他人を大切に思うという気持ちと、その大切な他人の自由意志を認めることが自分の執念を否定するのなら、果たしてどちらを優先するべきか。
相手を思うなら、もちろん、相手の自由意志に任せるべきだけれども昔から言うように、恋は盲目。逢いたいが情、見たいが病。
誰かを大切にしたいと言う気持ちも、行き過ぎてしまえば自分の腐肉が媒介となって病となり、相手も枯らせてしまう。そうならない前に、ちゃんと切り落として供養してやれるのがオトナの恋愛の仕方というやつなんだろうけど。


人はいつ大人になるんだろうか。彼は祖国での成人とみなされる年齢を超えているから大人と言える。だからあれだけ余裕を持って私と関わることができているのかもしれない。

顔立ちは幼げなものが残っているが、陸を軽く蹴り離し氷の舞台に進めばあれが自分のことを憎からず思っていることを疑いたくなるほど神秘的で、それでも冷たさなどはない。身体の奥底から名前の付けようがない興奮が吹き荒れる。それも一度や二度ではない。練習の時からそうなのだと以前彼に伝えたら少し照れたように笑みを浮かべたのを覚えている。そこで引かずに照れてくれるところが大人なんだろうか。
「なんか、そんな風に言ってくれるの嬉しい、すごく」
と言ってはにかむ彼とデトロイトの肌を裂く冷たい風、それだけを後生大事に抱えて私は彼の居ない街に生きている。

そんな状態から、貯金をはたいてやっと行った中国大会はあまりに刺激が強すぎた。少し前まで自撮りにおちゃらけた文を添えてアップロードしていた彼は赤地に金色の装飾が為された衣装を着こなし、普段見慣れない気品ある美しさでそこに在った。あれが昨日、久しぶりに会えるのを楽しみにしていると電波を介して言った彼だろうか。
まさに万雷の喝采、というたとえがぴったり合う歓声に迎えられ―実際、それに値する演技だった―彼は氷の上から降り、結果を待ち、そして歓喜に満ちた顔でカメラに向かって茶目っ気を振りまいていた。
彼を見つめる何千もの瞳のうちの一つである私も、素直に祝福できるくらいには厭味のない喜びが伝わってくる。

まだこれから練習だ、テレビ取材だなんだとあるらしく、終わったからすぐ会えるというわけではない。最初こそ戸惑いはしたものの、今では慣れっこになって自分は自分で異国でありながら、どこか懐かしさを感じさせる国の風情に酔いしれている。
ここでわがままを言わないで甘えてしまうのも一つの手であることは否定しない。否定はしないが実行しない。

確かに私は彼にその端すら見せたことは無いはずだけど、並々ならない気持ちを抱いている。こんなこと他人には言えないから、判断基準はあいまいだけど、俗っぽい言葉で表すならヤンデレというやつに片足を突っ込んでいる気もするくらいには、私は彼を想っている。
それでも、私は彼のファンでもありたいから彼の未来を阻むことはしたくない。人である以上彼の意志を大切にしたい理性的な気持ちと、自分が満たされないからと駄々をこねて独占してしまいたい気持ちひとりのファンとして応援したい気持ちとが一人の人間に入っているのだから、話がややこしくなっている。

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きっと夕食は済ませてくるだろうし、そもそもこんな大事な時期に会える確証もない。自分は自分で行動し、会えたらラッキー、くらいの気持ちで行動している。
世界三大料理というくらいの中華料理、何処に入っても外れは無いだろうと適当な店に入って適当に指を指して注文した。

途端、スマホが震えた。表示されている人の名前に目を見開き、あわてて通話ボタンに触れて席を立った。
「加奈子?今どこにいる?」
「えっ、いやもう終わったの?」
「そうだよー!ご飯でもどう?」
「うん、今もう注文しちゃったんだけど、来る?」
「行くー、住所送って?」
「わかった」
用件のみを受け取って、切られた画面をぼんやり眺める。何か頼んでおこうか等言いたいことは山ほどあったのに喉で詰まって出来やしない。とりあえず場所を伝えると、すぐ行く、とだけ返ってきた。
観光客向けに異国情緒を醸し出すため絞られた灯りが、どこか生臭い大気が現実味を奪ってゆく。会えないつもりでいたのに急に会えるとなると、鬱屈した想いが変に溢れそうで焦る。

