薔薇と色男。
それは西洋美術史において飽きるほど語りつくされたと思えるテーマだが、現代にいたるまで愛されるモチーフと言うものは色あせず私の価値観にひびいてきた。

きっとファンからもらったのだろう、赤い薔薇の花冠をその深い金髪に頂いているさまは唯ぼんやりとペットボトルの水を飲んでいるだけだと言うのにこの人間離れした美しさ。声をかけようと吸った息は無意識のうちに呑みこんでいた。

彼のライバルだというヴィクトルさんとやらは青い薔薇の花冠で写真に写っているところを見たことが有る。それと対比するような燃え盛るような赤。ヴィクトルさんのプラチナブロンドには青が似合うと同時に、クリスのような深い金には赤が似合う。

その深緑がこちらに向いたかと思ったら、本人はきっと意識などしていない、自然な仕草で色男、という言葉が似合うような笑顔でこちらに軽く手を振る。

「見ててくれた」
「もちろん、そのために来たんだし」
頬を真っ赤にして、見てたかを聞くのはジュニア時代から変わらない。ヴィクトルさんとやらのおかげで表彰台の真ん中に立ったことは無いが、ずっと文字通り血のにじむような、そんな陳腐で使い古された表現だけでまとめたくないほどの努力を重ねてここに立っている。それでもまだ見ていたかと、私の注目を集めるに値したか聞いてくる彼がおかしくて、少しだけ笑ってしまった。

「何、笑うなんて珍しい」
「いやさ、なんだか昔から変わって無くて可愛いなって思っただけ」
「そう、じゃあもっと可愛がってよ。加奈子の愛情表現はわかりにくい」
「んなこといわれても……」
「困ってる、可愛い」
困っているというよりは、驚いている。
いつも私の不満など口にせず一線引いて、踏み込んでこないようにしているのかと感じさせるほど淡泊さなのにこうしてぺらぺらとよく口が回っている。試合の後で気持ちが昂ぶっているのだろう。
手の甲を優しく撫でていると、自然と手を握られる。さっきまであんなに冷たい氷の上に居たというのに、こちらの体温を浸食せんばかりの熱さをしている。

「綺麗だった、だれより」
「……ありがとう」
彼に与えられる座は、今大会はもう無いそうだ。心残りが、後悔が残らない結果ではないだろう。結局晴れやかな気持ちで終われる可能性がるのは表彰台の真ん中に立てる人くらいだろう。その人も自分に満足なんかしないで、もっともっと上を目指すのだろうから、スポーツの世界の残酷さを垣間見るともに、切ないくらい、皆報われて欲しいと思ってしまう。
それはきっと自分の力を信じてこの場に臨んだ人たち、その前に潰えた無数の夢たちに対して失礼なのだろうけど、そう祈らずにはいられない。


歓声の渦の外側で、エキシビションの滑走を待つ気持ちを痛ましく思えるのは当人だけだろう。私ができるのは傍で寄り添うだけだ。それで少しでも安心できるならそれに越したことは無い。現に黙って私の掌を摩っては時々上がる歓声に反応している。
未だ彼の中のスケートへの思いは消えていない。むしろ煌々と、集る羽虫を焼き尽くす勢いで燃えている。年齢的に厳しさを感じ始めているだろうが、限界は彼が決めることだ。

「加奈子」
「なに?」
囁くように呼びかけられて、言葉だけ返して顔は見ないでおく。
少しだけ声が震えている。

「見てて、もっと素敵なもの見せるから」
「クリス……そんな、そのつもりだったよ、クリスが良いと思うことの結果が見たいよ」
ふわ、と人工物ではない天然の薔薇のふくよかな香りと共に隣から嗚咽が漏れる。薔薇の似合う男は涙も似合う、なんて言えないけれどきっとその頭上に頂くにふさわしい栄光が彼に与えられるだろうから、それまで、いや、それからも彼の作るすべてを傍で見て居たい。


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これほど取り乱していても、観客の前に出るときはいつものクリスに戻っているのだからさすがプロというべきか。泣き腫らした目もとは保冷剤で冷やしたおかげでほとんど目立たない。

彼を応援してくれた、それだけではなく、このスポーツを愛する人すべてへ贈られた滑走から目を離せるわけがない。この日一番の拍手を送ることしかできないけれど、今アスリートとしてあそこにいる彼に贈るべき賞賛はこれが正しい形だろう。
個人的な賞賛はあとにすればいい。帰ったら好物をつくってあげよう。