おぼろげに覚えている思い出がある。
私が五歳ごろの記憶だ。
拙いながらも懸命に滑る勇利先輩に、ブレードが氷を撫でる音を聞いた私が、氷で演奏しているみたいで素敵と言ったらそのふやふやの頬を緩ませて、ありがと、と言ってくれた。
中学にあがってから、近所のお兄さんという絶妙なポジションに収まった勇利先輩の練習をときどき見に行ってはクラスメイトから冷やかされ、そのたびに勇利先輩は私に恋していないと仲間内に弁解している言葉を聞いた。おい勝生ィ、お前田原のこと好きなのかよ……そんなことないよ、ね、加奈子ちゃん……なんて、よくあるからかい。何も知らない他人から乱暴に手折られて捨てられた恋だった。
けれど勇利先輩は優子先輩を見ているという、中学生で体験するにはあまりに精神を削る不毛を嫌というほど味わった。
高校に入学してからは私も部活に入って忙しくなって、観覧席に居座ることもなくなった。けれど時々アルバイトとしてゆーとぴあ かつきを手伝ったときには普通に接してくれた。近所に住む、小さいころから知っている後輩として。
ずっと斜め後ろから背中だけ見ていた。それだけ。隣に立つ勇気はついぞ気配すら見せなかった。その瞳が誰を写しているかなんて、怖くて見れない。
たったそれだけをずっと胸の中の宝物入れにいれて、そのまま腐らせてしまった。
腐り落ちてほかと癒着していてもどうしても捨てきれない思い出も、いつかは切り離して供養してやらないと先に進めないというけれど、行く先に勇利先輩がいないのなら、この痛ましい思い出に浸っていたいという自傷に近い執着は決して悪とはいいきれないはずだ。
恋はもっと甘くて溶けそうで、幸せで脳味噌の細胞ひとつひとつが満たされていくものだと思ってた。ドラマとか、漫画とかで見る恋愛がそうだから、すれちがったり、迷ったりしてもいつかはハッピーエンドになると。
そんな蜃気楼みたいなものを信じていたなんて、と自嘲するが、そうでもしないとつらくて、好きで居るのがつらいのは嫌で、でも好きで居るのはやめられない、とどうしようもなく雁字搦めになった情に溺れてしまいそうだから。
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「外国で、スケートですか」
「そう、そこにスケートの先生がいるから、行くんだ」
急に足りなくなった食材があると言われ、偶然手伝いに来ていた私と勇利先輩で買い出しに行く途中、なんでもなさそうに切り出された。私にとっては世界が一変してそのまま足元から崩れ落ちそうなほどの動揺を誘うことでも、勇利先輩にとっては買い物帰りに軽く切り出せることだったということが地味にショックだ。
泣き喚いて行かないでといえる立場ではない。唯、下唇を噛みしめて嗚咽を上げないように、勢いでこの想いをぶつけてしまわないようにすることしかできない。
「いつ帰ってくるかわからないから、一応言っておこうと思って」
「ね、加奈子ちゃんにはどうでもいいことかもしれないけど、一応ね」
乾いた唇をついには噛み切ってしまった。涙の代わりに血が流れるなんて随分滑稽だ。勇利先輩の慌てようにこちらが慌ててしまう位には。
「どうでもよくなんかないです」
どうにかそれだけ絞り出した。先輩はそっかあ、とだけ言って、歩き出す。先輩がくれた駅前の塾が配っていたポケットティッシュを唇に当てる。
ここで変に声をかけられていたら決壊してしまっていただろうから、この位の距離感がちょうどいい。ありえないことだけどもしかしたらと、淡すぎる期待を込めて勇利先輩の側の手を空けていたのだが、無駄になってしまった。手袋を忘れて冷え切った手が、いろんな意味で、痛い。
九州とはいえ、冬はそれなりに寒い上に浜風が身に染みる。
「頑張ってきてくださいね、先輩」
「うん、ありがとう」
彼の瞳に私が映っている。かすかに笑みをその頬に湛えて、私を見ている。動揺のあまりいつもより動きの悪い脚を叱咤してどうにか遅れないようについてゆく。
大人しいようでいて気高く、自分の価値を自分で損なうことをしない姿に惹かれているのだから、それでいい。決して、私が抱えている気持ちは、恋という視点から見ると良い形で落ち着いたわけではないのに、なぜだか気分は良い。大切な人が、その人の大切なものをより良いものにするという決意を聞けた、秘密の共有のような喜びを感じる。
「先輩」
「どうかした?」
「……元気で」
「うん、加奈子ちゃんもね」
例え社交辞令とはいえ、私の健康を祈ってくれた。ささやかすぎるが、今はこれで良しとする。選んだ道を歩んでいる姿を、遠くからでも眺めさせてくれれば。
今は、それで十分だ。
「毎日は厳しいですけど、ヴィっちゃんのお世話もしますよ」
「悪いね、ありがとう」
「いいえ、とんでもないです」
