ひかりのどけき
お世辞にも桜色とは言えない鈍色をした爪が十枚行儀よく並んでいる。
足で踏み切り、足で着氷するスポーツゆえの弊害ではあるが、彼は大して気にした様子もない。そんなもので自分の美貌が翳らないと知っているからだろう。
曇り空から降り注ぐ雨と同じ色をした前髪から覗く前髪の間から浅葱色の瞳がこちらを見据える。
私から足の爪を整えてあげると言ったのにぼんやりしているから不思議に思ったのだろう、至極まっとうな反応だ。
たとえば足の人差し指の爪の形がおかしいと着氷した時に親指に刺さる形になってしまい、少しだけ痛いそうだ。
少しだけ、と言っておきながら靴下が血まみれになっていたことがあったから油断できない。私はもちろん、邪な気持ちなんて一切なく……多分……清らかな気持ちで…………多分……ヴィクトルの足の爪にヤスリをかけて気休め程度のベースコートとトップコートを塗っている。
元の色が鬱血の色をしているから塗っても綺麗になった気がしないが、尖っているところは見当たらないから機能面としては問題ない。
「終わったよ、ヴィクトル」
「ありがとう」
読んでいる雑誌から目を離してこちらを見て微笑んだのち、整えられた爪を見ている。
「形は綺麗だけど、色が汚いねぇ」
努力の結晶だから汚くなんてない、という言葉は飲み込んだ。努力の結晶が可視化されるのであれば爪程度では測りかねることを私がよく知っているから。
穏やかに、そして一切止まることを許さず時間は過ぎゆく。お互いどれだけ焦がれていても時間の調整だけはどうにもならない時がある。特に片方が技能を生かして人前でそれを披露する職に就いているなら尚更だ。
筋張った足の甲を、手のひらで温めたマッサージオイルを付けて優しく揉みほぐしていく。初めてやったときは痛い痛いと喧しかったが終わった時に足が楽になると知った今は気が向いたときにやってくれと頼んでくるほどになった。その間二人の間に会話はない。会えない時間の方が長いせいかお互いに溜め込んだ言葉が流れ出てこないようにしている。
だからと言ってそれが物足りなかったり、悲しく思うことはない。一般的な恋人たちのように毎日会えない、会えたとしてもほんの数日、ひどいときは数分なんてこともある私たちだから、私たちなりの心地よい関係を築き上げることができたと思う。そこに至るまで色々あったけど、今は満足している。
それに、彼の世界の中で恐らく一番大事にしているであろうフィギュアスケート、その生命線とも言える足をこれほどに無防備に投げ出しているのだから愛情の前に、無類の信頼を感じる。
「加奈子」
「なあに」
「好きとか愛してるとか……言葉を尽くしてもおいつかない」
「どうしたの、急に」
「言いたかっただけ、今日の晩御飯、作るよ」
「ほんと?じゃあ買い物行こうか」
「うん」
少しかさついた大きな掌が耳元をくすぐる。後頭部を軽く抑えられて頬と頬が触れ合い、そう高くない体温が一瞬通い合う。
「外寒いから、いろいろ着て行かなきゃ」
「何言ってんの、ほら」
そう言って差し出されたツンとアルコールの香りがする液体が満たされたコップを見遣る。
「えっ、そういう?」
「加奈子が呑まないなら呑むよ〜」
返事をしないうちにまるで水を飲むように軽く呷ってからにしてしまった。今の外気温からすると少しだけ燃料を入れておきたかったが取りに行くほどではない。
「呑みたかった?」
「うんまぁ」
「じゃあ、帰ってきたら呑もう」
「そうだね、そうしようか」
酸素も凍っているのではないかと思われる外気に触れることになっても、この人の時間を私がもらっていると思うとそう辛くはない。むしろ愛おしい時間だと思う。
いずれこの邂逅が終わって、雪解けの頃にはヴィクトルはここにいないとしても。
「どうしたのぼんやりして」
「なんでもない、行こうか」