅さんずいぶんかわいいことするじゃん。
雅さんの掌はマメでガチガチに固い。固くなっている皮膚のキワを削ると、あたたかいポケットから追い出されてしまうのでやめておく。かさぶた剥がすみたいで楽しいのだけど。
「冬が終わったら、春、春が終わったらあっという間に夏だね」
「ああ」
「来年の夏は勝とうね」
「ああ」
夏のあのバッターボックスより少し高いあのマウンドで息がとまるわけでもないけれど、たぶん甲子園球場はまた違うんだろう。
「意気込みが残っているうちに投げるか」
「ウン」
「……素直に返事するなんて……そんなにココアが飲みたかったのか、鳴」
「えー、ウンまぁだいたいそんなかんじ」
変にマジメに受けとられてしまったから否定しないでおく。もしかしたら買ってくれるかもしれないし。
「練習終わったら買ってやるよ」
「マジで!?!」
言ってみるもんだ。俺意外にはちょくちょくパン買ってもらったりしてるみたいなんだけど。
「よくよく考えたらお前も後輩だった」
「なにそれ」
そんなにしっかり、俺より先に高校野球を終えるって言いきらなくてもいいじゃん。
ほんものよりずっと美味しそうなココアの絵がなんとなく憎らしい。ほんとうはココアが欲しいんじゃないのに。
「雅さん、雪」
「ああ」
「積もったら雪合戦しよう」
「しねぇよ、みんなで雪かきだ」
「えー……それってみんなでやるの」
「たりめーだ、レギュラーだけふんぞり返る訳にはいかないだろう。野球は一人でやるスポーツじゃねぇんだ」
稲実くらい人がいれば、レギュラーは練習した方がいいんじゃないかって思ったけど黙っておく。
「手、あっためてよ」
「はぁ?てめぇの首にでも手あててろよ」
「それがヤだから言ってんじゃん」
舌打ちされた。雅さんのコートのポケットに突っ込んだ左手を右手に差し替えたらまた舌打ち。
「鳴」
「なーに」
この、大人びているようで、子供らしく感情を思い切りぶつけてくるところがどうにも、自分だけが知っているようで変に嬉しい。なんだか特別な存在になれたような気になる。バッテリーほど、不思議な関係を俺は知らないからそう思うのかもしれない。たぶん外から見たら近く見えるのかもしれないけれど、実際のところは何とも言い難い。近いようでいて、ただの同じスポーツをやっているだけ、とも言える。
俺にとっては、一番つらかったときに支えてくれた(たぶん本人はそう思ってなくても)ひとだから、なんとなく、トクベツだと思っている。
雅さんも、なんとなくでも、すこしだけみんなと違うって思ってくれてたらいいな、と雅さんの鼻先に触れてとけた雪の粒を見つめながら考えた。
もう、冬がはじまる。
「わっ、雪の予報!」
はしゃぐ鳴を横目に、室内練習場への変更を部員へ伝える。幼いころは雪が降ると、いつもの家の庭が別のものに変わったようで、天気予報に雪だるまマークがついていると、寝る前に布団から出したほほが冷たくなることすら、楽しみな気持ちを煽る理由になり得たが、それから十年経てば、ただ指先を冷やし、グラウンドが使えなくなるだけの、雨と何ら変わらない位置づけの天気になった。
代替わりして初めての長期休みの練習を一日でも削られたくなかったが天候だけは文句を言っても仕方がない。予報は積もらないと言っていた。それだけでもありがたいと思わなければ。
「せっかくの雪なのに雅さんの眉間にはふっかぁあい皺」
主将と正捕手の重みを支えるだけで精一杯の今、鳴の冗談ですら構う気力が無い。
「無視!?」
きゃんきゃん喧しい鳴を目線で制し、室内ブルペンへと着替えを持って向かう。泣いても笑っても夏は来て、過ぎていく。ゴールのようで通過点である甲子園へ、どのように時間を使えるかが重要であるはずなのに、どうにも空回っているような気がする。
野球はひとりでするスポーツではないから、自分ばかりが躍起になってもしかたがないことは分かっているが、主将になって数か月の今、どうしても前主将の手腕がちらつく。こんなとき、あのひとならどうしただろうか、ということが頭を何度もよぎってしまう。
「あっ、ねぇ、雪じゃない?」
雪が降ることが楽しみで仕方が無かった鳴の歓声で、思いつめていることがばかばかしくなる。
「これはまだ雨だろう」
「そんっなに嫌なの?!そんっなに雪だって認めたくないの!?」
「練習できなくなるだけじゃねぇか」
芝居かかった溜息をついて、生意気そうに寄せた細い眉を吊り上げて文句ありげに睨んでくる。
「ジンセーって、野球しかないわけじゃなくない?」
「……お前からそんな言葉が聞けるとはなぁ」
「え?俺って雅さんから見るとそう見える?」
意外だった。野球意外に興味がないと認識していた鳴が、他にも目を向けている。
「違うのか」
「そうだよ」
嫌に冷静に返されてたじろいでしまう。この普段の口調と、マジメな話をするときの差に、蛇に睨まれたかカエルのように情けなく縮こまってしまう。鳴は軽薄で、思慮のしの字もないイメージを持っていたが、すぐに覆されたことを思い出す。
「現に、俺が夏大で暴投したあとも、フツーに次の日、来たし」
そう言って帽子を被る。身長差によって表情がうかがえなくなる。
「俺さ、夏大が終わると人生もそこで終わると思ってたくらい、先が見えなかった」
「けど、先輩たち、俺の暴投がなければもっといけたのに、お前にはつぎがあるって言ってくれた」
「んー……なにがいいたいかっていうと、ええっと、こんなに楽しい天気を楽しまないと損だって……雪で気分暗くなっても、今日も練習したなって過ごした一日も、同じ一日っていうかぁ」
「……お前が元気づけようとしていることはわかった」
「べぇっつに。俺がシケたツラしたキャッチャーに投げ込みたくないだけだしぃ」
「こいつ……」
冗談でもなんでもなく、本気でそうおもっているのだろう。その証拠にもうこの会話に興味をなくし、雪の粒を追いかけまわしている。だからこそ、自分の弱さを見透かされても嫌悪が先立たないのだろう。
「つめた」
「バカ、指が霜焼けたらどうするんだ」
「こんなちょっとじゃならない。過保護すぎ」
コートに突っ込んでいた手に鳴の冷え切った手が添えられて、思わず身震いしてしまった。照れ隠しに振り払おうとしてもここで暖をとるつもりらしく、きつく手首を握っている。
「ふざけんなよ鳴」
「あったかい」
やりあうことすら億劫で、そのまま室内練習場まで半ば引き摺るようなかたちで向かう。
「うわ雅さん腕毛?ちがうなぁ手の甲毛?もっさもさ」
「うるせぇなほんとに」
「え、気にしてたりするの」
「してねぇ」
ムキにならないでよ、と弱みを見つけたと言わんばかりのあくどい笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。
「俺すね毛だけ全然生えてないけど、生えてないとそれはそれでなんとなーくやだよ?」
「フォローしてるつもりか?」
「べっつにぃ」
この言い方のときは、多分身体的特徴に言及したことを気に病んでいる言い方だ。二年とすこしで鳴の機嫌についての知識が無駄についてしまった。
◆
「あっ雅さん自販機」
「だからなんだ」
「ココア飲みたい」
「……監督室にポットとコーヒーの粉を見たことがある」
「そういうのは別にいい」
ココアがのみたいー、と言っても雅さんは大して気にした様子もない。室内練習場まで引き摺るつもりなのだろう。洒落っ気のない紺色のマフラーをぐるぐる巻いて鼻を真っ赤にしちゃって、雅さんずいぶんかわいいことするじゃん。
雅さんの掌はマメでガチガチに固い。固くなっている皮膚のキワを削ると、あたたかいポケットから追い出されてしまうのでやめておく。かさぶた剥がすみたいで楽しいのだけど。
「冬が終わったら、春、春が終わったらあっという間に夏だね」
「ああ」
「来年の夏は勝とうね」
「ああ」
夏のあのバッターボックスより少し高いあのマウンドで息がとまるわけでもないけれど、たぶん甲子園球場はまた違うんだろう。
「意気込みが残っているうちに投げるか」
「ウン」
「……素直に返事するなんて……そんなにココアが飲みたかったのか、鳴」
「えー、ウンまぁだいたいそんなかんじ」
変にマジメに受けとられてしまったから否定しないでおく。もしかしたら買ってくれるかもしれないし。
「練習終わったら買ってやるよ」
「マジで!?!」
言ってみるもんだ。俺意外にはちょくちょくパン買ってもらったりしてるみたいなんだけど。
「よくよく考えたらお前も後輩だった」
「なにそれ」
そんなにしっかり、俺より先に高校野球を終えるって言いきらなくてもいいじゃん。
ほんものよりずっと美味しそうなココアの絵がなんとなく憎らしい。ほんとうはココアが欲しいんじゃないのに。
「雅さん、雪」
「ああ」
「積もったら雪合戦しよう」
「しねぇよ、みんなで雪かきだ」
「えー……それってみんなでやるの」
「たりめーだ、レギュラーだけふんぞり返る訳にはいかないだろう。野球は一人でやるスポーツじゃねぇんだ」
稲実くらい人がいれば、レギュラーは練習した方がいいんじゃないかって思ったけど黙っておく。
「手、あっためてよ」
「はぁ?てめぇの首にでも手あててろよ」
「それがヤだから言ってんじゃん」
舌打ちされた。雅さんのコートのポケットに突っ込んだ左手を右手に差し替えたらまた舌打ち。
「鳴」
「なーに」
この、大人びているようで、子供らしく感情を思い切りぶつけてくるところがどうにも、自分だけが知っているようで変に嬉しい。なんだか特別な存在になれたような気になる。バッテリーほど、不思議な関係を俺は知らないからそう思うのかもしれない。たぶん外から見たら近く見えるのかもしれないけれど、実際のところは何とも言い難い。近いようでいて、ただの同じスポーツをやっているだけ、とも言える。
俺にとっては、一番つらかったときに支えてくれた(たぶん本人はそう思ってなくても)ひとだから、なんとなく、トクベツだと思っている。
雅さんも、なんとなくでも、すこしだけみんなと違うって思ってくれてたらいいな、と雅さんの鼻先に触れてとけた雪の粒を見つめながら考えた。
もう、冬がはじまる。
けものみち #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #ゲオルギウス
けものみち #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #ゲオルギウス
魔術の発端は、ヒトが抱くささやかな悪戯心や、あこがれのあの人が振り返ってほしい、自分とは別の人間に心を奪われてしまってにっちもさっちもいかなくなってしまった弱さを押し隠したい、なんていうささやかな願いなんじゃないかなと夢想する。
そんな俺のしたたかな劣情を映し出した液体は、俺が知っている色の中で一番近い色は紺色だが、フラスコを傾けると水面が眩しいくらい鮮やかな赤に照る。
俺は俺の魔術師としての才能なんて一切無いと思っていた。なんとなく便利な技術で、おまじないの域を出ないだろうと本気で思っていたし、知識がないながらも懸命に作ったもので、すてきなあの子がどんな顔が見せてくれるんだろう、なんてくらいにしか思っていなかった。そしてもしかしたら、俺のこの妙な体質の仲間が出来て、ともに歩んでくれるかもしれない……それは思い上がり過ぎじゃないか、いやでも彼は、普通の人間なんかとは違うから大丈夫、だなんて考えていた。
人類史を紐解くと、思想というものは流れゆくものであると実感する。
女性に関して言うと、今からは考えられないし、失礼だし配慮に欠けるどころの騒ぎじゃないとは思うが、女性そのものが堕落を誘う、楽園を追われた原罪の象徴だとみなしていた時代があった。
男性を堕落させるから罪、という論理であるらしい。過去に存在した思想に関して現在から解き明かすとして仮定の域を超えることは無いが、随分な言いようだ。
けれどその時代に生きた先人たちの考え方を根本から否定する気になれない。なんだかんだ言いながらも俺は人類が愛おしいのだと思う。迷い、間違えながらも前に進むことをやめない人類が。
それじゃないとこんなに危ない、ストレスで胃が千切れ飛びそうなことできやしない。途中で自害しているだろう。
だから、この薬を作ったのは単なる興味でもある。
たとえば、その教えに殉じて命すら差し出した人間が、原罪そのものになったとしたらどうなるのか?
泣き狂うのか、それとも新たな生、いや性を楽しむのか?
「マスター、ちょっと」
例の薬を少しずつ投与して、五日目に差し掛かるかというときに声をかけられた。わくわくをどうにか押し込めて、努めて平静に、何?どうかした?と返事する。
「その、少し言いづらいことで」
「じゃあ、俺の部屋で話しましょう」
自然に自室に連れ込めたこともうれしい。俺への警戒心がずいぶん薄れたことが伺える。無駄を完全にそぎ落としたこの無機質な部屋が今は華やいで見える。
「で、どうしました?」
「その……私もにわかに信じがたいことなのですが」
「はぁ」
好青年ぶって、心底あなたを心配していますあなたの現在の命も守る主として、というふうに接してみせる。所在無さげにマントの端をいじるゲオルギウスにあったかいほうじ茶を淹れて渡す。一緒にきなこもちを添えて。
不安定な丸椅子ではなく、ベッドの端に腰かけるように勧める。
勧められるがままに俺の隣に座るゲオルギウスの顔を覗き込むと、言うか言うまいか迷っているように見える。
「言えないようなことですか?」
「それが……その」
そりゃあ言えないよな。五日といったらそろそろ子宮の形成が終わり、膣の形成が終わり、膣口の形成が始まる頃だ。その前に乳房が形成されているはずだ。そりゃあ、もう無視できない。気のせいだと自分に言い聞かせるのも限界だろう。
「何でも言ってください、あなたの力になりたい」
その言葉に心動かされたのか、固くひきむすばれた唇が解け、喉から引き絞られるように言葉がこぼれ出る。
「身体が、女に」
「えっ…と……それはどういう?」
初めて聞きました、そんなことにわかに信じがたいと言わんばかりの表情を顔に貼り付け、内心では成功を喜ぶ幼児のように無邪気に笑い、ねぇ、すごいでしょう、私は何もできない単なる人の子ではありませんと自分の力量を誇示したくなる。それをどうにか抑え、鎧の上から身体を伺おうとする。
「やはり見てもらった方が早いだろう」
「えっ?」
おそろしいほど複雑な鎧の留め金を外し始めた。元は男だからべつに恥ずかしがる必要は無いはずだが、今は女の身体をしているはずだから見てはいけないような気がして、目を伏せた。
「マスター」
なんだか声も少し変わっている気がする。俺より先にキャスタークラスのサーヴァントに相談されていたらなにもかもが終わっていた。そうなっていないということは運命の女神や、もしかしたら彼が祈る神ですら俺の味方だったりして。
「その、シーツどけても大丈夫でしょうか」
肌を見せることを、思想上忌避していたはずの時代から来た人だからひどく迷っているだろう。顔面は蒼白で、唇は紫色になってしまっている。
「ムリしないでください、ストレスの方が良くないです、きっと」
「いや、その、信じてもらいたいのです、本当にそうなってしまってしまったことを」
震える手でシーツで包まれた傷だらけの身体を露わにする。
先日風呂で見たときは立派な胸筋があったところの少し上側に、そこそこの大きさの乳房があった。
「あっ、本当にあるんですね……」
「これで信じてもらえただろうか」
「うん、ちょっと信じられなかったですが……」
まじまじと眺めていると肌を隠されてしまった。あわてて目を逸らす。
「でも胸がちょっと変わっちゃっただけでしょう?ならそこまで支障ないんじゃ」
唇を噛みしめて目を逸らされてしまった。それはそうだろう。もうそろそろ生理が始まってもいいくらいの時期だから体調もおかしくなってきているのだろう。少しかわいそうになってきて、横になってと言うと素直に従う。
「数日前から下腹部が痛くて」
生理痛だろう。下腹部を温めるようにさすると大人しく受け入れられた。
「頭も痛いし身体も熱い」
小さな湯たんぽを引っ張り出して、湯を用意する。横になった途端眠気が襲ってきたのだろう、瞼が落ちかけている。
タオルにくるんだ湯たんぽをシーツに押し込んで、腹にあてると少しよくなるらしいのであててやる。眉間に刻まれた皺が少しだけ緩くなったような気がする。
「我慢できないくらい痛いなら痛み止めあげるよ」
「マスターは痛み止めを常用しているのですか?」
「うん、怪我したときとか我慢できないくらいときありますし」
明かりを消して、少し寝たら?と言うと暗がりの中で頷いた衣擦れの音がした。表情は窺い知れないが沈痛な面持ちでこちらの反応を伺っているのだろう。
「大丈夫、俺は味方です、それに誰にも言いません。安心してください」
「ありがとう」
掠れた声で言うものだから、英霊となるまで、英霊となってからも強く在った人だというのに急に庇護欲をくすぐられてしまった。痛むと言っていた腰のあたりを優しくなでる。
「こんなこと、主が許すはずがない」
「え?」
「罪の具現である女になるなんて」
価値観が違う時代から来た人間なのだから、とどれだけ言い聞かせても、体中の血が端から凍っていくのがわかる。
もしかしたら、この人が私と同じ状況―性が自分の意志に関わらず突然、前触れなく変わってしまう―になったら、縋るものがある人間ならば、こんな状況になってしまった私を救ってくれるかもしれない、と思っていた。
俺は彼をなんだと思っていたのだろうか。人間より素晴らしい生き物だと言われているのだから、もしかしたら俺とは違う考え方で、この状況を撥ね退けてくれるかもしれないなんて考えていた。
勝手に身体を、興味が向くままに変えておいて、自分の思ったとおりの反応を得ることができなかったからと失望をして。随分非道なマネをしたという自覚はある。
「じゃあ、その主に俺の事も助けてって言っておいてください」
「何故です……あなたは男性でしょう」
「今はそう見えますよね」
俺は深くため息をついて、発言の意図がつかめずにいるゲオルギウスの腰を撫で続けたまま言葉を選んで話を戻す。
