皮膚と皮膚を触れあわせても、人はひとつになれないならば触れたいと言う欲求自体、ある種の残酷さを孕んでいる。どれだけ触れても他の個体であるという事実は、決して拭えない。

「加奈子、加奈子ったら」
「……ミラ」
「……ミラ、じゃないわよあんた……私の慰労会してくれるんじゃなかったの?」
「あっうん、ちょっとぼんやりしてて、ごめん」
「いいわよ、なんかまた考えてたんでしょ」
首肯すると、しょうがないわね、と言わんばかりに形の良い眉を下げて笑いをこぼす。今日はミラが別れてから初めて甘いものでも食べに行こうと呼ばれていたのだった。
「ユーリには声かけなくていいの?」
「いい、今忙しいだろうし」
「そうだけどさ……」
「いいよ、いこ」

半ば強引に待合室を出て、最近流行りの、おしゃれだけど気取らないイタリアンへ向かう。故郷での暦の上ではもう春だというのに、この国の春はまだ遠い。
「ね、加奈子」
「何?」
「最近のユーリ、すごいのよ、もう、なんていうか、プリマで」
「プリマ?プリンシパルじゃなく?」
「うん、プリマ」
悪戯っぽく笑うミラには何のことだかわかっているのだろうけど、大会が近いらしく関係者以外立ち入りを禁じられたリンクの中のことはわからないし、ユーリとは通話やチャットはするもののそんなこと一言も言っていなかった。胸に降り積もる澱が黒く濁ってゆくのがわかる。それにつけるべき名前を知っている、が、認めたくはない。私だけ彼を浅ましく求め、焦がれ、強く在れないのだと証明してしまうようで。

「加奈子、あれ見たら感動しちゃうと思うよ」
「うん、そうかもね」


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妙に元気のない私にメニューを手渡すミラの顔がどんどん険しくなってゆく。ミラは優しい子だから、悩んでいるなら悩んでいるで、話さない私を心配して怒ろうかとしているのだと思う。
「……まあいいわ、そういうのはある程度お腹が満ちてからにしましょ」
「うん」

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「で、何?あんたまた私は年が上だから、っていうの?加奈子の中でなんでそんなに歳を取っていることが大きいの?それってそんなに苦しそうな顔してるのに黙って我慢してなくちゃダメなことなの?」
矢継ぎ早に質問を浴びせられ、思わずフォークを持つ手が止まる。苦い苦いエスプレッソと、脳天に刺さるような甘さのチョコレートケーキの取り合わせに感動するために動いていた脳味噌が急に現実に引き戻されてくる。
「だって」
「だって、何」
「いやでも今日はミラの慰労会だし」
「じゃあ主賓の質問に答えてよ」
頭の回転が速い彼女に投げかけるにはあまりに弱すぎる言い訳など意味をなさなかった。それに美人がすごむと迫力が段違いだ。

「でも、私の中では今ユーリに負担をかけるのは筋じゃない、と思う」
「なんで負担だと思うの」
「なんでって……そりゃあ、忙しいし」
「そんなこと言ってたらずっと会えない、お互い予定をすり合わせて会いたいって……好きな人の事を負担に思うなんて、そんなの」

そこまで言って言いすぎた、と思ったのか気まずそうにアフォガードに沈んだアイスを掬っている。ミラの言うとおりだ。出会ってすぐくらいの、引力に近いものを感じた激しい恋の炎に焼かれるという体験を久しくしていない気がする。
「ありがとうね、ミラ」
「何よ急に」
「怒ってくれて」
「あんたねぇ……ユーリは一言多いけど加奈子は一言少ないのよ」

「ミラが、心配してくれて、怒ってくれるのが嬉しい」
「そ」
素っ気ない返事だが、表情豊かな彼女だから明らかにホッとしたのがわかる。変に不安にさせてしまった。
「ミラ、ミラだって失恋したてなのに、ありがとう」
「いいえ」

友人と笑いあう穏やかな幸福。そんな緩やかにすぎゆく時間は一瞬で幕を下ろした。下された、という答えが正しいだろう。
その、幕引きの原因とはガラス一枚隔てていて、触れられない。
「……加奈子、行って」
「でも今日は」
「いいの、行って」
「……ありがとう、ごめん、また行こうね」
「ええ」

