最初こそ、こんなはずじゃなかった……と男から手渡されたどこか獣臭い重たくて硬い上着を肩からかけて得体のしれない肉が浮いているスープをすすった。ちょっと気分転換がしたかっただけなのに、どうしてまあ、元軍人を名乗る男に施しを受けているのやら。

今が何時なのかもわからないが、夜をここで明かす以外の選択肢はないとこのテントの外から聞こえる野生の何らかの動物の鳴き声から察することができる。
もういちど大きなため息をついて、事の始まりに思いを馳せる。事はタクシーを使わずに自転車でどこかに行きたいなどど発想してしまったときにさかのぼる。

中央区にも上がいると下がいる。
それでも重税やら何やらで苦しむ男性よりはマシ、とされて救いの手が届きにくいのが私のようなミソッカス中央区勤務の女だ。それなりに残業も多いし、パワハラと名前が付きそうなことは日常茶飯事だ。ミソッカスでも人間である以上フラストレーションがたまる。要するにストレスでハイになってしまったのだ。もうここ以外のどこかで生きてみたいなどと、中央区と自宅の往復を繰り返す生活を営むうちに忘れてしまっていた。どれだけ社会が成熟しようとも、自然の前で人はあまりに無力であることを。

自転車が壊れて行くも戻るも森、という最悪の状況下で、何らかの動物の死骸を持った元軍人を名乗り、この近くで暮らしているという男と出会った。渡りに船、と一生のうちでそう使わないことわざが頭をよぎった。
軽快に鳥の頭を刎ねてゆく男の手際のよさから、野外暮らしというのは嘘ではないだろう。だばだばと血を流して血抜きをされている鳥のほかにも謎肉が並んでいるところから、口数は少ないもののもてなそうとしてくれているらしい。最初こそバカでかい鉈を見たときには私はここで死ぬんだと悲観したものだが、突然転がり込んできて居座る女に食料を分け与えてくれようとするこの男、実はかなり優しいのかもしれない。

「で、貴方はなぜここに」
手際よく薪に火をつけつつ話しかけられた。別段興味があるわけではなさそうで、なんとなく気になったから、雑談がしたいから話しかけてきたように思える。
「え、えー……?なんて言うか……ジンセイ、行き詰まってるような気がしてさ……どっかに行きたかった……かな」 「行き詰っている」
繰り返し言われると自分でもドキッとする。私の人生、確かにつらいことが山積みだけどこれで詰み、というわけではないような気はするが、どこかに逃げ出したかったのも確かだ。
「ね、名前、聞いてもいいですか」
「小官か? 毒島メイソン理鶯という」
「えっ、なんかラップする人?」
「そうだ。左馬刻や、銃兎とな」
「あー、横浜の?」
「MTCというチームで」
中央区の女が楽しみにしている出し物、という認識だった男たちのラップバトル。この人が当事者だったとは。元軍人というと争い事を生業にしているはずだが、穏やかな表情から争いごとに近しい人だとはとても思えなかった。
「ラップバトル、楽しい?」
「楽しい……?辛く苦しいと感じたことはないが……」
「そっか」
それからは私がいたところとは段違いの量の木々が奏でる葉擦れの音と薪が火花を散らす音だけがここにあった。こわい同僚も、上司も、やかましい隣人もだれもいない。ずうずうしすぎるお願いだが、思いついたので勇気を出して言ってみることにした。それが私の求めていた「どこか」じゃないにしても、「いつも」とは違うものになりそうだったから。
「あの、ずうずうしいお願いなんですが」
特段返事はなく、日に照らされた顔だけがこちらに向けられた。鮮やかなブルーが揺らめく炎に色を変えるのにしばし見とれたが、自分が休暇を取っているので、ここで2日ほど過ごさせてほしいとお願いしてみた。
面倒な他人を抱え込むタイプであってほしい、と思ったがどうだろうか。

「問題ない、ただその靴だとすぐ壊れてしまうだろうから散策するならこの前拾ったこの靴に履き替えるといい、それに」
つらつらと私が過ごしやすいようにやれ寝床には段ボールをたくさん敷けだの、風呂はまさかのバカでかい缶?のようなものの中の水を沸かすだの、なんなら入浴剤もあるだの。意外と世話焼きなのかもしれない。
「2日後なら確か銃兎が車でくるはずだ。それに乗せてもらうといい」
そんなに都合よくことが運ぶとは。なりゆきではじまったキャンプ(?)が俄然楽しみになってきてしまった。
お言葉に甘えて新品同様のスニーカーに履き替えて炎の影が見える範囲で散策をしてみた。さんざめく星の海、穏やかな川の流れ……ほんとうに私はなんでこんなところまで、と思ったが、まあいい方向に転んだなと勝手に納得した。
「戻ったか、貴方がいたところとは違ったろうか」
「全然違う。 まずあんまり星が見えない……っていうか、すみません名乗るの遅れて。私、加奈子 といいます」
「ああ、よろしく加奈子 」
ずうずうしくもスープのおかわりを頼んで(なぜか少し嬉しそう)「どこか」に来れたことを再び喜ぶことにした。
星の満ちる空を心行くまで眺めて、重ねた段ボールと少し薄汚い寝袋に潜り込んだ。
「毒島さん」
「どうかしたか」
「いや、どうもしないんですけど、どうしてこんな生活を?」
「軍の解体があっただろう」
「えっ軍の解体っても……ずいぶん前の話じゃないですか?それからずっとこの生活を?なんのために?」
「なんのために……? 小官の生き方にそぐう生活だったから、という回答でよいだろうか」
今度は私が答えに詰まってしまった。自分の生きたいように生きることを選択するなんて難しいことだから妥協するべきと心のどこかで考えていた私の前に、自分の生きたいように生きている人を見て身がすくむ思いだ。自分ができなかったことを強く後悔している今、毒島さんの生き方がうらやましくて、自分の生き方が惨めなようで寝袋にさらに深く潜り込んだ。
「生き方に合う生活をするために、なにか犠牲にしました……?」
「犠牲、にしたものもあるが得たものの方が多いな」
「そうですか……」