「堕落を誘う、あなたが言うところの原罪そのものに、自分の意志に関係なく、自分とは全く別の女になってしまう、ということです」
意味が解らない、と言う目で見てくるゲオルギウスに触れる手は今は筋張っているが、自らの意志に関わらず、オレンジ色の髪と琥珀色の瞳を持った女に変わるときがある。人格は一緒のままだ。そんないかれた状況でも、男から女に、見た目が全く変わったというのに変わらず「俺/私」を認識し、名前を呼ぶダ・ヴィンチちゃん、ドクター・ロマニ、本来一人のマスターに一人のみ召喚ができるはずのサーヴァントたち。それに、マシュ。
サーヴァントをその身を貸出したとはいえ、カルデアがこうなってしまう前から俺の事を知っているはずの俺の後輩。そのマシュですら俺/私の事を認識できていない。
「言ってる意味、わからないですよね……ごめんなさい」
何に対しての謝罪だろう。きっと範囲が広すぎて自分でも収拾がつかない範囲への謝罪。ゲオルギウスは上掛けが落ちてくるのも厭わず手を伸ばし、頭を撫でてくれる。そのまま倒れ込むように隣に横になると、そのまま抱きしめてくれる。押し付けられた胸はさきほどより少し大きくなったような気がする。もちろん胸筋ではない。温かく、やわらかな脂肪だ。
「肌を晒すなどと、昔は考えられなかったのですが」
ふふ、と小さく頭の上で笑ったのがわかった。
「お辛かったことでしょう」
お前に何がわかる、偉そうに、そうやって一歩上の立場から見下ろして、あなたが誠心誠意、文字通り全て捧げた存在が貴方に何をしてくれた、などと口汚くののしりたかったが喉には嗚咽が張り付いて、そんな言葉でてきやしない。ただ彼の身体に残る傷跡に爪を立ててささやかに、目と鼻の先にある安らぎに抵抗する。
「時々、あの四十七人が冷凍保存されている部屋で一人嘆いていますね」
「なんでしってるんですか」
「子供の考えることくらい、大人はお見通しなのですよ、マスター」
悔しくて堪らない。惨めったらしくて、腹立たしさすら感じる。ゲオルギウスの言うとおり、もう何もかも、人類史だなんだって全部投げたしたくなったらあそこに行っている。このなかの誰か一人でも奇跡的に起きだして、俺の代わりになってくれやしないかって泣いている。だれかにこんな役目押し付けて、どこかへ行ってしまいたいと嘆いている。
できるだけサーヴァントの前では強い主人であろうとしている。そうでもしないと寝首をかかれやしないかと気が気でない。そんな努力が無駄だと笑われたような気になってしまう。普段ならこちらも、そうなんだ、と笑い飛ばせたようなことが妙に心がささくれ立つ。
「あんたなんか大嫌いだ」
「とおっしゃられますが、いささか抱きしめる力が強すぎるようですよ、マスター。少し苦しいです」
「ごめんなさい、好きです」
「ええ、私もです……マスター、言葉と行動が一致していませんが」
「ごめん、もう少しこのままでいさせてください」
あなたが俺に言う好きと、俺があなたに言う好きの意味は違うと言ってもっともっと困らせてみたい、と思うだけにとどめておく。
◆◆◆
「これから数日、俺の部屋で寝起きしてください」
よそ様の胸に顔をうずめている割には偉そうな物言いだが、そうでもしないと俺のちっぽけなプライドが守れない。
「どうしたのです、急に」
「治してあげます」
自分でやっておいて治すもなにもないが、効果が早く切れるようにする薬には少し匂いがある。その時にバレてしまってはきっとカルデアじゅうの聖人たちに囲まれて人として歩むべき正当な道を説かれ、今度こそ俺の精神は音もなく壊れるのだろう。と予想がついている。
強すぎる光は影を落とすことを知らない、自分がそう、強すぎる光であるからこそ影が見えない人たちばかりだから、自分の身体がおかしいからといって、他人も同じ状況に置こうとするなど、俺の卑小な考えなんて理解できない。それでも救うべき哀れな子羊のために懸命に「救って」みせようとするだろう。きっと俺の目の前にいる人もそうだ。
他人に勝手に求めて、勝手に失望して。
ときに双方向に求めあっていたら「恋が成就する」だなんて言う。俺が、そして彼が愛した人類はそうして命をつないできたかと思うと、少しだけ恐ろしい。そんな恐ろしく低い確率を踏み越えて人類はここまで命をつなげたのだ。
恐ろしい、と感じるのは無理もないと思う。だってできなかったことは理解しようがない。残念ながら。人類すべてを愛して死んでいった人と、その人ただ一人を愛している俺。どうしたって違いすぎるじゃないか。
「目立たないように、布で押さえましょう」
「ええ、お願いします」
包帯として使っていた、要らなくなった衣服を切り、縫い合わせて作った布をなるべく裸の胸を視界に入れないように、それでいて、極力俺の部屋に居てもらうものの、誰かに見た目で異変に気付かれないよう、豊満になりつつある胸を押しつぶすようにして布を巻いてゆく。
「マスター」
「どうかしましたか?」
「いえその、少し苦しいです」
「すみません、でも緩めると目立ってしまうので……」
「では、ここから出るときは布を締めていただく、ではいけませんか」
少しの間逡巡し、それで構いませんと言って布をほどく。圧を失った脂肪はもとの大きさに戻り、ゲオルギウスは大きく息を吐いた。
体調が思わしくないのか、失礼、と断りを入れたあとベッドに横たわりぬるくなった湯たんぽを引き寄せる。確か俺/私が生理痛のときに飲んでいた豆乳があったはずだ。どれだけ効果があるかはわからないが、何もしないよりいいだろう。
紙パックに入った、賞味期限にはまだ余裕がある豆乳をマグにあけ、電子レンジであたためる。人肌程度に温まったところで引きあげて、試験管の三分の一まで水を注いだものにラムネのような薬剤を溶かし、静かにマグへ注ぐ。うまく豆乳の匂いと混ざって気にならなくなった。これで少しだけ、もとに戻るのが早まるはずだ。
気分が悪そうに眉間にしわを刻むゲオルギウスの側に腰かけ、サイドテーブルにそっとマグを置く。
「起き上がれますか?女の方の俺があなたのような症状になっていたときに飲んでいたものを飲んでみませんか」
だるそうに身体を起こすゲオルギウスの腰にクッションをあててやり、ハンカチで包んだマグを持たせる。マシュがスミレの花を刺繍をしてくれたかわいらしいハンカチ、それが少しだけ罪悪感を刺激する。
ぽってり厚い唇がだるそうに薄く開かれ、溜息が零れる。顔と精神性が美しいひとはなにをしても綺麗だ。それはほかの英霊たちもうそうだけれど、刹那的に生きた人間の表情は誰も見たことが無いものである可能性がある。それでいて自分しか知らないかもしれない。それに得もいえない喜びを感じる。なんだか、憧れていたものが少し身近になったような錯覚に陥る、少しの失望を含んだ喜び。
明かりを落として、昔聞いた歌を口ずさんで子守唄代わりにする。ふるさとを想い、家族や友達の息災を願う歌。
いつもは頭を撫でようものなら、明言こそしないものの好ましくない、といったそぶりをされるが、今はむしろ心地よさそうにその長い髪を預けてくれている。時々何かの鱗だったり、欠片、血の塊などが絡んでいるのを丁寧に取り除き、俺/私が使っている櫛で梳くと元通りの艶が戻ってくる。
手に取った毛束にこっそりキスを落として、何事も無かったように、梳く。今まで彼に相対するときは尊敬を全面に押し出してきたのに、ここらで我慢が足りなくなってしまった。今なら、彼、いや何と呼ぶべきかわからないが、この人と俺は理論上子を成せる、とあまりに倫理に反したことが頭をよぎったことを恥じる間もなく、ゲオルギウスの苦しそうな吐息に意識を引きずられる。
ときにひどく傷むらしく、額に脂汗が浮いている。固く絞ったタオルで額をぬぐうと気持ちよさそうに目を細める。やっと、俺が彼に何かしてあげられた。
してあげられた、といっても原因が俺なので手放しで喜べない。鎧越しでない彼の掌はひどく熱くて、傷とマメだらけだった。
「これから数日は、ここから出ないでください……もう、声が女性のものになっています」
無言で頷いてくれる。いい機会だからマントを洗濯し、鎧にさび止めを塗っておくのもいいだろう。俺は変な方向に前向きだ。
◇
朝、俺のものではない体温と寝息で目が覚める。それが自分が好ましいと思っている人ならばなおさらだ。まだ深い眠りの中にいることを確かめたのち、そっと肩に触れる。どこで貰ってきたのかわからない、きっと人間の者ではない深い噛み傷。その歯列の一つ一つをなぞっているうちに、聞きなれない女性の声で、おはようございます、マスター、と声を駆けられる。
「起こしてしまいましたか?すみません」
「問題ありません、そろそろいつも起床している時間ですから」
ゲオルギウスが起き上がると俺の頬に髪の毛が降ってくる。失礼、とすぐ払われてしまったけれど、彼の匂いがふわりと鼻をくすぐるのでそう悪くない。
「マスター、これは?」
「その、下着の当て布です。こう、包装を剥がして……」
「そうだったのですか、これは失礼」
「いいえ、とんでもない……使い終わった当て布は隅にある箱に入れておいてください」
申し訳なさそうにトイレに入り、生理用ナプキンを取り換える。言葉にしてしまえばそれだけのことなのに、ひどくそそる。そんな邪心を振り払うように朝食の準備をする。昨日のうちにドクター・ロマニにはオブラートにくるんで話をつけてあるから、よほどの緊急事態が無い限りは施錠したままになるはずだ。目玉焼きと、ベーコンと、トマトと豆のスープと、パン。あの恵まれた体格を意地するためにはこれでは少ないかと思ったが、食欲がいつもより無いらしいので、このくらいにしておく。
食事の前にも、彼は何かに祈りをささげている。俺には祈る神なんていないが、先に食べ物に手をつけるのもなんだか居心地が悪くて黙って待っている。
「お待たせいたしました、いただきましょう」
「ええ、そうしましょう」
さくり、と彼の歯がトーストに突き立てられたのを盗み見て、この人は特別おいしそうにものを食べるなと思う。自分が作った、あまり見栄えがいいとは言えない食べ物をおいしそうに食べているところを見ると悪い気はしない。
仮にも彼も大衆からあがめられた存在であるが、今は洗い物を進んでしている。今日の朝の薬も飲ませたし、端的に言えば暇、である。
それを聞いたゲオルギウスは、カメラを取ってきて欲しいという。持ってくると、マスター、と呼ばれ、脚の間に誘われる。この人は俺が純粋で、よこしまな心を持たない子供だと思ってはいないだろうか、と疑念に駆られるが大人しく収まっておく。柔らかな胸が背中にあたって気が気じゃない。
「あなたが救ってきた者たちの記録です」
そんなものを撮っているとは知らなかった。思わず見入ってしまう。ローマの市街地で遊ぶ子供、寝ぼけ眼のマシュの髪の毛を梳くブーティカ、しくみが気になるのかレンズを覗き込むネロ、母の腕に抱かれるオルレアンの子供、ジャンヌの旗を広げて模様に見入るマシュ、それにドレイクの部下たちに飲みつぶされた俺、それを笑って冷やかすドレイク、介抱するマシュ。光源が松明だけなのでどうしても暗いが、その笑顔はどこまでも明るい。
霧に煙るロンドン、モードレッドにジキル、寝所に行く前に行き倒れたアンデルセン、物思いにふけるシェイクスピア、折り紙をするフランケンシュタインと、俺とマシュ、遠くから撮ったのでピントがぼけているニコラ博士。そしてアメリカ。どこまでも広がる荒涼、という言葉が似合う大地にたたずむジェロニモと、その話を聞き入るマシュ。俺の顔に木の実を並べて遊ぶエリザベートとビリーと、それをたしなめるロビンフッド、エジソンの毛並に触れるか触れまいか迷う俺と、それを見守るブラヴァツキー。
思わず笑いが零れる。恐ろしいくらいの責任が俺の両肩に圧し掛かり、おかしな体質まで抱えているのに、実にほほえましいじゃないか。
「こうして、皆あなたが血反吐を吐きながらも立ち向かうからこそ、生きた証を残せているのです」
いつもみたいに説教臭くなく、優しくささやくように言い聞かせてくる。この人なりに俺を奮い立たせようとしているのかもしれない。
「これ、一枚もあなたの写真がないですね」
「そうですね……私はいつも撮る側でしたからね」
「治ったら、俺があなたのことを撮りたいです」
「ええ、そうですね、お願いしましょう」
「そう言えば、体調はよくなりましたか?」
「おかげさまで、随分良くなりました。時に刺しこむように痛みはしますが……そんな悲しそうな顔をするほどではありませんよ」
「本当ですか?遠慮はなさらないでくださいね」
「本当ですよ、ありがとうマスター」
慈愛、という言葉が似合う笑みの作り方は変わらない。いまこの表情を記録に残したかった。
「あの」
「なんです?」
本来メンテナンスが不要なはずの英霊の装備にさび止めを塗る手を止めて、こちらに注意を向けてくれる。
「竜を殺すこと……というか自分より強大なものに立ち向かうのが、怖いと思うときはありますか?」
「それはもう、怖くて堪らないときもありますよ」
驚きのあまり彼から目を離せないでいると、苦笑いを一つ零して鎧を分解しはじめる。
「本当に?あなたほどの人でも?」
「ええ」
意外だった。誰も彼もそんなそぶり見せたことが無いのに。彼ほどに伝説を積んで、英霊として召し抱えられるほどの偉大な魂でも、強大な敵は恐ろしいのだ。
「あの、俺本当にいつもいつも、怖くて……異形の敵や、思想を違えた英霊が、そしてあの、ソロモンが」
「マスター、あなたは本当に良く頑張っています……ドクターに聞いたら、あなたは特別な訓練を受けたわけでもない方だというじゃないですか」
「いつだって逃げたい、という気持ちが起きてしまう」
「あれだけの敵が立て続けに来るのであれば、そうなっても仕方ありませんね」
「……あなたは怒ると思っていました」
「怒る?」
「意気地なし、お前の両肩に人類の未来がかかっているというのに、って」
「……マスター、あなた私をそんなことすると思っていたのですか」
「だって、今までこうして話す機会もなかったですし」
「そうですね、いい機会だったかもしれませんね」
とんでもない状況に陥っているというのに、悲観的な雰囲気は無い。むしろ前向きにとらえているような気すらする。
「あなたが苦しいとき、私が傍に居りましょう」
胸がつぶれそうなほど苦しい。文脈からしてそんな意味じゃないはずなのに、すべてが終わってしまえば、英霊の座とかいう場所に戻ってしまうというのに。悟られぬよう笑顔で、そうですね、よろしくお願いしますと絞り出すのが苦しくて仕方ない。
「ほら、もう泣きそうな顔はおよしなさい、愛らしいお顔が台無しですよ」
「……子ども扱いはやめてください」
「おや、それは失礼」
そうやってまた優しい言葉をくれたり、不用意に触れてきたり。俺が心残りをたくさんゲオルギウスに残してしまうようなことをする。人理さえ救済していまえば、俺の役割は終わりだから、合理的といえば合理的と言えるだろう。人理救済までは生かされているのだ。あなたへの執着で、俺は生き延びると言ったら、彼はどんな顔をするだろう。その執着が遠因となってあなたの身体は今こんな状態になって居ると知ったら。
なんて恐ろしい想像だろう。知らせなくていいことは知らせないでおきたい。彼が、英霊の座とやらに帰ってしまうときには全て忘れてしまうにしても、俺がマスターだったときに、深い悲しみに沈んでほしくない。
自分でも支離滅裂だとは分かっている。なら懺悔でもしようか?彼の祈る神に。あなたを崇拝する信者を、いずれ必ず別れが来る存在に執着するあまり、自分の体質に近づけて、教義上、良しとしない存在にしました。それでも、それでも俺は彼を愛おしいと同じ口で宣ことを許しますか。
そこまで考えて、俺は許しなど求めていないことに気付いた。この背徳こそ、彼がいなくなったあと俺と彼をつなぐ。ならば許させてはいけない罪なんだ。これで俺の凶行にも説明が付く。
「マスター、どうしました。難しい顔をして」
「いえ、なんでもありません」
笑い出したいのを堪えて、さっきから床についてしまっている髪をまとめる髪ゴムを探す。自分でも面白い道理を考え付いたものだ。
===
おそらく2016年6月19日発行のぐだゲオコピ本の再録です。
魔術の発端は、ヒトが抱くささやかな悪戯心や、あこがれのあの人が振り返ってほしい、自分とは別の人間に心を奪われてしまってにっちもさっちもいかなくなってしまった弱さを押し隠したい、なんていうささやかな願いなんじゃないかなと夢想する。
そんな俺のしたたかな劣情を映し出した液体は、俺が知っている色の中で一番近い色は紺色だが、フラスコを傾けると水面が眩しいくらい鮮やかな赤に照る。
俺は俺の魔術師としての才能なんて一切無いと思っていた。なんとなく便利な技術で、おまじないの域を出ないだろうと本気で思っていたし、知識がないながらも懸命に作ったもので、すてきなあの子がどんな顔が見せてくれるんだろう、なんてくらいにしか思っていなかった。そしてもしかしたら、俺のこの妙な体質の仲間が出来て、ともに歩んでくれるかもしれない……それは思い上がり過ぎじゃないか、いやでも彼は、普通の人間なんかとは違うから大丈夫、だなんて考えていた。
人類史を紐解くと、思想というものは流れゆくものであると実感する。
女性に関して言うと、今からは考えられないし、失礼だし配慮に欠けるどころの騒ぎじゃないとは思うが、女性そのものが堕落を誘う、楽園を追われた原罪の象徴だとみなしていた時代があった。
男性を堕落させるから罪、という論理であるらしい。過去に存在した思想に関して現在から解き明かすとして仮定の域を超えることは無いが、随分な言いようだ。
けれどその時代に生きた先人たちの考え方を根本から否定する気になれない。なんだかんだ言いながらも俺は人類が愛おしいのだと思う。迷い、間違えながらも前に進むことをやめない人類が。
それじゃないとこんなに危ない、ストレスで胃が千切れ飛びそうなことできやしない。途中で自害しているだろう。
だから、この薬を作ったのは単なる興味でもある。
たとえば、その教えに殉じて命すら差し出した人間が、原罪そのものになったとしたらどうなるのか?
