見しやそれとも
「わあ、見て加奈子、立派なキスだよ」
「えっ?」
「だから、キスだよ。天ぷらにして食べようね」
「あっ……はい……」
キス、漢字で書くと魚へんに喜ぶと書いて鱚。スズキ目スズキ亜目キス科に属する、夏に旬を迎える魚だ。天ぷらにして食べると、ほろほろと崩れる滋味溢れる身が衣と甘塩っぱい天つゆとが合わさってとてもおいしい。大葉とキスの天ぷらそばが確か、勇利の好きな食べ物だったはず。
確かに勇利の手にはぷりぷりと身を太らせた新鮮なキスが。言うとおり、とても身が締まってておいしそうだ。
「わぁ、お昼天ぷらそば?」
「そうしようかな」
旅館の息子というだけあって、それなりに包丁が扱える勇利に台所を任せて大葉を摘みに外に出る。情け容赦なく降り注ぐ太陽の日差しに気持ちが萎えかけるが、どうにか奮い立たせて、冷気が仄かに残る軒先を後にする。
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私はこの季節が好きではない。短すぎるシーズンオフの終わりを告げる合宿が始まるのが夏。そりゃあ、セミみたいに繁殖を求める気はないけれど、少しくらいわがままを言いたい。長く逢えないのはつらい、さみしいと。
けれどそれで勇利の頑張っていることを阻害したくはない。だから言わない。結局言わずじまいの、堂々巡りの思考を何度も繰り返している。それに私は勇利に恋をしているし、勇利にとっての恋人、というポジションにいるものの、ずっと近くで彼を見ていた一人のファンだから、彼が氷上で満足げに笑む姿を見るのがなによりうれしい。そこまで自分の中でケリがついているのに、だからいいんだ、と割り切ってしまえないのが人の情というものだと思う。
紫式部が、すぐに陰ってしまった月を友人の来訪にたとえた気持ちが今ならわかる気がする。
それがあなただとわかる前に、雲に隠れて見えなくなってしまったみたいに会えなくなる。その感覚は何百年前であっても共感できる。
楽しみにしていた側はどれだけ一緒に居ても満足できず焦がれて、一瞬だと思ってしまうのかもしれない。ものすごく忙しいスケジュールを縫って会いにきてくれたことを喜ばなければ、と思えば思うほどやがて訪れる長い別れが背後にまで迫ってきているようで気が滅入る。
ふっ、と視界が陰る。影になるものなんて思い当たらず、驚いて振り返ると、眩しい太陽光を弾く白いTシャツがまず目に入った。そして勇利の眼鏡がギラギラと眩くさまを目に入れてしまい、眉をしかめる。
「遅いから、心配になっちゃった」
「勇利」
「うん」
彼のTシャツが汗で張り付いている。確かにここに、私と一緒にこの馬鹿みたいに元気に照りつける太陽の下にいる。それなのに不安で仕方ない。
「熱中症になるよ」
「こんなすぐには」
「ならないって思ってるでしょ、この前後輩の男の子がそう言って倒れちゃったんだよ」
そう言って被せられた安っぽい麦藁帽から勇利の匂いがする。確かにここに、一緒に居る。
「大葉取れた?」
「なんで私が大葉取りに来たことわかったの?」
「加奈子は僕の好物を知ってるから」
何でもなさそうに、私が勇利の好きな食べ物を用意すると考えれる自信というか、私の気遣いを少しも疑わずに受け入れてくれるおおらかさというか。それだけの事なのに、今までの凝り固まった澱が流れ出て行くように思える。ほらもう中に入ろう、という言葉に従って後ろについていく。少しだけ頼りなさげな、なで肩の稜線。これもまたすぐに遠くに行ってしまう。
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この熱いのに、特段文句を言うわけでもなく黙々と、流れ作業で天ぷらを揚げる。二人とも汗みずく、という言葉が似合う位汗に塗れている。
揚げ物が一番おいしいのはもちろん揚げたてだ。
揚げたてのキス天をひとつ摘まんで、一口食べては本当にしあわせそうな顔をする。そのまま私の方にもむけられたキス天。真意が掴めずに首をかしげると、加奈子も食べて、おいしいよ、と。
間接キスの一つで頬を染めていた頃が懐かしい。今となっては何の緊張感も新鮮味もなく、キス天を一口齧る。
「あっほんとだ、おいしい、やっぱり旬のお魚はおいしいね」
「ね」
