瞬きの間に #ダイヤの #カップリング #まなたん
「かっちゃん、待って!」
もたもたと靴ひもを結ぶ光一郎が、いまでも記憶の片隅に残っている。
「要、行こうぜ」
「あいつ、いっつもとろいな」
「下手くそだし」
聞こえるように言ったのだろう、光一郎は肩を震わせて靴ひもをいじったまま顔を上げようとしない。周りより抜きん出て上手く、父はコーチ、母は父母会長。そんなキャプテンは親の威光を存分に利用して、光一郎に嫌味を言っているらしい、ということは人づてに聞いていた。その時は俺が噂だけで手を出せない、光一郎が解決するかもしれない、と考えていたが、俺の目の前でやられたら話は別だ。
「行かない、それと、光一郎は下手くそなんかじゃない」
いつも静かに投球をし、結果を出していたからかキャプテンは素直に引き下がった。それからスパイクに砂を入れられたり、バッティンググローブを汚されたりと小さな嫌がらせはあったものの、小さいころの俺にはそれ以上に得るものがあった。
かっちゃん、かっちゃんと慕ってくる光一郎に仄かな優越を感じていた。それを侵す者は誰であっても許すつもりは無かった。今となっては浅ましく、光一郎の気持ちを裏切っていた証拠に他ならない。忘れていたかった記憶の一つだ。
『青道高校薬師高校を破って決勝進出』
光一郎が、俺が負けた薬師を破って、決勝へ進んで。新聞に小さい文字列として並べてみると、こんなに簡単に表現できてしまう。そこには、そこに至るには、数えきれないほどの涙が流れているのに。自分の感傷でしかないと理解していても、涙腺が緩んでしまう。
携帯電話のディスプレイに映るメールの下書き、おめでとうの文字はどこか虚しく見えた。
本当にめでたいと思っているのか。本当は悔しくて羨ましくて、それに劣等感が滲んでいた。いままで追われていたならば、これからも追われる立場で、いつだって俺が光一郎を導いてやるんだという傲慢が少なからずあったことを、嫌と言うほど思い知らされた。
たぶん、本当の親友ならばここで真っ先に連絡を取っておめでとう、次も頑張れよと励ましてやるべきだということはなんとなくわかる。が、自分の小さなプライドがそれを邪魔する。いいなぁ、俺も、その舞台に立ちたかったなぁ、と羨む気持ちが一番に出てきてしまう。
あれだけ、人生を野球にささげてきても、差が出てしまう。あたりまえのことなのに、苦しくて仕方がない。まるで自分の選択が、努力が、一気にばかげたもののように見えてきてしまう。同じ夢を見て、同じ場所で夢がただの夢になってしまった仲間には言えるはずもない。最後の最後まで自分の背中を守ってくれた仲間に、そんなこと言うつもりもないが。
春のセンバツの時は、最高ではないが、まぁ悪くは無い成績を残したことで、光一郎と決勝で戦って、自分が選んだチームで、チームメイトたちと夢の舞台へ行くことへの確信すら抱いていた。
もう、遅いだろうしきっと光一郎も寝てしまった、夏の練習は厳しいだろうから、疲れているところを起こしてしまったらいけないと自分に言い聞かせて、下書きを破棄して携帯電話を閉じた。パコ、という間抜けな音ですらいまは神経を逆なでる。
夏大で負けてから、自宅から学校へ通う部員が増えた。大学進学の手段として、野球を選ばなかったチームメイトたちだ。朝起きて、食堂に行ったとき彼らが居ないとき、俺らの夏は終わったのだと再び実感する。食堂の外で、バットがボールを弾き返す快音が、グローブにボールが収まる音が、掛け声が、食事時に聞こえる。起きる時間だって遅い。終わりを実感するには十分すぎるだろう。
はたして、これから先の人生で俺は何度あの夏のことを思い出し、後悔するのだろう。負けたあと、テレビのインタビューなどで後悔はありません、と言う同学年の選手たちの気持ちが、同じ夢を見ていたからこそ、俺にはなんとなくわかる。彼らもまた、記憶にささくれを持ち、ふとしたときに思い出すが、試合後の高揚でまだ実感が湧いていないだけであのときああしておけば、と何度も繰り返すだろう。
