「しかし、あの奥方様も妙なもの運んできたんじゃないでしょうね」
「変なことお言いでないよ、何処で聞かれてることやら」
「平気さ、奥様は旦那様につきっきりだからこっちには来ないさ」

ぽたぽたと容赦なく顎から滴る汗をぬぐう。おそらく私の事だろう。
今出て行くと、彼が戻ってから蜘蛛の子を散らすように辞めて行った下女たちのなかでも、残ってくれた下女たちも気まずいからと言って辞めてしまうかも、と考えて足を止め、彼女らの言葉に耳を傾ける。聞いてて気持ちの良いことじゃないけど、あのひとが聞いてしまわなくて良かったと思う。きっと静かに怒り狂って、彼女らも明日には居ないということになりかねない。

「奥方様もお気の毒に、せっかく嫁いだと思ったら旅順で旦那様が大きなけが……お国のためとはいえ、ねえ……しかも顔にあんなひどいけがをして帰ってくるのだもの、私ならいくら夫といえども、恐ろしくて恐ろしくて堪らないわ……それなのにつきっきりでお世話をして、見上げたものだよ」
「そうねえ、箱入り娘かと思ったら額が削げた旦那様を見ても悲鳴の一つもあげやしなかった」
「あんなの……肉が見えているし、この季節ひどい匂いもするのにねえ」
「かわいそうな方だよ」
「まったくだ」

久しぶりに夫が家に帰ってきたと思ったら、酷いけが、という言葉だけでは収まりがつかないほどの惨事をその身に受けて帰ってきた。物言わぬ姿で、それも遺体もなく愛する夫を失う妻が多い中で、私は比較的、幸運と呼ぶべきなのだろう。
お医者様が言うには、額に当てた金属板から体液が漏れてくるようなら清潔な布で拭うのがよいらしいので、下女たちに頼む洗濯物は夫が帰ってきてから二倍以上になった。その下女も、稼ぎ頭があんなふうになってしまったら先立つものもないとほとんど暇を出してしまった。口さがない女たちが残ったとは思うが、器量はよいし、見ているところでは上手くやっている。
夏らしい日差しを浴びて、今朝干したはずなのにすぐに乾いた布を手に、母屋よりずいぶん涼しい別館へ向かう。

最近は問題なく歩けるようになって、あちらこちらへ、家の中を歩き回っている。軋む床の音と、どこから買ったのか煙草の匂いを辿ると、暑さのせいか、少しだけ傷のにおいがしたあとに人影が見える。
「こちらにいらっしゃったの……それに、お医者様が煙草はいけませんと」
「そうだったか?」
「またそうやってとぼけて……傷に障ります」

ドロリ、と何が溶け出して金属板と鼻筋を伝うのか知りたくはないが、すかさず削げた肉に極力触れないよう、体液をぬぐう。確かに温かな体温は感じるのに視線に混じる虚無、諦念が背筋を寒くする。戦争に行く前はこんな冷たい目をするような方じゃなかった。あまり感情を表に出す方ではないけれど、さりげない優しさが素敵な方だった。

それが旅順で変わってしまわれた。

鶴見中尉、と部下を従える立場になっているがために張られる虚勢も、虚勢をほどいた素の姿も、すべて血と暴力の惨禍の嵐をこえてから上塗りされてしまった。かすかに元の人格が透けて見えるときもあるけれど、彼が理想を語る時の語気や表情からして「変わってしまわれた」と表現するのがふさわしい。

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「なあ、加奈子」
「なんでしょう」
「北海道に越そう」

父祖から代々譲渡された土地を離れるということを知らない彼ではないだろう。ある程度地位のある彼の言う生活基盤の移動はすなわち北海道で骨を埋める、ということになるだろう。縁もゆかりもない土地で生きることに少しだけ気後れする。どこまでも黒々とした瞳は陰鬱な気配を孕んで私の双眸に注がれる。
「……はあ、そうですか……では名残惜しいですが、この家は売ってしまいましょうか。少しくらい足しになるでしょう」
「もう少し驚いたり、親と離れたくないと泣くかと思ったが」
「嫁いだ女が自分の親を気するものが居りますか……」
「そうか、詫び、でもないが上等な綿入れを買うといい、北海道は寒い」
漂ってくる煙草の匂いに若干辟易しながらも、隣が空いているのなら傍に座りたい。長い間新婚生活を送れなかった分が取り戻せるわけではないけれど、特に何も言わずに付き合ってくださるので、素直に甘える。

「けれど傷この気候は合いませんし、ちょうど良いと思います」
「そうだな。 この暑さじゃ蛆でも湧いてしまいそうだ」
「まあ……自分では取りづらいでしょうし、指でつまんでさしあげます」
何がおかしいのかわからないが、くつくつと楽しそうに笑っているので良しとする。てろり、とまた垂れてくる体液を拭いながら、戦争の間安全な本土の家に住んでいたにも関わらず、わざわざ私を未開の北海道に呼ぶということは何か考えあってのことだろう。と予想する。
何であっても、冷涼な気候と聞く北海道は傷には良いだろう。と、その時まではまだ今より楽観的な観測をしていた。