今度は星明りだけの世界に深く沈んだブルーの瞳が私をじっと見つめているのがかろうじてわかる。苛まれているようで目をそらしてしまった。

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朝は強烈な朝日と、こうして量が多いと騒々しい鳥の鳴き声で目が覚めた。
悪夢や仕事のことを考えて寝ても寝ても休まらない暮らしがウソのようにすっきりと気持ちのよい朝を迎えることができて驚きが隠せない。
「名前 、起きたか」
「起きました」
「そら、洗面用の湯と、石鹸だ。顔が乾くだろうから、小官が使っているものしかないが塗っておくといい」
そう言って手際よく私の寝床の傍に用意された洗顔セット。世話焼きのレベルを超えていそうだが、ありがたく使わせてもらう。保湿剤は青い缶に入ったクリームひとつ。それだけであの美肌がキープされているというのだからうらやましい。
「朝食は肉とパンだ」
「何の肉かは聞かない方がよさそうですね」
「安全なものをつかっているし、調理法も安全だ。もちろん寄生虫にも気を配ってる」
「寄生虫」
そっかー野生の生き物食べてる風だしね、と納得しかけた自分が怖い。早くもここの生活に適応しているようで。

さやさやと風が葉の間を通る音ひとつとっても夜と日中では聞こえ方が違うように思える。
優しくて心地よい風に当たって水面を眺めて、ときに笹船を流す時間を少女と呼ばれる時期を終えた私が再び得ることができるとは思ってもみなかった。いや、年齢を理由にして遠ざけていたのは自分の方かもしれない。こんなに時間を贅沢に使うのはいつぶりかもわからない。そんな今やってみたいことと考えて思いついたのは綺麗な花を見つけることや、笹船を作ったり、石を並べてみることだったのだから、私は実は、映画やショッピング、カラオケだけじゃなくこういった遊びがしてみたかったのかもしれない。

「戻ったか そら、ビールだ」
「えーっビールなんてあるんですか?」
「あるとも 交換してもらった。昼食は野菜もあるぞ。無人販売は便利だな。お金を入れれば形が悪くとも立派に育った野菜が食べれる」
「えっ毒島さんお金持ってるんですか?」
「無いわけがないだろう どうやって生活していると思っているんだ」
「す、すみません……」
どうみても自給自足にしか見えていないのだが、貨幣経済の圏内には入っているらしい。
「昼食ができるまでビールと、肉だ」
「あ、ありがとうございます」
飽きないようになんらかのタレがかかっているのがまたニクい。こんなのビールがどんどん進んでしまう。青空のもとで飲むビールは、みんなでバーベキューをしながらもおいしいが、こうして行き当たりばったりで飲むことになっても変わらず美味しい。

野菜炒めと肉、というシンプルな料理で腹を満たしたかと思うと急激に眠たくなってきてしまった。おなか一杯になると眠くなるのはどこに居ても変わらないらしい。
「毒島さん、少し寝ます」
「ああ、おやすみ」

何をするにも誰も咎めない。手に余るほどの自由と、少しの孤独を胸に眠りにつくことなんていつぶりだろうか。

「ヒエ……?」
「理鶯、この方は」
「加奈子さんだ」
「じゃなくて、どこから来たとかどういう知り合いかとか」
「そこの沢にいた」
「……加奈子さん、理鶯の言っていることは」
「正しいです……」
冷ややかな、というより驚きの視線が注がれる。まるで珍獣を見るかのような。
「銃兎、明日来るものだと思っていたが」
「明日は予定が入ったんですよ」
「そうか じゃあ悪いが、加奈子さんを送ってやってくれ」
「いいですけど」
「えっ……えっ?」
降ってわいた現実からの離脱が終わりそうな予感に身がすくんでしまう。
また私は自分で選んだはずのつらく苦しい場所に戻るのかと、捨ててしまってもいいのではと半ば自棄になった考えも湧いては消えてゆく。
「大丈夫だ、また気が向いたら来るといい できればビールか野菜をもってきてくれると嬉しい」
「えっ本当に?いいんですか?」
銃兎という人は着いていけない、とでもいう風に中座して車で待ってますからと伝えて去っていった。
また自由に戻れると知ったらまたあそこで頑張っていけるだろうか。いけなくても、ここで過ごす時間が癒してくれるかもしれない。そう思うと日々が少しだけ楽しくなってくるだろう。

「じゃあ、また」
「ああ」
軽い別れの挨拶が心地よい。また気軽に、会う人同士のあいさつ。

「終わりましたか?」
「すみません、送ってもらうのにお待たせして」
「それは別にいいんですが、貴方理鶯の料理……」
「何肉かは知らないですけど、美味しかったですね」
「…………なるほど、そういう人もいるんですね」
「?」
いやなんでも、と会話を終わらせて山道をぐねぐねと降りてゆく。こんなところにまで自転車できたとは自分でも信じがたい。
「貴方、どこまで」
「あっえーと、銃兎さんはどこまで」
「○○警察署までですが」
「えっあっあのそこまで同行しても」
「わかりました」
それきり彼とは会話の芽が出ることはなかった。これはこれで過ごしやすいことがわかった。誰かと一緒に居ても、しゃべらないで傍に居るだけでも何の苦痛もないことに。

徐々にうす曇りになる空を見て銃兎さんがヘッドランプを点灯する。あのテントは雨漏りしやしないだろうか。