無機質かつ、事務的な連絡事項が記された、色彩が排除されたはがきがいつか来てしまうことは分かっていた。
『滝川・クリス・優告別式』
 この文字列がすべてを物語っている。

 随分前に病気を患ったとは聞いていたが、先月開かれた青道高校野球部OB会ではおくびにも出していなかった。むしろ元気そうに酒を飲み、もうすぐ十歳になるという孫の写真を見せてくれた。クリス先輩と、写真に写るクリス先輩とよく似た女性と、眉がりりしく、頬が幼子特有のふくふくとしたまるみを持つ滝川一美ちゃん、という名前の少女の写真。お前の字が一字入っている、と冗談めかして言っていた。その話の間ずっと俺に生物学上できなかったことがクリス先輩の娘さん夫婦に拠って成されたんじゃないかコレ、とか考えていました。ごめんなさい。
 大人と言える歳になり、同窓会以外でも会うようになってから俺の執念はとどまることを知らなくなった。結婚秒読みだった女性とは忘れられない人がいる、と言って別れた。あんなに大事にしたい、と思っていた彼女が泣きながら縋っているというのに何とも思わなくなるほどには、俺の心に滝川・クリス・優という男は大きく占めつづけている。これはもう狂気かと言えるのではないだろうか。一緒にプレーできたのはほんの数か月だというのに、数十年にもわたって想いつづけているなんて。俺のなかだけで熟成させていただけなので相対評価ができないけれど、たぶんそうだろう。これはきっと、執念という名前がついている。
 随分早逝だった。結城先輩世代で一番早かったんじゃないだろうか。孫がウエディングドレスを着るところが見たいんだと意気込んで孫の写真を見せて回って、眦にしわをためて愛おしそうに写真に写る娘と孫と妻を眺めていたが、孫の小学校の卒業も待たずに逝ってしまった。
 家族の悲嘆は推し測りきれない。血縁のものが死んでしまう悲しみは何にも代えがたいことだろう。
 急に、足元がゆるんで沼に沈み込むような感覚に襲われる。俺はクリス先輩のなんだったのか。そうだ、後輩だ。ただの後輩だ。
「ふふっ」
 つまるところ俺の煮詰まった片思いが最悪の形で終わった、ということになる。恋愛において最悪が何であるかはわからないけれど。皺と染みの浮いた手をじっと見つめ、何が去っていき、何が残るのか問い詰めたところで、一人で答えに辿りつけるものではない。
 最低限だけ家具が置かれたマンションの一室で笑いが漏れた。俺はあの人にとって何でもない、単なる高校時代過ごした野球部の後輩だ。先輩の人生のなかには先輩を尊敬して慕った後輩なんて山ほどいたはずだ。俺は表面上そうだった。なんてことはない、俺はただクリス先輩の特別なひとになりたかった。
 それをクリス先輩が居る内に言えなかった時点で俺に先輩を想う価値なんてあるのだろうか。
 ぶつけるつもりは無い、一生秘めていようと決めていたものの、ぶつける対象が居なくなるとどうしていいかわからない。ぶつけて傷つけないようにと守る人間はもう居ない、だからと言って故人が、しかも男性が好きだったと知らされても知らされた側が困るだけだろう。本当に何も生まない、生むとしたらドス黒くて粘つく執念だけが俺のなかに遺される、そんな恋だった。
 数年前親の葬式で着た喪服を箪笥から引っ張り出して皺を伸ばす。俺とクリス先輩があの思い出の場所で着ていた服と対になる色をしたスーツとネクタイを身に纏って夕刻からの式の準備をする。日本によくある仏式であることに少し驚いた。父がアメリカ人と言っても育った国の慣習に倣うのだろうか。
 香典袋に御幸一也と薄墨で書く。
 一度だけ、高校のときノートの端に御幸優と書いたことがあった。好きな子の名前と自分の苗字を合わせて書く、思春期ならだれでもやっているだろうほほえましい行動。もしクリス先輩と養子縁組ができて、籍を入れることができたら。同性同士の恋人という誹りを、二人で支え合って耐えることができたらと夢想して書いた名前。急に恥ずかしくなってすぐに消したのも覚えている。
 あのころは本気でクリス先輩と付き合って結婚、養子縁組ができると思っていた。幼いころから大人びていると言われて育ってきたが、今の俺からしてみたら現実が見えていないただのガキでしかない。ガキらしいといえばあのころよく先輩を夜のオカズにして抜いていたな、と。先輩にふざけて彼女の写メがあるんじゃないか、とピクチャフォルダを漁られそうになったときは本気で血の気が引いた。こっそり撮った無防備なクリス先輩の脇腹とかノースリーブアンダーシャツとか制服姿とかしかない。それかクリス先輩に似た顔立ちのゲイ向けAV男優の画像で埋まっていた。そのときバレて軽蔑されていたら俺は、クリス先輩のことを諦めてほかの人と幸せになれていたのだろうか。否、高校生のときですら、既に俺からのクリス先輩への歪んだ恋心はたわわに実っていた。その後数十年落ちることもなくただ腐り、干からびていくとは当時の俺は思ってもみなかっただろう。
 俺にはクリス先輩しか見えていないけれど、クリス先輩はあの全てを受け止めてくれそうなほほえみで尊敬も愛情も庇護も、勝ち得ている。
 式にはクリス先輩の結婚式で見た職場のひとや、野球部の奴らも来ていた。みんながみんな、クリス先輩の死を悼んでいる。クリス先輩がいなくなってしまって悲しいと言っている。
 俺はもう、空虚だ。もう何もなくなってしまった。
 お悔みの言葉を述べて香典を渡した。多分娘さんだろう。クリス先輩の目元とそっくりだ。
「あの……御幸一也さんですか?」
「え、あ、はい」
「父から手紙を預かっています、負担になるようだったら読むなとも」
「え」
 予想もしなかったことに十年ぶりくらいに狼狽えた。真っ白い封筒に御幸へ とだけ書いてあり、固く封をしてある。最後の最後に味な真似をしてくれる。死してなお俺を捉えて離さないつもりだろうか。
 やさしく皆にほほえみかけるクリス先輩は、あのときのようにやさしい声音で俺の苗字を呼ぶことも、あのぽってりとしたくちびるも動くことなく黒縁の枠に収まっている。ずうずうしいことは重々承知の上、今度はどちらかが女になって生まれてきませんか、と静かに祈った。
 エゴの塊みたいな俺だから、先輩には成仏しないでずっと俺のそばに居てほしいと思っていますよ。霊だろうがなんだろうが、あなたが傍にいてほしい。

