ヴィクトルは、いつも私を驚かせる天才だった。
というのも、いつも思いつきで行動しているとしか思えない言葉の数々からしてそう表現する以外にないと思う。
ただ、大人になればなるほど言葉に責任と言うものがまとわりついてくるということを、彼は学ぶ機会がなかったようだ。それも、あれだけ美しく生まれ、生命力の発露ともいえる演技を必死さをかけらもにじませずやってのけるのだから、周りの人間は彼の人間性に目が向かないほどの光にあてられて、そんなこと思い至らなくなってしまうのだと最近思い当たるようになった。
私もその光に当てられたひとりで、数か月の時間を経て彼の人間性をいとおしむ日々に慣れてきたそんなときに、冷水を浴びせるような言葉を明日の天気の話をするときよりは若干真面目に離す彼の言葉のひとつひとつがにわかに信じられなかった。
それは彼にとって、私に嫌がらせがしたくて言っているのではなく、どちらかというと子供が信頼できる大人に向かって相手が許してくれる範囲でじゃれる、そんな行動の一種だと日々の関わりの中でわかっているはずなのに、それでも、この発言は受け入れがたい。

「…………今、なんて?」
「ユウリのコーチになりたいから、日本に行くよ」
「その、えーと、ユウリくんは、知り合いなの?」
「うーん、知り合いと言えば知り合い。ダンスもしたしね」
「はあ?」
「でも平気」
何が平気なのか知らないけど、心配している風にも、冗談で言っている風にも、ましてやスケートを諦めたくて自棄になったわけでもなさそうだ。先日、スケート選手を休むと宣言したばかりで何をするつもりだろうと思っていたけど、これだけ早く道を見つけたのなら、休業宣言の時にもうある程度考え付いていたのかもしれない。
ただ、あまりに急すぎて言葉を失ってしまう。彼には彼の考える道があるのだろうと楽観的に考えている反面、コーチをすると言うことは、つまり

「じゃあさ、別れ」
「それはない。 で、これは……その、お願い」

常に自分に自信を持って、周りの何にも配慮をする必要が無いとまでは言わないけれども、それなりに自由に生きている彼が物憂げに俯いて、お願いだなんて言うのは珍しい。というか、何かに執着すること自体が珍しい。
それほど深刻なお願いをしようとしているのかと身構えてしまう。
「加奈子も一緒に」
「無理に決まってるでしょ、仕事どうすんの」
「お金なら平気だよ、ちゃんと貯めてるし」
「そう言う問題じゃない、私だって気に入ってる仕事なんだから」
「そっか……」
不服そうにむくれてみせるところなどメディアに見せたことがあっただろうか。冷たい王座に座るは冷たい心を持った王だなんて思われていそうなくらい完璧な彼がコロコロと感情を動かしているのを見るのもいいが、結論を出さないとならないことだろうから、頭ではどうしたら一番いいか試算をめぐらせる。

「絶対帰ってくるから、待ってて」

自分の呼吸がやけに大きく聞こえる。
すぐに、うん、と答えてしまえたらよいのだろうけど、コーチになって何年居ることになるか、この件のように急に別の人に……なんていう話もありえなくはないだろう。だろうけど、いつも余裕を失わない彼が私の目を見てはいるものの、否定されるのが怖くて今すぐ逸らしてしまいたいと顔に書いてあるヴィクトルが珍しくて、黙り込んでしまう。黙っている時間が長引けば長引くほど不安にさせるとはわかっていても、軽々しく肯定を返せない。この一言が自分を、そしてヴィクトルをも縛ってしまうような気がしてしまう。
それにいつまで待っていればいいかもわからない口約束を信じ切ってしまってよいのだろうか、と疑念が後からあとから湧いて出てきてしまう。

「そ……その話は後にして、先にご飯にしない?」
我ながら最悪の話のそらし方だけど、他に思いつかなかった。ヴィクトルは怯えを含んだ表情を引っ込めて、よそゆきの顔の戻して、そうしようか、とだけ返事をした。明らかに機嫌を損ねた(決死の告白から逃げたのだから、あたりまえと言えば当たり前だが)様子で食事の準備に取り掛かる。栄養満点だけど簡単な作り置きたちを手際よく温めて、二人分の食事を整える。

