いまだ地図に載っていない島というものがあるとは知らなかった。
懇意にしている百貨店の外商によると、最近発見された島で、島の住民は二十人程度、外からの情報を一切絶って生活しているという。その島の年に一度、行商で回っている現地の者に絶対に内緒という約束で聞いたらしい。
天啓だと思った。
強力な個性を持つ燈矢を刑務所に収監しきることができず、俺と燈矢だけで暮らす自宅で同居している。いつ燈矢の気が変わって町を燃やしてしまうか気が気でないご近所さんからの視線が日に日に痛く、ついには転居してほしいとまで言われている。そんな折に住民が少ない島があると言うのは、地獄で仏にあったようだった。
その島の権利を買うことはできないかと打診すると、外商は待ってましたとばかりに契約書を出してきた。外商がいうには住民たちにも居住権があるので追い出すことはできないが、共に暮らすことはできるという。言語も英語が通じるというので、という誘い文句に乗ってしまい、高い翻訳機を掴まされることになった。
「燈矢、島に行こう」
「ついに頭沸いたか」
すげない燈矢にこれまでのことを説明すると、まあご近所さんからは睨まれるよなと一定の理解を示してくれた。現地に行くまで、変な気を起こさないでくれというと、半分了承、半分否定、と言ったふうの返事が来たので心配したが、飛行機の機上でも船の上でも大人しくしてくれている。火傷の跡を同乗者に言及されたときはヒヤヒヤしたが、昔事故でね、と説明して同情されていた。
同情を嫌う燈矢は少し苛立っている様子だったが、問題なく島に着きそうだった。
島が見えてくると、岸辺に何人か人が集まっているようだった。無理もない。自分達以外住んでいなかった島に余所者が入り込んでくるのだから、反発も想定していた。
けれど住民たちは言葉が通じないとわかっていながらも話しかけてきて、友好的な雰囲気を感じ取った。燈矢は英語を話せるらしく、相手とコミュニケーションが取れているようだった。
「燈矢、何て言ってるんだ?」
「君たちが建てた家いい家だね、だってよ」
「そ、そうか」
嘘は言っていない様子だった。
外商が発注した家の前では、住民と思しき人々が花を植えたり、テラスを生花で飾ってくれていた。
『旅の疲れもあるだろうから、ゆっくり休みなさい』
翻訳機を通して、長老と思しき年配の女性が声をかけてくれた。ありがとう、と返すと目尻に皺が寄った。
少し奇妙なところがあるとすれば、男性と思しき人(ひげを生やしていて、喉仏が出ている)の腹が異様に膨れているということだけ────
波の音がうるさくて眠れないという燈矢とどうにか宥めて、次の日目を覚ますと、みずみずしい果物と、甕に入ったお酒と思しきものと、ナンに似た平たいパンがテーブルの上にあった。
「朝村の人が来て、くれた」
「そうか、お礼は言ったか」
「父親ヅラすんな」
そっけない燈矢はいつものことだが、薬品を使って何かしているようだった。
「何してるんだ」
「まあちょっと……調べ物」
もらったお酒と、奥にある水源からとった水を並べて何をしているのかはわからなかったが邪魔すると舌打ちが飛んでくるのはわかっていたので、黙って朝食を摂った。
ナンに似たパンはとうもろこしを練って作っているようだった。村の仕事を手伝えば食に困ることはないと言っているらしく、渡りに船だった。
力仕事や、簡単に火を起こせるという点は重宝がられているように思う。ここにいる男性は力仕事をしないようだった。代わりに腹が膨れていない女性たちが、俺が住んでいた世界で“男性の仕事”とされていた仕事についていた。
誰も知っている人がいない世界での生活は、快いものだった。燈矢の居室に石が投げ込まれれば心が痛んだし、近所の人や燈矢が殺した人の縁者からの罵声が止むことはなかった。
