「目立った異変はないんだけどね……」
お医者さんはそう言って頬を掻いて、ふむと独り言を投げては拾いを繰り返していた。要はなんで俺が覚えていないことがあるのか誰にもわからないんだ。途端、言葉にできない不安のようなものに襲われた。みんながわかっているのに俺だけわからない焦りというか。みんなできているのに一人だけできずに居残りしている放課後がずっと続いているような。
電車に乗って帰ろうとしたけどヴィランが暴れているとかで遅延。バスも長蛇の列。記憶が抜け落ちている以外健康なので歩いて帰ることにした。昔誰かとギンナンが美味しいと聞いて一緒に拾い、手が臭くなって泣いていた子がいたような気がしたけど、思い出せない。イチョウの樹の下で突っ立ってたいたら同じ高校の制服をきた男の人から声をかけられた。
「ミリオ。病院終わった? ニュース見たら電車止まってるって見たからさ……この前とったんだ。バイクの免許」
中古で買ったという少し古びたバイクにまたがった男の人は、どうやら俺の知り合いらしくてヘルメットを寄越してくれた。ヘルメットには子供の落書きのようなものがされていた。
「あ、これさ。エリちゃんが描いてくれててたよ」
「あのー……すみません。本当に申し訳ないんですけど俺……あなたのこと覚えていないみたいで」
「えっ」
男の人は目に見えて落胆した様子で、見ていて申し訳なくなった。けれど本当に覚えていないんだ。とりあえず学校に戻ろうと促されてバイクに跨った。視界を滑ってゆく風景を眺めているのにはすぐに飽きてしまって、男の人の運転を阻害しない範囲で話をした。
「お名前、なんて言うんですか?」
「天喰環……なんかミリオに自己紹介するなんて不思議な感じする」
「だってわからないんだもん」
「だよね。ごめん。天地の天に、口へんに食べる……環は環境の環」
「へー。学校どう? 楽しい?」
「辛いこともあるけどまあ楽しい……おかげさまで」
「ご丁寧にどうも! で、そのエリちゃんって誰?」
「うーん、子供……」
「説明下手くそすぎない?!」
「いやだってさあ……話始めると長くなるよ?」
「でもその知識入れとかないとエリちゃんいあった時傷つけちゃったら」
「記憶なくても、変わらないところもあるね」
「……身長とか?」
「……そうだね。エリちゃんは……波動さんは……」
それから長いこと俺が関わっていて、俺が忘れてしまっている人の話を聞いた。膨大な、俺が無くしてしまった記憶の量に呆然とするけど、環くんは自信なさげに話すけど嫌そうではないし、根掘り葉掘り聞いてしまった。
「昔さ、ギンナンの実を食べようとか言って実を集めたのって、環くんとかな」
「そうだよ。俺と」
「じゃあ、そうだな……マウスの無線と有線買い間違えて仕方なく有線マウス使ってるのって」
「俺だけど!?? なんでそんなことは覚えてるの」
「なんでだろうね!」
「……まあいいや。徐々に思い出していきなよ」
「ありがとう」
俺の記憶が欠落していると言う話は、隠さず打ち明けていくことにした。そのほうが誤解がなさそうなので。
「やっと訪れた平和だもんね。張り詰めてて、緩んだからかもしれないね。ゆっくり休みなよ」
波動さんという女の子は俺を見るなりそう言った。普段人間の心の機微に疎いという彼女は腹と顔に複数の傷があり、ツノがあったという場所は残骸だけがあった。俺の記憶にあった波動さんとは違っていて、動揺してしまった。
「このまま卒業かあ……プロになったら離れちゃうね」
「俺は大阪だしね……どうしても、そうなっちゃうかも」
しんみりとする二人の間にどうにも入れないでいた。なんせ共有するほとんどの思い出に靄がかかっているような状態なんだ。記憶の切れ端はあれど、それが誰との思い出なのかがつながらない。俺はこの学校でたくさんの思い出を作ってきたはずなのに全てとりこぼしてしまっている。
「冬になったらさ、鍋やろ」
「そうだね……」
「鍋の話題なら入れる。鍋やりたい」