後悔をしないのは、頂点に立ったチームのメンバーだけではないだろうか。それももう自分で確かめる手段は無い。俺らの夏はただの夢になってしまったのだから。
だからこそ、まだ可能性が残っている幼馴染に激励の言葉を贈るべきなのかもしれない。終わってしまった夢を託すようで気が引けるが、俺ができなかったこと、ネット越しか画面越しにしか見ることができなかったものを今度はお前が俺に話して聞かせてほしい。
あまり深く考えすぎても文面から重たい気持ちが伝わってしまうだろうから、試合頑張れよ、応援してる。とだけメールを送った。忙しかったら見ないだろうし。相手が好きなタイミングで確認できるメールが、いままではどこにいても繋がってしまうような気がして嫌だったが、この時ばかりは都合がいい。
返事は昼休みに来た。
『今日の夜、少しだけ電話できる?』
『好きな時間にかけてきて大丈夫、二十一時以降ならいつでも』
と返した。メールで、ありがとうだとか当たり障りのない返事が来ると思っていたので拍子抜けした。
もしかしたら、エースとして精神力が強くなったように見えていただけで、不安なのかもしれない。決勝という舞台を前にすくみ上ってしまっているのかもしれない。そんな光一郎に何ができるのか。もう舞台から降ろされた俺に、何ができるのか。
「青道で自分を変えたいんだ」
自信なさげに言うものの、はじめて光一郎が見せた強い意志にたじろぐ以外にできなかった。いままでと同じく、スカウトされた市大三高で野球をするものだと、考えていた。
やはり、光一郎も、ひとりの投手なのだ。自分の投球によってプレーが始まるポジション、ピッチャーの代表格であるエースを俺に預けている状況が、心のどこかで嫌だったのかもしれない。そんな光一郎の存在が、俺の心のどこかでチクリチクリと焦りを生んでいた。それが俺の強さになっていった、そう信じたい。
「かっちゃん」
「ひさしぶり」
マウンドで発する雄々しい声は鳴りを潜めて、控えめに囁かれたなつかしいあだ名に、なぜか安堵した。光一郎は、俺よりいい結果を残すことが確定しても、特別態度を変えたりするやつじゃない。光一郎の心根の優しさなんて俺が良く知っているはずなのに。そんな勘ぐりを声音に乗せないように、極めて冷静に返事をする。
「本当は、数日なんだけどね」
「俺らの人生のなかで、多分一番濃い時間だからなんだか長く感じるんだろな」
「うん、そんな気がする」
言葉を交わしたのは久しぶりだった。昔のままに気安く会話ができて安心した。
「かっちゃん、あのさ」
「なんだ」
「俺、エースとして、頑張ってるんだ」
「見てれば、わかる」
「よかった」
青道という、市大に劣らない野球の名門校で、競争率の高いピッチャー、そのトップであるエースの座を掴んだ光一郎は後輩たちをひっぱり、チームメイトに支えられ、名実ともにエースといっておかしくないのに、わざわざ部外者である俺に評価を委ねるのだろうか。
「何で俺に聞くんだよ」
「だって、かっちゃんはずっと俺にとって、あこがれだから」
「は?」
思わず強い口調で聞き返してしまった。電話口の向こうで息を飲む音がした。光一郎を委縮させたらいけないっていうのは長い付き合いだからわかっていたのに、聞き返さずにはいられなかった。
「だって」
そう光一郎が発した時、電話口の向こうが妙に騒がしくなった。カノジョか?!カノジョか???と口ぐちに言っているのが聞こえる。
「ごめん、切るね」
「おう」
電話は俺から切った。今や結果として俺を越えてしまった光一郎が、俺にあこがれていただなんて聞きたくなかった。大切な幼馴染のあこがれを綺麗なかたちで見せてあげたかった。なんて考えは傲慢なんだろうか。
◆
カノジョだカノジョだ、と騒ぐ奴らに発信履歴を見せて、やっと解放された。
これからもし、カノジョができたとしても、かっちゃんほど心を許せるかどうかわからない。弱い自分をさらけ出せるのは、信頼しているチームメイトにも言えないようなことを言えるのは、やっぱりかっちゃんなのかもしれない、と自分でも分かっている。そんなかっちゃんを乞える存在が、これから現れるとは、今のところ思えない。
