アイシテルのサイン
※暴力表現を含みます





頭が真っ白になっていても、いつかは思考がまとまってくる。
非現実的にもほどがある閉鎖空間と壁にクレヨンで書きなぐったような残酷な命令が私たちに与えられた現実なのだと思い知る。




『どちらかの脚を折らないと抜け出せない部屋』

添え木と、包帯と、黒のマジックペンと柄の短いハンマーがご丁寧に消毒済の札までついて冷たく光るバットの中に並んでいる。それを私が関知していないと思いながら、私を横目で見やる彼の震える手を取ってしまったら別に怖がっていないと虚勢を張られてしまう可能性があるのでそのままにしておく。

もちろん、この状況で脚を折られるのは私の方だ。現役のフィギュアスケート選手の未来と選手生命の代名詞ともいえる脚を折ることはお互いに考えていないと想定してもいいだろう。
けれど、顔色が白を通り越して土色になってしまっている彼にそれができるとは到底思えない。

「勇利顔色ヤバいよ」
「何そんな悠長なこと言ってるの……」
驚きを通り越して怒りすら滲む声音に少しだけドキドキする。あまり感情の振れ幅が外から見えないだけにこうして感情が混線しているままにさらけ出してくるのがとてもうれしい。彼が他人から自分のプライドを守る防護壁が一枚剥けて、生身の彼がそこにいるように思えて。

折るのは自分の脚で、すぐに病院にかけこんだとしても以前と全く同じように歩くことは叶わないだろう。それなのに妙に冷静で、勇利の慌てっぷりを楽しむ余裕すらある。恐怖で頭が茹ってしまったということは十分に考えられる。それに加えて勇利が「自分の代わりに私の脚を折ってしまった」といううしろめたさを感じるかもしれない。その後悔が私たちを繋ぎとめるのなら、神にだってこの悪徳を許させはしない。
エゴまみれの献身を彼に捧げて、さらに薄暗い関係まで始まるならそれはそれで悪くないかな?位にしか思えないから私を傷つける予感に手を震わせている彼をどう慰めていいかわからないまま彼の横顔を見守っている。

関係の維持のために自分の脚を差し出すなど、勇利と同時に私の判断能力だってとっくに混線してしまっている。

柄の短いハンマーを二三回振り下ろしてみる。
柄が短いぶん握りやすく振り下ろしやすいが、柄の後ろの方を持ってなるべく私の脚を折った感触から逃げるということは難しいだろう。

「どこを折ったら治りやすいかな」

つとめて陽気な雰囲気で、勇利のために痛いだろうけど脚を折ることに対して特段抵抗はないよ、と態度で示したつもりだが返事はない。代わりにすすり泣く声が聞こえてきて慌てて彼のもとへ駆け寄った。
「勇利が泣くことないじゃん、大丈夫、変わらずスケートできるよ」
恐くないよ、すぐだよすぐ、と適当に声をかけたのが神経を逆なでしたらしく、今まで見たことないくらい険しい顔で睨まれてしまった。きっと自分を傷つけることを何とも思っていないことに怒ってくれているんだろうけど、それを見た冷静な自分が、なら代わってくれるの?と喉元まで出かかった最悪の言葉を押しとどめてくれた。



「加奈子、ごめんね」
自分の未来のために痛みを負ってくれと頼まれる恍惚、こんな状況でないと味わえないだろう。血の盟約、桃園の誓い、ひとびとを結ぶきずなの在り方は沢山あると思うけど、私と勇利は一般的に恋と呼ぶ関係の上に、何とも血なまぐさい約束をデコレーションすることになる。

「いいよ、勇利」
悲嘆を込めて言えただろうか、愛するひとに痛みを捧げて彼の未来を守る、清らかな慕情に殉じる乙女を演じることができたろうか。もしや狂気が見え隠れする喜びに近い独占欲が滲んではないかっただろうか。それだけが気がかりだ。

腓骨、という骨がある。
膝から足首にかけて二本の骨で支える構造になっているうちの、かかと側にある細い方の骨。昔保健体育をしっかり受けた努力がこんなところで報われた。けれど狙っていても上手くいくとは思えないからマジックペンで目印(ウサギちゃんマークにしてあげた)を書いてみた。