最悪のタイミングで話を逸らしたとはいえ、簡単に応えれるようなことじゃないだろう。
少しばかり結婚だなんだって考えることも増えてきた矢先にこれだからとまどっているのだろうけど、それを言うのも何と無く気恥ずかしい。沈黙のなかもすもすと食事を胃につめこんで、今日することがほぼ終わってしまう。ヴィクトルはどうしたって行くつもりらしく、だだっぴろい衣裳部屋にこもって荷造りを始めた。
一人、これまた広いリビングに取り残されてどうすればいいのよ、とつぶやいても返事があるはずもない。どうすればいいかなんて自分で考えて決める以外にないのに、立て続けに選択する必要があるときに限ってただ立ちすくんでしまっている。外は寒いのにひどく汗ばんだ手のひらを意味もなく握って開いて、やっぱりあの言葉もすべて現実だったと認識しなおす。

意を決して、何か言葉を交わそうとドアノブに触ったりを繰り返してどれほど経っただろう。私はこんなに意気地なしだっただろうか。
室内でスリッパが床を擦る音が聞こえて、静かにドアが開いた。少しだけ高い位置にあるヴィクトルの表情を極力見ないようにしてドアをすり抜けるようにして散らかった衣装部屋に入る。
「なにこれ、全部持ってくの?」
まるで私から逃げる見たいじゃない、なんて言葉をどうにか押しとどめて努めて明るく言葉をかけた。
「もっていくわけじゃないよ、整理して、捨てる物は捨てようかなって」
「やっと整理する気になったの?」
「うん」

整理するついでに関係も整理しよう、なんていつもと変わらないよそゆきの笑顔で言われたりしたらしばらく引きずりそうだ。私の心模様を写したような曇天からひとつ、ふたつと糸が垂れるように雨粒が落ちてくる。雨だなんて珍しい。すぐに雪に変わり、彼が発つ頃には雪に変わっているだろう。
「出会ったころもさ、こんな雨の日だったけね」
「そうだね……すごく寒い日なのに、雨で」
「珍しいですね、って言いあったっけね」
「そうそう、で、ヴィクトルは最初自分がスケート選手だって一言も……言わないで……」
「……」

私が何か切り出すために別の話題を振ったことくらいバレている。
その冷たい色をした瞳に映る私はひどく情けない、みじめったらしい顔をしていて自分に同情したくなる。

「いつまでかなんて、わからないよね」

「そうだね、でも今のところ一年を考えてる」
「そっか……」
予定は未定、だなんてよく言ったものだ。誰も先の事なんてわからない。もしかしたら心変わりするかもしれないのに、重たく考えすぎなんだとは思う。けれど互いの執着の行く末が互いである限り、喪いたくない一心で適当なことを言う気にはなれなかった。重苦しい沈黙が垂れこめ、ヴィクトルは私の言葉を待っている。

「頑張って、行っておいでね……ここで待ってるから、おかえりが言いたいな」

途端さっきまでの陰鬱とした雰囲気が嘘のように晴れて、にこやかに触れてくる。嬉しい嬉しいとマッカチンがするように鼻先をこすり付けてくる二十八歳の男が、惚れた弱みかかわいくてしかたない。こんなこと外でやっているんじゃないかって心配になるけれど、そんなことはメディアから仕入れる情報のなかでは無い、と思う。
「信じてくれないかと思った」
「いや、そんなに重く考えてない……ただ、いってきます、には おかえり、って返したいなって思っただけ」
「そうして! 勇利がGPF優勝するところ、楽しみにしててね」
「はいはい」

夢を語る彼の瞳は、写真で見る彼の幼いころのままだ。そのやわらかで擦れてない感性を研ぎ澄ませるために必要な一年がどうか有意義で、彼にとって実りあるものであることを祈るばかりだ。あとは、風邪を引いたりしないように。