俺だけが苛まれるならまだいい。苛烈を極めた毒をはらむ言葉は、冬美や夏、冷や焦凍を苛んだ。夏は大学に行かなくなり、やがて将来の夢をあきらめて通信制大学に転校した。冬美は職を追われそうになったが、保護者からの制止があってどうにか首がつながっている。ひとえに冬美の普段からの行いの良さのおかげだ。冷は良くなりつつあったがもとに戻ってしまったという。焦凍は学校に守られているからまだマシとはいえ、通学中に制服を切られたりと被害がない訳ではない。
そんな俺の周りを傷つける悪意を相手にしていると、最初こそ自分が犯した罪と思って注がれるまま飲み込んでいたが、やがて俺の心を蝕んでいった。眠れなくなり、食が異様に細くなり、文字通り喉を通らなくなり医師の指導のもと栄養食を口に含む程度になった。それくらい、と燈矢が殺した人々の縁者からしてみれば俺や燈矢が苦しめば苦しむほど喜ばしいものだろうが、目覚めた時にまた今日も生き延びてしまったとため息をつく日々から逃げ出したくないかと言われれば、嘘だった。
それこそ嘘みたいに綺麗な海と青い空、そして優しい人々。死ぬ前に見る夢みたいだった。ぼろぼろと崩れていく燈矢の体をどうにか繕って、日々を過ごした。
「燈矢、村の方々が下さったお酒うまいぞ。いただかないのか?」
「まあちょっと……俺はいいかな」
「そうか? 血行がよくなると傷が痛むのか?」
「まあそんな感じ」
ここに来てから、燈矢はよくしゃべるようになった。とりつく島もない会話とも呼べないやりとりはなくなり、問いかけには意味のある言葉が返ってきたし、時には昔話なんかもできるようになってきた。まるで過去の失敗を取り繕うことができているようで心が凪いだ。こうすることで、燈矢が負った傷を癒すことができているとうぬぼれていた。
燈矢は村の人々ともうまくやっているようで、にこやかに談笑している様子が窺える。村人たちに混ざって果物を剥いている燈矢を見て、ここにきて本当によかったと思った。
ふと疑問が湧いて、村人に聞いてみたことがあった。
「ここの男性が腹が膨れているのはなんでですか?」
『それは……おそらく聖なる水を飲んでいるからでしょう。神の御子をその体に宿しているのです』
「は、はあ」
『あれ、エンジさんのいたところにはなかったのですか?』
「ええ、ここにきて初めてみました」
『そうですか。この村にいらした時にお裾分けしていますよ。土甕に入っていたでしょう』
血の気が引いていくのを感じた。
燈矢が水を調べていたのはそういうことだったのかと合点がいった。聖なる水を飲んで神の子を宿す因果関係が解決できないが、トリガーを一つ引いているというのは間違い無いだろう。急いで家に戻ると、テラスで子供たちと葉っぱを折って遊んでいる燈矢がいた。鬼の形相で燈矢に詰めよる俺に怯えた子供たちは燈矢の後ろに隠れて俺を睨んでいる。
「何してんだよ、子供がおびえてんだろ」
「燈矢、あの酒のことを知っていたな」
燈矢は折っていた葉に息を吹きかけて蒼い点火すると、再び子供たちの歓心を自分に向けた。危ないから近寄るんじゃないよと優しく子供たちの頭を撫でる燈矢が俺の知っている燈矢の顔をしていないことに今更、気づいた。
「バレたか」
弧を描くように曲がった目が歓喜を灯していることに気づき、背筋が寒くなった。それでも親として子の間違いを正さねばという気持ちが勝った。それこそが傲慢であることは一生をかけて学んでいかないとならないらしい。
「燈矢ァ!!」
俺の怒声に恐れをなしたのか、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。かわいそうなことをしたが、それどころではなかった。
「お父さん、赤ちゃん作れるんだってね」
「何をいうんだ」
「おかしいと思ってたよ、何にもない島がお父さんくらいの収入で買えるなんて。絶対なんかあると思って調べたんだよ。そしたらこの近くに昔薬品工場があってまあ……環境問題なんて配慮のない時代だったから水は汚染されていて……だから俺は村の奥の水源からの水は一切飲んでいない」
そこまで話すと燈矢は一度咳き込み、果物の器に入れた水を飲んだ。
