五年、十年先の将来を見据えた進路を計画して進学先を考えろ。
先生方はそう言うけれども今一瞬先の判断すら危ういって言うのに、少なくとも俺にはそんなことは無理だ。俺がどうってことない屁理屈を捏ね回しても静かに笑うだけのクリス先輩は大人びた表情を崩さずにそうだな、とだけ言ってスコアブックをまた一枚捲る。たとえば目と鼻の先にある柔らかそうな、ぽってりと厚い唇を奪ってしまったらそこから始まるものがあるかもしれないし、今まで積み上げてきた信頼をすべて台無しにしてしまうかもしれない。結果が出てからわかることだってある、と自分の暴挙を正当化するのも、自分を信頼してこのチームの正捕手である俺を支えてくれている先輩を心の底で裏切っているような気になってしまう。実際は行動に移す勇気はなく、自分のなかに黒々とした澱をしまいこむだけ。
この桃色と言うより青黒い片思いの障害は山ほどあれど有利に進められる可能性はほぼ無いと言っていいだろう。同じ学校同じ部活同じポジション先輩と後輩そして、男同士。考えれば考えるほど絶望的。やっぱりこのまま卒業してもらった方が良いだろう。言われる側はたまったもんじゃないだろう。信じて、慈しみをもって育てた後輩は実は自分の事が好きだったなんて言われたらあの人はどんな反応を見せるだろう。あのいかにもわたしは理性的で、感情に流されることなんてありませんよ、と言わんばかりの表情を少しでもゆがませることができたりするのだろうか。
皆に優しい憧れの先輩に欲情する俺の頭をどうにかしてほしい。こんな感情知りたくなかった。ただただ野球をやって、普通に卒業して、恋人をつくって、結婚して、っている日本のテンプレ的しあわせな人生を歩みたかった。けれどもうそれも叶わない。この感情に蹴りをつけない限り俺はどこにも向かえないだろう。それくらいは何となくわかる。
そもそもいつから先輩を、そういった目で見るようになったのか。確実にこれという記憶は無い。気づいたら先輩の背中を追っていた。最初は純粋に先輩のプレーにあこがれていた。上手い捕手にあこがれ、自分もこうなりたいと願い少しでも技を盗もうと、足の運びミットの位置、細かく細かく研究した。ここまでは良い。
思い当たる節を見つけてしまった。あぁ最悪の男だ俺は。先輩が肩を遣ったあと選手としてプレーするのは高校生のうちは難しいとカントクに報告しているところを偶然盗み聞きしてしまったことがクリス先輩にバレたときの表情だ。あれで俺は道を踏み間違えた。夕日がドラマみたいに先輩の髪を照らしていて、いままで自分にみせたことのない陰鬱で、胸を裂かれるような悲しみを孕んだ表情。別にそのときまで正しい道を行っていたとはお世辞にもいえないけれど。溜息をひとつついて白地に青水玉のパッケージのペットボトルをゴミ箱に投げる。かこん、と小気味良い音をたてて収まった。初恋は甘酸っぱい味なんて誰が言ったんだ。少なくとも俺の初恋は苦くて重たくて舌に胃にいつまでも残る不快な味じゃないか。
「オイ御幸ィ!何しんみりしてンだよ!!」
ヒャハ、と独特の笑い声をあげて倉持が背中を思い切りたたく。こいつはどつくとき手加減をしらないから面倒だ。
「なんだ、倉持か」
「なんだとはなんだよ。俺がせっかくしみったれた御幸をイジりに来たって言うのに」
「はぁ……」
「はい幸せ逃げたー」
「元からねぇよ」
あまりに声音を落とし過ぎたか、ぎょっとした風にこちらを見てくる。
「え、マジで落ち込んでる?」
「おーおー、落ち込んでる」
この行き場のない想いをどこに墓をたてて埋めてやればいいのか、こいつが知ってるとは思えないけれど。
「なんだよ、言ってみろよ」
これは言うまでしつこく言われるだろう。言葉を選んで、決して真意を悟られないように。
「……お前ってさ、初恋っていつ」
「えっ…………し、小三」
「へー」
まさか恋愛相談をされると思っていなかったのか妙にそわそわとこちらをうかがってくる。今日も陽が沈んでいくけれどあの時ほどえぐみの無い色をしている。
「クラスのさー可愛い女の子。マミちゃんったかなー……俺当時クソガキだったからさー、蛇とか虫とか押し付けて泣かしてた……」
「最悪じゃん」
「なんでだろうな、小さいころって好きな子苛めたくなるのはさ」
「知らねぇ」
「はぁー厳しいな。まぁそこまで憎まれ口叩く余裕があるなら平気だな」
寮へ戻る倉持の背中にありがとう、と小さく言うと豆だらけの手を一度だけ振って見せた。
いままで恋という恋をしてこなかったせいか、色恋沙汰にはとんと疎い。女の子からはちらほら告白されることはあったけれど、付き合っているうちに予定を合わせるのが、わざわざ会いに行くのが億劫になってキレられて消滅、というパターンが一番多かった。特別何とも思っていなかった人と一緒に居るのが、そんな人のために予定を空けるのが苦痛で仕方がなかった。いま自分が追われる側から追う側になって自分のしてきたことの残酷さを理解した。こんなにも、鳩尾のあたりにずしりと沈むような、刃物が身を通るような痛みを感じながら彼女らは俺を追いかけてきてくれたのか。今更ながら罪悪感が胸を締めつける。だからといって女の子に興味がない訳ではなく、今の夜のオカズだって熟女、JK、JD、コスプレなど幅広いラインナップをスマホに揃えている。やっぱり、俺は同性愛者ってやつなんだろうか。答えはイエスだろう。俺はクリス先輩のことを恋愛多少として、好きなんだから。
触れてしまいたい、でも、触れたあとの反応が怖い。よこしまな意図を以て触れたところで先輩と後輩との関係を粉々にしてしまうのが、怖い。
◇
御幸が何か悩んでいるらしい。
そのようなことを倉持が伊佐敷に無駄に大きな声で相談しているものだから自然に耳に入る。きゃいきゃい煩い倉持の言葉を掻い摘んで纏めると「奴の名誉にかかわることだから内容は言えないけれど悩んでいる」らしい。
「だからって、何故俺に話が回ってくる」
「え?駄目なのか?」
「駄目、ではない、けれど」
「じゃあ頼む、話聞くだけ聞いてやってくれよ」
現役選手である伊佐敷の頼みを無下にできずに、『御幸の相談事を聞いてやる』という使命を課されてしまった。決して駄目なわけでも嫌なわけでもない。
ただ、自分が話を聞いたところで御幸はただいつもの人を食ったような笑いを見せて、なんともないですよ、とだけ言うだろう。俺には絶対に本心は見せないし、それを隠そうともしない。要するに信頼を得れていないのだ。それなのにポジションが一緒だからという理由だけで聞いてもお互いの時間の無駄ではないか。
それに、奴はもう俺の知っている御幸ではない、気がする。これは野球部の人間には角が立つだろうし誰一人として言ったことは無いが現役で、優秀なチームのまとめ役の一人で、正捕手である御幸がいま何に見て、感じて、悩んでいるかなんて俺には想像つかない。あのグラウンドにチームメイトと立ち、頭を巡らせて一瞬一瞬を楽しむことが俺は今後一生できない。
女々しく、汚らしい自分に嫌気がさす。そんな自分が御幸の悩みをどうにかできるのだろうか。それでもまだ先輩面させてくれている後輩たちに感謝の意を示すためにもここは素直に相談に乗ってやろうじゃないか。