彼のSNSを見る限り、なんとかうまくやっているらしい。桜の下で笑顔でマッカチンと写真に納まっているということは、誰か親しい人が撮ってくれているはずだから。その親しい?人は勝生勇利くんというらしい。何やらヴィクトルにあこがれていた人らしく、最初こそ戸惑いはしたもののなんとか受け入れて日々研鑽に励んでいるらしい。
ヴィクトルの同門で、今季からシニア大会に参戦するユーリ・プリセツキーくんと誰のコーチをやるか争うなど一悶着あって、長谷津でのコーチ生活続行というくだりになったらしい。
あんなに気持ち落ち込んだし感動的なしばしの別れを経たのに数か月で返ってくるというのもなんとなく、いや、帰ってきたら嬉しいんだけども、彼に憧れた人のスケート人生を大きく変えてしまうだろうからこのままでよかったのかもしれない。

彼が技術提供しているとはいえ、他人様の家に転がり込んで上手く溶け込んでいるというのだから、彼の持つ天賦の才能というべきか、人間離れしたずうずうしさというべきか。彼の親ではないので踏み入ることはしないが、少しだけ心配だ。
私は私で仕事に家事に追われている。ほんの少ししか過ごせないとはいえ、一人人手が減るということは日常を円滑に動かすためのあれそれ……掃除、炊事、洗濯なんかもひととおり滞ってしまっているし、夜間の外出も危なくてできなくなった。一人心細い反面、突拍子もない行動をする人がいないと手間がかからないが、居ないと居ないでなんとなく欠けているような気がする。

ただ、そろそろあれの脳味噌に時差というものを刻んでほしい。
「……」
「……加奈子?」
「加奈子、じゃないんだけど……今何時だと思ってんの?」
「え? あー、ごめん!寝てたよね」
「ええもう、それはもう」
「元気にしてた?」
「まあね……」
「離れて初めて、誰と居てもなんとなく寂しい感じがする」
「珍しい、ヴィクトルの口からそんなことが」
「加奈子は俺のことなんだとおもってるの」
「なんだろう……超人、っていうのはカートゥンの世界のアレじゃなくて、人を超えたなにか」
「なにそれ」
「でもやっぱり、性格面で人間らしいところがあるかな……意外と間抜けで、愛嬌あるし」
「褒めたいのか貶したいのかわからないよ……」
「両方かな、次はどこいくの?」
「わからない、日本の国内大会からスタートなんだって」
「ヴィクトルにはあまり縁のないことだね、国内大会」
「そうなんだよ、でも勇利の晴れ舞台だからスーツも靴も新調したよ、ネクタイは前に加奈子がくれたやつ」
「あんまりでしゃばるんじゃないよ、勇利くんの大会なんだから」
「なぜ? コーチがみすぼらしい恰好で行くわけにはならないじゃないか」
「……そうだね」
自分の美しさやスケートでの名声が勘定に入っていないわけではないだろうにこの言いぐさ。
唯でさえ目立つのに、その、勇利くんとやらは心労で辛い思いをしていないか心配になってしまう。

「加奈子が元気でやってるなら、心配ないね」
「ヴィクトルも、身体を壊したり食べ物が合わないとかじゃなさそうでよかったよ」
「うん、それは平気。いつか加奈子も長谷津においでよ。カツ丼、すごくおいしいから」
「へえ、いいねえ」
「それに、桜……なんか、もちろんサンクトにも咲いているけど」
「そうだね、見てみてみたいな」
「それじゃ、寝てるところ邪魔してごめんね」
「いいよ、次からそっちの20時までにかけてくれるとありがたいかな」
「そうするよ」

ぽろん、と無駄にかわいい電子音が久しぶりの会話にピリオドを打つ。
ヴィクトルが、私が居ないと寂しいだなんて言うとは思っていなくて目が覚めてしまった。別に誰と居てもいい、くらいの淡泊さが昔の彼にはあったように思えたし、そういったところに最初魅かれたからこそ驚きが脳味噌を満たす。
そういった驚きも眠気によって均されてしまう。
とりあえず元気そうだし、別れを切り出すつもりもなさそうで安心した。

