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トガヒミコが出所する。
喉の奥に何か重たいものを飲んだように、どこか苦しい感覚がじわりと満ちた。トガヒミコ。私と同世代だったら知らない人はいないであろう、ヴィラン連合の中核を占めていた当時少女と報道されていたトガは私と同い年であれば二十五歳になっている。トガの家庭は何年も前に崩壊していると聞いているが、引き取り手はいるのだろうかと聞いてみた人皆が口々に言う。やめとけと。


「だめよ、お茶子ちゃん。トガを引き取ろうとしているんでしょう」
梅雨ちゃんはその黒々としたひとみで私を見つめた後、でもお茶子ちゃんが選んだことなら私も助けになるわと呟いた。
「ありがとう梅雨ちゃん」
「緑谷ちゃんが亡くなってからお茶子ちゃんほんとうに元気がないもの。お茶子ちゃんが少しでも興味があるならやってみるといいわ。でもトガを立ち直らせようだなんて思わないほうがいいわ」
梅雨ちゃんは、あなたが心配なのお茶子ちゃんと言って震える手で私の手を取った。他の人の手より大きな手で私の手をくるんで祈るように額に当てた。
「トガのことを立ち直らせるのは無理かもしれん。けども、私とトガにしか共有できない気持ちがあって」
「そう」
梅雨ちゃんは私を説得できないと悟ると深追いはせず、また会いましょうと言って伝票をさらっていった。前はおごってくれたからといって財布を開く梅雨ちゃんはもうすっかり大人の様子でいる。
奇跡的に私たちは大人になり、こうして平和と呼ぶに程近い世界でゆっくりお茶する機会に恵まれている。ヒーロー業は以前より格段に暇になり、こうしてまるで年頃の女性のようならこともすることができている。
トガがいる女子刑務所の最寄り駅の改札で梅雨ちゃんと別れた。毎度別れる時はお互いに口には出さずとも胸に抱える気持ちがある。次会う時、冷たくなっていないだろうかと。


しとしとと雨が降る中、ゆるくサイズが合ってない白シャツと黒ズボン、そして最低限の荷物であろうものをまとめたナップサックだけの姿でトガは檻の外へと歩みを進めた。
長かった金髪は短く切り、頬はやつれてはいるが当時の眼光は健在だった。私は無意識のうちに震えていることに気づいた。


トガに私が身柄を引き取ることを打診したら特段考えることなく了承したというが、その真意もわからないままでいる。個性は薬で消してしまっているので以前のような活動はできないが、寝首をかかれてしまえばかつての同級生と冷たい私が対面することになってしまう。
トガにビニール傘を渡すと無言で受け取り、差した。呼んであったタクシーに乗り込み、スマホと家の鍵、当面のお小遣いを入れたピンク色の財布を渡した。
「私が刑務所にいる間、デクくんと結婚してたりして」
トガは茶化すように笑い、まずはお風呂に入りたいですと言った。
「トガは知らなかったね。明日一緒に行きたいところがあるんだ」
いぶかしげに私を覗きこんだトガは、数秒で興味を失ったらしく窓の外の雨粒を見ていた。



「ついたよ、スマホにうちの住所入れといたから」
「わ、お茶子ちゃんいい家住んでる」
親に楽させようと走り続けた十年だったが、蓋を開けてみれば両親は子供の世話にはならないと突っぱねてしまった。私は誰のためにヒーローをやればいいのかわからなくなっていた。求めれば助けたが、求める絶対数がなくなれば、助けもいらなくなるのだった。
トガに与える予定だった部屋に通したら、刑務所並みに殺風景ですねと抜かした。
「これからトガがお金を貯めてステキな部屋にしてくんだよ」
「なるほど。そういうことですか」
「トガは何か嫌いな食べ物ある?」
「ありましたけど、刑務所行ってからなくなりました」
「じゃあおうどんとサラダでいっか」
「わ、おうどん好きです」
「ならよかった。トガはビール飲む?」
「トガは未成年で入所して二十五で出所なので飲んだことありません。お茶子ちゃんのちょっとちょうだい」
「いいよ。夕食まで自由にしてていいから」
「はあい。お風呂借りたいです」
「ほんじゃお風呂洗っておいで」
「りょーかいです」
とたとたと足音をたてて風呂場に消えていったトガを見送り、ほっと一息ついた。怒りにまかせて暴れまわるということもなさそうだ。念のため、近隣に住むヒーローや事務所を構えるヒーローには連絡しておいたが、杞憂に終わりそうだ。
「お茶子ちゃん、わたしパジャマないです」
「と、思ってユニクロで買っておきました」
「お茶子ちゃん、本当にわたしのことまっててくれたんですね」
もじもじとしているトガにパジャマを渡すとそんなことを言うので、そうだよと返した。
「わたしのこと待っていてくれた人、大切にしてくれた人、仁くんのほかにいないと思ってた」
「トガの人生長いからね。いろんな人がいるよ」
「……そうですか」
トガの表情は窺い知れなかったものの、声音は優しいものだった。ほどなくしてシャワーが床をたたく音が聞こえてきた。


「にがい」
ビールをひとなめ、トガは顔をしかめて舌を突き出して言った。
「味わうもんじゃないよ。喉越しだよ」
「これお茶子ちゃんが働いたお金を出すほど美味しいですか……?」
「そこまで言われると自信無くなっちゃうな」
トガは野菜も嫌いらしく、苦々しい顔をしながらどうにか胃に押し込んでいる様子だった。
トガから私と同じにおいがするというのも不思議なもので、トガが短くなった髪を乾かしているところをぼんやり眺めた。
「明日はどこに行くんですか?」
「内緒」
「えー、ケチ」
「ケチとかいうんじゃなくてさあ……」
「何着ていきます? 私あの刑務所出る時に着てた服しかなくて」
「あー、そうか……私のワンピなら入るかな」
「お茶子ちゃんのじゃ、お胸がちょっときついかも」
「あ゛?!!」
「わーい、怒ったあ」



冬の気配が日に日に強まっており、気が滅入る。だが、トガが熱心にスマホに向かっていたり、偽名でできるバイトを探そうとしているのを見るとなんとなくやる気になってくる。当面はコイツのぶんまで稼がないとという気持ちが湧いてくる。
「トガ。偽名って何にしてんの?」
「麗日日向です」
「……へー」
「トガはずっと日陰者でした。みんなに馬鹿にされて、ちがうって言われて。でもわたしだって日向を歩けます、歩きます……ってことで」
「そっか。まあ、いいや。トガはまだ目立つからマスクと帽子してくれる?」
「いいよ」
黒いバケットハットと黒いマスク。これでもう十分あやしいが、そうも言ってられない。
「どこに行くんですか」
「まず、花屋」
仏花を2束買って、一つをトガに持たせてもう一つはトガに持たせた。ここでトガは何かを察したようで、ニヤリと笑みをたたえた。
「お茶子ちゃん、お墓参りですか?」
「そうだよ。今日は月命日だからね」
「誰のでしょう……トガのお母さんですかね?」
「……存命だと聞いてるよ」
「……ふうん」
トガの両親が本当の意味でトガを捨ててしまったのだとわかったのか、それからトガは無言で私についてきた。心のどこかで死んでいてほしいと思っていたのかもしれない。死んでいたなら自分に引き取りに来ない理由になるのだから。



お題は天文学様
2022/7/23 wavebox