全体練習、自主練習、入浴を終えたころを見計らってリハビリセンターから寮へ戻った。三年最後の夏が近づくにつれて日中だけでなく夜も湿っぽくなってきた。季節のうつろいをぼんやり眺めていると意識せずとも感傷的になってしまう。野球が生活とともにあった高校生活、たとえどんなに勝ち進んだとしても終わりは必ずやってくるということは頭ではわかっていても想像がつかない。授業が終わったところでなにをするのだろう。放課後部活がない生活が想像つかない。
見覚えのある少しだけ茶がかかった頭を見つけて自分の中に渦巻く汚い澱に蓋をして慈しんでやまない後輩へ声をかける。
「御幸」
◇
心臓がひっくり返りそうって多分こんな状況を指すんじゃないか。
本当にかっこいい人は適当なジャージ姿でもスマートに決まるもんだななんて感想しか抱けない。こんなきれいな人を組み敷く妄想で時々抜いているなんて口が裂けても言えない。
そんなこと億尾にも出さずにいつもの笑みを顔に貼り付ける。
「わークリス先輩じゃないすか、どうしたんですか」
「どうしたもこうしたも……まぁいい。何か飲みたいものあるか」
「えっマジっすか、じゃあそうだなぁ……いまCMで青春の味!ってやってるやつで」
先輩は溜息ひとつついて具体的に言え、というけれど俺が飲みたいと思った白地に青水玉のペットボトルを投げてよこした。こういうところがかっこいいんだよ。好きなことが自分の事をわかってくれることがこんなに嬉しいことだって知らなかった。
男二人で星空眺めながらおしゃべり。傍から見れば奇異の目で見られそうだが、それどころじゃない。内心心臓バクバクどころか口から出てきそうだ。もうこのまま時が止まるか過ぎても巻き戻すかできればいいのに。マジで。
「ところで、御幸」
「なんすか」
「……最近お前何か悩んでいるだろう」
◇
そこで御幸に黙られるとは思わなかった。遠くでもう寝なさい!と怒鳴る女性の声が聞こえた。御幸は一瞬だけいつもの笑顔を崩し、焦りや悲しみのような感情をくみ取れる表情になったがすぐに笑顔を取り繕う。
「……俺は信頼できないか」
「いえっ!全然、そういうのじゃなくて、っていうかむしろその逆でっていえなんでもなくて……でも」
「俺には言えないか」
「はい、可能性はほぼゼロです」
「そうか、まぁ、でも言いたくなったらいつでも連絡寄越せ、電話でもメールでも」
「は、い」
「よし。良い返事だ。時間取らせて悪かったな」
「いえいえ気にかけて頂けて……その、嬉しいです」
「もちろんだ、青道の正捕手様にできることならな」
照れ隠しと嫌味の中間のようなことを言ってしまった。御幸はとくに気にしてなさそうに笑っていてほっとした。一度御幸の風呂上りなのか生乾きの頭をかき回しておやすみ、とだけ言って部屋に戻った。
◇
あまりに残酷過ぎやしないか。これ。
先輩が見切れるまでベンチのそばを離れられなかった。撫でられた湯上りのまだ湿った髪を何度か触ってみたけれど、当たり前だが自分の体温しか感じない。が確かに先輩は俺の髪に触れてあまりに残酷な一言を投げて帰って行った。俺は先輩にとって、青道の正捕手としての価値しかない。俺の初恋は焼け野原になって終わった。
とぼとぼと寮に歩いていている間ずっと先輩の言葉を反芻していた。信頼できないか、と悪戯っぽく笑いながら言ったクリス先輩、良い返事だ、と先輩らしい余裕を前面に出したクリス先輩。そして俺の頭を子供を可愛がる父親みたいな表情で撫でていったクリス先輩。溜息を一つついてしまう。倉持が言うには幸せが逃げる。
が、連絡をいつでも寄越していいと言ってもらえたことは大きな収穫だ。俺は嫌な男だからな、あきらめが悪いんだ。
多分、クリス先輩は俺がすごく「良い子」だと思ってくれているんじゃないか。後輩や同期は扱いは雑でも、先輩みんなにとっていい子だと思っているのでは。そりゃあ同期より先輩の方が良い扱いするなんて当たり前。その上好きな人の前で良い恰好したいという心理は誰にだってある、と思う。俺だってそうだ。クリス先輩の前だから、あんまりガキっぽいことしたくないし、選手として、人間として先輩に認められたいと同時に愛されたい。俺が先輩を想うだけ、先輩も俺を想って欲しい。最後のはちょっと贅沢だけれど、そうなったら最高だ。
一人で考察している分は、関係が前進することも後退することもない、ある意味幸せな時間だろう。けれど自分から行動を起こさないと人間関係はずっと平坦なままだろう。それを思い切りぶち壊したのが沢村だ。球を受けろと親鳥につき従う雛鳥のようについてくる。もう十時を回ったから消灯だっていうのに煩い奴ら。
「だぁあもううるっせえな今日はもうだめだってさっきから何回言ったらわかるんだ」
少しきつめに言うと二人は目に見えるほどしゅんとしてしまい、若干罪悪感を感じる。
「じゃあ……明日ならいいんですか」
「いいんじゃないか」
予想もしないところからクリス先輩の声が聞こえた。
「クリス先輩!!!!」
「こら沢村、もう夜だからな、少し声を落とせ」
「すみません!!!!」
まったく困った奴だ、と言わんばかりに眉根を寄せて慈愛、のようなものを含んだ目線を沢村と降谷に向けるクリス先輩を見て頭につめたいものが広がる感覚。はぁあ、この人は後輩にはこういう目線で接するのか。馬鹿な奴だな俺も。幼稚で後ろ向きな奴だな。つーか先輩と後輩の無垢なやりとりを、恋愛の尺度で測るからおかしくなるんだよ。俺が先輩のこと好きじゃなけりゃこんなあたりまえのやりとり見てても苦しさなんて感じないんだよ。
「どうした、御幸」
声をかけられてやっと我に返った。三人とも不思議そうに俺を見ている。あわてていつもの笑顔を貼り付けてちょっとぼんやりしてて、と苦しい言い訳をする。
「明日の練習後、俺とお前で二人の球受けてやろう。沢村と降谷、両方に課題はまだまだあるからな」
「うぃっす、まぁ、クリス先輩がそう仰るなら」
「ありがとうございます!!クリス先輩!!」「ありがとうございます」
「御幸も受けてくれるんだぞ」
「う」
感謝の言葉を言うのがむずがゆいのか、沢村は唇をとがらせてこちらをじっと見てくる。
「……ありがとうございます」
「へーへー」
沢村の頬を指でつついて煽り、反撃を食らう前に逃げる。後輩に嫉妬まがいの感情を抱いてしまう自分からも逃げたい。ごめんなこんな先輩で。認められたい大人ぶっていたいとか思うくせしてこれだから。御幸はいつも冷静だなんて誰が言った。忍ぶ恋のひとつも隠し通せそうもないのに。まっすぐに野球に取り組む後輩たちがまぶしい。
正直、自分の中にだけ抱えているのに限界を感じる。物凄く勝手だとは思う。勝手に憧れて、勝手に好きになって、それを抱えきれないから迷惑承知で告白する。あまりに自己中心的だけれど、もう精神状況がおかしいのかもしれない。昔告白してきた女の子に言われる側の気持ちになってみろよ、俺だって断るの気分悪いって言ったのを思い出して胸が悪くなる。本当に、残酷なことをしてきた。まわりまわってしっぺ返しを食らっている。俺も、俺から告白されるクリス先輩の気持ち考えてみないとな。