「この水は濾過した。濾過する前の水の成分を調べたらホルモンに影響するものだってことがわかったんだ。だから、そう。お父さんをお母さんにしてやろうって思った」
「なにを」
「理解できない? わかりやすく言ったつもりだったけどな」
「そうじゃない、その、俺が」
「お母さんになるって?」
「実際、もうなってるでしょ。元男だった人の出産を見たけど、穴が一つ増えてた。お父さんもそうなってるんじゃない?」
踊るようにくるくる回りながら演説する燈矢の言葉が今ひとつ頭に入ってこない。衝撃的なことを言われてしまうとどうにも、理解の範疇を越えすぎていて信じ難いというのがある。
けれど、女性器ができているというのは本当だ。この前、月経と思われる痛みと出血があったのも、事実。
震えが止まらないのは二度目だ。荼毘が燈矢だと知った時と、息子が俺を母にすると宣っている、今。
逃げようと叱咤した足は震えて役に立たない。いつでも常人よりは強くあった俺が恐怖に震えて後ずさることしかできないでいると知ったら笑われること間違いなしだ。
「燈矢、こんなことはおかしい、やめなさい」
「お父さん、立場がわかってないよね」
「やめ、やめなさい。やめるんだ燈矢。や……やめて……」
「そうそう。それでいいんだ」
納得したようにうなづく燈矢。ホッと息をついたのも束の間、燈矢の手が俺の肩に置かれた。
「じゃあ、抵抗しないでね」
ヒュ、と喉奥に悲鳴が張り付いて短い息をこぼした。
「ぐ、うぐっ……ひ、ひぃ……」
「色気、のねえ、声っ……」
脳は確かに何をされているのか認識しているが、心がそれを拒んでいる。
息子に強姦されている。
事実、燈矢のペニスは俺の膣、であるはずのところを破り、抉り、貫いている。そこに甘やかな快楽を感じてしまっている事実があまりに辛く、どうして、と呻くことしかできないでいる。どうせなら痛いだけであって欲しかった。これでは、あまりにあさましい怪物ではないか。
「ねえ、お父さん、痛いだけ? 唇噛まないで」
いつの間にか流れた涙を拭いながら燈矢は腰を動かすことをやめない。痛いだけではないとわかっていて言わせたいのだろうけど、涙を流すことしかできなかった。
「と、とうやにっ、ここまで憎まれているとは思わなかったッ……」
「にくい? お父さんはお母さんが憎くて子供を作ったの?」
「そんなことっ……」
「違うでしょ? 俺はお父さんが大好きだから子供が欲しいんだよ」
「何をっ……」
「お父さんのナカ、あったかくて気持ちいいよ、大好きだよお父さん、ねえ、お父さんは俺のこと好き?」
「と、とうや……」
「お父さんっ……」
息が詰まる感覚と、はね上げられるような絶頂に苦しくなって顔を背けていると、唇に生ぬるい感触を得た。キスされていると認識したくなくて目を開かないないでいると、ため息。おそるおそる目を開けると、うれしそうな燈矢がいた。
「いやさあ、処女膜って意外と血が出るもんだな〜って」
「……少し黙っていてくれないか」
「えーなんで。お父さん怒ってるの?」
この状況で怒らずに居られないだろうが、燈矢はなぜ怒られるかわからないといった様子でこちらを見る燈矢。その目が俺に叱られまいとして助けを乞うようにみえてしまい、言葉が出なくなる。
「燈矢、もうこんなことはやめなさい」
「何いってんの、赤ちゃんできるまでするよ」
にこやかに凄惨な言葉を吐く燈矢。それに抵抗する力は残されていなかった。日本にいた時よりずっと細くなった食で体は痩せこけて、かつての影もない。
「そんな、もし……その、子供が生まれてきたら育てなければいけないんだぞ」
「俺とお父さんの子だよ? そりゃあ大事に育てるよ」
「燈矢、どうしてそんなことをしようと思うんだ」
「どうしてって……そうだなあ、俺、お父さんが心底憎かった。死んでしまえばいいって思った。けど、そうじゃない。昔のこと思い出して、俺はお父さんのことが大好きだったなって。この世の誰よりもお父さんのことが好き、好きだからこそ、嫌いだった。反発したけど、やっぱり好きだから」