同時進行で蕎麦を茹でているものだから、湿気と気温で確かに熱中症になりそうだ。これだけ労力を払っても食べるのは一瞬だ。けれど今日は勇利も居る。一緒に居る一瞬一瞬が貴重だと、労力、とすら思わない。
このまま蕎麦が茹で上がらなければ、私は勇利とずっと一緒に居られる―――――
無情にも、けたたましいアラーム音がスマホから流れる。バカみたいな考えに浸る意味はそうあるものでもないのでちょうどいい。
勇利が鍋の中身をざるにあける。
眼鏡が曇ったといって外すと氷上のと同じ顔だとやっと認識できる。眼鏡をしているとあまりに無害そうな顔になって、テレビや、観覧席から見る彼とは別の人のように思えてしまう。エロスだなんだって、憧れのヴィクトルをはじめとした世界中にに向かって色気を振りまいてたときの鋭利な視線は何だったんだろうか。
氷と流水で冷やして、蕎麦はこれで完了。あとは天ぷらを揚げきるだけだ。
天ぷらを揚げきったらあなたとの時間は終わってしまう……字面としてはふざけているように見えるが、最後の一葉が散ったら私の命も終わってしまう、よりは悲壮感はないものの、根本は一緒だと思う。多分。別れの切なさなどは。
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ミョウガやショウガ、薬味を盛れば大変豪華な昼食になる。蕎麦やそうめんは夏の手抜き昼食というのが世の中の評判だが、作りようによっては、誰と食べるかによっては忘れられないくらい素敵なものになる。
「最高に美味しいね」
「そうだね、やっぱり夏はキスだね」
今の言葉だけを都合よく受け取って、魚じゃない、キスをしたいと思う。ちらりと勇利の方を盗み見ると当たり前だけどおいしい、だけが顔から読み取れる。これはこれで可愛い。
「夏だけじゃなければいいのにね」
「そうだね、いつでも獲れればいいのに」
天ぷら油で唇をてからせながらにこにこしてる勇利を前にすると何も言えなくなってしまう。また今年も出かける間際に一度、できるくらいだろうか。
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企画「Melting Kiss」に提出しました。
テーマは「キス」です。
「わあ、見て加奈子、立派なキスだよ」
「えっ?」
「だから、キスだよ。天ぷらにして食べようね」
「あっ……はい……」
キス、漢字で書くと魚へんに喜ぶと書いて鱚。スズキ目スズキ亜目キス科に属する、夏に旬を迎える魚だ。天ぷらにして食べると、ほろほろと崩れる滋味溢れる身が衣と甘塩っぱい天つゆとが合わさってとてもおいしい。大葉とキスの天ぷらそばが確か、勇利の好きな食べ物だったはず。
確かに勇利の手にはぷりぷりと身を太らせた新鮮なキスが。言うとおり、とても身が締まってておいしそうだ。
「わぁ、お昼天ぷらそば?」
「そうしようかな」
旅館の息子というだけあって、それなりに包丁が扱える勇利に台所を任せて大葉を摘みに外に出る。情け容赦なく降り注ぐ太陽の日差しに気持ちが萎えかけるが、どうにか奮い立たせて、冷気が仄かに残る軒先を後にする。
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私はこの季節が好きではない。短すぎるシーズンオフの終わりを告げる合宿が始まるのが夏。そりゃあ、セミみたいに繁殖を求める気はないけれど、少しくらいわがままを言いたい。長く逢えないのはつらい、さみしいと。
けれどそれで勇利の頑張っていることを阻害したくはない。だから言わない。結局言わずじまいの、堂々巡りの思考を何度も繰り返している。それに私は勇利に恋をしているし、勇利にとっての恋人、というポジションにいるものの、ずっと近くで彼を見ていた一人のファンだから、彼が氷上で満足げに笑む姿を見るのがなによりうれしい。そこまで自分の中でケリがついているのに、だからいいんだ、と割り切ってしまえないのが人の情というものだと思う。
紫式部が、すぐに陰ってしまった月を友人の来訪にたとえた気持ちが今ならわかる気がする。
それがあなただとわかる前に、雲に隠れて見えなくなってしまったみたいに会えなくなる。その感覚は何百年前であっても共感できる。
楽しみにしていた側はどれだけ一緒に居ても満足できず焦がれて、一瞬だと思ってしまうのかもしれない。ものすごく忙しいスケジュールを縫って会いにきてくれたことを喜ばなければ、と思えば思うほどやがて訪れる長い別れが背後にまで迫ってきているようで気が滅入る。
