気持ちの良い朝は毎日訪れるものではないことを身を以って知った。
無機質で音が反響しない部屋で目を覚ました。昨日は確かにいつものように彼を隣に見届けて眠りについたはずなのに、見覚えのない内装に冷や汗が止まらない。辺りを見渡しても何一つ見覚えが無い上に、窓が一つもない。確実に昨日眠りについた部屋とは違う場所に居る。
そんな中でもすうすうと気持ちよさそうな寝息をたてているピチットを少し乱暴に揺り起こす。

「なに、もう朝……」
と言いながらまた意識を手放したピチットをまた揺らすと何やら寝言を言いながらしぶしぶ、と言った様子で起きだした。黒い睫に縁どられた瞼がうっとおしそうに持ち上がり、また閉じ、私の緊迫した表情を見てなにか起こったことを察したらしく、やっと半分瞼を開けた状態をキープしてくれるようにはなったが、まだ完璧に意識が戻っていはいなさそうな緩んだ表情をしている。
「ねぇ、ここどこ……?」
「それが……わからない……」
「何言ってんの加奈子、昨日ホテルチェックインして、部屋でワイン空けて、そのまま寝た……」

やっとおかれた状態の異質さに気付いたのか、きょろきょろと辺りを見渡している。私を心配させないためか肩に手が回る。遠慮なく腕の中に納まって不安を少しでも和らげようとふたたび上掛けをかぶる。こうすると二人だけのシェルターにいるようで安心できる。
「え?また寝るの?」
「寝ないけど、怖い……私たちちゃんと帰れるのかな……」
「大丈夫!大丈夫だよ加奈子〜、きっとなんとかなる! ならなくても平気! ちょっとしたバカンスだと思えばいいんだよ〜」
彼だって不安だろうに、そんなこと微塵も感じさせない明るい声音で背中を摩ってくれる。
いつもは少しだけ気に障ることもある底抜けの明るさが今は心の底からの愛おしさと安心感でいっぱいになる。せめて彼だけでも、なんて自己犠牲的な発言は喉奥にひっこんだ。私はこの人と幸せになりたい、外の世界で彼がスケートをしているところを隣で見ていたい。彼はそういう欲を抱いても、赦してくれそうな人だと思う。けれどきっとそんなことを口にしようものなら難しいことを言うのはよく分からないからといってハグとキスで解決してきそうな気もする。
「またなんか考えてる」
「わかる?」
「ネガティブなことでしょ?」
「うっ、なんで」
「だって、顔が怖いもん……ほら、笑って」
ぐに、と無理やり口の端を吊り上げられればどうやったって笑っているように見えるだろう。いろいろと考えを巡らせながらそばに居ることがバカバカしくなる時もあるが、それすら愛おしい時間になりうるのが彼の魅力のひとつだろう。
「楽しい……?」
「かなり」
無機質なシャッター音に驚いて目を見開くと、彼の可愛らしいスマホケースが真っ先に目に入った。もしやSNSに上げるんじゃないだろうなと構えていたけれど、すぐにスマホをしまった。
「加奈子が笑ったところはみんなには見せてあげない」
「そ、そう、なの」
「そうだよ、秘密」
ね、と悪戯っぽく笑う彼と、凛々しく顔をひきつらせて天が与えた魅力を振りまく彼とがどうにも結びつかずに目を逸らしてしまうけれど、確かにメイン画面に画像は上がってこなかった。

ーーーーー
「ドアがひとつだけ、トイレとお風呂はある」
「ドアは全然……ちょっと頑張ったけど、無理だった」
「そっか、じゃあ私も無理だわ」
「あとはこの紙切れが一つ、ドアの前に」

ピチットが摘まむ二つ折りにされた紙片。
チラシの裏よりお粗末な紙切れだけがわたしたちに与えられているとなると、ここから出るためのきっかけが書いてあってもおかしくないはずだ。
おそるおそる紙片を覗き込む。二人の共通言語で、一言印刷された無機質な文字が並んでいた。

「「お互い何か一つ告白しないと出れない部屋……?」」

思わず顔を見合わせてしまった。その紙片の通り、この部屋が何か一つ告白しないと出れない部屋だとしたら、お互いに大きなリスクがあるわけでもないし、試してみる価値はあるだろう。じっと見つめた先に黒々としたピチットの瞳があって驚いてしまう。久しぶりにこんなに近くで見つめ合ったような気がする。
「加奈子、何か僕に言っておくことある?」
「えっと、そう言われてみると……どうかな……あるかな……」
「意外とないよね」
「そうだよね、割と素直に……なんでも……」
「加奈子?」
「私あるかも」
「えーっ、何」
慌てた様子で顔を覗き込まれて思わず目を逸らしてしまう。何か言わないとと思えば思うほどピチットの顔が近づいてきて言わないと言う選択肢を選べなくなってゆく。無邪気に近寄ってくるけれど、どれだけ長い間居ても惚れた弱みというやつか、過度に近づかれることに未だに慣れない。
「加奈子〜〜〜???」
「ち、近い近い、し、少し言いにくいことだから、先に言ってよ」
「ええー、今はないから、加奈子が秘密にしてること聞いてから考える」
「なにそれ」
「だって、無いんだもん」

