確かに地図を見ると、海水浴というものに縁がなさそうな地形ではある。だからこそ、長すぎる冬を超えたら南国でバカンスを過ごしたい、という思考回路になるのだと思う。それはわかる。
分からないのは私も呼ばれているということ。偶然休みがとれたし、貯金もあったからいい機会だし行っちゃお、と気楽な気持ちで航空券を取ったときの私の心理をもう一度辿りたいくらいだ
私とユーリは、友達のようなものであると思う。時々連絡だってするし、試合だって、時差があるからリアタイはできないけど、見ている。(というか見たか聞いてくるから、見ていないとは言えなくて)
けれど、彼氏とか彼女とか、そういう名前を付けれるただ一人の特別というわけではない。

そんなこと考えること自体おこがましい。おこがましいとわかっていながらも、声をかけられたのはとっても嬉しかったし、物凄く忙しいのに、時間を作って連絡を取ってくれるのだって嬉しい。けれど、期待なんかしちゃいけない相手だと思う。
あのナリだから、誘ったら諸手を上げて飛びついてくる女だっているだろうにわざわざロシアから遠いここを選ぶなんて、と南国特有の潮風を浴びながら空港からホテルへのバスへ乗る。日本の潮風より若干生臭さは感じられない。本当に外国まで来ちゃったんだな、と思う。

ごしゃごしゃと散らかる思考を押し流す、目を見張るほどのきれいなライトブルー。確かこんな色したカクテルがあった気がする。
水平線が申し訳程度に引かれていて、空と海の境界をそこに認めることができる。その波打ち際を縁取る白い砂。絵にかいたような楽園が、目下に広がっている。

寝るところにはこだわらないから、治安の良い地域で、バス停から少し歩くところを選んだ。カンカン照りではあるものの、湿気は少ないので歩いていても不快ではない。この日のためにワンピースも水着も買っちゃった。それで正解だと思う。こんな素敵な所で過ごすのだから、形から入ってもいいはずだ。

一人で寝るには十分すぎる部屋だ。
家のよりずっとふかふかのベッド、少し古いけど申し分ない。ベランダから綺麗に湾が一望できる。ここから見た海は湾の形で切り取られて、これがどこにでも続いているだなんて、にわかに信じられない。

ユーリが着く前にひと泳ぎしようと、水着に着替える。日本じゃなんだか気恥ずかしくて切れないビキニタイプの水着。なんだか少し大人になったような気がする。日焼け止めを塗って、水を買って、準備ヨシ。

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こんないい時期なのに観光客の影はまばらだ。スマホで調べてみたら、メディアにすっぱぬかれたりするのを嫌がる有名人たちが暗黙の了解のもと集まるビーチ、らしい。
なるほど、これで空港係員の怪訝そうな表情に説明がつく。

さっき買ったばかりなのにすっかり結露の汗をかいている飲みかけのジンジャエールをだらだら飲みながら、唯水平線を眺める。なんてぜいたくな時間だろう。異国、ロシアで時間に追われながら生活をしていたのがはるか昔の事のように思える。

足を海水に浸す。思い切ってネイルも綺麗にしてきてよかった。透明な海水と、ネイルに乗せたストーンのきらめきが綺麗だ。まだ少し冷たいけれど、この気候なら寒くない。
一通り水遊びをし、荷物を置いたビーチチェアに戻ろうとすると、近くに人がいる。まさかこんなとこで置き引き……日本と同じ感覚で行動するなとユーリに、年下の男の子に説教されたのを右から左に受け流したのを少しだけ後悔する。

「ちょ、あの」
おそるおそる声をかける。サングラスを取る骨ばった手と男の人にしては長い金髪になんとなく見覚えがある気がするけれど、油断は禁物だ。
なぜか苛立たしげな仕草がかなり怖い。横目で体格のいい飲み物売りのオジサンの位置を確認する。


「あれ」
「あれじゃねーよ」
「だって」
そんなに背が伸びてたらわからないよ、なんて言い訳はひっこんだ。呆けた顔で眺めている私の額を突くしなやかな指先も、誰かほかの人のものみたいだ。
「なんか、知らない間に大人になっちゃったみたいな」
何言ってんだ、って顔で見てくるけど、こんなことユーリは気づかない。目線が変わってることくらい気づいてそうだけど。たぶん背、追い越されている。