いまはただ おもいたえなむ とばかりを

感動的な、今から思い返してみればドラマか洒落た映画みたいな言い回しがポンポン飛び交う不思議なやりとりだったと思う。人はロマンスだけを食べて生きてはいけないのだ。

私は唇へのキスは恋人のためのものだと思っていたから、彼が彼の弟子の唇にキスをしたと耳にしたとき、指輪を交換したと聞いたとき頭をよぎったのは怒りではなく、やっぱり、という諦念だった。
やっぱり、ヴィクトルは愛だの恋だのそういったことに理解が深くない。
というか、少なくとも私が考えているものとは違う。そういったヴィクトルの異質な所ばかりが目立ってしまっている。

家に帰ったらヴィクトルのアパートに持ち込んだ私物の所在を確認しなければ、と嫌に冷静なところも私がかわいくない、と判断されてしまうかもしれない一因だろうけど、今となってはもうどうでもよくなった。きっと私と彼は終わったのだろうし。

別に男性と付き合うことが悪いといっている訳ではない。人が人を好きになるという心理は極力自由であるべきだと私は思う。
けれど、それは自身に故郷に残してきた恋人が居ない場合に限る。ついさっきまで信じて待っていた自分が悪いような気になってしまうが、悪いのは変に期待させておいて、裏切ったヴィクトルのほうだ。

都度フォローがあったらまだ考えたかもしれないが、なんの弁解も謝罪もなく、能天気な調子で私の健康を気にして見せたりするのだから、ヴィクトルという人間がますますわからない。あまりに考え方が違いすぎてついていけなくなったというのが正直なところだ。
人を好きなるのは悪いことではない、親愛のキスをすることもある。自分でも考えが上手くまとまっていないのに別れを切り出そうとしているのはマズイんじゃないか、と自分でも思う。けれど一度疑い始めてしまったら止まらない。

まるでティーンみたいなやり口だけど、私はもう耐えられなかった。
メッセージアプリで、「もう別れましょう」とだけ送り、あとは連絡先を全てブロック。全然スマートじゃないけど、繕っている余裕はなかった。

送る前は手が震えるほどのためらいがあったけど、終わってしまったらとってもすっきりした。
まだ好きだったのかもしれない、それは否定しないけどもこの寂寥感も嫌いじゃない。し、間違った判断をしたらそのときからリカバリーできるよう全力を尽くすだけだから、後悔は無い。

最後くらいはヴィクトルは驚いてくれるのだろうか。それとも彼が今までの女性に(時に男性)にそうしてきたように、なんでもなかったようにメッセージごと連絡先を消去するのだろうか。忙しくて責任ある立場の彼のためを思うなら、そうしてくれた方が気楽でいいんだけど。
ただ、一つ残念なのは彼のファンとして、再び氷上に戻ったヴィクトルが見たかった。
あれを見てしまったら難がいくつあってもチャラにしてしまって、多分今は後悔ばかりだろうから、このままで良いのかもしれない。

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長谷津の露天風呂とは比べ物にならないくらい小さく、それでいて洗練された風呂から上がってスマートフォンを確認すると文字としては認識できるのだが、頭が文字通り真っ白になってしまって考えがまとまらない。勇利にコーチ契約の解消を求められてからそんなに日が経っているわけじゃない。つづけて親しい、と思っていた人たちから手を離されてしまうように思えて、俺は生まれて初めて喪失ってやつを味わった。今まで自分に注がれていた愛を認識できずにいた哀しい男の末路さ。笑ってくれてもいい。
何故、と聞きたくても連絡がつかない。おそらくブロックされてしまったのだろう。それにしても自宅の電話線を抜いてしまっているだなんて徹底している。それほどに俺とはもうやっていけないっていうことなんだろう。

一人つめたいシーツに横たわり、水滴がシミを広げていくのを気にするほど心の余裕はない。
悲しいや苦しい、の先に空虚な気持ちが沈殿し何をする気にもなれない。俺は今ここにコーチとして来ているというのに。そんな沈みきった気分のなか、スマートフォンが鳴る。クリスの名前が画面に表示されている。

