他人の人格ひとつ、自分のものにしてしまいたいという、わかりやすく言うならば独占欲と名前がついた感情は、思春期を過ぎたあたりから普遍的に持ち始める時期だと一般的には言われている。
物語では甘やかでとろけるような温かさでくるまれるものだとされているそれを、初めて他人を強く求めるということを知り、身を焦がす嫉妬、焦り、とまどいが、その少年を少し過ぎたあたりの胸を埋め尽くして息もできなくなる、それを人は、初恋と呼ぶ。

「なにこれ、ユーリ読んで」
「だっ、ダメだ、それは、無理」

「無理って何よ、ロシア語だからユーリ読めるでしょ」
「無理なものは無理」
「だって、ここから出るヒントってこれだけじゃん……」
「でも」
「でもじゃないよ……さっさと出て空港向かわないと」

確かに加奈子の言っていることは正しい、けれどどうしても正しいだけで譲ってはいけないものもある、と俺は思う。

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「で、何これなんて書いてあるの」
「だから」
「……ダメとか言ってる時間はないと思うけど……?」
「そうだけど……」

いつもの歯切れのよさが息を潜めている。このどうかしてる状況が悪いのはわかるけれどそれ以上の何かがあるのかもしれない。言ってくれないとわからないから顔を覗き込もうとしても目を逸らされてしまう。
「……どっちかが死なないとダメとか書いてある?」
「そうじゃない!」
「わかった、わかったから」
そして、こうやって脈絡もなく荒れることも珍しい。言葉が悪いから常に怒っているように見えるが本当に怒っているときは一握り、だと思う。多分。それなのにこんなに焦っているのはどう見たっておかしい。けれど急かし過ぎても意固地になるだけなので気長に待つことにした。いつもよりずっと豪華なソファに深く腰掛けて備え付けのコンロでお湯を沸かしてお茶の支度をする。

「なんだよ、加奈子だけ」
「そんな卑屈にならないの、ユーリのぶんももちろんあるよ」
「ふん」
態度も口調も迎合する気なんて在りはしないと主張しているかのようだけれど、行動だけが伴っていない。不機嫌を表現するためだけに背中を向けてはいるものの、その背中がぴったりくっついているのだからカワイイ強がりも形を成さない。

「いいよ、飛行機は次が来るからさ……でもユーリみたいに、自分の持っている時間の価値がわかっているひとがこんなどこぞのテレビ番組が仕掛けたような企画さっさと済ませて練習に行かないとって思わないのは不思議だな」

少しいじわるな口調に、自分でも驚いた。何か言いにくい事情があるかもしれない、辛いことを言おうとしているのかもしれないと考えられる事情はたくさんあったのに、私の口から出たのは気遣いながら促す言葉ではなく辛辣とも言える、彼の内面を鑑みようともしない言葉だった。
もっというと、彼をスケートのために生きている人、と捉えたような。もちろん本人がスケートのために生きていると言うことは自由だ。けれど他人から何かのために生きる人間だからこうしろ、何もかもを捨ててスケートに打ち込めというような言葉を投げかけられるのならなおさら棘が混じる。

人を大切にするということのむずかしさを何度も感じたはずなのにまたこうしてひどく傷つけてしまう、まずいことをしたと理解した脳が手汗を滲ませる。

「でも……こんな理由で言いたくねえよ……」
「そっか……」

いまいち意図がつかめない言葉を最期に会話が途切れ、言いたくないなら無理に吐かせるのもよくないだろうと判断して黙ってお茶の支度をする。これでもかというほどジャムを放り込んで渡す時に触れた指の冷たさに驚いて、思わずマグを取り落しそうになってしまった。
「ユーリ、ちょっと」
「ここさぁ、ちょっと寒くね?」
耳まで赤くなるくらいなら何も言わずに来ればいいのに、私が拒絶したいならしやすいように逃げ道を残しておいてくれるのだからどこまでも優しい。
「そうね、少し寒いね」
「だろ? ほら、来いよ」
冷たい掌に手を包まれてももちろん冷たいのだけど、黙って隣に座る。何を言い淀んでいるのかは知らないけど、スマホの電波も入らない今、あれはユーリに読んでもらうほかない。

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すっかり乾いて茶渋が張り付いたマグを眺めていてもここから出れるわけではない。無情に針を刻む時計の文字盤を見遣ると、もう既に飛行機は出発してしまっている時刻だった。ユーリはと言うと、さきほどから黙ったままで脱出の糸口すらつかめていない。
「あのさ」
普段からは考えられないほどしおらしい声音でぽつりと呼びかけられたかと思うと、ほかに自分を飾る必要がある人がいないからこそ出た、素の彼、とも言える少年と青年の間を行き来するユーリが翠を不安に揺らめかせながら何かを言おうとしている。

「なに?」
「加奈子は驚くかもしれないけどさ、あれ、俺も、加奈子も、素直に……言わないと出れない」
「……え?」
詰問調で言わなかっただけ褒められたい。
あまりに突拍子もない条件だし、判定がどうやってされているかもわからないのに縋る手段はそれだけしかないという恐ろしさに急に背筋が寒くなった。