そんな目で見てたなんて気持ち悪いって言われるのか。それともお前は野球ができるのに真面目に取り組まないなんてって言われるのか、そもそも捕手でないお前個人に魅力を感じない、とか?俺がネガティブってのを差し引いてもこのくらいが妥当だろう。むしろそうやって叩き切ってくれたほうがスッキリしそうだけれど。さんざんお世話になった先輩に更に迷惑かけるという自己嫌悪で潰れそうになりながら、相談という件名を入れて用件だけを書いたシンプルなメールを用意する。
よし、もうこんな気持ちさっさと潰して膿をだしてしてしまおう。自分で自分の初恋、初めて夢中になった恋を潰さなければいけないなんて俺何かしたかな。したか。
耳障りな着信音とともに返事が来たことを知らせてくれる。実にシンプルに用件のみ書き表わされている。俺のためだけの時間が、クリス先輩の予定を埋めているかという事実だけで女々しいとは思うものの顔がにやけてしまう。結果はどうであれ俺は前に進める。俺の選択は何一つとして間違ってはいないはずだ。
それから数日は最高の気分で練習に取り組めた。というより今まで完全に自己都合で注意散漫なまま練習していたっていうのが自分でも責められるべきだと思う。まだ言ってしまってもいないのにすべて良い方向へ流れて終わったかのようなさわやかな気分。なんなんだこれは。ネガティブ通り越して頭がおかしくなったのか。
よこしまな思いで先輩を呼び出した日が近づくにつれて罪悪感や焦りで頭がおかしくなりそうになる。常に 胃もたれしているような不快感が神経を逆なでする。なんだよお前オトコノコの日かよ、なんて言う下品でどうということのない冗談にも必要以上に苛立ってしまう。
俺は感情をコントロールできる、完全に俺は大人だと思っていたけれど違うみたいだ。他人に当たり散らすようじゃまだまだガキだ。駄目だ駄目だと思うだけドツボにはまっている気がする。それもあと数日だけなら、恋の痛みってやつに浸っていてもいいのか、とも思う。午後から急に降り始めた雨が気持ちをも湿らせているのかもしれない。グラウンドを思い切り駆け回って余計なことばかり考える脳味噌をどうにかしたい。
ここで傘を教室に忘れてきたことに気付いた。舌打ちを一つしてからエナメルバッグを肩にかけて走りだ、そうとして
「御幸」
聞き覚えのある、俺が聞き間違えようがない声が俺の名前を呼んだのを耳がとらえたのと同時に、俺の心臓が飛び出て落ちた。ほやほやと湯気を立てる心臓をどうにか押し込んで軽薄な笑みをやっとのことで浮かべて振り返る。
「なんすか、ってかどうかしたんですかクリス先輩」
「ちょうどこっちの棟に用があってな。お前傘はどうした」
「いや~教室に置きっぱなしにしちゃったんで、走って行こうかと」
「お前はそういうところが甘いな。風邪をひいたら、とか、転んだらとか考えたりはしないのか」
「ッス……そこまでは……」
「まったく、手のかかる後輩だ」
まるで子供の世話をする大人みたいな、余裕?余裕と言うより懐が広いのか?なんだこの扱いは。どう考えてもひきっつた笑顔でやっとそうッスね、とだけ返した。叱られてしょぼくれていると勘違いしたのか俺の頭を紺色の飾り気のない折りたたみ傘で小突いてきた。
「ほら、これ使え」
「え、いいんスか」
「今度会う日があるだろう、その日に返してくれればいい」
「ありがとうございます」
平常心平常心、と心の中でとなえつつ傘を開いた。先輩は深緑の上品な印象の傘を開いて雨のなか練習場へと向かって行った。その背中を追いかけるように借りた傘を開く。
室内練習場に入った途端繰り返される体育会的なあいさつの波を遣り過ごして練習用ユニフォームに着替える。想像ついたことだったはずだけれども背後でボタンを外す音が聞こえる。今まで男同士で恥ずかしがることもないから練習場の隅で着替えるのはあたりまえのことで、何とも思っていなかった。が今はそうもいかない。同性が恋愛対象になるってことはこういうところがつらい。背後から聞こえる衣擦れの音が気になって仕方がない。クリス先輩がネクタイを外して折り目が付かないように綺麗に丸めて、クリス先輩が指定のベストを脱いで畳む、シャツを脱いで畳む、アンダーシャツを着る前に制汗剤を一吹き、アンダーシャツを被って――やめよう。
平常心平常心平常心平常心、と虚しく唱えてできるだけ素早く着替えその場を離れた。おなじ性別というのがここまで重くのしかかってくるとは。はじめて夢中になった人を追っている頭ではあまり深刻に考えてはいなかった。けれど今俺の状況だとかなり重たい枷になりうるんじゃないかと。今更だけど。ヤバい。今のうちにクリス先輩の背中目に焼き付けておかないと。俺がおなじ性別の、同じ部活の先輩が恋愛対象に入っているってわかったらきっともうこんなふうに気軽に話しかけてもくれないだろうし、近くで着替えなんてもってのほかだろうし。
わざわざ先輩を俺の個人的な事情で呼び出しておいてこんなことを考えるのもどうかと思うけれど、ものすごく、出向きたくない。今まで優しくほほえんでくれていたクリス先輩が、嫌悪感丸出しの目でこっちを見るんだろうな、とか、そんな目で見ていたのかって軽蔑したりするのかなって。
クリス先輩から借りた傘を丁寧に丁寧に畳みながら返事のシュミレートを何度もしたけれど貶されるか断られるかしか考えられない。自分がすっきりするために告白するって決めたはずなのにやっぱりまだいまの関係に未練があるのかもしれない。とりあえず、断られてもいままで通りとは言わなくても避けないでくれ、とは言っておこう。ずいぶんエゴイスティックだけれど、かわいい後輩(?)だったものの最後のお願いくらい聞いてくれそうな気がするけどどうかな。
「で、何なんだ御幸。黙って居ちゃわからん」
「すい、ません」
脳味噌が茹だって上手く働かない。一言、たったひとことだけ先輩と後輩としてだとか、チームメイトとしてだとかそういうのとは違う意味で、好きですって言ってしまうだけなのに言葉が出てこない。胸にじくじくと燻るまだこの関係を続けたい嫌われたくないという気持ちと、わずかな可能性に賭けたいって気持ちが胃に降りていって中身を掻き回す感覚。
吐きそうだ。自分がこんなにも意気地なしだなんて知らなかった。今まで俺に好きです、と精一杯の勇気を振り絞ってぶつかってきたコ達のほうが勇敢だ。どんなに背伸びしても俺は、そりゃあ少しは他人より野球はできるかもしれないけれども十六年しか生きていないクソガキなんだってことを嫌というほど思い知らされた。
「ま、俺は推薦が取れそうだし、後輩の面倒を見る余裕はあるから言いたくなったらメールでも電話でも言えばいいさ」
「呼んでおいてすみません」
「……本当にな。 冗談だ。そんな顔するなよ、お前がそんな顔すると調子狂う」
この滝川・クリス・優卑怯なくらいカッコいいッ馬鹿好きっ、口が裂けても言えない言葉を喉でとどめて、悲痛といった言葉が一番近いような表情を引っ込めていつものニヤけ顔を無理やり貼り付けたものだからどこか歪んでいるのが自分でもよくわかる。