自分の中だけで思っていればいいことを、思わず口走ってしまった。かっちゃんに、お前はよくやってるよ、と認められたかった。小学校、中学校、リトル、シニアとずっと俺の前を走って、俺が気弱なふるまいをしていじわるをされた時も、毅然としていじめっこへ立ち向かうかっちゃんはカッコよかった。ああなりたいと思わせるには十分すぎる、ヒーローだった。
でも、ヒーローに守られたままじゃ、俺はずっとかっちゃんの二番手。かっちゃんと肩を並べられるようには到底なれないだろう。俺はかっちゃんの背中を見ているんじゃなく、隣に立って、いつかは、追い抜いていきたい。
あんな強い口調のかっちゃんは久しぶりだ。小学校のとき、いじわるされたときに、嫌なことはちゃんと伝えろ!と怒られた時以来かもしれない。いや、シニアのとき、ミスを押し付けられそうになったとき、主張しろよ!と怒られたこともあった。嫌だったのかもしれない。急に、あこがれだなんて、負けてすぐ、気持ちの整理がついていないときに言われて。かっちゃんから嫌われてしまうことが怖くて、すぐメールで謝ろうと思ったが、たぶんかっちゃんのことだから、どうして謝るのか、なんて聞きそうだ。静かに、でも、強い目で「光一郎は、どうして俺に悪いことをした思ったんだ」って。
俺が、かっちゃんから嫌われたくなくて、なんて返したら呆れられてしまいそうだ。でも、今の俺にはかっちゃんが俺の近しいひとでなくなるのが怖いから、としか返せない。
悩んでいる間に、メールが来た。
『明日、頑張れ。早く寝ろよ』
もしかしたら、怒ってないのかもしれない。
今までぐちゃぐちゃ考えていたこと全部が吹き飛ばして、冷静さを取り戻す。俺は今、かっちゃんからも応援されている。
『ありがとう、頑張る おやすみ』
それだけの短いメールを送った。
本当は、これ以上やりようがないほど努力したから大丈夫なはずなのに不安で仕方ないって、言いたかった。中学の頃ならたぶん、夜遅くにかっちゃんの家に行って、懐中電灯でかっちゃんの部屋を照らして、降りてきてくれるのを待って言ってしまっていた。でも、もう俺はあのころとは違うから、かっちゃんの背中を追っているだけの、気弱な俺とは。
時間は十四時を回ったころだろうか、神宮球場に降り注ぐ全てを焼き尽くしてしまわんばかりの暑さが、マウンドの上の空気を焼く。
吸った酸素が熱い。御幸が構えるミットが黒々と鎮座するだけの空間に、バッターボックスに打者が入ることで崩される。ここまできたら、もうやることは一つ。自分ができることをする。それだけだ。
マウンドの上の光一郎が小さく見える。
決して頼りなくはないが、山岡からホームランを打たれたときの光一郎は、幼いころの弱気が顔を出した、そんな気がした。
平井への四球、御幸が三塁でさしてアウトをひとつ、梵への死球、神谷をサードファールフライで打ち取り、白河に四球で、ツーアウト満塁。自分がその状況下にいると想像するだけで血が凍りそうな緊張のなかに居る光一郎は、いま何を思って決勝のマウンドに居るのだろうか。
膝をついて、うずくまっている光一郎がテレビ中継に映し出された。
同じような目にあってしまったか、と息を飲んだが、続投するようだ。この気迫、上から目線であることは承知で、光一郎は強く、たくましく成長した。心配するチームメイトたちを制し、ニ、三度ボールを捏ね回して、御幸が構えるのを待っている。
だが、相手は原田。御幸の判断で、敬遠をするようだ。次の成宮で勝負ということか。
そして、選手交代。沢村へ。丹波の、甲子園にかける思いをすこしでも受け取ってくれただろうか。沢村のグローブにボールを押し込んで何やら言っている。信頼できる後輩に恵まれ、また沢村も光一郎を尊敬しているのだろう。沢村は素直に頷いて、光一郎の背中を見送った。
◆