「……ミリオはさ、結構……切れ端みたいな記憶はあるっていうじゃん。言ってみてよ」
「うーん……波動さんがクラスで浮いてたのを遠巻きに見てて、それをコソコソいうの嫌だなーっ思ってたらそういうの苦手そうな環くんが話しかけに行ったり……三人でしゃぶ葉行ったり……瓦礫の片付けしてたり……お父さんと個性の訓練をしたりもしたかも。もっと小さい頃の記憶だと、環くんが浅い川に落ちて尋常じゃなく泣いてるとか、イキってブラックコーヒー頼んで渋い顔してたりとか……」
「結構覚えてるじゃん」
「忘れてほしいことも結構……」
「だけどさ、なんか……ゲームでまだ進んでないところはロックかかっているみたいに通り過ぎた記憶もロックかかってるみたいに見えないんだ」
「へー」
「これは覚えてる! 波動さんが興味ない時の言い方!」
「当たり! 覚えてるじゃんね!」
ケラケラと笑う波動さんは紙パックのジュースを潰して立ち上がった。これからまたインターンに戻るという。後輩二人と自分の技術の研鑽を重ねるという。
「環くんは?」
「俺はどうしようかな……」
「もしよかったらさ、なんか……記憶が戻りそうなところ連れて行ってくれない?」
「いいよ。どこがいいかな……」
駐輪場に行くまでずっと悩んでいる様子だったけどようやく行き先を決めた様子でヘルメットを渡してくれた。
なんでバイクの免許取ったの、と聞くと瓦礫や通行止めが車よりないからだそうだ。
「いやあ……本当に何にも覚えてなくて困るよ」
「俺がブラックコーヒー頼んだことは覚えてるのに……」
「これから環くんが連れて行ってくれる場所の見当もつかないし」
「いいんだよ別に、バレてたらつまんないよ」
何時間は走っただろうか。話したり道の駅でお土産とか言って妙なものを買ったり食べたりしていたので正確な時間はわからない。すっかり暗くなってしまった浜辺に腰を下ろして、道中買った梅ドリンクを飲んで酸っぱさに顔を顰めていてもお互いの顔が見えないくらい暗くなってきた。海水浴シーズンを終えた海水浴場は不気味なほど静かだった。
「ここが思い出の場所?」
「俺にとってはそう」
「へえ〜」
「……なんで靴下脱いでるか聞いてもいい?」
「逆になんで靴履いたままなのか聞いてもいい?」
「もう冬! 冬!」
「冬の海もいいかもよ!」
「それは見てるだけだからだと思う」
「そっかあ……」
そう言って丸めた靴下を靴の中に捩じ込んで裸足になり、海に向かって歩いていると後を追う砂を踏む音が聞こえた。
「環くん」
「少しだけ」
波が足元をさらう感触と、刺すように冷たい海水。お互い、いまだ癒えない傷に染みているようで顔を顰める。多分しかめているんだと思う。月の光でぼんやりとしか見えないけど。
「ごめん、何にも思い出せないや」
「いいんだ。冬の海、見てみたかったし」
「そして言い出しておいてごめん。すっごい寒い。あがろ」
「だよね。あがろ」
たくしあげた制服のスラックスの裾がぬれていて、じっとりと冷たい布の感触が足首を襲うのでうげえとなっていたら環くんの様子を見たら同じようにうげえとなっていて笑ってしまった。
「で、ここはどんな思い出がある場所なの」
「……内緒」
「えーっ! だ、だって俺覚えてないんだよ?! 内緒て」
「でも、言えない。思い出したら、あっ、て思うから」
「そ、っかあ。 わかった」
「うん、ごめんね」
そう言って、帰りは無言でバイクに乗った。
「今度は別の場所に連れてってあげる」
「ありがとー」
▼
あくる日、環くんと俺はバイクを途中で降りて瓦礫の山の中を歩いていた。なんでも、バイクではいけない場所なんだって。
「なにこれ?」
何かを入れていたような、巨大な箱のようなものが地面にめり込んでいた。なんてこともない、この国においてありふれた廃墟だ。
「ここで、俺たちは戦ってたんだ」
「へー……」