「………………………あのさ、私ね、この前ピチットのスマホの通知が偶然見えちゃって」
「え? それだけ?」
「いや」
なんだそんなものか、と彼は彼なりに少しだけ構えていたらしく安心したように微笑んでいたけれど、ふたたび表情が曇ってしまい、心が痛む。それでも切り出してしまったら最後、靄がかかった気持ちごと吐きだしてしまうことにした。
「オンナノコの名前で、ピチットのガールフレンドになりたいってチャットの通知が見え……ごめん、本当に見るつもりなんてなかったんだけど」
彼は心当たりがすぐに思い浮かばなかったらしく、きょとんとしてしまっている。その表情がまた可愛らしくてじっと見つめてしまう。記憶の隅をひっくり返して該当することを思い出そうと懸命に考えている彼には少しだけ申し訳ないけれど、くるくると変わりゆく表情が愛おしくて仕方ないからもう少し迷っていてほしい。
「あっ」
「……わかった?」
「うん」
普段の表情がやわらかく、悲しそうだとか、辛そうだとかそういう類の表情を誰もが見たがらないだろう彼の少しだけ傷ついた表情を前に、私がした発言でこうなってしまったことにうろたえてしまった。
「な、なんでピチットがそんな悲しそうな顔するの……?」
「え? してる?」
「うん……眉毛が、こう、下がってる」
両手の人差し指で彼の眉をなぞって、そのまま頬を包むように手を添える。確かに温かい彼の頬の温もりがじわりと掌に染みるのを待っているうちに、彼が珍しく歯切れ悪く話し出した。
「あのね、加奈子」
「まさか」
「違う違う、絶対違うから」
「そう……」
「疑ってる目してる」
「あれ見てから忘れようと思ったんだけど、どうしても忘れられなくて」
「いや、そんなの見たらびっくりするのは当然だよ……もし僕が加奈子の立場だったら本当にびっくりするし…………多分すごく嫉妬すると思う」
「え? ピチットが?」
「うん」
彼の口から、彼とは一番縁遠そうな感情だと思っている嫉妬が何でもなさそうに投げかけられて言葉を失ってしまった。誰かになびいた(そんなことはしないけど)私を見て悲しみに、または怒りに、もしくはその他の感情をほとばしらせることが彼にもあるのだろうか。全く想像がつかない。
例えば、ロシアのギオルギー・ポポーヴィッチのように自らの失恋を謳い上げたり、イタリアのミケーレ・クリスピーノのように自らの半身とも呼べる妹への愛情を表現するなど、彼の感情に幅が出るということは表現にも幅が出ることなら少しだけそれが見てみたいと思ってしまった。
「あの子はね、親戚の子」
「…………ごめん更に話が分からなくなった」
「親戚の女の子、この前五歳になったんだけど……お母さんの、僕のいとこの携帯を目を離したうちに使ってたんだって」
だから加奈子が想像している関係じゃないから安心してと、とどめを刺された。親戚の、と言ったあたりから嫌な予感はしていた。結果として私の盛大な勘違いだったということだ。自己嫌悪と恥ずかしさで彼の目がまともに見れない。
「あっ、なるほど、そういうこと?」
「そうそう、だから心配しないで。加奈子が想像しているより僕は加奈子のこと大好きだよ〜」
大丈夫、といつものような天真爛漫さを振りまく笑みではなく、じわりと湧き出るような優しい笑みに、表情が優しいのに言葉が艶っぽいとミスマッチに混乱すると同時に顔に熱が集まってしまったのがわかる。
「あっうん……私も……」
反射的に好意を返すと、先ほど念入りに確認したのにドアがあると思われる辺りからドアノックの音が聞こえる。ピチットは私をベッドに押し込んだまま待っているようにジェスチャーで指示をして、手に昨日空けたワイングラスを手に慎重にドアノブをひねった。

「おおい、もう昼だぞ二人共」
「チャ、チャオチャオ?」

意外な人が扉を開けて驚いた声をあげるピチットと、それと同じくらい驚くチェレスティーノさんの声が聞こえてとりあえず安心した。扉を開けたらゾンビがなんて、少し前に見た映画の見過ぎだとは思うけれど、
「どうしたピチット、そんなに珍しいか?」
「うーん、まぁ、いろいろあったから……」
意味がわからない、といった顔をしているチェレスティーノさんの反応ももっともだ。彼としては昨夜ホテルの部屋の前で別れた弟子とその恋人が自分と昨日ぶりに会って不思議そうな顔で自分を見てくるのだから。三人ともそれぞれを不思議そうな顔で見るものだから収拾がつかない。
「ありがとうチャオチャオ、午後からの練習からだっていったけど気が抜けてたかも」
「いや、まぁ、いいんだが」

特段気にした風でもないチェレスティーノさんがドアを閉めたのを同時に、お互い顔を見合わせてこの特異な状況から脱したことを確認し合う。ぐう、と暢気にピチットのお腹が鳴って一気に雰囲気が和やかになる。
「遅い朝ごはんにでもする?」
「そうだね、軽くなんか食べようか」
なんでもなかったように近所の美味しい軽食屋さんを探している彼のスマホを覗き込む限り、それほど時間が経っているわけでもない。不思議だとは思うけれど、彼の言うとおりちょっとしたバカンスだったと思えばいい。屈託のない笑顔でここに行こうと提案してくる彼を見ていると、多少の事は何でもないように思えるから。

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100000hit企画 「In the room」
まり子様より頂いたリクエストです。
楽しく書けました!ありがとうございました。