欲の檻


日本語の表現の幅に助けられることが多々ある。
たとえばこんな時は、むせ返る色気、なんて表現が合うだろう。露出が多いだけの、性的興奮だけを発露し、対象の目を奪おうというのではなくきっちり着こんでるからこそ、暴かれないからこその色気というものがあることを、今初めて実感を以って知った。

「ヴィクトル、スーツ似合うね」
藍地に薄い藤色のストライプが品よく入っている、素人目で見ても仕立てのよいものだとわかるスリーピースのスーツ。肩や胸、そして太ももなど、フィギュアスケート選手特有の筋肉の付き方に合わせられてる。それに誂えたような灰色のネクタイ。おまけに葡萄を模したネクタイピン。髪の毛を後ろになでつけ、形のよい額が露わになっている。ほぼ正装といえる恰好で帰ってきたから驚いて声をかけた。

そこまでかっちりした格好をしている記憶はないから、多分初めて見たのだと思う。
「そう?今日、雑誌の撮影があったんだけど、その会社のご厚意で頂いたんだ。加奈子が褒めてくれるなんて嬉しい」
「へー……そうなんだ、なんか、いつもと違う感じで、いいね」
「そう?じゃあ、このままホテルランチでも行くかい?」
「いいね」
「じゃあ、加奈子の服は僕が選んできてもいい?」
「いいけど」

自分より美しくないものを着飾って何か楽しいのか?と僻みと嫌味が一緒くたになった最悪の文句を喉元で押しとどめられるようになっただけ、成長できていると思う。
彼が選んできたのは、随分前、会社の何周年記念パーティという、名前からして面倒くさそうな会に出席したときの、それほど気取らない深い青のドレスと、出会ったころすぐにヴィクトルに贈られて、最近付けていなかったカジュアルなスカーフ。そのドレスは地味すぎると酔っぱらった当時の上司に言われてからお蔵入りしていたのだが、彼の審美眼に叶ったとなると、また評価が変わってくる。
「この黒髪と、この青がとても合う……それに、このボレロと、このコート……完璧だ、加奈子、綺麗」
「それはどうも」
彼が選んで帰ってくる間に済ませたくらいの薄い化粧でも、生ける伝説とまで言われた表現者に選んでもらった衣装を着ると、それだけで自分まで違う何かになれたような気がして、変にこそばゆい。けれど、心地よい。
「靴は……これかな」
ビジューがふんだんにあしらわれた、灰色のパンプスを箱から出している。確かヴィクトルが酔っぱらって買ってきたやつだった気がする。足のサイズを把握されていることが少し気持ち悪い、と思った記憶がある。

「こんなヒール高いやつ、ホテルまで歩けないんだけど」
「タクシー呼んだよ」
「そう?じゃあ……こんなヒール高いの、久しぶりに履くな」
「足が綺麗に見えるよ」
太めのヒールに支えられ、少しヴィクトルの顔が近くなる。近ければ近いで、その整いすぎた顔がら溢れる色気だかなんだかわからないものに触れてしまい、頭が痛くなる。見つめすぎたせいか、目が合ってしまった。太陽に近づきすぎた英雄は、蝋でつないだ翼を失って落ちたと言うじゃないか。その要領でこの美しい男に転がり落ちてしまいそうになる。

「どうかした?」
「いや別に」
「何にもなくても見つめてくれるなんて嬉しいなぁ」
何の照れもなく、自分の気持ちを素直に言える、それは彼の大きな強みだと思う。それはきっと絶大な自身に裏付けされているから。一朝一夕にそうなったわけではないだろうけど少しだけ羨ましい。

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三大欲求の一つ、食欲を満たしているだけなのにこれほどまでに、変に色っぽさを感じてしまう。
彼の扱うナイフが肉を裂き、葉物野菜を包み、品よく開かれた口に入れ、咀嚼。嚥下。ときどき品が変わったり、美味しいねぇこれと声をかけたりする。

ヴィクトルはただご飯を食べているだけなのに、こんなことを考えてしまうのが浅ましいように思えて俯いたまま食事をしている。せっかくの休みなのにこんなんじゃ、と思えば思うほど彼を視界に入れることそれ自体、抵抗がある。
「どうかした?」
騒ぎになったら面倒だから、とわざわざ個室を用意してくれたのだから、素直に言ってみてもいいかもしれない。
「ご飯おいしいな、って」
「そう?それならいいけど」
「それと……さ……あの」
それほど重要なことを言うわけではないのに、わざわざ手を止めて私の言葉を待っていてくれている。それが嬉しいやら申し訳ないやらで、言葉に詰まる。

「ヴィクトル……なんか、今日、すごく素敵」
「……言われ慣れてるのに、なんだか、照れるな」
お互い照れ笑いを交わす。他の人から褒められ慣れているのに、私からだと照れるなんて、この人もかわいいところがある。せっかくの美味しいご飯も、ヴィクトルが見せた新たな一面のせいで半分くらいしか味がわからない。

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「いい天気、帰りは歩こうよ」
「いいけど、ヒール大丈夫?」
「ピンヒールってわけじゃないしたぶん平気、ダメならタクシー拾わせて」
「わかった」
最近、比較的暖かくなってきたとはいえ、故郷の冬とはまた違う、刺さるような寒さはまだまだ健在だ。ホテルを一歩出た瞬間からその洗礼を余すことなく受ける。
「寒っ」
「日本の冬と同じだと思ってたでしょ、マフラー貸してあげる」
素直に受け取ったシミひとつない白のマフラーからは、どこのかわからないけれど、香水の香り。と、ヴィクトルのにおい。無意識に安心する香りを深く吸ってしまい、慌てて誤魔化す。
「ヴィクトルは寒くない?大丈夫なの?」
「寒いけど、帰ったら加奈子が温めてくれるから平気」

どれだけ自信をつけようとも、こういうことを笑わずに言えるようになるとは思えない。私は私のやりたいようにやろう、そう決意を新たに歩みを進める。

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加奈子の美観に、今日の服と対応は一致したらしい。
今までのようじゃ全く上手くいかなかったから、やっと加奈子の好ましいという感覚の端を掴めて本当にうれしい。いつもなら素敵だのなんだの、言葉にする回数なんて片手で収まるくらいなのに、今日は比較的多かったと思う。
こうして冷たい手同士を繋ぐことにも、徐々に違和感や恥ずかしさを表さなくなってきたし。
「何?にやにやして」
「え?してないよ、そんな」
「した。なんか、獲物を捕らえた蛇っぽい感じ」

そんな顔していただろうか。そりゃあ、好きな人の好みをなんとなく掴んだような気がして嬉しいとは思ったけど、そんな悪どい笑みだっただろうか。ただ自分が持っているカードは使えるだけ使っただけだ。
けれど、彼女を捉えたような気になったというのは確かだ。そんな簡単に一人の人間を捉えられると錯覚しているのもおかしな話だとは思う。他人にひどく執着する機会がなかったせいか、距離の詰め方がいまいちわからない。わからないなりに、加奈子は反応を返してくれる。それが堪らなく嬉しい。
「やっぱりにやけてる」
「久しぶりに会えて嬉しいんだよ」
これは本心。
小さな声で賛同の声が聞こえる。今はそれだけでも良しとしたいところだが、さきほど加奈子に温めて、と言ったら返事が無かった。これを問い詰めて温めてもらうとしよう。そう、それがいい。氷上で凍えたときに思い出せる温みは、愛おしい人のものがいい。



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紫音様リクエストです。
ありがとうございました。