「あっ、居た」
何も介さない、自分の脳がとらえた声はあまりに甘やかに鼓膜を震わせた。冷静を装って軽く手を挙げて答えて、疲れたぁ、と暢気に溜息をつく、ピチットくんを視界に収める。オシャレなのか何なのか知らないけど、黒いマスクを好んで使う彼。

「久しぶり!加奈子、元気にしてた?」
「それなりに……」
「そっか!」
こっちも元気にしてたよ、と底抜けに邪気のない笑顔。それもすぐ移り変わり、店員さんを呼びとめてメニューを貰って何やら悩んでいる。
「たくさん食べたいな」
「私塩汁そばみたいなの頼んだよ、まずそれをシェアしよう」
「わかった、チャーハンとあとなんか……お肉かな、加奈子は何がいい?」
「えっ、決めてよ。今日頑張ってきたのはそっちじゃん」
「加奈子だって、ハラハラしてる!って顔して見てたでしょ?頑張ってるよ」
「居たって、わかった?」
「もちろんわかったよ〜!タイの国旗持ってる人端から見て行ったからね」
店員さんから汁そばを受け取って取り分けている彼が屈託なく笑うをの見て、自然と笑みがこぼれる。わざと笑みを作ったのではなく、唇の端が心の温みで溶けて出る笑み。
あつあつの汁そばを食べながら、今日会ったことから会えなかった時間を取り戻すかのようにしゃべり倒す。食べ物の写真をアップロードしたり、自撮りをアップロードしたりといったいつもの行動はしないらしい。それすら惜しい、と思ってくれていないだろうか、と少しだけうぬぼれる。彼の、演技中は横にまとめていた前髪が揺れるのを眺めていたら目が合ってしまい、思わず逸らす。
「えっ、なんで」
「なんか、慣れなくて」
「そう?」
と、また笑み。彼が笑う顔すべてに形容詞をつけていったら途中で尽きてしまいそうなくらいには、たくさんの笑みを浮かべる。それを一つ一つ覚えておこうとして遠慮なく見ておいて、こっちを見た途端に照れがじわじわと足元から這い寄ってくるように思える。
結局、チャーハン一人前と汁そば半分、鳥の揚げ物に甘辛いソースをかけたものをほぼ彼一人で食べた。しきりに勧めてくるものの、おいしそうにたくさん食べる彼を見ているのに忙しくそこまで腹の満ち具合が気にならない。
「今日、すごく良かったよ」
「そう?ホントに?」
「綺麗だった、けどなんか、遠かった……かな」
「……珍しいね、そういうこと言うの」
急に声のトーンが落ち着いたものだから、驚いて彼の方を見るといつもの笑顔は日暮れとともに陰り、少々の毒を含んだ「オトナ」の顔をしているように思える。

「だって、なんだかこの世のものじゃないみたいだった」

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急に何を言い出すかと思った。
加奈子は他人も自分も、めったなことがないと褒めない。それが僕に適用されないだけで。そんな加奈子が距離を感じる、みたいな意味を含んでそうな言葉を口にしたから驚いて少し厳しく詰め寄ってしまった。
「それは……どういうこと?」
「なんていうか……星って綺麗だけど、届かないでしょ?そんな感じかな……」
俯いて零した加奈子の伏せられた瞼をじっと見る。いつもなら、といっても最後に会ったのはもう半年以上も前だから記憶がおぼろげだけど、お互いかなり深く想いあっていたと思っていて、加奈子は僕が世界に挑戦するからと言って特別視したりしたことはなかった気がする。けれど今は昔と違って、お互いの間に距離と時間が与えられた。それで気持ちが離れてしまったんだろうか。
「少し、歩こうか」
荷物を置いてから来てよかった。これで荷物を引きずり回したままじゃ全然恰好がつかない。

北京の街は、デトロイトのように暗くなってから歩き回るに適していない街らしい。そうでなくともひっきりなしに鳴らされるクラクションがいちいち気に障る。
ゆるく握られて温まった手の主は特に嫌がるそぶりもなく付いてきてくれているからまだ良しとする。

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急に真面目な顔して立ち止まるから、少しおかしくて笑ったら、つられてピチットくんも笑った。やっぱりこうして愛らしい顔立ちを惜しげもなく生かした笑顔が素敵だ。
「今は届いてるよね?」
こうして指を絡めているのだから、届いているも何もない。