 緑茶のパック詰め合わせと清めの塩を貰って家路につく前に遺骸に対面させてもらえた。眠るように息を引き取ったらしく、苦しんだような表情でない、今にでも目を開けて、皆に心配かけて悪かったな、と笑いかけてくれそうな死に顔。周りにだれも居ないのを確認してそっと頬に触れた。驚くほどつめたくて固い。本当にこの世のものではなくなってしまったと今更実感する。あの暑い夏広い背中にあこがれて抱きたいと願った身体も、金糸雀色の瞳も、すべて冷たくなってしまっている。悲しいというより喪失感で茫然としたまま斎場をあとにした。タクシーを拾って自宅を目指す。何もなくなってしまった今、クリス先輩からの手紙だけが俺を動かしている。
 皺になるのも構わずスーツの上着をソファへ投げ捨てて、ペーパーナイフで丁寧に開封する。あの若さで死を覚悟していたのか、そんなときに伴侶でなく、愛する娘でも慈しむべき孫でもない、単なる後輩に何を遺したのか。内容によっては、単なる戯れでも俺の生きる目的にもなりうるし死の理由にもなりうる。それを理解して書いているとは到底思えない。震える手を抑えつつ丁寧に二つに折られた紙を開く。

『御幸へ』
『これを読む頃には俺はこの世には居ないんだろうな。俺の世界一可愛い娘にそう言づけたから』
『学生時代のことをいろいろと思い出していたんだよ』
『俺にも、元気に外を走り回れたときがあったこと』
『たくさんの先輩、後輩、同期に恵まれたこと』
『こんなことをお前に遺してどうなるのかは俺にもわからない』
『死を前にすると人はやりのこしたことがしたくなるんだ』
『死にかけの戯言として聞いてくれ むしろ忘れてくれた方がいい』

『実はな』
『俺が居眠りしてしまったとき、お前がこっそり、キスしてきたことあっただろう?』

 頭の先からさぁ、と血がひいていく感覚。
 最近は生きているのか死んでいるのかわからないほど空虚な生活だったためか、このような生きている人間のような感覚はひさしぶりだ。高校を卒業してもう数十年経つというのに、俺の心は滝川・クリス・優が占めていることをあらためて知らされる。この先読み進めたら詰られるのだろうか。最近めっきり弱った胃がきりり、と痛む。

『何十年前のこと蒸し返すなとお前は思うかもしれないが』
『そういう気持ちを抱かれていること当時は怖く感じた』
『お前、吐きそうになっているだろう。何か飲め』

 膨大な時を経ても、俺が生涯の半分以上の時間をかけて想ったひとが、未だに俺を理解してくれている。これ以上の喜びがあるだろうか。最近掃除をさぼっていて生臭い匂いのする冷蔵庫から、カクテル用に買ったグレープフルーツジュースを水垢で曇ったグラスに注いで呷る。独り暮らしが長くなるとこまごまとしたことがどうでもよくなる。どうせ誰が訪ねてくるわけでなし、どうせ誰とも、暮らすわけでなし。
『飲んだか?』
『当時はな、お前が俺にだけ素直なのはそういう目で見ていたからなのかと嫌悪感すら抱いた』
『だがな、お前俺の卒業式に涙を堪えながら』
『いろいろ腹に抱えているだろうに』
『ご卒業おめでとうございます』
『ってな』
『その時やっとお前を恋愛対象として見ることができたんだが』
『時すでに遅しってやつだな』
『その後はお前も大学で女性と付き合っていたから』
『若さゆえの過ちというやつかと思って』
『忘れようとした』