その言葉に嘘はなさそうだった。先ほどまでの凶悪な人格は身を潜めているらしく、穏やかで優しい青年がそこにいた。燈矢の真意が読めず、そしておぞましい行為に吐き気を催して海で吐いていると、村の人たちが心配そうにのぞいているのがわかった。
『エンジさん、神の御子を授かるのでしょう。怖がることありませんよ』
「何をいうのですか」
『初めての出産は誰でも恐ろしいものです』
「そうではなくて……」
彼らの目には、神の子を宿すことが恐ろしくて仕方なく写っているのだろう。けれど俺が本当に恐ろしく思っているのは、燈矢そのものだった。憎く思っていてこのような行為をするのならまだわかるが、その、好きであるという気持ちを持ってあのようなことをするのは理解の範疇を大きく超える。
理解する必要はないのかもしれないと思い始めたのは、三度目の行為の最中だった。嫌がらせでも鬱憤晴らしでもないならとことん付き合ってやってもいいじゃないかと。どうせ死ぬだけの命なのだから何にしてもいいじゃないかと。
それを留めたのは、何度か行為が行われた末に月経が止まったことに起因する。日付感覚を失わないために買ったカレンダーに印をつけていたが、今月に入っては一度も無くなっていることに気づいた。ここでやっと、生まれてくる子供に思い至った。本当は、うれしい気持ちなんじゃないだろうか。妊娠というものは。俺は恐ろしくて仕方なかった。誰かに打ち明けて、救って欲しかった。けれど現実はどこまでも現実で、蜘蛛の糸が垂れてくることなどないのだった。
体調が悪い日が続き、いよいよ隠しきれなくなって燈矢に妊娠を告げた。燈矢は二人で訓練をしていた頃のように歓声をあげて妊娠を喜んだ。
「名前は何にしようかな。いや、男の子かな。女の子かな」
「ほ、本当に子供だろうか」
「子供だったらうれしいだろ。子供のためにもしっかり食べないと」
燈矢にそう言われたものの、より一層食は細くなった。過程はどうあれ、新しい命はもう宿ったのだからと考えを変えようと思ってもどうしても喉を通らない。心配した燈矢が色々手をかけて料理をしたり、食べやすいようにしてくれてもダメだった。
じきに膨れてくると思われていた腹はいつまで経っても固い腹筋のままで、燈矢は腹を撫でさすりながらまだかなあと待っている。燈矢がこんなにも何かを欲しがるのは初めてじゃないだろうか。戦隊もののおもちゃも、流行りの光る靴も何一つ欲しがらなかった。そんな燈矢が、こんなにも望んでいる。
ほんの一瞬、叶えてやりたいと思った。
その直後におぞましさに震えた。この俺だけが違う価値観の中にいるためか、自分の価値観すら失いそうになっているのが恐ろしくてたまらなかった。それを知ってか知らずか、燈矢はにたりと笑って俺の腹をさすり続けた。
いつまで経っても膨れてこない腹を、燈矢は飽きずにさすり続けた。
遅れていた月経はとっくに来ていて、鈍痛を腹に与えていた。想像妊娠というやつだったらしい。想像妊娠は、妊娠を強く希望する場合と強く忌避する場合に起こりやすいとどこかで読んだことがある。燈矢は気づいているのかいないのか、赤ちゃんまだかなあと呑気に呟いている。
「燈矢、実はな」
「知ってるよ。赤ちゃんじゃないんでしょ」
「……そうだ。生理もきた」
「そっか……今回は残念だったね」
「……今回は?」
「何いってんの。言ったでしょ。赤ちゃんできるまでするって」
「と、燈矢……」
「お父さん、これからずーっと一緒だよ」
燈矢があまりにもうれしそうに笑うものだから、気持ちがゆるく溶けていくのがわかる。どんな状態になったとしても、親は子が可愛いのだから。
それから、長いながい時間が過ぎました。それこそ、子供の歯が生え揃い、父だか母だかわからないそれに抱っこをせがまなくなるほどに、長い時間が過ぎました。
「お母さん、どうしたの? 泣いてるの?」
「ああ、昔を思い出してな」
「そっかあ。お父さんが生きていた時の話?」
「そうだ」
小さな足跡と大きな足跡を並べて、今日も日が沈むのを二人で眺めたのでした。
