忍ぶ恋、だなんて言うと美しいものとして表現されることの方が多い。
ひそかに愛おしいひとを大切に思う。それは大いに結構。好きにすればいい。
けれど行き過ぎた片思いは、どこにいけばいいのだろう。ずっとためておくにしても、腐ってひどいにおいを放ったりしそうなものだけれど。まるで薄氷の上を歩むような生活にだんだん疲れてきた。たとえ氷が割れても、私一人で沈んでいきそうで。

「加奈子ちゃん?」
「う、すみません」
「いや別にそんな謝ることでもないんだけど……なんか、具合悪いのかなとか心配になっちゃってさ……」
包丁を握る手が止まっていた。私がぼんやりしているから悪いのに、どこまでも優しい。けれど、その優しさゆえの心配は私を逆に痛めつける。せっかく心配してくれているのに、その心配が私と同じ気持ちからじゃないから嫌、とわがままにも程がある。
私のポーカーフェイスも随分うまくなったもので、そんな濁りきった情をにじませることすらしない。
そうでもしないと、勇利先輩の顔が曇ってしまう。それは嫌だ。これを続けていくと決めたときから、勇利先輩を悲しませるようなことだけはしない、と自分に言い聞かせた。それに、自分のなかで抱えきれない感情で大切な人を傷つけるなんて、片思いの流儀に反すると私は思う。

「大丈夫です、すこしだけぼんやりしていて」
「そう?じゃあもう少しだけ頑張ろうね」
「はい」

そこかしこが痛くて、二人で居れて嬉しいのに、このままでいたくなくてどこかへ去ってしまいたいという二律背反。


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「で、何?その貴重なバイト代をここで使うの?」
「ええまぁ……呑まないとやってらんないときもあるんですよ、先生」
「いいけどさ……それ、楽しい?」
ミナコ先生のお店は小ぢんまりとしているが、それが逆に落ち着く。酒臭いため息に先生が顔を顰める。
「ちょっと、加奈子呑みすぎじゃない?」
「そうかもしれないですね」
「勇利?」
「それ以外ないです」
「……それだけ熱烈なせりふをさ、勇利の前で言えればね」
「言ったら終わりですよ」
それに関してはミナコ先生も同意見なのか、黙って所在無さげに机を拭いている。勇利先輩はきっと優子先輩に叶わぬ恋……かは知らないけれど、憧れを抱いているのは確かで、それを消化しきれていないというのも、合っているだろう。

「先生、やってますか」
「おおー!!勇利!!めずらしいわね、こっちにくるなんて」
こんばんは、勇利先輩。それだけ、それだけでいい。言葉が喉にひりついて出てこない。
「こんばんは、加奈子ちゃん」
「こんばんは」
「隣いいかな?」
「ええ……はい」

悪い訳がない。けれど少しでも気を抜くと涙がにじんだり心臓が口から落ちたりしそうだ。
「先生、響ロックで」
「はいはい……勇利は何にする?」
「じゃあ、加奈子ちゃんと同じので」
沈黙。
もし沈黙が視覚化されたなら薄い紫なんだろうな、というような、誰もが互いの動向を伺う沈黙。大切な、自分の気持ちを踏みにじってまでその人との関係性を守りたかったと言うのにうまく話しもできない。

「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」

御礼を言って受け取った琥珀色の液体、これなら私をもっと痛めつけて、今日の事も忘れさせてくれそうだ。

「そうだ、勇利。思いついたの?」
「思いつかないですよ……」
「何がです?」

「あのね、今うちに来てるヴィクトルって言う人、僕がずっと憧れていた人なんだけどその人が急に僕のコーチをしてくれることになって」
「すごいじゃないですか」
「そう、そうなんだけど……アレンジ違いの 愛について をテーマにした曲を滑るっていうんだけど……そんなさぁ……急にそんな愛だなんて言われても」
そう言って物憂げにため息をつく先輩。心配しなくても、もう先輩は愛がなんであるかを知っているだろうに。それが今、私に向かないことも知っている。
「愛について……女の子に言うことじゃないかもしれないんだけど……愛について、エロス。それが僕が滑るアレンジ」

そのヴィクトルさんとやら、ずいぶん面白いことをしてくれた。
この純朴、素朴、そして初心そんな概念を寄せ集めたような先輩から性愛を表現しろと言うのだから。先輩は悩んでいるのだろうけど、楽しみで仕方ない。
「ごめんね、変なこと言って」
「いいえ、でも、もう先輩はそれを知っていると思いますけど」
「え?」
ミナコ先生から、痴話喧嘩なら外でやれよという言外のプレッシャーを感じるが、なけなしのバイト代で注文した酒を置いて帰るほどリッチじゃない。
「でも、私は勇利先輩が考えるエロスがみたいので、私が考える勇利先輩のエロスとはまた違うと思うので。存分に悩んで下さい」
あ、今自然に笑えた。と思ったらぎこちないながらも先輩も微笑んでくれた。嬉しい。好きな人が私の言葉で笑みを浮かべてくれることがこんなに嬉しいことだなんて知らなかった。思わず笑みがこぼれそうになる。
「そうかな……?ありがとう、加奈子ちゃん」