「……悩んでいるんだな、本当に些細なことでも他人に話せば気が楽になるかもしれないし、ならないかもしれない」
「ならないんスか」
「俺もお前も野球バカだからな、野球以外の悩みだったら難しいだろう」
本当に、バレていないのだろうか。
本当はバレていて、クリス先輩は後輩がゲイだってことを言わないでおいてくれている状態のかもしれない。憶測で物を考えると胃を病みそうになるが、可能性はゼロではない。今更、この人に嫌われるのが、拒絶されるのが怖くて堪らない。
「そうっスねぇ……俺も、先輩もまだまだ子供ってことですかねぇ」
「そうかもな……」
失礼なこと言っている自覚はある。俺の一個上だとは思えないほど大人びているクリス先輩に向かってあろうことか俺と同列に考えるどころか、子ども扱い。もう俺一回頭冷やした方がいい気がする。
「明日も朝練だろ、早く寝ろよ」
「ウィッス」
思わずその場にしゃがみ込んでしまう。いろいろなことが一度に起こりすぎて脳味噌が沸騰している。その証拠に傘を返すのを忘れた。
◇
先輩に向かってまだ子供だ、と言っても笑って許してくれる信頼を裏切りたくはない。が、俺は滝川・クリス・優を憧れを超えた感情を以て接している。この葛藤を何度繰り返したかわからないけれど、葛藤が終わると同時に俺の初恋の息の根が止まる。
なんで、俺が女だったり、クリス先輩が女じゃないんだろう。
俺が女だったらもっと大々的にアプローチしたりできたし、クリス先輩が女だったら俺が人生をかけて口説くのに。残念なことに俺は男、クリス先輩も男。現代日本社会では同性愛は異性愛よりもまだまだ違う世界のものだってイメージがある。当の俺がそうだった。だからと言って諦めるという選択は無い。まぁ、いつか、俺が男で、恋人も男でよかった、と思える日が来ればベストなんだけれども。
その前にクリス先輩、女にもてそうだからきっとカワイイ彼女、手は俺みたいに日に焼けて真っ黒でマメだらけじゃない、白魚のような手に小さく桜色の爪が乗っていて、肩は俺みたいに筋肉で覆われていない、守ってあげたくなるような細い肩、腹には腹筋の代わりに、やわらかい脂肪があって、俺みたいに筋肉筋肉アンド筋肉、みたいなゴッツイ脚じゃなくてすらりと綺麗な脚で、そして、女。クリス先輩の遺伝子を後世に遺すことのできる機能をもっている。女。
俺は、男で、クリス先輩は男だから。俺はクリス先輩のこどもを孕めないし、クリス先輩は俺のこどもを孕めない。あたりまえっちゃあたりまえだけれど、同じ恋愛、性欲でありながら異性愛は生み殖やすことができ、同性だとできない。そんなことがこんなにつらいことだなんて知りたくなかった。
それなのにクリス先輩のこと、諦められない俺っていう男はつくづく救えない。
◇
昼休み、今日も体育館裏で誰かが告白されている。
この夏はじめての蝉がけたたましく鳴いている。一匹だけだというのに気に障るほどのうるささ。もう夏かぁ、結局正捕手争い、できなかったな。なんて口が裂けても言えない。正捕手の座が喉から手が出るほど欲しい奴は沢山居るし、クリス先輩だって好きで怪我しているわけでもないし、一緒に、俺より一年間付き合いの長い同期とグラウンドへ立ちたいだろうし。
「私、平瀬くんのことが好きなの。付き合ってもらえないかなぁ……」
頬を染めて、上目遣いで男に女が、自分の性嗜好に合致すると告白する。
気持ちを相手に伝えられるだけで、心底羨ましい。
どうもこの、性別と恋愛の考え方が上手く噛みあわない。男と女の恋愛だったら、イエスかノーか貰えるけれど、男と男だったらまず、同性ということでイエスかノーかそれ以前に、嫌悪感が先立つ可能性が。考えれば考えれば泥沼にのめり込んでいるうえに、沼底で息絶えそうだ。まぁ、そうすればクリス先輩は後輩が同性愛者でした、ってことで悩むことが無くなる。俺が我慢できれば。じめじめした気候をそっくり反映させたような心中を抱えて歩くのも楽じゃない。
実はまだ、クリス先輩から借りた傘を返せていない。けれどこれが野球以外ではじめてできた俺とクリス先輩のつながりかと思うとなかなか返せない。クリス先輩にとっては迷惑極まりない話で、傘なんて返そうと思えばいつでも返せるのに、一番大人ぶりたいあの人の前でだけ俺は全く大人ぶれない。
◇
手の中で傘を弄ぶのもこれで何度目だろうか。
なんの変哲もない紺色の折りたたみ傘だけれど、これの持ち主はクリス先輩なのだと思うだけで特別なものに思える。どこで買ったのだろう、気に入っていたのかな、などと想いを巡らせるが、詰まる。俺の気持ちはどうあれ不便だろうから返さないと。もう一度開いて皺のないように畳みなおす。自分のよこしまな気持ち全部ここに織り込んで、雨の日に開かれたとき弾けるように。
夕方からしとしとと降った雨は、日の暮れた今本降りになって窓をたたいている。この傘が無いせいでクリス先輩が雨に降られていたら、俺のせいでクリス先輩が風邪をひくかもしれない。俺がクリス先輩の人生にひどい形で干渉できる。ひとつ溜息をついて最低な考えを振り払い、重い腰を上げる。物理的距離は壁一枚、精神的距離は遥か彼方。皮肉にも寮の部屋は隣だ。
誰のかわからないサンダルを突っかけてビニール傘をと紺色の折りたたみ傘を持って隣の部屋を訪ねる。
形式だけのノックをすると金丸の声が返ってくる。
「あれ、御幸先輩どうしたんスか」
「クリス先輩に返したいものあったんだけど……居ないっぽいな」
「そうなんですよ、もしかしたらどこかで雨宿りしてるのかも」
「そっか、ありがとうな。もし帰ってきたら連絡してくれ」
「ウイッス」
そう言って扉を閉める金丸を後にして青心寮を抜けて、クリス先輩の行っているリハビリセンターまでの道を辿る。夜の学校は昼間の喧騒がうそのように鎮まりかえっている。校舎の方を通って先生方に見つかっても面倒だから倉庫裏の破れたネットから抜け出す。先輩を風邪ひかせてまで叶えたいことなんてない、足は自然と早まった。
ビニール傘越しに見る夜空は雲に覆われているのがかろうじてわかる。クリス先輩、もういくらか濡れてしまったろうか。アンダーシャツ透けてたら俺の理性はダメだろう。
「御幸か?どうしたこんなところで」
ビルのエントランスで雨宿りをしていたらしいクリス先輩が急に声をかけるもんだから、必要以上に驚いてしまって恥ずかしいったらない。
「いやあの、俺先輩から傘借りたままでしたから」
「それでわざわざここまで……?悪いな、ありがとう」
わざとゆっくり先輩に傘を手渡した。これで俺とクリス先輩の個人的なつながりはまた一つ薄くなった。何を言うわけでもなく学校を目指して歩く。二人分の足音だけが聞こえる。暗くてよかった。たぶん、俺は今耳まで真赤だろう。
「先輩、靴ひも解けてますよ。傘持ってるんで結びなおしたら」
「ありがとう」
先輩のうなじが見える。いつか先輩のカノジョが独占の標に齧るうなじ、先輩の子供が愛おしげに触れるうなじが今この時だけは、俺が見ている。
===
20140505に出した本の再録です
