冬が去っていく。
 洗顔のとき、水の温度がすこしだけ温むようになり、早朝にグラウンドに出ても霜が降りていることもなくなってきた。俺は先輩たちの進路を小耳にはさむようになってから、季節が去ってゆくと同時に、先輩たちも去っていくことが頭の隅を占めるようになった。
 人間関係での未熟を、技術の未熟を忘れさせてくれる強烈な憧れにあてられてから早いものでもう、五年になる。憧れを追いかけていたら、憧れていた人がもっていたものは、そのひとと実力を争ったわけでもないのに、俺の手の中へ転がり込んできた。そこに自分の努力がなかったとは言わない。それこそ血がにじむような努力をしてきた。が、全盛期の輝きを追い続けてきた俺には、寂しさに似た苦さが残った。
 
 五年の間に、俺からクリス先輩への感情は、憧れ以外のものも盛り込んで肥大し、今に至る。恋、恋とはどんなものだろうか。もしかしたらあの日クリス先輩に負かされてから、俺はずっとクリス先輩に恋をしていたのかもしれない。それほど強い気持ちでクリス先輩を求めてきた。
 技術的な面ももちろん、人間としても完璧なようでいてどこか脆い、そんな陰のある強さを同じ場所で見ることが叶わなくなるかと思っただけで、生まれた年度がつくづく恨めしい。さっきからぱらぱらとめくっているスコアブックの内容が全く頭に入ってこない。クリス先輩が肩を壊す前の練習試合。東さんの一個上の代のピッチャーへ、クリス先輩がしたリードの内容が記してある。
 
「随分懐かしいものを」
 本人の登場で思い切り驚いてしまった。対等な存在でありたいと、俗っぽい言い方をすれば、かっこいいところを見せたいと願えば願うほど、理想の対応からかけ離れてしまう。
「居るなら居るって言ってくれればいいじゃないですか」
「熱心に見ていたから、邪魔するのも悪いかと思って」
「これ、先輩がやったリードなんだからいろいろ教えてくださいよ」
 
 無意識ににじみでた、苦しげな笑みを見逃さなかった。
 俺が思っているほど強い人ではないのにいつもクリス先輩を等身大以上に見積もってしまいたくなる。
 大人びているようでいて、ほんのすこし身の回りのひとたちより達観せざるを得なかっただけだ。
「このときは、まだ怪我していないころだな」
「俺が先輩にあこがれて青道へ進学決めたころの試合なんで、俺にとっても思い出深いんです」
「そうか……」
 そういったきり黙りきってしまった先輩の表情を伺えない。もうすぐ卒業なのさみしいので、思い出話がしたいんですと素直に言ってしまえばよかったのに、真意を悟られたくなかったがために、クリス先輩の帰らない思い出を掘り返す必要はなかったのかもしれない。
「俺の怪我がなかったら、正捕手争いを宮内と、俺とお前と小野とでしていたんんだろうな」
「それはもう、きっと」
 
 先輩が自分の怪我に関して、もし、を言うのは珍しい。それを仲間に、特に同年代に吐き出したところで雰囲気を悪くするのが目に見えているからだろう。それに、哲さんや丹波さんは、俺が気づいていればと自分に原因を見つけようとするタイプだからなおさら言いにくいのだろう。
 自分を意識的に選んでそういう話を振ったのかはわからないが、心の距離が、以前より縮んでいることを先輩が感じていたのだとしたら、と都合の良い解釈をする。
 
「先輩が卒業したら、追いかける人がいなくなってしまって」
 さびしいです、と続けるつもりだったが、卒業、ここからいなくなって別の場所で生活する、と頭によぎっただけで鼻の奥がツンと痛んでしまう。そんなに涙もろい性質ではないのに。
「お前が追いかけてきたのは俺だったのか?」
「え?」
 俺にとっては何をいまさら、と言いたいところだか憧れていたのは俺の勝手な行動ともいえる。
「お前は甲子園のことしか追いかけていないかとおもっていた」
「それは、そうですけど」
 どう違うかと問われると答えに詰まるが、甲子園というものは野球で頂点を目指すものにとっての目指すべき偶像であって、クリス先輩は、人間関係も、だれにも言うつもりは無いがすこしだけ寂しかった家庭でのことも全てつぶしてしまうくらい強い光だった。野球にだけ打ち込んでいていいんだ、と思わせてくれた。
「うまく言えないですけど、もっと先輩はとくべつです」
 言ってからなんて恥ずかしいことを言ったのか理解した。先輩も驚いて苦笑しているし。特別、という言葉で飾れないほど、それでも崇拝と呼ぶにはキレイな感情では塗れない。クリス先輩の前では、自分が一番わからない気持ちでいっぱいになる。
 