「……はい?」
「何その声、ヴィクトル?」
「そうだけど」
「これからランチにでも行かないかなって。勇利は寝てるだろ?」
「そうだね……行こうかな」

ロビーに降りると、ブランドもので飾り立てている風には見えないが、実はイイもので身を包むと言う一番センスのよい着方をしたクリスが茶目っ気たっぷりに手を振っていた。
「来てくれないかとおもった」
「まあいろいろあってね」
「うわ、何?どうしたの……?なんかすごく、トゲトゲしい」
「俺が?」
「うん、それに今まで見たことないくらい険しい顔」
「えー、それほんと!?」
「そうだよ、何かあった?」
「あった、でも食事しながらがいいな」

これまたこじゃれているものの気取りすぎないイタリアンに連れてこられた。適当な恰好をしてこなくてよかったと胸をなでおろす。このバルセロナ、とくにホテル周辺は人目を気にしながら生活しないとならない。

「で、なんなのその」
「フラれた」
「……あらら、でもそんなにショック受けてる風に見えるの初めて」
「俺も……誰かがもう俺と一緒にいてくれないっていうので、こんなに悲しいの初めて」

なんだかティーンみたいに友達にぽろぽろと自分の抱えている恋の話をしてしまえている。今まで同年代のライバル以外の存在には恵まれてこなかったと思っていたから、新鮮な気持ちで自分の気持ちをどうにか言葉にしている。俺が気づいていなかっただけで、捨てたと思っていただけでほんとうはloveやらlifeやらに囲まれて過ごしてきたのかもしれない。

「……加奈子がもう俺と一緒にいてくれないっていうので、こんなに悲しいの初めて」
「初めての失恋、かな」
「多分そう……でも終わった恋にはしたくないよ……」

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あのヴィクトルにもなって恋が上手くいかないと落ち込むところを見れてしまったなんて、役得なんだか、そうじゃないんだか。いやでも、本人は心の底から悩んでひどく落ち込んで、ブロックされた恋人のSNSのアイコン写真をずっと眺めているヴィクトルを見たらなんとかしてやりたい気持ちになった。
それに意外とこの、冷たそうに見える彼もそうやって大切にする人がいたんだと思うと、彼が俺と同じ人だったと再認識できる。
「俺が思ってたヴィクトルらしさ、ってものが簡単に崩れちゃったな……終わったか終わってないか、それを決めるのはヴィクトルじゃないよ、二人で決めるんだ」
「そっか、ありがとうクリス」
「どういたしまして」
「帰ったら結婚しようと思ってたから丁度いいや、指輪を買って帰ろう」
思わず飲み物が気管に入り、無様にもむせてしまった。
「え、けっ、結婚?!」
「ええ?そんなに驚くこと?」
「勿論……だって、ヴィクトルがただ一人の人に入れ込むだなんて、信じられない」
「そんなに……?」
「うん……きみ、どちらかというと言い寄られるがままで、去るひとを追っているところを効いたことがないよ」
「そうだっけ……」
「そう聞いてるけど」
指輪を買おうと決めたら行動は早いらしく、さっそくケタが多すぎて数えるのに時間がかかるサイトをぼんやり眺めている。そうするのが落ち着くならそうしておいてもいいだろうけど、ユウリが目覚める前に返さないと悪いような気がするから、すっかり魂が抜けたようなヴィクトルを連れてどうにかホテルまで戻った。

「指輪買うってもさ、相手の合意もないのにサプライズとかやったら逆効果じゃないかな」
「まだやってないだろ〜」
「やろうとしてただろ、現役復帰に合わせてとか」
「うぅ……」
「するんだ、現役復帰」
「まだわからないけど、するとしたらそこ、とは思ってた……」
「やっぱり」
「とりあえず、会って話すよ」
「そうするといいよ」
それじゃあまた、と軽い挨拶をして別れた。きっとこの後練習やら何やらするのかもしれない。今はコーチだと自分に言い聞かせてもヴィクトルの現役復帰の可能性にうち震えてしまうが、今の俺は目の前の大会に集中するだけだ。

