高村光太郎「智恵子抄」
梶井基次郎「檸檬」
をうっすらオマージュしてます
誰もが口々に自らの息子の死を願うというなら、親である俺に何がしてやれるだろう。何かしてやる、という仮定からして間違っていてしてやるのではなく、しなければならないのだと思う。子の罪は親が雪ぐ。世間からしてみれば当たり前のことだが、胃を苛んでやまない。燈矢のことが面倒になったわけではない。もちろんそんなことはあり得ない。あの焼け野原になった小山とその裾野を幾度歩き、名前を呼んでも答えなかった子がどんな形であれ戻ったのだから、うれしいにきまっている。
新しい家に夏雄と冬美、そして焦凍、冷を住まわせて、この二人で暮らすには広すぎる日本家屋に燈矢と二人で住んでいる。
燈矢は意志の強さで今まで体を支えていたようなものだというのが医師の見解で、こうして上半身を上げて本を読むことができるということが奇跡だという。何度も奇跡を乗り越えて、燈矢は三度目の冬を迎える。
荼毘と名乗り罪なき人を焼き殺した燈矢は、その頃の粗暴な言動をどこへやったのか、記憶の中の燈矢が穏やかに成長すればこのようになるであろうと想定した通りの優しげな、棘のない青年となっている。焦凍が来るとそうもいかないらしいが、想像がつかない。
燈矢は本を貪るように読んでいる。特段好みはないらしく、書店で平積みになっているものを買って与えたら特段何も言わずに黙々と読んでいる。本が好きな冬美と話が合うらしく、冬美の本を貸すこともあるという。けれど個性の調整が前ほどうまく行かず、冬美ちゃんの本を燃やしてしまうのは嫌だから、お父さんが買って欲しいと言われた。そのくらいならいくらでも買ってやる。あさましいことだが、それで少し救われた気になっていた。
冬美が連れてきた婚約者には、燈矢さんのこともありますし、疎遠になるかと思いますと初対面で言われてしまう始末だった。婚約者からしてみれば、近親者に人殺しがいるという時点でマイナスなのだろうけれど、自分が犯した罪の重さを再度確認させられているようで、胃がじわじわと苛んだ。生涯償い続けるといえば威勢がいいが、そうもいかない。真綿で締められるような苦しみとはこのようなことを言うのだと思う。胃薬は手放せないものとなったり、食事が喉を通らなくなり、以前のような力も出せない。片手がないぶん不自由も増えた。いつしか、人生の選択肢に引退と死がよぎるようになってきた。今となっては逃げだとか、錯乱していると考えることができるが、当時はそのような考えには至らなかった。そのうちどちらが魅力的に映ったかといえば、死の方だった。
夜中、喉の渇きを覚えて台所に立つと、何かを引きずるような音を聞いた。燈矢だった。
「どうした、こんな夜遅くに。歩けるようになったのか」
答えはなかった。正確には声帯まで焼けてしまっているため声が出ないという。器用にスマホで文字を入力して、薄ぼんやり光る画面を見せてきた。老眼が進んできた目をどうにか合わせて、画面を読む。
『夏くんが都合つく土日に、歩く練習をしてる』
「夏が? そうか、よかった」
『お父さん、レモンが食べたい』
本を欲する以外に、燈矢と再会してからはじめてのおねだりだった。深夜二時。やっている店といえばコンビニしかないが、飲み屋街のコンビニには酒に入れるためのレモンが売っていると聞いたことがある。燈矢がいままで俺にねだったのは修行だけだった。家族旅行も、流行りのおもちゃも欲しがらず友達の一人もつくらずに修行に明け暮れた。そんな燈矢の願い、叶えてないわけにはいかなかった。
コートを片手なしで着るのにも慣れており、マフラーを巻いて寒風吹き荒ぶ街に出た。しんしんと冷える冬空は星に満ちており、そういえば冬美が生まれたときもこんな寒い日だったと思い返した。
レモンは、と聞くともう無いですね、と言われたりうちには置いてないですと言われたり。燈矢がやっと心を許し、してくれたおねだりを早く叶えてやりたいと思うのは親の性だろうか、それとも罪滅ぼしだろうか。五件目でやっとひとつ、つやりとまぶしく蛍光灯の光を弾くレモンを買うことができた。片手で収まる果実を潰さないようにポケットに入れ、店を出た。現金で買い物をする人は年々減っているらしく、店内で人を探してやっと見つけた店員が面倒そうに会計をしてくれた。
『遅い』
「ああ、悪い燈矢……なかなか見つからなくてな。すぐに洗ってくるから、待ってろ。切ってやろうか?」
『いい』
俺が洗ってきたレモンを受け取るや否や、その白い歯がさくりとその鮮やかな黄色を穿った。燈矢は顔を顰めてひとつ咳をすると、もう一口齧った。
『お父さんも』
そう言って歯型がならぶ皮に、思い切って歯を立てた。燈矢が顔を顰めたとおり、酸味が味蕾をとおして脳に届く。
「酸っぱいな」
『お母さんがくれたレモン味の飴、美味しかったからレモンも食べたくなってさ。ありがとう』
それだけ残し、燈矢は歯を立てては顔を顰めを繰り返しながら寝室に戻っていった。
緊張がとけたのか、俺はほっと息をついた。
それからしばらくして、燈矢は帰らぬ人となった。世間は罰を受けずに死んでしまったと非難轟々だったが、燈矢はもう十分苦しんだ。ただしくは俺が苦しませたのだが、燈矢が受けるべきだった苦しみは俺が代わりに苦しむことで、世間には許しを乞い続けることにした。
親子の絆など、おこがましいことだが俺と燈矢に残った絆とはこの罪であり、罰であるのだと思う。他の親子がもつようなが持つようなうつくしい形をしていなくても、これこそが死がふたりを分つとも絶えることのない絆なのだと解釈する。
さよなら燈矢、もう少しだけ待っていてくれと墓石を撫でながら独りごつ。そんな石になってからじゃなくて、生きている間にこうして頭を撫でてやればよかったと後悔するが、燈矢はきっと地獄に下る俺を待っていてくれるような気がする。その時でも遅くはないだろう。春の兆しを見せる寒空を見上げ、レモンの果実とレモン味の飴を残して墓を後にした。