泣き狂うのか、それとも新たな生、いや性を楽しむのか?
「マスター、ちょっと」
例の薬を少しずつ投与して、五日目に差し掛かるかというときに声をかけられた。わくわくをどうにか押し込めて、努めて平静に、何?どうかした?と返事する。
「その、少し言いづらいことで」
「じゃあ、俺の部屋で話しましょう」
自然に自室に連れ込めたこともうれしい。俺への警戒心がずいぶん薄れたことが伺える。無駄を完全にそぎ落としたこの無機質な部屋が今は華やいで見える。
「で、どうしました?」
「その……私もにわかに信じがたいことなのですが」
「はぁ」
好青年ぶって、心底あなたを心配していますあなたの現在の命も守る主として、というふうに接してみせる。所在無さげにマントの端をいじるゲオルギウスにあったかいほうじ茶を淹れて渡す。一緒にきなこもちを添えて。
不安定な丸椅子ではなく、ベッドの端に腰かけるように勧める。
勧められるがままに俺の隣に座るゲオルギウスの顔を覗き込むと、言うか言うまいか迷っているように見える。
「言えないようなことですか?」
「それが……その」
そりゃあ言えないよな。五日といったらそろそろ子宮の形成が終わり、膣の形成が終わり、膣口の形成が始まる頃だ。その前に乳房が形成されているはずだ。そりゃあ、もう無視できない。気のせいだと自分に言い聞かせるのも限界だろう。
「何でも言ってください、あなたの力になりたい」
その言葉に心動かされたのか、固くひきむすばれた唇が解け、喉から引き絞られるように言葉がこぼれ出る。
「身体が、女に」
「えっ…と……それはどういう?」
初めて聞きました、そんなことにわかに信じがたいと言わんばかりの表情を顔に貼り付け、内心では成功を喜ぶ幼児のように無邪気に笑い、ねぇ、すごいでしょう、私は何もできない単なる人の子ではありませんと自分の力量を誇示したくなる。それをどうにか抑え、鎧の上から身体を伺おうとする。
「やはり見てもらった方が早いだろう」
「えっ?」
おそろしいほど複雑な鎧の留め金を外し始めた。元は男だからべつに恥ずかしがる必要は無いはずだが、今は女の身体をしているはずだから見てはいけないような気がして、目を伏せた。
「マスター」
なんだか声も少し変わっている気がする。俺より先にキャスタークラスのサーヴァントに相談されていたらなにもかもが終わっていた。そうなっていないということは運命の女神や、もしかしたら彼が祈る神ですら俺の味方だったりして。
「その、シーツどけても大丈夫でしょうか」
肌を見せることを、思想上忌避していたはずの時代から来た人だからひどく迷っているだろう。顔面は蒼白で、唇は紫色になってしまっている。
「ムリしないでください、ストレスの方が良くないです、きっと」
「いや、その、信じてもらいたいのです、本当にそうなってしまってしまったことを」
震える手でシーツで包まれた傷だらけの身体を露わにする。
先日風呂で見たときは立派な胸筋があったところの少し上側に、そこそこの大きさの乳房があった。
「あっ、本当にあるんですね……」
「これで信じてもらえただろうか」
「うん、ちょっと信じられなかったですが……」
まじまじと眺めていると肌を隠されてしまった。あわてて目を逸らす。
「でも胸がちょっと変わっちゃっただけでしょう?ならそこまで支障ないんじゃ」
唇を噛みしめて目を逸らされてしまった。それはそうだろう。もうそろそろ生理が始まってもいいくらいの時期だから体調もおかしくなってきているのだろう。少しかわいそうになってきて、横になってと言うと素直に従う。
「数日前から下腹部が痛くて」
生理痛だろう。下腹部を温めるようにさすると大人しく受け入れられた。
「頭も痛いし身体も熱い」
小さな湯たんぽを引っ張り出して、湯を用意する。横になった途端眠気が襲ってきたのだろう、瞼が落ちかけている。
タオルにくるんだ湯たんぽをシーツに押し込んで、腹にあてると少しよくなるらしいのであててやる。眉間に刻まれた皺が少しだけ緩くなったような気がする。
「我慢できないくらい痛いなら痛み止めあげるよ」
「マスターは痛み止めを常用しているのですか?」
「うん、怪我したときとか我慢できないくらいときありますし」
明かりを消して、少し寝たら?と言うと暗がりの中で頷いた衣擦れの音がした。表情は窺い知れないが沈痛な面持ちでこちらの反応を伺っているのだろう。
「大丈夫、俺は味方です、それに誰にも言いません。安心してください」
「ありがとう」
掠れた声で言うものだから、英霊となるまで、英霊となってからも強く在った人だというのに急に庇護欲をくすぐられてしまった。痛むと言っていた腰のあたりを優しくなでる。
「こんなこと、主が許すはずがない」
「え?」
「罪の具現である女になるなんて」
価値観が違う時代から来た人間なのだから、とどれだけ言い聞かせても、体中の血が端から凍っていくのがわかる。
もしかしたら、この人が私と同じ状況―性が自分の意志に関わらず突然、前触れなく変わってしまう―になったら、縋るものがある人間ならば、こんな状況になってしまった私を救ってくれるかもしれない、と思っていた。
俺は彼をなんだと思っていたのだろうか。人間より素晴らしい生き物だと言われているのだから、もしかしたら俺とは違う考え方で、この状況を撥ね退けてくれるかもしれないなんて考えていた。
勝手に身体を、興味が向くままに変えておいて、自分の思ったとおりの反応を得ることができなかったからと失望をして。随分非道なマネをしたという自覚はある。
「じゃあ、その主に俺の事も助けてって言っておいてください」
「何故です……あなたは男性でしょう」
「今はそう見えますよね」
俺は深くため息をついて、発言の意図がつかめずにいるゲオルギウスの腰を撫で続けたまま言葉を選んで話を戻す。
「堕落を誘う、あなたが言うところの原罪そのものに、自分の意志に関係なく、自分とは全く別の女になってしまう、ということです」
意味が解らない、と言う目で見てくるゲオルギウスに触れる手は今は筋張っているが、自らの意志に関わらず、オレンジ色の髪と琥珀色の瞳を持った女に変わるときがある。人格は一緒のままだ。そんないかれた状況でも、男から女に、見た目が全く変わったというのに変わらず「俺/私」を認識し、名前を呼ぶダ・ヴィンチちゃん、ドクター・ロマニ、本来一人のマスターに一人のみ召喚ができるはずのサーヴァントたち。それに、マシュ。
サーヴァントをその身を貸出したとはいえ、カルデアがこうなってしまう前から俺の事を知っているはずの俺の後輩。そのマシュですら俺/私の事を認識できていない。
「言ってる意味、わからないですよね……ごめんなさい」
何に対しての謝罪だろう。きっと範囲が広すぎて自分でも収拾がつかない範囲への謝罪。ゲオルギウスは上掛けが落ちてくるのも厭わず手を伸ばし、頭を撫でてくれる。そのまま倒れ込むように隣に横になると、そのまま抱きしめてくれる。押し付けられた胸はさきほどより少し大きくなったような気がする。もちろん胸筋ではない。温かく、やわらかな脂肪だ。
「肌を晒すなどと、昔は考えられなかったのですが」
ふふ、と小さく頭の上で笑ったのがわかった。
「お辛かったことでしょう」
お前に何がわかる、偉そうに、そうやって一歩上の立場から見下ろして、あなたが誠心誠意、文字通り全て捧げた存在が貴方に何をしてくれた、などと口汚くののしりたかったが喉には嗚咽が張り付いて、そんな言葉でてきやしない。ただ彼の身体に残る傷跡に爪を立ててささやかに、目と鼻の先にある安らぎに抵抗する。
「時々、あの四十七人が冷凍保存されている部屋で一人嘆いていますね」
「なんでしってるんですか」
「子供の考えることくらい、大人はお見通しなのですよ、マスター」
悔しくて堪らない。惨めったらしくて、腹立たしさすら感じる。ゲオルギウスの言うとおり、もう何もかも、人類史だなんだって全部投げたしたくなったらあそこに行っている。このなかの誰か一人でも奇跡的に起きだして、俺の代わりになってくれやしないかって泣いている。だれかにこんな役目押し付けて、どこかへ行ってしまいたいと嘆いている。
できるだけサーヴァントの前では強い主人であろうとしている。そうでもしないと寝首をかかれやしないかと気が気でない。そんな努力が無駄だと笑われたような気になってしまう。普段ならこちらも、そうなんだ、と笑い飛ばせたようなことが妙に心がささくれ立つ。
「あんたなんか大嫌いだ」
「とおっしゃられますが、いささか抱きしめる力が強すぎるようですよ、マスター。少し苦しいです」
「ごめんなさい、好きです」
「ええ、私もです……マスター、言葉と行動が一致していませんが」
「ごめん、もう少しこのままでいさせてください」
あなたが俺に言う好きと、俺があなたに言う好きの意味は違うと言ってもっともっと困らせてみたい、と思うだけにとどめておく。
◆◆◆
「これから数日、俺の部屋で寝起きしてください」
よそ様の胸に顔をうずめている割には偉そうな物言いだが、そうでもしないと俺のちっぽけなプライドが守れない。
「どうしたのです、急に」
「治してあげます」
自分でやっておいて治すもなにもないが、効果が早く切れるようにする薬には少し匂いがある。その時にバレてしまってはきっとカルデアじゅうの聖人たちに囲まれて人として歩むべき正当な道を説かれ、今度こそ俺の精神は音もなく壊れるのだろう。と予想がついている。
強すぎる光は影を落とすことを知らない、自分がそう、強すぎる光であるからこそ影が見えない人たちばかりだから、自分の身体がおかしいからといって、他人も同じ状況に置こうとするなど、俺の卑小な考えなんて理解できない。それでも救うべき哀れな子羊のために懸命に「救って」みせようとするだろう。きっと俺の目の前にいる人もそうだ。
他人に勝手に求めて、勝手に失望して。
ときに双方向に求めあっていたら「恋が成就する」だなんて言う。俺が、そして彼が愛した人類はそうして命をつないできたかと思うと、少しだけ恐ろしい。そんな恐ろしく低い確率を踏み越えて人類はここまで命をつなげたのだ。
恐ろしい、と感じるのは無理もないと思う。だってできなかったことは理解しようがない。残念ながら。人類すべてを愛して死んでいった人と、その人ただ一人を愛している俺。どうしたって違いすぎるじゃないか。
「目立たないように、布で押さえましょう」
「ええ、お願いします」
包帯として使っていた、要らなくなった衣服を切り、縫い合わせて作った布をなるべく裸の胸を視界に入れないように、それでいて、極力俺の部屋に居てもらうものの、誰かに見た目で異変に気付かれないよう、豊満になりつつある胸を押しつぶすようにして布を巻いてゆく。
「マスター」
「どうかしましたか?」
「いえその、少し苦しいです」
「すみません、でも緩めると目立ってしまうので……」
「では、ここから出るときは布を締めていただく、ではいけませんか」
少しの間逡巡し、それで構いませんと言って布をほどく。圧を失った脂肪はもとの大きさに戻り、ゲオルギウスは大きく息を吐いた。
体調が思わしくないのか、失礼、と断りを入れたあとベッドに横たわりぬるくなった湯たんぽを引き寄せる。確か俺/私が生理痛のときに飲んでいた豆乳があったはずだ。どれだけ効果があるかはわからないが、何もしないよりいいだろう。
紙パックに入った、賞味期限にはまだ余裕がある豆乳をマグにあけ、電子レンジであたためる。人肌程度に温まったところで引きあげて、試験管の三分の一まで水を注いだものにラムネのような薬剤を溶かし、静かにマグへ注ぐ。うまく豆乳の匂いと混ざって気にならなくなった。これで少しだけ、もとに戻るのが早まるはずだ。
気分が悪そうに眉間にしわを刻むゲオルギウスの側に腰かけ、サイドテーブルにそっとマグを置く。
「起き上がれますか?女の方の俺があなたのような症状になっていたときに飲んでいたものを飲んでみませんか」
だるそうに身体を起こすゲオルギウスの腰にクッションをあててやり、ハンカチで包んだマグを持たせる。マシュがスミレの花を刺繍をしてくれたかわいらしいハンカチ、それが少しだけ罪悪感を刺激する。
ぽってり厚い唇がだるそうに薄く開かれ、溜息が零れる。顔と精神性が美しいひとはなにをしても綺麗だ。それはほかの英霊たちもうそうだけれど、刹那的に生きた人間の表情は誰も見たことが無いものである可能性がある。それでいて自分しか知らないかもしれない。それに得もいえない喜びを感じる。なんだか、憧れていたものが少し身近になったような錯覚に陥る、少しの失望を含んだ喜び。
明かりを落として、昔聞いた歌を口ずさんで子守唄代わりにする。ふるさとを想い、家族や友達の息災を願う歌。
いつもは頭を撫でようものなら、明言こそしないものの好ましくない、といったそぶりをされるが、今はむしろ心地よさそうにその長い髪を預けてくれている。時々何かの鱗だったり、欠片、血の塊などが絡んでいるのを丁寧に取り除き、俺/私が使っている櫛で梳くと元通りの艶が戻ってくる。
手に取った毛束にこっそりキスを落として、何事も無かったように、梳く。今まで彼に相対するときは尊敬を全面に押し出してきたのに、ここらで我慢が足りなくなってしまった。今なら、彼、いや何と呼ぶべきかわからないが、この人と俺は理論上子を成せる、とあまりに倫理に反したことが頭をよぎったことを恥じる間もなく、ゲオルギウスの苦しそうな吐息に意識を引きずられる。
ときにひどく傷むらしく、額に脂汗が浮いている。固く絞ったタオルで額をぬぐうと気持ちよさそうに目を細める。やっと、俺が彼に何かしてあげられた。
してあげられた、といっても原因が俺なので手放しで喜べない。鎧越しでない彼の掌はひどく熱くて、傷とマメだらけだった。
「これから数日は、ここから出ないでください……もう、声が女性のものになっています」
無言で頷いてくれる。いい機会だからマントを洗濯し、鎧にさび止めを塗っておくのもいいだろう。俺は変な方向に前向きだ。
◇
朝、俺のものではない体温と寝息で目が覚める。それが自分が好ましいと思っている人ならばなおさらだ。まだ深い眠りの中にいることを確かめたのち、そっと肩に触れる。どこで貰ってきたのかわからない、きっと人間の者ではない深い噛み傷。その歯列の一つ一つをなぞっているうちに、聞きなれない女性の声で、おはようございます、マスター、と声を駆けられる。
「起こしてしまいましたか?すみません」
「問題ありません、そろそろいつも起床している時間ですから」
ゲオルギウスが起き上がると俺の頬に髪の毛が降ってくる。失礼、とすぐ払われてしまったけれど、彼の匂いがふわりと鼻をくすぐるのでそう悪くない。
「マスター、これは?」
「その、下着の当て布です。こう、包装を剥がして……」
「そうだったのですか、これは失礼」
「いいえ、とんでもない……使い終わった当て布は隅にある箱に入れておいてください」
申し訳なさそうにトイレに入り、生理用ナプキンを取り換える。言葉にしてしまえばそれだけのことなのに、ひどくそそる。そんな邪心を振り払うように朝食の準備をする。昨日のうちにドクター・ロマニにはオブラートにくるんで話をつけてあるから、よほどの緊急事態が無い限りは施錠したままになるはずだ。目玉焼きと、ベーコンと、トマトと豆のスープと、パン。あの恵まれた体格を意地するためにはこれでは少ないかと思ったが、食欲がいつもより無いらしいので、このくらいにしておく。
食事の前にも、彼は何かに祈りをささげている。俺には祈る神なんていないが、先に食べ物に手をつけるのもなんだか居心地が悪くて黙って待っている。
「お待たせいたしました、いただきましょう」
「ええ、そうしましょう」
さくり、と彼の歯がトーストに突き立てられたのを盗み見て、この人は特別おいしそうにものを食べるなと思う。自分が作った、あまり見栄えがいいとは言えない食べ物をおいしそうに食べているところを見ると悪い気はしない。
仮にも彼も大衆からあがめられた存在であるが、今は洗い物を進んでしている。今日の朝の薬も飲ませたし、端的に言えば暇、である。
それを聞いたゲオルギウスは、カメラを取ってきて欲しいという。持ってくると、マスター、と呼ばれ、脚の間に誘われる。この人は俺が純粋で、よこしまな心を持たない子供だと思ってはいないだろうか、と疑念に駆られるが大人しく収まっておく。柔らかな胸が背中にあたって気が気じゃない。
「あなたが救ってきた者たちの記録です」
そんなものを撮っているとは知らなかった。思わず見入ってしまう。ローマの市街地で遊ぶ子供、寝ぼけ眼のマシュの髪の毛を梳くブーティカ、しくみが気になるのかレンズを覗き込むネロ、母の腕に抱かれるオルレアンの子供、ジャンヌの旗を広げて模様に見入るマシュ、それにドレイクの部下たちに飲みつぶされた俺、それを笑って冷やかすドレイク、介抱するマシュ。光源が松明だけなのでどうしても暗いが、その笑顔はどこまでも明るい。
霧に煙るロンドン、モードレッドにジキル、寝所に行く前に行き倒れたアンデルセン、物思いにふけるシェイクスピア、折り紙をするフランケンシュタインと、俺とマシュ、遠くから撮ったのでピントがぼけているニコラ博士。そしてアメリカ。どこまでも広がる荒涼、という言葉が似合う大地にたたずむジェロニモと、その話を聞き入るマシュ。俺の顔に木の実を並べて遊ぶエリザベートとビリーと、それをたしなめるロビンフッド、エジソンの毛並に触れるか触れまいか迷う俺と、それを見守るブラヴァツキー。
思わず笑いが零れる。恐ろしいくらいの責任が俺の両肩に圧し掛かり、おかしな体質まで抱えているのに、実にほほえましいじゃないか。
「こうして、皆あなたが血反吐を吐きながらも立ち向かうからこそ、生きた証を残せているのです」
いつもみたいに説教臭くなく、優しくささやくように言い聞かせてくる。この人なりに俺を奮い立たせようとしているのかもしれない。
「これ、一枚もあなたの写真がないですね」
「そうですね……私はいつも撮る側でしたからね」
「治ったら、俺があなたのことを撮りたいです」
「ええ、そうですね、お願いしましょう」
「そう言えば、体調はよくなりましたか?」
「おかげさまで、随分良くなりました。時に刺しこむように痛みはしますが……そんな悲しそうな顔をするほどではありませんよ」
「本当ですか?遠慮はなさらないでくださいね」
「本当ですよ、ありがとうマスター」
慈愛、という言葉が似合う笑みの作り方は変わらない。いまこの表情を記録に残したかった。
「あの」
「なんです?」
本来メンテナンスが不要なはずの英霊の装備にさび止めを塗る手を止めて、こちらに注意を向けてくれる。
「竜を殺すこと……というか自分より強大なものに立ち向かうのが、怖いと思うときはありますか?」
「それはもう、怖くて堪らないときもありますよ」