めでたし、めでたし。
2022/8/20
懇意にしている百貨店の外商によると、最近発見された島で、島の住民は二十人程度、外からの情報を一切絶って生活しているという。その島の年に一度、行商で回っている現地の者に絶対に内緒という約束で聞いたらしい。
天啓だと思った。
強力な個性を持つ燈矢を刑務所に収監しきることができず、俺と燈矢だけで暮らす自宅で同居している。いつ燈矢の気が変わって町を燃やしてしまうか気が気でないご近所さんからの視線が日に日に痛く、ついには転居してほしいとまで言われている。そんな折に住民が少ない島があると言うのは、地獄で仏にあったようだった。
その島の権利を買うことはできないかと打診すると、外商は待ってましたとばかりに契約書を出してきた。外商がいうには住民たちにも居住権があるので追い出すことはできないが、共に暮らすことはできるという。言語も英語が通じるというので、という誘い文句に乗ってしまい、高い翻訳機を掴まされることになった。
「燈矢、島に行こう」
「ついに頭沸いたか」
すげない燈矢にこれまでのことを説明すると、まあご近所さんからは睨まれるよなと一定の理解を示してくれた。現地に行くまで、変な気を起こさないでくれというと、半分了承、半分否定、と言ったふうの返事が来たので心配したが、飛行機の機上でも船の上でも大人しくしてくれている。火傷の跡を同乗者に言及されたときはヒヤヒヤしたが、昔事故でね、と説明して同情されていた。
同情を嫌う燈矢は少し苛立っている様子だったが、問題なく島に着きそうだった。
島が見えてくると、岸辺に何人か人が集まっているようだった。無理もない。自分達以外住んでいなかった島に余所者が入り込んでくるのだから、反発も想定していた。
けれど住民たちは言葉が通じないとわかっていながらも話しかけてきて、友好的な雰囲気を感じ取った。燈矢は英語を話せるらしく、相手とコミュニケーションが取れているようだった。
「燈矢、何て言ってるんだ?」
「君たちが建てた家いい家だね、だってよ」
「そ、そうか」
嘘は言っていない様子だった。
外商が発注した家の前では、住民と思しき人々が花を植えたり、テラスを生花で飾ってくれていた。
『旅の疲れもあるだろうから、ゆっくり休みなさい』
翻訳機を通して、長老と思しき年配の女性が声をかけてくれた。ありがとう、と返すと目尻に皺が寄った。
少し奇妙なところがあるとすれば、男性と思しき人(ひげを生やしていて、喉仏が出ている)の腹が異様に膨れているということだけ────
波の音がうるさくて眠れないという燈矢とどうにか宥めて、次の日目を覚ますと、みずみずしい果物と、甕に入ったお酒と思しきものと、ナンに似た平たいパンがテーブルの上にあった。
「朝村の人が来て、くれた」
「そうか、お礼は言ったか」
「父親ヅラすんな」
そっけない燈矢はいつものことだが、薬品を使って何かしているようだった。
「何してるんだ」
「まあちょっと……調べ物」
もらったお酒と、奥にある水源からとった水を並べて何をしているのかはわからなかったが邪魔すると舌打ちが飛んでくるのはわかっていたので、黙って朝食を摂った。
ナンに似たパンはとうもろこしを練って作っているようだった。村の仕事を手伝えば食に困ることはないと言っているらしく、渡りに船だった。
力仕事や、簡単に火を起こせるという点は重宝がられているように思う。ここにいる男性は力仕事をしないようだった。代わりに腹が膨れていない女性たちが、俺が住んでいた世界で“男性の仕事”とされていた仕事についていた。
誰も知っている人がいない世界での生活は、快いものだった。燈矢の居室に石が投げ込まれれば心が痛んだし、近所の人や燈矢が殺した人の縁者からの罵声が止むことはなかった。