「そんなにか?」
「そんなにです」
「お前に俺が、なにか残せたってことかな」
「そんな、遠くへ行っちゃうみたいなこと言わないでくださいよ」
「そうだな」
 口先だけ、遠くに行かないように言ってはみるが、実際、俺は明日も明後日も、野球というスポーツがある限り練習漬けの毎日で、先輩には進学先での野球があって。同じ世界で生きているようでいて、違う道を歩き出すことは痛いほどわかっている。
 野球で繋がった縁が、野球によって緩んでいくような気がして、焦りを生んでいるんだろう。
「俺は」
「なんだ?」
 
 俺がどんな目で先輩を見ているか知る由もない先輩が、後輩がなにか言いよどんでいるのを心配して顔を覗き込んでくる。それだけの行動なのに、衝動的に、いままで我慢に我慢を重ねて築き上げてきた関係を壊してでも、手に入れたい、と頭によぎった。
「……先輩、卒業しても試合とか練習見に来てくださいね」
「ああ、行くつもりだ」
 誰かに想いを伝えるということは自分の弱みをさらけだすことだと、実感した。泣いて縋って好きです寂しいですと言えたらどんなに俺の精神が救われるだろうか。
 
 ◆
 
 号泣すると思っていた奴らが意外と泣いていなかったので、一層泣きづらくなった。笑顔で見送りたい、心配要りません、甲子園で頑張ってきますと言って、安心して去ってほしかった。
 と、思っていながらどうにもこらえきれそうにない。
 
「御幸」
 声を聴いただけで涙腺がゆるむ。あこがれて、でも届かないうちに手からこぼれ落ちていった先輩が、また、手の届かないところへ行ってしまう。
「先輩、ご卒業おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう、お前、怪我ちゃんと治せよ」
 俺を見てきたんだろう、なら、わかるよな。と他の先輩に聞こえないように。
「はい」
「うん、いい返事だ」
 沢村にするように、一人の後輩の面倒を見る先輩として去ろうとしている。
 
「先輩」
「なんだ?」
「俺、先輩がもう一度野球しているところ、見たいです」
「見ているだけでいいのか?」
 いたずらっぽく笑って、俺の髪についた桜の花びらをつまんでいる。花笛がしたいのか、指先でつまんで引っ張って、息を吹きかけて。
「……随分汚い音がでましたね」
「そうだな」
 至極残念そうに花びらを捨てて、向き直る。捨ててしまったのがもったいなく思えて、つい目が花びらを追ってしまった。
 
「御幸が怪我したって聞いて」
 思わず身が竦んだ。一番言われたくないことを、一番言われたくない人に言われてしまった。
「御幸は俺から何を学んだんだ、って。腹立たしいくらい心配だったよ。柄じゃなく、説教までしてしまったくらいには」
「……すみません」
「いや、謝ることはない。現に俺が御幸の状況だったら迷わず試合に出るからな」
 どこか本題をぼかしているような印象を受ける。いやに饒舌なのが怪しい。
 
「先輩、どうかしましたか」
「お前だけは誤魔化せそうにないな」
 
 お前だけは、その言葉がどれだけ俺をよろこばせるか、先輩は絶対に知らない。
「お前は俺を高く評価してくれていたが、なにか、後輩に残せたのか、と思って」
 らしくない弱気な声で、怪我をしてぼろぼろだったときの声で囁く。
 青道高校野球部という組織のなかで、選手としての道を選んだことで浮いた存在になってしまったクリス先輩に、どこがすごいんだ、と心ない言葉をつぶやく奴がいなかったわけではない。
 そのたびにそいつを軽蔑してきたが、先輩はそうもいかなかったのだろう。クリス先輩が心から信頼していた組織からの言葉は、確実に先輩のなかに溜まっていったのだろう。
 
「俺は、ずっと先輩のこと見てきましたから。怪我する前の、誰もよせつけないくらい守ってもよし、打ってもよし、のときも、選手としては難しいって言われてから、それでも選手としての自分を諦めなかったときとか……後輩って、口でどうこう言うより、その人の背中を見て育っているもんだと思います。っていうか、俺はそうです」
 思わず熱弁してしまった。反応が怖くて目を逸らした。純さんがボロボロ泣きながら読んでる、と茶化されながらも読んでいた漫画なんかよりずっとクサい。
 
「御幸が、誰かについてそんなに語るなんて、はじめて聞いたかもしれない」
 無邪気に喜んで、表情をほころばせる先輩。誰にでもそうするわけじゃないんですよ、とまで言わないと、自分の気持ちを表したことにならないらしい。
「先輩という目標に、憧れていたから俺は強くなれたんです」
「俺は、御幸を通して青道に貢献できたってことかな」
「俺だけじゃない、後輩キャッチャー、小野も、狩場も、先輩を見て育ちましたし、これから入ってくるキャッチャーも、俺らのなかにある先輩を見て育ちます。それに、ピッチャー陣も」
 俺が言葉を選ぶ余裕がないのを、笑い飛ばすわけでもなく、俺の言葉を待っていてくれる。
 
