いつかの夏からセミの鳴き声を聞かなくなった。小さい頃祖父母の家に行った時はセミの鳴き声の波をこえて祖父母のいる田畑まで駆けていったものだけど、都会には土がもう全然残っていないうえに、セミが地中にいる間に地面だったところがコンクリートで埋められて出てこれなくなってしまったらしい。
俺も同じだ。しかし俺の場合は俺の手で育たなくして生まれるのをやめさせた。この俺の、初恋とよばれるもの。
ミリオとは長い付き合いになる。それこそセミが地中に潜ってから地上に現れる期間くらいの付き合いがある。人見知りで卑屈な性格の俺にとって、ミリオは太陽のようだった。太陽に近づきすぎたイカロスは蝋の翼を溶かされて地に落ちた。そうならないよう、離れたところから温かさを感じるだけで我慢しようと思っていた。


我慢ならいくらでもできると思っていた。


お互いの親戚の家にも交互に行っており、今年はミリオの祖父母の家に二泊させてもらうことになった。貴重な夏休みのうちの二泊。楽しみで仕方なかった。ミリオの祖父母は海の近くに住んでいて、日が暮れるまで海で遊んで夕暮れを一緒に見て、夜には線香花火を少しだけやってバカみたいにうるさい寝言を聞きながら寝る。じゅうぶんすぎるくらいだった。


「おじいちゃん、おばあちゃん。きたよー」
「まあっ環ちゃん!よく来たね!」
「孫は無視かい!」
まあいいけどね!と大して気にする風でもなく、俺と自分の荷物を持って上がっていった。俺は野菜作りに興味があるという点からミリオの祖父にたいそう気に入られており、なかなかに推しが強いミリオの祖父といった感じの圧にうろたえてしまう。
「そんな三和土で話さなくても。スイカありますよ」
ミリオの祖母の助け舟があってやっと上がらせてもらった。今年はナスの出来がいいと聞いた。たくさん持っていって配りなさいだそうだ。
庭先でスイカを食べながらきらきらと光る海を見ていると、遠くまで来たなという気持ちになる。夏なんてすぐ終わってしまうのに、この景色を思い出しては、感傷的な気持ちになっている。
「ミリオと環ちゃんは本当に仲がいいね。良い友達を見つけたね、ミリオ」
「うん、最高の親友だよ」
間違いなく、よろこぶべきだと思う。
曖昧に笑ってもう一口スイカを齧って、頭の中で繰り返す。友達、親友。関係性に上下はないものの、波動さんと同じ関係だ。胃の底に重苦しい気持ちが滞留していくのがよくわかる。友達の何が不満なんだろう。それ以外に表しようがない関係じゃないか。
楽しみにしていたはずなのに、どうにも気持ちが乗り切らない。それがミリオにも伝わってしまったのか、ぼんやり浮き輪につかまって波にゆられるままになっている俺を見て、もう帰る?と聞かれてしまった。
「帰らない。むしろこのまま海に還る」
「わかった」
それ以上何も聞かずに、ミリオもまた波に揺られている。ミリオはうるさくて空気が読めなさそうでいて誰よりも繊細に気遣いができると思う。その心地よさにずっと縋っていたいと思っていたけど、その、ミリオに彼女や彼氏ができたのなら潔く引かないとならないわけだけどもそれができるだろうかと考える。


「眉間に皺寄ってるけど」
「まぶしい」
「違うね。なんか考え事してるだろ」
「してるけど言わない」
「言ったほうが楽になる時あるけど」


本当はずっと太陽に雲がかかっていてまぶしかくなんかない。ミリオの言う通りなんだけど、言ってしまったら失うものが大きすぎるような気がする。けれど、長く抱え続けた気持ちを知ってほしくて、ぽつりぽつりと話だした。