マウンドの上で泣き崩れる川上を、どこか違う世界の出来事のように眺めていた。
喜び合う稲実のメンバーとは違う、俺に与えられた現実がじわじわ這い寄ってくる。それからどうやって寮にもどってきたか思い出せない。ただ茫然と、涙を流した。
高校に入ってから、初めてユニフォームを洗濯した。
泥は洗濯板で擦ってからじゃないと落ちないわよ、と何ともなさそうに言っている藤原は、冬の寒いときもこうして洗っていてくれたのだと思うと、また涙が目じりに滲んできてしまう。結果は、どんなに好ゲームだったとしても決勝敗退だ。藤原たちの献身に見合う結果を出せたのだろうか。
それに、いまはまだ深く考えることはできないが、この結果は確実に進路に影響するだろう。感傷に浸る暇もなく現実が押し寄せてくる。もう少しだけ、夢で終わってしまった夢に浸っていたい、それさえも許されないのか。自分たちもそうしてきたはずなのに、世代が交代してゆく。
練習が辛くて、自分を変えたいと思ったことは何度もある。けれど、はじめて、野球をしていることが苦しくなった。セレクションは一校だけ受けたが、練習に参加していない。あいつらにはまだ、甲子園に行ける可能性があって、俺にはない。単純な事実が重く胃に圧し掛かっているような気すらする。
このまえかっちゃんが言っていたとおり、時間の密度が違う。これから先の人生で、あれほどに没頭できる瞬間は来るのか、と考えて急に恐ろしくなった。夢が断たれるまでは楽しみでしょうがなかった明日が、将来が、叫びだしたいほど恐ろしいものになってしまうとは、あのときの自分は考えもしなかった。
遠慮がちに震えた携帯電話が、メールの受信を伝える。実家の親だったら電話をしてくるだろうし、誰がこのタイミングでメールをしてくるのだろう。
『光一郎、明日暇か? 市大の三年で江ノ島に行こうかって話をしているんだけど』
『うん 行く』
敗戦の傷をなめ合うわけでもなく、ただ、用件のみのメール。それが今は心地よい。
『わかった。じゃあ、10時ぐらいに町田まで来て』
OKの絵文字を送った。ひとつ予定ができるだけで、自分がこれから過ごす時間に区切りが生まれて、見通しが立つような気がする。明日、時間が有ったら参考書でも見てこよう。
朝方の混んでいる中央線上りには、部活に行くのだろう、重そうな用具を持った高校生がちらほら乗っていた。これからは自分たちの時代だ、と意気込んでいる姿がいまはまだ純粋に応援だけしていられない。ぼんやりと電車に乗っていると、いろいろな所にまで考えが及んでしまう。稲実の決勝は、今日。山岡は、原田は、と自分から長打を打った打者のことや、四球を選んだ打者などのこと。俺になくて、あいつにはあったものをもつ、成宮のこと。新宿を乗り過ごしそうになってあわてて小田急線に乗り換える。これで町田まで行ってしまえば、ここまで暗い気持ちになることもないんじゃないか、そんな淡い期待を胸に、電車の揺れに身体を任せた。
「わっ!丹波だ!おはよー!」
「丹波ー!でかいからわかりやすいな、た!ん!ばー!」
顔はよく知っているが名前を知らない、かっちゃんのチームメイトを紹介してもらった。深い付き合いではなかったのに、自然に会話を続けることができる。根がいいひと達ばかりなんだろう。俺もかっちゃんも、チームメイトに恵まれたのだと思うと、俺まで嬉しくなる。
「ほんとは、断られると思ってた」
「え?」
窓の外にちらほら海が見えるようになってきてから、かっちゃんは何でもなさそうにつぶやいた。
「俺らが中学最後の試合の後、光一郎泣いて泣いて」
「そ、それは中学の時の話じゃん」
「そうだな、すごかったよ、決勝でのピッチング」
「あ、ありがと」
かっちゃんはなぜか嬉しそうに唇の端を上げて窓の外に視線を逸らした。
「そういうところも」
「え?」
「前までの光一郎だったら、そんなことないよ、とかかっちゃんのほうが、とか言ってた」
「今まで一番良かった、って自分でも思ってるからかも」
「そっか」