先生方はそう言うけれども今一瞬先の判断すら危ういって言うのに、少なくとも俺にはそんなことは無理だ。俺がどうってことない屁理屈を捏ね回しても静かに笑うだけのクリス先輩は大人びた表情を崩さずにそうだな、とだけ言ってスコアブックをまた一枚捲る。たとえば目と鼻の先にある柔らかそうな、ぽってりと厚い唇を奪ってしまったらそこから始まるものがあるかもしれないし、今まで積み上げてきた信頼をすべて台無しにしてしまうかもしれない。結果が出てからわかることだってある、と自分の暴挙を正当化するのも、自分を信頼してこのチームの正捕手である俺を支えてくれている先輩を心の底で裏切っているような気になってしまう。実際は行動に移す勇気はなく、自分のなかに黒々とした澱をしまいこむだけ。
この桃色と言うより青黒い片思いの障害は山ほどあれど有利に進められる可能性はほぼ無いと言っていいだろう。同じ学校同じ部活同じポジション先輩と後輩そして、男同士。考えれば考えるほど絶望的。やっぱりこのまま卒業してもらった方が良いだろう。言われる側はたまったもんじゃないだろう。信じて、慈しみをもって育てた後輩は実は自分の事が好きだったなんて言われたらあの人はどんな反応を見せるだろう。あのいかにもわたしは理性的で、感情に流されることなんてありませんよ、と言わんばかりの表情を少しでもゆがませることができたりするのだろうか。
皆に優しい憧れの先輩に欲情する俺の頭をどうにかしてほしい。こんな感情知りたくなかった。ただただ野球をやって、普通に卒業して、恋人をつくって、結婚して、っている日本のテンプレ的しあわせな人生を歩みたかった。けれどもうそれも叶わない。この感情に蹴りをつけない限り俺はどこにも向かえないだろう。それくらいは何となくわかる。
そもそもいつから先輩を、そういった目で見るようになったのか。確実にこれという記憶は無い。気づいたら先輩の背中を追っていた。最初は純粋に先輩のプレーにあこがれていた。上手い捕手にあこがれ、自分もこうなりたいと願い少しでも技を盗もうと、足の運びミットの位置、細かく細かく研究した。ここまでは良い。
思い当たる節を見つけてしまった。あぁ最悪の男だ俺は。先輩が肩を遣ったあと選手としてプレーするのは高校生のうちは難しいとカントクに報告しているところを偶然盗み聞きしてしまったことがクリス先輩にバレたときの表情だ。あれで俺は道を踏み間違えた。夕日がドラマみたいに先輩の髪を照らしていて、いままで自分にみせたことのない陰鬱で、胸を裂かれるような悲しみを孕んだ表情。別にそのときまで正しい道を行っていたとはお世辞にもいえないけれど。溜息をひとつついて白地に青水玉のパッケージのペットボトルをゴミ箱に投げる。かこん、と小気味良い音をたてて収まった。初恋は甘酸っぱい味なんて誰が言ったんだ。少なくとも俺の初恋は苦くて重たくて舌に胃にいつまでも残る不快な味じゃないか。
「オイ御幸ィ!何しんみりしてンだよ!!」
ヒャハ、と独特の笑い声をあげて倉持が背中を思い切りたたく。こいつはどつくとき手加減をしらないから面倒だ。
「なんだ、倉持か」
「なんだとはなんだよ。俺がせっかくしみったれた御幸をイジりに来たって言うのに」
「はぁ……」
「はい幸せ逃げたー」
「元からねぇよ」
あまりに声音を落とし過ぎたか、ぎょっとした風にこちらを見てくる。
「え、マジで落ち込んでる?」
「おーおー、落ち込んでる」
この行き場のない想いをどこに墓をたてて埋めてやればいいのか、こいつが知ってるとは思えないけれど。
「なんだよ、言ってみろよ」
これは言うまでしつこく言われるだろう。言葉を選んで、決して真意を悟られないように。
「……お前ってさ、初恋っていつ」
「えっ…………し、小三」
「へー」
まさか恋愛相談をされると思っていなかったのか妙にそわそわとこちらをうかがってくる。今日も陽が沈んでいくけれどあの時ほどえぐみの無い色をしている。
「クラスのさー可愛い女の子。マミちゃんったかなー……俺当時クソガキだったからさー、蛇とか虫とか押し付けて泣かしてた……」
「最悪じゃん」
「なんでだろうな、小さいころって好きな子苛めたくなるのはさ」
「知らねぇ」
「はぁー厳しいな。まぁそこまで憎まれ口叩く余裕があるなら平気だな」
寮へ戻る倉持の背中にありがとう、と小さく言うと豆だらけの手を一度だけ振って見せた。
いままで恋という恋をしてこなかったせいか、色恋沙汰にはとんと疎い。女の子からはちらほら告白されることはあったけれど、付き合っているうちに予定を合わせるのが、わざわざ会いに行くのが億劫になってキレられて消滅、というパターンが一番多かった。特別何とも思っていなかった人と一緒に居るのが、そんな人のために予定を空けるのが苦痛で仕方がなかった。いま自分が追われる側から追う側になって自分のしてきたことの残酷さを理解した。こんなにも、鳩尾のあたりにずしりと沈むような、刃物が身を通るような痛みを感じながら彼女らは俺を追いかけてきてくれたのか。今更ながら罪悪感が胸を締めつける。だからといって女の子に興味がない訳ではなく、今の夜のオカズだって熟女、JK、JD、コスプレなど幅広いラインナップをスマホに揃えている。やっぱり、俺は同性愛者ってやつなんだろうか。答えはイエスだろう。俺はクリス先輩のことを恋愛多少として、好きなんだから。
触れてしまいたい、でも、触れたあとの反応が怖い。よこしまな意図を以て触れたところで先輩と後輩との関係を粉々にしてしまうのが、怖い。
◇
御幸が何か悩んでいるらしい。
そのようなことを倉持が伊佐敷に無駄に大きな声で相談しているものだから自然に耳に入る。きゃいきゃい煩い倉持の言葉を掻い摘んで纏めると「奴の名誉にかかわることだから内容は言えないけれど悩んでいる」らしい。
「だからって、何故俺に話が回ってくる」
「え?駄目なのか?」
「駄目、ではない、けれど」
「じゃあ頼む、話聞くだけ聞いてやってくれよ」
現役選手である伊佐敷の頼みを無下にできずに、『御幸の相談事を聞いてやる』という使命を課されてしまった。決して駄目なわけでも嫌なわけでもない。
ただ、自分が話を聞いたところで御幸はただいつもの人を食ったような笑いを見せて、なんともないですよ、とだけ言うだろう。俺には絶対に本心は見せないし、それを隠そうともしない。要するに信頼を得れていないのだ。それなのにポジションが一緒だからという理由だけで聞いてもお互いの時間の無駄ではないか。
それに、奴はもう俺の知っている御幸ではない、気がする。これは野球部の人間には角が立つだろうし誰一人として言ったことは無いが現役で、優秀なチームのまとめ役の一人で、正捕手である御幸がいま何に見て、感じて、悩んでいるかなんて俺には想像つかない。あのグラウンドにチームメイトと立ち、頭を巡らせて一瞬一瞬を楽しむことが俺は今後一生できない。
女々しく、汚らしい自分に嫌気がさす。そんな自分が御幸の悩みをどうにかできるのだろうか。それでもまだ先輩面させてくれている後輩たちに感謝の意を示すためにもここは素直に相談に乗ってやろうじゃないか。