「ミリオは俺のこと友達っていったけど、俺はそうじゃない」
「じゃあ……幼馴染」
「間違いじゃないけど俺の好きはもっと違う好きだよ」
「……………………あ、なるほど。ゲイセクシュアル的な好きってこと?」
「そういうこと」
話が早くて助かると同時にもう引き返せないなとわかってしまい手足が冷たく感じる。海のせいだけじゃない。
「そっかー。考えたことなかったな。誰かと付き合うとか」
「もういいよ、ごめん。変なこと言って」
「ちょっとちょっと。自分から投げかけといてさっさと引っ込めるのはおよしなさいよ」
「こんなに長い間信頼して好きだった人にフラれるところまで聞きたくない」
「振る前提で話進めないでよ」
誇張なく時が止まった。俺たちの時間だけ止まって俺の世界がこのままゆるやかにシャットダウンしたなら幸せな時のまま終われる、なんて考えた。
「長い間好きでいてくれてありがとう。今すぐ環と同じ好きになれないけど、環のことはすごく好きだよ。俺と付き合って」
「嘘だろ……できすぎてる……」
「信じてよ。おねがい」
小指を俺の薬指に絡めてハイ結婚指輪なんて言ってる奴のこと信じていいんだろうか。でも信じたい。このあとどうなっていいから信じてミリオの好きを受け取りたいと願ってしまった。


「信じる……」
やっとそれだけ絞り出した俺を笑うことなく、唇青いよとだけ言った。
「そういえば寒い」
「もーっ。上がってよ!」
ぬるい大気に身を包むと今までの心地よい温度が恋しくなるが、戻ろうとしたら抱えあげられそうになったのであわてて陸に上がった。
「付き合うって言ってもさ、何が変わるんだろ」
「……俺は好きな人といろいろしたいことあるよ」
羞恥のあまりタオルでぐるぐる巻きになったまま帰路に着くとどうしても人目を引いてしまうようで、できれば砂になりたかった。軒先に寝転がっていると、ぬるいお茶をミリオが持ってきてくれた。
「ありがとう」
「俺はさ、あまりこう……好きな人とキスしたいとかはなくてさ……友達みたいに一緒にいれれば満足なのかもしれない」
「そう。強要はしないから」
渋めのほうじ茶が染み入る。そういうセクシュアリティの人がいることは知っていたけど、いざ自分の好きな人が自分に触れたくもないわかると寂しいものがある。それこそ固定概念なのだというのはわかっているけれど。俺だけ盛ってるみたいで恥ずかしいし。
「でもハグはしてみたい」


ミリオのその言葉一つで、胸が高鳴るどころか不整脈なんじゃないかというぐらいバクバク鳴ってしまう。冷房の効いた室内で、昼寝をするからと祖父母にいって襖を閉め、こちらへ向かう足音がするその見てはいない挙動のひとつひとつで心臓がうるさいくらいに跳ね回る。横になったミリオの懐ににじり寄ってすべり込むと、あたたかな両腕に包まれて確実に脳味噌がとろけていく感じがした。
「おお……これは癒されるわ……いいにおいする……」
「嗅ぐなや!!!」
「環と長いこといるけどさ、そんなデカい声出せたんだね」
「嗅ぐな……」
「はいはい」
温かな体温に目蓋が徐々に落ちてくるのを感じる。太陽に近づきすぎたどころか付き合うことになったけど、怯えて震えるだけだった俺を少しは救うことができたかな。
すこしかさついたミリオの唇に触れてみてニヤニヤしてしまう。強要はしないなんてカッコつけたけどほんとはキスだってその他のことだって色々したい。話し合って、落とし所見つけられるかなと不安になるけど、ミリオとなら大丈夫という妙な信頼がある。心地良い。関係性も、体温も、何もかも。もう早寝息を立てているミリオの唇にそっとキスをしようとして、やめた。もぞもぞとミリオの懐に戻った。幸せすぎて、夢みたいだ。



お題は天文学様
2022/11/5 wavebox