破片を繋ぎとめる糸


昨日から雲行きが怪しかったが、今日の朝から糸がほつれて落ちてきたような雨が地面をたたく音が遠く聞こえる。


買ってから二人で寝た回数のほうが少ないダブルベッドでゆるゆると覚醒して、今日もまた無為な一日が始まるかと思うとこのままここを棺にしてもいいかもしれない、と思う。
一人で暮らすには広すぎるマンションの一室で、一番長く生活を共にしたときも三か月足らずという男を待ち続ける意味を考えてもきっと答えは出ない。
考えることを避け続けた結果喪失の際に泣くことになっても、深い悲しみに連なる美しい像として自分の記憶に永久に彼を残すことになるので、それはそれで悪くないと思い始めるほどには満たされなくとも待ち続ける暮らしに慣れてしまった。

以前彼がこれおいしい、と言っていたものを未練たらしく買い置きしては自分で調理する。彼の最後のインスタ記事によると、今はソチに居るらしい。
彼が当たり前のように取る金メダル、それは彼の天賦の才だけでなく努力のたまものであったとしても、ただ結果のみが取りざたされる。愛する人に飽きられるのが怖くて目新しい自分の魅力を追い求める人のように、彼は他人からの評価を求めては、満たされているように見える。


「加奈子が一言、上手だねって言ってくれたらいいのになぁ」

言ったら言ったで私を見限りそうで言えない、とは口が裂けても言えない。
くだらない被害妄想のために彼のことを心の底からほめることもできない心苦しさを感じながら、ごめんね、とだけ返したら
「いつか加奈子が感動のあまり人前でキスしたくなるような演技するからね」と。
人前でキスやハグすることが苦手な私がそうしたくなるほどの演技。一人のファンとして見てみたくもあるが、それが終わりの合図のような妄想も捨てられない。

彼の自己評価の根はは他人からの評価の積み重ねが主であるように思えるのに、私が私の自己評価が低いことには厳しい。自分なんかがヴィクトルと付き合っているだなんて、不思議だなんて言おうものならそれはもうその冷たい青に怒りを宿して見つめてくるのだから、美しさはときにひとを苛む武器にすらなりうることを身を以って学ぶことになる。


ーーーーー
けたたましいチャイムの音が耳に突き刺さる。
こんな早くからアポイントメントなしで訪問してくるひとに心当たりはない。一応ドアスコープで覗いてみる。

「ヴィクトル……?」
「そうだよ!寒いから早く開けて〜」

のんきな語り口に少しだけ神経を逆なでされたが、あまりの現実味のなさに手の先から冷えてゆく。焦がれるあまり幻でもみているんじゃないだろうか。
「なんでそんなに慎重に開けるの」
「だって、今ソチにいるんじゃなかったっけ?」
「それ三日前の投稿〜」
確かに日付を確認すると、三日前、時差を考えると四日前の投稿になっている。寒い寒い、とひとりごとを言って紅茶を飲むためのお湯を沸かしているヴィクトルの投げっぱなしのコートやマフラー、手袋を回収するころに、二人ぶんの紅茶がいい香りを放っている。

「ありがと」
「うん、加奈子、ひさしぶり。会いたかった」
「ほんとに?」

こんなことを言うつもりはなかった。ずっと会いたかった触れたかったと素直に言えばいいのに、口を滑り落ちたのはヴィクトルの気持ちを試す言葉だった。本当に私と同じ気持ちだったのかと。ヴィクトルだって驚いた顔をしている。

「俺の事、信じられない?」
「信じられないもなにも、信頼するだけの安心がない かな」

一緒に居た時間がすべてではないとわかっていても、連絡も何も私からが主で、私は独りで日常を過ごしている。この人とはやっていけない、離れないと痛みが増すばかりだという条件がそろっているとわかっていて、こんな話を投げかけているのに、私は彼から離れられない。

彼は大きく息を吐き、機嫌の悪い子供みたいに口をとがらせて渋い紅茶を啜る。
「俺もね、加奈子と居たい」
「うん、そうなんだ」
「信じてないでしょ……」
「いや、全部聞いてから判断する」

「一緒に居たいけど、スケートは諦めない。どっちかしか取れなくて、スケートは、年齢的にも体力的にも待っててはくれないけど」
「私は待っててくれると?」

待っててくれないつもりなの、と顔に書いてある。みるみるうちに不安が顔に広がるのを見て、この人にも他人から見捨てられる不安というものを感じるのかと一人感動している。
「だ、だめ……?」

27の男がするような仕草じゃない、と固定観念の上で思うが実に似合っているというか、不自然でない。むしろ可愛いと思ってしまう。こんなんじゃだめ、また連絡なしで放置したうえに待っててくれると思ってたなんて寝言を言われてしまう。

「だめじゃないけど、そこまでして私をキープしておきたい理由がわからない」
「ねぇ……今日の加奈子、冷たくない?」
「レンチンしたあと放置したら冷たくなるのと一緒」
「う、ごめんなさい……」

しゅん、としょぼくれたヴィクトル。
ここで甘い顔を見せると時間ばかり取られた末に捨てられるなんていう最悪の未来の種を蒔くことになるのではっきりしておきたい。
「キープじゃないし……」
「じゃあ何?」
「そんな、しょうがないから加奈子のいるところに帰るワケじゃなくて、会いたくて来てるんだ、だから」
「だから?」
「忙しいけど、会いたくて」
「……そう」

「ね、加奈子はもう、終わりにしたい?」
「ヴィクトルがそうしたいのかなって思って」

重苦しい沈黙。窓を叩く激しい雨音だけが聞こえる。
静かに凪ぐ青がなにやら複雑な感情を湛えて見据えてくる。おそるおそる、と言った風に伸ばされる手が私の手を取る。冷たい、と振り払っていはいけないような気がする。

「ねぇ、加奈子」
「なに?」
「俺はね、離れたくない、惨めでも、縋りつきたい」
「そこまで?」
態度にも言動にもそういった気持ちは出てきていないように思える。私が鈍いだけだろうか。

「そうだよ、大切にしたい気持ちの表し方、俺と加奈子とじゃ違うから、加奈子が不安に思うことない……どんと構えててくれていいんだよ」
「それ、信じていいの?」
ヴィクトルがこんな、情けない顔で必死に私を説得しようとしているのだから、信じる理由はある。けれど一年近く放っておかれたやり場のない気持ちを上手く処理できず、ほぼ八つ当たりのようなことをしてしまう。

「お願い、信じて」
結局のところ、惚れた弱みと言うものが強すぎて信じざるを得ない。こうしてまた私はヴィクトルに甘い顔をしてしまう。信じてと懇願し、縋ってくる手を振り払えない。氷の上の像に見える身体の温みを受ける身体が、これを手放したくないと切実に願ってしまう。
複雑に絡み合った因縁、これはもう運命と読んでも差し支えないのでは、と思う。







ゆでたまご様から教えていただいた曲、藤/麻/衣/子「運/命/の/人」をイメージして書きました。