「いつついたの」
「さっき」
「ロシアからだと遠かったんじゃない」
「遠かったけど、日本から近くないと、来ないだろ、加奈子」
「そりゃそうだけど……言ってくれれば、ユーリ忙しいのに」
「忙しいのは加奈子もだろ」
さっきから完全に論破されてばかりだ。返す言葉の球数がどんどん減ってゆく。

何の衒いもなくすっかり氷がとけきった、私のテーブルにあったジンジャエールを飲み干すユーリの喉仏が上下するさまや、どこで買ったか知らないけど、大胆な虎柄のTシャツに覆われた肌の白さを想像することすら恐ろしい。
あれは違う、世界が違う生き物だと言い聞かせないと変に勘違いしそうになる。傷つくのはいくつになっても怖いし、嫌だから先に踏み込んではいけないラインを引いておかないと、どうにも落ち着かない。

そうやって頑張って、私が私を守りたくて引いたラインを、ユーリは悪意なく(あるかもしれないけど)踏み越えてくる。
手を引かれるまま波打ち際まで来た。こういったときに肌の色の違いというやつを思い知らされる。私のは黄土に近い色で、彼は青白い。なるほどこれが黄色人種と言われる所以かと、一人納得する。
ドキドキもするけれど、しすぎて、ドキドキする器官は壊れてしまったから今こんなに冷静で居られている。握られている手だって汗ばんできて恥ずかしい。できるなら振り払って逃げてしまいたい。

という私の考えを知ってか知らずか、文字通り冷水を浴びせられた。意識がよそにいってしまっていたせいか、ユーリに海水を浴びせられたことに気付くのに数秒かかってしまった。
「何湿気たツラしてんだよ」

ここで、俺と居るんだからそんな顔するなよ、なんて歯の浮くようなセリフが出て来るとは思っていない。けれどこんな嫌そうな顔で言うことない。楽しみにしてたのがバカバカしいと思うのが悲しくて、自分の口から出たとは思えない冷たい声音に少し驚いた。
「やったな、ガキ」
「ガキ扱いすんな、バ」
全て聞く前に海水を蹴りあげてた。
「私がッ!バ……なら、あんたも!ジジイだから!」
返答すら許さない勢いで水をかける。こんな子供っぽいこと何年振りだろうか。言いかえす言葉も、行動も、何もかもが幼い。あれだけ彼の前では理性的な大人で居ようと頑張っていたのに、すべて台無しだ。
きらきら光る水しぶきの向こうで、なぜか笑っているユーリが腹立たしくて結局息が上がるまでばしゃばしゃと延々かけ続けた。頭のてっぺんからびしょぬれでも、水も滴るなんとやらで、当たり前といえば当たり前だが、彼の美貌は少しも損なわれていない。

「……ごめん」

急に沈静化したのがおかしかったのか、笑いをかみ殺しているユーリがどうみても大人の対応で、怒り出した自分がバカみたいで(実際バカだけど)、どうにも力が抜けてしまった。ふらふらと波打ち際まで戻り、身体を横たえる。

どれだけ私がバカなことをしても、空は変わらず底抜けに青い。海水は冷たい。濡れた髪についた砂はうっとおしい。

視界の端に金髪が見える。今隣を見たら、ユーリの顔が近くに来ることになる。
さっきから心臓の音ばかり聞こえるものだから、私の心臓はとっくにダメになってしまっているのかと思ったが、そうでもなかった。今もしっかり、いつもより頑張って動いている。
「加奈子が」
急に近くで声が聞こえて、思わず身を竦めてしまった。

「加奈子がこんなふうに、感情的になるの初めて見る」
「……ごめん、こんなくだらないことで、大人げなかった。せっかく誘ってくれたのに、ごめん」
「大人げなんていらない、そんなもんあると、加奈子はいつも……少し遠くから話してるみたいで、嫌」
「そうかな……?」
「そう」
顔を見て話せない。大人ぶっていても、まだまだ弱い。ユーリとは逆の方向に身体を向ける。顔が見えない方が都合がいいことだってある、はず。

「ヒーッッ何すんのっ!!」
「すげぇ変な声」
「手が冷たい!」
「あー」
冷たい指がいきなり背中をなぞって思わず酷い声が出た。乙女(?)の出す声ではないように思う。
「何か書いてる?」
「ん」
「ロシア語、書くのはぜんぜんわからないよ」
「知ってる」