俺だけが苛まれるならまだいい。苛烈を極めた毒をはらむ言葉は、冬美や夏、冷や焦凍を苛んだ。夏は大学に行かなくなり、やがて将来の夢をあきらめて通信制大学に転校した。冬美は職を追われそうになったが、保護者からの制止があってどうにか首がつながっている。ひとえに冬美の普段からの行いの良さのおかげだ。冷は良くなりつつあったがもとに戻ってしまったという。焦凍は学校に守られているからまだマシとはいえ、通学中に制服を切られたりと被害がない訳ではない。
そんな俺の周りを傷つける悪意を相手にしていると、最初こそ自分が犯した罪と思って注がれるまま飲み込んでいたが、やがて俺の心を蝕んでいった。眠れなくなり、食が異様に細くなり、文字通り喉を通らなくなり医師の指導のもと栄養食を口に含む程度になった。それくらい、と燈矢が殺した人々の縁者からしてみれば俺や燈矢が苦しめば苦しむほど喜ばしいものだろうが、目覚めた時にまた今日も生き延びてしまったとため息をつく日々から逃げ出したくないかと言われれば、嘘だった。
それこそ嘘みたいに綺麗な海と青い空、そして優しい人々。死ぬ前に見る夢みたいだった。ぼろぼろと崩れていく燈矢の体をどうにか繕って、日々を過ごした。
「燈矢、村の方々が下さったお酒うまいぞ。いただかないのか?」
「まあちょっと……俺はいいかな」
「そうか? 血行がよくなると傷が痛むのか?」
「まあそんな感じ」
ここに来てから、燈矢はよくしゃべるようになった。とりつく島もない会話とも呼べないやりとりはなくなり、問いかけには意味のある言葉が返ってきたし、時には昔話なんかもできるようになってきた。まるで過去の失敗を取り繕うことができているようで心が凪いだ。こうすることで、燈矢が負った傷を癒すことができているとうぬぼれていた。
燈矢は村の人々ともうまくやっているようで、にこやかに談笑している様子が窺える。村人たちに混ざって果物を剥いている燈矢を見て、ここにきて本当によかったと思った。
ふと疑問が湧いて、村人に聞いてみたことがあった。
「ここの男性が腹が膨れているのはなんでですか?」
『それは……おそらく聖なる水を飲んでいるからでしょう。神の御子をその体に宿しているのです』
「は、はあ」
『あれ、エンジさんのいたところにはなかったのですか?』
「ええ、ここにきて初めてみました」
『そうですか。この村にいらした時にお裾分けしていますよ。土甕に入っていたでしょう』
血の気が引いていくのを感じた。
燈矢が水を調べていたのはそういうことだったのかと合点がいった。聖なる水を飲んで神の子を宿す因果関係が解決できないが、トリガーを一つ引いているというのは間違い無いだろう。急いで家に戻ると、テラスで子供たちと葉っぱを折って遊んでいる燈矢がいた。鬼の形相で燈矢に詰めよる俺に怯えた子供たちは燈矢の後ろに隠れて俺を睨んでいる。
「何してんだよ、子供がおびえてんだろ」
「燈矢、あの酒のことを知っていたな」
燈矢は折っていた葉に息を吹きかけて蒼い点火すると、再び子供たちの歓心を自分に向けた。危ないから近寄るんじゃないよと優しく子供たちの頭を撫でる燈矢が俺の知っている燈矢の顔をしていないことに今更、気づいた。
「バレたか」
弧を描くように曲がった目が歓喜を灯していることに気づき、背筋が寒くなった。それでも親として子の間違いを正さねばという気持ちが勝った。それこそが傲慢であることは一生をかけて学んでいかないとならないらしい。
「燈矢ァ!!」
俺の怒声に恐れをなしたのか、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。かわいそうなことをしたが、それどころではなかった。
「お父さん、赤ちゃん作れるんだってね」
「何をいうんだ」
「おかしいと思ってたよ、何にもない島がお父さんくらいの収入で買えるなんて。絶対なんかあると思って調べたんだよ。そしたらこの近くに昔薬品工場があってまあ……環境問題なんて配慮のない時代だったから水は汚染されていて……だから俺は村の奥の水源からの水は一切飲んでいない」
そこまで話すと燈矢は一度咳き込み、果物の器に入れた水を飲んだ。
「この水は濾過した。濾過する前の水の成分を調べたらホルモンに影響するものだってことがわかったんだ。だから、そう。お父さんをお母さんにしてやろうって思った」