「な、何を素直に言わないといけないの?」
「お互いが、どう思ってるか」
「えっ、あー、そ、そういうことね……」
そそくさと握った手を離してユーリから目を逸らす。つまりこう、どう思っているかということはラブかライクかその他、未だ言葉で飾られていない感情を抱いているのかなどなど、ここで明かし合うということだ。先ほどのユーリの、こんな理由で言いたくない、といった意味がやっとわかった。

確かに、たとえどう思いあっていようと、誰が聞いているかわからないところでプライベートな、もし相手が拒絶するなら喉奥までせりあがった言葉を飲み下してしまいたいようなことを、言わないでおきたいと言う選択肢がない状況下で伝えあうというのはなかなかに心苦しい。
それでもお互いひっこめ続けた気持ちを伝えるいい機会かもしれない。それはそれで関係性へ一石を投じることができるのだから。

だいたい手を握り合うことはできてもキスはしないだなんていう微妙な関係は互いの時間を空費するだけだろう。なら白黒つけることはできなくとも、少し何か色づくことができるかもしれない。

「そんなの……簡単だよ、そんなに気負うことじゃない……私はユーリのこと大切に思ってるよ」
「そっ、か……」
「なんか不満げだね」

「それって、俺と同じ好き、ってことでもいい……のか?」
「多分そうじゃない……?」

さっきからしょぼくれたり拗ねたり大変だった機嫌がコロッとよくなるのがまだまだ少年らしくてかわいい。カッコつけて急に表情をひきしめてみても遅い。
拒絶が返ってこないことを確信したのか、引き結んでいるつもりだろうけどだいぶ綻んだ口の端をどうにか整えて、ぽつぽつと語り始めた。

「あ、あのさ」
「うん」
「俺、ずっと加奈子に生意気なこととか意地悪言ってきた」
「そうだね」
「ごめん」
「好きな子にいじわるするのは意味ないよ」
「……だよな」
目を伏せて袖口をいじるユーリに少しだけ同情して、以前より大きくなった掌に私の掌を重ねた。
こうして自分のやったことを冷静にみつめることができるようになったのも、ヴィクトルさんだけを追いかけて、ヴィクトルさんの言う通りにすれば自分は上にいけるとでも言いたげな依存っぷりから一歩引いて、自分を支えるもの、追いかけるものが見えるようになってからだ。
そして今、その方が楽だからとだらしなく身を寄せ合っていた私との関係を言葉にしようとしている。

「俺、加奈子のこと、す」

がちゃ

間抜けな音を立てて、確かに鍵が開く音が聞こえた。
どこを聞いて「お互いの気持ちを素直に言いあった」と判定したのか全くもって不明だけど、出れることは出れるらしい。決死の告白を途中で遮られたユーリはと言うと私の目の前で唇を噛みしめて俯いている。
「出れるね、行こうか?」
「いや……まだいい」
「え? そう?」
「だってまだ話は終わってないだろ……!!」
「聞いたよ? 好きって言ってくれたんでしょ?」
「そうだけどさ! そうだけど、そうだけどさ!!」

まだもにょもにょ何かを言いだそうとしているユーリが散らかした布団や備品類を、適当にまとめて部屋を出る支度をする。何を言うわけでもなくあとをついてくるのが昔テレビで見たカルガモの子供のようでかわいい、だなんて言おうものなら意地でも素直な気持ちを露わそうだなんて思わなくなるだろうから、黙っておくことにした。

目の前に圧迫感が、と思ったら唇に感じた切り傷らしき痛みが連続して起きて混乱するが、すぐにやってしまった、と言わんばかりに顔色を青くしたユーリを見て納得した。
「キスしたかったら言えばよかったのに」
「悪ィ……」
ユーリの唇についた私の血を拭って、自分の唇に当てる。じわじわと暑くなるような痛みが広がる間、ユーリはしょんぼりと萎れてしまってかわいそうに、黙ってそばに座ってる。心なしか哀愁すら感じられる。

「そんな顔しなくても、いつでもできるよ」
「今がいい」
「そっか、じゃあ血が止まるまでまってて」
こくり、とユーリが頷いたのを見て、次のフライトのことに意識を戻す。ここを何時に出ればいいだろうか。

軽い切り傷だったらしく、すぐに赤黒く塊がへばりつくようになった。
「ごめんな」
「いいよ、もうそんな痛くないし」
「もうしないから、その」
それ以上何かいう気か?という意味を込めてユーリの唇に人差し指に指を押し当てるとちゃんと意味を汲んでくれたらしく今度はさっきよりずっと慎重に唇が寄せられた。

命短し恋せよ、なんとやら、とはよく言ったもんだ。この唇の熱さも寄せ合った身体も、明日には冷たいかもしれないのだから。

お互いの唇の感触を十分に堪能したところで、やっとこの妙な部屋から出ようという気になった。まだまだ寒いロシアの春先も、繋いだ手の先が温かければそう苦痛でもないはずだ。



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100000hitreq しゃあ様リクエストの「お互いの気持ちを素直に言い合えないと出れない部屋」でした!