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高い建物が周りに無いおかげで見通しが良い建物に、屋根裏部屋があるだろう位置に小窓がついている。
おそらく用途は狙撃だろう。平時に人が立ち入る場所ではない。けれど今日は見覚えのある外套の影が揺らめいているのを確かに見た。吐く息はもちろん白く染まり、目の端から凍っていきそうな寒い寒い日に何をやっているのかと、梯子を軋ませながらなじみのある煙草の匂いを辿った。

「どうした、そんなしかめっ面をして」
「寒すぎて頭痛がしてまいりました」
「はは、そうだろうなあ」
ケラケラと笑う声に若干苛立ったものの、予想していた通り、北海道の気候は傷にちょうど良かった。膿んだり、匂いがきつくなるということもなく、悪化は今のところしていないというのがお医者様の見解だ。
あの暑かった東京でしたのと同じように、隣に座る。触れた手はもちろん冷え切っていた。思わず脈があるか調べてしまったほどの冷たさに、ますますこんなところで何をしているのか気になる。

おそらく進めている計画に関連するのだろう、と思い当たる節はあるものの、そのことを考えるたびにこの北海道のすっきり晴れない空に似た気持ちになる。

理想を追い求めて死ぬ、きっと世の男性にとっては恰好良い死に方なのだろう。これに反論すると、女だから理解できないだろうと反論されるがそうではない。愛するものを喪って耐えられるものなどいない、というどちらの性にも共通する感情があるはずだ。
あなたがやることないじゃない、とか、議員を目指して、構造から変えれば、そんな、命を危険にさらすことなんて、と何度詰め寄ろうと思ったことか。そうしたらきっと、夫を思っての事、と言っても離縁されてしまうはずだ。そもそも彼が何かやりたいことがあるなら成功するのを、微力ながら協力したいし、弾除けにでもなれるならそれでいいと思う。私がそれを言うことはまずないだろう。
私を愛しているならそんなことやめて、というのも逆効果だ。むしろ、「私を思うなら、部下たちがひどい生活をしているのを見過ごせないと言う気持ちを理解してくれ」とでも言うかもしれない。 いや、言わないかな。私に理解を求めるような歩み寄りを見せずに本土に返されて、籍は抜かないものの次にまみえるのはいつになるやら、となる。こっちの方がきっと近いだろう。それは決して愛情が薄れたというわけでもなく、考え方が違うから、喧嘩をするより安全な場所で過ごした方が私にとって良いだろう、と判断した結果、ということだ。

行き場のない気持ちを持て余していることで生じる不安を和らげようと、握ってくれることを期待して袖を摘まむ。ひやりと冷たいマメだらけの手が添えられて安心した。
「冷たい」
「そりゃあ、もう随分長くここに居るからな」
「なら、部屋に入って暖炉に当たりましょう、お茶を煎れます」
「いや、もう少し居る……先に戻っていてくれ、すぐに行く」
「……まだどなたかお戻りでないのですか?」
「そうだ、故郷に妻子を残した男だ……そうでなくとも、部下だ」

確かもう四日も戻らない人がいると兵士たちが噂をしていた。きっとその人が帰ってこないかと、日中とはいえ芯から凍りつきそうな日でも外で見ている。裏切りであれ、獣であれ、誰かに、であれおそらく無事ではないだろう。もちろん四日も姿を見せないひとを探すために人材を多く割く訳にもいかず、こうして火鉢も持ってこないまま冷たい床に座って待っているのだろう。元気な姿で、彼が守ろうとしている部下が戻ってくることを。

あまりに切ない。遣る瀬無い。
憐れ、ではない。どうにかうまくいってほしい、というあまりに無力な願いが叶いそうにないという見解を出してしまったことが苦しいというだけだ。見守る私が苦しいだけで、きっと、彼にとってはそう苦しいことなのではなく日常の一部として組み入れられているのだろう。

「懐炉と、温かいお茶を持ってきます」
「そうしてくれるか」
私が一緒に居ようと提案しても、狙撃の的になるだけだと許してはくれないだろう。なら少しでも凍えないように、風邪をひかないようにと、アイヌから買った毛皮の襟巻と、火傷してしまいそうなくらい熱いお茶と懐炉を届ける。

「ありがとう」
「いいえ、ほどほどになさってください」
「ああ」
とはいうものの、気が済むまで待つのだろう。合理的なことを愛しているようで、変な所で融通が利かない。そこが愛らしいところでもある……ような気がする。彼の好きな所の全貌を理解するまで生きていたいと思うのだけど、きっとうまくはいかないだろう。戦いのなかで無力ということは死に直結する。そのくらいは分かっている。彼の夢の結末を知る前に死ねるのなら、まだマシだろう。成功しても失敗しても、苦しんだ末に得るものだろうから過程を見ているのが辛すぎるというのは想像に難くないからだ。
ならいっそ結末を見る前に退場したい、というのが本音だが、確かに先ほどまで体温を保っていた愛しい夫と死に別れたくないというのも確かだ。

きっとこの晴れない気持ちに決着がつくことはないのだろう。それこそ、彼の願いが叶うまで。


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