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別れたはずのヴィクトルが映っているかも、ではなく純粋に彼がスケートリンクから降りた結果生み出したものに興味があった。勝生勇利というひと。黒と濃紺を基調にした衣装がとってもよく似合っている。
彼のスケート人生を表した曲で、ピアノの旋律が重なり合うところでヴィクトルがコーチとして現れたということを表しているそうだ。何の連絡も無しに彼の実家を訪ねていったらしいから、もっと大騒ぎかと思えば彼の人生はそこで大きく慌てはせずに穏やかに流れてゆく。まるで予定調和、といわんばかりの緩やかな旋律にに使わない技巧は見る物を惹きつけて離さない。これを見てしまったんだね、ヴィクトルと答えのない独り言が漏れた。
彼を支えたものすべての、あこがれの強さを束ねて彼は穏やかな表情を崩さず滑る。
ヴィクトルの表情を見る限り上手くいっているらしい。よかったね、勝生さんとの出会いが特別なものだったことと、ヴィクトルのスケート人生により深みが増したのだと、彼の成功が自分の成功のように喜ぶヴィクトルを見ていてわかる。彼はいままでそんな表情をしたことがなかった。いつもうまくいってあたりまえ、彼自身もそれを受け入れて時につまらなそうな顔をして滑っていたことを覚えている。

なにより、同じとまではいかなくても、同等レベルで成功を喜び合う相手が出来て本当によかったと遠い異国で笑いあう彼らに惜しみない拍手を送った。おめでとう、素敵だったよ、と。

結局、優勝は彼のあとに滑った若い……まだ少年といった風貌の金髪の子だったが、勝生さんは勝生さんで素晴らしい滑りを見せてくれた。二人で滑ったエキシビションも、二人で作り上げた今季の勝生さんの集大成の余韻を、現在もトップスケーターとして認識されているヴィクトルが盛り立てることで、より磨きこまれた作品となって見る者に届けられた。

彼らのグランプリファイナルはここで幕を下ろす。けれど誰一人としてあそこで歩みを止めはしなかった。勝生さんは引退を考えていたが、撤回すると言うし、ヴィクトルは……

====

「わ、やっぱりロシア寒い」
引き抜いて少ししたら不便でしかたたなかった電話線を戻してしまったが運の尽き。一度電話に出てしまって彼らしくないしおらしい声を何度も聞くうちに、少しだけ会いたい、という言葉に折れて、こうしてわざわざ空港まで迎えに来てしまった。
スタッドレスタイヤが雪を踏みしめる独特の音だけが車内を満たす。沈黙をとくに気にした様子はない。

「加奈子、ユウリの滑りみてた?」
「見たよ。綺麗だった」
「でしょ? 俺が見込んだ通りだよ……」
「そういう話しにきたの?」
「いや……あの、それなんだけどさ」
「なに、珍しいね。その歯切れの悪さ」
「これからスケートリンク予約してあって、見て欲しいんだけど……いいかな」
「そうなの? いいけど」
「よかった、じゃあここにナビセットするね」
そしてまた沈黙。
珍しい。ヴィクトルが自分の演技を見せたがったことがあっただろうか。少なくとも、私の記憶にはない。雪にハンドルを取られないよう、慎重に運転する。

リンクにはだれもいない。それもそのはず、グランプリファイナルをはじめとしてスケートシーズン真っ盛りの今、辺鄙なリンクで誰も滑ろうとは思わない。皆思い思いの大会へ発ったはずだ。
そのせいかひどく気温が低く、ヴィクトルが置いていったコートを着込んでもまだ少し寒い。わざわざ服を着替えてまでやるなんて、何をやるつもりだろうか。想像もつかない。

「おまたせ」
「いやそんなに…って、それ」
「懐かしい?」
「いやそうでもないかな……このまえエキシビションで着てたでしょ」
「まあそうだけど……って、見てたの」
「見てたよーやっぱりスケート上手いね……」
「……ユウリのこと?」
「いや……師弟とか友情とか知らないけど、ふつうキスはしないし、指輪も交換しないよね」

沈黙。
きらきらとスパンコールやらビーズやらが光を弾いて目に刺さる。うろたえたりすることもなく、ああそんなこともあったけね、くらいの堂々とした態度を崩さない。
「人と人にはさ、いろんな関係、いろんな感情の形があると思う」
「そうだね」
「俺は確かにユウリにいろんな感情を抱いたけど、それは加奈子に対しても同じでさ……何て言ったらいいのかな……でも、俺は加奈子を失いたくないっていうのは確かだよ」
「そう、でも私の中ではキスとか指輪はね、恋人同士のものだと思ってて」
「うん、わかった……もうしないよ、ユウリがそうしたらもっといい滑りができるって言わない限りね」
「この、スケートバカ」
「知ってるでしょ」
くすくす笑いながらヴィクトルはリンクに降り立つ。皇帝の帰還に、民衆は沸き立つのは物語としてできすぎている。けれどヴィクトルが主役に据えられているなら、何もおかしくはない。