よかった、と小さく囁くかっちゃんは、どこか脆く、後悔しているときの顔をしているような気がした。何も言えずに、かっちゃんがぼんやり見つめている海を一緒に眺めるふりをする以外、どうすればいいか選択肢すら思い浮かばなかった。
海にはしゃいでいる市大のみんなをぼんやり眺めながら、いろいろな話をした。すこしだけ生えてきた髪の毛が日に焼けてちくちく痛むのが気になって居たら、大前がさりげなく帽子をかぶせてくれた。
「お互い、悔いが残っちまったな」
このまま、野球を辞めたくない。それだけはかっちゃんも俺も、同じ気持ちだろう。
「そういえばさ、この前言ってたかっちゃんは俺の憧れ、って何」
茶化すときの顔をして、顔を覗き込んできたかっちゃんを軽く小突く。なにかうまいこと言って躱そうとしたが、語彙が追い付かない。それに、かっちゃんは俺がごまかそうとしたらわかってしまうだろう。
「あれはぁ、あのね」
「うん」
「言葉にしにくいなぁ……」
「ゆっくりでいいから、知りたい」
なんだか照れくさくて、かっちゃんの顔が見れない。
「ずっとね、背中ばっかり追いかけてたんだけど、ほんとは隣で、競いたかったんだ。近くに目指すハードルとか、こうなりたい!って目標が無かったら、俺はいまも弱虫のままだったと思うんだ」
黙って聞いてくれているかっちゃんの視線がチリチリ刺さるようで、顔が熱い。海にとびこんでしまいたい。し、とりとめがなくて分かりにくいと自分でも思う。俺らの夏は終わったとはいえ、まだ気温は三十度以上なのだから、暑くて当たり前だろう。
「だからさぁ……憧れなの」
「へ~ぇ」
口調はからかっている風だけれど、表情は優しくどこか照れている風でもある。長年そっとしまっておいた気持ちを馬鹿にされたら、と心の隅で疑っていたが、相手はかっちゃんだ。そんなことするはずがない。
「でもさ、結果として、光一郎の方がすごかったじゃん」
「そういう問題じゃないの」
釈然としない、といった表情で見てくるかっちゃんに、もうこの話は終わり、と言ってもなかなか解放してくれない。
「結果とかそういうんじゃないの、心の支えみたいなものなの」
これでほんとうに終わり!と言ってひざ下だけ海に入った。こんなに太陽が照りつけているのに、水は驚くほど冷たい。
「冷たくないか?」
「……冷たい」
「やっぱり」
沈黙ののち、かっちゃんは、そんな大層なものだったなんて、思いもしなかった。と呟いた。
「俺はさ、やっぱり心のどこかで光一郎が頼りないもの、って意識が抜けてなかったんだろうけど、全然そんなことなくて、でもなんでかな、それがなんとなく寂しい」
今までずっとかっちゃんの強い面しか見てこなかったぶん弱さを見せてくれるようになって、なんだかかっちゃんをもっと知れたような気がして、かっちゃんはきっと悩んでいるのに、なんとなく嬉しい。
「なに嬉しそうな顔してるんだよ」
「だって、なんか、初めて見た気がする。かっちゃんのそういうとこ」
「そうか?」
「そうだよ、ずっと、気を遣ってたのかもしれないけれど、弱いところ見たことなかったから、ずっと支えてくれていたから、今度は俺がなんとかできるかもしれないって」
「そっか、本当に、前とは違うんだな」
「う、うん、多分」
「そこはそうだよ!って断言するとこだろ」
そういうところは簡単に変わらないものなんだなぁ、って笑ってくれて安心した。かっちゃんが笑ってくれていると安心するのは多分小学生のころからずっとだから、今後も続いて行くような気がする。
「ねぇかっちゃん」
「なんだよ」
「これからもし、かっちゃんにカノジョができても、時々はこうして会ってね」
「何言ってるんだよ、あたりまえだろ?親友で幼馴染なんだ、どんなつまんない用事でもいい、繋がりはあるよ」
「そうだよね、安心した」
親友、という言葉にはどうにも胸が騒ぐ。こんなに信頼していて、大好きなのに、親友。親しい友達。じぶんの心の中のわだかまりは、そっとしまっておくべきのわだかまりだろう。俺は今まで、かっちゃんと競い合いたかったはずなのに、今はなんだろう。かっちゃんの何になりたいんだろうか。