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さっきから勇利の手どれだけ摩っても、私の首で温めても少しも温度を取り戻さない。
勿論顔色だって土色のままだ。大会前もかなりひどい顔色をしているけど、あれとはまた違う系統の顔色の悪さをしている。
「大丈夫だよ、折れてもちゃんと治るって」
「そういう問題じゃないでしょ……」
「でも、やらないと出れない」
「そうだけど……傷が残った加奈子の脚を見るたびにこれを思い出すのかなって考えたら」
涙の痕が残る頬にキスをして、それでもやらないと出れないでしょ?と優しく諭すと顔が引き攣ったのち、脚に書いた目印をなぞってきた。

「そう、そこだよ。 思いっきりやらないとダメだよ。中途半端なのが一番痛いんだから」
「う、うん……」

「傷が残っても、私が勇利を守れた証みたいで」
「それが嫌なんだよ……何もできずに、加奈子に守られてるだけだったって……何回も思い出さないといけない」
消え入るように吐露した感情があまりに愛おしくて今度は唇にキスをする。勇利は全く甘い雰囲気になんてなれない気分らしく、疲れたときのように緩慢な動作で抱きしめてくる。

「守られるのは嫌?」
「大事にされているのは嬉しいけどさ……罪悪感で潰れそうになる」

「そっかー、それぞれ思うところがあるのねー」
「そんな他人事みたいに……」
そんなに深く思い悩むことはないのに、と思ってもそれを言葉にしてしまうと自己犠牲がすぎると怒られてしまいそうだから黙っていることにした。押し付けがましく守ると飾りたてた犠牲が彼の心に暗い影を落とすだなんて考えてもみなかった。

「ごめんね、加奈子、それでも僕はまだスケートを諦められない」
「そりゃそーでしょ、これで僕が脚を〜とか言ってたら泣いてもわめいても聞かなかったよ」
けらけらと笑う私の脚を這う冷え切った掌、この感触を忘れられそうにない。

「加奈子」
「なに?」

「ありがとう」

それくらいの気持ちでいてくれれば私の痛みも報われるだろう。

それからの勇利はひどく冷静に(顔色はそのままだったけど)私の脚を折る支度を進めた。
確実に、ふくらはぎを打って間接から腓骨をはずすのではなく確実に折るために手で探って筋肉に邪魔されないかを調べていった。覚悟を決めたんだろう。自分の欲のために他人の身体を害するという犠牲を払ってでも前に進むことを決めた顔はひどく弱弱しくてもとってもカッコいい。顔色は土だけど。

「なんでそんな嬉しそうなの……」
「嬉しい訳ないでしょ」
「…………ごめん」
「あっ嫌違うの、違わないけど違う、あーもー……」
またどんよりとした雰囲気を纏った勇利の背中を摩ってどうにか落ち着かせる。
「勇利かっこいいなーって思ってただけだよ」
理解できない、と言った表情がまた愛おしい。

「ほら、がんばれ?がんばれ?」
「…………ちょっと静かにしてて」
「はあい」

いつもの軽口、いつもの優しい手のひら。いつもと違うのは勇利が間違いなく私に痛みを与えるということだけ。

ゴッ、と鈍い音を聞いたかと思えば脳にまず熱を感じた。じわりと痛みが広がって、脂汗がどくどく流れてくるような感覚に襲われる。一撃できっと折れたのだろう。どこかで開錠の音が聞こえる。悲鳴のひとつも上がらない。チリチリと患部が燃えるような、痺れるような感覚を脳信号として送ってくるのを受容する以外のことをできない。

「あ、開いた」
「うん、添え木つけるからちょっとだけ我慢して」
運ぶ途中に少しでも歪まないようにと添え木を手慣れた様子でつける。捻挫と切っても切り離せないスポーツだし詳しいのかもしれない。知らないけど。さっきまで冷えた手が触れるのが気になっていたのに熱を持った脚に触れられてもあまり触覚が上手く働いていないのか何とも感じない。

「すぐに病院行くからね、それまで我慢できる?」
「うん」
献身とかどうとか考えていたけど思った以上に痛いし、涙が滲んできたけど必死でこの状況から病院にすぐ行こうと頑張っている勇利を見たら少しだけ泣くのは我慢する気になった。私の脚の骨一本で彼の未来を繋いだと考えるなら結果としては上々だろう。久しぶりにおんぶまでしてもらって不可解な空間を脱することができたし。これでまた氷の上で舞う彼を見れると思えば、この痛みも報われるだろう。



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ことは様リクエストでした。
リクエストありがとうございました!