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 シャワー浴びてくるから、と言って風呂場に消えていった山田を見送って少しだけ残ったコーヒーを飲み干した。鍵と、スマホと身分証。普通の人は持っていないヒーロー専用の身分証だ。もしかしたら昔の写真が出て来るのではないかと思って顔写真を拝見したけれど、比較的新しいものが埋め込まれていた。更新があるのだから当たり前といえば当たり前なんだけど、少しがっかりした。
 山田はシャワーに入ると長いので、コーヒーを淹れることにした。タバコを吸わない代わりにコーヒーをガバガバ飲む山田は、豆や器具にこだわるだけあって、ここで飲むコーヒーは別格だ。ガリガリと豆を削る音がすればかぐわしい香りが広がる。それに釣られてか山田が出てきた。
「ん、いいにおい」
「早いね」
「夜にまた入るから簡単に済ませた」
「そう」
 最近はドライシャンプーというやつがあって、かんたんな洗髪になるということで人気らしい。わざとらしいせっけんの香りがするからすぐにわかる。
「山田の身分証の写真見た」
「かわいかったでしょ」
「すぐそういう答えが出てくるあたり、山田は昔から山田だったんだなって思う」
「そう、昔からかわいい」
「……」
 けたけた笑う山田をコーヒー入りのマグカップでこづいてリビングの椅子に掛ける。二人で納得して選んだ家具の使い心地はとても良く、なかなか合わない休みを合わせた甲斐があるというものだ。
 ヒーロースーツを着ていない山田はどこにでもいる普通の人に見える。地元の人が山田のプライベートを漁ろうとしないことと、ヒーローのプライベートを守る法律があることが要因だと思われる。普通の人でいるには普通に扱われていないとそうはなれないということだろう。
 数年前のライブで買ったTシャツと短パンとサンダル。どこから見ても特段いうこともないただのおっさんだ。買い物に行くから荷物持ちとして山田を呼ぶと、器用に髪の毛をお団子に丸めて私のシュシュを使って止める。他の人には普通に見えても、私には普通に見えない。どこかかけ離れていて、普通じゃない。
「見惚れちゃった?」
「ああまあそんな感じ」
「……加奈子が素直だと調子狂う」
 行こう、と促されてサンダルに足を突っ込んだ。夏の湿っぽい空気がドアを開けた途端に流れ込み、行く気を無くす。
「うわ」
「シャワー浴びたばっかりなのに」
「来週からのご飯がないから、いかないと」
「そりゃわかるけど」
 日が暮れてきているとはいえ、まだ気温は三十度近くまである。いい加減宅配を利用してもいいとは思うが、注文できる余裕がお互いになく実装されないままでいる。
「今日、何食べたい」
 山田が言うので、素直に青椒肉絲と答える。最近は国全体がヴィラン連合の影響を受けて食糧の配給が始まるんじゃないかなんて噂もある。こうして食べたいものを自分たちで選んで買える生活が失われるのかもしれないと思うと、不便であると感じるのと同時に、この目の前でヘラヘラ笑っている山田やその教え子たちの命の積み重ねの上に乗っているのだと思うと落ち着かない。
 ラジオ一本でも食べていけるからそっちだけにすればと言ってしまいたい時がある。
 死んでしまったら何にもならない。おいていかれるのは嫌だと駄々をこねたい時もある。けれど彼の生き方に直結することなので触れたくないというのが本音だ。こういうなんでもない時間を守るためにみんな頑張ってるんだよ、と死なないでと泣いていると言い聞かされたこともある。
「どしたの?」
「なんでもない」
「なんでもない割には顔色が悪いけど……」
「死なないでほしいって泣いた私に、山田が言ったことを思い出してた」
「あらま」
「覚えてる?」
「覚えてるよぉ」
「そっか」
「加奈子もしんどいことあると思うけど、ほどほどにね」
「あんたこそ」
「俺はいいの」
 冷蔵庫の大きさに対して少し買いすぎたくらいでも、週末にはまた買いに行かないといけないのは億劫だけど、こうして少し落ち着いて話す時間ができるから嫌いじゃない。こんな平凡と当たり前を守るために戦っている人々は、何を原動力に頑張れるんだろう。
 
「山田はさ、なんでそんなに頑張れるの?」
「特別なことなんてないよ、俺のかわいい加奈子ちゃんが健やかでありますようにとか」
「うわっ……」
「引くな引くな」
 
 パンパンになった冷蔵庫をどうにか閉じて、またコーヒー。
 こんな当たり前のために、頑張れるのかもしれない。私はただ毎日を繰り返すだけでよかった。もし私に世界を救う力があるとわかったらこんな落ち着いていられないだろう。私は、救われる側でよかったと安堵する小物だから、神様は力を与えなかったんだと、自分を納得させることにした。

お題はGarnet様

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