ミラには本当に申し訳ないことをした。ミラの慰め会で私の悩みをぶちまけて、揚句中座してしまう。けれどこの状態で残っても彼女は良い顔しなかっただろう。また今度埋め合わせよう。
「ユーリ」
「加奈子」
「背、伸びたんじゃない?」
「少し」
足早に移動しつつ言いたいこと、いや、言いたかったことを好きなだけぶつける。そのぶんだけ返事が返ってくるのがうれしくて、どうでもいいこと、今でなくてもいいことも聞いてしまう。

「ご飯食べてるの?」
「めちゃくちゃ食わされる。それも野菜とかささみとか卵とか」
「元気にしてる?」
「うん、平気」
「勉強は」
「し……してる」
「信じるよ、困ってることない?」
「ある」
会話が途切れ、自然と互いに黙り込む。
いつの間にか暮れてゆく陽が金糸を照らし、黄金と見まがう光を放つ。光の中でも、意志をもって向けられる翠は陰らない。この美しい人にも悩み事があるのだ、と現実として捉えられない。何に困っているの、その一言が喉に貼り付いて出てこない。
「……ずっと会えなくて、寂しかった」

しばらく見ない間にどこか別の世界の人みたいな雰囲気になってしまったユーリ。
ミラだってとってもすごいスケーターなのに、その人ですら感嘆させてしまうほどの実力をつけたユーリ、そして、今私の目の前で、寂しいと零すユーリ。どれもが同じユーリなのに、嵌らないパズルのピースのように、自分の中で同じ人として処理できない。
それでも、別の個体だからこそ、触れたいと思った。思春期をひた走る少年と青年を行き来するユーリが見せる、男の人としての一面を私一人の中で閉じ込めておくために。

私からしたら蒼白とも取れる頬に手を伸ばす。
そのまま前髪をかき分け、額に触れる。ここまでシミもニキビもない、完璧なお肌だ。すこし羨ましいくらい。大人しく撫でられているどころか、もっと撫でろと言いたいのか首をかしげてくる。
「私も会いたかったよ」
「うん、ごめん」
「謝らないで……大会、見に行くからね」
「絶対、いい演技する」

「今日は何時までにコーチのお家に戻らなきゃいけないの?」
「十七時」
「……そっか、じゃあ、気を付けて」

ここから行くには、今出てギリギリ間に合うか、少し遅れてしまう位だろう。それなのに、少しの時間でも会いに来てくれたという事実があまりに嬉しい。名残惜しいが、手を離す。またこうして時間を作る努力をしよう。

引いた手を掴まれて、軽くよろめき、ユーリの方に倒れ込んでしまう。思いのほかしっかり抱きとめられ、いままで落ち着いていた心臓が急に活きがよくなる。いつのまにか私の身長も追い越して、身体だってしっかりしていくんだろうな、と思うと成長が楽しみで仕方ない。
「加奈子」
「身体に気を付けてね」
「電話する」
「うん、また時間見つけて会おうね」
肩にぶつかる顎の感触で、何度も首肯しているのがわかる。
好きな人が自分と同じ好きを持っていただけで、こんなにも嬉しい、満たされる。キスをするときユーリが背伸びをするのは、あと何回だろうか。

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「で、どうだったわけ」
「どう……って、普通に会って話したよ」
「ふーん、よかったじゃん……ユーリも少しピリピリしすぎてたの、和らいだ感じするし」
「そう?」
「そうだよ」
彼を近くで見ているミラから彼の様子を聞くだけでまた会いたくなってしまう。同じ個体だったら、会いたい、と別の個体を欲することもないだろう。だから、私たちは別々の惹かれあう個体で居るのがいいんだ、と最近は思えるようになった。前よりずっと会うようになったし、触れ合うようになった。


「ま、仲よくやんなよ」
「う、うん。ありがと」
夜遅くまで通話に付き合ってくれたミラに感謝しつつ、通話を終える。
明日もまた早いだろうに、ミラに借りを作り過ぎた一日だった、と回想に浸るのもつかの間、携帯が震える。

起きてた?
と。送り主は確認するまでもない。
こうして私たちは求めあい、惹かれあうのだと思うと唇の端が緩むのが抑えられない。

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企画「共鳴」に提出
テーマは「触れたい」