驚きのあまり彼から目を離せないでいると、苦笑いを一つ零して鎧を分解しはじめる。
「本当に?あなたほどの人でも?」
「ええ」
意外だった。誰も彼もそんなそぶり見せたことが無いのに。彼ほどに伝説を積んで、英霊として召し抱えられるほどの偉大な魂でも、強大な敵は恐ろしいのだ。
「あの、俺本当にいつもいつも、怖くて……異形の敵や、思想を違えた英霊が、そしてあの、ソロモンが」
「マスター、あなたは本当に良く頑張っています……ドクターに聞いたら、あなたは特別な訓練を受けたわけでもない方だというじゃないですか」
「いつだって逃げたい、という気持ちが起きてしまう」
「あれだけの敵が立て続けに来るのであれば、そうなっても仕方ありませんね」
「……あなたは怒ると思っていました」
「怒る?」
「意気地なし、お前の両肩に人類の未来がかかっているというのに、って」
「……マスター、あなた私をそんなことすると思っていたのですか」
「だって、今までこうして話す機会もなかったですし」
「そうですね、いい機会だったかもしれませんね」
とんでもない状況に陥っているというのに、悲観的な雰囲気は無い。むしろ前向きにとらえているような気すらする。
「あなたが苦しいとき、私が傍に居りましょう」
胸がつぶれそうなほど苦しい。文脈からしてそんな意味じゃないはずなのに、すべてが終わってしまえば、英霊の座とかいう場所に戻ってしまうというのに。悟られぬよう笑顔で、そうですね、よろしくお願いしますと絞り出すのが苦しくて仕方ない。
「ほら、もう泣きそうな顔はおよしなさい、愛らしいお顔が台無しですよ」
「……子ども扱いはやめてください」
「おや、それは失礼」
そうやってまた優しい言葉をくれたり、不用意に触れてきたり。俺が心残りをたくさんゲオルギウスに残してしまうようなことをする。人理さえ救済していまえば、俺の役割は終わりだから、合理的といえば合理的と言えるだろう。人理救済までは生かされているのだ。あなたへの執着で、俺は生き延びると言ったら、彼はどんな顔をするだろう。その執着が遠因となってあなたの身体は今こんな状態になって居ると知ったら。
なんて恐ろしい想像だろう。知らせなくていいことは知らせないでおきたい。彼が、英霊の座とやらに帰ってしまうときには全て忘れてしまうにしても、俺がマスターだったときに、深い悲しみに沈んでほしくない。
自分でも支離滅裂だとは分かっている。なら懺悔でもしようか?彼の祈る神に。あなたを崇拝する信者を、いずれ必ず別れが来る存在に執着するあまり、自分の体質に近づけて、教義上、良しとしない存在にしました。それでも、それでも俺は彼を愛おしいと同じ口で宣ことを許しますか。
そこまで考えて、俺は許しなど求めていないことに気付いた。この背徳こそ、彼がいなくなったあと俺と彼をつなぐ。ならば許させてはいけない罪なんだ。これで俺の凶行にも説明が付く。
「マスター、どうしました。難しい顔をして」
「いえ、なんでもありません」
笑い出したいのを堪えて、さっきから床についてしまっている髪をまとめる髪ゴムを探す。自分でも面白い道理を考え付いたものだ。
===
おそらく2016年6月19日発行のぐだゲオコピ本の再録です。
碇を下ろせない港のよう #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #天草四郎時貞
碇を下ろせない港のよう #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #天草四郎時貞
重苦しい、棺に似た入れ物に、見たこともない言葉が書き連ねられた古くて薄汚い布を何重に巻かれたものを、人類の英知と、武勇とを持ち合わせた英霊たちが欲しがっている、という事実に実感を持てないでいる。
英霊たちが明かした聖杯にかける願いは人それぞれだが、実にありふれた願いを持った英霊たちが多い、というのが俺が感じた印象だった。
結局、英霊だ何だと箔付きのお椅子に座っていながら、あれらは欲張りな人間の枠を脱していない。だからこそ俺も彼らに、同じ人間として愛着を持ち、同じ志を持つ同士としてこの過酷な使命を未だ放り投げてしまわないでいる。
魔術が込められた錠を解いていくうちに、それの実態が見て取れる。
どれだけの人が悲願を込めたのか、知るよしもない。
それはどれも相当に古いもののはずだが、その深みのある金には濁り一つない。
俺らはこれを、聖杯と呼んでいる。
本来ならこれは一つだけ存在するはずだが、今回のは何もかもがイレギュラー。ここに並ぶ聖杯は十一もある。イレギュラーついでに、それを英霊の霊核と融合させることで、英霊の持つ力を格段に上げる、というのだ。
一つの聖杯を七基の英霊たちで奪い合あった彼らに言ったら卒倒しそうだ。
聖杯を一基の英霊につかうだなんて、それも五つも、それで死後の安らぎを人類に売り渡してまで欲した悲願が五つも叶ってしまうではないか、となじられるだろうか?
いや、それはないかと思う。たぶん。
彼らの願いは、人類が存在してこそ意味があるもので、人理が焼き尽くされた後叶っても意味がないものがほとんどだ。
マタ・ハリは永遠の若さを、ジェロニモはこれ以上奪われぬよう、と願うという。といった要領で、彼らはめいめい、人類が存在する前提で願いを聖杯に託すつもりでいる。
なら、無欲そうに見える英霊に聖杯を託そうと考え、俺はあるサーヴァントを選んだ。
彼の名前は天草四郎時貞。
日本史の授業を話半分に聞いていた俺ですら彼のことを知っている。彼は、秘密だなんだとはぐらかし、一度も俺に聖杯に託す願いを教えてくれたことはないけれど、きっと彼なら、聖杯をその身体に受け入れ、より強力なサーヴァントとして人理修復に協力してくれることだろう。
◇◇◇
「マスター、それは」
彼が表情を変えるのを初めて見たかもしれない。
「うん、そう。四郎くんは見たことあるんだよね」
聖杯大戦のことは、ロード・エルメロイ二世の書棚の隅に積まれていた資料で読んだ。
ユグドミレニアが冬木から奪った聖杯を奪って、何らかの願いを叶えようとした。ということはわかっている。その前に、得物が手に届く範囲にある彼を令呪で縛る必要がありそうだ。
「サーヴァント・ルーラー……天草四郎時貞に令呪を以て命ずる。黙って話を聞いて、そして、質問に答えて」
眩い緋の光が視界を染めたのち、手の甲のあざが一つ消え、彼はとりあえず俺を殺して聖杯を奪うということができなくなる。
いつもの穏やかな表情とはなんだか違う表情をしている。笑みはもちろん、いつもと変わらぬ柔らかさな笑みだが、目が笑っていない。むしろ冷たい氷の刃を模した視線が俺に刺さる。
「だって、そうでもしないと俺が三池典太の錆になっちゃうでしょ」
「そのようなことは」
「しない、と言える?これが君の願いを叶えることができるかもしれないものだったら?」
答えはなかった。
彼ほどの人格者が、犠牲を厭わずかなえたい願いとはなんだろうか?俺は本来の目的とは逸れていることを自覚しながらも、彼の願いを聞いてみたくなってしまった。令呪が効いている今がチャンスだろう。
「ねぇ、聞かせて。君の願いは?なんでそんなにコレがほしいの?」
彼の眼前で五つの聖杯を鳴らせてみせた。
完全に余計なことではあるが、彼の眉間に皺がよったところを見ることができただけでよしとしよう。
◇
「四郎くんは、何か叶えたい願いがあるの?」
「……全人類の、救済です」
「え?」
言っている意味がよくわからない。というか、おおざっぱすぎて、具体的にどうしたいのかがわからない。俺だって人理の修復を担っており、大枠で言えば俺と同じ願い、と言えなくもないかもしれない。
「もうちょっとわかりやすく」
彼は、深く深くため息をついて、聞き分けの悪い子供に言い聞かせる親のような穏やかな声音で、この世の地獄を経て得た理想を語り始めた。
「人は、欲を抱きます」
「欲は、善きもの、悪きもの両方を呼びます」
「えーでもそれが人間ってもんじゃない?」
「貴方が話せと言ったのでしょう……話は最後までお聞きなさい」
「はぁい」
割と強烈にねめつけられて、身を竦める。再び視線を宙に戻して話を続ける。
「……私は、人間が生み出したシステムに押しつぶされる人間を……それを生み出す人間の性質を見過ごしておきたくないということです」
「んー……まだわかんないな……あのさ、四郎くんはすっっっっごいひどい目、って言葉で表せないくらいの目に遭ったのに、なのにまだ、人類を救いたいなんて思うの?」
また、能面のような笑みを浮かべた。俺はこの笑い方が好きじゃない。なんだか、俺と四郎くんのココロの間に、薄膜を張ったような気がする。さっきみたいに怒りの片鱗をにじませた彼の方がよっぽど魅力的だ。
「私は、憎しみを捨てました」
「ウッソー!そんなゴミ捨て場にちゃんと分別して捨てましたーみたいなノリでできること……なの?」
彼があまりに穏やかななかにも切なげな表情を浮かべているものだから、途中から語気を保てなくなってしまった。それ以上、言ってはいけないような気もする。いつもの彼じゃないみたいだ。どんなことにも余裕綽々、みたいな表情で同じ年代とは思えない彼とは違うみたいだ。
「ええ、それは自身に対する裏切りではありますが、私は、そうしたかったから、そうしただけで、そのように悲しい顔をなさる必要はないのですよ」
「でも……それって、四郎くんは救われる?」
「私ですか……?それは……わかりません」
願いを叶えたあとの自分の事なんて初めて思い至った、といった表情で思案を巡らせている。きっと、あまりに願いが大きすぎてそんなところに脳のリソースを割くということ事態思い至らなかったのだろう。
「そっかぁ……それは個人的にイヤだな……」
「それほどですか?」
「うん……そんなにまで頑張ってる人が、やったー!幸せー!ってならないと俺は悲しいな……って、でも四郎くんが望む世界はそんな気持ちも抱かなくなるんだよねきっと……うーん、まあそれはそれで効率がいいのかな……?」
彼の願いと自分の価値観、どう算段しても掠りもしない。それでも彼個人が報われてほしいと願ってしまう。
「四郎くんは、それが良いんだよね?」
「ええ」
迷いなく、それが唯一の正しい答えだと信じて疑わない彼があまりに高潔で、俺からずっと遠くにいるような気がしてならない。
個人の快、不快から遠く離れたところで一人、理想を叶えるために戦う彼は同じものを救おうとしているはずなのに俺とは違いすぎる。
自分の死が、仲間の死が、修正後はなかったことになる人たちであるとはいえ、死が恐ろしい、傷つくことが怖いと嘆く俺とは、覚悟の質が違うのかもしれない。
「わかった、じゃあ、こうしよう」
「俺と、四郎くんで人理の修復を頑張る!そうしないと四郎くんの救いたい人類がいなくなっちゃうから。そしたら、四郎くんはなんかいろいろ考えて、全人類救済できる方法を探す!で、俺は四郎くんが報われて、かつ四郎くんの願いが叶う方法を探す。これでどう?」
そんな、子供が叶わぬ理想を語るのを穏やかに眺める老人のような目で俺を見ないでほしい。喜びも怒りも悲しみも捨て去った人間はこういう顔をするのだとあらためて実感する。それがなぜか寂しくて仕方がない。
「お好きになさればよろしいかと。マスターがどうなさろうと、私は私の願望を叶えるだけです」
「そっか、それでいいよ。そうしよう」
でもやっぱり寂しいものは寂しいから、人理の修復が全部うまくいって、マシュも元気になって、それでも聖杯があったらこっそり……?というのもいいかもしれない。
◇◇◇
やっと本題を思い出した。
一方通行気味ではあったものの、久しぶりに同年代に見える男の子としゃべれてついはしゃいでしまった。彼の霊核と聖杯を融合させる、という目的があった。ドクターが言うには、霊核のある胸部に近づければ自然と取り込まれるという。簡単すぎ手拍子抜けした。なんかもっとこう……概念礼装のフォーマルクラフトのお姉さんのように、かっこいい呪文を並び立ててみたかった。
「それじゃあ、じっとしててね」
令呪で縛りを与えている今、じっとしているか、俺の質問に答える以外のことができない彼に追い打ちをかけるように念押しして、聖杯を一つ手に取る。
「っと、その前に……ごめん、ちょっと襟元緩めて胸のあたり出すね」
返事を聞く前に衣服を緩める。無数の刀傷と、やけどの痕に思わず手を引いてしまった。
「お見苦しいものを見せましたね、失礼」
「い、いや、四郎くんが謝る事じゃ……」
彼にそんなことを言わせてしまったことがなぜだが嫌に胸を騒がせる。痩せていて筋肉があるわけではない俺の身体とは違い、しっかり筋肉がついている。じろじろ見るのも怪しまれそうなので、聖杯を一つ手に取る。
「痛かったらごめんね」
「構いません」
この世に堪えることなど存在しない、と言わんばかりに決意を宿した視線からあわてて目を逸らし、彼の胸部に聖杯を近づけると、鈍色、に一番近い色が視界を支配した。それでも聖杯を取り落としてしまわないよう、手に力を込める。
「ッ、グっ……!!」
「えっ痛い……?!ごめん、ごめんなさい……」
傍らで握りこんだ彼の手のひらが、強く握りすぎて色が変わっているのが見えた。それでも叫びの一つもあげずに、彼は耐える。歯を食いしばり過ぎてギチギチと音を立てるほど苦しいのに、恨み言ひとつ言わない。
きっと人理の修復のそのあと、彼の目的を果たす際の障害をより効率良く排除するために受け入れた聖杯だろうけれど、彼の力になれば良いとも思ったけれど、彼が苦しむためにすることだろうか……?俺は今、正しいことをしているのだろうか……?
「躊躇うことはありません、続けなさい」
「は、はい……!」
あまりの気迫に思わず敬語になってしまう。
額に張り付いた髪を彼の耳にかけると、表情がよく見えてしまった。
彼が見せるささやかな人間らしさがそこにあるだなんて、想像すらしてなかった。痛みに耐え、喉元にまででかかった叫びを押しとどめる彼は、何と言ったらいいか全然わからないが、その、とってもステキだった。高潔な理想と、垣間見える人間らしさ。それがたまらなくステキに見えた。なぜそう思うのかわからないけど、俺の心の中がすごく、キラキラしてる。
「ボヤボヤしない!次!」
一つ聖杯を飲み込んだだけで痛みで起き上がれないのに、それでも彼は理想を追うために強さを得ることを躊躇わないのだろう。息が上がっているのが落ち着いてしまったら、それはそれで苦しいのだろうから、何故かほほを伝う涙を袖でぬぐって、もう一つ聖杯を手に取る。
「ごめんね、いくよ」
触れると同時に、うめき声がまたひとつ上がる。
苦しげに眉を寄せる彼が見ていられなくて、彼の肩に額を寄せて視界を塞ぐ。当の四郎くんは一瞬身をすくめたが、すぐに小さい子供にするように頭をなでてくれた。四郎くんの方がずっとつらくて、痛いのに。
◇
「がアッ……!!!」
最後の聖杯を飲み込むのが一番つらそうだ。辛いものを食べる時みたいに、すこしずつなれていくみたいなことはないらしい。さっきからずっと俺の頭をなでていてくれたけれど、このときばかりは俺の背中のあたりで握りこんだ手を震わせている。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
「私はッ……大丈夫です」
顔色が真っ青の人が言っても説得力のかけらもない。どうにか一秒でも早く終わるよう、祈ることしかできなかった。
◇
汗にまみれた彼の身体を濡れタオルで拭き終わるころには、彼も不自由なく起き上がることができるようになっていた。本当に、強い人だ。
「ごめんね、あんなに痛いなんて知らなかったんだ」
「問題ありません。私はこれで私の願望に一歩近づいたのですから」
なんだか決定的にすれ違っているとは思うけれど、彼がそれでいいと言うなら、俺がどうこう言っても仕方ないだろう。それがたまらなく、苦しい。
「マスター、どうされたのです」
「わがんないげどぉ……」
汚らしい涙声しか出てこない。何でかわからないのに泣いたのは久しぶりで、自分でも戸惑っている。彼がいつもより少しあわてた様子で俺の目元にタオルを押しつけてくるのがおかしくて、笑いが一緒に出てきそうになる。
「ねぇっ……!!!四郎ぐんはぁ……!ほんどうにぞれでいいのぉ……?!!」
「ええ、そう、決めましたから」
それはまるで、どれだけ石やら木の枝やらを投げても波紋の一つもたたない湖のようで、きっとそれが切なくて、俺はみっともなく泣いているんだろう。
大事にしたいと思った人から見向きもされない、被害者ぶりたい子供の稚拙な恋心が、どうしようもなくくすぶっている。
彼は決して冷たいひとではない。こうして泣き出した子供を前にしたら、落ち着くまでそばにいてくれるくらいのことはしてくれるのだ。
「落ち着きましたか?」
「うん……ありがとう」
「それはよかった」
そう言って何もなかったかのように去ろうとしている。
「ねぇ、ちょっと待って」
「どうしました?」
「あのさ、俺が四郎くんが報われる方法で、願いを叶える方法を探すっていうのは本当だからね」
「それはそれは……やってみるといいでしょう」
彼がそんな笑い方をすることを知りたくもなかったし、知ってしまったことで俺の何かが変わってしまったことなんて、彼に知れたらどうなってしまうだろう。
恐ろしくて、たまらない。
重苦しい、棺に似た入れ物に、見たこともない言葉が書き連ねられた古くて薄汚い布を何重に巻かれたものを、人類の英知と、武勇とを持ち合わせた英霊たちが欲しがっている、という事実に実感を持てないでいる。
英霊たちが明かした聖杯にかける願いは人それぞれだが、実にありふれた願いを持った英霊たちが多い、というのが俺が感じた印象だった。
結局、英霊だ何だと箔付きのお椅子に座っていながら、あれらは欲張りな人間の枠を脱していない。だからこそ俺も彼らに、同じ人間として愛着を持ち、同じ志を持つ同士としてこの過酷な使命を未だ放り投げてしまわないでいる。
魔術が込められた錠を解いていくうちに、それの実態が見て取れる。
どれだけの人が悲願を込めたのか、知るよしもない。
それはどれも相当に古いもののはずだが、その深みのある金には濁り一つない。
俺らはこれを、聖杯と呼んでいる。
本来ならこれは一つだけ存在するはずだが、今回のは何もかもがイレギュラー。ここに並ぶ聖杯は十一もある。イレギュラーついでに、それを英霊の霊核と融合させることで、英霊の持つ力を格段に上げる、というのだ。
一つの聖杯を七基の英霊たちで奪い合あった彼らに言ったら卒倒しそうだ。
聖杯を一基の英霊につかうだなんて、それも五つも、それで死後の安らぎを人類に売り渡してまで欲した悲願が五つも叶ってしまうではないか、となじられるだろうか?