「どうした、光一郎」
「ううん、なんでもない」
ほんとうになんでもないのか、と言うときの目が、この時ばかりは心苦しい。今までは、いじわるされてないか、とか、本当に辛くないのか、嫌じゃないのか、っていうときの目だった。けれど今は違うように感じる。かっちゃんは、俺の思ってること全部知っていて、浅ましい、俺は親友だと思っていたのに、軽蔑した。と言わんばかりの目をしているように見える。
「そっか、大前がかき氷食いたいって。お前もなんか食う?」
「うん、一緒に行く」
「だな」
「パピコ二人で分け合うとか、仲いいな」
「フツーそれカノジョとかとやるだろ」
何気ない一言が、じくりと刺さった。いつかかっちゃんが、カノジョと二人、分け合っていたら。
「そうか?俺いままでずっと光一郎と分けてたからカノジョとか想像つかない」
「へぇ~なんかいいなぁ、そういう信頼関係」
「だろ」
信頼が、今は嬉しい。
「どうした、なんか顔が怖いぞ」
「そうだぞー丹波ーお前ガタイ良いから表情暗くなるとめっちゃ怖いぞー」
「ご、ごめん」
「謝らなくてもいいだろー……チャーシューやるよ」
「俺はピーマンをやろう」
「大前、お前はピーマン嫌いなだけだろう、光一郎もピーマン嫌いだよ」
「もう大丈夫になったよ」
「偉いな丹波……こんなカッコいい幼馴染がずっといたんだろ丹波、こんなん惚れるよなぁ」
深いかかわりがあったわけではない人に見抜かれていて、ゾッとした。そんなにわかりやすかっただろうか。あいまいに流したけれど、流れてくれてよかった。確かにかっちゃんのことは大好きだけれど、どういう意味の好きなのか、自分でもよくわからないうちにさらけ出すことにならなくて安心した。
夕暮れの海は、皆の心のしみる何かがあるのだろう。
誰も何も言わずに佇んで、太陽が消え入るのをぼんやり眺めている。だれともなく、帰ろうか、と言って冷房が効いた電車にのそのそ乗った。片瀬江ノ島からの上り電車は思った以上に人が居なくて、感傷的になるにはもってこいの雰囲気だった。
「野球、したいなぁ」
「あぁ、またどこかで、戦ったり、一緒にプレーしたり、しようなぁ」
叶うか叶わないかは別にして、今だけは見えない未来に不確定の約束を投げ出していたい。ほんとはもっと、高校生として野球をしたかった。その思いだけは皆共通して持っているはずだ。
かっちゃんと、市大三のみんなは町田で降りていった。町田から新宿、新宿から国分寺まで一人で帰る。さっきまでが騒がしかったので寂しくて仕方がない。もう寄りかからないと決めたはずなのに、心のどこかでかっちゃん、と言っている気がする。
控えめに震えた携帯電話には、メール受信、かっちゃん。とある。そんなに都合の良いふうにできているのだろうか。
『さびしくてビービ―泣いてるんじゃないか』
『さびしかったけど、泣いてはない』
『そっか、うん、また今度、二人で会おうな』
『うん』
なんだか付き合っているみたいだ。
かっちゃんに大切に思われているってことが嬉しくて、信頼している人と会うことが楽しみで仕方がない。かっちゃんはやっぱりすごい、と一人合点する。
すっかり忘れるところだった受験の参考書を見て、家路につく。先輩たちが置いたままで卒業した参考書と同じものが欲しかったのでちょうどよかった。色とりどりの参考書の山が、なんとなく将来を考えなくちゃならないような気にさせてくる。
野球部の練習ばかりでところどころ赤点をとってしまった、わからないところがある。かっちゃん、とメールをすると間をおいて帰ってきた。
『ね、勉強会しようよ』
『いいじゃん、今週の土日、親出かけるし、勉強合宿だ』
『やった』
今までのかっちゃんちに泊まりに行くときの楽しみ、とはまた違う楽しみを感じている自分に驚いた。今までとは違う大好きのままでかっちゃんを見ているときのほうが、よかったのかもしれない。
