君よ我が誉なれ


世界中の誰もが、私だけがアレに溺れていると思われているだろう。

私だって未だに信じられないくらいだから、赤の他人がそう思うのも仕方ないと思う。それにそういったゴシップ誌のネタになるくらいのことを気にしていたら身が持たない。
だからいちいち、「ついに破局か?!」というあまりに直接的かつ下品な見出しの下に踊る誰とも知らない記者が書いた「よく続いた方だと思いますよ」だなんて勝手な言葉に頭を悩ませるようなことじゃダメだとわかっていても、実際にあちらからの連絡はぱったり途絶えてしまった。
自分に言い聞かせるように思考を練っては捨て、練っては捨てを繰り返していくうちにすべてが億劫になった。

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天才、というわかっているようで、大衆とは違う存在を切り分けるために在る言葉をあてはめるにふさわしい彼の思考は、私の感覚から言うと普通以上に突拍子が無いと思う。日本の勝生勇利、というスケーターの持つものに惹かれた、休業して日本でコーチをやると電話で聞いてから小一時間は経っただろうか。
私を自立した一つの個人と認めたうえで、愛情を注いでくれている結果として、決断だけを聞かせてきたのはわかる。わかるけれど、少しくらい私がどうとか、考えてはくれなかったのだろうか。惚れている、そばに居たい、その欲求がそんなに愚かしいものだろうか。

天才たる彼には、それすらも存在しないと言うのだろうか。


安アパートの汚いチャイムが元凶の来訪を知らせる。足取り重く玄関に向かい、鍵に手を掛けるがどうにも躊躇われる。
日本に行くから、君はお役御免だよ。などという人の心を確実に潰す言葉を何気なく言い放つために来たとも言える。きっとそれを繰り返してきた人だから十分可能性がある。
あまりに悲観的な可能性を頭に芽生えさせてしまった以上、それを育てるような行動はどうしても気が乗らない。

「加奈子?僕だよ」
「わ、かってるけど」
扉の向こうで、疑問で頭が一杯という顔をしているのがわかる。

「じゃあ、なんで?」
優しく諭すような声音が、心臓を掴まれたかのように迫ってくる。まるで私の疑いなど正統ではないと錯覚してしまいそうになるくらいの説得力を持って。
「……別れ話なら、顔を見ないでしたい、から」

沈黙。
沈黙が痛い、とはまさにこのことだ。一分一秒が随分長く感じる。どんな顔をしているか見えないというのも怖い。そもそもこんなことを口に出さなければ、お互い深入りしないぬるま湯のような関係になって居たのではないだろうか。それが良くても悪くても。
そんな言ってしまったことの後悔なんて世界で一番不毛なこと、私にもできたことが唯一の発見だ。

もういちどチャイム。
何時もはうるさいから大嫌いな音なのにこの時ばかりは懇願が含まれているような気がしてしまう。

「加奈子」
「私だけがバカみたい」
「加奈子」
「ごめん、今日は帰って」
「加奈子、お願い」

この男は、自分が乞い、願うことの効果を知らないからいざというときにしおらしくお願いだなんて言ってのけるんだろう。実際、彼の歴代彼女にしては長い方に分類される私には効果覿面だ。
惚れた弱みのためにこの岩戸は開いてしまった。極東の国の神話の女神とはえらい違いだ。

「加奈子〜!元気にしてたかい?」
腹が立つくらい脳天気な声が癇に障る。ついつい冷たい反応をしてしまうが気にした様子はない。彼の脳味噌は取るに足らないことであると処理したらしい。

「してない」
「どうしたんだい?食べてない?寝てない?」
くるくると変わる、外で見るより随分柔らかな表情が今は少しだけ腹立たしい。27の男にしては荒れていない頬を軽く抓る。

「なんでそんな急に、そんなこと言うの」
そんなこと、と私が投げかけた言葉に心当たりがあったのか、ああそれね、と言わんばかりの余裕ある表情に変わる。心の底から癪に触って、軽く抓るだけのつもりだった指先に多少力が籠る。
「それが、自分が何か変わる術になると思ったから」

また沈黙。
片頬を抓られている状態だというのに整った貌はそんなことじゃ崩れない。珍しく真面目な顔をして私を見つめてくるヴィクトルの熱っぽい瞳に浮かされそうになるが、長く離れる前にケリをつけておかないといけないことがあると思う。
アスリートとして輝くものを持った彼を大事にしたいと思えば、自分の好きを何度も我慢しなければならなかったから今くらい言ってもいいはずだ。それを拒否するなら、きっとそれまでだったってことだ。

「私なら別に切り捨てていけばいいって思った?」
二人分のコーヒーを冷静に並べたつもりでいたけれど、途中から涙声になってしまって恰好がつかない。抱きしめて慰めてくれるだなんて期待はしていない。

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泣き止むまで言い訳せず背中を撫でさするに徹したところは評価できる。感情的になって居る自信があったのできっと何か言われていたら怒鳴り返し、最悪の結果を迎えていただろう。