俺の反応が芳しくないことを認めると、環くんは「波動さんを呼んでマシュマロでも焼こうか」と言ってくれた。せっかく色々なところに連れて行ってくれているのに結果が出せなくて申し訳ないと思うと同時に、環くんはそんなこと気にするような人じゃないと、この俺の記憶が欠けてからの短い付き合いでわかる。カルディで紅茶味やらコーヒー味やらのマシュマロを買って学校に戻ると、同じようなことを考えていた波動さんはいちご味やらオレンジ味のマシュマロがあってもスタンダードなマシュマロを買ってきた人は一人もいなかった。
「逆にすごくない?」
波動さんはマシュマロを豪快に燃やしながら言った。火災報知器がなったら大変なことになるという自覚はあるらしく、すぐに水をかけていた。水にぬれたマシュマロの味はいかに。
「そうだよね。これだけ変わった味のマシュマロがあってスタンダードマシュマロがないってなんで?」
「それはね! 誰も連絡なんか取らなかったから!」
波動さんの笑顔がまぶしい。周りに習って俺もマシュマロを炙り、口に含んだ。
「あっっつ!!!! ……あっ」
「なに、あって」
「波動さん、環」
「あっ。俺の呼び方なおってる」
「ってことは」
「……だいぶ思い出した。少なくとも環が連れてってくれた場所がなんだったのかは全部わかった」
「マシュマロで記憶戻るとかってありなんだ!」
「なんでもいいよ、戻ってくれたなら」
「みんな心配かけてごめんよ」
「いいよ!」
「全然、別に。ちょっと心配はしたけど」
悩んでいた割にはあっけなく、俺は無くしたと思われていた記憶を徐々に取り戻して言った。階段を踏み外した時、足を攣った時、歯磨きしてる時なんかにも。
▼
「いやー忘れたくないもんね。環がこっそりキスしようとした時なんかさ」
波動さんが寝ると行ってしまってから、俺たちは少し話をした。波動さんはメシ、フロ、寝ると言ったように大変わかりやすい行動をとることがわかった。思い出したのかもしれないけど。
「なっっっっ起きてたっっ」
「起きてた」
「ばかっそう言う時は寝ててよ」
「えっごめん」
「尊重してくれたんだろ? 俺がハグならわかるって言ったの」
「まあ……意識がない人に無理やりキスしたらそれはアウトかなって」
「うーん素晴らしい。これが令和の倫理観」
「えらそうに」
すこしむくれる環の唇を見たらすこし切れていたので、リップクリームを貸してあげた。途端、唇に血の丸いつぶが生まれ、切れてしまったのだとわかった。なんの気なしにそれを舐めとったら、目をまんまるくしてこっちを見ている。人って驚くとこんなに、目が丸くなるってこう言うことかなんて呑気に思った。
「血のあじ」
「そりゃあ、そうでしょ」
「ちょっとキスしてみたくなった」
「事後報告」
「うん、なんか。キスなんてしなくてもいいかな思ってたけど、したくて」
「理由は別に聞いてないけど、大丈夫なの? キス、したくなかったんでしょ」
「大丈夫。うまく言えないんだけど……環大好き」
「うっ、なにそれ。俺も」
照れ隠しにカモミールティで唇を湿らせて沁みて痛がっている環。俺が忘れてしまっていることがあるのかもしれないと思ったら、なんだか惜しくなった。環のことひとつも忘れたくない。
「まだなんか、忘れてるのかな」
「……なんていうか、傷ばっかり見てると傷が痛いように思えてくるからさ、まあ徐々にでいいんじゃない」
「そうだね」
「ほんじゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
自室に戻ろうとする環の手を引き留めて、俺からおやすみって言ったのに、またキスをひとつ。きっと強いお酒を飲んだならこんな、高揚のような、まだ一緒にいてほしいような形のない気持ちになるんだと勝手に想像した。環は少し背伸びして俺にキスを返して、小さくおやすみと言って自室に戻っていく足音を残していった。誰かを好きになるって大変だ。今までなかった気持ちや、名前がなかった気持ちに次々名前がついていくんだから。
もしかしたら忘れていただけかもしれない。けどどっちだっていい。環となら、それで。
2022/11/5