いや、それはないかと思う。たぶん。
彼らの願いは、人類が存在してこそ意味があるもので、人理が焼き尽くされた後叶っても意味がないものがほとんどだ。
マタ・ハリは永遠の若さを、ジェロニモはこれ以上奪われぬよう、と願うという。といった要領で、彼らはめいめい、人類が存在する前提で願いを聖杯に託すつもりでいる。
なら、無欲そうに見える英霊に聖杯を託そうと考え、俺はあるサーヴァントを選んだ。
彼の名前は天草四郎時貞。
日本史の授業を話半分に聞いていた俺ですら彼のことを知っている。彼は、秘密だなんだとはぐらかし、一度も俺に聖杯に託す願いを教えてくれたことはないけれど、きっと彼なら、聖杯をその身体に受け入れ、より強力なサーヴァントとして人理修復に協力してくれることだろう。
◇◇◇
「マスター、それは」
彼が表情を変えるのを初めて見たかもしれない。
「うん、そう。四郎くんは見たことあるんだよね」
聖杯大戦のことは、ロード・エルメロイ二世の書棚の隅に積まれていた資料で読んだ。
ユグドミレニアが冬木から奪った聖杯を奪って、何らかの願いを叶えようとした。ということはわかっている。その前に、得物が手に届く範囲にある彼を令呪で縛る必要がありそうだ。
「サーヴァント・ルーラー……天草四郎時貞に令呪を以て命ずる。黙って話を聞いて、そして、質問に答えて」
眩い緋の光が視界を染めたのち、手の甲のあざが一つ消え、彼はとりあえず俺を殺して聖杯を奪うということができなくなる。
いつもの穏やかな表情とはなんだか違う表情をしている。笑みはもちろん、いつもと変わらぬ柔らかさな笑みだが、目が笑っていない。むしろ冷たい氷の刃を模した視線が俺に刺さる。
「だって、そうでもしないと俺が三池典太の錆になっちゃうでしょ」
「そのようなことは」
「しない、と言える?これが君の願いを叶えることができるかもしれないものだったら?」
答えはなかった。
彼ほどの人格者が、犠牲を厭わずかなえたい願いとはなんだろうか?俺は本来の目的とは逸れていることを自覚しながらも、彼の願いを聞いてみたくなってしまった。令呪が効いている今がチャンスだろう。
「ねぇ、聞かせて。君の願いは?なんでそんなにコレがほしいの?」
彼の眼前で五つの聖杯を鳴らせてみせた。
完全に余計なことではあるが、彼の眉間に皺がよったところを見ることができただけでよしとしよう。
◇
「四郎くんは、何か叶えたい願いがあるの?」
「……全人類の、救済です」
「え?」
言っている意味がよくわからない。というか、おおざっぱすぎて、具体的にどうしたいのかがわからない。俺だって人理の修復を担っており、大枠で言えば俺と同じ願い、と言えなくもないかもしれない。
「もうちょっとわかりやすく」
彼は、深く深くため息をついて、聞き分けの悪い子供に言い聞かせる親のような穏やかな声音で、この世の地獄を経て得た理想を語り始めた。
「人は、欲を抱きます」
「欲は、善きもの、悪きもの両方を呼びます」
「えーでもそれが人間ってもんじゃない?」
「貴方が話せと言ったのでしょう……話は最後までお聞きなさい」
「はぁい」
割と強烈にねめつけられて、身を竦める。再び視線を宙に戻して話を続ける。
「……私は、人間が生み出したシステムに押しつぶされる人間を……それを生み出す人間の性質を見過ごしておきたくないということです」
「んー……まだわかんないな……あのさ、四郎くんはすっっっっごいひどい目、って言葉で表せないくらいの目に遭ったのに、なのにまだ、人類を救いたいなんて思うの?」
また、能面のような笑みを浮かべた。俺はこの笑い方が好きじゃない。なんだか、俺と四郎くんのココロの間に、薄膜を張ったような気がする。さっきみたいに怒りの片鱗をにじませた彼の方がよっぽど魅力的だ。
「私は、憎しみを捨てました」
「ウッソー!そんなゴミ捨て場にちゃんと分別して捨てましたーみたいなノリでできること……なの?」
彼があまりに穏やかななかにも切なげな表情を浮かべているものだから、途中から語気を保てなくなってしまった。それ以上、言ってはいけないような気もする。いつもの彼じゃないみたいだ。どんなことにも余裕綽々、みたいな表情で同じ年代とは思えない彼とは違うみたいだ。
「ええ、それは自身に対する裏切りではありますが、私は、そうしたかったから、そうしただけで、そのように悲しい顔をなさる必要はないのですよ」
「でも……それって、四郎くんは救われる?」
「私ですか……?それは……わかりません」
願いを叶えたあとの自分の事なんて初めて思い至った、といった表情で思案を巡らせている。きっと、あまりに願いが大きすぎてそんなところに脳のリソースを割くということ事態思い至らなかったのだろう。
「そっかぁ……それは個人的にイヤだな……」
「それほどですか?」
「うん……そんなにまで頑張ってる人が、やったー!幸せー!ってならないと俺は悲しいな……って、でも四郎くんが望む世界はそんな気持ちも抱かなくなるんだよねきっと……うーん、まあそれはそれで効率がいいのかな……?」
彼の願いと自分の価値観、どう算段しても掠りもしない。それでも彼個人が報われてほしいと願ってしまう。
「四郎くんは、それが良いんだよね?」
「ええ」
迷いなく、それが唯一の正しい答えだと信じて疑わない彼があまりに高潔で、俺からずっと遠くにいるような気がしてならない。
個人の快、不快から遠く離れたところで一人、理想を叶えるために戦う彼は同じものを救おうとしているはずなのに俺とは違いすぎる。
自分の死が、仲間の死が、修正後はなかったことになる人たちであるとはいえ、死が恐ろしい、傷つくことが怖いと嘆く俺とは、覚悟の質が違うのかもしれない。
「わかった、じゃあ、こうしよう」
「俺と、四郎くんで人理の修復を頑張る!そうしないと四郎くんの救いたい人類がいなくなっちゃうから。そしたら、四郎くんはなんかいろいろ考えて、全人類救済できる方法を探す!で、俺は四郎くんが報われて、かつ四郎くんの願いが叶う方法を探す。これでどう?」
そんな、子供が叶わぬ理想を語るのを穏やかに眺める老人のような目で俺を見ないでほしい。喜びも怒りも悲しみも捨て去った人間はこういう顔をするのだとあらためて実感する。それがなぜか寂しくて仕方がない。
「お好きになさればよろしいかと。マスターがどうなさろうと、私は私の願望を叶えるだけです」
「そっか、それでいいよ。そうしよう」
でもやっぱり寂しいものは寂しいから、人理の修復が全部うまくいって、マシュも元気になって、それでも聖杯があったらこっそり……?というのもいいかもしれない。
◇◇◇
やっと本題を思い出した。
一方通行気味ではあったものの、久しぶりに同年代に見える男の子としゃべれてついはしゃいでしまった。彼の霊核と聖杯を融合させる、という目的があった。ドクターが言うには、霊核のある胸部に近づければ自然と取り込まれるという。簡単すぎ手拍子抜けした。なんかもっとこう……概念礼装のフォーマルクラフトのお姉さんのように、かっこいい呪文を並び立ててみたかった。
「それじゃあ、じっとしててね」
令呪で縛りを与えている今、じっとしているか、俺の質問に答える以外のことができない彼に追い打ちをかけるように念押しして、聖杯を一つ手に取る。
「っと、その前に……ごめん、ちょっと襟元緩めて胸のあたり出すね」
返事を聞く前に衣服を緩める。無数の刀傷と、やけどの痕に思わず手を引いてしまった。
「お見苦しいものを見せましたね、失礼」
「い、いや、四郎くんが謝る事じゃ……」
彼にそんなことを言わせてしまったことがなぜだが嫌に胸を騒がせる。痩せていて筋肉があるわけではない俺の身体とは違い、しっかり筋肉がついている。じろじろ見るのも怪しまれそうなので、聖杯を一つ手に取る。
「痛かったらごめんね」
「構いません」
この世に堪えることなど存在しない、と言わんばかりに決意を宿した視線からあわてて目を逸らし、彼の胸部に聖杯を近づけると、鈍色、に一番近い色が視界を支配した。それでも聖杯を取り落としてしまわないよう、手に力を込める。
「ッ、グっ……!!」
「えっ痛い……?!ごめん、ごめんなさい……」
傍らで握りこんだ彼の手のひらが、強く握りすぎて色が変わっているのが見えた。それでも叫びの一つもあげずに、彼は耐える。歯を食いしばり過ぎてギチギチと音を立てるほど苦しいのに、恨み言ひとつ言わない。
きっと人理の修復のそのあと、彼の目的を果たす際の障害をより効率良く排除するために受け入れた聖杯だろうけれど、彼の力になれば良いとも思ったけれど、彼が苦しむためにすることだろうか……?俺は今、正しいことをしているのだろうか……?
「躊躇うことはありません、続けなさい」
「は、はい……!」
あまりの気迫に思わず敬語になってしまう。
額に張り付いた髪を彼の耳にかけると、表情がよく見えてしまった。
彼が見せるささやかな人間らしさがそこにあるだなんて、想像すらしてなかった。痛みに耐え、喉元にまででかかった叫びを押しとどめる彼は、何と言ったらいいか全然わからないが、その、とってもステキだった。高潔な理想と、垣間見える人間らしさ。それがたまらなくステキに見えた。なぜそう思うのかわからないけど、俺の心の中がすごく、キラキラしてる。
「ボヤボヤしない!次!」
一つ聖杯を飲み込んだだけで痛みで起き上がれないのに、それでも彼は理想を追うために強さを得ることを躊躇わないのだろう。息が上がっているのが落ち着いてしまったら、それはそれで苦しいのだろうから、何故かほほを伝う涙を袖でぬぐって、もう一つ聖杯を手に取る。
「ごめんね、いくよ」
触れると同時に、うめき声がまたひとつ上がる。
苦しげに眉を寄せる彼が見ていられなくて、彼の肩に額を寄せて視界を塞ぐ。当の四郎くんは一瞬身をすくめたが、すぐに小さい子供にするように頭をなでてくれた。四郎くんの方がずっとつらくて、痛いのに。
◇
「がアッ……!!!」
最後の聖杯を飲み込むのが一番つらそうだ。辛いものを食べる時みたいに、すこしずつなれていくみたいなことはないらしい。さっきからずっと俺の頭をなでていてくれたけれど、このときばかりは俺の背中のあたりで握りこんだ手を震わせている。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
「私はッ……大丈夫です」
顔色が真っ青の人が言っても説得力のかけらもない。どうにか一秒でも早く終わるよう、祈ることしかできなかった。
◇
汗にまみれた彼の身体を濡れタオルで拭き終わるころには、彼も不自由なく起き上がることができるようになっていた。本当に、強い人だ。
「ごめんね、あんなに痛いなんて知らなかったんだ」
「問題ありません。私はこれで私の願望に一歩近づいたのですから」
なんだか決定的にすれ違っているとは思うけれど、彼がそれでいいと言うなら、俺がどうこう言っても仕方ないだろう。それがたまらなく、苦しい。
「マスター、どうされたのです」
「わがんないげどぉ……」
汚らしい涙声しか出てこない。何でかわからないのに泣いたのは久しぶりで、自分でも戸惑っている。彼がいつもより少しあわてた様子で俺の目元にタオルを押しつけてくるのがおかしくて、笑いが一緒に出てきそうになる。
「ねぇっ……!!!四郎ぐんはぁ……!ほんどうにぞれでいいのぉ……?!!」
「ええ、そう、決めましたから」
それはまるで、どれだけ石やら木の枝やらを投げても波紋の一つもたたない湖のようで、きっとそれが切なくて、俺はみっともなく泣いているんだろう。
大事にしたいと思った人から見向きもされない、被害者ぶりたい子供の稚拙な恋心が、どうしようもなくくすぶっている。
彼は決して冷たいひとではない。こうして泣き出した子供を前にしたら、落ち着くまでそばにいてくれるくらいのことはしてくれるのだ。
「落ち着きましたか?」
「うん……ありがとう」
「それはよかった」
そう言って何もなかったかのように去ろうとしている。
「ねぇ、ちょっと待って」
「どうしました?」
「あのさ、俺が四郎くんが報われる方法で、願いを叶える方法を探すっていうのは本当だからね」
「それはそれは……やってみるといいでしょう」
彼がそんな笑い方をすることを知りたくもなかったし、知ってしまったことで俺の何かが変わってしまったことなんて、彼に知れたらどうなってしまうだろう。
恐ろしくて、たまらない。
誰かのためにできること #FateGrandOrder #男夢主 #ゲオルギウス
誰かのためにできること #FateGrandOrder #男夢主 #ゲオルギウス
古い書物の匂いが強くなるごとに、自分がいつもいる世界と隔絶されるような気がして、一人になりたいときはここに籠ることが増えた。
あの、サーヴァントとかいう人間の理解の範疇を超えた生き物たちの中に居ると気が滅入ってしまう。あれは、たしかに見た目も触れた感覚も人間だが、決定的に違いすぎる。
それはサーヴァントだから、俺と違いすぎるのか、育ってきた環境が違うからすれ違いは否めないのかがわからない。どんなに近づきたいと思っても、その決定的な違いが俺を邪魔する。
◇
血の海、と表現するのが一番近いだろう。
何と名前が付いている生き物かは知らないが、血は赤い。それをものともせず赤銅の鎧で固めた、ある人々に聖人と崇められるその人は、息絶えたそれに向かって歩みを進める。
「や、やめようよ、もう死んでる」
怯えきった声が喉を滑り出し、震える手でマントの裾を掴もうと手を伸ばす。陰り始めた陽に隠れて表情が読み取れない。それに、このまま彼に背いたからと首を刎ねられるかもという疑念が浮かんで、手を引っ込めた。
いつもなら、俺が恐れていると感じているなら心配はいらないと安心させるために頭を撫でてくれるのに、今は俺に背を向けて再び抜刀した。
「いいえ、マスター。あれは子を孕んでいます」
竜殺し。
その言葉が頭を何度もよぎった。自分の信じる正しさのためならどんなに残虐な手段を選んでも許されると考える存在だからこそ、何のためらいもなくその刃をワイバーンと呼ばれる生き物の胎に突き立てることができるのだろう。
甘いことを言っている。理不尽なのは俺の方で、いずれ修正され、なかったことにされる世界であるものの人々が安心して生活するようにするには、今ここで殺しておくべきである、ということもわかっている。
それでも、あんなに温厚で、師として尊敬に値する人が、自分が非道と考える道を歩んでいる。
俺が目を背ける暇も、みっともなく悲鳴をあげるのを抑える余裕すらなく、肉と骨と臓器が断たれる不愉快な音をたてて彼は未だ生まれぬ竜の子を屠った。
深い緋色の夕日に、白いマントが翻る。
何に、どんな許しを請うているのか、何に、祈っているのか知る由もない。彼が信じる神はこの筆舌に尽くしがたい惨状がまかり通るということに関して、何か言及しているのかもしれない。
◇
史学に触れたことがあるならばその名前を聞くのは一度では済まない、皇帝ネロの陣営に加わったとはいえカルデアのようなふかふかの布団と空調が用意されているわけではない。
血と泥と汗を冷たい川で流し、ごわごわと固い服に着替える。最初の頃は不快だったけれど、もうとっくに慣れてしまった。
もしかしたら、俺もゲオル先生や、ほかのサーヴァントたちと同じように、「総合的に考えれば必要になる殺害」にいつか慣れてしまう日が来てしまうのだろうか?