「なにを」
「理解できない? わかりやすく言ったつもりだったけどな」
「そうじゃない、その、俺が」
「お母さんになるって?」
「実際、もうなってるでしょ。元男だった人の出産を見たけど、穴が一つ増えてた。お父さんもそうなってるんじゃない?」
踊るようにくるくる回りながら演説する燈矢の言葉が今ひとつ頭に入ってこない。衝撃的なことを言われてしまうとどうにも、理解の範疇を越えすぎていて信じ難いというのがある。
けれど、女性器ができているというのは本当だ。この前、月経と思われる痛みと出血があったのも、事実。
震えが止まらないのは二度目だ。荼毘が燈矢だと知った時と、息子が俺を母にすると宣っている、今。
逃げようと叱咤した足は震えて役に立たない。いつでも常人よりは強くあった俺が恐怖に震えて後ずさることしかできないでいると知ったら笑われること間違いなしだ。
「燈矢、こんなことはおかしい、やめなさい」
「お父さん、立場がわかってないよね」
「やめ、やめなさい。やめるんだ燈矢。や……やめて……」
「そうそう。それでいいんだ」
納得したようにうなづく燈矢。ホッと息をついたのも束の間、燈矢の手が俺の肩に置かれた。
「じゃあ、抵抗しないでね」
ヒュ、と喉奥に悲鳴が張り付いて短い息をこぼした。
「ぐ、うぐっ……ひ、ひぃ……」
「色気、のねえ、声っ……」
脳は確かに何をされているのか認識しているが、心がそれを拒んでいる。
息子に強姦されている。
事実、燈矢のペニスは俺の膣、であるはずのところを破り、抉り、貫いている。そこに甘やかな快楽を感じてしまっている事実があまりに辛く、どうして、と呻くことしかできないでいる。どうせなら痛いだけであって欲しかった。これでは、あまりにあさましい怪物ではないか。
「ねえ、お父さん、痛いだけ? 唇噛まないで」
いつの間にか流れた涙を拭いながら燈矢は腰を動かすことをやめない。痛いだけではないとわかっていて言わせたいのだろうけど、涙を流すことしかできなかった。
「と、とうやにっ、ここまで憎まれているとは思わなかったッ……」
「にくい? お父さんはお母さんが憎くて子供を作ったの?」
「そんなことっ……」
「違うでしょ? 俺はお父さんが大好きだから子供が欲しいんだよ」
「何をっ……」
「お父さんのナカ、あったかくて気持ちいいよ、大好きだよお父さん、ねえ、お父さんは俺のこと好き?」
「と、とうや……」
「お父さんっ……」
息が詰まる感覚と、はね上げられるような絶頂に苦しくなって顔を背けていると、唇に生ぬるい感触を得た。キスされていると認識したくなくて目を開かないないでいると、ため息。おそるおそる目を開けると、うれしそうな燈矢がいた。
「いやさあ、処女膜って意外と血が出るもんだな〜って」
「……少し黙っていてくれないか」
「えーなんで。お父さん怒ってるの?」
この状況で怒らずに居られないだろうが、燈矢はなぜ怒られるかわからないといった様子でこちらを見る燈矢。その目が俺に叱られまいとして助けを乞うようにみえてしまい、言葉が出なくなる。
「燈矢、もうこんなことはやめなさい」
「何いってんの、赤ちゃんできるまでするよ」
にこやかに凄惨な言葉を吐く燈矢。それに抵抗する力は残されていなかった。日本にいた時よりずっと細くなった食で体は痩せこけて、かつての影もない。
「そんな、もし……その、子供が生まれてきたら育てなければいけないんだぞ」
「俺とお父さんの子だよ? そりゃあ大事に育てるよ」
「燈矢、どうしてそんなことをしようと思うんだ」
「どうしてって……そうだなあ、俺、お父さんが心底憎かった。死んでしまえばいいって思った。けど、そうじゃない。昔のこと思い出して、俺はお父さんのことが大好きだったなって。この世の誰よりもお父さんのことが好き、好きだからこそ、嫌いだった。反発したけど、やっぱり好きだから」