ふっ、と視界が陰る。影になるものなんて思い当たらず、驚いて振り返ると、眩しい太陽光を弾く白いTシャツがまず目に入った。そして勇利の眼鏡がギラギラと眩くさまを目に入れてしまい、眉をしかめる。
「遅いから、心配になっちゃった」
「勇利」
「うん」
彼のTシャツが汗で張り付いている。確かにここに、私と一緒にこの馬鹿みたいに元気に照りつける太陽の下にいる。それなのに不安で仕方ない。
「熱中症になるよ」
「こんなすぐには」
「ならないって思ってるでしょ、この前後輩の男の子がそう言って倒れちゃったんだよ」
そう言って被せられた安っぽい麦藁帽から勇利の匂いがする。確かにここに、一緒に居る。
「大葉取れた?」
「なんで私が大葉取りに来たことわかったの?」
「加奈子は僕の好物を知ってるから」
何でもなさそうに、私が勇利の好きな食べ物を用意すると考えれる自信というか、私の気遣いを少しも疑わずに受け入れてくれるおおらかさというか。それだけの事なのに、今までの凝り固まった澱が流れ出て行くように思える。ほらもう中に入ろう、という言葉に従って後ろについていく。少しだけ頼りなさげな、なで肩の稜線。これもまたすぐに遠くに行ってしまう。
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この熱いのに、特段文句を言うわけでもなく黙々と、流れ作業で天ぷらを揚げる。二人とも汗みずく、という言葉が似合う位汗に塗れている。
揚げ物が一番おいしいのはもちろん揚げたてだ。
揚げたてのキス天をひとつ摘まんで、一口食べては本当にしあわせそうな顔をする。そのまま私の方にもむけられたキス天。真意が掴めずに首をかしげると、加奈子も食べて、おいしいよ、と。
間接キスの一つで頬を染めていた頃が懐かしい。今となっては何の緊張感も新鮮味もなく、キス天を一口齧る。
「あっほんとだ、おいしい、やっぱり旬のお魚はおいしいね」
「ね」
同時進行で蕎麦を茹でているものだから、湿気と気温で確かに熱中症になりそうだ。これだけ労力を払っても食べるのは一瞬だ。けれど今日は勇利も居る。一緒に居る一瞬一瞬が貴重だと、労力、とすら思わない。
このまま蕎麦が茹で上がらなければ、私は勇利とずっと一緒に居られる―――――
無情にも、けたたましいアラーム音がスマホから流れる。バカみたいな考えに浸る意味はそうあるものでもないのでちょうどいい。
勇利が鍋の中身をざるにあける。
眼鏡が曇ったといって外すと氷上のと同じ顔だとやっと認識できる。眼鏡をしているとあまりに無害そうな顔になって、テレビや、観覧席から見る彼とは別の人のように思えてしまう。エロスだなんだって、憧れのヴィクトルをはじめとした世界中にに向かって色気を振りまいてたときの鋭利な視線は何だったんだろうか。
氷と流水で冷やして、蕎麦はこれで完了。あとは天ぷらを揚げきるだけだ。
天ぷらを揚げきったらあなたとの時間は終わってしまう……字面としてはふざけているように見えるが、最後の一葉が散ったら私の命も終わってしまう、よりは悲壮感はないものの、根本は一緒だと思う。多分。別れの切なさなどは。
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ミョウガやショウガ、薬味を盛れば大変豪華な昼食になる。蕎麦やそうめんは夏の手抜き昼食というのが世の中の評判だが、作りようによっては、誰と食べるかによっては忘れられないくらい素敵なものになる。
「最高に美味しいね」
「そうだね、やっぱり夏はキスだね」
今の言葉だけを都合よく受け取って、魚じゃない、キスをしたいと思う。ちらりと勇利の方を盗み見ると当たり前だけどおいしい、だけが顔から読み取れる。これはこれで可愛い。
「夏だけじゃなければいいのにね」
「そうだね、いつでも獲れればいいのに」
天ぷら油で唇をてからせながらにこにこしてる勇利を前にすると何も言えなくなってしまう。また今年も出かける間際に一度、できるくらいだろうか。
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企画「Melting Kiss」に提出しました。
テーマは「キス」です。