たとえば、環境に慣れてしまうように。
想像しただけで怖気が走った。未だ生まれぬ子ですら手をかけて、それを必要と断じる価値観をいつか俺が持ちえたとして、そうなってしまった俺のことを人間と呼べるだろうか?それはどちらかというと、大事な使命のために小さいものを切り捨てることを容認する、英雄と言うやつの価値観になるのかもしれない、と悶々と夢想する。
パチパチと火の粉が爆ぜる音と、葉擦れの音が今は恐ろしく感じる。
「おや、マスター」
急に、俺の思考の根源に居る人から声をかけられて大げさに驚いてしまった。
「隣に座ってもよろしいかな?」
「ええ、どうぞ」
それ以外に選択肢はないだろう。俺が腰かけていた倒木に彼が腰を下ろせる場所をつくる。鎧のぶんだけ体積が増えるので、必然的に近寄ることになってしまう。
「恐ろしいかったのですね、あれが」
あたりまえのことを言われて、正答がわからずたじろいでしまう。
きっと、普段接している彼の性格からすると、正直に恐ろしかった、と言ってしまって良いだろうが、ネロ陣営の兵士、サーヴァントたちも無傷だったわけではない。そのように死力を尽くして戦った彼ら、彼らの戦いぶりを、怖かったの一言で言ってしまうのがどうにも失礼のような気がしてならない。
「マスター」
呼ばれて顔を上げると、カルデアで見るような、俺が人生の師として仰ぐ人のやわらかな笑顔がそこにあった。
笑顔一つで疑念が、緊張が、ほどけて消えて行ってしまうのだから、我ながら単純だと思う。鎧越しで、体温なんてひとかけらも感じられないけれど腕に手を伸ばしたら冷たい小手越しの掌が重ねられた。
「めずらしい、オルレアンで甘えたはもう治ったのかと思いました」
「いけませんか?」
拗ねたように笑いかける余裕が出てきた。それを見てゲオル先生も安心したらしく、仕方ないと甘んじてくれるらしい。
「とっっても怖かったです!そうした方が、これからここで生きる人のためになることはわかります、それでも怖いものは怖かった!」
「そうそう、子供は素直が一番です。マスター……わかっていただけて嬉しいです」
「また子ども扱いする……怖いし、ひどいことするなって思うけど、わかるよ」
額で軽く鎧を小突くと、驚いたような顔をされてしまった。日頃彼がどれだけ俺を子供だと思っているかがわかる。
「私から見たら、子供どころか、この世に生きる人類すべてが愛し児のようなものですから」
こうして、遠くを見るような顔をするゲオル先生はあまり好きではない。隣にいるのは俺なのに、彼が見ているのは気が遠くなるほどたくさんの人なのだから。そのうちの一人の事なんて気にかけたことありません、と言われているような気がしてしまう。それでも、俺は尊敬と親愛と、そのほか俺も知り得ない気持ちを込めた視線を、ゲオル先生に受け取られる気配がないとしても、投げかけてしまう。
「じゃあ、ゲオル先生は人を好きになったことなんてないんだね」
俺の意図がはかりかねる、と言った表情をさせてしまった。彼としては、好きなのだ。
ただ、俺の好きと違うだけで。
「ごめんなさい、なんでもないです」
「そうですか?」
きっともう、俺が眠たくなって自分ができないことを言いだしているのだと、ゲオル先生は考えている。その証拠に、俺が最後まで守っていた火を消そうとしている。
「まだ寝ない」
「マスター、よい子は寝る時間です」
「悪い大人だから寝ない」
彼は優しいのであって甘くはない。俺のささやかな駄々もどこ吹く風で、念入りに火を消している。
「寝ないって言ったのに……」
「おや、子守唄が必要ですか?」
ほら、こうしてわざわざ子守唄、と、さきほど俺が子ども扱いをするなといったらこの返しだ。
「……いいえ」
「よろしい。おやすみなさい、マスター」
「……おやすみなさい」
わしわしと、子犬を撫でるように髪を撫でて、肩を軽く叩いて「足元に気を付けて」と言ってくれる。ここまで片付けられてしまったら寝るしかない。素直に寝所に向かう途中、思わず大きなため息が零れた。
あれはやはり違いすぎる。
その認識を深めるとともにあれが触れてくる回数が増えた。違いすぎるとわかっていくごとに思考が引きずられてゆく。
変わりゆく自分と、あれを人型に、血の通った人間と同じ温度で作り上げたカルデアの召喚システムの考案者と、あれの在り方。どれから恐れていいかわからない。
いや、もっと恐ろしいものがある。
あれに深入りし、あまつさえ情を注ごうとしている自分の正気が一番恐ろしくてならない。
俺の頭上でいつの時代も変わらず輝く星、あの瞬きがここに光として届く年月に比べれば些細な悩みなのかもしれない。そんなことを考えながら、眠れないであろう身体を寝台に押し込んだ。
2016/8/14
古い書物の匂いが強くなるごとに、自分がいつもいる世界と隔絶されるような気がして、一人になりたいときはここに籠ることが増えた。
あの、サーヴァントとかいう人間の理解の範疇を超えた生き物たちの中に居ると気が滅入ってしまう。あれは、たしかに見た目も触れた感覚も人間だが、決定的に違いすぎる。
それはサーヴァントだから、俺と違いすぎるのか、育ってきた環境が違うからすれ違いは否めないのかがわからない。どんなに近づきたいと思っても、その決定的な違いが俺を邪魔する。
◇
血の海、と表現するのが一番近いだろう。
何と名前が付いている生き物かは知らないが、血は赤い。それをものともせず赤銅の鎧で固めた、ある人々に聖人と崇められるその人は、息絶えたそれに向かって歩みを進める。
「や、やめようよ、もう死んでる」
怯えきった声が喉を滑り出し、震える手でマントの裾を掴もうと手を伸ばす。陰り始めた陽に隠れて表情が読み取れない。それに、このまま彼に背いたからと首を刎ねられるかもという疑念が浮かんで、手を引っ込めた。
いつもなら、俺が恐れていると感じているなら心配はいらないと安心させるために頭を撫でてくれるのに、今は俺に背を向けて再び抜刀した。
「いいえ、マスター。あれは子を孕んでいます」
竜殺し。
その言葉が頭を何度もよぎった。自分の信じる正しさのためならどんなに残虐な手段を選んでも許されると考える存在だからこそ、何のためらいもなくその刃をワイバーンと呼ばれる生き物の胎に突き立てることができるのだろう。
甘いことを言っている。理不尽なのは俺の方で、いずれ修正され、なかったことにされる世界であるものの人々が安心して生活するようにするには、今ここで殺しておくべきである、ということもわかっている。
それでも、あんなに温厚で、師として尊敬に値する人が、自分が非道と考える道を歩んでいる。
俺が目を背ける暇も、みっともなく悲鳴をあげるのを抑える余裕すらなく、肉と骨と臓器が断たれる不愉快な音をたてて彼は未だ生まれぬ竜の子を屠った。
深い緋色の夕日に、白いマントが翻る。
何に、どんな許しを請うているのか、何に、祈っているのか知る由もない。彼が信じる神はこの筆舌に尽くしがたい惨状がまかり通るということに関して、何か言及しているのかもしれない。
◇
史学に触れたことがあるならばその名前を聞くのは一度では済まない、皇帝ネロの陣営に加わったとはいえカルデアのようなふかふかの布団と空調が用意されているわけではない。
血と泥と汗を冷たい川で流し、ごわごわと固い服に着替える。最初の頃は不快だったけれど、もうとっくに慣れてしまった。
もしかしたら、俺もゲオル先生や、ほかのサーヴァントたちと同じように、「総合的に考えれば必要になる殺害」にいつか慣れてしまう日が来てしまうのだろうか?
たとえば、環境に慣れてしまうように。
想像しただけで怖気が走った。未だ生まれぬ子ですら手をかけて、それを必要と断じる価値観をいつか俺が持ちえたとして、そうなってしまった俺のことを人間と呼べるだろうか?それはどちらかというと、大事な使命のために小さいものを切り捨てることを容認する、英雄と言うやつの価値観になるのかもしれない、と悶々と夢想する。
パチパチと火の粉が爆ぜる音と、葉擦れの音が今は恐ろしく感じる。
「おや、マスター」
急に、俺の思考の根源に居る人から声をかけられて大げさに驚いてしまった。
「隣に座ってもよろしいかな?」
「ええ、どうぞ」
それ以外に選択肢はないだろう。俺が腰かけていた倒木に彼が腰を下ろせる場所をつくる。鎧のぶんだけ体積が増えるので、必然的に近寄ることになってしまう。
「恐ろしいかったのですね、あれが」
あたりまえのことを言われて、正答がわからずたじろいでしまう。
きっと、普段接している彼の性格からすると、正直に恐ろしかった、と言ってしまって良いだろうが、ネロ陣営の兵士、サーヴァントたちも無傷だったわけではない。そのように死力を尽くして戦った彼ら、彼らの戦いぶりを、怖かったの一言で言ってしまうのがどうにも失礼のような気がしてならない。
「マスター」
呼ばれて顔を上げると、カルデアで見るような、俺が人生の師として仰ぐ人のやわらかな笑顔がそこにあった。
笑顔一つで疑念が、緊張が、ほどけて消えて行ってしまうのだから、我ながら単純だと思う。鎧越しで、体温なんてひとかけらも感じられないけれど腕に手を伸ばしたら冷たい小手越しの掌が重ねられた。
「めずらしい、オルレアンで甘えたはもう治ったのかと思いました」
「いけませんか?」
拗ねたように笑いかける余裕が出てきた。それを見てゲオル先生も安心したらしく、仕方ないと甘んじてくれるらしい。
「とっっても怖かったです!そうした方が、これからここで生きる人のためになることはわかります、それでも怖いものは怖かった!」
「そうそう、子供は素直が一番です。マスター……わかっていただけて嬉しいです」
「また子ども扱いする……怖いし、ひどいことするなって思うけど、わかるよ」
額で軽く鎧を小突くと、驚いたような顔をされてしまった。日頃彼がどれだけ俺を子供だと思っているかがわかる。
「私から見たら、子供どころか、この世に生きる人類すべてが愛し児のようなものですから」
こうして、遠くを見るような顔をするゲオル先生はあまり好きではない。隣にいるのは俺なのに、彼が見ているのは気が遠くなるほどたくさんの人なのだから。そのうちの一人の事なんて気にかけたことありません、と言われているような気がしてしまう。それでも、俺は尊敬と親愛と、そのほか俺も知り得ない気持ちを込めた視線を、ゲオル先生に受け取られる気配がないとしても、投げかけてしまう。
「じゃあ、ゲオル先生は人を好きになったことなんてないんだね」
俺の意図がはかりかねる、と言った表情をさせてしまった。彼としては、好きなのだ。
ただ、俺の好きと違うだけで。
「ごめんなさい、なんでもないです」
「そうですか?」
きっともう、俺が眠たくなって自分ができないことを言いだしているのだと、ゲオル先生は考えている。その証拠に、俺が最後まで守っていた火を消そうとしている。
「まだ寝ない」
「マスター、よい子は寝る時間です」
「悪い大人だから寝ない」
彼は優しいのであって甘くはない。俺のささやかな駄々もどこ吹く風で、念入りに火を消している。
「寝ないって言ったのに……」
「おや、子守唄が必要ですか?」
ほら、こうしてわざわざ子守唄、と、さきほど俺が子ども扱いをするなといったらこの返しだ。
「……いいえ」
「よろしい。おやすみなさい、マスター」
「……おやすみなさい」
わしわしと、子犬を撫でるように髪を撫でて、肩を軽く叩いて「足元に気を付けて」と言ってくれる。ここまで片付けられてしまったら寝るしかない。素直に寝所に向かう途中、思わず大きなため息が零れた。
あれはやはり違いすぎる。
その認識を深めるとともにあれが触れてくる回数が増えた。違いすぎるとわかっていくごとに思考が引きずられてゆく。
変わりゆく自分と、あれを人型に、血の通った人間と同じ温度で作り上げたカルデアの召喚システムの考案者と、あれの在り方。どれから恐れていいかわからない。
いや、もっと恐ろしいものがある。
あれに深入りし、あまつさえ情を注ごうとしている自分の正気が一番恐ろしくてならない。
俺の頭上でいつの時代も変わらず輝く星、あの瞬きがここに光として届く年月に比べれば些細な悩みなのかもしれない。そんなことを考えながら、眠れないであろう身体を寝台に押し込んだ。
2016/8/14
さざなみが浚う夜 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #アルジュナ
さざなみが浚う夜 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #アルジュナ
「また泣いているのですか」
アルジュナが頭の上で溜息をついたのがわかる。呆れ、ではなく、自分と添い寝して何が不満なのか、と言わんばかりの自信からくるため息だ。
「英霊になるほどのすばらしいお方にはわかりませんよーだ」
「僻んだ子供ほどかわいくないものはないですね…………あなたからふっかけてきたのに勝手に悲観的になるのはおよしなさい」
「アルジュナきらい」
「なら離しなさい」
筋力Aクラスの彼に頭をはたかれると、アルジュナが思っている以上にやられた側は痛いのだと理解してほしい。現にばちん、ととってもいい音がした。
「……ごめん」
返事の代わりに頭が撫でられる。
こんな、いつかは役目を終えて消えていってしまう存在に入れ込んで、不毛すぎるということは自分が一番よく分かっている。けれどこんな立場に置かれて、誰とも深く心を結ぶことが不利益になる状態で、必要となればセックスをしなければならない。余りに惨めな役回りだ。
何かに縋らずにいままで自害せずにいれたとは思えない。
いうなれば俺は、人理焼却を阻止するために生きているのではない。
これは誰にも言ったことがないけれど、多分今俺は彼を、アルジュナを失いたくないがためにこの役割に甘んじている。
唯一人、俺のこの惨めな役を確かに惨めであると認め、半端な慰めをしようとしない。それだけがどんなに嬉しかったか。
俺がこの状況に感じている違和感を認めてくれる人がほかに居ただけで救われた。そうでもしないときっと気が狂っていただろう。彼が寝入り端に語る、真実とも虚構ともとれる話だけが楽しみだ。
「え?俺の話?」
「ええ、私ばかりが話していても飽きるでしょう」
「そんなことない、アルジュナの話おもしろいよ」
「私が飽きたのです」
「あっそう……」
そう言われても、彼に話して聞かせるほどの話があるだろうか。ここに来る前は、本当に平凡な人生だったのだ。
逡巡していると、アルジュナは本当に寝入る気らしく外套と手袋をはずしてサイドテーブルに置いた。
普段隠されているところが露わになるとどうしてこうも扇情的なのか。あわてて目を逸らしても、きっと彼は気づいている。俺がどんな気持ちでここに居るか。
「毎日学校に行って、帰って、塾に行って、将来はきっと大学に入るんだろうなって思ってた。で、将来どうなるかが何となく不安で、それだけ」
「それだけ、ということもないでしょう」
いちいち学校はどうとか説明する必要が無いので、いいシステムだと思う。生きた世界が違いすぎた二人をひとときの主従としてまとめ上げるとしたら随分と効率がよくなる。
だとしても彼には理解できないだろう。
日本人の平均寿命からしてみるとあまりに短い生を、瞬きのように生きた彼にはこうして流されるまま生き、滞留してはまた流れるという生き方が。
さすがに聖杯も、そんなところまではめんどうみてはくれないらしい。
「つまらなくはなかったよ、少なくとも、辛くなかった」
彼は極端に光が絞られた瞳で射抜くようにこちらを見つめている。ここでも彼は射手としての才能を遺憾なく発揮している。現に何とは言わないが既に撃ち抜かれて、無残にばらまいている。
「戻りたいですか」
「……ひどいこと言うね」
くつくつと彼の喉奥で磨り潰した嘲笑が零れた。
戻りたい。こんなつらいことはもう終わりにしたい。痛いのも、苦しいのも、嫌がられながらセックスするのも、訳の分からない生き物に食われかけるのも、自分犠牲が当たり前の人間たちのなかで一人、死が怖くてたまらないのも、全部終わりだ。
終わりにして。
けれどそんなことできやしないとわかっているから、彼はこうして俺の心に爪を立てて血が滲むのを見て楽しんでいる。
サーヴァントは、いずれ消える。きっとこの役目が終わる頃、彼は消え、英霊の座とやらで召喚を待つだけの存在に戻るだろう。英霊の記憶に齟齬があっては困るから、ここにいたことなんて全部忘れて。唯一覚えているのは俺一人。
そんなこと、願い下げだ。人理救済、とかかっこいいことを言っておいて俺一人酷い役回りの末に彼を失わないと終わらないなら―――――
「どうしたのです、珍しく怖い顔をして」
「え?」
かさついた指が俺の頬を撫でたのを理解したのはずいぶん経ってからだった。
「私の使命を見失ってくれるな、マスター」
「うん、そうだよね」
彼は別にここに俺の世話をしに来たわけじゃない。もっと大きなことを叶えるためにここに居る。わざわざ念押しされると、ちくりと胸が痛む。勝手に想って、勝手に傷ついて。こんなに苦しいのだから、これくらい許されてもいいのでは、と思う気持ちと、恥じ入るべきだ、という気持ちが交錯する。
考えるのがばかばかしくなって、布団をまくり上げて潜り込む。彼の態度は冷たいが、身体はぬくい。
勝っても負けても、いずれアルジュナは俺の元からいなくなり、アルジュナは俺の事を忘れる。俺はいつまでも捉われたままだ。あまりに損な役回りで笑みがこみあげて来る。
「大丈夫、君たち英霊の努力を無駄にしないように最大限努力する」
「いいでしょう」
その答えに満足したのか、彼は目を閉じ、眠りに入った。俺はひとり取り残されたまま、彼の貌を見つめている。
彼の貌、吐息、ぬくもり。感じ得るすべてのものを記憶に刻みつけておくよう、俺は眠りゆく頭をどうにか保ちつつ彼に触れないぎりぎりの距離に身体を横たえた。