知っててやるってことはもしかしたらなにかのからかいの言葉かもしれない。意識して形だけ覚えて、あとで辞書で調べることにする。

ぼんやり身体を横たえていると、自然と眠気が襲ってくる。水に浸かっていると体力が削られるし、フライトだって疲れた。その間ユーリは黙って同じ形を飽きもせず私の背中に書きつけている。
「そんなに言いたいことが有るなら言ってよ」
手が止まり、さっきから陽に当たりっぱなしだった肩が軽く叩かれる。
「着替えて、メシにしよう」
思いきり話を逸らされて拍子抜けする。けれど確かにちょうどお腹が空いている。気だるい身体をどうにか起こし、先に歩き出したユーリを追いかける。
「さむ」
「ずっと海に入ってたからな、頭冷えたか」
「おかげさまで冷え冷えです」
まだくつくつと笑い声が聞こえたので遠慮なくどつく。もちろん競技に影響がなさそうな所を選んで。
「ほら」
顔めがけて飛んできた塊をよけきれずそのまま顔で受け止めた。少しサイズの大きいパーカーだった。
「貸してくれるの?」
「イカしてるだろ、貸してやる」
これまた某球団を彷彿とさせる虎柄のパーカー。若干引き笑いになってしまうが、一応ありがとうとだけ言っておく。少し前まで、私より小さな服を着ていたのに、数か月でこれだ。こんなふうに、何度か季節を見送るたびに私の知らない人になっていっている。きっとここで踏み越えなければ、もっとずっと知らない人になって、そう遠くない先には昔の知り合いになってしまうんだろう。そうならないためにも、私は一歩踏み出さなければならない。
わかっていてできたら苦労はしない。でもこの降って湧いたバカンスはまだ終わらない。この夏を見送るまでにはまだ時間がある。

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「じゃ着替えたらまたここで」
「わかった、気を付けて行けよ」
「こっちのセリフだからね?」
「大人ぶんじゃねーよ」
最後まで可愛くないセリフを吐いて背を向けて歩き出す。ビーチからはお互いそう遠くないところで宿を取ったので、すぐに集まれるだろう。

潮風でバリバリになった髪を洗い、ある程度体裁を整えたところでユーリが何を背中に書いていたのだろう、と思い出した。ババアとか年増とかだったらどうしてくれようか。
うすらぼんやりとした記憶から、どうにか形を思い出して、スマホに指で書いて入力していく。途中まで描いたらサジェスト検索までできるのだから、今のスマホは本当にすごい。

じわじわと耳が熱くなるのがわかる。
検索結果に書いてあったのはあまりにシンプルな言葉だった。シンプルに、それでいて回りくどい方法で、想いが伝わるわけないとわかっていても、もしかしたらに縋りたくなったのかもしれない。
けれど、どれも私の思い違いとも言える。これは直接会って確かめたい。もう、これでダメだったら諦め……きれないかもしれないけど、一区切りはつきそうだ。なんども伸ばしては引っ込めた手を、伸ばすときが来ている。

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「おまたせ」
「遅ぇ」
「ごめんごめん、何食べようか」
考え込むユーリの横顔をじっと見つめる。視線に気付いた翠がこちらを伺う。
「あのさ」
「あんだよ」
「浜辺で横になってた時さ、私の背中に何書いてたか調べちゃった」

瞬時にユーリの耳が、頬が、うなじに紅をさしたような赤になった。まさかわかるはずはないと高をくくっていたのだろう。この動揺っぷりは見てるこっちが心配になる。

「そういうの、調べるか、普通」
やっとそれだけ憎まれ口を叩くが、そんな真赤な顔で言ってると迫力が全然ない。それでも茶化す気になんてなれない。あるのは私だけじゃなかったんだという安堵だけだ。その後じわじわと喜びが満ちてくる。
「ユーリ」
もう口の端がお互いに緩みまくっているから雰囲気が締まらない。自然と握り合った手から伝わる体温だけでもうわかってしまった。お互い一歩が踏み出せなくてつらかった、でもこれからは、辛かった分だけ、いや、それ以上に我慢してきた「好き」を伝え合うことができる。それが何よりうれしい。神経質そうにひそめられた眉も、今は表情が緩みきっていて眉尻も目尻も下がっている。
こんな穏やかな顔ができるんだ、とまず発見。これから色んなことを傍で見つけることができるかと思うと、楽しみで仕方ない。私もきっとユーリと同じように、まっかな顔をしているのだろう。

「これから、どうしようか」

夏はまだ始まったばかりだ。



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20000hit企画で宮原様に曲を教えていただいて書いたものです。
裸//足でs/um/me//r(乃/木/坂四十六)です。