その言葉に嘘はなさそうだった。先ほどまでの凶悪な人格は身を潜めているらしく、穏やかで優しい青年がそこにいた。燈矢の真意が読めず、そしておぞましい行為に吐き気を催して海で吐いていると、村の人たちが心配そうにのぞいているのがわかった。
『エンジさん、神の御子を授かるのでしょう。怖がることありませんよ』
「何をいうのですか」
『初めての出産は誰でも恐ろしいものです』
「そうではなくて……」
彼らの目には、神の子を宿すことが恐ろしくて仕方なく写っているのだろう。けれど俺が本当に恐ろしく思っているのは、燈矢そのものだった。憎く思っていてこのような行為をするのならまだわかるが、その、好きであるという気持ちを持ってあのようなことをするのは理解の範疇を大きく超える。
理解する必要はないのかもしれないと思い始めたのは、三度目の行為の最中だった。嫌がらせでも鬱憤晴らしでもないならとことん付き合ってやってもいいじゃないかと。どうせ死ぬだけの命なのだから何にしてもいいじゃないかと。
それを留めたのは、何度か行為が行われた末に月経が止まったことに起因する。日付感覚を失わないために買ったカレンダーに印をつけていたが、今月に入っては一度も無くなっていることに気づいた。ここでやっと、生まれてくる子供に思い至った。本当は、うれしい気持ちなんじゃないだろうか。妊娠というものは。俺は恐ろしくて仕方なかった。誰かに打ち明けて、救って欲しかった。けれど現実はどこまでも現実で、蜘蛛の糸が垂れてくることなどないのだった。
体調が悪い日が続き、いよいよ隠しきれなくなって燈矢に妊娠を告げた。燈矢は二人で訓練をしていた頃のように歓声をあげて妊娠を喜んだ。
「名前は何にしようかな。いや、男の子かな。女の子かな」
「ほ、本当に子供だろうか」
「子供だったらうれしいだろ。子供のためにもしっかり食べないと」
燈矢にそう言われたものの、より一層食は細くなった。過程はどうあれ、新しい命はもう宿ったのだからと考えを変えようと思ってもどうしても喉を通らない。心配した燈矢が色々手をかけて料理をしたり、食べやすいようにしてくれてもダメだった。
じきに膨れてくると思われていた腹はいつまで経っても固い腹筋のままで、燈矢は腹を撫でさすりながらまだかなあと待っている。燈矢がこんなにも何かを欲しがるのは初めてじゃないだろうか。戦隊もののおもちゃも、流行りの光る靴も何一つ欲しがらなかった。そんな燈矢が、こんなにも望んでいる。
ほんの一瞬、叶えてやりたいと思った。
その直後におぞましさに震えた。この俺だけが違う価値観の中にいるためか、自分の価値観すら失いそうになっているのが恐ろしくてたまらなかった。それを知ってか知らずか、燈矢はにたりと笑って俺の腹をさすり続けた。
いつまで経っても膨れてこない腹を、燈矢は飽きずにさすり続けた。
遅れていた月経はとっくに来ていて、鈍痛を腹に与えていた。想像妊娠というやつだったらしい。想像妊娠は、妊娠を強く希望する場合と強く忌避する場合に起こりやすいとどこかで読んだことがある。燈矢は気づいているのかいないのか、赤ちゃんまだかなあと呑気に呟いている。
「燈矢、実はな」
「知ってるよ。赤ちゃんじゃないんでしょ」
「……そうだ。生理もきた」
「そっか……今回は残念だったね」
「……今回は?」
「何いってんの。言ったでしょ。赤ちゃんできるまでするって」
「と、燈矢……」
「お父さん、これからずーっと一緒だよ」
燈矢があまりにもうれしそうに笑うものだから、気持ちがゆるく溶けていくのがわかる。どんな状態になったとしても、親は子が可愛いのだから。
それから、長いながい時間が過ぎました。それこそ、子供の歯が生え揃い、父だか母だかわからないそれに抱っこをせがまなくなるほどに、長い時間が過ぎました。
「お母さん、どうしたの? 泣いてるの?」
「ああ、昔を思い出してな」
「そっかあ。お父さんが生きていた時の話?」
「そうだ」
小さな足跡と大きな足跡を並べて、今日も日が沈むのを二人で眺めたのでした。
めでたし、めでたし。
2022/8/20