根を詰めて受験勉強に向かってみると、同じ会場で、同じ問題を解いて結果を競わなければならないと思うと、青道の皆や、市大三の皆とまた、野球やろう、が随分遠く思えてしまう。大学に入らなくても、野球はできるじゃないか、と自分を甘やかす考えが出てきてしまう。
「光一郎は、何が苦手?」
「数学、公式は覚えてるはずなのに過去問になるとわからなくなる」
「うーん、昔、円の面積でもそんなこと言ってた気がする……公式を読んで覚えたつもりになってて実は基礎ができてないとか」
「かも……学校の問題集やりなおしてみる」
「だな」
「かっちゃんは苦手な科目ないの?」
「古文」
「いとをかし」
「うん、まぁ、えーと、そんな感じ……」
思ったことをすぐ口にして不思議がられてしまった。すっかり温くなった紅茶を一口飲んでまた問題に向かう。
◆
光一郎が何か言いたいときの話し方をしている。でかい図体を小さく丸めて、もくもくと数学の問題集にとりくむ姿は、中学のときと変わっていない。そのたびに俺の母親に背筋が曲がってる!と注意されていた気がする。
「かっちゃんは、不安じゃない?」
「何が」
「今まで、俺たちが野球をしてきた時間を勉強に費やしてきた人たちと、試験問題が一緒なんだよ?」
「野球と同じだよ、ウダウダ悩む前にやる」
「……やっぱり、かっちゃんはすごいや」
「すごくなんかない、光一郎よりすこしだけ屁理屈捏ねるのが上手いだけだよ」
「そういうんじゃない……」
塗装が剥げた何かのオマケのストラップをいじって、思考を纏めようとしている。
「俺は、お前が思ってるほどすごい人間じゃないよ」
自分から自分の価値を提示するのは勇気が要ることだけれど、仕方ない。光一郎が俺より高い目標を見るためには必要なことだろう。
「自分で、自分のことを見るのって勇気がいるし、後悔してるって口にするのも怖かったけれど、かっちゃんはそういうことができるじゃん、そこがすごい」
「……あぁ、そう?ありがとう」
熱弁されてしまい、しどろもどろに返すしかなかった。
集中していて気付かなかったが、そろそろ夕食の準備を考える時間になっていた。カレーの材料の買い置きと、サラダの材料の作り置きがあった気がする。栄養面を考えても、完璧ではないが、悪くもないだろう。
「光一郎は、じゃがいも剥いて」
指先には気をつけろと三度繰り返すと、素直に三度返事をしてくれた。具材を適当な大きさに切って、炒めて、ルーを入れればそれなりのものができる。それでもおいしいおいしいと食べる光一郎は、自分の掌のなかに居たような気がしていた光一郎と何一つ変わっていないような気がする。実際は、俺がそう思いたいだけで光一郎は、これからも俺の思い出の中の光一郎から変わってゆく。
過去にとらわれていて変われなかったのは、俺の方かもしれない。
食器を洗って、教科を変えてまた勉強。
俺も光一郎も単語を覚えるところから始める。光一郎が言っていたように、遅れをとっていることに間違いはない。が、焦って難しいものに取り組んでも時間がかかるばかりなので学校準拠のテキストからこなす。
「光一郎、先に風呂入って来いよ」
「風呂入ったらすぐ眠くなるから、かっちゃん先にして」
「わかった」
中学のころまでは、ガスがもったいないから二人で入っちゃいなさい、と入れられていた。精通の相談をされたときが一番困った思い出が甦ってきた。白いおしっこがでた、とぐずぐず泣く光一郎を一度ネタにしようとしたが、耳まで真赤になって、消え入りそうな声でごめん、と言わせてしまってから、そうもいかなくなった。
「上がったぞ、後は暗記にすればいいじゃん、入ってこいよ」
「うん」
今日一度も音を上げずに勉強していた。相当焦っているのだろう。上がったら、アイスあるぞと言うとすぐに席を立って風呂場に行った。消しカスを捨てて、勉強道具を片付けて暗記テキストをひっぱりだす。付箋や赤線だらけの単語帳をひとり眺めていると、焦りを感じる。やるしかない、とはわかっていても今まで野球しかしてこなかった自分が、などどマイナスのことばかり考えてしまう。光一郎には取りつく島もなく偉そうなことを言っておいてこれだ。光一郎が言う、すごい、がいつから辛くなってしまっていただろう。