かろん、と心地よい音を立てて氷が揺れる。
先輩はもともとお酒に強くなかったのか、こくりこくりと船を漕いでいる。
「どうすんのこれ」
「どうしましょうね」
「キスのひとつでもしちゃえば?」
「嫌ですよ、そんなの。すればいいってもんじゃないです」
「それもそうね」
けれど、いままで誰も親しげに触れたことがないであろう少しかさついた唇に触れてみたくない、と言えば嘘になる。
「じゃあ、勝生姉でも呼ぼうかね」
「そうですね」

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電話を取りに戻った先生が、長話に興じているのが聞こえる。このぶんだと当分帰ってこないだろう。

「先輩」
勿論返事はない。わかっていてやっている。

「先輩、好きです。先輩が優子さんや西郡さんとの関係を壊したくないのと自分の気持ちで揺れてるのと同じように私も、先輩の事が好き」

答えは無い、はずだった。
居心地悪げにもぞもぞと動いている先輩の頭を見ているうちに私の脳味噌に血が景気良く回っていくのがわかる。
「……っていうのは……冗談で……帰ります、おやすみなさい、お大事に」
ポケットから適当にお札をテーブルに置いて逃げるように席を立つ。掌から急激に体温が消えて、頭が真っ白になる。早くここから逃げたい、それだけが私の頭にある。


「そうかぁ……残念だなぁ……」
寝ぼけて言っているとはいえ、余りに残酷過ぎる。こんなことを言う人だったのか、と勝手に失望する。
「なんですか、残念って」
「何って、そんな、今加奈子ちゃんが言ったことでしょ」
こっち来てくれる?とやわらかく笑みを浮かべながら手招きする先輩の声は遠くでゲタゲタと笑うミナコ先生の声にかき消された。


「確かに、加奈子ちゃんの言うとおり僕は優ちゃんのことが好きだった」
「けど、あれは子供のころの憧れで、僕の中ではもうケリがついてるよ」

音が鼓膜を震わせ、脳味噌に届けている。けれど理解が追い付かない。この人は何を言っているんだろう?さきほど冷え切った掌に熱がもどっていることはわかる。

酔っぱらってふにゃふにゃと締りのない顔をした先輩の頬を撫でる。怪訝そうな顔をされるどころか、愛おしげにすり寄られる。もはや脳味噌は機能しない、いや、ここで理性などを持ち込もうとする脳味噌に用はない。
「先輩、私」
「うん」
ミナコ先生、電話で楽しく話しているところ悪いけれど迎えは必要ない。


かさついた唇に親指を滑らせる。熱に浮かされたような瞳にじりじりと燃やされているような錯覚すら覚える。薄皮の向こうに、やわらかな肉の感触がある。その奥には薄暗い電灯に照らされてつややかに這う舌が。これは本当に現実だろうか。
震える手を叱咤しつつ顔を近づける。掌を優しく包む感触も、ゆるやかに閉じられてゆく瞼も、穏やかに重ねられる吐息も、どれもこれもが私の前に横たわる現実だ。


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「ということで先生、お姉さんのお迎えはお断りしますね」
「何よ……私が居ない間にそんな面白いことあったわけ?」
「ええまぁ」
「で、さっきから勇利はだんまりだけど?」
「えっ」
急に話を振られて、つないだ手がぴくりと動く。掌を使わないスポーツとはいえ、私より一回りおおきな指が忙しなく動き回る。私の爪の形をなぞったり、間接をいじったり。手からとけてきえてしまうんじゃないかってくらい。

「いや……なんだか、嬉しくて」
「ァ″ア”っ……」

「ちょっ加奈子今どこから声出した?」
「いやぁ……片思いが長かったもんで刺激が強すぎたというか」
「そっか……でも、よかったね」
壊れた赤べこのようにブンブン頭を振って同意を示す私の世界が、さっき変わってしまった。それほどの事が起きたのだから多少の不調は見逃して欲しい。

「はい、おつり。またおいでね」
「もちろんですよーまたよろしくお願いします」
「はい、また」
おやすみなさい、と送り出され、ゆーとぴあかつきまでの道を歩く。私の世界がどうなってしまっても、海は変わらず潮騒を奏でている。ジワリと伝わる掌の体温と、潮風の冷たさが身に染み入る。


「先輩、明日も私朝からバイトです。温泉の掃除」
「滑って怪我しないように頑張ってね」
「はい、先輩は練習頑張って」
「うん、ありがとう」
明日どんな顔をして会おう。絶対にニヤニヤとしてしまって仕事になりやしないだろう。けれど、勤続年数と、抱いた恋心の腐り落ちように免じて、少しくらいは許してくれないだろうか。


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1000hitリクエスト
葵様リクエストです。
ありがとうございました。