全体練習、自主練習、入浴を終えたころを見計らってリハビリセンターから寮へ戻った。三年最後の夏が近づくにつれて日中だけでなく夜も湿っぽくなってきた。季節のうつろいをぼんやり眺めていると意識せずとも感傷的になってしまう。野球が生活とともにあった高校生活、たとえどんなに勝ち進んだとしても終わりは必ずやってくるということは頭ではわかっていても想像がつかない。授業が終わったところでなにをするのだろう。放課後部活がない生活が想像つかない。
見覚えのある少しだけ茶がかかった頭を見つけて自分の中に渦巻く汚い澱に蓋をして慈しんでやまない後輩へ声をかける。
「御幸」
◇
心臓がひっくり返りそうって多分こんな状況を指すんじゃないか。
本当にかっこいい人は適当なジャージ姿でもスマートに決まるもんだななんて感想しか抱けない。こんなきれいな人を組み敷く妄想で時々抜いているなんて口が裂けても言えない。
そんなこと億尾にも出さずにいつもの笑みを顔に貼り付ける。
「わークリス先輩じゃないすか、どうしたんですか」
「どうしたもこうしたも……まぁいい。何か飲みたいものあるか」
「えっマジっすか、じゃあそうだなぁ……いまCMで青春の味!ってやってるやつで」
先輩は溜息ひとつついて具体的に言え、というけれど俺が飲みたいと思った白地に青水玉のペットボトルを投げてよこした。こういうところがかっこいいんだよ。好きなことが自分の事をわかってくれることがこんなに嬉しいことだって知らなかった。
男二人で星空眺めながらおしゃべり。傍から見れば奇異の目で見られそうだが、それどころじゃない。内心心臓バクバクどころか口から出てきそうだ。もうこのまま時が止まるか過ぎても巻き戻すかできればいいのに。マジで。
「ところで、御幸」
「なんすか」
「……最近お前何か悩んでいるだろう」
◇
そこで御幸に黙られるとは思わなかった。遠くでもう寝なさい!と怒鳴る女性の声が聞こえた。御幸は一瞬だけいつもの笑顔を崩し、焦りや悲しみのような感情をくみ取れる表情になったがすぐに笑顔を取り繕う。
「……俺は信頼できないか」
「いえっ!全然、そういうのじゃなくて、っていうかむしろその逆でっていえなんでもなくて……でも」
「俺には言えないか」
「はい、可能性はほぼゼロです」
「そうか、まぁ、でも言いたくなったらいつでも連絡寄越せ、電話でもメールでも」
「は、い」
「よし。良い返事だ。時間取らせて悪かったな」
「いえいえ気にかけて頂けて……その、嬉しいです」
「もちろんだ、青道の正捕手様にできることならな」
照れ隠しと嫌味の中間のようなことを言ってしまった。御幸はとくに気にしてなさそうに笑っていてほっとした。一度御幸の風呂上りなのか生乾きの頭をかき回しておやすみ、とだけ言って部屋に戻った。
◇
あまりに残酷過ぎやしないか。これ。
先輩が見切れるまでベンチのそばを離れられなかった。撫でられた湯上りのまだ湿った髪を何度か触ってみたけれど、当たり前だが自分の体温しか感じない。が確かに先輩は俺の髪に触れてあまりに残酷な一言を投げて帰って行った。俺は先輩にとって、青道の正捕手としての価値しかない。俺の初恋は焼け野原になって終わった。
とぼとぼと寮に歩いていている間ずっと先輩の言葉を反芻していた。信頼できないか、と悪戯っぽく笑いながら言ったクリス先輩、良い返事だ、と先輩らしい余裕を前面に出したクリス先輩。そして俺の頭を子供を可愛がる父親みたいな表情で撫でていったクリス先輩。溜息を一つついてしまう。倉持が言うには幸せが逃げる。
が、連絡をいつでも寄越していいと言ってもらえたことは大きな収穫だ。俺は嫌な男だからな、あきらめが悪いんだ。
多分、クリス先輩は俺がすごく「良い子」だと思ってくれているんじゃないか。後輩や同期は扱いは雑でも、先輩みんなにとっていい子だと思っているのでは。そりゃあ同期より先輩の方が良い扱いするなんて当たり前。その上好きな人の前で良い恰好したいという心理は誰にだってある、と思う。俺だってそうだ。クリス先輩の前だから、あんまりガキっぽいことしたくないし、選手として、人間として先輩に認められたいと同時に愛されたい。俺が先輩を想うだけ、先輩も俺を想って欲しい。最後のはちょっと贅沢だけれど、そうなったら最高だ。
一人で考察している分は、関係が前進することも後退することもない、ある意味幸せな時間だろう。けれど自分から行動を起こさないと人間関係はずっと平坦なままだろう。それを思い切りぶち壊したのが沢村だ。球を受けろと親鳥につき従う雛鳥のようについてくる。もう十時を回ったから消灯だっていうのに煩い奴ら。
「だぁあもううるっせえな今日はもうだめだってさっきから何回言ったらわかるんだ」
少しきつめに言うと二人は目に見えるほどしゅんとしてしまい、若干罪悪感を感じる。
「じゃあ……明日ならいいんですか」
「いいんじゃないか」
予想もしないところからクリス先輩の声が聞こえた。
「クリス先輩!!!!」
「こら沢村、もう夜だからな、少し声を落とせ」
「すみません!!!!」
まったく困った奴だ、と言わんばかりに眉根を寄せて慈愛、のようなものを含んだ目線を沢村と降谷に向けるクリス先輩を見て頭につめたいものが広がる感覚。はぁあ、この人は後輩にはこういう目線で接するのか。馬鹿な奴だな俺も。幼稚で後ろ向きな奴だな。つーか先輩と後輩の無垢なやりとりを、恋愛の尺度で測るからおかしくなるんだよ。俺が先輩のこと好きじゃなけりゃこんなあたりまえのやりとり見てても苦しさなんて感じないんだよ。
「どうした、御幸」
声をかけられてやっと我に返った。三人とも不思議そうに俺を見ている。あわてていつもの笑顔を貼り付けてちょっとぼんやりしてて、と苦しい言い訳をする。
「明日の練習後、俺とお前で二人の球受けてやろう。沢村と降谷、両方に課題はまだまだあるからな」
「うぃっす、まぁ、クリス先輩がそう仰るなら」
「ありがとうございます!!クリス先輩!!」「ありがとうございます」
「御幸も受けてくれるんだぞ」
「う」
感謝の言葉を言うのがむずがゆいのか、沢村は唇をとがらせてこちらをじっと見てくる。
「……ありがとうございます」
「へーへー」
沢村の頬を指でつついて煽り、反撃を食らう前に逃げる。後輩に嫉妬まがいの感情を抱いてしまう自分からも逃げたい。ごめんなこんな先輩で。認められたい大人ぶっていたいとか思うくせしてこれだから。御幸はいつも冷静だなんて誰が言った。忍ぶ恋のひとつも隠し通せそうもないのに。まっすぐに野球に取り組む後輩たちがまぶしい。
正直、自分の中にだけ抱えているのに限界を感じる。物凄く勝手だとは思う。勝手に憧れて、勝手に好きになって、それを抱えきれないから迷惑承知で告白する。あまりに自己中心的だけれど、もう精神状況がおかしいのかもしれない。昔告白してきた女の子に言われる側の気持ちになってみろよ、俺だって断るの気分悪いって言ったのを思い出して胸が悪くなる。本当に、残酷なことをしてきた。まわりまわってしっぺ返しを食らっている。俺も、俺から告白されるクリス先輩の気持ち考えてみないとな。