「何味がいい?」
「イチゴ」
「うん、ほら」
「ありがと、かっちゃんはチョコミントでしょ」
「光一郎がキライなチョコミントだ」
「キライじゃないけど……辛い」
「わかったわかった、ほら、スプーンとって」
「うん」
一人ひとつのカップアイスが与えられるようになったのも中学を卒業してからだ。それまでは二人で一つ。それが当たり前だと思っていたが、世の中ではカノジョらと分け合うらしい。まだ恋愛のことは分からないけれど、光一郎ほど信頼して心許せる人に出会えるのか、と漠然と考える。ちまちまスプーンの先でアイスを掬う光一郎を横目に、光一郎に英単語帳を押し付ける。
「光一郎、歯ブラシ持ってきたか?」
「うん」
「えらい」
えへへ、随分可愛らしく笑う光一郎の頭を、いつもは高いところにあって届きようもない頭をショリ、ショリと独特の触感と音をたてて撫でる。
「随分生えてきたんだな」
「伸びたって言ってよ……」
「うんうん、伸びた。決勝戦のときはツルッツルだったな」
「うん」
こんなところでも時間の経過を実感してしまって嫌になる。布団を敷きに行こう、と促して和室に二つ布団を敷く。シーツを敷くときいつもシーツを高く放り投げて下に入って、遊んでいた。一度電灯にひっかかってからはしなくなった。
「電気消すぞ」
「うん」
「ちっちゃい電球つけておくか?」
「大丈夫」
「へぇ~……」
「もう、高校三年生だよ」
「だな」
大人しく布団にもぐりこんだ光一郎を見て、暗いところ狭いところ、怖いところが多かった光一郎もいなくなった、と自分に言い聞かせた。
「でもね、かっちゃん」
「何だ?」
「どんなに、いろんなことができるようになっても、見る世界が広くなってもね、俺はかっちゃんのこと、一番大切」
どんな顔で言っているのか、見たいようで、見たくない。冗談ぽく言っているのか、それとも真面目な顔しているのか、知ってしまったらいけないような気がした。布団の上からやさしく肩をなでで、おやすみ、とだけ言った。
溶き卵をご飯にかけて、醤油を適量。
調理という調理ができないのと、面倒なのを解決してくれる。昨日のことが気になって寝付きが悪かった。当の光一郎は醤油をいれすぎたらしく、顔を顰めながら食べている。確かに、この、親でも兄弟でもないのに、大切で、大好きなものを言葉にするとしたら、大切、という言葉が一番合っているような気がする。
「じゃあ、ありがとねかっちゃん」
「うん、また来いよ」
「うん、おばさんにもよろしく」
「わかった」
光一郎は、チームメイトのもとに帰っていった。少しだけ広くなったような気がする自室に一人、何気なく辞書で大切、と引いてみる。もっとも重要で、重んじられるさま。小難しいことを書いてあるが、俺が今まで光一郎に抱いている感情をさすのだろう。きっと。
この気持ちは変わっていない。何が変わっても、これが変わらなければいい。辞書を二人分の布団の上に放り投げて、大切、と口に出してみる。照れくささと、なにかを手放してしまったような焦りがジワリと染み入る。
今度は光一郎とキャッチボールでもしよう。その頃には俺たちの夢は思い出になっているだろうから、僻んだり、感傷的になったりすることもないだろう。
===
多分再録だけど発行年不明
About
ここは非公式二次創作小説置き場です
悪意のある書き方でなければ、TwitterをはじめとしたSNSへのシェアOKです
夢とカプが混在しています/#夢小説 タグと#カップリング タグをつけていますので、よきに計らっていただけますと幸いです
Owner
みやこ 成人/神奈川への望郷の念が強い
箱(waveboxへ飛びます/めちゃまじコメントうれしい/レスはてがろぐ) てがろぐ(ゲロ袋/ブログ/告解室)Input Name
Text
タグ「まなたん」を含む投稿[1件]