文字通り、生き世界が違いすぎるのだ。出会ってしまったから今こんなにも予期する別れが苦しい。
もっと俺が大人だったら、先々を悲観せず、毎日毎日を刻みつけながら生きればいいとわかるのだけど、今は昏い水底に沈んでいるような気になる。もっと大人になったら、こんな変な人の想い方をしなくても済むのかな、と夢想し、迫ってきた眠気に素直に意識を引き渡した。
2017/7/1
「また泣いているのですか」
アルジュナが頭の上で溜息をついたのがわかる。呆れ、ではなく、自分と添い寝して何が不満なのか、と言わんばかりの自信からくるため息だ。
「英霊になるほどのすばらしいお方にはわかりませんよーだ」
「僻んだ子供ほどかわいくないものはないですね…………あなたからふっかけてきたのに勝手に悲観的になるのはおよしなさい」
「アルジュナきらい」
「なら離しなさい」
筋力Aクラスの彼に頭をはたかれると、アルジュナが思っている以上にやられた側は痛いのだと理解してほしい。現にばちん、ととってもいい音がした。
「……ごめん」
返事の代わりに頭が撫でられる。
こんな、いつかは役目を終えて消えていってしまう存在に入れ込んで、不毛すぎるということは自分が一番よく分かっている。けれどこんな立場に置かれて、誰とも深く心を結ぶことが不利益になる状態で、必要となればセックスをしなければならない。余りに惨めな役回りだ。
何かに縋らずにいままで自害せずにいれたとは思えない。
いうなれば俺は、人理焼却を阻止するために生きているのではない。
これは誰にも言ったことがないけれど、多分今俺は彼を、アルジュナを失いたくないがためにこの役割に甘んじている。
唯一人、俺のこの惨めな役を確かに惨めであると認め、半端な慰めをしようとしない。それだけがどんなに嬉しかったか。
俺がこの状況に感じている違和感を認めてくれる人がほかに居ただけで救われた。そうでもしないときっと気が狂っていただろう。彼が寝入り端に語る、真実とも虚構ともとれる話だけが楽しみだ。
「え?俺の話?」
「ええ、私ばかりが話していても飽きるでしょう」
「そんなことない、アルジュナの話おもしろいよ」
「私が飽きたのです」
「あっそう……」
そう言われても、彼に話して聞かせるほどの話があるだろうか。ここに来る前は、本当に平凡な人生だったのだ。
逡巡していると、アルジュナは本当に寝入る気らしく外套と手袋をはずしてサイドテーブルに置いた。
普段隠されているところが露わになるとどうしてこうも扇情的なのか。あわてて目を逸らしても、きっと彼は気づいている。俺がどんな気持ちでここに居るか。
「毎日学校に行って、帰って、塾に行って、将来はきっと大学に入るんだろうなって思ってた。で、将来どうなるかが何となく不安で、それだけ」
「それだけ、ということもないでしょう」
いちいち学校はどうとか説明する必要が無いので、いいシステムだと思う。生きた世界が違いすぎた二人をひとときの主従としてまとめ上げるとしたら随分と効率がよくなる。
だとしても彼には理解できないだろう。
日本人の平均寿命からしてみるとあまりに短い生を、瞬きのように生きた彼にはこうして流されるまま生き、滞留してはまた流れるという生き方が。
さすがに聖杯も、そんなところまではめんどうみてはくれないらしい。
「つまらなくはなかったよ、少なくとも、辛くなかった」
彼は極端に光が絞られた瞳で射抜くようにこちらを見つめている。ここでも彼は射手としての才能を遺憾なく発揮している。現に何とは言わないが既に撃ち抜かれて、無残にばらまいている。
「戻りたいですか」
「……ひどいこと言うね」
くつくつと彼の喉奥で磨り潰した嘲笑が零れた。
戻りたい。こんなつらいことはもう終わりにしたい。痛いのも、苦しいのも、嫌がられながらセックスするのも、訳の分からない生き物に食われかけるのも、自分犠牲が当たり前の人間たちのなかで一人、死が怖くてたまらないのも、全部終わりだ。
終わりにして。
けれどそんなことできやしないとわかっているから、彼はこうして俺の心に爪を立てて血が滲むのを見て楽しんでいる。
サーヴァントは、いずれ消える。きっとこの役目が終わる頃、彼は消え、英霊の座とやらで召喚を待つだけの存在に戻るだろう。英霊の記憶に齟齬があっては困るから、ここにいたことなんて全部忘れて。唯一覚えているのは俺一人。
そんなこと、願い下げだ。人理救済、とかかっこいいことを言っておいて俺一人酷い役回りの末に彼を失わないと終わらないなら―――――
「どうしたのです、珍しく怖い顔をして」
「え?」
かさついた指が俺の頬を撫でたのを理解したのはずいぶん経ってからだった。
「私の使命を見失ってくれるな、マスター」
「うん、そうだよね」
彼は別にここに俺の世話をしに来たわけじゃない。もっと大きなことを叶えるためにここに居る。わざわざ念押しされると、ちくりと胸が痛む。勝手に想って、勝手に傷ついて。こんなに苦しいのだから、これくらい許されてもいいのでは、と思う気持ちと、恥じ入るべきだ、という気持ちが交錯する。
考えるのがばかばかしくなって、布団をまくり上げて潜り込む。彼の態度は冷たいが、身体はぬくい。
勝っても負けても、いずれアルジュナは俺の元からいなくなり、アルジュナは俺の事を忘れる。俺はいつまでも捉われたままだ。あまりに損な役回りで笑みがこみあげて来る。
「大丈夫、君たち英霊の努力を無駄にしないように最大限努力する」
「いいでしょう」
その答えに満足したのか、彼は目を閉じ、眠りに入った。俺はひとり取り残されたまま、彼の貌を見つめている。
彼の貌、吐息、ぬくもり。感じ得るすべてのものを記憶に刻みつけておくよう、俺は眠りゆく頭をどうにか保ちつつ彼に触れないぎりぎりの距離に身体を横たえた。
文字通り、生き世界が違いすぎるのだ。出会ってしまったから今こんなにも予期する別れが苦しい。
もっと俺が大人だったら、先々を悲観せず、毎日毎日を刻みつけながら生きればいいとわかるのだけど、今は昏い水底に沈んでいるような気になる。もっと大人になったら、こんな変な人の想い方をしなくても済むのかな、と夢想し、迫ってきた眠気に素直に意識を引き渡した。
2017/7/1
ある恋の話 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #エドモン・ダンテス
ある恋の話 #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #エドモン・ダンテス
「煙草一本ちょうだい」
黙って差し出される小箱から一本引き抜いて、ライターを探す。シュ、と火打石の音擦れる音が聞こえたかと思えば小さなプラスチック円筒の先に火が灯されている。
慌てて煙草を咥えて、吸いながら火を穂先につける。
「ありがと」
特に返事はなく、彼は元通り長椅子にゆったり腰かけなおし、読みかけの本を開く。自分の部屋で読めばいいのに、という言葉は、奇しくも同室になった、少年の姿で現界したサーヴァントの顔を思い出した。もとより博識な彼の事だから書庫の書物をかたっぱしから読んで、どれかで副流煙のことを読んでのことだろう。
その上で、彼なりに子供に気遣っているのだろう。
「ライターの使い方、知ってたんだね」
「お前が使ってただろう」
彼の前で確かに使ったことがあった。そんなところまで見ていたのかと感心してしまう。
「ねぇ、恋バナしよ」
「はぁ?」
心底不愉快、といったような返事が返ってきた。
それもそうだろう。彼の恋は恐ろしいほど残酷に潰えているのだから。
華々しい人生の幕開けともいえる披露宴の最中、物々しい雰囲気のなか引っ立てられてゆく若かりし頃の彼の心中を端から眺めているだけで絶望に呑まれそうになる。
「俺もなんかさぁ、こう、身を焦がすような恋がしてみたいなぁって……」
「それを知らずに死地に赴いているのか」
鼻で笑われてしまうかと思ったが、以外と冷静に返された。今の言葉は、やはり彼はエドモン・ダンテスの残滓の上に復讐の神という概念を盛り付けているのではないか、という仮説を裏付ける。
「そうなの……なんかここのみんなは大切だけど、家族みたいな感じがしちゃってさ……なんかトキメキがない」
「トキメキ?」
この人の口からトキメキ、なんて言葉が出てくるのは不似合でしかない。きっと冷たそうな青白い肌と同じく冷たい血が流れていて、俺の不格好な恋など一笑に付されてしまうだろう。
いや、俺が知らないだけで恋多き男だったのかもしれない。
「そうトキメキ。もう絶対コイツじゃないとダメ、みたいな衝動がないというか……」
「ああ……それは確かに恋とは呼ばないな」
うーん、と思いあぐねて俺はうろうろと、時に灰を灰皿に落として部屋を徘徊する。
「じゃあさ、メルセデスに恋してた?エデには?」
不機嫌どころで済まされないくらい嫌そうな顔をした彼は、子供の言うことだからと受け流そうとしているのが見てわかる。
けれど子供の浅知恵は思わぬ方向に振り切ることもある。俺はあの島から抜け出し、彼を呼び出すまででなにか落としてきてしまったようだ。
青白い肌をもっと青くして、言葉を絞り出そうとしている彼を眺めている。いくら強く睨んでも、俺の言葉が翻らないのを知ると言葉を選んでいるのがわかる。嫌なら無視するとか、他にやりかたがあるだろうに、なんだかんだとまっすぐで、綺麗な心を持ってる男だと思う。そのまっすぐさを逆手にとって、共に魔術王に勝利した、という勝利の証の具現である俺は、彼にどこまで許されるのか試したくなった。
「してたさ」
それだけつぶやくように言うと、不機嫌さが極まれたのか、備え付けの冷蔵庫から強いラム酒を取り出してきた。グラスは二つ。
「どんなとこが好きだった?」
やさしい飴色の液体が、繊細なつくりのグラスに注がれてゆくのを眺めながら、さらに質問を続ける。彼はやっかいな子供を相手にして、すっかり困ってしまった大人の顔をして簡単なつまみを作っている。きまりの悪さを呑みこむように呷り、酒臭い息を吐きながらも手は止めないでいる。半ばやけくそと言ったようにつらつらと語る。
「メルセデスは、」
昔恋した女を語る彼は、むせかえるくらいの色気を放っている。
この前エリザベートと一緒に見た映画に、傷つく男はうつくしい、だなんてセリフがあったけれど、まさにその通りだ。昔愛して、共に将来を誓い合った女、自分を待っていてくれなかった女、病に臥せ、悲しみのままに死んでいった父のことを気にかけてくれていた女、そして、憎しみに呑まれそうになったとき救い上げてくれた女のことを語る彼はひどくうつくしかった。ときに切なげに眉をしかめる様など、不埒ながら軽く絶頂すら覚えた。
チーズとトマトとバジルソースのカプレーゼと、オリーブ。料理の本も読んだのだろう、俺が食べ慣れている味だった。ラム酒は相当キツイもので、俺は彼ほど気前よく飲めないでいた。酔わないと語れないことなのだろう。
「そうかぁ、ありがとうね。なんとなくだけど、俺も恋ってやつが少しだけ身近に感じられたよ」
舌打ちですませてくれるだけありがたいと思う。あの仄暗いシャトー・ディフでこの話をしていたならもっと違う展開が待っていたに違いない。例えば物言わぬ骸になるとか。
「でも、元カノの名前を、名前がわからないって言ってる女の人につけるのは正直……」
これが一番悪手だったらしい。彼の不機嫌オーラで俺の肌がチリチリ痛むような感覚に襲われる。
「わかったよ……恥ずかしいんだね……」
「まさかアレだとは思わなかったからな」
くつくつと喉奥で笑みを磨り潰す笑い方をし、彼はまた煙草に火をつけた。俺も彼と同じマッチから火を貰いぼんやり考えた。その感情を恋と呼ぶのなら、俺はもうとっくに恋を知っていたし、していた。今彼に話したらきっととても驚いてしまうだろうから、もう少し暖めておくけれど、俺は彼に恋をしている。この切ないくらいの独占欲、庇護欲、俺はこれを恋と呼ぶ。
「煙草一本ちょうだい」
黙って差し出される小箱から一本引き抜いて、ライターを探す。シュ、と火打石の音擦れる音が聞こえたかと思えば小さなプラスチック円筒の先に火が灯されている。
慌てて煙草を咥えて、吸いながら火を穂先につける。
「ありがと」
特に返事はなく、彼は元通り長椅子にゆったり腰かけなおし、読みかけの本を開く。自分の部屋で読めばいいのに、という言葉は、奇しくも同室になった、少年の姿で現界したサーヴァントの顔を思い出した。もとより博識な彼の事だから書庫の書物をかたっぱしから読んで、どれかで副流煙のことを読んでのことだろう。
その上で、彼なりに子供に気遣っているのだろう。
「ライターの使い方、知ってたんだね」
「お前が使ってただろう」
彼の前で確かに使ったことがあった。そんなところまで見ていたのかと感心してしまう。
「ねぇ、恋バナしよ」
「はぁ?」
心底不愉快、といったような返事が返ってきた。
それもそうだろう。彼の恋は恐ろしいほど残酷に潰えているのだから。
華々しい人生の幕開けともいえる披露宴の最中、物々しい雰囲気のなか引っ立てられてゆく若かりし頃の彼の心中を端から眺めているだけで絶望に呑まれそうになる。
「俺もなんかさぁ、こう、身を焦がすような恋がしてみたいなぁって……」
「それを知らずに死地に赴いているのか」
鼻で笑われてしまうかと思ったが、以外と冷静に返された。今の言葉は、やはり彼はエドモン・ダンテスの残滓の上に復讐の神という概念を盛り付けているのではないか、という仮説を裏付ける。
「そうなの……なんかここのみんなは大切だけど、家族みたいな感じがしちゃってさ……なんかトキメキがない」
「トキメキ?」
この人の口からトキメキ、なんて言葉が出てくるのは不似合でしかない。きっと冷たそうな青白い肌と同じく冷たい血が流れていて、俺の不格好な恋など一笑に付されてしまうだろう。
いや、俺が知らないだけで恋多き男だったのかもしれない。
「そうトキメキ。もう絶対コイツじゃないとダメ、みたいな衝動がないというか……」
「ああ……それは確かに恋とは呼ばないな」
うーん、と思いあぐねて俺はうろうろと、時に灰を灰皿に落として部屋を徘徊する。
「じゃあさ、メルセデスに恋してた?エデには?」
不機嫌どころで済まされないくらい嫌そうな顔をした彼は、子供の言うことだからと受け流そうとしているのが見てわかる。
けれど子供の浅知恵は思わぬ方向に振り切ることもある。俺はあの島から抜け出し、彼を呼び出すまででなにか落としてきてしまったようだ。
青白い肌をもっと青くして、言葉を絞り出そうとしている彼を眺めている。いくら強く睨んでも、俺の言葉が翻らないのを知ると言葉を選んでいるのがわかる。嫌なら無視するとか、他にやりかたがあるだろうに、なんだかんだとまっすぐで、綺麗な心を持ってる男だと思う。そのまっすぐさを逆手にとって、共に魔術王に勝利した、という勝利の証の具現である俺は、彼にどこまで許されるのか試したくなった。
「してたさ」
それだけつぶやくように言うと、不機嫌さが極まれたのか、備え付けの冷蔵庫から強いラム酒を取り出してきた。グラスは二つ。
「どんなとこが好きだった?」
やさしい飴色の液体が、繊細なつくりのグラスに注がれてゆくのを眺めながら、さらに質問を続ける。彼はやっかいな子供を相手にして、すっかり困ってしまった大人の顔をして簡単なつまみを作っている。きまりの悪さを呑みこむように呷り、酒臭い息を吐きながらも手は止めないでいる。半ばやけくそと言ったようにつらつらと語る。
「メルセデスは、」
昔恋した女を語る彼は、むせかえるくらいの色気を放っている。
この前エリザベートと一緒に見た映画に、傷つく男はうつくしい、だなんてセリフがあったけれど、まさにその通りだ。昔愛して、共に将来を誓い合った女、自分を待っていてくれなかった女、病に臥せ、悲しみのままに死んでいった父のことを気にかけてくれていた女、そして、憎しみに呑まれそうになったとき救い上げてくれた女のことを語る彼はひどくうつくしかった。ときに切なげに眉をしかめる様など、不埒ながら軽く絶頂すら覚えた。
チーズとトマトとバジルソースのカプレーゼと、オリーブ。料理の本も読んだのだろう、俺が食べ慣れている味だった。ラム酒は相当キツイもので、俺は彼ほど気前よく飲めないでいた。酔わないと語れないことなのだろう。
「そうかぁ、ありがとうね。なんとなくだけど、俺も恋ってやつが少しだけ身近に感じられたよ」
舌打ちですませてくれるだけありがたいと思う。あの仄暗いシャトー・ディフでこの話をしていたならもっと違う展開が待っていたに違いない。例えば物言わぬ骸になるとか。
「でも、元カノの名前を、名前がわからないって言ってる女の人につけるのは正直……」
これが一番悪手だったらしい。彼の不機嫌オーラで俺の肌がチリチリ痛むような感覚に襲われる。
「わかったよ……恥ずかしいんだね……」
「まさかアレだとは思わなかったからな」
くつくつと喉奥で笑みを磨り潰す笑い方をし、彼はまた煙草に火をつけた。俺も彼と同じマッチから火を貰いぼんやり考えた。その感情を恋と呼ぶのなら、俺はもうとっくに恋を知っていたし、していた。今彼に話したらきっととても驚いてしまうだろうから、もう少し暖めておくけれど、俺は彼に恋をしている。この切ないくらいの独占欲、庇護欲、俺はこれを恋と呼ぶ。
歪んだ真珠は歪みに気づかないまま #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #エドモン・ダンテス
歪んだ真珠は歪みに気づかないまま #FateGrandOrder #夢小説 #男夢主 #エドモン・ダンテス
アンドロイドは電気羊の夢を見るか、だなんて知りはしないけれど、俺は今日もひどく恐ろしい夢を見る。
婚礼のため着飾った美しい人、そして、俺の恋敵、と呼ぶにはあまりに烏滸がましすぎる女性。