勇利先輩を抜きにしても、ヴィっちゃんは可愛い。黒砂糖の色をした綿菓子のような身体で、忙しなく飛んだり跳ねたり忙しい姿を眺めているだけで気分が軽くなるような気がする。
今日も冷えるね、と白い息を吐きだしながら笑いかけてくる勇利先輩を、心に留めておけるだろうか、いつかこの光景を忘れてしまわないだろうか、とひどく焦った。
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そんな焦りは無用だった。
それからゆうに五年、先輩は帰らなかった。五年前、告白していたら会いに行く勇気が湧いたかとも考えたけれど、判決を先延ばしにして正解だったと思う。道はいつも一つではない。
「なんか、随分前に加奈子ちゃんとこうして歩いたような気がする…」
「そうでしたっけ」
今でも夢に見る光景だと言うのに、すっとぼけてみせる。好きな人の前で張る虚栄、それは可愛げのあるものだと思う。
奇しくも、前と同じ刺すような寒さの日だ。
「加奈子ちゃん、元気にしてた?」
「ええまぁ、先輩は」
「元気だったけど……結果は見ての通り」
頬をひきつらせる笑みで、私を見る。こんな痛ましい笑い方をする人だっただろうか。
「先輩はカッコいいと思いますよ」
「えっ……!??!」
「あっ、えーと、スケートが」
そこは否定しなくてもよかったと後から気づいた。
「あの、なんていうか……そんな卑下しないでも、今までだって、這い上がってたし、あのすごいコーチの人だっているじゃないですか」
「そう!ヴィクトル!今でもまだ信じられないよ……」
そこからは延々とヴィクトルさんとやらの話をずっと聞いていた。先輩があまりに嬉しそうに話すから、大変なことなんだということはわかる。五年前に感じた壁が距離と時間を置いたことで少し薄くなっている気がする。気のせいでないと信じたい。
「応援してます」
今までで一番素敵な笑顔ができた。これは気のせいじゃない。勇利先輩も笑顔で返してくれたから。
「ありがとう、がんばるね」
これから貯めに貯めたバイト代をはたいて、沢山応援に行こう。どんなところでも、ずっとそばで声援を送りたい。
もちろん、隣に立ちたい、という仄かな下心は捨てずに。
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20000hitで、なでしこ様に頂いたイメソンです。
音/無/小/鳥(CV:滝/田/樹/里)「君/が/選/ぶ/道」 という曲です。
私が五歳ごろの記憶だ。
拙いながらも懸命に滑る勇利先輩に、ブレードが氷を撫でる音を聞いた私が、氷で演奏しているみたいで素敵と言ったらそのふやふやの頬を緩ませて、ありがと、と言ってくれた。
中学にあがってから、近所のお兄さんという絶妙なポジションに収まった勇利先輩の練習をときどき見に行ってはクラスメイトから冷やかされ、そのたびに勇利先輩は私に恋していないと仲間内に弁解している言葉を聞いた。おい勝生ィ、お前田原のこと好きなのかよ……そんなことないよ、ね、加奈子ちゃん……なんて、よくあるからかい。何も知らない他人から乱暴に手折られて捨てられた恋だった。
けれど勇利先輩は優子先輩を見ているという、中学生で体験するにはあまりに精神を削る不毛を嫌というほど味わった。
高校に入学してからは私も部活に入って忙しくなって、観覧席に居座ることもなくなった。けれど時々アルバイトとしてゆーとぴあ かつきを手伝ったときには普通に接してくれた。近所に住む、小さいころから知っている後輩として。
ずっと斜め後ろから背中だけ見ていた。それだけ。隣に立つ勇気はついぞ気配すら見せなかった。その瞳が誰を写しているかなんて、怖くて見れない。
たったそれだけをずっと胸の中の宝物入れにいれて、そのまま腐らせてしまった。
腐り落ちてほかと癒着していてもどうしても捨てきれない思い出も、いつかは切り離して供養してやらないと先に進めないというけれど、行く先に勇利先輩がいないのなら、この痛ましい思い出に浸っていたいという自傷に近い執着は決して悪とはいいきれないはずだ。
恋はもっと甘くて溶けそうで、幸せで脳味噌の細胞ひとつひとつが満たされていくものだと思ってた。ドラマとか、漫画とかで見る恋愛がそうだから、すれちがったり、迷ったりしてもいつかはハッピーエンドになると。
そんな蜃気楼みたいなものを信じていたなんて、と自嘲するが、そうでもしないとつらくて、好きで居るのがつらいのは嫌で、でも好きで居るのはやめられない、とどうしようもなく雁字搦めになった情に溺れてしまいそうだから。
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「外国で、スケートですか」
「そう、そこにスケートの先生がいるから、行くんだ」