ヴィクトルのスマートフォンから流れてくる曲の前奏は、「離れずにそばにいて」のものだった。
こちらが恥ずかしくなるくらいの熱烈な歌詞にのせられる旋律の美しさに負けない、またはそれ以上に魅力的な滑りで、私を魅了する。休む前より上手くなっている。素人目に見てもそう思うのだから、本気で競技をやるとしたらまた面白いことになるだろう。
演技中間近にまで来るときも、目が離せなかった。驚きより先に、茫然としてしまって。スケートの神様がいるとしたら、彼の滑りを見せてくれありがとうと、神様のおかげではないだろうに、なにか超常の力を信じてしまうほどには、すべてを超越していた。
余韻が消えてなくなっても、身じろぎすらできなかった。文字通り目が釘付けになってしまって。どうだった、と軽い調子で聞いてくるヴィクトルに拍手で応じた。それほどのものを目にしたと確信できる。

「すごかった」
「えー!それだけー!!?」
「いやそうじゃないけど……言葉が追い付かない……」
「ふふ、よかった……で、ここから本題なんだけど」
「何? お昼とか行く?」
「そうじゃなくて……!!!あーもう、やだなあ……緊張する……」
「何よ、仕事無いの?」
「違うよ!俺、もう一回スケートやるよ」
「えっ!!!!嘘!!!すごい!!良いと思う!!」
「ありがとう……で、その……」
「何? まだなんかあるの? ヤコフさんに言った?」
「言ってない、頼むから、話を聞いてくれないか?」
嫌に真剣な顔をするから思わず黙り込んでしまった。マジな顔して迫ってくるから黙ったけど、あーとかうーとか言ってさっきからはぐらかしたり、迷ったりしている。
「話は聞くけど、ご飯のあとにしない?」
「しーなーいー!」
「あっそう……」

「あのさ……俺、いままで、愛とか、そういうものに縁が無いって思ってたんだけど、実はそんなことなくてさ……ないから、俺が愛して、慈しみたい人と家族になりたいなって思うんだ……」
まるで初めて花束を恋人に渡すティーンのように顔を赤らめて差し出した小箱に鎮座する銀の環の真ん中に収まるきらめきに、しばらく黙りこくってしまった。
「え…………?」
「えっ……あのさ、おれとさ、結婚してくれないかな……」
メディアで見てきた、余裕と言う余裕を着込んだヴィクトルとは別人みたいだ。真摯を視線に込めてこちらをみてはくるものの、顔は真っ赤。かわいいったらありゃしない。
「えっ……あのさ……」
「そう、俺が家族になりたいって思うのは加奈子ってこと……離れずにそばにいるのは難しいかもしれないけど……気持ちは加奈子と」
「わかった……わかったから……急なことでびっくりしたよ……けど、家族になりたいっていうのはわかるよ」
「う」
「うん……大丈夫だから……そんなに泣かないで」
「だって!加奈子ってば着信拒否!した!」
「あれはさあ……気持ちの整理がつかなくてさ……」
「そうなの?!でも次はしないでね……」
「わかったよ……その真赤なお鼻が収まったらご飯にしようか、綺麗な衣装が台無しだよ」
「うん」
涙声でぐずぐずになったヴィクトルが心底嬉しそうに私の指に婚約指輪をはめて、噛みしめるように掌で包んだ。いつか理解できないことが起きるかもしれない。けど人と人とが一緒に生きるだなんて、きっとそんなもんなんだろうなと今となっては思う。離れずにそばで、彼を見守る人がたくさんいるに越したことはないし。彼は愛されて、守られて……スケートという競技に打ち込むことができるのだろう。そんな彼を、近くで見守っていきたい。今までも、これからも。