そんな目で見てたなんて気持ち悪いって言われるのか。それともお前は野球ができるのに真面目に取り組まないなんてって言われるのか、そもそも捕手でないお前個人に魅力を感じない、とか?俺がネガティブってのを差し引いてもこのくらいが妥当だろう。むしろそうやって叩き切ってくれたほうがスッキリしそうだけれど。さんざんお世話になった先輩に更に迷惑かけるという自己嫌悪で潰れそうになりながら、相談という件名を入れて用件だけを書いたシンプルなメールを用意する。
よし、もうこんな気持ちさっさと潰して膿をだしてしてしまおう。自分で自分の初恋、初めて夢中になった恋を潰さなければいけないなんて俺何かしたかな。したか。
耳障りな着信音とともに返事が来たことを知らせてくれる。実にシンプルに用件のみ書き表わされている。俺のためだけの時間が、クリス先輩の予定を埋めているかという事実だけで女々しいとは思うものの顔がにやけてしまう。結果はどうであれ俺は前に進める。俺の選択は何一つとして間違ってはいないはずだ。
それから数日は最高の気分で練習に取り組めた。というより今まで完全に自己都合で注意散漫なまま練習していたっていうのが自分でも責められるべきだと思う。まだ言ってしまってもいないのにすべて良い方向へ流れて終わったかのようなさわやかな気分。なんなんだこれは。ネガティブ通り越して頭がおかしくなったのか。
よこしまな思いで先輩を呼び出した日が近づくにつれて罪悪感や焦りで頭がおかしくなりそうになる。常に 胃もたれしているような不快感が神経を逆なでする。なんだよお前オトコノコの日かよ、なんて言う下品でどうということのない冗談にも必要以上に苛立ってしまう。
俺は感情をコントロールできる、完全に俺は大人だと思っていたけれど違うみたいだ。他人に当たり散らすようじゃまだまだガキだ。駄目だ駄目だと思うだけドツボにはまっている気がする。それもあと数日だけなら、恋の痛みってやつに浸っていてもいいのか、とも思う。午後から急に降り始めた雨が気持ちをも湿らせているのかもしれない。グラウンドを思い切り駆け回って余計なことばかり考える脳味噌をどうにかしたい。
ここで傘を教室に忘れてきたことに気付いた。舌打ちを一つしてからエナメルバッグを肩にかけて走りだ、そうとして
「御幸」
聞き覚えのある、俺が聞き間違えようがない声が俺の名前を呼んだのを耳がとらえたのと同時に、俺の心臓が飛び出て落ちた。ほやほやと湯気を立てる心臓をどうにか押し込んで軽薄な笑みをやっとのことで浮かべて振り返る。
「なんすか、ってかどうかしたんですかクリス先輩」
「ちょうどこっちの棟に用があってな。お前傘はどうした」
「いや~教室に置きっぱなしにしちゃったんで、走って行こうかと」
「お前はそういうところが甘いな。風邪をひいたら、とか、転んだらとか考えたりはしないのか」
「ッス……そこまでは……」
「まったく、手のかかる後輩だ」
まるで子供の世話をする大人みたいな、余裕?余裕と言うより懐が広いのか?なんだこの扱いは。どう考えてもひきっつた笑顔でやっとそうッスね、とだけ返した。叱られてしょぼくれていると勘違いしたのか俺の頭を紺色の飾り気のない折りたたみ傘で小突いてきた。
「ほら、これ使え」
「え、いいんスか」
「今度会う日があるだろう、その日に返してくれればいい」
「ありがとうございます」
平常心平常心、と心の中でとなえつつ傘を開いた。先輩は深緑の上品な印象の傘を開いて雨のなか練習場へと向かって行った。その背中を追いかけるように借りた傘を開く。
室内練習場に入った途端繰り返される体育会的なあいさつの波を遣り過ごして練習用ユニフォームに着替える。想像ついたことだったはずだけれども背後でボタンを外す音が聞こえる。今まで男同士で恥ずかしがることもないから練習場の隅で着替えるのはあたりまえのことで、何とも思っていなかった。が今はそうもいかない。同性が恋愛対象になるってことはこういうところがつらい。背後から聞こえる衣擦れの音が気になって仕方がない。クリス先輩がネクタイを外して折り目が付かないように綺麗に丸めて、クリス先輩が指定のベストを脱いで畳む、シャツを脱いで畳む、アンダーシャツを着る前に制汗剤を一吹き、アンダーシャツを被って――やめよう。
平常心平常心平常心平常心、と虚しく唱えてできるだけ素早く着替えその場を離れた。おなじ性別というのがここまで重くのしかかってくるとは。はじめて夢中になった人を追っている頭ではあまり深刻に考えてはいなかった。けれど今俺の状況だとかなり重たい枷になりうるんじゃないかと。今更だけど。ヤバい。今のうちにクリス先輩の背中目に焼き付けておかないと。俺がおなじ性別の、同じ部活の先輩が恋愛対象に入っているってわかったらきっともうこんなふうに気軽に話しかけてもくれないだろうし、近くで着替えなんてもってのほかだろうし。
わざわざ先輩を俺の個人的な事情で呼び出しておいてこんなことを考えるのもどうかと思うけれど、ものすごく、出向きたくない。今まで優しくほほえんでくれていたクリス先輩が、嫌悪感丸出しの目でこっちを見るんだろうな、とか、そんな目で見ていたのかって軽蔑したりするのかなって。
クリス先輩から借りた傘を丁寧に丁寧に畳みながら返事のシュミレートを何度もしたけれど貶されるか断られるかしか考えられない。自分がすっきりするために告白するって決めたはずなのにやっぱりまだいまの関係に未練があるのかもしれない。とりあえず、断られてもいままで通りとは言わなくても避けないでくれ、とは言っておこう。ずいぶんエゴイスティックだけれど、かわいい後輩(?)だったものの最後のお願いくらい聞いてくれそうな気がするけどどうかな。
「で、何なんだ御幸。黙って居ちゃわからん」
「すい、ません」
脳味噌が茹だって上手く働かない。一言、たったひとことだけ先輩と後輩としてだとか、チームメイトとしてだとかそういうのとは違う意味で、好きですって言ってしまうだけなのに言葉が出てこない。胸にじくじくと燻るまだこの関係を続けたい嫌われたくないという気持ちと、わずかな可能性に賭けたいって気持ちが胃に降りていって中身を掻き回す感覚。
吐きそうだ。自分がこんなにも意気地なしだなんて知らなかった。今まで俺に好きです、と精一杯の勇気を振り絞ってぶつかってきたコ達のほうが勇敢だ。どんなに背伸びしても俺は、そりゃあ少しは他人より野球はできるかもしれないけれども十六年しか生きていないクソガキなんだってことを嫌というほど思い知らされた。
「ま、俺は推薦が取れそうだし、後輩の面倒を見る余裕はあるから言いたくなったらメールでも電話でも言えばいいさ」
「呼んでおいてすみません」
「……本当にな。 冗談だ。そんな顔するなよ、お前がそんな顔すると調子狂う」
この滝川・クリス・優卑怯なくらいカッコいいッ馬鹿好きっ、口が裂けても言えない言葉を喉でとどめて、悲痛といった言葉が一番近いような表情を引っ込めていつものニヤけ顔を無理やり貼り付けたものだからどこか歪んでいるのが自分でもよくわかる。