『だがな一度気になったら離れないんだ』
『お前の長くなってきた前髪だとか』
『思いつめてくしゃくしゃになった眉間だとか』
『夜になりはじめるくらいの夕日の眩しさだとか』
『焼き付いて離れなくなった』
『こんなことは妻や娘には口が裂けても言えないが』
『俺はお前のこと』
『後輩以上のものだと思っていた』
『好きだったよ、御幸』
『こんなこと、男に、死んだ男に言われるの不愉快かもしれないが』
『抱えたまま死ぬのはあまりに辛すぎたんだ』
『済まない』
『いざ死が目の前にあるとな』
『俺が俺でなくなるような気がするんだ』
『病室で独り寝付く前などは特に』
『最期にお前と会って気持ちを清算してから死にたかったが』
『駄目だ、気持ちが弱くなってしまってな』
『済まないな、お前にはいつも甘えてしまっている』
『結婚式でのスピーチもな』
『お前に頼んでしまった』
『俺としては諦めるためのケジメのつもりだったんだけどな』
『駄目だったよ』
『でもお前も結婚を考えている女がいると聞いて』
『自分の気持ちに蓋をしたつもりだったけれど』
『この歳になって噴き出した』
『いつもお前には迷惑ばかりかける』
『ありがとう、すまなかった』

 滝川・クリス・優、と署名で占められた細く儚げな文字列をぼんやり見つめる。
 重しを呑んだように腹に暗澹としたものが溜まる感覚が胃を支配する。本当に死んでしまったのだろうか。やっと、やっと想いが通じたのに。やっと糸がつながったかと思ったら結んでいた指が灰になってしまった。こんなことってあるか。俺がなにをした。
 乾いた笑いと、咽が引き攣れたような嗚咽だけが独りの空間に放たれて、消えた。
 クリス先輩も俺の事が好きだったって?俺がクリス先輩を忘れようとして女と付き合っている間にクリス先輩が俺を諦めたって?性質の悪い冗談にも程があるだろう。今までの狂おしいほどの思慕、俺が叶うはずがないと勘定した想いすべてを受け止めてもらえる可能性があった?それを確かめる術はもう無い?
 俺がどんな気持ちでクリス先輩の結婚式で俺じゃない人間との生涯の愛を誓う場で、俺の愛する人が俺じゃない人間と生涯共に支え合うことを誓う行事、結婚を祝うスピーチを読み上げたと思っている……どれだけ、俺が代わりたかったと思っている……あの夜どんなに女に産まれたかったと自分を憎み、呪ったと……男でも、恋愛の舞台にあがって良いのだと知っていたら……

 俺に答えをくれるひとはもう、居ない
 ◇

 季節のうつろいは早いもので、三度目のツツジが色がとりどりに咲いて、地面に落ちた花弁が踏まれて色あせていくサイクルを見届けた。俺の人生はまだまだクリス先輩への妄執を抱いたまま続けなくてはならないらしい。
 無駄に広い墓地のある一角を目指して仏花を手に老体に鞭打って歩を進める。春先の、サーファーたちがぽつぽつ波間を縫う海が見える高台に、俺が生涯をかけて愛した男が眠っている。
 やっとのことでたどり着いた墓石の群れの中の一つの下に、しろいほねとなった先輩が。
 スーツの上着を抱えて袖を捲ってもまだ暑い。春先だからと油断していた。今、目をとじれはそこに第二ボタンどころかブレザーのすべてのボタンを毟り取られて俺に困ったもんだ、と苦笑いを投げかけてくれるような、先輩が居る。先輩の卒業式の日みたいに気持ちよく晴れた日だからなおさらだ。俺はいまだに季節の指標を先輩との思い出で構成している。それほどにクリス先輩を、手が届かない存在でありながら短い期間の先輩との思い出を必死につなぎとめておきたかったのだろう。
 無機質かつつめたい、かつて衝動的に触れた唇の温度を拭い去るような質感の石を丁寧に磨き上げ持ってきた仏花を飾り、線香を焚いて手をあわせる。滝川家ノ墓。虚無感に襲われるたびここに来ては、俺はまだ生きて弔わねばと決意を固くする。そうでもしないと老い先短いこの人生を簡単に、浜風にゆらめく線香の煙のように儚なんでしまいそうになる。
 まだ、きっと生まれ変わってもずっとあなたを追いかけているのだと思います。滝川・クリス・優先輩。

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2014年6月発行の本の再録
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