「加奈子、聞いてほしい」
堰を切ったように泣いてすっきりした私の手を握りながら諭すように語りかけてくる。なるほどまだ、私たちの道は分かたれないらしい。

「加奈子はもしかしたら、僕が加奈子を捨てて日本に行くかと思っているかもしれない」
「状況からしてそうでしょ」
完全にヴィクトルを責める声音を投げかけてしまって、自分が一番驚いている。当のヴィクトルは落ち着いて(いるように見える)。私から目を離さない。まぁきっと拗ねた女の相手なんて手慣れたものなんだろう。

「加奈子は加奈子で、僕よりこんなゴシップ誌を信じたでしょ」
彼が指差すのはスタンドで買ったゴシップ誌。まさにその通りで、彼を信じ切れていなかった私にも多少の非がある……かもしれない。

「……話を戻そう、僕は表現の可能性をもっと、知りたい……それで、あそこに可能性を感じるから、行く」

そこに口をはさむことはきっとできないだろう。話すときの瞳がきらきらして、あそこには何かある、とお宝を見つけた子供みたいにわくわくしている彼を妨げようだなんて気持ちすら起きない。
「それが、加奈子を愛していないっていうことには、絶対に繋がらない。それだけは信じてほしい」

そもそも、面倒なことを言いだした女はキスで黙らせてそのままいい雰囲気になって……といったふうに解決してそうなヴィクトルがこんなに言葉を尽くして説得しようとしていることが珍しいのではないかと思い始めてきた。
それが当たっていても外れていても、これだけ真摯に語りかける彼を信じて見たいと思う。たとえ違う道を歩いているように見えても彼の心に私が居ると実感できる言葉を信じたいと思った。
「信じるよ、ヴィクトル」

言い終わるか終わらないうちに視界が途絶えた。頭にかかる圧力からヴィクトルが思い切り抱きしめている、と数拍置いて理解した。


「苦しい」
「だって、別れ話なんて言った……! 本当に本当にびっくりして……!」
こんどはヴィクトルの声が震えている。どこか他人事のように、この人は何かに執着できる人なんだと思った。人の持つ嫉妬心や、執着などこか現実離れした美しい男には備わっていないのだと思っていた。
27の男の涙声なんてなかなか聞く機会がないからここで堪能しておく。いつも感情が籠っているだか籠っていないんだかわからない、笑っていてもどこか虚しさを孕んでいる人、むしろ人間味すら薄い人の感情の発露が珍しくて、でもなんだか見てはいけないもののような気がして顔が上げられない。

「ね、ヴィクトル」
「なんだい、ちょっと、顔を見ようとしないで」
「わかったわかった……」

頭をさらに強く抱えられてさすがに痛い。喜びの涙も悲しみの涙も私は見たことが無いから見てみたいのだけど、それは許してくれないらしい。
「気を付けてね」
「加奈子も、今までは会いに行ける距離だからあんまり連絡してこなかったけど、これからは」
「うん、大丈夫。時差とか気にしないでとりあえず連絡入れてみて」
「ありがとう……」
人と人とのつながり方を何等かの枠に当てはめないといけないなんて、自分で勝手に想っているだけだったんだ。優しく背中をさするともっと密着しようと身をよじる腕の中にある男のいじらしさを実感しながら思う。

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そろそろヴィクトルが日本に発つ頃だろう。今日も今日とて朝は来て、生きるために稼ぐ作業につかなければならない。救いはこの仕事がキライじゃないってことだ。皆が少しの休憩を、店の自慢の美味しいコーヒーを求めてくる適度な静寂を求めている様を眺めていることだけでも楽しい。


「お前さんだけがここに居る、ということは引き留めなかったってことだな」
「フェルツマンさん」
軽く会釈を返してくるフェルツマンさん―ヴィクトルのコーチをしている人で、個々の常連さんだ―の言葉の真意が理解できず目を泳がせていると、仕事の邪魔になると思ったのかすこし声を抑えて言葉をつづけた。
「ヴィーチャは、お前さんの言うことならきっと聞いたさ。まぁ、お前さんはそんなことせんだろう、とあれも思っていたからこそ事後報告だったんだろうが…… あれとの付き合いも長いからな、大体わかるんだよ」
「何がです?」

一度困ったように眉根を寄せたフェルツマンさん。良い人を困らせると心が痛むがここまで聞いたら最後まで聞きたいと思ってしまうのが人の性というものだ。
「若いお嬢さんに言うことでもないがな……何というか、惚れ具合というやつか」
思わずミルクを注ぐ手がぶれて少し零してしまった。何てことを言ってくれるのか。フェルツマンさんとしては大したことを言ったつもりはないらしく、同僚から紙カップを受け取ってひとつ会釈を置いて帰って行った。
いや、置いていったのは会釈だけではない。さっき連絡が入っていたから昼ごろ交わすであろう会話のネタもだ。


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ナツセ様に教えていただいた、宇/多/田/ヒ/カ/ルの「道」をイメージして書きました。