急に足りなくなった食材があると言われ、偶然手伝いに来ていた私と勇利先輩で買い出しに行く途中、なんでもなさそうに切り出された。私にとっては世界が一変してそのまま足元から崩れ落ちそうなほどの動揺を誘うことでも、勇利先輩にとっては買い物帰りに軽く切り出せることだったということが地味にショックだ。
泣き喚いて行かないでといえる立場ではない。唯、下唇を噛みしめて嗚咽を上げないように、勢いでこの想いをぶつけてしまわないようにすることしかできない。
「いつ帰ってくるかわからないから、一応言っておこうと思って」
「ね、加奈子ちゃんにはどうでもいいことかもしれないけど、一応ね」
乾いた唇をついには噛み切ってしまった。涙の代わりに血が流れるなんて随分滑稽だ。勇利先輩の慌てようにこちらが慌ててしまう位には。
「どうでもよくなんかないです」
どうにかそれだけ絞り出した。先輩はそっかあ、とだけ言って、歩き出す。先輩がくれた駅前の塾が配っていたポケットティッシュを唇に当てる。
ここで変に声をかけられていたら決壊してしまっていただろうから、この位の距離感がちょうどいい。ありえないことだけどもしかしたらと、淡すぎる期待を込めて勇利先輩の側の手を空けていたのだが、無駄になってしまった。手袋を忘れて冷え切った手が、いろんな意味で、痛い。
九州とはいえ、冬はそれなりに寒い上に浜風が身に染みる。
「頑張ってきてくださいね、先輩」
「うん、ありがとう」
彼の瞳に私が映っている。かすかに笑みをその頬に湛えて、私を見ている。動揺のあまりいつもより動きの悪い脚を叱咤してどうにか遅れないようについてゆく。
大人しいようでいて気高く、自分の価値を自分で損なうことをしない姿に惹かれているのだから、それでいい。決して、私が抱えている気持ちは、恋という視点から見ると良い形で落ち着いたわけではないのに、なぜだか気分は良い。大切な人が、その人の大切なものをより良いものにするという決意を聞けた、秘密の共有のような喜びを感じる。
「先輩」
「どうかした?」
「……元気で」
「うん、加奈子ちゃんもね」
例え社交辞令とはいえ、私の健康を祈ってくれた。ささやかすぎるが、今はこれで良しとする。選んだ道を歩んでいる姿を、遠くからでも眺めさせてくれれば。
今は、それで十分だ。
「毎日は厳しいですけど、ヴィっちゃんのお世話もしますよ」
「悪いね、ありがとう」
「いいえ、とんでもないです」
勇利先輩を抜きにしても、ヴィっちゃんは可愛い。黒砂糖の色をした綿菓子のような身体で、忙しなく飛んだり跳ねたり忙しい姿を眺めているだけで気分が軽くなるような気がする。
今日も冷えるね、と白い息を吐きだしながら笑いかけてくる勇利先輩を、心に留めておけるだろうか、いつかこの光景を忘れてしまわないだろうか、とひどく焦った。
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そんな焦りは無用だった。
それからゆうに五年、先輩は帰らなかった。五年前、告白していたら会いに行く勇気が湧いたかとも考えたけれど、判決を先延ばしにして正解だったと思う。道はいつも一つではない。
「なんか、随分前に加奈子ちゃんとこうして歩いたような気がする…」
「そうでしたっけ」
今でも夢に見る光景だと言うのに、すっとぼけてみせる。好きな人の前で張る虚栄、それは可愛げのあるものだと思う。
奇しくも、前と同じ刺すような寒さの日だ。
「加奈子ちゃん、元気にしてた?」
「ええまぁ、先輩は」
「元気だったけど……結果は見ての通り」
頬をひきつらせる笑みで、私を見る。こんな痛ましい笑い方をする人だっただろうか。
「先輩はカッコいいと思いますよ」
「えっ……!??!」
「あっ、えーと、スケートが」
そこは否定しなくてもよかったと後から気づいた。
「あの、なんていうか……そんな卑下しないでも、今までだって、這い上がってたし、あのすごいコーチの人だっているじゃないですか」
「そう!ヴィクトル!今でもまだ信じられないよ……」
そこからは延々とヴィクトルさんとやらの話をずっと聞いていた。先輩があまりに嬉しそうに話すから、大変なことなんだということはわかる。五年前に感じた壁が距離と時間を置いたことで少し薄くなっている気がする。気のせいでないと信じたい。
「応援してます」
今までで一番素敵な笑顔ができた。これは気のせいじゃない。勇利先輩も笑顔で返してくれたから。
「ありがとう、がんばるね」
これから貯めに貯めたバイト代をはたいて、沢山応援に行こう。どんなところでも、ずっとそばで声援を送りたい。
もちろん、隣に立ちたい、という仄かな下心は捨てずに。
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20000hitで、なでしこ様に頂いたイメソンです。
音/無/小/鳥(CV:滝/田/樹/里)「君/が/選/ぶ/道」 という曲です。