それを愛おしげにみつめれば同じ熱を持った視線が返ってくる。これを幸せと呼ばずに何と呼ぶのかわからないくらいの全身を包む純然たる幸福。と、同時に身体の末端から凍て腐り落ちそうなほどの嫉妬の炎が身を焼く苦しみ。
ひどい、俺の感情と、この夢の主の感情が交錯している。
場面が変わり、ひどく喧しく響く靴音、不穏な囁き声。
そして、気づいたときには。狭苦しくて、自由がきかない。誰かが話す声がするけれど、声を発することはしない。
何やら男の声がしたのち、体が急に宙へ浮いたと脳が認識したかと思えば、全身を叩きつけられるような痛みが体中に走った。
これだけのことが一気に起きるものだから、混乱はしているものの身体は勝手に動き、足枷を外して酸素を欲して海面を目指す。
俺自身はそう泳ぎがうまくないはずなのに、夢の中の俺は迷わず泳ぎだす。この先に島が無かったら、見つかってしまったらと胸に溜まる焦燥感はあるものの、ひとつ共通しているのが、唯生きたいと願う気持ちだ。
俺はこの夢をみるサーヴァントを知っている。
どういう仕組みだか知らないけれど、サーヴァントとマスターはときたま夢を共有するのだ。
初めてサーヴァントの夢を共有したときは恐ろしくて恐ろしくて、久しぶりに声を上げて泣き喚いてしまった。それがブーティカの夢だったのも一因だが、酷い、という言葉だけでは片付かないこの世の、何度繰り返されたかわからない地獄がそこにはあった。
あまりに大声で泣いていたのだろう、驚いたマシュが駆けつけてくれて、あたたかいタオルで顔を拭ってくれたかと思ったら安心してそのまま眠ってしまった。
けれど何度か繰り返すうちに、少しだけお酒を飲んで眠ってしまえばいいことが分かった。何度もマシュを叩き起こすのも悪い。
消灯時間が過ぎているため足元に等間隔に付けられた無機質な灯りを頼りに、食糧庫からラム酒と、一つのライムと少々の塩を失敬し、サーヴァントとスタッフたちが談話室として使用している部屋の中でも自然と口数が少ない者が集まる部屋に向かう。
これだけ夜遅ければ子供の身体をもったサーヴァントたちは、アンデルセンを除いて寝静まって入るだろうが、念には念いれる。
今日ばかりは陽気にお喋りする気にはなれない。
蝋燭の灯りに、青白い顔がぼんやり浮かんでいるのだけ見えたからすこし驚いたけれど、気だるげに視線がこちらを捉え、隣に座るよう促す仕草で彼が巌窟王であることを認識した。
蝋燭でタバコを灯し、こちらに寄越してくれる。なんだか今日はとってもサービスがよくて後が怖い。
彼はいつもつけている黒い手袋を外し、氷の塊をアイスピックで表面を削り、それを繊細なつくりのグラスに浮かべ、水で湿らせた飲み口に塩をまぶす。
それから、胸元から小さなナイフを取り出すと、俺が手でいじっていたライムを二つに切って、一つを寄越してくる。
少しお行儀が悪いけれど、それを齧りながらちびちびグラスを傾ける。
「あのね」
返事はなく、唯目線が俺に注がれるだけだ。けれどそれが心地よい。聞く気が無いときは黙って煙草を吹かすだけだからわかりやすい。
「サーヴァントはマスターとときに夢の内容を共有することがあるんだけど」
これは彼にとっても予想外だったらしく、ひどくむせてしまった。いつもなら身体に触れようとすると嫌がるけれど、背中を摩ってもなにも言われない。
「で、どんな内容だった」
「言っていい?っていうか言わないと怖くて」
冷静さを取り戻した彼は灰皿に灰を落として、こちらに向き直る。聞く気はあるらしい。
「……っていう夢」
彼は苦虫を数十匹同時に噛み潰したような顔をしてタバコをふかしている。まさが自分の夢を覗き見られたとは思ってもみなかったらしい。
彼はベストの内ポケットをまさぐると、ひとつの小物を取り出し、テーブルの上に置いた。
「なにこれ」
「指輪だ」
もしかしなくても、そうだろう。これは男物で、並べて置いてある小箱は、
「開けていい」
制止が返ってこなかったのを肯定と受取り、所々削れた、もとは薄紅色をしていたであろう小箱を開ける。
案の定、女物の結婚指輪だ。
「男用の婚約指輪が無い……?」
「看守共に奪われた。きっと高く売れたろうよ」
踏み込んではいけなかったところを踏み込んでも、最近はひどく癇癪を起されることは無くなってきた気がする。以前なら、怒らせてしまったらさっさと自室へ帰ってしまっていたから。
「綺麗だね」
「当たり前だろう、そのとき一番腕のいい細工師に頼んだ」
「惚れてたんだ」
鼻で笑って、まぁな、と返してくれる辺り、彼は本当に丸くなったと思う。
「いやでも、そういう体験しないままいつ死ぬかもわからないところに行くのってなんか損した気分」
「お前には居なかったのか?」
「居たけど、元カノ忘れられないって、大失恋」
「ン……?」
彼の常識の中では論理の破綻が起きたのだろう。皺ひとつない綺麗な肌に深く皺が刻まれる。
いちいち説明するのが面倒で、小さくため息をついて、言葉を選んで、けれど語気には悲壮感を込めずに意図を正確に伝えるためだけの言葉を発する。
「俺は男が好きなの……あっでもできれば冷たくしないで」
「……好きにすればいい」
生前の時代によっては引き攣った表情をどうにか押隠す、興味本位でシてみたいだとか好き勝手言う。彼なら、こう言ってくれるとなんとなく予想していた。
「失恋っていつかは忘れるものかな」
酷な質問を選んで投げかけた。こんなもの後生大事に取っておいているくらいだから、忘れていないことくらい目に見えている。それでも、俺はひどく幼く、残酷な方法で、彼の意識からもう戻らない人、彼が愛し、恨みに恨みぬいたひとではなく俺を見て欲しいと思った。
それは愛でも、恋でもなくても構わない。いや、でも愛か恋であってほしいけれども……。いや難しい。まだ保留にしておこう。
バカなことやっているっていうことは自分が一番知っている。自己嫌悪のあまり恐ろしい夢のことはどこか遠くへ行ってしまい、代わりに自分の浅ましさや愚かしさに頭が真っ白になって手に溜まった汗が凍ってしまいそうなほど手が冷えてしまった。
そりゃあ、健全なオトコノコですよ。好きな人が手を取って温めたりしてくれないものかな、なんて考えました。
きっと、恋が叶う可能性があるって思っていたから彼も、俺もこんなにも苦しいんだろう。
「あっ、じゃあ、この女物の結婚指輪を触媒にしたら」
「やめろ」
多少の怒気を含んだ、けれどできの悪い後輩を押しとどめるようなやわらかさが感じられる声音で制止の言葉が投げかけられる。
「メルセデスは、英霊の座に召し抱えられるだけの器を持ち合わせてはいない」
彼は何でもなさそうにそう言ってのけ、ライムをひと齧りしたのちラムを呷った。メルセデス、彼を裏切る前のメルセデスに会える可能性を切り捨てた。少しでも喜んでくれたら、なんて単純な思考回路で弾きだされた答えはあまりにも幼稚だった。自分の立場を顧みず思いつきで発言したことが恥ずかしい。
「代わりにこれをやろう、マスター」
そう言って俺の掌に落とされたのは飾り気のない男ものの結婚指輪。冷たい銀がすぐに俺の体温で温まってしまう。
「これって」
「俺の触媒としては申し分ないだろう」
蠱惑的に笑む彼は、満足げというか、吹っ切れたような表情でまた一つラムを呷った。 唇の端を懸命に噛みしめていないと、破顔してしまいそうだ。ありがと、とだけ言って襟元をまさぐりネームタグを探りあて、一度外す。
身元が分からないくらいの死体になったとき使うタグに、俺の片想い相手の結婚指輪が通っているというのはなんだか不思議な気分だ。
「ごめん、留め具が付けられない」
「貸してみろ」
手袋を外した彼の指先が俺の首筋を掠める。赤みがさした首筋に気付かれなきゃいいけど。
指輪を服の上から抑えて、どうにか笑みをかみ殺して、噛みしめても噛みしめても綻びそうになる頬を少し抓る。
「できたぞ」
「ありがと」
彼は慌てて灰を灰皿に落とし、残ったラムを呷って大きくあくびをひとつ。
「俺はもう寝るぞ、―――もさっさと寝ろ」
「うん、俺は飲み終わるまでもう少しかかるから」
彼は長身をゆっくり起こし、俺の髪の毛を無遠慮に―ペットの犬を撫でるように―掻き混ぜ、おやすみ、とささやいて去って行った。
一人取り残された俺はすっかり氷が解けて薄くなったラムにライムを絞って、一気に呷る。あの人たらしは、小説で読んだ通り、エドモン・ダンテスのやり口そのものじゃないか。何が巌窟王だ、と苛立ち紛れに呷ったラムに溶け残った氷を噛み砕く。
こんな、結婚指輪だなんて、彼以外呼び出しようなない物を俺に与えるってことがどういうことだかわかってやっているわけがない、と早鐘のようになり続ける心臓に言い聞かせる。
こんな日はさっさと寝てしまうに限る。深く深く眠らないと、今度はエドモンとメルセデスのデートの夢なんて見たら今度こそ立ち直れなさそうだし。
2016/5/31
アンドロイドは電気羊の夢を見るか、だなんて知りはしないけれど、俺は今日もひどく恐ろしい夢を見る。
婚礼のため着飾った美しい人、そして、俺の恋敵、と呼ぶにはあまりに烏滸がましすぎる女性。
それを愛おしげにみつめれば同じ熱を持った視線が返ってくる。これを幸せと呼ばずに何と呼ぶのかわからないくらいの全身を包む純然たる幸福。と、同時に身体の末端から凍て腐り落ちそうなほどの嫉妬の炎が身を焼く苦しみ。
ひどい、俺の感情と、この夢の主の感情が交錯している。
場面が変わり、ひどく喧しく響く靴音、不穏な囁き声。
そして、気づいたときには。狭苦しくて、自由がきかない。誰かが話す声がするけれど、声を発することはしない。
何やら男の声がしたのち、体が急に宙へ浮いたと脳が認識したかと思えば、全身を叩きつけられるような痛みが体中に走った。
これだけのことが一気に起きるものだから、混乱はしているものの身体は勝手に動き、足枷を外して酸素を欲して海面を目指す。
俺自身はそう泳ぎがうまくないはずなのに、夢の中の俺は迷わず泳ぎだす。この先に島が無かったら、見つかってしまったらと胸に溜まる焦燥感はあるものの、ひとつ共通しているのが、唯生きたいと願う気持ちだ。
俺はこの夢をみるサーヴァントを知っている。
どういう仕組みだか知らないけれど、サーヴァントとマスターはときたま夢を共有するのだ。
初めてサーヴァントの夢を共有したときは恐ろしくて恐ろしくて、久しぶりに声を上げて泣き喚いてしまった。それがブーティカの夢だったのも一因だが、酷い、という言葉だけでは片付かないこの世の、何度繰り返されたかわからない地獄がそこにはあった。
あまりに大声で泣いていたのだろう、驚いたマシュが駆けつけてくれて、あたたかいタオルで顔を拭ってくれたかと思ったら安心してそのまま眠ってしまった。
けれど何度か繰り返すうちに、少しだけお酒を飲んで眠ってしまえばいいことが分かった。何度もマシュを叩き起こすのも悪い。
消灯時間が過ぎているため足元に等間隔に付けられた無機質な灯りを頼りに、食糧庫からラム酒と、一つのライムと少々の塩を失敬し、サーヴァントとスタッフたちが談話室として使用している部屋の中でも自然と口数が少ない者が集まる部屋に向かう。
これだけ夜遅ければ子供の身体をもったサーヴァントたちは、アンデルセンを除いて寝静まって入るだろうが、念には念いれる。
今日ばかりは陽気にお喋りする気にはなれない。
蝋燭の灯りに、青白い顔がぼんやり浮かんでいるのだけ見えたからすこし驚いたけれど、気だるげに視線がこちらを捉え、隣に座るよう促す仕草で彼が巌窟王であることを認識した。
蝋燭でタバコを灯し、こちらに寄越してくれる。なんだか今日はとってもサービスがよくて後が怖い。
彼はいつもつけている黒い手袋を外し、氷の塊をアイスピックで表面を削り、それを繊細なつくりのグラスに浮かべ、水で湿らせた飲み口に塩をまぶす。
それから、胸元から小さなナイフを取り出すと、俺が手でいじっていたライムを二つに切って、一つを寄越してくる。
少しお行儀が悪いけれど、それを齧りながらちびちびグラスを傾ける。
「あのね」
返事はなく、唯目線が俺に注がれるだけだ。けれどそれが心地よい。聞く気が無いときは黙って煙草を吹かすだけだからわかりやすい。
「サーヴァントはマスターとときに夢の内容を共有することがあるんだけど」
これは彼にとっても予想外だったらしく、ひどくむせてしまった。いつもなら身体に触れようとすると嫌がるけれど、背中を摩ってもなにも言われない。
「で、どんな内容だった」
「言っていい?っていうか言わないと怖くて」
冷静さを取り戻した彼は灰皿に灰を落として、こちらに向き直る。聞く気はあるらしい。
「……っていう夢」
彼は苦虫を数十匹同時に噛み潰したような顔をしてタバコをふかしている。まさが自分の夢を覗き見られたとは思ってもみなかったらしい。
彼はベストの内ポケットをまさぐると、ひとつの小物を取り出し、テーブルの上に置いた。
「なにこれ」
「指輪だ」
もしかしなくても、そうだろう。これは男物で、並べて置いてある小箱は、
「開けていい」
制止が返ってこなかったのを肯定と受取り、所々削れた、もとは薄紅色をしていたであろう小箱を開ける。
案の定、女物の結婚指輪だ。
「男用の婚約指輪が無い……?」
「看守共に奪われた。きっと高く売れたろうよ」
踏み込んではいけなかったところを踏み込んでも、最近はひどく癇癪を起されることは無くなってきた気がする。以前なら、怒らせてしまったらさっさと自室へ帰ってしまっていたから。
「綺麗だね」
「当たり前だろう、そのとき一番腕のいい細工師に頼んだ」
「惚れてたんだ」
鼻で笑って、まぁな、と返してくれる辺り、彼は本当に丸くなったと思う。
「いやでも、そういう体験しないままいつ死ぬかもわからないところに行くのってなんか損した気分」
「お前には居なかったのか?」
「居たけど、元カノ忘れられないって、大失恋」
「ン……?」
彼の常識の中では論理の破綻が起きたのだろう。皺ひとつない綺麗な肌に深く皺が刻まれる。
いちいち説明するのが面倒で、小さくため息をついて、言葉を選んで、けれど語気には悲壮感を込めずに意図を正確に伝えるためだけの言葉を発する。
「俺は男が好きなの……あっでもできれば冷たくしないで」
「……好きにすればいい」
生前の時代によっては引き攣った表情をどうにか押隠す、興味本位でシてみたいだとか好き勝手言う。彼なら、こう言ってくれるとなんとなく予想していた。
「失恋っていつかは忘れるものかな」
酷な質問を選んで投げかけた。こんなもの後生大事に取っておいているくらいだから、忘れていないことくらい目に見えている。それでも、俺はひどく幼く、残酷な方法で、彼の意識からもう戻らない人、彼が愛し、恨みに恨みぬいたひとではなく俺を見て欲しいと思った。
それは愛でも、恋でもなくても構わない。いや、でも愛か恋であってほしいけれども……。いや難しい。まだ保留にしておこう。
バカなことやっているっていうことは自分が一番知っている。自己嫌悪のあまり恐ろしい夢のことはどこか遠くへ行ってしまい、代わりに自分の浅ましさや愚かしさに頭が真っ白になって手に溜まった汗が凍ってしまいそうなほど手が冷えてしまった。
そりゃあ、健全なオトコノコですよ。好きな人が手を取って温めたりしてくれないものかな、なんて考えました。
きっと、恋が叶う可能性があるって思っていたから彼も、俺もこんなにも苦しいんだろう。
「あっ、じゃあ、この女物の結婚指輪を触媒にしたら」
「やめろ」
多少の怒気を含んだ、けれどできの悪い後輩を押しとどめるようなやわらかさが感じられる声音で制止の言葉が投げかけられる。
「メルセデスは、英霊の座に召し抱えられるだけの器を持ち合わせてはいない」
彼は何でもなさそうにそう言ってのけ、ライムをひと齧りしたのちラムを呷った。メルセデス、彼を裏切る前のメルセデスに会える可能性を切り捨てた。少しでも喜んでくれたら、なんて単純な思考回路で弾きだされた答えはあまりにも幼稚だった。自分の立場を顧みず思いつきで発言したことが恥ずかしい。
「代わりにこれをやろう、マスター」
そう言って俺の掌に落とされたのは飾り気のない男ものの結婚指輪。冷たい銀がすぐに俺の体温で温まってしまう。
「これって」
「俺の触媒としては申し分ないだろう」
蠱惑的に笑む彼は、満足げというか、吹っ切れたような表情でまた一つラムを呷った。 唇の端を懸命に噛みしめていないと、破顔してしまいそうだ。ありがと、とだけ言って襟元をまさぐりネームタグを探りあて、一度外す。
身元が分からないくらいの死体になったとき使うタグに、俺の片想い相手の結婚指輪が通っているというのはなんだか不思議な気分だ。
「ごめん、留め具が付けられない」
「貸してみろ」
手袋を外した彼の指先が俺の首筋を掠める。赤みがさした首筋に気付かれなきゃいいけど。
指輪を服の上から抑えて、どうにか笑みをかみ殺して、噛みしめても噛みしめても綻びそうになる頬を少し抓る。
「できたぞ」
「ありがと」
彼は慌てて灰を灰皿に落とし、残ったラムを呷って大きくあくびをひとつ。
「俺はもう寝るぞ、―――もさっさと寝ろ」
「うん、俺は飲み終わるまでもう少しかかるから」
彼は長身をゆっくり起こし、俺の髪の毛を無遠慮に―ペットの犬を撫でるように―掻き混ぜ、おやすみ、とささやいて去って行った。
一人取り残された俺はすっかり氷が解けて薄くなったラムにライムを絞って、一気に呷る。あの人たらしは、小説で読んだ通り、エドモン・ダンテスのやり口そのものじゃないか。何が巌窟王だ、と苛立ち紛れに呷ったラムに溶け残った氷を噛み砕く。
こんな、結婚指輪だなんて、彼以外呼び出しようなない物を俺に与えるってことがどういうことだかわかってやっているわけがない、と早鐘のようになり続ける心臓に言い聞かせる。
こんな日はさっさと寝てしまうに限る。深く深く眠らないと、今度はエドモンとメルセデスのデートの夢なんて見たら今度こそ立ち直れなさそうだし。
2016/5/31