「うん、まあ」
「なんか、こんなこというの照れるけどさ、寂しかったり、会いたいなって思うのはもちろん加奈子だけじゃなくて、でも、スケートのせいにしたくないんだ」
男の人が素直に自分の寂しさや、相手に焦がれていることを言葉にして、じっと目をみて言う人はそう居ないように思える。
同じアジア人らしい暗色の瞳を交える。会えない時間、なにをどうしようと完全に満たされない慕情を埋めようと、相手が離れていかないよう手を強く握りあうように。

「なんか、あんなにキラキラしてし、それに大人だからそんなこと思わないと思ってた」
「なにそれ」
笑われてしまった。今までの緊張が緩んで、やっと本来の彼と、私が戻ってきたような気がする。本当はもっと複雑な気持ちを抱いていたし、かなり気分が落ち込んでいたのにこうして話すだけで、軽く触れあうだけでこんなにも満たされてしまった。
その気持ちを彼も持っていたら嬉しいと心から思う。
「加奈子から見てその、キラキラ?して見えても、大人に見えても、遠くなんてないから」
「そう……?かな……?」
確かに指から伝わる体温は感じられる。ただそういう意味ではないように思える。要は選手とファンという距離感、彼我の間の想いの重たさの話だと思っている。
それをこの、大事な時期に言うべきか逡巡しているとまた目がある。軽く首をかしげて私の言葉を待っている。
「なんでも聞かせて」
「こんな大事な時期に変なこと言わない方がいいと思う」
「そんな、中途半端にしておくほうが嫌だな」
「えっ……じゃあ、ごめん」
確実に明日試合を控えている人に聞かせるべきではない、私の個人的な感情を、とりとめがなく少しもまとまっていない拗れに拗れた気持ちを一つ一つ結び目をほどくように言葉にしていく。それを忙しいからと切り上げることも、くだらないと吐き捨てることもなく真剣に聞いてくれている。罪悪感と、聞いてほしい気持ちたちが堰を切ったように溢れる。

「……こんなもんです」
言うだけ言って、後悔が押し寄せてきた。
自分の気持ちだけを好き勝手吐きだして、彼がどう思うかなんて思考の外にあった。これじゃあダメだ、と思えば思うほど、止まらなかった。
「沢山、我慢させちゃってたね」
「違う……我慢なんて、忙しいの知ってるし」
「加奈子が、応援してくれているから、きっとわかってくれる、って甘えてた」
「そんなこと……」

じっと見つめられては目を泳がせ、を繰り返している。もう自分でもどうしたいかわからない。それほどに拗れた気持ちになってしまった。
「難しいなぁ、好きなのに、苦しめてた」
「苦しくなんてない、ただ、好きで」
彼の言葉の語尾に被せ気味に言ったのがおかしかったのか、また一つ笑みを至近距離で見た。北京の冷たい空気から守るように抱きとめられた、とやっと理解した。
なんかもっと、頑張っててかっこいいとか、ファンサもお仕事のうちなんだろうけど時々嫉妬しちゃうとか、前にあげたテイッシュケース、あんなぼろぼろになってるなら作り直すから、等々、いろいろと言いたいことがあった気がするのにこうして体温で解かれると自分でも呆れるくらい単純に、貯めに貯めた暗い気持ちが溶けていく。
「明日も、頑張ってね」
「うん、加奈子も、見にきてね」
「もちろん」
どちらともなく照れ臭くなって離れる。少しだけ名残惜しいが、睡眠が大事だというのは私も彼も同じ。どちらかというと私の方が前入りをしていないので時差ボケがきつい。
やかましいが、賑やかな北京の街を私のホテルを目指して歩く。自然とつないだ手は温かく、今が冬に差し掛かっているだなんて信じられないくらいだ。

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いつもより少し立派なホテルのロビーで、誰かにバレてしまいやしないかと思ったけれど特にそう言ったことは無く、少し名残惜しいけどすぐについてしまった。
「じゃあ、おやすみ、ゆっくり寝てね」
「うん、ありがと、おやすみ」

優しく額に額がおしつけられ、自然と目を瞑れば唇に一瞬触れた。
今わがままを言ったらたぶん、叶えてくれそうだけど明日どんな演技をしてくれるのか楽しみでここまで来たともいえるので、頬に触れるだけにとどめておく。
「じゃあ、また」
「うん」

ドアを閉めた後も、熱を持つ頬があれは全て現実だったと証明する。


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企画「Silent film」に提出
テーマは「行き過ぎた愛」です。