たべちゃいたいくらいの続きです。 付き合いの長い私の想像だから、大体合っているだろうとは思っていたけれど、こんなに早く綺麗な凹凸に変わるとは思わなかった。 ボディビルダーみたいに、過剰に腹筋がバキバキしている訳ではないけれど、あのたゆんたゆんのお腹からこんなに綺麗に見覚えのある形に戻るとは思わなかった。 勇利の憧れの人、ヴィクトル・ニキフォルフさんとやらが来てから彼は別人のようになってしまった。どんなたとえがいいかと考えるが思いつかない。ガラスの靴を履いたシンデレラ、神に見初められた神子、薔薇の花嫁とエンゲージした薔薇の指輪を持つ者。どれも違う気がする。 男の人と男の人がお互いを大切にしあう関係の名前を知らない。だから胸がこんなにざわつくんだと思う。 何もかもを見透かしたような青い瞳が、私の中にどろどろと汚く煮詰まってきた気持ちまで見透かすようで恐ろしい。腹に飼う嫉妬と言う化け物が大切な人を噛み砕く日が来てしまうのか、と問いかけられているようで。 けれど嬉しそうに彼に指導を受ける勇利を見ているとそんな下らない被害妄想を冗談でも言えなくなる。ずっと耳にタコができるくらい聞かされてきた、憧れの人が自分のコーチになってくれるというのだから、そりゃあ舞い上がるよな、それに水を差したくないなという気持ちが漏れ出そうな悪感情を押しとどめておいてくれている。 楽しそうにスケートをする勇利の邪魔だけはしたくない、という気持ちばかりが空回りしているような気はするけれど。 自分では納得しているつもりだけれど、何度声をかけられても避けるようなマネをしてしまっているのだから、頭では理解してるけれど、機嫌が良いわけじゃないんだろう。 久しぶりにこんな、嫉妬、といえないへそ曲がりみたいなことをしている。 玄界灘を望む湾の波打ち際は私の心情なぞどこ吹く風といった風に穏やかに潮騒を奏でている。浜辺には犬の散歩と、ランニングをする人がぽつりぽつりと居るだけでまだまだ人が少ない。ここをヴィッちゃんと、勇利と私で何度も散歩に来た。聞けばヴィクトルさんと勇利とあのヴィッちゃんに似た犬と来たらしい。だからどうということもない、と勇利は判断したらしく嬉しそうに話してくれた。 そんなこと、恨みがましく長々と覚えているほうがおかしいんだと自分に言い聞かせる。 この前言った、「どんな勇利も好き」この言葉に偽りはない。勇利の好き、その範囲がどれだけ広いかを知らなかった自分が悪いと言い聞かせようとすればするほど、私が勇利を好きになったことそれ自体がおかしいことのような気がしてきた。 自分の気持ちを否定するほど追いつめられていると今更実感した。 あのやわらかな身体に無遠慮に触れることに何も抵抗が無かったとき、あれを許される、そして自分の気持ちの上でも何も遠慮なくできた。 けれど今は、しなやかに研ぎ済まされた身体などに触れたら、私の指先の皮膚なんて軽く破ってしまいそうに思える。 「あ、こんなとこに居た」 「勇利?……練習は?」 「今日は午前で終わり。ずっとやればいいってもんじゃないんだって」 そう、と答える語気が弱いのを訝しく思ったのは表情でわかったが、特段何も言わず波打ち際を真顔で歩む私の横に並ぶ。 「何しに来たの?」 「ん?加奈子を探しに来たんだよ、もうすぐお昼だし。言いたくないことがるときって加奈子はいつもここに来るでしょ」 わざとではなく、事実を言っているだけに過ぎないのに捩じりに捩じれた機嫌はそれすら素直に受け取れない。勇利が大事にしているものを私は同じ温度で素直に尊重できなさそうだから、遠くから眺めていたいとどうやって伝えたらいいか、見当もつかない。 さくさく、と砂を踏みしめる音が二人分聞こえる。 いつかこれが一人分になるかと思うだけで胸がギリギリと音を立てて軋んだ後派手に四散しそうだ。 「練習、頑張ってるね」 「うん、ヴィクトルが来てから世界が変わったみたい」 「そう、よかった」 これは本心。勇利が嬉しいなら私も嬉しい。 さっきまでのドロドロが全部とは言わないけれど、嬉しそうにヴィクトルさんの話をする勇利を見ていたらそんなに深刻に考えてもしょうがないような気がしてきた。大切にしたいものが多いことに目くじら立ててもどうしようもない。勇利も私も、独立した一個人である限り、大切にしたいものの個数くらい決める自由を縛ってはいけないような。 束縛できないくらいの愛おしさ、なんだと思う。 束縛して、彼の行動を制限するくらいならこの腹に飼った獣に自分を食わせる。自分の中だけで燃え盛り、焼き尽くして自分の骨だけが残るような愛。 「加奈子、どうしたの。ずっとぼんやりしてる」 「そうでもないよ」 「そう?じゃあ帰る?」 「うん」 「よかったぁ、なんか怒らせちゃったかなって思って」 「えっ、なんかごめん……わざわざ」 「謝らないでよ、加奈子と最近ちゃんと話せてなかったから僕も話せてうれしい」 口元まで上げたジッパーが邪魔をして表情を伺えないのが残念だ。私ばかりだらしなくにやけた口元を見られてしまう。 「ほんとに?」 「え?そこ疑う?」 「いや、嘘、なんでもない」 「不安にさせちゃってるかな」 急に真顔に、どちらかというと氷上にたたずむときの表情に近い顔に急になられると心臓が持たない。眼鏡が若干雰囲気を和らげるとはいえあまりに、あまりに刺激が強い。 こういう時ばかり強気に目線を逸らさない。何か悪いことをしているような気になってしまい、絞り出すように、少しだけ、と零した。勇利が忙しいときに面倒なことを言って失望されやしないかと、言ってから冷や汗が止まらなくなった。 「あのね、加奈子が前にどんな僕も好きって、幻滅もしないって言ってくれたじゃん」 「うんまぁ……言った」 「それね、すごくうれしかった」 「そう?そりゃよかった」 「だからね……こうやって情けなくても、見ててくれる人がいてすごく安心するんだ……」 冷たい海風が頬を刺すからだろうけど、ほんのり耳が赤いのがわかる。 勇利のなかの大切なものを入れる箱に、ヴィクトルさんとは違う場所が、私の居場所はずっとあったんだ。私が知らなかっただけで。私は私として、勇利の側にいていいんだ。単純なことは凝り固まってしまうと、意外と思考の端にすらのぼらない。 おそるおそる伸ばした指に、自然と冷たい指が添えられる。 今年の長谷津の夏はどうやって過ごそうか。勇利と一緒に居られる時間が短い。短いからこそ、大事にしたい。どんな夏にするにしても、思い出した時にいい思い出だったねと笑いあえるものにしたい。 それも、愛の一つの形なんじゃないかな。なんてね。