「……悩んでいるんだな、本当に些細なことでも他人に話せば気が楽になるかもしれないし、ならないかもしれない」
「ならないんスか」
「俺もお前も野球バカだからな、野球以外の悩みだったら難しいだろう」
本当に、バレていないのだろうか。
本当はバレていて、クリス先輩は後輩がゲイだってことを言わないでおいてくれている状態のかもしれない。憶測で物を考えると胃を病みそうになるが、可能性はゼロではない。今更、この人に嫌われるのが、拒絶されるのが怖くて堪らない。
「そうっスねぇ……俺も、先輩もまだまだ子供ってことですかねぇ」
「そうかもな……」
失礼なこと言っている自覚はある。俺の一個上だとは思えないほど大人びているクリス先輩に向かってあろうことか俺と同列に考えるどころか、子ども扱い。もう俺一回頭冷やした方がいい気がする。
「明日も朝練だろ、早く寝ろよ」
「ウィッス」
思わずその場にしゃがみ込んでしまう。いろいろなことが一度に起こりすぎて脳味噌が沸騰している。その証拠に傘を返すのを忘れた。
◇
先輩に向かってまだ子供だ、と言っても笑って許してくれる信頼を裏切りたくはない。が、俺は滝川・クリス・優を憧れを超えた感情を以て接している。この葛藤を何度繰り返したかわからないけれど、葛藤が終わると同時に俺の初恋の息の根が止まる。
なんで、俺が女だったり、クリス先輩が女じゃないんだろう。
俺が女だったらもっと大々的にアプローチしたりできたし、クリス先輩が女だったら俺が人生をかけて口説くのに。残念なことに俺は男、クリス先輩も男。現代日本社会では同性愛は異性愛よりもまだまだ違う世界のものだってイメージがある。当の俺がそうだった。だからと言って諦めるという選択は無い。まぁ、いつか、俺が男で、恋人も男でよかった、と思える日が来ればベストなんだけれども。
その前にクリス先輩、女にもてそうだからきっとカワイイ彼女、手は俺みたいに日に焼けて真っ黒でマメだらけじゃない、白魚のような手に小さく桜色の爪が乗っていて、肩は俺みたいに筋肉で覆われていない、守ってあげたくなるような細い肩、腹には腹筋の代わりに、やわらかい脂肪があって、俺みたいに筋肉筋肉アンド筋肉、みたいなゴッツイ脚じゃなくてすらりと綺麗な脚で、そして、女。クリス先輩の遺伝子を後世に遺すことのできる機能をもっている。女。
俺は、男で、クリス先輩は男だから。俺はクリス先輩のこどもを孕めないし、クリス先輩は俺のこどもを孕めない。あたりまえっちゃあたりまえだけれど、同じ恋愛、性欲でありながら異性愛は生み殖やすことができ、同性だとできない。そんなことがこんなにつらいことだなんて知りたくなかった。
それなのにクリス先輩のこと、諦められない俺っていう男はつくづく救えない。
◇
昼休み、今日も体育館裏で誰かが告白されている。
この夏はじめての蝉がけたたましく鳴いている。一匹だけだというのに気に障るほどのうるささ。もう夏かぁ、結局正捕手争い、できなかったな。なんて口が裂けても言えない。正捕手の座が喉から手が出るほど欲しい奴は沢山居るし、クリス先輩だって好きで怪我しているわけでもないし、一緒に、俺より一年間付き合いの長い同期とグラウンドへ立ちたいだろうし。
「私、平瀬くんのことが好きなの。付き合ってもらえないかなぁ……」
頬を染めて、上目遣いで男に女が、自分の性嗜好に合致すると告白する。
気持ちを相手に伝えられるだけで、心底羨ましい。
どうもこの、性別と恋愛の考え方が上手く噛みあわない。男と女の恋愛だったら、イエスかノーか貰えるけれど、男と男だったらまず、同性ということでイエスかノーかそれ以前に、嫌悪感が先立つ可能性が。考えれば考えれば泥沼にのめり込んでいるうえに、沼底で息絶えそうだ。まぁ、そうすればクリス先輩は後輩が同性愛者でした、ってことで悩むことが無くなる。俺が我慢できれば。じめじめした気候をそっくり反映させたような心中を抱えて歩くのも楽じゃない。
実はまだ、クリス先輩から借りた傘を返せていない。けれどこれが野球以外ではじめてできた俺とクリス先輩のつながりかと思うとなかなか返せない。クリス先輩にとっては迷惑極まりない話で、傘なんて返そうと思えばいつでも返せるのに、一番大人ぶりたいあの人の前でだけ俺は全く大人ぶれない。
◇
手の中で傘を弄ぶのもこれで何度目だろうか。
なんの変哲もない紺色の折りたたみ傘だけれど、これの持ち主はクリス先輩なのだと思うだけで特別なものに思える。どこで買ったのだろう、気に入っていたのかな、などと想いを巡らせるが、詰まる。俺の気持ちはどうあれ不便だろうから返さないと。もう一度開いて皺のないように畳みなおす。自分のよこしまな気持ち全部ここに織り込んで、雨の日に開かれたとき弾けるように。
夕方からしとしとと降った雨は、日の暮れた今本降りになって窓をたたいている。この傘が無いせいでクリス先輩が雨に降られていたら、俺のせいでクリス先輩が風邪をひくかもしれない。俺がクリス先輩の人生にひどい形で干渉できる。ひとつ溜息をついて最低な考えを振り払い、重い腰を上げる。物理的距離は壁一枚、精神的距離は遥か彼方。皮肉にも寮の部屋は隣だ。
誰のかわからないサンダルを突っかけてビニール傘をと紺色の折りたたみ傘を持って隣の部屋を訪ねる。
形式だけのノックをすると金丸の声が返ってくる。
「あれ、御幸先輩どうしたんスか」
「クリス先輩に返したいものあったんだけど……居ないっぽいな」
「そうなんですよ、もしかしたらどこかで雨宿りしてるのかも」
「そっか、ありがとうな。もし帰ってきたら連絡してくれ」
「ウイッス」
そう言って扉を閉める金丸を後にして青心寮を抜けて、クリス先輩の行っているリハビリセンターまでの道を辿る。夜の学校は昼間の喧騒がうそのように鎮まりかえっている。校舎の方を通って先生方に見つかっても面倒だから倉庫裏の破れたネットから抜け出す。先輩を風邪ひかせてまで叶えたいことなんてない、足は自然と早まった。
ビニール傘越しに見る夜空は雲に覆われているのがかろうじてわかる。クリス先輩、もういくらか濡れてしまったろうか。アンダーシャツ透けてたら俺の理性はダメだろう。
「御幸か?どうしたこんなところで」
ビルのエントランスで雨宿りをしていたらしいクリス先輩が急に声をかけるもんだから、必要以上に驚いてしまって恥ずかしいったらない。
「いやあの、俺先輩から傘借りたままでしたから」
「それでわざわざここまで……?悪いな、ありがとう」
わざとゆっくり先輩に傘を手渡した。これで俺とクリス先輩の個人的なつながりはまた一つ薄くなった。何を言うわけでもなく学校を目指して歩く。二人分の足音だけが聞こえる。暗くてよかった。たぶん、俺は今耳まで真赤だろう。
「先輩、靴ひも解けてますよ。傘持ってるんで結びなおしたら」
「ありがとう」
先輩のうなじが見える。いつか先輩のカノジョが独占の標に齧るうなじ、先輩の子供が愛おしげに触れるうなじが今この時だけは、俺が見ている。
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20140505に出した本の再録です