「買いかぶり過ぎじゃないか?」
「絶対に違います」
「わかったから、そんなにむきになるな」
 喉の奥で笑って、俺の肩を叩く。偶然にも、先輩が怪我したのと同じ肩。
 
「でも、ありがとう御幸。俺はお前の先輩でよかった」
「先輩、ってだけじゃない、こんどは、ライバルとして」
 
 一瞬、驚いたように目を見開いて、まるで余裕たっぷりの、悪い大人のような顔をして笑って、それは、たのしみだなと返してくれた。さっきの言葉には、先輩後輩としてだけじゃなく、もっと近くて、特別な関係にと思っているのだけど、今、言うべきだろうか。先輩の記念日に、後輩から好きだと言われて戸惑わないはずがないし、いやな気持にさせたら、と悪い方へ悪い方へ考えてしまう。
 
「御幸、なんて顔しているんだ、できれば笑顔で送って」
「できません」
「え?」
 まさか否定されるとは思っていなかったらしく、唖然、を表に出してきた。
「……ハンカチ要るか?」
「持ってます」
 最悪のタイミングで涙を堪えきれなくなってしまった。こんなはずじゃなかった。笑顔で、先輩、お元気で、って言ってこっそり想っている予定だった。
「イケメン捕手、が台無しだな」
「なんですかそれ」
「クラスの子が言っていた」
 恥ずかしいやら居たたまれないやらで、穴があったら入りたい、ここから逃げたいと強く思った。先輩がうれしそうに、御幸が泣いてくれるほどだとは思っていなかった、だとか言いながら桜の花びらを捕まえようとしていて、泣き顔を見ないでおいてくれているのが唯一の救いだ。
「顔はどうあれ、秋大会のときの御幸はかっこよかったぞ」
「え……?」
「チームの柱として、しっかりやっているじゃないか、って」
 また涙があふれてきてしまった。認められたくて、憧れてきた存在に褒められた嬉しさと同時に、遠いところに行ってしまうのだと実感してしまった。
「でも、ごめんなさい」
「どこに謝る必要が……?」
「買いかぶっているのは先輩のほうです」
「珍しいな、御幸が謙遜なんて」
「俺、先輩がほかのチームメイトとかを想う好きとは、また違う意味で、」
 
 ◆
 
 ぐすぐすと鼻をすする音がどこからともなく聞こえてくる教室から、写真を撮ろう、ボタンを、という声からなんとか潜り抜けてグラウンドへ向かう。もうみんな揃っていて、後輩に囲まれている。
 純が気づいて、ボタンがすべて無くなったブレザーをつまんで笑う。
「やっぱり、毟られてやがんな。ボタン」
「そういうお前も、第二ボタンが」
「まぁなーーー!俺の雄姿を見逃さなかったってわけだ」
「そうだな」
 ストレートに褒められると照れてしまうようで、理不尽に小突かれてよろめいた。
「クリスも野球、続けるんだよな」
「ああ」
 人懐っこい笑みをうかべて、またクリスが野球しているとこ見てぇな、としみじみ言われてしまったら、いよいよ卒業なんだと今更実感する。
 
「食堂に置いてあるスコアブック、取ってくる」
「おー、このあとメシ食いに行くって」
「わかった、すぐ行く」
「ん」
 証書が入っている丸筒でチャンバラをはじめた純の後頭部を亮介がたたく。いつもの光景を懐かしむ日がいつかやってくる、進行している時はいつも気づかない。
 
 御幸に、よくできた後輩でありながら、強く俺を慕ってくれた選手と話しておきたい、と思っていたら一人食堂でスコアブックをめくっていた。
「随分懐かしいものを……」
 泣きながら見るようなものでもないのに、なぜか目じりが潤んでいる。先輩から泣いていることを指摘されるのも気分悪くなるだろうから黙っている。
 
 甲子園出場という球児たちの夢をかなえて、これから上へ上へと勝ち上がって行くことを目標にする御幸から、何か悩んでいるというか言いよどんでいるような印象を受ける。いまだ知らない舞台へと歩んでいく不安があるのだろうか。
 
 と、思ったらあまりに予想外のことでどういうべきか、考えが追い付かない。
「す、好き……?それは、選手としてのあこがれ、とかそういうものとは違う……のか?」
「ごめんなさい、いま言うべきじゃないかもしれないとは思ったんですけれど、違います」
 いままでの常識の外側のできごとだが、不思議と嫌悪感は湧かなかった。むしろ信頼している後輩からの一番の好意が心地よかった。ライバルとして高めあいながらも近しい関係で居られる提案が後輩の精一杯の勇気が新しい道を示してくれた。
「耳まで赤い」
「泣いていましたから」
 口をとがらせて目を逸らしてしまった御幸に向き直り、先輩後輩でありライバルであり、いちばん近いところで生きていきたい旨をうまくまとめて伝える。
 目を見開いたままもう一筋涙を頬につたわせた御幸が可愛くて仕方がなくて。傍でずっと見守りたいのと同時によきライバルでありたくて。これを恋と呼ばないのならば、なにを恋と呼ぶのだろう。


===
2015年春コミの再録
wavebox